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イムジン河

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:朴世永、作曲:高宗漢、日本語詞:松山猛、唄:ザ・フォーク・クルセダーズ

1 イムジン河水清く とうとうと流る
  水鳥自由にむらがり 飛び交うよ
  我が祖国南の地 想いははるか
  イムジン河水清く とうとうと流る

2 北の大地から南の空へ
  飛び行く鳥よ 自由の使者よ
  誰が祖国を二つに分けてしまったの
  誰が祖国を分けてしまったの

         (間奏)

3 イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ
  河よ 想いを伝えておくれ
  ふるさとをいつまでも忘れはしない
  イムジン河水清く とうとうと流る

《蛇足》 昭和43年(1968)、レコードの発売直前に突然発売が中止されたという伝説のフォークソング。その間の事情を日本語詞を書いた松山猛は、次のように語っています(『少年Mのイムジン河』木楽舎―など)

 松山が中学生だったころ、京都では日本人の中学生たちと朝鮮中級学校の生徒たちは、校外で出会うたび、ケンカを繰り返していました。
 そうした不毛の争いを情けなく思っていた松山は、サッカーの対抗試合で理解を深め合おうと、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行きました。

 相手側の生徒と話し合いをしているとき、美しい女声コーラスが聞こえてきました。曲名を訊くと、『イムジン河』という北朝鮮の歌だとのこと。これが松山にとって『イムジン河』との最初の出会いでした。

 そのころ、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いていた松山は、思い切り音が出せる九条大橋で練習していました。そこで知り合ったのが、やはりサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君。
 彼と仲よくなった松山は、『イムジン河』を教えてほしいと頼みました。数日後、M君は、譜面と朝鮮語の歌詞、1番の日本語訳をメモしてきてくれました。それには、朝日語小辞典も添えてあったとのことです。
 しかし、このときは、きれいな歌を覚えたというだけで終わりました。

 やがて松山は成長し、京都の広告代理店でグラフィックデザイナーとして働き始めました。さまざまな文化運動に接するするなかで、彼は、学生フォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバー、加藤和彦、北山修などと親しくなりました。

 昭和42年(1967)、デビュー曲『帰ってきたヨッパライ』で一世を風靡していたザ・フォーク・クルセダーズは、第2弾を模索していました。
 そこで、松山は中学時代の思い出の曲『イムジン河』を提案したのです。メンバーはその曲が大いに気に入り、加藤和彦が編曲して詩情豊かなフォークソングに仕上げました。

 試しに深夜放送で何度か流したところ、聴取者の反応が非常によかったので、契約していた東芝音工(現在の東芝EMI)から発売されることになりました。
 昭和43年
(1968)2月、シングル盤13万枚のプレスが済み、いざ発売というときになって、東芝音工は突然、メンバーに発売中止を通告してきました。
 「政治的配慮から発売自粛となったので、我慢してくれ」という以外に、メンバーには何の説明もなかったといいます。
 同時に、放送局の自主規制により、ラジオ・テレビでも流されなくなりました。

 あとになって次第にわかってきたことですが、その曲の発売を聞いた朝鮮総連の関係者から強い抗議があったといいます。抗議のポイントは、作詞・作曲者名の表示がない、訳詞が原詩に忠実ではない、の2点。

 関係者はだれも曲の由来を知らず、朝鮮民謡だと思っていたので、作詞・作曲者名を表示しませんでした。しかし、実は作詞には朴世永(パク・セヨン)、作曲には高宗漢(コ・ジョンハン)というれっきとした作者がいたのです。
 朴世永は北朝鮮の国歌に当たる『愛国歌』書いた高名な詩人であり、高宗漢も有名な作曲家でした。

 北朝鮮側は、発表するなら、朝鮮民主主義人民共和国の誰々が作った歌と、はっきり表記すること、原詩に忠実な訳詞にすることを要求してきました。
 第2点については、突っぱねることも可能でした。原詩に忠実な訳詞でなければならないとすると、日本語で歌われている外国曲の大半は歌えないことになってしまうからです。

 しかし、第1点の処理は困難でした。朝鮮総連の姿勢は、今からは考えられないほど強硬でしたが、朝鮮民主主義人民共和国とレコードに表記するのははばかられました。
 その理由は、日本は北朝鮮とは国交がなく、国家としても認知していないということのほかに、親会社の東芝の意向があったからと言われます。

 これはあくまでも噂ですが、当時、東芝は韓国に進出し、経済的関係を深めていました。当時の韓国は、日本に北朝鮮の歌が広まることを快く思わず、まして朝鮮民主主義人民共和国という国名が表記されることは受け入れられませんでした。
 そこで、韓国大使館が東芝を通じて子会社の東芝音工に圧力をかけた、というのです。

 ともかく、どう処置してもトラブルを防げそうになかったので、東芝音工は、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと製作関係者に因果を含めて発売中止にしました。今は昔の物語です。

 現在はもちろん、放送で流すのに何の支障もなくなっています。ちなみに、2001年のNHK紅白歌合戦では、キム・ヨンジャが歌いました。

 イムジン河は漢字で書くと「臨津江」で、北朝鮮の読み方ではリムジンガンとなります。北朝鮮の北緯39.2度付近を水源とし、北緯38度線を越えて韓国に入り、河口付近で漢江(ハンガン)と合流して黄海に注ぎます。

 原詞を挙げておきましょう。

임진강

1 임진강 맑은 물은 도도히 흐르고
  물새들 자유롭게 무리지어 넘나드네
  내 조국 남쪽 땅 추억은 머나먼데
  임진강 맑은 물은 도도히 흐르네

2 북쪽의 대지에서 남쪽의 하늘로
  나라다니눈 새들이여 자유의 사자여
  누가 조국을 둘로 나누었느뇨
  누가 조국을 나누어 버렸느뇨

3 임진강 맑은 물은 도도히 흐르고
  물새들 자유롭게 무리지어 넘나드네
  내 조국 남쪽 땅 추억은 머나먼데
  임진강 맑은 물은 도도히 흐르네

4 임진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
  물새들은 자유로이 넘나들며 날건만
  내 고향 남쪽 땅 가고파도 못가니
  임진강 흐름아 원한 싣고 흐르냐

(二木紘三)

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喫茶店の片隅で

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:矢野亮、作曲:中野忠晴、唄:松島詩子

1 アカシヤ並木の黄昏は
  淡い灯がつく喫茶店
  いつもあなたと逢った日の
  小さな赤い椅子二つ
  モカの香りがにじんでた

2 ふたり黙って向きあって
  聞いたショパンのノクターン
  もれるピアノの音につれて
  つんでは崩しまたつんだ
  夢はいずこに消えたやら

3 遠いあの日が忘られず
  ひとり来てみた喫茶店
  散った窓辺の紅バラが
  はるかにすぎた想い出を
  胸にしみじみ呼ぶこよい

《蛇足》 松島詩子が歌うシャンソン調歌謡の1つで、昭和30年(1955)にレコードが発売され、ヒットしました。

 昭和20年代から40年代末あたりまで、デートというと、だいたいがこんな感じでしたね。名曲喫茶にいくか、普通の喫茶店で、ろくにわかりもしないフランス文学だの実存主義だの、人によってはコミュニズムだのを論じたりしました。

 東京では「風月堂コミュニスト」なんて言葉もありました。風月堂は、新宿中央通りに面したところにあった喫茶店で、ここに集まって、生かじりの知識でコミュニズムを論じた左翼かぶれの若者たちを、軽侮のニュアンスを込めて表現したのがこの言葉です。
 理論的なレベルは違いますが、講壇派
(アカデミズム内の社会主義者)の若者版といったところでしょうか。

 10数年前、知り合いの女子大生に「学生のデートというと、今でもロマン・ローランやフロイトあたりから始めるの?」と訊いたら、「それって、何ですか?」と訊き返されてしまいました。

 最近の学生たちが背伸びして、つまり少々無理して読む本というと、どのあたりになるのでしょうか。それとも、無理しないで読める等身大の本しか読まないのでしょうか。

(二木紘三)

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赤い川の谷

 (mp3制作:二木紘三)

アメリカ民謡、日本語詞:不詳

      Red River Valley

1. From this valley they say you are going
   We will miss your bright eyes and sweet smile
   For they say you are taking the sunshine
   That has brightened our path for a while
   (Chorus:)
   Come and sit by my side if you love me
   Do not hasten to bid me adieu
   But remember the Red River Valley
   And the cowboy who loved you so true

2. Won't you think of the valley you're leaving
   Oh how lonely, how sad it will be !
   Oh think of the fond heart you're breaking
   And the grief you are causing to me
   (Chorus:)

3. As you go to your home by the ocean
   May you never forget those sweet hours
   That we spent in the Red River Valley
   And the love we exchanged mid the flowers
   (Chorus:)

1 今谷間を去りゆく さびし君の笑顔
  思い出はめぐりて 悲しき別れを

2 望みし君の言葉 ただ一つの言葉
  今は望みむなしく 君と別れゆく

3 君よ去りゆく前に しばし共に語らん
  この谷間を忘るな カウボーイの愛も

《蛇足》 代表的なカウボーイソングの1つ。mp3は英詞に合わせてあります。

 レッドリバーは、テキサス州に源を発し、アーカンソー州・ルイジアナ州を通ってミシシッピ川に合流する約1900キロの大河です。テキサスの牧畜は、この流れとリオグランデとの間の広大な土地に発達しました。

 原曲は1890年代に南部で歌われていた“In the Bright Mohawk Valley”(輝くモホークの谷間で)とされています。MohawkがSherman(シャーマン)となっているヴァリアントもあります。
 
ホモークもシャーマンも、インディアンの大部族の名前です。これらの原曲から、カウボーイたちがさまざまな歌詞作り出しました。上の英詞もその1つです。

 この詞がいいですね。私は安曇野の生まれ・育ちですが、安曇野の「野」は、地形的に見て、英語のvalleyに相当すると思います。valley育ちの私としては、アメリカの田舎の兄(あん)ちゃんが味わったハートブレイクが、しみじみ心に沁みます。

 学生時代、私はエスペラントでも歌っていましたので、その詞も挙げておきましょう。
 上の英詞では、谷間から去っていくのは女性ですが、エスペラント訳は、原詞のシチュエーションと同じで、男が去っていき、インディアンの女性が取り残される設定になっています。

 エスペラントでは、ĉはチ、ĝはヂュ、jはイ、ŝはシュと読みますが、あとはローマ字と同じように読みます。ただし、ブラウザーまたはブラウザーのバージョンによっては、これらの文字は正しく表示されません。

           La Valo de Ruĝa Rivero(エスペラント訳:磯部晶策)

1. Tiujn vortojn neniam vi diros,
   Kiujn longe atendis mi jam;
   Kaj ĉar aŭdis mi, ke vi foriros,
   Mia koro rompiĝis en am'.
   (Koruso:)
   Kelkan tempon do volu restadi !
   Ne rapidu nun lasi min for !
   Sed memoru pri Red River Valley,
   Ke knabino vin amis el kor'.

2. Kiam iros vi hejmen trans maro,
   Rememoru, ke ĝojon de hom'
   Longe havis vi ja en la valo,
   Kaj amvivon en eta la dom'.
   (Koruso:)

3. Se ĉi-tien reveni vi povus
   Iam al l'okcidenta herbej',
   Se blankulan edzinon vi havus,
   Sciu, ke mi koramis vin plej.
   (Koruso:)

 このメロディーは、ジョン・フォード監督の名画『怒りの葡萄』(1940年、原作はスタインベック小説)のテーマソングとして用いられました。

(二木紘三)

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平城山(ならやま)

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:北見志保子、作曲:平井康三郎

1 人恋ふは悲しきものと
  平城山(ならやま)
  もとほり来つつ
  たえ難(がた)かりき

2 古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ
  越へしとふ
  平城山の路に
  涙おとしぬ

《蛇足》 歌人・北見志保子が磐之媛陵(いわのひめりょう)をテーマに詠んだ2首に、平井康三郎が曲をつけ、この名曲が生まれました。

 北見志保子は、明治18年(1885)、高知県宿毛(すくも)(現在は市)に生まれました。本名川島朝野。釈迢空(しゃくちょうくう)などに師事し、昭和24年(1949)、歌風や結社を超越した「女人短歌会」を結成しました。
 
昭和30年(1955)、70歳で病没。

 志保子は歌人・橋田東声と結婚しましたが、のちに、東声の弟子で、自分より12歳年下の浜忠次郎と恋に落ちます。志保子から引き離すために、浜は、親族によって強制的にフランスに留学させられました。

 上の歌は、浜が留学中の昭和10年(1935)、奈良の磐之媛陵周辺をさまよったときに作った7首のうちの2首。浜への思いを、磐之媛が離れて住む夫・仁徳天皇に寄せた思いに重ね合わせて詠んだといわれます。
 彼女はその後、橋田東声との離婚が成立し、浜忠次郎と再婚しました。

 平井康三郎(本名は保喜)は、明治43年(1910)、 高知県伊野町に生まれ、長じて東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)バイオリン科に学びました。母校で教鞭を執ったのち、作曲家・合唱指導者として幅広く活動。
 クラシック系の作品のほか、『スキー』『ゆりかご』『お江戸日本橋』『とんぼのめがね』など、多くの童謡も作曲しています。
 平成14年
(2002)、92歳で没。

 1番の「もとほる(もとおる)」は「まわる、めぐる、さまよう」という意味。

 2番の2行目を、「妻に恋ひつつ」としている歌集が多いのに驚きました。上の由来からもわかるように、これは女性が男性を恋うる歌ですから、「夫(つま)に恋ひつつ」でなくてはなりません。
 
男性がご自分の「妻」を恋いながら歌うのは、それはそれで大変けっこうだとは思いますが。

(二木紘三)

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緋牡丹博徒

 (mp3制作:二木紘三)

作詞・作曲:渡辺岳夫、唄:藤純子

1 娘盛りを渡世にかけて
  張った体に緋牡丹燃える
  女の女の 女の意気地(いきじ)
  旅の夜空に恋も散る

2 鉄火意気地もしょせんは女
  濡れた黒髪 緋牡丹ゆれる
  女の女の 女の未練
  更けて夜空に星も散る

3 男衣装に飾っていても
  さしたかんざし 緋牡丹化粧
  女の女の、女の運命(さだめ)
  捨てた夜空に一人行く

《蛇足》 昭和43年(1968)公開の東映映画『緋牡丹博徒』(山下耕作監督)の主題歌。女渡世人を主人公にした異色の任侠映画で、主演・藤純子(現在富司純子)、助演・若山富三郎、特別出演・高倉健のキャスティングで爆発的なヒットとなりました。

 緋牡丹の刺青(いれずみ)を背負い、“緋牡丹お竜” という異名をもつ矢野竜子が、男勝りの度胸と啖呵(たんか)で渡世の世界で生き、闇討ちされた父の仇を討つ、という物語。
 このポスターの惹句
(じゃっく)が名作でした。

居並ぶ兄さん、お見知りおきを!
ぱっくり割れた着物の下で
牡丹の花が真っ赤に燃えた
二つ異名は緋牡丹お竜
仁義も切りやす
ドスも抜く

 大ヒットを受けてシリーズ化され、『緋牡丹博徒・一宿一飯』(昭和43年)、『緋牡丹博徒・花札勝負』(昭和44年)、『緋牡丹博徒・二代目襲名』(同)、『緋牡丹博徒・鉄火場列伝』(同)、『緋牡丹博徒・お竜参上』(昭和45年)、『緋牡丹博徒・仁義通します』(昭和46年)、『緋牡丹博徒・お命戴きます』(同)と、計8作作られました。

 昭和40年代前半の学生反乱(先進国にほぼ共通して見られました)の時代、多くの若者たちが任侠映画に対して連帯感にも似た共感を寄せました。
 ただし、それは、損得を無視して強者に歯向かおうとする情念の発現であって、現実のヤクザに対する共感ではありません。

 藤純子は、東映のプロデューサーで、任侠映画界のドンと呼ばれた俊藤浩滋の娘。京都女子高在学中に、名監督・マキノ雅弘にスカウトされ、父の反対を押し切ってデビュー、『緋牡丹博徒』シリーズによって、東映任侠映画の金看板・高倉健に劣らぬ人気を集めました。

 昭和47年(1972)、歌舞伎俳優の尾上菊五郎と結婚して引退。2年後に、寺島純子の本名で、ワイドショーの司会者として芸能界に復帰、平成元年(1989)、女優活動を再開しました。
 
女優の寺島しのぶは長女、歌舞伎俳優・尾上菊之助は長男。

(二木紘三)

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若者たち

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:藤田敏雄、作曲:佐藤勝、唄:ザ・ブロード・サイド・フォー

1 君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

2 君のあの人は 今はもういない
  だのになぜ 何をさがして
  君は行くのか あてもないのに

3 君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

《蛇足》 昭和41年(1966)2月7日から同年9月30日まで放映されたフジテレビ系列の連続ドラマ『若者たち』の主題歌です。
『若者たち』は、毎週1回、夕方6時から30分間放送されました。この時代ですから、もちろんモノクロです。

 映画監督・黒澤明の長男の黒澤久雄がリーダーだったザ・ブロードサイド・フォーが歌いました。
 脚本は山内久・早坂暁・立原りう・清水邦夫という、そうそうたるメンバーが交替で担当しました。

 両親が亡くなった佐藤家の5人きょうだいが織りなす哀歓の物語です。
 土建会社の設計技師の長兄太郎を田中邦衛、長距離トラックの運転手の次兄次郎を橋本功、兄たちが将来を託して大学に入れた三郎を山本圭、妹のオリエを佐藤オリエ、一浪して受験戦争に悩む末吉を松山省二が演じました。

 母親代わりに一家の雑用を背負わされたオリエは、兄弟との摩擦に耐えきれず、家出して靴工場で働きますが、実社会の厳しい現実を経験して、家に舞い戻ってきます。5人きょうだいがときに反目し合い、ときに助け合って生き抜いていくさまが、当時の多くの若者たちの共感を得ました。

 このテレビドラマは、実は途中で打ち切られるはずでした。社会批判が多かった点を「ある種の人たち」から非難されたため、「話が暗いし、娯楽性も乏しい」という理由をつけて、局の上層部が打ち切ろうとしたのです。

 ところが、それを聞いた人たちから7万通に及ぶ継続希望の投書が殺到し、さらには直接局を訪ねて継続を求める若者たちのグループが続出しました。このため、ドラマは、とうとう9月30日まで延長されたのです。

 放送終了後、映画化が企画されましたが、「その種の人たち」からの圧力を恐れて、制作しようとするメジャーの映画会社はありませんでした。
 結局、テレビドラマ出演者たちの手弁当に近い状態で自主製作が行われ、多くの若いボランティアたちの活動で、全国で自主上映されました。

 テレビの内側でも外側でも、熱く生きた「若者たち」が多かった時代の物語です。

(二木紘三)

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千の風になって

 (mp3制作:二木紘三)

日本語詞・作曲:新井満、唄:新井満/秋川雅史 他

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

秋には光になって 畑にふりそそぐ
冬はダイヤのように きらめく雪になる
朝は鳥になって あなたを目覚めさせる
夜は星になって あなたを見守る

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません
死んでなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています

千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています
あの大きな空を 吹きわたっています


《蛇足》
芥川賞作家・新井満が英詩を訳し、曲をつけ、自ら歌った作品。

 曲作りのきっかけとなったのは、彼の友人の妻が急逝したことでした。彼女の死後、仲間によって編まれた追悼文集のなかに、作者不詳の『A Thousand Winds』という詩の訳詞がありました。
 それに深く感動した彼は、苦労して原詩
(下記)を探し出し、独自に日本語詞をつけ、自ら歌いました。それを私家版CDとして30枚作成し、妻を亡くした友人はじめ、親しい人たちに贈りました。2001年のことです。

                                  A Thousand Winds

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.

I am a thousand winds that blow;
I am the diamond glints on snow,
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn's rain.

When you awake in the morning bush,
I am the swift uplifting rush
Of quiet in circled flight.
I am the soft star that shines at night.

Do not stand at my grave and cry.
I am not there; I did not die.

 2003年8月、このことが『朝日新聞』の天声人語で紹介され ると、問い合わせが殺到、同年11月には『千の風になって』というタイトルで詩集とシングルが同時発売されるに至りました。シングルは23週連続チャートインというロングヒットを記録しました。
 2004年7月には、同曲を主題歌とした映画『千の風になって』が公開され、さらに人気が高まりました。現在では新垣勉、スーザン・オズボーン、秋川雅史などがカバーしています。

 『A Thousand Winds』は、日本では一部の人たちにしか知られていませんでしたが、英語圏ではかなり前から多くの人に愛されており、親しい人が亡くなると、よく朗読されていました。
 最近では、ニューヨーク世界貿易センタービルが2001年9月11日のテロで崩壊したあと、その跡地「グラウンド・ゼロ」で開かれた追悼集会で、父親を亡くした11歳の少女が朗読して、人びとの涙を誘いました。

 この歌が有名になったいきさつや原作者捜しの経緯について見てみましょう。以下の記述は、おもにイギリスのソングライター、ジェフ・スティーヴンス(Geoff Stephens)のCD『To All My Loved Ones』につけられた文章(2002年10月付)を参考にしています。
 彼はこの詩に魅了され、1989年以降、そのルーツを探る「旅}を続けてきたそうです。

 1996年、イギリスの国営放送BBCは、「国民に愛される詩」についてのアンケートを行いました。NHKなどがたまに行う「21世紀に残したい心の歌」といったアンケートの詩版ですね。詩集などの「書籍に載ったことがある詩」が対象でした。

 驚くべきことに、主催者が予想もしなかった詩が、ダントツの1位になりました。それは、作者不詳のうえにタイトルさえない「Do not stand at my grave and weep」で始まる詩でした。
 企画が発表されると同時に、この詩のリクエストが殺到し始め、ついに3万数千通に達したといいます。
 当初の条件から外れていたために、ランキングには入りませんでしたが、アンケート結果をまとめた本の前書きで、とくに言及されました。

 この詩がイギリス国民に広く知られるようになったきっかけは、1人の若いイギリス人兵士の死でした。
 その兵士、スティーヴン・ジェフリー・カミンズ
(Stephen Jeffrey Cummins)は、1989年3月9日、イギリス領北アイルランドのロンドンデリー市内をランドローバーで走行中、地雷に触れて亡くなりました。

 北アイルランドでは長年、イギリスからの分離とアイルランド共和国への統合を求めるカトリック系住民と、イギリスへの残留を希望するプロテスタント系住民とのあいだで争いが繰り返されてきました。このころ、前者の非合法軍事組織であるIRA(アイルランド共和国軍)が無差別テロを激化させており、カミンズはその犠牲になったのです。

 遺品のなかから発見されたのが「Do not stand at my grave and weep」で始まる詩でした。カミンズは、自分の運命を予感していたのかもしれません。
 この件がその詩とともに、3月10日付の『デイリー・メイル』紙に報じられると、イギリスはじめ、英語圏で大きな感動を引き起こしました。

 当初はカミンズの作品だと思われていました。その後の調査で違うとわかると、原作者への関心が高まり、何人もの人が原作者探しを始めました。前述のジェフ・ステファンスもその1人です。

 原作者捜しの過程でさまざまな人物や伝承が浮かび上がってきましたが、検証の結果、有力とされたのはアメリカ原住民(インディアン)由来説とメアリー・フライ説の2つでした。まず前者について。

 この詩がもつ汎神論的・アニミズム的イメージを考えると、確かにアメリカ原住民由来説は有力な考えに思われます。
 たとえば、アメリカで人生相談の回答者として知られているアン・ランダース
(Ann Landers)は、1986年10月19日付『ワシントン・ポスト』紙のコラムで、「この詩はマカ族(Makah Indian)の祈りだった」と書いています。

 しかし、アメリカ原住民由来説はすぐに崩れました。
 原詩を見ると、weep-sleep, blow-snow, grain-rain, bush-rush, flight-night, cry-dieとみごとに脚韻を踏んでいます。これは、相当教養のある人でないと困難です。アメリカ原住民にも教養のある人物はいるでしょうが、この説の可能性はかなり低くなります。
 また、この詩が有名になったとき、「わが部族の文化遺産だ」と主張する者が1人や2人いてもいいはずですが、いまだに1人も現れていません。

 ランダースのマカ族説は、アメリカ議会図書館の文献検索の専門家、デイヴィッド・クレシュ(David Kresh)が否定しています。彼がマカ族の友人から聞いたところでは、マカ族の居住地には雪は降らないし、穀物畑はなく、やさしい秋雨も降らない、そうです。
 それより何より、アメリカ原住民は死者の魂を生者から少しでも早く遠ざけたいと考えるのが通例で、この詩のような、死者がいつも生者の回りにいるというイメージは考えられないといいます。

 これに対して、メアリー・フライ説は相当信憑性が高いといっていいようです。

『A Thousand Winds』が有名になってから、そのルーツを探し求める何人かのジャーナリストや詩の研究者が、相前後してアメリカ・メリーランド州バルチモアに住む1人の女性にたどり着きました。それがメアリー・フライ(Mary Frye)でした。
 イギリスの『タイムズ』によると、彼女の経歴は次のようになっています。

 1905年11月13日、オハイオ州デントンでクラーク夫妻の子どもとして生まれ、メアリー・エリザベスと名づけられる。3歳で孤児となり、12歳のとき、バルチモアに転居。
 1927年、同地で洋服屋を営むクラウド・フライと結婚。1女をもうけるが、1964年、夫と死別。
 2004年9月15日、99歳で没。
 メアリーは高い教育を受けていなかったが、記憶力がよく、読書家だった。「A Thousand Winds」のあと、いくつか詩を書いたが、出版されることはなかった。

 カナダのラジオ局『CBC』が『A Thousand Winds』を書いたいきさつについて彼女にインタビューした放送テープが残っています。番組名は『A Poetic Jorney』で、放送されたのは2000年5月。インタビューは、その前年の1999年に行われたようです。

 インタビューが行われたとき、メアリーは94歳で、自分の誕生祝いの席でインタビューを受けました。以下の記述は、その際の彼女の談話に基づいています。

 1932年、メアリーはドイツからの亡命者マーガレット・シュワルツコップ(Margaret Schwarzkopf)という女性と親友になっていました。
 ドイツでは、第一次大戦の敗戦後、ナチスの主導によるユダヤ人排斥・攻撃が激化していました。多くのユダヤ人が続々と国外に脱出しており、マーガレットもその1人でした。

 彼女の母親も脱出したがっていましたが、高齢のうえ手足が不自由で、過酷な脱出行は無理でした。やむなくマーガレットは1人で脱出したものの、母親を残してきたことでいつも自分を責めていました。
 まもなく母親からの便りが途絶えました。八方手を尽くして調べた彼女に届いたのは、母親の死の知らせでした。彼女は神経がまいってしまい、毎日泣いてばかりいました。

 ある日、2人はいっしょに買い物に行きました。帰宅後、茶色の紙袋から買い物を出して仕分けを始めたとき、メアリーが買ったあるものを見て、マーガレットは、「それ、母が大好きだったの」といって泣き崩れました。
 メアリーが慰めても泣きやまず、「何より辛いのは、母のお墓に行ってお別れを言えないことよ(……I never had the chance to stand at my mother's grave and say goodbye.)」と言って、泣きながら2階の自室に行ってしまいました。

 そのとき、メアリーの手には買い物チェックのために鉛筆が握られていました。突然、彼女の頭に詩の言葉が浮かびました。彼女は茶色の紙袋を破いて、それを書き留めました。それは、メアリーが初めて書いた詩でした。

 しばらくして、マーガレットがいくらか落ち着きを取り戻して降りてきました。メアリーが書いたばかりの詩を示すと、それを読んだマーガレットは、メアリーを抱き寄せ、「この詩は一生大事にするわ」と言いました。それから、彼女は泣くのをやめました。

 マーガレットがその詩を職場で同僚に見せたところ、連邦政府印刷所に勤めている人を紹介してくれたので、そこで何部かのコピーを作ってもらいました。彼女は、それを友人や知人に配ったようです。
 このときから、その詩は独自の生命をもち、独り歩きを始めました。
 以下は、CBCのインタビュー番組でメアリーのオリジナルとして紹介された詩です。

Do not stand at my grave and weep,
I am not there, I do not sleep.
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
I am in the morning hush,
I am in the graceful rush
Of beautiful birds in circling flight,
I am the starshine of the night.
I am in the flowers that bloom,
I am in a quiet room.
I am in the birds that sing,
I am in the each lovely thing.
Do not stand at my grave and cry,
I am not there, I do not die.

 今日に伝わっている『A Thousand Winds』と比べてみると、最初の2行と最後の2行しか残っていません。正確には、最後の行のdoがdidに変わっているので、改変されなかったのは3行だけです。
 にもかかわらず、メアリーが最初に提示したイメージはいささかも損なわれていません。これは、詩の中核になっているスピリットがいかに美しく、気高かったかを如実に物語っています。

 ただ、CBCの主張にもかかわらず、上の詩はメアリーの完全なオリジナルではなく、何人かの手を経たあとのものではないかと私は思います。
 上の詩はきちんと脚韻を踏んでいますが、詩作の経験のない者がわずか数十分のうちに、詩として高いレベルを保ちつつ、脚韻を踏んだヴァースを連ねるのは困難ではないでしょうか。
 実際、これより前のヴァージョンがいくつかあると主張する人は、何人もいるようです。

 しかし、メアリーのオリジナルが詩形の整っていない素朴な詩だったとしても、人びとが受ける感動は変わらないでしょう。
 むしろ、素朴だったからこそ、マーガレットの心にストレートに届き、何人もの人たちに新しい詩句を加えたいという気持ちを起こさせたのではないかと思います。

 ところで、この詩の汎神教的・アニミズム的感覚は、キリスト教という一神教の教義とは背馳するのではないかと思います。にもかかわらず、この詩が多くのキリスト教徒の心を打つのはなぜでしょうか。

 キリストが鮮明な教理をもつ宗教を始めたのは、2000年ちょっと前のことにすぎず、その前の数十万年間、人類は汎神教的・アニミズム的な精神風土のなかで生きてきました。それはもちろんキリスト教の(ユダヤ教やイスラム教なども同じですが)基層にも残っているはずです。
 心のDNAに刻まれたそうした記憶が、この詩に人びとを感応させたのではないか――というような埒もないことをふと考えました。

(二木紘三)

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山のロザリア

 (mp3制作:二木紘三)

ロシア民謡、日本語詞:丘灯至夫

1 山の娘ロザリア いつも一人うたうよ
  青い牧場日昏れて 星の出るころ
  帰れ帰れも一度 忘れられぬあの日よ
  涙ながし別れた 君の姿よ

2 黒い瞳ロザリア 今日も一人うたうよ
  風にゆれる花のよう 笛を鳴らして
  帰れ帰れも一度 やさしかったあの人
  胸に抱くは形見の 銀のロケット

3 一人娘ロザリア 山の歌をうたうよ
  歌は甘く哀しく 星もまたたく
  帰れ帰れも一度 命かけたあの夢
  移り変わる世の中 花も散りゆく

4 山の娘ロザリア いつも一人うたうよ
  青い牧場小やぎも 夢をみるころ
  帰れ帰れも一度 忘れられぬあの日よ
  涙ながし別れた 君の姿よ


《蛇足》
「アレキサンドルフスキー」というロシアの曲に丘灯至夫
(おか・としお)が作詞したもの。

 昭和31年(1956)に『牧場のロザリア』の題名で売り出されましたが、このときはさっぱり売れなかったそうです。
 昭和36年
(1961)になって、歌声喫茶から歌われ始め、ヒットの兆しがあったので、『山のロザリア』と改題し、スリー・グレイセスの歌で売り出したところ、大ヒットしました。

 この歌が流行っていた大学2年(昭和37年〈1962〉)の夏、1か月間、上高地にあったタクシー会社の出張所で飯炊きのアルバイトをしました。1日3回、駐在員や運転手たちの食事を用意する仕事でしたが、電気釜で飯を炊き、缶詰と漬け物を添えて出すだけで、あとはブラブラしていてもよいという、楽な仕事でした。

 そのとき、出張所の隣りの売店で働いていた地元の村の少女と仲良しになりました。当時私は喫煙していましたが、すぐ売り切れてしまう人気銘柄を、いつも私のためにとっておいてくれました。
 1週間に1回、上高地バスセンター近辺で働く人たちのために下界から理髪師がやってきました。私が散髪をしてもらおうと列に並んでいると、彼女は、学生なのにお金がもったいないといって、閉店したあと、売店の裏でカットしてくれました。

 私が東京に帰る日、彼女は売店から小走りに出てきて、上高地の地図がプリントされたハンカチを餞別にくれました。私は、「ありがとう」といっただけで、格別な言葉もないままに別れました。

 東京の下宿に2度ほど手紙をもらいましたが、そのあとは音沙汰がなくなってしまいました。たぶん結婚したのでしょう。この歌を聞くと、いつもその純朴な「山の娘」のことが思い出されます。

(二木紘三)

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ルビーの指環

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:松本隆、作曲・唄:寺尾聰

くもりガラスの向こうは風の街
問わず語りの心が切ないね
枯れ葉一つの重さもない命
あなたを失ってから
背中を丸めながら
指のリング抜き取ったね
俺に返すつもりならば捨ててくれ

そうね誕生石ならルビーなの
そんな言葉が頭にうずまくよ
あれは八月まばゆい陽の中で
誓った愛の幻
孤独が好きな俺さ
気にしないで行っていいよ
気が変わらぬうちに早く消えてくれ

くもりガラスの向こうは風の街
さめた紅茶が残ったテーブルで
襟を合わせて日暮れの人波に
紛れるあなたを見てた

 そして二年の月日が流れ去り
 街でベージュのコートを見かけると
 指にルビーのリングを探すのさ
 あなたを失ってから(繰り返す)

 ルルルトゥルトゥル・・・・・・

《蛇足》 寺尾聡(あきら)は昭和22年(1947)神奈川県横浜市生まれ。父親は劇団民芸の創設者の一人で、名優と称えられた宇野重吉。

 聡も俳優の道を志し、昭和43年(1968)に熊井啓監督の『黒部の太陽』でデビュー、昭和51年(1976)には、山田洋次監督『同胞』の主役に抜擢されました。
 以後、黒澤明監督作品の『乱』(昭和60年)、『夢』(平成2年)、『まあだだよ』などに出演。

 ミュージシャンとしては、昭和39年(1964)にグループ・サウンズ「ザ・サベージ」を結成、ベースを担当し、昭和41年(1966)に『いつまでもいつまでも』『この手のひらに愛を』をヒットさせました。

 ルビーの指環』は昭和56年(1981)の大ヒット曲。
 この年は、チャールズとダイアナが結婚し、ピンクレディが解散し、向田邦子の乗った飛行機が落ち、福井謙一がノーベル賞を受賞し、『北の国から』というTV史上に残る名作ドラマが放映された年でした。

 松本隆の詞は、視覚的ですばらしい。3番の「さめた紅茶が残った……あなたを見ていた」というところなど、そのシーンが目の前に浮かび上がってくるようです。

 春か初夏に始まったらしいこの恋が終わったのは、晩秋か初冬でしょう。3番の「ベージュのコート」がそれを暗示しています。
 偏見だとは思いますが、春から夏にかけて始まった恋は短く、秋から冬にかけて始まった恋は長く続くような気がします。

 愛別した者は、しばしば人混みのなかに失った人の面影を見つけるようです。因幡晃の『わかって下さい』にも、「街であなたに似た人を見かけると、ふりむいてしまう」というフレーズがあります。切ないですね。
 恋人ではありませんが、私の亡母も先立った夫
(つまり私の父)のことを次のように詠みました。

思はずも駅のホームに亡夫(つま)に似し
人の背見つめて立ちてゐたりき

(二木紘三)

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ふたりの大阪

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:吉岡治、作曲:市川昭介、唄:都はるみ・宮崎雅

(女)頬よせあってあなたと踊る
 (男)別れに似合いの新地のクラブ
 (女)泣かない約束してたのに
 (男)おまえの背中がしのび泣く
 (女)残り (男)わずかな
  (男女)この刻(とき)を ああ抱きしめて
     ふたりの大阪 ラスト・ダンス

(女)忘れはしないわ あなたのことは
 (男)瞼をとじれば昨日のようさ
 (女)ふたりで歩いた御堂筋
 (男)そぼふる小雨の淀屋橋
 (女)残り (男)わずかな
 (男女)この夜を ああ思い出に
     ふたりの大阪 ラスト・ダンス

(女)さよならいわせる時間をとめて
 (男)ごめんよ おまえに幸せやれず
 (女)誰にも負けない愛なのに
 (男)夜明けが静かに幕をひく
 (女)残り (男)わずかな
 (男女)この恋を ああ抱きしめて
     ふたりの大阪 ラスト・ダンス

《蛇足》 昭和56年(1981)のヒット曲。代表的なデュエットソングの1つで、『月の法善寺横丁』『宗右衛門ブルース』『大阪ラプソディー』『大阪しぐれ』などと並ぶ浪花演歌の傑作。

 吉岡治・市川昭介のコンビには、この歌のほか、『大阪しぐれ(都はるみ唄)』、『さざんかの宿(大川栄策唄)』、『細雪(五木ひろし唄)』などのヒット作があります。

(二木紘三)

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哀愁の街に霧が降る

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:佐伯孝夫、作曲:吉田正、唄:山田真二

1 日暮れが青い灯(ひ)つけてゆく
  宵の十字路
  泪(なみだ)色した 霧がきょうも降る
  忘られぬ瞳よ
  呼べど並木に消えて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

2 花売り娘の花束も
  濡れる十字路
  のこる香りに あまく思い出す
  過ぎし日のあの夜は
  カラーフィルムのコマか
  ああ 哀愁の街に霧が降る

3 せつなく降る降る身も細る
  霧の十字路
  窓を漏れくる 唄もすすりなく
  なつかしのブローチ
  肌につめたく沁みて
  ああ 哀愁の街に霧が降る

《蛇足》 昭和31年(1956)のヒット曲。

 田舎の中学でニキビが出始めた少年は、ラジオから流れてくる吉田正の都会調ムード歌謡を聞きながら、霧降る街角で花束を売っている少女や、テラスという場所でため息をついている銀座娘(『東京の人』)てどんなんだろうと、あれこれ想像していました。

 それから4年ほどして、少年は東京に出ましたが、花売り娘やテラスでため息をついている女性には一度も出会いませんでした。

 路上で花束を売る人を初めて見たのは、ずっとあとになって、初めてパリに行ったときでしたが、花売り娘ではなく、いかにも生活に疲れたといったふうな花売りオジサンでした。

(二木紘三)

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初恋のひと

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:有馬三恵子、作曲:鈴木淳、唄:小川知子

1 そよ風みたいにしのぶ あの人はもう
  私の事などみんな 忘れたかしら
  のばらをいつも 両手に抱いて
  朝の窓辺に 届けてくれた
  なぜだか逢えなくなって 恋しい人なの

2 麦わら帽子のような 匂いをさせて
  私を海辺へつれて 走った人よ
  光の中を もつれるように
  はずんだ胸は 熱かったわね
  懐かしがっても遠い 夢の人なの

  小麦色した あの日の笑顔
  私一人が 知っているのに
  今なら恋だとわかる はるかな人なの


《蛇足》
昭和44年
(1969)のヒット曲。この年は、東大紛争で安田砦の攻防戦があり、アポロ11号の月面着陸という人類史上画期的な出来事があった年でした。

 このころ、芸能界では小川知子とカーレーサー福沢幸雄との恋愛関係が噂になっていましたが、その福沢はヤマハのコースでテスト走行中に事故死してしまいます。
 その直後にフジテレビの生放送「夜のヒットスタジオ」に出演した彼女は、この歌を歌っている最中、「なぜだか逢えなくなって 恋しい人なの」のところで突然泣き崩れ、テレビ界で大きな話題となりました。

 俳優の林与一と結婚しましたが、のちに離婚。

 「キンツマ」という流行語を生んだTBS系列のTVドラマ『金曜日の妻たちへ』のパート1とパート3では、色っぽい人妻を演じました。

(二木紘三)

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みかんの花咲く丘

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:加藤省吾、作曲:海沼実、唄:川田正子

1 みかんの花が咲いている
  思い出の道丘の道
  はるかに見える青い海
  お船がとおくかすんでる

2 黒い煙をはきながら
  お船はどこへ行くのでしょう
  波に揺られて島のかげ
  汽笛がボウと鳴りました

3 いつか来た丘母さんと
  いっしょに眺めたあの島よ
  今日もひとりで見ていると
  やさしい母さん思われる

Mikannohana       (この絵は2004年の年賀状用にPhotoShopで描いたものです)

《蛇足》 海沼(かいぬま)実は長野県の松代出身で、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の創設者として知られています。

 『あのこはだあれ』『お猿のかごや』『蛙の笛』『カラスの赤ちゃん』『里の秋』『ばあやたずねて』『見てござる』『やさしいおかあさま』『夢のお馬車』など数多くの童謡を作曲していますが、代表作をあえて1つ挙げるとすると、『みかんの花咲く丘』になるでしょう。

 音羽ゆりかご会を作るころから、海沼は、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の家に寄宿しており、事実上そこが彼の音楽活動の拠点となっていました。のちに姉妹の母親と正式に結婚し、三女美智子をもうけています。

 この歌については、非常にあわただしい状況のなかで作られたという話が伝えられています。
 昭和21年
(1946)8月、NHKラジオでは、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校(現在の伊東西小学校)とを中継で結ぶ番組が企画されました。その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいので、何か作ってほしいという注文が海沼に来ました。
 しかし、長野県出身の海沼は、なかなかイメージが浮かばず、とうとう放送前日になってしまいました。

 その日、たまたま加藤省吾という音楽雑誌の記者が正子・孝子にインタビューするために川田家を訪れました。
 加藤は静岡県富士宮の出身で、作詞家を目指していました。『かわいい魚屋さん』という童謡のヒット曲がありましたが、その後はめぼしい作品がなく、生活のために雑誌記者をしていたのです。

 彼が静岡出身と聞いた海沼は、これは助かったとさっそく作詞を依頼しました。加藤は、そんな短い時間では無理と断りましたが、海沼は、1回限りの放送用だから気軽に作ればよいと説得しました。それに応じて加藤は、故郷のみかん畑を思い浮かべながら、3聯の詞を書き上げました。

 詞ができあがると、海沼はそれをもち、正子を連れてNHKに走りました。NHK内にあったGHQ(占領軍総司令部)検閲部の検閲を受けるためでした。当時、出版物や放送内容などは事前に必ずGHQの検閲を受けなければならなかったのです。

 童謡ですから、内容には当然問題なく、検閲はパスしました。海沼は正子とともに、その足ですぐ伊東行きの列車に飛び乗りました。列車のなかで海沼は一気に曲を書き上げました。その際ヒントになったのがヴェルディのオペラ『椿姫』のなかの一節だったといわれます。
 というわけで、新しい童謡『みかんの花咲く丘』は、滑り込みセーフで放送に間に合いました。

 この歌の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットになりました。
 昭和58年
(1983)、伊東市によって、宇佐美から亀石峠に向かう途中のみかん園を見下ろす場所に、この歌の歌碑が建てられました。作詞・作曲者の自筆の歌詞と楽譜が刻まれています。

 私の記憶がまちがっていなければ、3番の「母さん」は、一時期「ねえさん」に置き換えて歌われていたはずです。敗戦後は、空襲などで母親を亡くした子どもが多く、彼らにつらい思いをさせないためだったといわれます。「ねえさん」なら、お嫁にいっていなくなったと説明できますから。
 元の歌詞がむずかしいなどの理由で書き換えるのには賛成できませんが、こういうのはまあいいかなと思います。

 川田正子は平成18年(2006)1月22日に死去しました。71歳でした。

(二木紘三)

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ざんげの値打ちもない

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:阿久悠、作曲:村井邦彦、唄:北原ミレイ

1 あれは二月の寒い夜
  やっと十四になった頃
  窓にちらちら雪が降り
  部屋はひえびえ暗かった
  愛というのじゃないけれど
  私は抱かれてみたかった

2 あれは五月の雨の夜
  今日で十五と云う時に
  安い指輪を贈られて
  花を一輪かざられて
  愛と云うのじゃないけれど
  私は捧げてみたかった

3 あれは八月暑い夜
  すねて十九を越えた頃
  細いナイフを光らせて
  にくい男を待っていた
  愛と云うのじゃないけれど
  私は捨てられつらかった

4 そしてこうして暗い夜
  年も忘れた今日のこと
  街にゆらゆら灯りつき
  みんな祈りをするときに
  ざんげの値打ちもないけれど
  私は話してみたかった

《蛇足》 昭和45年(1970)の大ヒット曲。昭和40年代に何曲か出た怨み節(怨み歌)の1つです。

 怨み節は、失恋演歌・捨てられ演歌の一種ですが、一般の失恋演歌・捨てられ演歌が、捨てられて辛い、悲しい、あなたが恋しいという気持ちを素直に歌うのに対して、怨み節は、思うに任せない状況のなかで悲しみ、苦しんできた自分を一歩引いたところから見ている、といった感じの歌詞が特徴です。

 この歌のほか、『新宿の女』(藤圭子・昭和44年)、『圭子の夢は夜ひらく』(同・昭和45年)、『酔いどれ女の流れ歌』(森本和子・昭和45年)、『怨み節』(梶芽衣子・昭和47年)などが怨み節とされています。

 発表当時、この歌は、中学生の女の子が自ら求めて「初体験」をしたという設定が衝撃的だったわけですが、現在では、そんなケースは珍しくもなんともなくなっています。

 子どもたちはどうして大人への時間を無理に加速させようとするのでしょうか。大人の世界なんて、想像力と感性が水気を失って硬直化していく過程にすぎません。あわてなくても、そんなものはすぐ、かつ必ずやってくるのに……。

(二木紘三)

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君待てども

 (mp3制作:二木紘三)

作詞・作曲:東辰三、唄:平野愛子

1 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 わびしき宵
  窓辺の花 ひとつの花 蒼白きバラ
  いとしその面影 香り今は失(う)せぬ
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり

2 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 朧(おぼろ)の宵
  そよふく風 冷たき風 そぞろ身に泌む
  待つ人の影なく 花びらは舞い来る
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり

3 君待てども 君待てども
  まだ来ぬ宵 嘆きの宵
  そぼ降る雨 つれなき雨 涙にうるむ
  待つひとの音なく 刻む雨の雫
  諦めましょう 諦めましょう
  わたしはひとり


《蛇足》
港が見える丘』のコンビが昭和23年
(1948)に放ったヒット曲。

 松本市の中心部から見て北西側に、昔砦があったと伝えられる城山(じょうやま)が横たわっています。私は、その城山から松本市街へとなだらかに下る中腹に立つ高校で学びました。
 高校時代、私はときどき授業をさぼって、城山を彷徨(さまよ)い歩きました。

 その美しいひとは、白いススキの群落を縫って走る小径の曲がり角に、1人たたずんでいました。だれかを待っているようでした。周りに人家はなかったので、当時その近くにあった国立結核療養所で病を養っているひとだろう、と私は想像しました。
 そのひととは、そのあと2度出会い、2度目には目礼を交わしましたが、その後は姿を見なくなりました。

 この歌は春の歌ですが、この歌を聞くと、秋景のなかで人を待つそのひとのはかなげな姿が浮かんできます。

(二木紘三)

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ウナ・セラ・ディ東京

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:岩谷時子、作曲:宮川泰、唄:ザ・ピーナッツ

哀しいこともないのに なぜか
涙がにじむ
ウナ・セラ・ディ東京 ム……
いけない人じゃないのに どうして
別れたのかしら
ウナ・セラ・ディ東京 ム……

あの人はもう私のことを 忘れたかしら
とても淋しい
街はいつでも後姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ム……

       (間奏)

あの人はもう私のことを 忘れたかしら
とても淋しい
街はいつでも後姿の 幸せばかり
ウナ・セラ・ディ東京 ム……
ウナ・セラ・ディ東京 ム……


《蛇足》
東京オリンピックで盛り上がった昭和39年
(1964)のヒット曲。有名なジャズピアニストでザ・ピーナッツのボイストレーナーだった宮川泰(ひろし)が作曲し、ザ・ピーナッツなどが歌いました。

 ジャズピアノで培ったセンスが遺憾なく発揮され、外国曲かと思わせる都会的なバラードに仕上がっています。日本の歌手だけでなく、イタリアのミルバやドイツのカテリーナ・バレンテもレコーディングしました。

「ウナ・セラ・ディ」は、イタリア語でan evening of の意。

 宮川泰は、『恋のバカンス』『ウナ・セラ・ディ東京』『ふりむかないで』などザ・ピーナッツの曲や、『逢いたくて逢いたくて』『なにもいわないで』など園まりの曲、『シビレ節』などクレージーキャッツの一連のコミックソングのほか、『若いってすばらしい』『銀色の道』『愛のフィナーレ』『宇宙戦艦ヤマト』など数多くのヒット曲を作曲しています。

 平成18年(2006)3月21日、75歳で没。

(二木紘三)

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琵琶湖周航の歌(その2)

その1から続く)

『琵琶湖周航の歌』は、昭和46年(1971)に加藤登紀子が歌って全国的に知られるまで、作詞・作曲とも小口太郎ということになっていました。

 しかし、この曲の成立過程から、『ひつじぐさ』のメロディで歌われたということがわかると、その作曲者探しが行われました。昭和50年代の初め、旧三高のOBが熱心に調査し、吉田千秋という作曲者を突き止めたとされています。そのOBがだれかはわかりません。

 吉田千秋は明治28年(1895)2月18日、吉田東伍の次男として、新潟県小合(こあい)村で生まれました。小合村はのちに新津市の一部になり、新津市は平成の大合併で新潟市に編入されました。

 吉田東伍は高名な歴史地理学者で、『大日本地名辞書』などの著作により文学博士号を受けています。しかし、学歴がないために、アカデミズムにはなかなか受け入れられず、その学問的生涯のほとんどを在野のまま過ごしました。この点、植物学の牧野富太郎とよく似ています。
 新潟県阿賀野市に「吉田東伍記念博物館」が設けられています。

 千秋は、父の仕事の関係で、幼時から何度も新潟と東京の間を行ったり来たりします。
 2歳のとき上京して牛込区
(現新宿区)の赤城尋常小学校に入学、1年生の1学期終了後に小合村に戻され、同村の小鹿尋常小学校に転校します。4学年修了で、新津町新津高等小学校へ進学しますが、明治39年(1906)4月に再び上京、赤城高等小学校へ編入されます。

 明治40年(1907)4月、東京府立第四中学校(現都立戸山高校)へ進学、明治45年(1912)3月、同校卒業とともに東京農業大学に進みました。しかし、ここで彼の運命は暗転します。翌年、結核にかかっていることがわかったため休学し、ほどなく退学したのです。

 大正3年(1914)、神奈川県茅ヶ崎の南湖病院に4か月間入院。このとき、院長高田耕安の影響でキリスト教に興味をもち、聖書を読むようになったといいます。

 大正4年(1915)6月、祖父母のいる小合村に帰ります。そこでの療養中、動物、植物、天文学、方言学、音楽、文学、宗教と、さまざまなことに関心を示しましたが、とりわけ作詞・作曲に熱意を注ぎました。作曲の技術は、この時期に独学で習得したようです。

 病は好転せず、大正7年(1918)7月、大学病院で診断を受けるために上京します。その結果は、千秋自身の書いたものによると、「医師曰く『七月の初診の際の如く、左肺に著しき変化を来し、病気進行なれば大いに注意せざれば万事休す』との由」でした。

 病気はかなり進んでいたわけです。この時代、結核の特効薬はなく、罹患すると、空気のよいところで、栄養をとりながら静養するしかありませんでした。
 千秋もやむなく小合村に戻り、療養を続けます。しかし、症状はさらに進行し、大正8年(1919)、24歳の誕生日を迎えて間もない2月24日、ついに亡くなりました。

 さて『ひつじぐさ』ですが、原詩はイギリスの童謡集“Songs for our Little Friends”(Frederick Warne & Co.London,1875)のうちの1曲“Water Lilies”です。
 Water liliyは睡蓮のことで、和名はヒツジグサです。この和名は、未
(ひつじ)の刻、すなわち午後2時ぐらいに花を開くことからついたとされています。しかし、睡蓮は、実際には、午前11時ぐらいから夕方近くまで花を開いています。

 原詩は1聯しかわかりませんが、次のようになっています。

Misty moonlight,faintly falling
O'er the lake at eventide,
Shows a thousand gleaming lilies
On the rippling waters wide

 千秋がこれを和訳したのは大正2年(1913)、18歳のときといいますから、結核で入院加療中のときだと思われます。彼はこれを雑誌『ローマ字』に投稿、同年9月号(第8巻第9号)に掲載されました。

  睡蓮(ひつじぐさ)

1 おぼろ月夜の月あかり
  かすかに池のおもに落ち、
  波間に浮かぶ数知らぬ
  ひつじぐさをぞ照らすなる。

2 雪かとまがふ花びらは
  こがねの蘂(しべ)をとりまきて、
  波のまにまに揺るげども
  花の心は波だたず。

3 風吹かば吹け空くもれ
  雨ふれ波たて、さりながら、
  あだ波のした底ふかく
  萌えいでたりぬひつじぐさ。

 この藤村ばりの文語詩を、18歳の少年が書いたのです。訳詞といっても、このレベルになるとオリジナルといっても差し支えないでしょう。千秋は、短歌の習作も数多く遺しています。
 長生きしていたら、文芸分野か音楽分野かはわかりませんが、まちがいなく大きな業績を上げていたはずです。まことに夭折が惜しまれます。

 この詩に自分で曲をつけたわけですが、それは雑誌『音楽界』の大正4年(1915)の8月号に掲載されました。この雑誌は、東京神田の音楽社が発行していたもので、新しい楽曲や音楽関係論文を掲載する著名な月刊音楽誌でした。

 この雑誌によって『ひつじぐさ』という歌を知った三高の学生のだれかが、それを校内に広めたわけです。名曲『琵琶湖周航の歌』は、こうした東西の豊かな感性の意図せざる出会いによって生まれました。(終わり)

(二木紘三)


参考資料:
   森田穣二著『吉田千秋「琵琶湖周航の歌」の作曲者を尋ねて』(新風舎、1997年)
   小菅宏著『「琵琶湖周航の歌」の謎―作曲者・吉田千秋の遺言』(日本放送出版協会、2004年)

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