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宵待草

(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:竹久夢二、補作:西條八十
作曲:多 忠亮、唄:高峰三枝子 他

1 待てど暮らせど 来ぬひとを
  宵待草の やるせなさ
  今宵は月も 出ぬそうな

2 暮れて河原に 星一つ
  宵待草の 花の露
  更けては風も 泣くそうな

《蛇足》 竹久夢二は、数多くの叙情的な美人画とともに、約180篇の詩、約430首の短歌のほか、150あまりの小唄などを作っています。

 『宵待草』は明治45年(1912)に作った小唄で、大正2年(1913)発行の彼の処女詩集『どんたく』(実業之日本社)に掲載されました。
 大正7年
(1918)、東京音楽学校(現・東京芸大音楽学部)でバイオリンを学んでいた多忠亮(おおのただすけ)が、この詩に感動して曲をつけました。その楽譜が出版されると、『宵待草』はまたたく間に全国に広がり、多くの人々に愛唱されるようになりました。
 上の絵は『宵待草』の楽譜の表紙絵。

 夢二が亡くなってから4年後の昭和13年(1938)、夢二人気に便乗して『宵待草』という映画が企画されました。その際、3行詩だけでは映画の主題歌としては短すぎるということで、夢二と親しかった西條八十が2番の歌詞を作ることになりました。

 八十は最初、2番の2行目を「宵待草の花が散る」としていました。
 しかし、宵待草の花は、散らずに、茎についたまましおれるのが特徴です。それを人に注意された八十は、のちに上のように詩を変えました。
 八十は抒情詩人として出発しただけに、このフレーズも美しく、1番ともよくマッチしています。いきさつを知らなければ、夢二が2番とも作ったと言われても、疑う人はあまりいないでしょう。
 しかし、どういうわけか、今日まで2番が歌われることはほとんどありません。

 さて、夢二の3行詩ですが、この成立には、1つのエピソードが残っています。

 明治43年(1910)、夢二は千葉県・銚子の海鹿島(あしかじま)海岸で一夏を過ごしました。そのとき、成田町から避暑にきていた長谷川カタと恋に落ち、ふたりは逢瀬を重ねます。カタはつぶらな瞳の美しい女性だったといいます。
 まもなく夏は終わり、二人はそれぞれの住所に帰りますが、文通が続きました。
 カタから夢二への手紙には、

 月の下にそぞろ歩きし真砂路、涼風に相語りし松原、忘れがたうのみ過ごし居候。ことしはおもひもかけず御陰様にてたのしき夏をおくり申し候……。
 
(追伸)おひまもおはし候はば御手紙いただき度候。
       
成田町成田十九(現在の田町)長谷川賢子(カタコ)

 とあり、夢二の片思いでなかったことははっきりしています。
 夢二の日記には、彼がその後何度か成田を訪れたことが記されています。

 翌年の夏、夢二は再び海鹿島を訪れます。しかし、そこにカタの姿はありませんでした。彼女はすでに作曲家の須川政太郎に嫁いで鹿児島へと去っていたのです。
 それを知ったときの夢二のやるせない気持ちが凝縮されたのが、この3行詩というわけです。

 夢二は実に「恋多き男」でしたが、カタも「恋多き女」だったかもしれません。当時、夢二には岸たまきという内妻がおり、カタは、醜聞を恐れた親の意向で嫁いだとも考えられます。その一方で、突然現れた魅力的な相手にカタが惹かれてしまったという可能性も否定できません。
 いずれにしろ、カタ亡き今、真実を知るすべはありません。

 宵待草はアカバナ科のオオマツヨイグサのことで、この歌がはやるまでは待宵草というのが普通でした。北アメリカ原産の帰化植物で、夏、茎頂や葉腋に黄色い4弁の大きな花をつけます。よくツキミソウとまちがって呼ばれますが、本来は別の種類です。

 高峰三枝子のほか、李香蘭、五十嵐喜芳、倍賞千恵子など、多くの歌手が歌っています。

(二木紘三)

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コメント

はじめまして。祖父須川政太郎の検索をしていて、祖母須川カタこと長谷川カタのことが書いてある二木さんのサイトにお邪魔させていただきました。私は子供の頃カタと一緒に住んでいましたが、外には殆ど出ず、いつも「リーダーズダイジェスト」を直径10センチほどもある虫眼鏡(?)で読んでいた姿が印象的でした。口数は少なく朝起きると長い髪を丁寧に何度も梳り綺麗に束ねて頭の後ろにピンで留めていました。カタの娘である母からも、母の妹の叔母からもカタが「恋多き女」であったという話は聞いていませんので二木さんのイメージとは少し違うように思います。
祖父須川政太郎は私が保育園の頃なくなったので余り記憶は残っておりませんが、とても優しかったことだけは覚えています。政太郎がピアノ科ではなく声楽科卒であったことを数年前に知り 50の手習い(?)で、今年からコーラスを始めました。ひょってしてDNAを受け継いでいるかと思いましてね(笑)。おしゃべりが長くなりましたが、またお邪魔させていただきますね。余談ですがカタ(タカではありません)はカタコ(賢子)と呼ばれるのが好きではなく、子をとってカタを使うことを好んでいました。

投稿: 太田暁子 | 2006年9月 7日 (木) 11時04分

太田暁子様
タカはうっかりしました。さっそくカタに修正しました。

「恋多き女」は、「浮気っぽい女」というのとは違います。行動するか、心の中にとどめておくかにかかわらず、いつも誰かに本気で恋している女性のことだと私は考えています。
「恋多き女」には、魅力的な女性が少なくありません。平塚らいてふ、伊藤野枝、佐々城信子、福田英子、ジョルジュ・サンド、シュザンヌ・ヴァラドン、エディット・ピアフなどは、いずれも「恋多き女」でした。

長谷川カタが実際に「恋多き女」だったかどうかはわかりませんが、晩年に至ってもリーダース・ダイジェストを読み、身だしなみに気を配っていたとお聞きすると、聡明で魅力的な女性だったという印象がいっそう強まります。
(母親が自分の娘に、「私は恋多き女だったのよ」と語ったり、その娘が自分の娘に「おばあさまは恋多き女だったのよ」と言ったりすることは、普通はないと思いますが……)。

投稿: 管理人 | 2006年9月 7日 (木) 23時38分

その通りですよね。そして「恋多き女」にそういう意味があるのだとは嬉しい発見でした。ただ母たちも周囲からの情報と自分たちの直感から判断しているのだと思います。一説に当時夢二は結婚していてカタのこと、世間体を気にして父親が早々に見合いをさせ祖父の政太郎と結婚させた、ということを聞いて、カタは思いを抑えて夢二と別れたのでは、と思っています。そう考えればカタの一途な思いは切なく,儚く、けれど私には輝いて見えます。
カタは家事や子育てには疎く子供たちの面倒や庭の草花の手入れは子煩悩な政太郎が殆どしていたそうです。そういえば、カタが子供をおんぶしている写真を見るとしっくり来ないというか、ぜんぜん似合わないのです。
私事になりますが、そんな両親に育てられた私の母も感情表現の下手な、何事も耐え、口数は少なく黙々と人生をすごしてきたように思います。私が二十歳のときに父親が他界し、それからは本来持っていたものを少しずつ出し始め84歳の今では元気に自分のやりたいことに専念しています。
「宵待ち草」の歌に戻りますが2番があることは全く知りませんでしたので、これもまた嬉しい発見です。それにとても素敵な歌詞なんですね。この発見から「あるひとつのこと」を思いつき実行してみようかと思っています。実現したときにはまたお知らせします。ありがとうございました。

投稿: 太田暁子 | 2006年9月 8日 (金) 10時09分

 たとえば、竹久夢二が描いたような嫋々たる美人が、この私を「待てど暮らせど…」と待っていてくれたとしたら。私なら、そんなに待たせはしません。飛んで逢いに行きます。でもそれでは、この歌の情緒が台無しですね。
 ところで今年の成人式の夜。あるテレビ局の報道番組で、「あなたにとって大人とは?」という街頭インタビューをしていました。その中で、高校生と思しき若者が、「うーん。そうですねえ。…忍耐出来る人かな」と答えていたのが、印象的でした。彼は、両親の姿を思い浮かべてそう答えたのでしょう。そして彼にとって両親は、尊敬できる人なのでしょう。
 すべてスピード化、加速化のこの時代。我が国の電車のダイヤは世界に類を見ないほどの過密さ、正確さなのだそうです。通信手段も驚異的な発達を遂げ、今や「恋文(ラブレター)」などは死語と化し、ピッピッと携帯やメールで互いの想いを軽いノリで瞬時に取り交わせます。
   堪へることのよさ、
   堪へることの切なさ、
   堪へることの切なさに、
   うちまかせた心の苦しさ。 (深尾須磨子「春の夕べ」より)
 時には『宵待草』を聴きながら、「待つこと」「堪えること」の持つ意味を静かに考えてみたいものです。

投稿: 大場光太郎 | 2008年9月25日 (木) 00時16分

こんにちは
いつもお世話になっています。

数年前のこと
銚子電鉄に乗って海鹿島(あしかじま)まで行ったのですが
駅前の地図を見ながら歩くと
国木田独歩の碑のほうは簡単に見つかりましたが
宵待草の碑は見つかりません。

途中の案内が全くないのです。

あきらめて帰ろうと思いましたが
めったに来れるところではないと考え直して
小道という小道をしらみつぶしに歩くと
やっと見つかりました。 半日かかりました。

文京区の菊坂下の樋口一葉の井戸も
やはり付近の案内がなくて
簡単には見つからないようになっています。

おそらく近所の住民たちは
見学者が自宅の付近をうろうろと歩かれるのは
好まないからでしょう。

竹久夢二 好きになったり嫌いになったりの私ですが
こういう日本人がいてもいいと思うようになりました。
宵待草の曲はいい曲ですね。

投稿: みやもと | 2011年11月28日 (月) 21時42分

人はなぜ幾つになっても溢れるような切なさに苦しむのでしょうか。その時、宵待草の歌が口をついて出てくるのは何故でしょうか。現実逃避と笑う友人もいますが、その人は恋をしたことがありません。過ぎてしまった恋に涙するなんておかしいのでしょうか。夢二に心のうちをきいてみたい気持ちがします。

投稿: ハコベの花 | 2011年11月30日 (水) 22時46分

この歌を聴くと、悲しくて苦しかった、30代を思い出します。
この歌も、スザンヌハードのアルバムの中に、英語で入っています。
CDグラフィックスのカラオケには、1番の歌詞を2回、繰り返して書いてありましたが、点字のカラオケの歌詞ブックを見ると、八十の歌詞が書いてあったので、あれ?2番もあったんだと言う事に感動しました。
それ以来、カラオケで歌っています。
何かせつなくなった時に、こんな歌を聴くと、涙が出て来ます。

投稿: 殿川 | 2012年10月 9日 (火) 14時55分

 「宵待草」の二番のこと、カタとのロマンス、そうしてお孫さんによる思い出と、このブログならではのすばらしいページです。竹久夢二は専門の文学史家や美術史家によって必ずしも第一級の芸術家とは評価されていないようですが、この詩一篇だけでも不朽の詩人だと私は感じます。
 ところで私が夢二のことを美人画家、抒情詩人だと知ったのは成人してからで、それまでは、童画童謡作家とおもっていました。生家のがらくたを積み上げた一画に明治末期から大正時代の少年向け古雑誌があって、それらから切り抜いて綴じて「ムギブエ」と題した冊子(亡父の少年時代の仕業らしい)に、夢二の詩画のページがたくさんあり、私と兄弟がそれを現代風に意味を考えて朗読すると、祖母に「読み方が違うよ」と注意されたのを思い出します。伯父たちは単調に、同じ節で歌うように、読んでいたようでした。わたしたち家族に一番人気のあったのは、紺絣の十歳ぐらいの坊主頭が腕組みして地面の大根を眺めている画のついた、次の詩でした。

   わたしの親は実の親
   ついぞわたしを憎まねど
   なぜかわたしは気がすまぬ

   裏の畑に出てみれば
   今日も今日とてからからと
   さいかちの実の鳴りいづる

   毒消し売りの末の娘(こ)が
   赤い毛糸をやると言ふ
   それも大方うそであろ

   畑の中に転げたる
   二股大根(だいこ)のろくでなし

   さびしいけれどわしゃ男
   なんで悲しいことがあろ

 思い出して誦する度に、昔の童謡童画は幼稚なものではなかった、と感じます。(この詩は単行本「夢のふるさと」に「浦の菜園」として採録されていますが、重要なところで異同があります。「ムギブエ」に綴じられたほかの詩の多くが「どんたく」に採録されているということも最近知りました)
 夢二は榛名を愛し、ここに産業美術研究所を建設することを夢見て、果たさずに死にました。伊香保には充実した竹久夢二記念館があり、榛名湖畔には素朴なアトリエが復元されています。「湖畔の宿記念公園」に隣接していますので、記念公園を訪れて懐かしい曲を聴き、チャイムを鳴らした方は、ぜひ立ち寄られるとよい
と思います。

投稿: dorule | 2013年1月26日 (土) 12時25分

何時も楽しく拝聴しています、二木様の造詣の
深さに、唯唯、感じ入っております。
 先日、夢二の展覧会を見る機会が有り、あの儚げな
美人画が夢二の真髄かと、勝手に解釈していましたが
抽象画も多くあり・・・意外でした。まあ、小生の認識不足で恥ずかしい限りですが。
 ただ 宵街草の歌詞の中で、今宵は月も出ぬそうな
と有りますが、、原画に書かれた肉筆では
 今宵ハ(はでなくハ)月も出ぬそうな。と成っておりました、色々歌詞を調べてみましたが、みんな は
でした、原画のハわ、非常に小さく、しかも時間の経過で、極めて薄く見逃しそうですが、何だか大変、気に成りまして、お尋ね申します。
   原  正 2014/9/05{金曜日}7時30分

投稿: 原  正 | 2014年9月 5日 (金) 19時34分

原 正様
夢二の「今宵ハ」は、漢詩の送り仮名の癖が出ただけではないでしょうか。
漢詩・漢文を日本語む場合、初心者でも読みやすいように、返り点(レ点、一二点)は本文の左側に、送り仮名はカタカナで右側に、それぞれ小さく添えます。
例えば杜甫の絶句の1行目「江碧鳥愈白」に送り仮名をつけると「江ハ碧ニシテ鳥ハ愈ヨ白ク」となります(ここでは送り仮名を小さく表記できないので、本文と同じ大きさで書きます)。ただし、この絶句では「江碧ニシテ鳥愈ヨ白ク」と助詞をつけない読み方もあります。
そのようにして書かれた夢二の原詩を映画の主題歌にするに当たって、普通の歌詞のように「今宵は」と助詞をカタカナから平仮名に変えたのではないでしょうか。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年9月 5日 (金) 22時41分

お忙しい処、早速のご解説を頂き、感謝に堪えません。表現が適当かどうか判りませんが、腑に落ちました。  長江の流れは、今も碧なのでしょうか?中国の変貌ぶりには目を見張ります、惜春と望郷の念は、時代を超え、国を超え、相通じるものが有るようです。 魚の目に泪、日本語も、かっては 美しかったと思います。
 有難うございました。
  追伸 宵待草が誤変換でした、訂正します。

投稿: 原  正 | 2014年9月 6日 (土) 17時14分

「待てど暮らせど来ぬ人を」と思いながら川岸に咲いている宵待草を眺めています。その人はもう永遠に戻れない黄泉の国の人になっているかも。本当に帰らない人に・・・淋しい事です。人を想う淋しさは自分の失った青春の日々のすべてかも。私の悲しみを誘うように宵待草が咲き始めました。

投稿: ハコベの花 | 2016年5月25日 (水) 16時20分

 二木先生

  こんばんは

 サッカーの試合観戦のため 夜長している
   昨夜??  今朝??
 何気なくチャンネルをまわしていると

  夢二  愛のとばしり

    に眼が留まりました

  竹久夢二氏の 多彩な芸術性 能力 人としての葛藤
     など 興味深くみてしまいました

 僕の出身校の前身 ーー中学に入学され  一年弱は在籍されています   
  しかし 一般に 女性遍歴は有名で  卑猥に おんなーーー 
   等ともいわれかねない
 面をおもちだったと思うと  書いてみたいけれど 何か 恥ずかしく  
  触れたくないというような気にもなり コメントしてなかったです  
 あまり 先輩ですとは いいにくい ということかな
 白洲次郎さんなら  先輩です と大きな声で言えるのですがーーー


 長谷川賢子氏の お孫さんの投稿まであり
    あまり感情のまま かけないなと思いつつ


 竹久夢二氏のような 評価される異能があり
  次から次に 夢見る女性がおいかけてくる
   もちろん 彼も恋多き人であったのですが
   異状ともいえる嵐 (社会状況 社会興奮)
    のなかにまきこまれたら
    人としての 安定を維持することの難しさ

    よくわかる気がします

  人は 平々凡々 狭い世界で ゆっくり生きれるのが 最もよいのでしょうね

  もちろん 人間のことですから
   これもしたかった ここも行きたかった  と
      欲はありますよね

 でも 恵まれすぎると 大半 次にくるのは 堕落ですね
    「ほどほどに 吾 足るを知る」  

  こうありたい と反省しきりです

  どう 逆立ちしても  どう 解釈しても
   のこり少ない この人生

  今までの日々に  感謝し 反省し
     すごしていきましょう

  でも  「今の君に会いたい」 方々
               多いです  

  (「今の君に会いたい」 というのは
  都はるみさんの  古都逍遥  の歌詞です)


 また あこがれさまが 二寧坂 産寧坂
  にある 竹久夢二の碑 にふれられていましたね

 その碑 の裏の店には「港屋」の看板が掛けられています 
(夢二は 30歳の大正3年(1914)
  東京の日本橋呉服町に「港屋絵草紙店」を開店しました
  夢二は、その店に来店した彦乃と出会うことになったのです 
 その時の「港屋」の名がここにも使われたのでしょう)  

  現在の「港屋」は 
 京都に移り住んだ夢二と彦乃がしばらく同棲した
     寓居跡に建つ 夢二の専門店「港屋」です 


 偶然のことで驚くのが 祖父が 西神戸でやっていた
  米販売業  質業 の屋号が 「港屋」

 西宮の藤尾医院のとなりで やった 質屋も 「港屋」

   何らかの 縁 を感じます


 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年6月24日 (日) 23時46分

兵庫県の備前から岡山 西大寺に抜ける瀬戸内の海や小島を眺めながら走る、ブルーラインというバイパス道路があります。
海に面してやや高台を走る為、松林の中を抜けながら走る感がありますが、林のとぎれた高台からの眺めは、まさに絶景(瀬戸の花嫁でコメント)5~6kmごとに林を切り開き瀬戸内の海に面して、道の駅が何カ所かあり地元特産の果物や飲み物を頂きながらの格好の休憩所です。茹でた蝦蛄(シャコ)も名産品です。

そこから、岡山市内に入る途中の瀬戸内市 邑久ICで下車して7~8分のところに竹久夢二が16才まで過ごした生家があります。背丈程の土塀に囲まれた茅葺き屋根の典型的な農家風な家屋と わりにゆったりと広い庭に待宵草が植わり「宵待草」の曲に合わせるように、風に揺られている様は、いかにも 大正ロマン夢二の たおやかな美人画を思わせるようで、風情がありました。

そこから、すぐのところにアトリエみたいなところがあり、そこで絵はがきや壁掛けみたいなものを 数点買い求め
当分の間、自宅でカミさんが 自分の体型と比較しながら溜息をついて眺めていましたが・・・及ばぬことと~あきらめました~。今は、それらも埃をかぶって棚の中でしょう。

そこから、車で20~30分のところに、東洋のエーゲ海といわれる「牛窓」があります。(月見草の花でコメント)

この沿線での思い出は、楽しいことばかりで尽きることがありません。
いくつになっても、名曲とロマンを求めて旅に出たい気持ちはおさまりませんね。

投稿: あこがれ | 2018年6月25日 (月) 12時30分

私はこの歌を聴くと16歳に戻ります。初めて宵待ち草(月見草かも)見た日です。天竜川の河川敷に黄色の可憐な花が咲いていました。恋の入り口に入った年です。
今、振り返るとあの天竜川の土手を夕闇に包まれながら、あの少年と歩いたら良い思い出になっただろうと思います。三つ編みの髪を上にあげて、白いほっそりしたうなじを見せ、藍色に染められた浴衣を着て、帯はもう三尺ではなく半巾帯になり、赤い鼻緒の桐下駄を履いて静かに未来を話しながら歩いたら、どんなに人生が変わったことだろうと思います。見つめあっただけで終わってしまった初恋を、この歌を後悔と共に聴いています。

投稿: ハコベの花 | 2018年6月26日 (火) 10時58分

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