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琵琶湖周航の歌(その1)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:小口太郎、原曲:吉田千秋

1 われは湖(うみ)の子 さすらいの
  旅にしあれば しみじみと
  のぼる狭霧(さぎり)や さざなみの
  志賀の都よ いざさらば

2 松は緑に 砂白き
  雄松が里の 乙女子(おとめご)
  赤い椿の 森蔭に
  はかない恋に 泣くとかや

3 浪のまにまに 漂えば
  赤い泊火(とまりび) なつかしみ
  行方定めぬ 浪枕
  今日は今津か 長浜か

4 瑠璃(るり)の花園 珊瑚(さんご)の宮
  古い伝えの 竹生島(ちくぶじま)
  仏の御手(みて)に いだかれて
  ねむれ乙女子 やすらけく

5 矢の根は深く 埋(うず)もれて
  夏草しげき 堀のあと
  古城にひとり 佇(たたず)めば
  比良も伊吹(いぶき)も 夢のごと

6 西国十番 長命寺
  汚れの現世(うつしよ) 遠く去りて
  黄金の波に いざ漕がん
  語れ我が友 熱き心


《蛇足》
大正6年
(1917)6月27日、旧制第三高等学校(現在京都大学)水上部(ボート部)の部員のうち、二部のメンバー7名は、学年末恒例の琵琶湖周航に出発しました。

 旧制高校の制度は時代によってかなり違いますが、このころは一部が法文系進学コース、二部が理工農進学コース、三部が医学部進学コースで、各コースは甲類=英語、乙類=ドイツ語、丙類=フランス語をそれぞれ第一外国語とするクラスに分かれていました。
 また、この時代、高等学校と大学は9月が学年初め、6月が学年末でした。

 周航は、クルーの1人・小口太郎が親友の小玉博司に送ったはがきや、山内(吉田)敬行が同窓会報に書いた『琵琶湖周航の記』などから、次のような日程で行われたことが明らかになっています。

 第1日目は琵琶湖南端の大津三保ヶ崎を出発後、西岸沿いに北上し、雄松で宿泊。2日目も北上し、今津で宿泊。3日目は今津から東進し、竹生島を経て、東岸の長浜で昼食を取ったのち、南下して彦根で宿泊。4日目は彦根を出発して、長命寺で昼食を取ったのち、南下を続け、大津に至る(右図参照)Shuukoouzu

 歌集のなかには、1番の「志賀の都」を「滋賀の都」としているものがありますが、まちがいです。
 志賀は琵琶湖南西岸、現在の大津市一帯の古称で、柿本人麻呂の歌に「ささなみの志賀の唐崎幸
(さき)くあれど大宮人の船待ちかねつ」「楽浪(ささなみ)の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも会はめやも」(万葉集巻一の三〇)とあります。
 周航の出発地が大津三保ヶ崎なので、「志賀の都よいざさらば」としたわけです。

 『琵琶湖周航の歌』の原形ができたのは、2日目の今津の宿でした。小口太郎が作った詩を見て感心した中安治郎が、「小口がこんな歌を作ったゾ」とクルーに紹介したのです。
 このとき、何番まで書かれたかは明かではありません。今津滞在中ということから考えて3番までだったかもしれないし、翌日向かう予定の竹生島のことを考えて、4番まで書いたとも考えられます。
 今日歌われている6番までの歌詞ができあがったのは、翌大正7年
(1918)のことです。中安治郎ほかのメンバーのアイデアを取り込んで、小口太郎がブラッシュアップしたと伝えられています。

 さて、今津の宿で小口の詩を見た面々は、それをなんとか歌えるようにできないかと考えました。クルーの1人・谷口謙亮がふと思いついて、当時三高のなかで流行っていた『ひつじぐさ』のメロディで歌って見たところ、歌詞にピタリと合いました。
 小口自身は(曲も自分で)と考えていたようですが、それができないうちに、『ひつじぐさ』のメロディで歌うことが定着してしまいました。やがて『琵琶湖周航の歌』は、水上部だけでなく、三高の代々の学生たちによって歌い継がれていくことになります。

 現在、大津三保ヶ崎はじめ、彼らが宿泊・寄港したすべての地に、この歌の歌碑が建っています。そのうち、長命寺の歌碑には、ちょっとおもしろい話があります。
 10番は「西国十番長命寺」と歌われていますが、十番札所は宇治の三室戸寺で、長命寺は三十一番札所です。学生たちの勘違いでした。
 長命寺港桟橋の後方に歌碑を建てることになった際、住職の好意ある対応により、歌碑文が「黄金の波にいざ漕がん 語れ我が友 熱き心」とだけ書かれ、問題は回避されました。
 ただし、現在は
「西国十番長命寺」が入った歌碑が建てられています。

 『琵琶湖周航の歌』は、長い間、一部の若者たちの間で歌われていただけで、一般にはほとんど知られませんでした。その状況を一変させたのが、昭和46年(1971)にリリースされた1枚のレコードです。

 昭和46年4月、加藤登紀子は、日本各地の「知られざる叙情歌」を集めて『日本哀歌集』というアルバムを発表、同年5月、そのなかから『琵琶湖周航の歌』と『知床旅情』をシングルカットして発売しました。この2曲が、折からの「ディスカバー・ジャパン」ブームに乗って、爆発的にヒットします。「ディスカバー・ジャパン」は、当時の国鉄が展開した旅行キャンペーンです。

 『知床旅情』の作詞・作曲者が大物俳優の森繁久弥だということは知られていましたが、『琵琶湖周航の歌』の小口太郎については、知る人がほとんどいませんでした。それが、この大ヒットをきっかけとして「ルーツ探し」が行われ、上述したような歌の成立状況が明らかになるとともに、小口太郎についても知られるようになったのです。

 小口太郎について少し見てみることにしましょう。
 以下の記述は、おもに昭和46年8月4日付け『夕刊フジ』と、昭和52年
(1977)2月発行の私家本『小口太郎と「琵琶湖周航の歌」』(安田保雄編・中安善也発行)の記述に基づいています。両方とも、小口太郎の縁者や後輩へのインタビューに基づいて構成されています。

 小口太郎は、明治30年(1897)8月30日、信州諏訪湖西岸の湊村(現岡谷市湊)で生まれ、旧制諏訪中学(現諏訪清陵高校)に入学しました。
 彼の人となりについては、諏訪中学校で同級生であり親友であった小口大次が、次のように語っています。
「容姿は端麗、優雅、女性的であり、しもぶくれの顔立ちで両眼は細く、笑った時には糸を引いた様になり、両頬には可愛らしい笑窪が出来た。性格は温和、従順で、他と争う様なことは絶無であったが、胸中に自己の堅い信念らしきものを持っていた様に思われる」

 大正5年(1916)9月、小口太郎は旧制三高の二部乙、すなわち理工農進学コースのドイツ語クラスに進みます。級友や後輩たちの小口についての記憶も、上と同じようなものでしたが、さらに「きわめて頭脳明晰で真摯」という印象が付け加わります。
 三高卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に進み、その3年在学中に「有線及び無線多重電信電話法」を発明し、数か国の特許を得ました。このことからも、彼が並みの頭脳の持ち主ではなかったことがわかります。

 東大卒業後、同大学の航空研究所に入りましたが、徴兵検査を受けたあと、病を得て退所しました。東京府下淀橋(現北新宿)の病院で療養につとめたものの、そのかいなく、大正13年(1924)5月16日に亡くなりました。26歳の若さでした。
 そのころ彼は、諏訪中学の後輩だった浜徳太郎の妹・すずと婚約していましたが、浜家には「太郎は脳溢血で亡くなった」と伝えられたといいます。

 しかし、実際は自殺でした。太郎の弟・秀雄がインタビューに対してそう語っています。ウツ病による自殺だった可能性が否定できません。
 徴兵検査に合格すると、入営しなければならず、その間、研究から引き離されることになります。太郎のような一途な性格の研究者には、それが耐えられないことのように感じられたのでしょう。これが発症の原因だったのではないでしょうか。 
その2へ続く)

(二木紘三)

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コメント

「琵琶湖周航の歌」のルーツを知ることができました。ありがとうございました。
 「知床旅情」と並んで、加藤登紀子がヒットさせたことも、納得のゆくことでした。「百万本のバラ」が、歌声喫茶で多く歌われながらも、それ以上には広がらなかったのに、加藤登紀子が歌った時からブレークしました。歌い手の力を知ることができました。
 「琵琶湖・・・」と「知床・・・」のヒットが、ディスカバージャパンに結びつけられるのは、(事実としても)ちょっと残念です。歌い手の力の違いが忘れられそうなのと、ディスカバージャパンが、その数年前から米国で展開されていた「Discover America]の焼き直しだったからです。
 極めて個人的な受け止め方をして、楽しませていただきました。

投稿: Leafman | 2006年9月14日 (木) 17時39分

はじめまして。この「琵琶湖周航の歌」の成り立ちがよくわかりました。

ネット検索の理由は「歌の意味」でした。地名に纏わる古事が歌詞に織り込まれているのでしょうが、勉強不足の為か理解できない部分もあります。その辺りがわかっているのといないのでは違いが大きいですよね。

琵琶湖八景や近江八景など思い浮かべながら、深い意味を理解し聴いてみたいです。

投稿: 瑠璃 | 2006年10月28日 (土) 00時12分

琵琶湖周航の歌は 高校時代から
知っていたような気がします。
 加藤登紀子さんは 多分同世代。
彼女の 旦那さん 藤本氏
の 顔は知りませんが うわさは大学時代に聞いてました。東大を嫁にもらった幸せ者?テな感じで 先輩がブツクサ言ってました。
 それにしても 作詞作曲の人も若くなくなっていられるには やはり 時代を感じます。団塊の苦労知らずの 初老人の感想です。1947年生まれ。
 それにしても 素晴らしいページ
いつも有難うございます。

投稿: 二宮 博 | 2007年3月 3日 (土) 05時11分

今から40年以上も昔のことですが、私が某テレビ局に入社して3年目の頃、滋賀県出身の先輩記者Yさんが急逝しました。たしか27歳くらいだったと思います。
Yさんは極めて優秀な記者で、労働省や組合関係の取材で幾度も特ダネを物にしていました。彼の夭折は同僚や関係者らに大きな衝撃を与え、局の近くの寺で営まれた葬儀・告別式には多数の人が参列しました。
当時、天をも衝く勢いだった総評の岩井章事務局長らも参列していましたが、Yさんの棺が寺から出てゆく時、同期生(私の3年先輩)が期せずして歌い出したのがこの「琵琶湖周航の歌」でした。
Yさんが滋賀県出身だったのでそうなったのでしょうが、その時の歌声と同期生らの涙声が忘れられません。この歌を聴く時、いつもYさんを思い出します。Yさんもこの歌の作詞者である小口太郎氏も、26~7歳の若さであの世へ旅立っていったのですね。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年2月12日 (火) 21時15分

祖父は旧制三校のボート部でした。その頃はまだこの歌はありませんでした。それでも祖父、祖母は、旧制高校の寮歌が好きで、子供達と一緒に歌っていたそうです。64歳になる私も都ぞ弥生、一高、三高、早稲田の校歌、応援歌、慶応応援歌など父母と一緒に歌ったものです。この琵琶湖周航の歌を聞くと、家族で歌ったことを昨日のことのように懐かしく思い出されます。

投稿: 昔の少女 | 2008年5月25日 (日) 18時25分

この曲は、私の故郷の歌として古くから唄われておったようです。遠い昔とはなりましたが、私の大学通学時には、夜間コンパなどがありますと、湖の浜で焚き火を囲い唄った懐かしい記憶が残っております。

投稿: 水本爽涼 | 2008年6月 3日 (火) 15時26分

友人が長野県岡谷市にいるので時々遊びにいきますが、その時私は決まって諏訪湖の水門近くにある小口太郎氏の銅像を見に行きます。銅像は多くの方の寄付で建てられ、歌碑の文字は大学の後輩でノーベル物理学賞を受賞した江崎玲於奈氏が書いたと記憶しています。歌碑にあるボタンを押すと曲が流れます。小口太郎氏は今尚、人々の心に生きています。

投稿: 中村和己 | 2008年8月14日 (木) 20時47分

学生時代には、コンパやゼミ旅行で、友人と肩を組んで歌っていました。もう長いこと、母校にも立ち寄っていません。卒業から丸26年も経ってしまいました。ゼミのOB会にも随分ご無沙汰の状態です。。。。自分にとって青春時代を想い出させてくれる名曲です。

投稿: 本田雅生 | 2008年8月25日 (月) 21時21分

本当に興味の尽きない物語を知るところとなりました。実は小生、勤務していた電話会社の研修にて「特殊無線技師(多重)」の免許を取得しておりますが、作詞者小口様該当の技術と思われます。加藤登紀子の百万本のバラ、愛の暮らしとともに大好きな曲の一つです。“蛇足”有難うございました。

投稿: ゆうさん | 2009年2月27日 (金) 21時37分

知人が本日近江路へ旅します その中に長浜があり、この歌を思い出しました 元唄を聴いてキーの異なるところを初めて知り驚きましたが、S46年にリリースされた時に今のメロディに編曲されたのでしょうか こちらのほうが耳慣れして聴きやすいのですが  作詞家の小口太郎氏が理科系の専攻だったのも新鮮味を感じます
当時の寮歌の作詞・作曲を見聞きすると、とても20歳前後の若者の作とは思えません  どのような教育がなされてこんなハイレベルに達したのか今でも不思議です  世相というより若者の息吹を感じます 

投稿: くろかつ | 2010年4月26日 (月) 05時42分

はじめまして
琵琶湖周航の歌は滋賀県民の私としてはなじみ深い歌で、最近は歌碑めぐりをしています。

投稿: sirasu | 2010年11月 5日 (金) 06時27分

http://www.youtube.com/watch?v=kvxHrNEHc4I&playnext=1&list=PLA1A215324E169835&index=7
この歌の歌詞は大好きです。今日又別の歌詞を見つけました。
yu-tabu で見つけました。東海林太郎の歌っている「琵琶湖就航」です。哀愁に満ちた良い歌詞です。

投稿: totoro | 2010年11月14日 (日) 01時01分

「琵琶湖周航の歌」♪遠くかすむは彦根城・・
「琵琶湖哀歌」  ♪われは湖の子 さすらいの・・
「七里ヶ浜の哀歌」♪真白き富士の根 緑の江の島・・ 
 3曲は別々の歌です。

「琵琶湖周航の歌」の歌は高校の音楽部で習っていたので、
加藤登紀子さんの歌を聴いたのはそれから十年後位です。

投稿: なち | 2010年11月14日 (日) 08時07分

「琵琶湖周航の歌」♪われは湖の子 さすらいの・・
「琵琶湖哀歌」  ♪遠くかすむは彦根城・・
「七里ヶ浜の哀歌」♪真白き富士の根 緑の江の島・・ 

 訂正 歌詞を入れ替えてました。

投稿: なち | 2010年11月14日 (日) 08時11分

学生時代、私は大学の漕艇部員でした。戸田ボートコース、荒川、相模湖。。。卒業後その記憶は遥か遠くのものとなっていくばかりでした。頭髪に白いものが混じり始めた頃に起業、しかし、仕事は上手くいかず失意の連続、ドン底に落ち、フラフラと琵琶湖に一人旅(何故琵琶湖だったのか今でも解りません)、竹生島行の船上で漫然と景色を眺めていると、となりの女学生三人が口ずさんでいた歌、琵琶湖周航の歌。ハッと我に還る思いでした。走馬灯の様に若かりし頃の漕艇の想い出が巡り、涙が止まらなかった。今から考えると、ここが青春に還る原点となりました。その後、不思議なぐらい仕事も順調、そして昔の漕艇部の仲間が集まって、また艇を漕ぐ様になりました。老体にムチ打って。。。きっと琵琶湖に住む漕艇の神様が憐れんで、私を琵琶湖に招き入れてくれた。と思っています。

投稿: 横浜黄昏 | 2011年9月15日 (木) 11時25分

初めて竹生島に行ってきました。船着場に琵琶湖周航の歌の碑が立っていました。少しだけ若返ったような気がしました。学生時代の仲間たちはどこにいるのでしょうか?またいつか皆で肩を組んで、周航歌を歌うことはあるのでしょうか?

投稿: 本田雅生 | 2011年9月26日 (月) 22時43分

入学時に大学からの書類と一緒に運動会発行の冊子が送られて来ましたが、その中に学生歌とともに旧制第三高等学校の寮歌が紹介されていました。この冊子に西国十番が長命寺でないのは、小口自身も知っていたが、字余りになるためにそのまま修正されなかったというようなことが書かれていたような記憶があります。
私が好きな歌詞は5番です。

矢の根は深く埋もれて 夏草しげき堀のあと
古城にひとり佇めば  比良も伊吹も夢のごと

そこには、藤村『千曲川旅情の詩』や晩翠『荒城の月』に通ずる無常観が描かれています。日本人は古城に特別の思い入れがあるようですが、こういう感慨を詠むことができる素養と感性を旧制高校の学生は持っていたようです。

投稿: Yoshi | 2011年9月28日 (水) 17時05分

先生のこのコーナー楽しく拝見させて頂いています。
さて、この曲の6番目の最後、『熱き心』の部分、「こころ」と読んでは音数が合いません。
加藤登紀子さんの歌では6番が省かれていて解りません。
私は音数を合わせるために、勝手に「あつきむね」と
約し歌っています。正確な読みをお教えください。

投稿: 高原 勉 | 2012年6月 9日 (土) 13時58分

上記の追加
6番2行目「遠く去りて」も字余りです。
ここはかく行「5音」で収まっています。
「とおくさり」で十分意味も伝わると思いますが。
歌われる方はこの2か所をどう表現されているか
知りたいです。

投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 14時15分

西國十番長命寺
穢れの現世とほく去り
白い銀波をいざこがん
語れ吾が友あつき心

西國十番長命寺
汚れの現世(ウツシヨ)遠くさりて
黄金の波にいざこがん
語れ我が友 熱き心

西国十番長命寺
汚れの現世遠く去り
白銀の波に漕ぎゆかん
語れよ友よ熱きこゝろ

6番の歌詞の変遷との事です。

投稿: 海道 | 2012年6月 9日 (土) 16時44分

海道様
「6番の歌詞の変遷」の記載ありがとうございました。
いろいろ御調べ頂いたことと存じます。お手数おかけいたしました。
やはり、「遠く去りて」では字余りになると感じた人も
あった訳ですね。
しかし、最後の句、「青春の心情」伝えるには「熱きこころ」が一番素直な表現ですが、「歌の歌詞」としては5音でないと収まりがつきません。
しかし、百年近く歌い継がれてきた歴史は素直に受け入れておくことと致します。
この歌のメロディ・ラインは美しいです。

投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 19時28分

YouTubeで、小鳩くるみさんや倍賞千恵子さんが、6番まで歌っているのを聴くことが出来ます。
「遠く去りて」も「熱き心」も、ごく自然に収まっているように私には聴こえましたが…。

投稿: 迷子 | 2012年6月 9日 (土) 20時49分

迷子様
YOUTUBEの情報ありがとうございました。
早速小鳩くるみさん、さくらさんの歌聴いてみます。
ありがとうございました。

投稿: 高原勉 | 2012年6月 9日 (土) 22時26分

ゼミの先生を偲ぶ会で、先輩ゼミナリステンが遺影を前に、朗々と歌い上げられた場面が眼に浮かびます。「師たる教師」であった先生のゼミ会員親睦会が今年も7月15日に開催されますが、出席出来ません。よき想いでの美酒は、明朝、シベリウスのフィランディァにより、また吾を壮健に導いてくれそうです。

投稿: 夏橙 | 2012年7月13日 (金) 20時43分

折にふれて自然と口ずさむ歌ですが、作詞した小口太郎が、長野県岡谷市の生まれで、しかも諏訪中学(旧制)の出身だとは、今の今まで知りませんでした。驚きです。というのも、私は諏訪の生まれですから。今は故郷を離れていますが、諏訪湖はいつも私の心の中にあります。湖といえば諏訪湖のイメージしかなかった私にとって、初めて琵琶湖を見た時には、その大きさに驚いたものです。もしかしたら、小口にとって、琵琶湖は諏訪湖に通じていたのかもしれません。岡谷へ行く機会があったら、水門近くにあるという銅像をぜひ訪れてみたいと思います。

投稿: うさぎさん | 2015年2月 7日 (土) 10時36分

このサイトは楽しく見ています。二木先生の綿密な調査と的確なコメントに感嘆しています。この歌は愛唱歌で折にふれ口ずさんでいます。加藤さんのヒットで世に広まりましたが、正式な速さはどうなんでしょうか。楽譜を見たことはありませんが昔NHKの行く年で京大合唱団が歌っているのをみたのですが、恐ろしくスローでした。遠漕のボートでオールの動きに合わせたらゆっくりが正調なのでしょうか。それと2番4番に「乙女子」が出てきます。歌う時の順番の目安にしていますが、バンカラな旧制高校生といえ現代の教養課程の若者とみれば、異性への関心も高く「熱き心」になるのでしょう。

投稿: しょうちゃん | 2015年2月22日 (日) 21時41分

こんにちは。滋賀県と言えばこの不朽・不滅の名曲が思い浮かびます。特にお登紀さんの抑揚を効かせたバージョンは泣かせますね~☆

投稿: なにわのヒバゴン | 2016年2月20日 (土) 18時15分

今も琵琶湖周航の歌を歌う、昭和一桁の俳諧朗人です。
岡谷市の小口太郎像にある歌碑のボタンで流れる、琵琶湖周航の歌。 実は1990年頃、昔私が居た会社で納めた「メロデーブリッジ」なる製品で、既に往事茫々の思い出になります。
岡谷音楽協会・諏訪交響楽団・三高同窓会の協力でCDも制作しました。
同窓会の斉唱では、滋賀の都よ・・・みや「こよ~」は「レレソ~」の正調で歌われて居ます。
現在歌われる「レドラ~」は、戦後の歌集復刻に際して、音符の誤記が介在したというう事でしょう!
寮歌等では、歌詞やメロデーの多少の変遷は良くある事。この歌も生まれて間も無く一世紀、今も尚我らを青春に
回帰させ、明日への活力を与えてくれる不思議な歌です。

投稿: 保科 盛 | 2016年9月29日 (木) 22時12分

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