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ああモンテンルパの夜は更けて

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇都美清

(男)モンテンルパの夜は更けて
    つのる思いにやるせない
    遠い故郷しのびつつ
    涙に曇る月影に
    優しい母の夢を見る

(女)燕はまたも来たけれど
    恋し我が子はいつ帰る
    母の心はひとすじに
    南の空へ飛んでゆく
    さだめは悲し呼子鳥(よぶこどり)

(女)モンテンルパに朝が来りゃ
    昇る心の太陽を
 (男)胸に抱いて今日もまた
    強く生きよう倒れまい
 (男女)日本の土を踏むまでは

《蛇足》 この歌は、フィリピンの刑務所につながれていたBC級戦犯と、ある女性歌手との交流から生まれました。

 第二次大戦が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われました。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれました。
 A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」で、戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為です。B級は従来の戦争法規に規定されていましたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科です。

 日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われました。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告されました。

 しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくありませんでしたが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていました。文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりありました。

 勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがありません。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通です。もし、日本やドイツが勝っていたら、同じような裁判をしただろうし、日独の全体主義体制下では、もっとひどい裁判をしたかもしれません。戦争は、戦犯の裁判まで含めて戦争と考えたほうがいいのでしょう。

 さて、昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きました。戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送りました。

 同年の6月のある日、ニュービリビット刑務所の戦犯から、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られてきました。それが『ああモンテンルパの夜は更けて』です。作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていました。
 渡辺はま子がただちにビクターに持ち込んだところ、そのいきさつに感動した幹部がレコード化を決断、渡辺はま子と宇都美清の歌で発売されました。レコードは瞬く間にベストセラーとなり、現地にも送られました。

 しかし、彼女は、それだけでは満足しませんでした。なんとか現地の戦犯たちの前で歌いたいと思ったのです。一般国民の海外渡航が禁止された状況で、フィリピン行きの許可を取るのは困難を極めましたが、あらゆる伝手をたどって奔走した結果、同年12月下旬、彼女はやっと念願を果たしました。ニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む109人の戦犯たちを前にして、この歌を歌うことができたのです。

 翌28年、同刑務所に駐在していた教誨師・加賀尾秀忍は、奔走してフィリピンのキリノ大統領に面会しました。戦犯たちの釈放や減刑を請願するためでしたが、彼はまず『ああモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを聞かせました。「この悲しいメロディはどういう曲か」と尋ねた大統領に、彼は「モンテンルパの死刑囚が作った歌です」と答え、歌詞の意味を説明しました。大統領はしばらく沈思したあと、自分の辛い記憶を物語りました。それは、マニラでの日米の市街戦に巻き込まれて、自分の妻と娘が亡くなった話でした。

 モンテンルパの全受刑囚の日本送還と死刑囚の無期への減刑が同国政府から発表されたのは、この面会から1ヶ月後のことでした。

 2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのことです。

(二木紘三)

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コメント

何時もいつもお邪魔させていただいてます。「ああモンテンルパの夜は更けて」の逸話は知りませんでした。戦犯の方の中で、本間中将の事、奥さんの言葉が印象に残っています。「ああモンテンルパの夜は更けて」検索でも使いもっと内容を知りたくなりました。でもこの中の歌詞に辿り着く事が出来ず、ウロウロしています。いつも有り難う御座います。

投稿: さぶ | 2006年6月17日 (土) 21時24分

この唄を歌うと訳もなく涙が流れてなりません。昔の歴史を忘れようとしている今だから、これらの唄を通じて、歴史を伝えなければと、毎月、歴史の映像を見たり、軍歌を唄い続けています。歴史の事実から学びたいと考えています。

投稿: 近現代史研究会 | 2007年1月26日 (金) 14時02分

いい年こいて、いつもこの歌を歌う時、涙を抑えることができません。現在の歌もいいですが、戦前に生を受けた私には、このような歌がなぜか心に響きます。しかし、このような歌、軍歌、戦時歌謡などを歌うのを、気のせいか敬遠するようなムードを感じています。毎年、やられている老人会のカラオケ大会でも、これらの歌が皆無もしくは、少ないのがさびしい限りです。

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2007年7月17日 (火) 15時44分

S18のわたしですが
それでもこの歌の愛唱している
わたしがいることを
お知らせしたいです

投稿: KK | 2007年7月19日 (木) 17時08分

二木さまいつもサイトを利用させていただいております。このサイトをかりて御礼申しあげます。いつもメロディーの確認、復習に大いに役立たせていただいております。「ああモンテンルパの夜は更けて」のエピソードは2007年7月22日付け公明新聞「母は世につれ歌につれ」で知りました。さっそく昔聞いたことのあった、忘れかけていたメロディーを確認しました。新聞記事と同じことが解説してありました。戦争経験の無い者の言うことではないでしょうけれど、おそらく戦場の第一戦で真っ先に死ぬのはまじめな人が多いのではないでしょうか。要領のいい人が最期まで生き残るのではないでしょうか。それだけに戦争というのは本当に矛盾だらけで不合理の究極みたいなものだと思います。
それにしても二木様の博学さにはいつも関心しております。大いに勉強させていただきます。これからも宜しくお願いします。

投稿: 山本ケーナ | 2007年7月23日 (月) 08時07分

要領なんですか、山本さんあの大戦を生きてかえれたのは要領なんですか、私の父帰ってきた、要領よく私もそう思う、ただ帰ってきてから要領悪かったね、下積で苦労してたね要領よく帰ってきてくれた父に感謝、とどかないね

投稿: 古越丈夫 | 2007年8月 1日 (水) 23時45分

あまり知られていない戦時中の徴兵忌避、反戦、厭戦、逃避、抵抗などについて調べています。戦争画、軍歌、戦時歌謡などの中にそれらの気配を感じ、探しています。難しい問題ですが、素晴らしい軍歌、戦時歌謡などを歌うだけでなく、当時の人たちの心の中が伺えればと考えています。そして、平和の大切さ、戦争の悲惨さについて考え、行動に移せたらと思います。老人会でのカラオケ大会で軍歌が歌われないのをさびしく思う、大陸生まれの変な人間です。国境の町、シベリア小唄、同期の桜などを歌う時、戦争体験がないのに泣けてしまうのは
なぜなのか分かりません。こんな大変な時にカラオケなんか楽しんでいて良いのかと思いますが、それだけでなく、できることから、平和について、人のために、何かお手伝いをしなければと思います。それが、なくなった多くのものが言えない友達に対する供養になるのではないかと思っています。毎月第二土曜日、堺市立東文化会館で,昭和の記録映像を見ながら昭和の庶民史について語りあっています。近くの人で、関心があればご自由においでください。

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2007年8月21日 (火) 06時26分

シベリヤ小唄父がよく歌ってました、なぜなんですか顔が歪むのは思いでの歌てあるもんですね。

投稿: 古越丈夫 | 2007年8月21日 (火) 08時29分

かって作曲者の伊藤正康氏に仕えたものの一人です。この曲を聞くと懐かしさがこみ上げてきます。伊藤氏があまりにも名上司でしたからでしょう。
戦争は敗者にはひどい仕打ちをします。勝算のある時意外はやるものでは有りません。だから備えは万全を期すべきでしょう。
二木様詳しく掲示してくださって有難う御座いました。

投稿: 波路 | 2007年8月22日 (水) 21時37分

二木様 
 ときどき利用させていただいております。 私は戦後生まれですが、子どもの頃に母が私を胸に抱き寄せてよく歌ってくれたのが「モンテンルパの夜は更けて」でした。
 たどたどしくもメロディに沿って懐かしく歌い始めると目頭が熱くなります。その母も5年前に亡くなり、フィリピンで戦った父もとうにおりません。
 この歌には両親のさまざまな思いがそれぞれに込められていたのでしょう。
 この歌には捕らわれの兵隊さんたちの故国への痛切な思いが胸に響いてきます。饒舌な反戦アジテーションなどよりも、たったひとつの歌曲がこんなにも心を揺さぶるものなのですね。
 この歌の背景を知ることで、あらためて戦争の悲惨さを思い知らされます。
 ありがとうございました。

投稿: ヒロ | 2007年8月24日 (金) 17時22分

佐賀県、黒髪山のふもとに定林寺のいう真言宗のお寺があります。その寺に加賀尾秀忍さんの掛け軸がのこっているということを、そのお寺の娘さんだった方からお聞きしました。NHKの「歌はこうして出来た」?という番組でモンテンルパの歌が紹介されて、秀忍さんがこの歌にかかわりがあったことを知ったそうです。その掛け軸の話を聞き、早速この欄の「蛇足」をコピーして差し上げました。大変喜んでいただきました、ありがとうございます。

投稿: 佐野 教信 | 2007年10月25日 (木) 23時17分

 幼い頃にラジオで何度もこの歌を聴いた世代です。モンテンルパとはどういう所か知りたいと思っていましたので、20年ほど前、出張で行ったマニラで少し時間が出来た時に、タクシーを止めて行き先を告げました。その時の運転手のオジサンの驚いた顔が忘れられません。現地の人にとっては、モンテンルパは「現役」の刑務所で、それ以外のものではなかったのです。
 マニラ郊外の椰子林にかこまれたその場所は、小生には国内外で「訪れた」唯一の刑務所でしたが、高い塀の周辺は武装した守衛以外に人影もなく、やはり「現役」の厳しい顔を持っていました。このとき、自分の中にあった、やや観光客的な気分をとても反省したことでした。
 それにしても、二木様の「蛇足」にある渡辺はま子の信念と行動力には頭が下がります。

投稿: Snowman | 2007年12月13日 (木) 11時23分

一つの名曲がこれだけの人達の運命を変えたのですから、素晴らしいと言うしか有りません。大統領に談判した方も渡辺
はま子も。そして英断を下した大統領も偉い。

投稿: M.U | 2008年6月17日 (火) 13時00分

巨人軍関係の人から聞いた話ですが、長嶋茂雄さんは
宴会で「モンテンルパ」が十八番だったそうです。

今、2番の歌詞を見て思うのですが、レコード化のために
レコード会社により補作されたのではないでしょうか・・
・・? 「岸壁の母」に似ています。


投稿: 時代オクレ | 2008年6月18日 (水) 22時58分

昭和43年の秋だったと記憶していますが、定かではありません。終戦から23年を経て日の丸の定期便がマニラに着陸しました。私は東京発の2便目担当でした。初めての町を歩いた時の何とも言い難い現地の人の目を感じ緊張したことを今も覚えています。モンテンルパが町の中心からさして離れていないのに驚かされました。この時には「渡辺はま子さんの上記の話」は承知していましたが、23年をへて・・ショックでした。それから30数年、マニラは楽しい町にドンドン変わっていきました。もうひとつ、シンガポールに着陸準備を終えて着席すると、「戦友の遺骨を抱いて」が私の耳に鳴り始めます、何故だか分かりません。この地も緊張して歩いた街のせいでしょうか。歌詞を探しているうちにこの頁にいきあたり、思わず記しました。

投稿: TK | 2008年7月 6日 (日) 02時37分

本日、NHKで「モンテンルパの夜は更けて 渡辺はま子と戦犯たちの物語」の再放送を見ました。
「モンテンルパの夜は更けて」はメロディーはよく知っておりました。
3番までの歌詞を聴いて涙が滲んできました。
戦後昭和24年生まれの私は、戦争が終わって生まれたと信じておりましたが、現実には戦争の爪痕は深く残っていたのですね。
趣味の二胡のレパートリーに加えたいと思います。

投稿: ひでお | 2008年8月12日 (火) 11時26分

子供の時に大好きな歌でしたが、何時しか耳にすることも無く、うろ覚えの歌詞とメロディーを残念に思っていました。このサイトで記憶がよみがえり、完全に歌えるようになりました。ありがとうございます。

2番の「呼子鳥」について、なぜカッコウまたはホトトギスが、そう呼ばれるようになったのでしょうか。何かいわれがあると思いますが、ご存知の方がいらっしゃったら、教えて下さい。

というのは、最近、偶然知った絵本に、呼子鳥の話があって、感動したからです。ざっとした内容は、ある動物(リスだったと思いますが)が、偶然瀕死の小鳥(カッコウだったと思いますが)を助けました。わが子のように可愛がって育てましたが、ある日、小鳥は巣を出たまま帰って来ませんでした。リス(母)は来る日も来る日も、遠く見渡せる事のできる木の上で、帰りを待っていましたが、願い虚しくついにカッコウの姿になって息絶えてしまいました。以来、カッコウを「呼子鳥」と言うようになりました。

これ、ほんとの由来でしょうか?

投稿: 吟二 | 2008年9月 3日 (水) 21時56分

カッコウまたはホトトギスと言えば、他の鳥(オオヨシキリ、モズ、ウグイス、ホオジロ等)に託卵する鳥ですね。私は自分で子育てをしないこの種の鳥(ジュウイチ、ツツドリも)を今まで好きにはなれませんでした。

呼子鳥のお話では育ての親はリスですね。「どこへ行ったの?」と心配しているうちに生みの親のカッコウになっていた。

ほんとの由来はわかりません。が、そういう習性を持った親鳥の悲しさが伝わってきました。

3番の歌詞と似ているのが有ったはず‥‥
見つけました。「異国の丘」の3番、『倒れちゃならない祖国の土に たどりつくまで その日まで』と、同じ気持ちが表されています。解説によりますと、これはシベリアに抑留されていた方が作詞したそうです。
捕われの地で家族を想う時、「ただいま帰りました」と、心の中で何度も繰り返していたのではないでしょうか。

投稿: 高木ひろ子 | 2008年9月 4日 (木) 21時03分

 何と悲しい美しい歌だろうか、日本人の心にジンと来るメロディですね。大統領は心のそこで死刑を避けたかったのかもしれません。渡辺さんに感謝しているのかも知れません。

投稿: 越野利栄 | 2008年11月28日 (金) 23時13分

終戦の年に生まれた者ですが、電蓄で母がよくSPレコードをかけていましたので自然とふるい歌を憶え、カラオケでも戦前戦後の歌を結構歌っています。特にこの歌は、当事者が作詞と作曲なので強く私たちの胸に響くのでしょう。戦争で得るものは何もありません、悲劇を生むだけです。この歌を歌うと、胸にこみあげるものがありますね。

投稿: 高校三年生 | 2009年2月22日 (日) 19時28分

この曲を作曲された伊藤正康氏が亡くなりました。
また一つ戦後が遠くなった気がします。
合掌。

投稿: 先人に敬意 | 2009年6月17日 (水) 17時45分

私はタクシーの乗務員です。私がこの話を知ったのは、4・6年前だったか私の車に老夫婦の方が乗って来られました。自宅のある所沢までお送り致しました。その車中での会話の中で、そのかたは吉田義人さんというお名前のかたで、日本で最初にオルゴールを作られた方だそうでした。渡辺はま子さんのモンテンルパの話を聞き、感動して自分に何か出来ることはないかと渡辺はま子さんを訪ねたそうです。この曲をオルゴールに出来ないか、と頼まれ3つ作ったそうです。渡辺はま子さんがこのオルゴールをみやげ代わりに当時の大統領であったキリノ大統領に聞かせたらこの曲はどういう曲かと尋ねられ、モンテンルパに収容されている戦犯の人達が故郷を思って作った曲です。と答えたら、キリノ大統領は感動して、私個人の権限では数人の人しか助けることが出来ないから
フィリッピンの国会にかけようと、言ってくれて国会で全員、日本へ帰還が決まったそうです。素晴らしいのは
キリノ大統領の家族、奥さんと娘さんは日本に殺されていたのに、私は残された家族の悲しみは身にしみて良く分かる。同じ悲しみを日本で待つ家族にあじあわせたく無いと言って助けた・・・・。
吉田さんは自分の作ったオルゴールがお役に立てた事だけで、それだけでいい誰にも知られなくとも。と話してくれました。吉田さんは御健在でしょうか気になります

投稿: 荒野の狼 | 2009年6月19日 (金) 00時41分

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