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北帰行

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:宇田 博、唄:小林 旭

1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人ひとり
  涙流れてやまず

2 夢はむなしく消えて
  今日も闇をさすろう
  遠き想いはかなき希望(のぞみ)
  恩愛我を去りぬ

3 今は黙して行かん
  なにをまた語るべき
  さらば祖国愛しき人よ
  明日はいずこの町か
  明日はいずこの町か

原詞(旅順高等学校寮歌)

        作詞・作曲:宇田 博

1 窓は夜露に濡れて
  都すでに遠のく
  北へ帰る旅人一人
  涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
  遠きあくがれの日ぞ
  淡きのぞみ はかなき心
  恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
  国を去らむとすれば
  せめて名残りの花の小枝(さえだ)
  尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
  何をまた語るべき
  さらば祖国 わがふるさとよ
  明日は異郷の旅路
  明日は異郷の旅路

《蛇足》 この歌が誕生したのは、昭和16年(1941)5月のことです。作者は、当時、旧制旅順高等学校の2年生だった宇田博。

 宇田は鬱勃たる反逆心を抑えきれず、規則を破ることに喜びを感じるようなタイプだったようです。
 旧制中学4年次修了後、旧制一高
(現東大教養学部)を受験するも失敗、満州・奉天(現在の瀋陽)の親元に帰って、新京(現在の長春)にあった建国大学の前期(予科に相当)に入学しましたが、校則違反で放校、親のすすめで、当時、旅順(現在大連市の一部)に設立されたばかりの旅順高校に入学しました。

 旧制高校も大学予科も、大学で専門教育を受ける基礎となる教養教育を施す場で、現在の大学一般教育課程に相当します。しかし、その教育レベルは、今の一般教育課程とは比較にならないほど高かったようです。
 満州国は、帝国主義日本が中国東北部にでっちあげた傀儡
(かいらい)国家であり、建国大学も旅順高校も、当然のことながら、日本の敗戦とともに廃校になりました。旅順高校はたった5年の命で、「最後の旧制高校」となりました。

 それはさておき、旅順高校に入っても、宇田の反逆心は収まりません。彼はまもなく、洋品店の娘のサーチャン(本名は深川定子)という女性と親しくなります。サーチャンは、美人というより、何ともいえない魅力をもった女性だったようです。身長は150センチほどしかなく、それをカヴァーするために、いつもハイヒールを履いていたといいます。
 開校記念日で休みだった昭和16年5月5日、宇田はサーチャンと映画を見たあと、いっしょに酒を飲んでしたたかに酔い、終バスで帰るところを、高校の教官に目撃されてしまいます。

 当時、旅順高校の生徒は飲酒も異性交遊も禁止されており、宇田の場合は、これに寮の門限破りも加わりました。内地の旧制高校では、かなりおおらかな面がありましたが、旅順高校は、新設されたばかりだったたことや、他の旧制高校と違って関東軍総司令官の管理下にあったことで、校則は厳しく適用されました。
 宇田は生徒課に出頭するよう命じられましたが、それに従わず、荷物をまとめて学校を去りました。「性行不良につき退学処分とする」という旨の掲示が出ていたと友人から聞いたのは翌日のことでした。

 彼は、奉天の親元に帰ることにしましたが、その前の1週間、旅館に泊まって、「敗北と流離の思い」を込めて5聯の歌を書き上げました。それがこの『北帰行』です。
 宇田は、旅館に親しい友人たちを呼び、その歌を披露しました。友人たちは涙ぐみながら、口伝えでその歌を覚え、歌詞を書き写したといいます。
 のちにこの歌の作者捜しが行われたとき、友人の1人がもっていた写しが決め手となり、宇田が作者と判明しました。

 宇田は昭和20年3月に旧制一高を卒業、東大に進み、卒業後東京放送(TBS)に入社、のちに常務になりました。

 この歌にまつわるドラマは、まだ続きます。
 小林旭のために新しい歌を探していた辣腕の歌謡曲プロデューサー馬淵玄三は、新宿の歌声喫茶で、ある歌が若者たちに好んで歌われているという話を聞き込みました。昭和36年
(1961)のことです。
 歌声喫茶に出かけた馬淵は、『北帰行』を聴いて「これはいける」と直感、専門家に採譜・アレンジしてもらい、小林に歌わせたのです。彼の直感は当たり、この年の大ヒットとなりました。

 私見をいえば、小林旭の歌はちょっと違うんじゃないか、という感じがします。日活映画「渡り鳥シリーズ」のイメージが強いために、小林旭が歌うと、「流れ者のさすらい歌」のようになってしまい、原曲がもつ「知的無頼を気取る青年の挫折」のようなものが感じられないのです。
 しかし、作者の宇田自身は小林旭の歌唱が非常に気に入っていたようで、「おれが死んだら、お経も何もいらない、この歌を流してくれ」と、家族や友人たちにいっていたそうです。

 『北帰行』とは関係ありませんが、馬淵玄三は、五木寛之の小説『艶歌』のモデルとされている人物です。小説のなかで、馬淵は「艶歌の竜」と異名をとる凄腕のプロデューサー・高円寺竜三として描かれています。
 これを映画化した日活映画『わが命の唄・艶歌』では、芦田伸介が高円寺竜三、その敵役
(かたきやく)のプロデューサーを、冷徹な人物を演じたら並ぶ者のない佐藤慶が演じました。私にとっては印象に残る映画の1つです。

 上の曲は、原曲に合わせて5番まで歌うようにアレンジしてあります(4番で移調)

(二木紘三)

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コメント

 今改めて聴いてみて、『本当に良い歌だなあ』と再認識致しました。
 私にとって、北は「望郷の方位」です。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月22日 (火) 19時54分

この歌を聴く時、私の大先輩であるIさんのことを必ず思い出します。Iさんは終戦の時に建国大学に在学していましたが、旧ソ連軍に捕まってシベリアに抑留されました。戦後、帰国した彼は早稲田大学に学んだあと、紆余曲折を経て某テレビ局に入り、やがて私の上司となりました。(Iさんは私が結婚した時の仲人でもあり、仕事上の“恩人”でした)
ところが、ある日、大きな人事異動があって、Iさんは別の会社に移ることになりました。その別れの会合の時、彼は「これを歌わせてくれ」と言って「北帰行」を朗々と歌いました。それを聴いていた私は胸がつまり・・・これ以上は言いたくありません。
Iさんは会社を去りました。もう30年以上も昔のことです。
ところで昨夜、私は近くの居酒屋でこの曲をカラオケで歌いましたが、男というものは落ちぶれると、たいてい北の方へ流れていくようですね。
同じ小林旭が歌う「北へ」も、裕次郎が歌う「北の旅人」もそうですが、心が傷ついた男はどうして北へ向かうのでしょうか。逆に、傷心の女性は南に向かうといいます。
男と女は生まれつき、そういう違いがあるのでしょうか。


投稿: 矢嶋武弘 | 2008年4月23日 (水) 21時36分

悲しみは北へあるのでしょうか?
「北へ帰ろう」などにもロマンを感じますねぇ。
若い頃、何故か南方面の人と縁があった私は
「私は北へ行きたいから。。。」と
馬鹿な事を言う気取りやだったんですねぇ。
こう言う歌の影響もあったんでしょうね。

投稿: sunday | 2008年8月10日 (日) 14時43分

 はじめまして 木偶野呂馬(65)と申します。
 北帰行の歌詞について以前から気になっていることがあるのでお尋ねしたいのですが・・。

 通常歌われている宇田博氏の1~3番の歌詞以外に、次のような歌詞で歌われているのを30年位前に聞いたことがあるような気がするのですが、ハッキリとは思い出せません。

 『あわれ はかなき旅よ 
 人はみな旅人か
 そぞろ歩く浮き寝の旅よ 
 明日はいずこの峰か』

 歌詞に『はかなき旅よ』『みな旅人か』『浮き寝の旅よ』と『旅』が重なりすぎていておかしい気がしますが、記憶違いがあるのかもしれません。まだもう1つあったようにも思うのですが、そちらは思い出せません。

 このような傍系の歌詞が存在した可能性があるのでしょうか? 今となってはひょっとして語呂を合わせて自分でつくってしまったのではないだろうか・・,と言う気さえします。
 何かお心当たりがありましたら、お教え下さい。

 

投稿: 木偶野呂馬 | 2009年2月10日 (火) 08時13分

『北帰行』はかなり長い間作詞・作曲者不明のまま歌われてきたので、その間にヴァリアントがいくつか作られたとしても不思議ではありません。上記の歌詞も、そうしたものの1つではないでしょうか。
 おっしゃる通り、旅が重なりすぎていて、できは今ひとつという感じがします。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年2月10日 (火) 18時24分

前略
平凡社1985年9月25日発行の別冊太陽には小林旭の前に「山の歌」という歌詞で山男たちが歌っていたそうですが、歌詞は一部記載されています。これよりもっと前の山と渓谷社昭和42年7月1日発行の「カラー・山のうた」には旅の歌(北帰行替歌)として歌詞が3番まで掲載されています。私が定年前に勤務していた職場の同僚は高校時代に山岳部の友人がこの山の歌として歌っていて、知っていたそうです。昭和30年代若者の山ブームの時、山によく登っていた人たちは、知っている人が多いのではないでしょうか。

投稿: 村田 修 | 2009年3月 6日 (金) 22時30分

「知的無頼を気取る青年の挫折」高校時代に愛読した「二十歳のエチュード」の作者、原口統三を思い浮かべます。彼は無頼ではありませんが、知的なあまりに純粋な天才ではなかったかと思います。こよなく大連を愛した18歳の一高生の孤独と挫折。しばらく読んでいなかった遺稿を今日は読んでみました。
 「純潔とは死への形容詞ではない。僕の瞳の確かさは、最後の宗教的慰安の曖昧を拒否する」
この一行が最初に読んだ時からずっと心に残っています。

投稿: ハコベの花 | 2010年2月24日 (水) 22時46分

1961年の中学3年の修学旅行でバスガイドさんに教えてもらったうたが「旅の歌」でした。

「旅の歌」
1.今日も静かに暮れて
  ヒュッテに灯火ともる
  囲炉裏囲み想い果てなし
  明日は何処の峰ぞ
2.哀れはかなき旅よ
  人はみな旅人か
  何を嘆き何をか悼む
  憧れの(あの)峰越えて
3.夢は昔にかえり
  緑 山川を為し
  そぞろ偲ぶ浮き寝の旅路
  明日は何処の峰ぞ
4.汗にまみれて泣いた
  はげし幾多の山よ
  山は我等命の泉
  望み果てなき旅ぞ

私は高校のとき、校風に合わない自分自身をなぐさめるように、
2 建大 一高 旅高
  追われ闇を旅ゆく
  汲めど酔わぬ恨みの苦杯
  嗟嘆(さたん)干すに由なし

を愛唱しておりました。
今でも母校と思っておりません。
まことに悲しいことですが・・・

投稿: コーデリア | 2010年2月26日 (金) 10時12分

宇田は戦後、旧制一高→東大を卒業し、東京放送(TBS)に入社、のちに常務になりました。

        ↓
一高卒業者名簿と、一高同窓会の年表によりますと、
宇田の卒業は1945.03.22 文科5組です。
戦前ということになります。

ささやかですが、訂正お願いします。

投稿: 岩辻賢一郎 | 2011年2月12日 (土) 11時16分

先日、たまたまつけてTVで小林旭の北帰行を聴きました。高校の頃によく歌ってました。半世紀の時は経た今、その歌詞に当時とは異なる新たな感慨を覚えました。
歌の由来は聞いていたのですが著書のあることを知り読みました。
それにしても小林旭の歌っている歌詞もとても良いですね。この歌詞は誰が作られたものでしょうか。ご教示頂ければ幸いです。

放送の後、「北帰行」をもう一度聞きたくネットを探していてこのサイトを見つけました。7/23、24日はずっとこのサイトで懐かしい音楽の数々を聴かせて頂きました。PCの長時間使用によるオーバヒートのせいかPCが暴走してしまいました。

終りになりましたがこのような素晴しいサイトを提供して下さった二木様に心より感謝申上げます。

投稿: shimoko | 2011年7月27日 (水) 10時34分

二木先生のおっしゃるとおり、「小林旭の歌」では宇田氏の「無頼、反逆、挫折、孤独」のイメージからは遠のく感じがしますよね。同感です。
「歌声喫茶」で唄われていたようなアレンジであっても、この曲は後々まで歌い継がれて行く名曲になったとおもいます。楽曲にそれだけの力があると思うからです。しかし、この「北帰行」を広く世に知らしめたのは、馬淵氏と小林旭両人の功績といえるのでは。宇田氏も「俺にこういう風に唄えるんだったら……と思ったのかもしれませんね。あの、ややアンニュイな、そして、頭のテッペンからのハイトーンで唄われたら、大勢のひとがしびれてしまうのでは。リリースされた36年当時私は小学6年でしたが、いいなぁぁーと舞い上がりました。 小林旭は常に自分の思い通りに唄うようで、「熱き心に」「さらばシベリア鉄道」など奔放に唄っています。73を過ぎた今でも、あのハイトーンは健在です。

投稿: かせい | 2011年12月 4日 (日) 01時24分

「北帰行」という用語は、元朝崩壊に際し、モンゴル貴族が一切の漢文化の奢侈を放擲し、故地のモンゴル高原へと騎馬で帰った故事に因むものと教わりました。この雄渾な心的風景も良いものですね。小林旭のあの空々しい明るさも、老境に入ると懐かしい。

投稿: イサコフスキー | 2011年12月 4日 (日) 07時36分

この歌はわたしが高校2年か、3年の時に、山岳部の友人から教えてもらいました。このブログで村田修様がコメントされているように、小林旭がリリースするかなり前から、山男などの間では広く歌い継がれて来たのではないかと思われます。歌詞は何番まであったのか定かではありませんが、後に小林旭の歌う2番の歌詞が教えられたものと違うな、という記憶は残っていますから、多分原詩だったのでしょう。当時の受験生の間には、東京の大学受験に失敗して地方の大学を受ける場合「都落ち」と表現していましたので、この歌はその受験生の心情を歌ったものだろうとは思いましたが、鬱勃とした青春のエネルギーを抑圧しようとするものに対する反抗の歌だとは思いもしませんでした。二木様の解説や皆様方のコメントに、また教えられました。ありがとうございました。

 「北帰行」という用語の語源は歴史的用語だということも、イサコフスキー様のコメントで教えられました。イサコフスキー様も該博な知識をお持ちなのですね。
 ところで、この「北帰行」ですが、最近、多少俳句に興味があって秀句を見ていると、この用語が出てくることがあるのです。しかし、歳時記には季語として載ってはいません。秋日本列島に来た冬鳥たちが春先に北の故地に帰って行くことを、季語では一般に「鳥帰る」とか、「鳥雲に入る」と言うようですが、「北帰行」は季語として定着しつつあるのでしょうか。「北帰行」という用語は、日本野鳥の会会員の間では一般的に使われているようではありますが。

投稿: ひろし | 2011年12月 7日 (水) 14時54分

ひろし様 わたしなど該博な知識は持っておりません。司馬遼太郎の小説の中で、”北帰”という言葉ででてくるのです。モンゴル人の農耕地への執着のなさに関連する文脈で使われていたかのように記憶しております。寒天を北へ飛翔する雁行を表現したとされたことから、渡り鳥の極北への飛翔を指すものに転じたのでしょうか。
 自分は独ソ戦戦跡探訪が趣味で、ワルシャワ発のパックツアーに参加し、ボルガ河流域に旅したことがありました。東岸土手の彼方には仏教寺院が見えます。大草原。そこはもうアジアです。なぜなら、欧州大遠征参加のモンゴル諸族のうち、このステップに居残った部族の国、カルムイキア共和国(ロシア連邦構成共和国)が展開しているからです。おぼろげな記憶ですが、カルムイックという呼称は”残留”を意味するものだとか。”北帰”とは逆を行った人々ということになりますか。

投稿: イサコフスキー | 2011年12月 8日 (木) 02時46分

先日、招かれて「高齢者のためのイベント」に参加し、この歌を会場と一緒に歌いました。そして、この歌の作られたいきさつなどを簡単に話しました。すると、私たちを招いた張本人であるYさんが、「追加して解説しますと・・・。」話し始めました。なんと、Yさんは、旅順高校出身で、この作詞者である宇田さんの3学年後輩やったそうです。マントに隠していた女性の姿を教官に見つかっての処分やったそうです。Yさんは、滋賀県草津市で国際交流協会の会長をされていますが、旅順には昨年も行かれたそうでした。今も、同窓会の時には、この歌を寮歌として歌うそうです。

投稿: DANPAPA | 2013年3月 1日 (金) 14時10分

I am looking for an interview between my grandfather and Kim Il Song, from Tokyo Broadcast Systems. If you have it, I an looking for it-- and I am concerned that I will have trouble going to Japanese archives to find it.

投稿: 宇田博のまご | 2013年4月 2日 (火) 16時38分

この曲の作者である宇田博氏(元TBS常務)のお孫さんが、宇田博氏がキム・イル・ソン(金日成)元北朝鮮主席に対して行ったインタビューのテープ(録音か録画かは不明)をお捜しです。それについて何か情報をお持ちの方は提供して差し上げてください。
なお、その情報のなかにメールアドレス、電話番号、住所などが含まれている場合は、個人情報保護のため、当欄ではなく、「管理人への連絡」で私にご連絡ください。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2013年4月 2日 (火) 17時30分

先般、奈良県と群馬県の同窓会が連続して愛知県であった。当日、刈谷市と安城市が近いのを知り、天誅組松本総裁のふるさと刈谷市と、私の父が戦前勤務していたと聞いていた、安城市を歩いてみた。父が写っている昭和9年の、安城農林学校の職員集合写真を入手したが、最前列中央に宇田一校長が写っていた。昭和10年に満州へ転勤されたと云うこの方が、宇田博さんのお父さんらしい。小林旭さんとはその昔、大厚木CCでお会いしたし、奥さんであった美空ひばりさんが、弥助旅館(奈良県)で、小学生の頃、マージャンをしていたという裏話をTVで聞いたばかりなので、音楽を聴きながら興味深く読ませて頂いた。

投稿: 岡本崇 | 2013年7月 6日 (土) 06時54分

旧制第五高等学校の明治十九年の設立より昭和二十五年の閉校までの歴史のエピソードを調べています。その中でこの日本で最後に出来て最初に閉校になった旅順高等学校に出会いその時宇田博さんのこの北帰行に出会いました。
歌詞を覚えるように努力しています。

投稿: 東 孝治 | 2013年9月 5日 (木) 18時11分

「北帰行」の原型が寮歌と知ったのは30年ほど前のNHKのTV番組でした。歌われたのは流布されていた歌詞と旋律の男性コーラス(名前は失念)で始まり旅高、建大を主題とした宇田博氏が外地で生きた時代のドキュメンタリー番組でした。

この中で旅高のOBの方々が「全然ちがう」と自らがアカペラで合唱された旋律は明らかに「似て非なる」ものでした。

当時は録画装置もなくオープンリールに録音しておきましたが機械の故障につれてテープ自体も処分してしまい記憶に残るのみです。

機会があればNHKのアーカイブスやYouTubeを検索しようと思っています。手掛かりをご存じのかたがあればご教示いただければ幸いです。寮歌として残すにはぜひ発掘してほしいと思います。

投稿: K.Taniguchi | 2013年9月 6日 (金) 16時48分

ハコベの花さんからお借りして『知的無頼を気取る青年の挫折』を北に帰ると言う心象に歌い上げたのでしょうか。そうした血たぎる青年期に懐かしさをこめて書きこまれる穏やかなスレッド風景、、。今日の週末、静かにのんびりと味わえる旋律かも知れません。

山の歌としても愛唱されているのを知ると、歌は原作詞(者)から自由になり、大空に羽ばたいたって良いんですね。

投稿: minatoya | 2013年9月13日 (金) 18時06分

 以前NHKで「そして歌は生まれた」という番組で、この歌の成立したいきさつがありました。17~18年前でしょうか。宇田という作詞者はこの時知りました。でも「旅順高等学校」の寮歌が元歌になっていたとはこのメッセージを見てからです。
 たしかに、「恩愛」「北へ」という言葉がどうしてか、しっくり来ていませんでしたが、これを見てよくわかりました。また、旅順高等学校になじまなかった作者の心情が何となく伝わってきます
 メロディもすばらしく、歌いやすいです。旋律でやっとギターを弾きますが、そのときには弾きやすいのでたすかります。哀愁がありますね。

投稿: 今でも青春 | 2014年7月18日 (金) 19時00分

貴サイトに初めて訪れました。
以前よりこの≪北帰行≫が好きでしたが、歌の意味するところ・この歌の背景が分からず気になっていました。ウィキペディアよりこのサイトにたどり着きました。こように膨大な数の歌の情報・知識が整理されていることに驚きました。大変な労力が費やされたことに敬服いたします。これからも度々貴サイトに来させていただきます。
ありがとうございました。

投稿: 市川景一 | 2015年2月22日 (日) 22時07分

風気味で早く寝たので、誰かが歌っている夢の途中で目覚めた。
つけっ放しのラジオから、小林旭の歌声が聞こえる。
3時50分頃、小林旭が歌う「北帰行」が聞こえて来た。
NHKラジオ深夜便「小林旭特集」だったようです。
77歳の彼が今年、新曲もリリースしたとは頼もしい限り。
彼はドライバーが良く飛ぶし、ゴルフが上手かったなあ…。

投稿: 木津川市のOさん | 2015年11月 2日 (月) 09時41分

はじめまして。
昨夕、BS12チャンネルで放送中の「女と味噌汁」というドラマの中で、
若かりし頃の相良直美がギターで弾き語りをしていました。
このメロディと詞がどこか懐かしく、ネット検索で貴サイトにたどり着きました。
私自身は高度成長期生まれなので、この曲に特別愛着があるわけではないのですが、
おそらく初めて聞いたとき、郷愁・哀愁を誘う独特のメロディが耳に心地よく響いたのでしょう。
「女と味噌汁」は1965~1980にかけてTBS「東芝日曜劇場」で放送されたものですが、
曲を作った方がTBSの元常務だったということが、劇中でこの曲を使用した由来とも取れますね。
貴重な資料をありがとうございました。

投稿: one more | 2016年1月14日 (木) 09時55分

私事で恐縮ですが、ある時期、単身赴任先の大阪から月に2,3回ほど金曜日の夕方にサンダーバード号に乗り富山に帰省していました。まさに都の京都駅が既に遠のき、夜露に濡れる車窓から琵琶湖が夕陽に暮れて行くのを眺めながら、プチ北帰行を体験していました。

投稿: SK2 | 2016年7月 9日 (土) 21時11分

寮歌を調べています。恩師が七高出身で、ストームで歌ったであろう「北辰斜め」がスタートでした。その後、旧制高等学校が寮を中心とした自治制を取っていたことをしり、寮歌がどのような変遷をたどったか、気になりました。「北帰行」は昭和16年の日米開戦前夜、日本の暗黒時代にできたようですが、当時の知識人予備軍である高校生が、自由の気概を持ち続けていたことを証明する貴重な歌であると思います。原歌にある「建大、一高、旅高 追われいずこ彷徨う」という部分はたまらないですね。原作者の宇田氏が後に一高、東大を卒業されたことに、救われたような気持ちを持っています。「北帰行」とは別ですが、松本高等学校昭和19年寮歌も、時世に抗う青年の気持ちが出ていて、心を打たれました。広島高等学校は昭和20年8月1日に入学式を行い、6日の原爆投下で多数の新入生が「寮歌」を歌いながら亡くなったということも知りました。「北帰行」とキム・イルソンのことも事情をお知りの方はお教えください。

投稿: Ueda Yasubumi | 2016年11月21日 (月) 10時20分

T君が亡くなって 二ヶ月がたちます

 昨年今頃   彼が病魔に 侵され倒れたときに ここに書くことはかいたのですがーーー どうしよう と迷い 二木先生に投稿してもよいか聞いてからにしようと考えているうちに
 原文を消失してしまいました

 今までこのサイトでは 三 四回 そういうミステイクを経験してしまっています

 無頼の定義からすると 不良ではなく 少しニュアンスはちがうかもしれませんが
 高校からの親友の一人でした

 高名な両親をもつ 三男坊
 家に逆らい 大学は受けないと主張し実行した奴
 しかし 一応説得され 翌年は京大をうけ 問題なく工学部にすすんだ奴
 正確な原因は きいていないが ほぼ半年で大学へ行かなくなった奴
 でも不思議と 僕の大学のメンバーとはスキーにいってたんですね  野沢の黒岩荘に
 それ以後 定職はなく 株 デリバチィブ  だけで生計をたてた奴
 30数年前には 数億 あるいは 数十億もってて ある病院を建て直して 世の中に貢献したい 協力してくれと 再度連絡をもつようになった奴   それは なかなか思い通りにはいかなかったですね
 会うと決まっても T時間があり 一時間は遅れてくるのが普通だった奴
 阪神百貨店の横で待ち合わせたとき 50メーター程向こうから 歩いてくるのを確認  左手に何か白い紙袋のようなものをもち ときどき 右手で口に放り込んでる様子
 何やねん それ と聞くと じゃこは身体にいいんやぞ
 と答え 人通りのなかを 肩まで届く長髪で ちりめんを食べながら 歩いてきた奴
 高校卒業後 一度だけ きっちり髪を整えているのに であったことがある   ほんと 一度きり  田村正和を彷彿とさせる 美男子だったのに
 僕の隠れ里の 武田尾 にも何度かつれていくと コーヒー マンデリン 100 と間違わない奴
 ここ20年近くは 旧約聖書に魅せられ ヘブライ語にはまり  彼の解釈のヘブライ辞書を書くと 意気にもえ
 必ず 旅行バッグほどの ずた袋をもち 疾風のごとく自転車に袋をくくりつけ 関学の図書館通いをしていた奴
 社会にはなじめず 孤高の位置にあったでしょうが
いろいろな 公正 公平な情報をもち ハイレベルの方たちとの交流もあり  すばらしい奴でした
 余命一年半といわれたとき その間に辞書しあげろよ
 と叱咤したことも
 今の世情からすれば どんどん悪くなる おまえ一年半で死ねて 羨ましいよ  などとの 会話もありました

 男 死ぬのに 一畳半あれば十分
  その ことばを残して 死んで行きました

 泣きながら 北帰行 を聞かせていただきます

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年7月 9日 (日) 21時22分

 「・・・人通りのなかを肩まで届く長髪で、ちりめんを食べながら歩いてきた奴・・・」 
なんだか「T君」の全容が彷彿してきます。心底の真っ当さが強いがゆえに、自然を愛し、孤高でしか生きられず、孤高で斃れた「T君」の姿が偲ばれます。
 そんな「T君」をあたたかい眼差しで見てこられた赤ひげ様のお気持ちをお察し申し上げます。

投稿: konoha | 2017年7月10日 (月) 10時24分

能勢の赤ひげ様

T君をしのぶ最高の文章を涙、涙で読ませて頂きました。

句読点のない文章がこの世にあったんだという事を知らしめてくださった赤ひげ様でした。

決してすべての投稿をみているのではないのですが、日頃の投稿から抜きんでた文章に「なんて素敵な友情関係だったんっだ」と羨ましくもなりましたが・・・。

ご冥福をお祈りいたします。

         fumippe

投稿: fumippe | 2017年7月10日 (月) 10時51分

能勢の赤ひげ様
かけがえのない親友を失った寂しさが切々と伝わってきます。 惜別の歌の演奏を聴いては涙が込み上げてきます。
T君 高等遊民的な類まれな方でしたね。

ずっと以前にNHKの番組で「わが友本田宗一郎を語る」
に感銘したことが思い出されました。
その折に (余談ですが、 カザルスの鳥の歌を知り大好きな曲になったものです)タイプの異なる男の友情、鳥の歌の調べに乗せて哀惜の情を語る井深氏の心情が伝わりました。
男の友情とは各或るものかと胸を打たれました。
能勢の赤ひげ様をその時の井深大氏に重ね合わせてて 心情お察し申し上げます。

投稿: りんご | 2017年7月10日 (月) 11時39分

能勢の赤ひげ様
粗忽をお詫びいたします。
北帰行を惜別の情溢れる余りに「惜別の歌」と書いてしまいました。惜別の歌のコメントを読み、ハタと気がつきました。なぜに コメントよ何処と。
ないはずです~北帰行ですものね。

投稿: りんご | 2017年7月10日 (月) 16時28分

 聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんが、7月18日に亡くなられた。105歳の大往生だった。
日野原さんの著作をきちんと読んだわけでもなく、どれほど優れたお医者だったかも知らない。インタビュー記事を読んで、生涯現役で活躍する姿に敬服していた。「75歳から第三の人生がはじまる」「死に方は生き方で決まる」などの言葉は、老人街道をとぼとぼ歩く私には、今も足もとを照らす一燈になっている。
 1970年のよど号ハイジャック事件の時、日野原さんが乗客の一人だったことはわりと知られている。その経験談に、赤軍派の連中が『インターナショナル』を歌った時、乗客の一人が『北帰行』を返歌のように歌ったとある。思わずうーんとうなった。選曲といい、この場面での沈着な態度といい、年配者が予想できるが、なぜ『北帰行』が歌われたのか。飛行機が北朝鮮に向かうからか、若者よ反骨精神はわからんでもないぞという表明か、それとも単に宴会の席での自分十八番の歌だったのか・・不思議なエール交換だ。余韻の残る場面だ。
 人質が解放された時、殺到したマスコミに、日野原さんは「犯人は未熟な学生たちだった」という趣旨の答えをした。マスコミは「無関係な乗客を巻き込む自分勝手な連中、凶悪な犯罪」といったコメントをしてほしかったようだ。当時の紙面はそういう論調だ。マスコミをはじめ、他者によけいな忖度をしない生き方が、長生きのコツかもしれない。自分とは異なる思想に対する寛容、若い世代への信頼などを感じさせる日野原さんの答だ。

投稿: 浮舟 | 2017年7月20日 (木) 16時14分

可愛いスーチャン りんごさまに続き

 そっと 呟かれていますが  まさしく正論と考えます
 
 公平な 公正な発言は 二木先生も お認めになると思いますよ  小生も 毎日のように 東京の方からもれ聞こえてくる
 虚偽 虚偽 隠蔽  の報道に そろそろ気も狂わんばかりです  T君なら どう考えるかーー 毎日のように
僕の頭の中に彼は登場しています


 越村 南さま
 ご無沙汰です   ペンネームを 使い分けされていたとか  聖徳太子の ---  と同等の能力でしょうか
 南さまとは 花の街 での接触とかありました  五年もたっていますね  驚きです  神戸の灘のF高校に須磨の方から通われていたのでしたね  また  お遍路さんで四国を周られたときの ご病気は全快されたのでしょうか
 赤軍派日航機ハイジャック事件での インターナショナル と 北帰行 との曲のやりとり 知りませんでした
 なかなか興味深いものですが  赤軍派が形成されていった過程 三菱重工ビル爆破事件 浅間山荘事件 テレアビブ空港銃撃事件  山岳ベース事件 (順不同)などとの関係は忘れてはいけないことだと思います
 日野原先生が 搭乗されておられたのは偶然
しかし その偶然が先生の医師のあり方をかえたように 思える節があるのですがーーー
 もちろん お会いしてお話をうかがったことはないし
 読んだ本で その部分に触れられている場面には遭遇していないのですが  大変な経験が 医道に閃きを与えられたのかもしれません   一度お話を伺いたかった先輩でした

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年7月20日 (木) 21時53分

能勢の赤ひげさま

 こんにちは。
 いやあ、皆さんていねいに見ているんだなあ~こわいな~恥ずかしいな~という気持ちです。聖徳太子ではありません。覆面レスラーの気持ちでやってました。今後は越村南で一本化します。
 赤ひげさまは、古いコメントを記憶され、その上体の心配までされて恐縮です。脳出血の症状は、ほとんどありませんが、パソコンは、本来の利き腕でない左手で打ってます。右手の指先に少し後遺症が残っています。なお私の母校はF高ではなく「♪群藍色は紫に~」のK高です。
 日野原さんは、ある記事で、よど号事件は自分にとって大きなトラウマだったと答えています。(これ以上の詳細はしりませんが)
ゆえに「かれらは学生だった」というあの時のコメントも、はたしてあれでよかったのかという大きなゆりもどしが、ご本人の心の中にあったのかもしれません。大きなトラウマという表現が、なんとなくそれを感じさせます。

 赤ひげさまが、以前あるコメントで吉村昭が好きだとのべておられましたが、私は、それを見て、さてこそとひざを打ちました。私は日本に帰った時、本を買いますが、重いのでたくさん買えない。厳選に厳選をしますが、吉村昭の文庫本は7割方、買って帰りました。吉村は、私情めいたものをひとまず措いて、史料に照らしながら、レンガを積み上げるように書いてゆく、まずその姿勢が好きです。『長英逃亡』『生麦事件』などを読めば、人間への肯定感情が静かに湧いてくる。生きる勇気も湧いてくる。年を忘れて・・

二木先生、申しわけありません。私信めいた内容になってしまいました。お許しください。

投稿: 越村 南 | 2017年7月21日 (金) 15時30分

二木先生

 はじめに 謝らせてください
 私的な 内容が多くなりそうです

 この   北帰行  で 友の死を思い憂い  
    その時間も あまりたたない 今

  越村 南さまと このブログで 神戸港を見渡せる同じ校舎で過ごし 同じ運動場で立ち食い経験のあるだろう方と遭遇するとは 不思議不思議です
  花の街 好きな町 のころ 最初は女性の投稿かとも感じ
 阪急 西灘 から近い マリア像で有名なK女子の方と考えたり 共学では F高か K高か と考え直してみましたが
 西灘から歩いて上がってくるという発想がなく(地獄坂をのぼるだけでも 大変ですね) F高と決め付けていました  申し訳ありませんでした  
 I中の同窓会でも F高に行った連中に 一年下でベトナム在住の方はいるのか と質問したり   いろいろな思い出ができています

 19回  20回 どちらの学年でしょうか
  僕は 18回です

 僕も 恥ずかしくも 自分の身の回りのことごとを多く書いてしまっております  シニアー会でのこと IKさんのことーー  反省反省です

 脳出血の後遺症 少し残られましたか  でも 左手も使われるようになって 脳の方は 余計に賦活され生き生きとなられたのではーーー  ベトナムでの ご活躍は 目に見えるようですね 
 また 不思議なことに 一週間前 家のものが ベトナム旅行から帰っており  コピ・ルアク(ベトナムではタヌキコーヒー)が土産で 昨日 いつもの武田尾で 友と不思議な味を楽しんだところでした 養殖と天然があるそうですね

 また 今 吉村 昭さんの 桜田門外ノ変 を読んでいます  人と人の シンパシー 波動 などの共有も 不思議なことがありますね

 また 越村 南さまの お便り 楽しみにしております
 ちなみに  日野原先生の K一中でのエピソードは
 ご存知ですよねーーー

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年7月21日 (金) 20時23分

 二木先生

 連続投稿 お許しください

 りんごさま

 鳥の歌のことで 気になっていたのですが
 僕も 大好きな チェロ曲です
 カザルス氏の 国連での晩年の演奏 鬼気迫るものですね  枯れた 枯れ切った音  心に迫ってきます

 また 井深大氏は 越村さまと同じ 高校の大先輩でした  また いくつかの偶然がかぶりました 
 水村 美苗氏の本も 読ませていただいております
     感謝 感謝です  

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年7月21日 (金) 22時20分

二木先生はじめ同好の皆様
暑中お見舞い申し上げます。
幼い頃より聞き馴染んだこの曲ですが、
能勢の赤ひげ様、越村南様のコメントを拝読して
からは、より一層心の琴線に触れる曲になりました。
自ずと涙がこぼれてきます。

能勢の赤ひげ様
カザルスの鳥の歌は尚深い部分で共鳴します。哀愁のチェロの音は深い思いへと誘ってくれます。私のピアノの先生のご主人がチェリストでもあり最近は近い距離で聴く機会が増えました。
教会やホテルのコンサートでは 「 ロンドンデリーの歌」や さだまさしの
「命の理由」も胸に染みます。
最後に憧れ様
ご教示ありがとうございます。
私のピアノの先生もご夫妻クリスチャンです。
日野原先生も牧師さんのご家庭にお生まれになったのですね。昨日は地元図書館で日野原先生の御著書を5冊借りてきました。

投稿: りんご | 2017年7月22日 (土) 09時20分

二木先生へ

あまり歌と関係のないやりとりで、すみません。

りんご 様
早速、地元図書館で日野原先生の御著書を5冊借りてこられた。さすが、りんご様 いつも前向きで私の想像していた通りの方だと嬉しくなりました。
私は、クリスチャンとしてはまだまだ未熟な人間で、積極的に人様に福音伝道をできる程の者ではありませんし、このサイトを通してキリスト教が全てだ等と申し上げる積もりも毛頭ありませんが、りんご様のように前向きになんでも吸収しょうとなさる方に敬意を表します。

はこべの花 様
konoha
私は、京都の寺社・仏閣も大好きで伝統と歴史に裏打ちされた日本の文化は世界に誇れる素晴らしいものだと、いつも思っています。森羅万象・八百万の神も決して否定するものではありませんし立派な日本の文化だと思っています。私もバプテスマを受けるまでに教会に通って3年かかりました。この話も これで終わりとします。

投稿: あこがれ | 2017年7月22日 (土) 17時29分

先程 2011年放送 NHKスペシャル「日野原重明100歳 いのちのメッセージ」を見ていました。
日野原先生の講演を聞いたり、著書を読んだりしましたが改めて感動するとともに自分の生き方を振り返りました。

病院長は 日野原先生のことを
① 後ろを振り返らない人 ② 好奇心を絶やさない人 ③ 常に勉強される人
                と 語っています。
日野原先生の 
・ 命とは人のために使う時間
・ 次の時代を作る人が必要
            の言葉特に印象に残りました。

 よど号ハイジャックの後 
・ 与えられた命をどう使うか 謙虚な気持ちになった
 奥様は手紙で日野原先生に
・ お恵みの一部をどなたかにお返しできればと思う

 末期がんの40歳代の女性は日野原先生の
・ ふやすなら 微笑の 皺を
           の言葉を大切にされたそうです。

投稿: けん | 2017年7月23日 (日) 16時04分

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