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あゝモンテンルパの夜は更けて

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康、唄:渡辺はま子・宇都美清

(男)モンテンルパの夜は更けて
    つのる思いにやるせない
    遠い故郷しのびつつ
    涙に曇る月影に
    優しい母の夢を見る

(女)燕はまたも来たけれど
    恋し我が子はいつ帰る
    母の心はひとすじに
    南の空へ飛んでゆく
    さだめは悲し呼子鳥(よぶこどり)

(女)モンテンルパに朝が来りゃ
    昇る心の太陽を
 (男)胸に抱いて今日もまた
    強く生きよう倒れまい
 (男女)日本の土を踏むまでは

《蛇足》 この歌は、フィリピンの刑務所につながれていたBC級戦犯と、ある女性歌手との交流から生まれました。

 第二次大戦が終わると、連合国による敗戦国ドイツや日本に対する軍事裁判が行われました。戦争犯罪人、いわゆる戦犯はA、B、Cの3クラスに分けて裁かれました。
 A級は「平和に対する罪」で、指導者たちによる侵略戦争の計画、開始、遂行等、B級は「通例の戦争犯罪」で、戦争法規に対する違反行為、C級は「人道に対する罪」で、戦前・戦時中になされた殺害・虐待などの非人道的行為です。B級は従来の戦争法規に規定されていましたが、A級とC級はドイツと日本の戦犯を裁くために、1945年8月のロンドン協定で新たに設けられた罪科です。

 日本のA級戦犯に対する裁判は、東京に設置された国際軍事法廷で行われましたが、B・C級戦犯への裁判は、アメリカ、オーストラリア、オランダ、イギリス、中華民国、フィリピン、フランスの7カ国ごとに行われました。おもな訴因は、俘虜や一般人に対する殺害、虐待、虐待致死で、B・C級戦犯5163名のうち、927名が死刑を宣告されました。

 しかし、B・C級戦犯に対する裁判は、かなりいいかげんなものでした。もちろん、実際に戦争犯罪を犯した者も少なくありませんでしたが、軍隊という組織の中で上官の命令に逆らえずに捕虜を刺殺した者や、捕虜に1回ビンタを食らわしただけの者なども含まれていました。文化の違いから来る誤解によって告発されたり、まったく関係のない者が刑を受けた例もかなりありました。

 勝者による軍事裁判は、かつて公正に行われたためしがありません。しかも、多かれ少なかれ敗者に対する報復の色彩を帯びるのが普通です。もし、日本やドイツが勝っていたら、同じような裁判をしただろうし、日独の全体主義体制下では、もっとひどい裁判をしたかもしれません。戦争は、戦犯の裁判まで含めて戦争と考えたほうがいいのでしょう。

 さて、昭和27年(1952)1月、歌手の渡辺はま子は、来日したフィリピンの国会議員ピオ・デュランから、同国モンテンルパのニュービリビット刑務所には、多数の元日本兵が収監されており、すでに14人が処刑されたと聞きました。戦後7年もたつのに、なお刑を受け続け、なかには死刑を待つだけの人たちもいると聞いて衝撃を受けた彼女は、銀座の鳩居堂からお香を同刑務所宛に送りました。

 同年の6月のある日、ニュービリビット刑務所の戦犯から、「ぜひ渡辺さんに歌っていただきたい」という手紙とともに、歌詞と楽譜が渡辺はま子のもとに送られてきました。それが『ああモンテンルパの夜は更けて』です。作詞の代田銀太郎は長野県出身の元大尉、作曲の伊藤正康は愛知県出身の元大尉で、ともに死刑判決を受けていました。
 渡辺はま子がただちにビクターに持ち込んだところ、そのいきさつに感動した幹部がレコード化を決断、渡辺はま子と宇都美清の歌で発売されました。レコードは瞬く間にベストセラーとなり、現地にも送られました。

 しかし、彼女は、それだけでは満足しませんでした。なんとか現地の戦犯たちの前で歌いたいと思ったのです。一般国民の海外渡航が禁止された状況で、フィリピン行きの許可を取るのは困難を極めましたが、あらゆる伝手をたどって奔走した結果、同年12月下旬、彼女はやっと念願を果たしました。ニュービリビット刑務所で、59人の死刑囚を含む109人の戦犯たちを前にして、この歌を歌うことができたのです。

 翌28年、同刑務所に駐在していた教誨師・加賀尾秀忍は、奔走してフィリピンのキリノ大統領に面会しました。戦犯たちの釈放や減刑を請願するためでしたが、彼はまず『ああモンテンルパの夜は更けて』のオルゴールを聞かせました。「この悲しいメロディはどういう曲か」と尋ねた大統領に、彼は「モンテンルパの死刑囚が作った歌です」と答え、歌詞の意味を説明しました。大統領はしばらく沈思したあと、自分の辛い記憶を物語りました。それは、マニラでの日米の市街戦に巻き込まれて、自分の妻と娘が亡くなった話でした。

 モンテンルパの全受刑囚の日本送還と死刑囚の無期への減刑が同国政府から発表されたのは、この面会から1ヶ月後のことでした。

 写真はフィリピン政府から特赦を受けた日本人戦犯たちを乗せた白山丸を横浜港で出迎える人びと(昭和28年〈1953〉7月22日)

 2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのことです。

(二木紘三)

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コメント

何時もいつもお邪魔させていただいてます。「ああモンテンルパの夜は更けて」の逸話は知りませんでした。戦犯の方の中で、本間中将の事、奥さんの言葉が印象に残っています。「ああモンテンルパの夜は更けて」検索でも使いもっと内容を知りたくなりました。でもこの中の歌詞に辿り着く事が出来ず、ウロウロしています。いつも有り難う御座います。

投稿: さぶ | 2006年6月17日 (土) 21時24分

この唄を歌うと訳もなく涙が流れてなりません。昔の歴史を忘れようとしている今だから、これらの唄を通じて、歴史を伝えなければと、毎月、歴史の映像を見たり、軍歌を唄い続けています。歴史の事実から学びたいと考えています。

投稿: 近現代史研究会 | 2007年1月26日 (金) 14時02分

いい年こいて、いつもこの歌を歌う時、涙を抑えることができません。現在の歌もいいですが、戦前に生を受けた私には、このような歌がなぜか心に響きます。しかし、このような歌、軍歌、戦時歌謡などを歌うのを、気のせいか敬遠するようなムードを感じています。毎年、やられている老人会のカラオケ大会でも、これらの歌が皆無もしくは、少ないのがさびしい限りです。

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2007年7月17日 (火) 15時44分

S18のわたしですが
それでもこの歌の愛唱している
わたしがいることを
お知らせしたいです

投稿: KK | 2007年7月19日 (木) 17時08分

二木さまいつもサイトを利用させていただいております。このサイトをかりて御礼申しあげます。いつもメロディーの確認、復習に大いに役立たせていただいております。「ああモンテンルパの夜は更けて」のエピソードは2007年7月22日付け公明新聞「母は世につれ歌につれ」で知りました。さっそく昔聞いたことのあった、忘れかけていたメロディーを確認しました。新聞記事と同じことが解説してありました。戦争経験の無い者の言うことではないでしょうけれど、おそらく戦場の第一戦で真っ先に死ぬのはまじめな人が多いのではないでしょうか。要領のいい人が最期まで生き残るのではないでしょうか。それだけに戦争というのは本当に矛盾だらけで不合理の究極みたいなものだと思います。
それにしても二木様の博学さにはいつも関心しております。大いに勉強させていただきます。これからも宜しくお願いします。

投稿: 山本ケーナ | 2007年7月23日 (月) 08時07分

要領なんですか、山本さんあの大戦を生きてかえれたのは要領なんですか、私の父帰ってきた、要領よく私もそう思う、ただ帰ってきてから要領悪かったね、下積で苦労してたね要領よく帰ってきてくれた父に感謝、とどかないね

投稿: 古越丈夫 | 2007年8月 1日 (水) 23時45分

あまり知られていない戦時中の徴兵忌避、反戦、厭戦、逃避、抵抗などについて調べています。戦争画、軍歌、戦時歌謡などの中にそれらの気配を感じ、探しています。難しい問題ですが、素晴らしい軍歌、戦時歌謡などを歌うだけでなく、当時の人たちの心の中が伺えればと考えています。そして、平和の大切さ、戦争の悲惨さについて考え、行動に移せたらと思います。老人会でのカラオケ大会で軍歌が歌われないのをさびしく思う、大陸生まれの変な人間です。国境の町、シベリア小唄、同期の桜などを歌う時、戦争体験がないのに泣けてしまうのは
なぜなのか分かりません。こんな大変な時にカラオケなんか楽しんでいて良いのかと思いますが、それだけでなく、できることから、平和について、人のために、何かお手伝いをしなければと思います。それが、なくなった多くのものが言えない友達に対する供養になるのではないかと思っています。毎月第二土曜日、堺市立東文化会館で,昭和の記録映像を見ながら昭和の庶民史について語りあっています。近くの人で、関心があればご自由においでください。

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2007年8月21日 (火) 06時26分

シベリヤ小唄父がよく歌ってました、なぜなんですか顔が歪むのは思いでの歌てあるもんですね。

投稿: 古越丈夫 | 2007年8月21日 (火) 08時29分

かって作曲者の伊藤正康氏に仕えたものの一人です。この曲を聞くと懐かしさがこみ上げてきます。伊藤氏があまりにも名上司でしたからでしょう。
戦争は敗者にはひどい仕打ちをします。勝算のある時意外はやるものでは有りません。だから備えは万全を期すべきでしょう。
二木様詳しく掲示してくださって有難う御座いました。

投稿: 波路 | 2007年8月22日 (水) 21時37分

二木様 
 ときどき利用させていただいております。 私は戦後生まれですが、子どもの頃に母が私を胸に抱き寄せてよく歌ってくれたのが「モンテンルパの夜は更けて」でした。
 たどたどしくもメロディに沿って懐かしく歌い始めると目頭が熱くなります。その母も5年前に亡くなり、フィリピンで戦った父もとうにおりません。
 この歌には両親のさまざまな思いがそれぞれに込められていたのでしょう。
 この歌には捕らわれの兵隊さんたちの故国への痛切な思いが胸に響いてきます。饒舌な反戦アジテーションなどよりも、たったひとつの歌曲がこんなにも心を揺さぶるものなのですね。
 この歌の背景を知ることで、あらためて戦争の悲惨さを思い知らされます。
 ありがとうございました。

投稿: ヒロ | 2007年8月24日 (金) 17時22分

佐賀県、黒髪山のふもとに定林寺のいう真言宗のお寺があります。その寺に加賀尾秀忍さんの掛け軸がのこっているということを、そのお寺の娘さんだった方からお聞きしました。NHKの「歌はこうして出来た」?という番組でモンテンルパの歌が紹介されて、秀忍さんがこの歌にかかわりがあったことを知ったそうです。その掛け軸の話を聞き、早速この欄の「蛇足」をコピーして差し上げました。大変喜んでいただきました、ありがとうございます。

投稿: 佐野 教信 | 2007年10月25日 (木) 23時17分

 幼い頃にラジオで何度もこの歌を聴いた世代です。モンテンルパとはどういう所か知りたいと思っていましたので、20年ほど前、出張で行ったマニラで少し時間が出来た時に、タクシーを止めて行き先を告げました。その時の運転手のオジサンの驚いた顔が忘れられません。現地の人にとっては、モンテンルパは「現役」の刑務所で、それ以外のものではなかったのです。
 マニラ郊外の椰子林にかこまれたその場所は、小生には国内外で「訪れた」唯一の刑務所でしたが、高い塀の周辺は武装した守衛以外に人影もなく、やはり「現役」の厳しい顔を持っていました。このとき、自分の中にあった、やや観光客的な気分をとても反省したことでした。
 それにしても、二木様の「蛇足」にある渡辺はま子の信念と行動力には頭が下がります。

投稿: Snowman | 2007年12月13日 (木) 11時23分

一つの名曲がこれだけの人達の運命を変えたのですから、素晴らしいと言うしか有りません。大統領に談判した方も渡辺
はま子も。そして英断を下した大統領も偉い。

投稿: M.U | 2008年6月17日 (火) 13時00分

巨人軍関係の人から聞いた話ですが、長嶋茂雄さんは
宴会で「モンテンルパ」が十八番だったそうです。

今、2番の歌詞を見て思うのですが、レコード化のために
レコード会社により補作されたのではないでしょうか・・
・・? 「岸壁の母」に似ています。


投稿: 時代オクレ | 2008年6月18日 (水) 22時58分

昭和43年の秋だったと記憶していますが、定かではありません。終戦から23年を経て日の丸の定期便がマニラに着陸しました。私は東京発の2便目担当でした。初めての町を歩いた時の何とも言い難い現地の人の目を感じ緊張したことを今も覚えています。モンテンルパが町の中心からさして離れていないのに驚かされました。この時には「渡辺はま子さんの上記の話」は承知していましたが、23年をへて・・ショックでした。それから30数年、マニラは楽しい町にドンドン変わっていきました。もうひとつ、シンガポールに着陸準備を終えて着席すると、「戦友の遺骨を抱いて」が私の耳に鳴り始めます、何故だか分かりません。この地も緊張して歩いた街のせいでしょうか。歌詞を探しているうちにこの頁にいきあたり、思わず記しました。

投稿: TK | 2008年7月 6日 (日) 02時37分

本日、NHKで「モンテンルパの夜は更けて 渡辺はま子と戦犯たちの物語」の再放送を見ました。
「モンテンルパの夜は更けて」はメロディーはよく知っておりました。
3番までの歌詞を聴いて涙が滲んできました。
戦後昭和24年生まれの私は、戦争が終わって生まれたと信じておりましたが、現実には戦争の爪痕は深く残っていたのですね。
趣味の二胡のレパートリーに加えたいと思います。

投稿: ひでお | 2008年8月12日 (火) 11時26分

子供の時に大好きな歌でしたが、何時しか耳にすることも無く、うろ覚えの歌詞とメロディーを残念に思っていました。このサイトで記憶がよみがえり、完全に歌えるようになりました。ありがとうございます。

2番の「呼子鳥」について、なぜカッコウまたはホトトギスが、そう呼ばれるようになったのでしょうか。何かいわれがあると思いますが、ご存知の方がいらっしゃったら、教えて下さい。

というのは、最近、偶然知った絵本に、呼子鳥の話があって、感動したからです。ざっとした内容は、ある動物(リスだったと思いますが)が、偶然瀕死の小鳥(カッコウだったと思いますが)を助けました。わが子のように可愛がって育てましたが、ある日、小鳥は巣を出たまま帰って来ませんでした。リス(母)は来る日も来る日も、遠く見渡せる事のできる木の上で、帰りを待っていましたが、願い虚しくついにカッコウの姿になって息絶えてしまいました。以来、カッコウを「呼子鳥」と言うようになりました。

これ、ほんとの由来でしょうか?

投稿: 吟二 | 2008年9月 3日 (水) 21時56分

カッコウまたはホトトギスと言えば、他の鳥(オオヨシキリ、モズ、ウグイス、ホオジロ等)に託卵する鳥ですね。私は自分で子育てをしないこの種の鳥(ジュウイチ、ツツドリも)を今まで好きにはなれませんでした。

呼子鳥のお話では育ての親はリスですね。「どこへ行ったの?」と心配しているうちに生みの親のカッコウになっていた。

ほんとの由来はわかりません。が、そういう習性を持った親鳥の悲しさが伝わってきました。

3番の歌詞と似ているのが有ったはず‥‥
見つけました。「異国の丘」の3番、『倒れちゃならない祖国の土に たどりつくまで その日まで』と、同じ気持ちが表されています。解説によりますと、これはシベリアに抑留されていた方が作詞したそうです。
捕われの地で家族を想う時、「ただいま帰りました」と、心の中で何度も繰り返していたのではないでしょうか。

投稿: 高木ひろ子 | 2008年9月 4日 (木) 21時03分

 何と悲しい美しい歌だろうか、日本人の心にジンと来るメロディですね。大統領は心のそこで死刑を避けたかったのかもしれません。渡辺さんに感謝しているのかも知れません。

投稿: 越野利栄 | 2008年11月28日 (金) 23時13分

終戦の年に生まれた者ですが、電蓄で母がよくSPレコードをかけていましたので自然とふるい歌を憶え、カラオケでも戦前戦後の歌を結構歌っています。特にこの歌は、当事者が作詞と作曲なので強く私たちの胸に響くのでしょう。戦争で得るものは何もありません、悲劇を生むだけです。この歌を歌うと、胸にこみあげるものがありますね。

投稿: 高校三年生 | 2009年2月22日 (日) 19時28分

この曲を作曲された伊藤正康氏が亡くなりました。
また一つ戦後が遠くなった気がします。
合掌。

投稿: 先人に敬意 | 2009年6月17日 (水) 17時45分

私はタクシーの乗務員です。私がこの話を知ったのは、4・6年前だったか私の車に老夫婦の方が乗って来られました。自宅のある所沢までお送り致しました。その車中での会話の中で、そのかたは吉田義人さんというお名前のかたで、日本で最初にオルゴールを作られた方だそうでした。渡辺はま子さんのモンテンルパの話を聞き、感動して自分に何か出来ることはないかと渡辺はま子さんを訪ねたそうです。この曲をオルゴールに出来ないか、と頼まれ3つ作ったそうです。渡辺はま子さんがこのオルゴールをみやげ代わりに当時の大統領であったキリノ大統領に聞かせたらこの曲はどういう曲かと尋ねられ、モンテンルパに収容されている戦犯の人達が故郷を思って作った曲です。と答えたら、キリノ大統領は感動して、私個人の権限では数人の人しか助けることが出来ないから
フィリッピンの国会にかけようと、言ってくれて国会で全員、日本へ帰還が決まったそうです。素晴らしいのは
キリノ大統領の家族、奥さんと娘さんは日本に殺されていたのに、私は残された家族の悲しみは身にしみて良く分かる。同じ悲しみを日本で待つ家族にあじあわせたく無いと言って助けた・・・・。
吉田さんは自分の作ったオルゴールがお役に立てた事だけで、それだけでいい誰にも知られなくとも。と話してくれました。吉田さんは御健在でしょうか気になります

投稿: 荒野の狼 | 2009年6月19日 (金) 00時41分

今さっきもんテンルパのドラマを見終わったばかりです
涙……涙……涙……
渡辺はま子さんのご尽力にあらためて頭が下がります
現実はドラマ以上にドラマティックなのですね
あまりに感動して久しぶりに投稿しました

投稿: くろかつ | 2009年9月12日 (土) 23時34分

フジテレビの【戦場のメロディ】を見たところです。
歌詞を確認するために、貴HPを訪問しました。
 ありがとうございました。
 戦争だけは、どんなことがあってもやらせてはいけないことです。
 歌手渡辺はまこさんの人間性に感動しました。

投稿: 井上 利昭 | 2009年9月13日 (日) 00時28分

わたしも先ほどフジテレビの「戦場のメロディー」をみたところです。
とても感動していろいろ知りたいと思い、このページにたどり着きました。

渡辺はま子さんすら知らない世代なのですが、こちらのページやみなさんのコメントからも様々なことが垣間見え、当時の状況や今でも癒えぬ悲しさに胸が痛くなりました。

これも戦争の爪あとと考えられる、北朝鮮による拉致被害者の方々にも胸を痛めているわたしですが、何もできず、ただただ渡辺はま子さんの信念と行動力に頭が下がります。
そして教誨師の加賀尾先生や事務方の植野さん、こちらのコメントで知ったのですがオルゴールを製作された吉田さん、その他様々な方のご尽力が身を結んだこと、
心に深く刻み込まれました。。。


投稿: ひぐちさゆり | 2009年9月13日 (日) 01時23分

フジテレビのドラマを見て、歌詞や曲をもう一度知りたいと思いこのページにたどり着きました。
昭和24年生まれですが、この、モンテンルパ刑務所のお話は初めて知りました。、渡辺はま子さん、加賀尾さん、キリノ大統領、素晴らしい方々です。戦争の悲惨さはドラマ以上なのだと感じ、戦争は絶対にあってはならないことだと改めて強く思いました。二木さんのこのページまた見させていただきます。

投稿: 齋藤 恭子 | 2009年9月13日 (日) 02時01分

昨夜フジテレビで放映された「戦場のメロディ」を見ました。戦前に生まれ戦中、戦後を生きてきた私は、涙をこらえることができませんでした。ラジオから流れる音楽は戦後、地方では唯一の娯楽でした。いずれも実話から生まれた「鐘の鳴る丘」や「ああモンテンルパの夜は更けて」は今も心に刻まれています。戦争は人命を奪い、郷土や財産を破壊するすだけでなく、傷跡はいつまでも消えません。
「MID歌声喫茶」から「二木紘三のうた物語」に生まれ変わった際、二木先生にお願いして収録していただいた「思い出のアルバム」を歌った孫娘も小学校2年生になりました。この子たちが再び悲しい日を迎えないことを切に祈ります。

投稿: 片柳 達 | 2009年9月13日 (日) 09時01分

こんにちは♪

昨夜我が家も家族皆で『戦場のメロディ』を観ました。
番組が終わってすぐ二木様のこちらで「ああモンテンルパ

の夜は更けて」を探したのですが寝ぼけ眼だったのか見
つからず(笑)他のサイトで渡辺はま子さんの歌声を聴

く事が出来ました。
強い意志そして信念が感じられる歌い方なんですね。

今朝もう一度こちらを覗きましたら、ありました!ありま
した。なが~い蛇足・・・ここにも二木様の思いが感じら
れます・・・。
そして沢山のコメントも~~!

私は戦後の世代です。母が渡辺はま子さんの「蘇州夜曲」
が大好きでよく歌っていました。今思うと母は渡辺はま子

さんの歌も然ることながら生き方がとても好きだったので
はないかと思います。

父から戦争の話を聞いたことはありませんでしたが、母は
よく戦時中の話をしてくれました。

しかしこの歌そのものも、歌にまつわる話や渡辺はま子さ
んのことも聞いたことはありません。

こちらに参加されている皆様のコメントがとっても胸に
響きました。

死刑囚救出のために多くの方々のご尽力もあったことでし
ょう。それにしましても「歌の力」「渡辺はま子さんの生
き方」の凄さ・素晴らしさ!!

しっかりと受け止めて生きていきたいと思います。


投稿: やまゆり | 2009年9月13日 (日) 11時18分

子供のころから唄っていました。歌の生まれる背景にこんな悲惨な事実があったとは・・・・。今になって知りました。TVドラマを見て二度びっくりです。涙 涙 涙でした。唄うたびに胸がジーンときて、声がつまります。いまこそ更に日本国憲法の精神を堅持したいものと意を強くしました。ドラマのDVDが発売されると良いですね。吉田義人さんは今でもオルゴールを製作されているのでしょうか。知りたいです。

投稿: 中林みのる | 2009年9月13日 (日) 15時27分

以前は渡辺はまこ子と聞いたら 子供の自分でも色っぽいおばさんて感じでみてました 昨日のテレビドラマで思いをあらたにしました 戦争時も含めてもこの当時は人の信念 真剣な思いを貫こうとする心にみちた時代でしたね それにくらべ現在は  現在の退廃がこのような歌をより心に染みさせますね

投稿: alude2500 | 2009年9月13日 (日) 19時55分

はじめまして。
何気なくつけたTVに引き込まれ、最後までみてしまいました。
曲は知っていましたが、背景などはまったくわかっておらず、恥ずかしい限りです。
渡辺はま子さんの強い気持ちにも、頭の下がる思いがしました。
国を、家族を想い犠牲になられた方々には、今の日本はどう、映っているのでしょうか・・・

投稿: さんたろう | 2009年9月14日 (月) 01時43分

「戦場のメロディ」、、、、耐え切れずに、泣きました。
ふと見ると台所の片隅で妻も、、、、
この曲は何度も聴いてたよく知っていたはずなのに、その裏側にこんなにも切ない事実があったとは知りませんでした。
僕は昭和21年9月1日、満州から命からがら父の故郷にたどり着き、翌年4月、無事に小学校に入学しました。
この物語はそれから随分経ってからの事なのですね、
渡辺はま子さんの、精一杯歌っている姿は忘れられません。

投稿: チロ | 2009年9月14日 (月) 04時49分

 日本と国交のなかった当時のフイリッピンの現状は、今の北朝鮮の拉致被害者返還問題と良く似ている様に思います。
 戦後の日本政府はフイリッピン政府に対し受刑者釈放請求を決して放って置いたわけではないでしょうが、請求に対し相手国から膨大な賠償を要求され、このかたくなさに、これではもうどうしょうもないと、ちょうど今の北朝鮮と同じ様なこう着状態が続いていたのだろうと思います。
 戦後間もなくは日本も政権がころころ変わり、そのトップは今では名総裁と呼ばれる方々ばかりですが、受刑者釈放当時の首相は吉田茂さんだったのではと思います。
 やはり今も同じ、真心のない口先だけの政治家の手腕ではどうにも出来ないことを代田銀太郎作詞、伊藤正康作曲のこの歌『ああ、モンテンルパの夜は更けて』を渡辺はま子さんが歌い、受刑者たちが歌い、ついにこの、たった3分間の歌の心に相手国のトップのかたくなな心が融和し、全員釈放へと動かされたのですから歌の力は凄いですね。
 北朝鮮もこの方法で何とかならないものでしょうか。
この歌や『異国の丘』の二番煎じ三番煎じで、この前解放された方々に作詞・作曲をしてもらい、この方たちが作詞や作曲の能力がなければこれを広く日本国民から多額の懸賞金をつけて募集したらいいと思います。
 意外とうまくいくかもしれません。では・・・

投稿: 文無しルンペン | 2009年9月14日 (月) 23時03分

私も皆さんとご同様、テレビでモンテンルパの物語を見て、もう一度歌を聴きたいと、検索でこのページにたどり着きました。感激です。
「ああモンテンルパ....」も含めて、子供時代に意味もわからずに歌っていた歌を次々と発見、その頃の記憶がどんどんわき出てきて、ぼうだ(漢字がわからん)の涙を流しました。ほんとうに久しぶりに気持ちのよい涙を流しました。
二木先生、ありがとうございました。

投稿: 夕焼けトンビ | 2009年9月15日 (火) 00時55分

私も「戦場のメロディ」を見て涙、涙、涙でした。
このように多くの方がコメントを寄せられたことにも感動します。
この歌を歌われた渡辺はま子さんらの英雄的な行為にも感服するのみです。
一人の歌手とその歌がこれほどの“奇跡”を生み出すのでしょうか。
ヒーロー(英雄)がいなくなった今では考えられないような“伝説”だと思います。

投稿: 矢嶋武弘 | 2009年9月15日 (火) 06時22分

録画していた「戦場のメロデイー」を昨日見て、皆様と同じく感激しました。実は数年前にフィリピンへ行ったときにモンテンルパ刑務所も訪れました。そのときは、恥ずかしながら、この刑務所や「ああモンテンルパの夜は更けて」の経緯など知らずにいました。今回、この名曲のいきさつを知り、また歌手渡辺はま子の「自分には歌うことしか出来ない」との言質に感動しました・・・このドキュメンタリーに出てくる実在の人物を見て事実のもつ重みを感じました。

投稿: エスペロ | 2009年9月15日 (火) 07時35分

「戦場のメロディ」観ました。
土曜日の夜から書かせて戴こうと思いながらも、
胸がいっぱいで思いがまとまらず、布団に入ってからも涙、涙・・
書きそびれていましたが、解説に書かれてる方々、本間さんのこと等皆さんと同感です。
吉田義人さんのその後のことは、以前ネットに載っていたのですが、
今回、探しても見つかりません。確か・・

歌がヒットしたために帰国されなかった「岸壁の母」も胸が痛みます。

投稿: なち | 2009年9月15日 (火) 12時37分

歌は違いますが、藤山一郎の長崎の鐘に共通した物を憶えます。先生が別の歌で述べておられる「そうしたことを追求していった結果が、多くの人びとから愛する者や、楽しかるべき子供時代を奪うようなものなら、誇りも威信もいりません。三等国・四等国でけっこう。芸術や科学、スポーツで成果を上げれば・・・・・・」
おっしゃる通りですね。

投稿: 海道 | 2009年9月16日 (水) 17時14分

私は昭和6年生まれの戦中派です。この歌の存在は知っていましたが、作詞、作曲が死刑判決を受けた元大尉とは知りませんでした。渡邊はま子さんや大統領のお陰で、日本に帰れたのは良かったですね。それにしても戦争とは悲惨なものです。

投稿: 三瓶 | 2009年9月18日 (金) 19時11分

私の知っているおじさんの口癖は「シナの人たちにはひどい事をした」でした。22,3歳で兵士として中国に行き、おそらく人間として、してはいけない暴虐を当たり前のこととして過ごしたのではないでしょうか。それを何十年経っても自分の罪として、生きているのです。詳しい事は一切話しませんが、思い出しては苦しんでいると思います。戦犯にはならなくても、生きている限り苦しむのだろうと思います。
問題は純真無垢の青年に残虐を命じた人たちです。彼らは手を汚さずに、命も落とさずに,政界に復帰した者もいます。そして今も兵器を作りそれを売り、大金を懐に入れている人間がいる事です。彼らは何の罪にもならないのです。それを誰も咎めません。不思議な世の中です。誰をもって戦犯とするか、よく考えてみてほしいのです。「死の商人」こそ最大の戦犯です。

投稿: ハコベの花 | 2009年9月22日 (火) 21時04分

郵政民営化といえばわーっとそっちへ、政権交代といえばそれーっとこっちへ。
大東亜共栄といえば一億火の玉となって突っ走っても不思議ではなかったと思わせます。
軍部の言論統制・弾圧だけに責任をおっかぶせられない気さえします。
戦争となれば双方に残虐行為があった筈ですが、負ければ戦争責任を一方的に押し付けられることも有りうることは、証拠など示せずとも自明の理です。
戦犯となった者には様々の事実があったであろうことを知った上で、囚われて刑に服しているものが故郷をしのび、母を慕う・・・この人間として当然の思いまで誰が否定できるでしょう。
矛盾だらけの世の中、人生。だからこそ歌が生まれ、人は涙して歌うのではないでしょうか。

投稿: 周坊 | 2009年9月23日 (水) 11時37分

周坊さんの意見に同意ですね。ここのサイトは人生におけるこころの機微を歌を通して和ませる場とおもっています。しかも選曲も私にとって魂の歌ばっかりです。応援歌であり 癒しであり こんな素晴らしいサイトを立ち上げられた管理人さんにほんとうに感謝です。

投稿: alude2500 | 2009年9月23日 (水) 14時49分

二木様、
10年ほど前に私は愛知県にある三ヶ根山という山を訪れました、そのときそこがフィリピン方面の戦争犠牲者の慰霊地になっていると案内されました、今でいうボランティアというのでしょうかその方から教えられたのですが、先の戦争の戦死者の多くがフィリピン方面であったこと、さらにこのエピソードを歌を添えて教えてくれました、そのときの自分の涙は覚えています、フィリピン大統領や国民に感謝しました。
はじめて聞いた歌なのでメロディーはよく記憶することができませんでした、探してここにたどりつき全曲を確認できました、二木様ありがとうございます。
テレビ番組は子供にも強制的に見せました。

投稿: 山崎 | 2009年9月25日 (金) 00時31分

私の子供の頃に流行った歌でしたが.テレビで この歌の誕生のいきさつを知りまして 思わず 涙が出てきました 自分がこの歳に(73才)なるまで知りませんでした 想い出しては このサイトで 曲を聴かせていただております 二木様 有り難うございます。
   戦争の むなしさ を 再認識しました。

投稿: 高橋 治夫 | 2010年3月 6日 (土) 11時47分

《蛇足》の末尾に、「2番の呼子鳥はカッコウまたはホトトギスのことです。」と書かれているのを目にしました。私のかっての在の隣町に〔呼子〕という町があります。そこは、豊臣秀吉が朝鮮の役で出城を築いた肥前・名護屋のそのひとつ東側の入り江の町です。今では、朝市で全国的に知られています。その地を、地元では「よぶこ」とも「よびこ」とも言っていたようです。「ああモンテンルパの夜は更けて」での子が母を想い母が子を案じる姿を、流れてくる歌に重ねて誰しも涙したと思います。〔呼子〕の地名はいつの頃からあったのかは、知るすべが見つかりません。息子を呼ぶ母の姿か、それとも海鳥からか。幾多の雑兵が朝鮮の役で戦死したり未帰還になったりしたことは史実でうかがえます。息子や夫の消息を知りたくて、多くの母親・肉親がこの地にやって来たことは想像できます。足の踏み場もないほど、武将の陣屋で固められた名護屋へは容易に入れなかったとすれば、母御・女房たちはその手前の岬で海に向かって、わが子わが夫の名を呼びつづけたと思い描くのは「岸壁の母」的でしょうか。その場所を〔呼子〕と名づけたと考えるのは勝手な解釈でしょうか。秀吉や大名・武将、朝鮮の役そのものへの怒りよりも、わが子・わが夫への想いが先にたっていたものと思います。「ああモンテンルパの夜は更けて」は、〔呼子〕と共通する母の心情が的確に歌い込まれていると思っています。

投稿: 山口 功 | 2010年3月 8日 (月) 13時47分

皆様
戦争と平和問題についての論争が激しくなったので、コメントの受け付けを一時停止していましたが、いちおう冷却したようなので、再開します。当サイトは、あくまでも歌が基本テーマであるということをお考えのうえ、ご投稿願います。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2010年3月12日 (金) 03時57分

小生が銀行勤務の定年まじかの頃、フィリピンに現地法人をもつ会社に招聘され、この現地法人を訪問した時のことです。現地の責任者がゴルフをセットしてくれました。
マニラから1時間ぐらいのゴルフ場で日本国内しかプレイ経験のない小生にとっては、いくつのカルチャーショックがありました。3人でプレイしたのですが、コースが空いている事・暑いこと・キャディーが4人つく事でした。3人のキャディーは日傘専用で、プレイ中影のように寄り添って日除けをしてくれました。キャディーとは名ばかりでボールの行方も全く関心がなく、ただ、一緒にコースを散歩している感じでした。
跡で聞いた事ですが、このキャディーは朝早くから並んで当日の仕事に応募するそうでⅠ日の手当ても日本円で700円程度とのことでした。また、ゴルフ場の場所もモンテンルパに近いとの事でした。モンテンルパと聞いててこの歌を思い出し、改めて今ある平和の有り難さを感じました。


投稿: タケオ | 2015年3月12日 (木) 19時45分

何時もカラオケをやる時、真っ先に歌う曲です。フィリピンに仕事に行っていた時、この歌の事を思い出し、ピリビノ刑務所の側にある日本軍の慰霊碑にお参りしました。モンテンルパの街は近代的な町です。私の父は14軍の本間雅晴中将の下で海南島からフィリピン、最終はチモールで終戦を迎えて復員してきたそうです。悲しい歌ですが、また慰霊碑の前で歌ってきたいと思います。

投稿: トラ | 2017年3月19日 (日) 20時46分

私を含めて、この歌のコメントは渡辺はま子のことばかりです。一緒に歌った宇津美清の心情や、デュエットすることになったいきさつも、どなたかが触れてあげなればいけないと思い、ネットで調べましたが、出てきませんでした。彼ははま子とフィリピンへ慰問に行ったことはあるのでしょうか。フィリピンでははま子はデュエットでなく、ソロだけだったのでしょうか。

どなたかご存知の方がいらっしゃったら教えて下さい。

投稿: 吟二 | 2017年3月20日 (月) 20時39分

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