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みかんの花咲く丘

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:加藤省吾、作曲:海沼実、唄:川田正子

1 みかんの花が 咲いている
  思い出の道 丘の道
  はるかに見える 青い海
  お船がとおく かすんでる

2 黒い煙を はきながら
  お船はどこへ 行くのでしょう
  波に揺られて 島のかげ
  汽笛がボウと 鳴りました

3 いつか来た丘 母さんと
  いっしょに眺めた あの島よ
  今日もひとりで 見ていると
  やさしい母さん 思われる

Mikannohana (この絵は2004年の年賀状用にPhotoShopで描いたものです)

《蛇足》 海沼(かいぬま)実は長野県の松代出身で、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の創設者として知られています。

 『あのこはだあれ』『お猿のかごや』『蛙の笛』『カラスの赤ちゃん』『里の秋』『ばあやたずねて』『見てござる』『やさしいおかあさま』『夢のお馬車』など数多くの童謡を作曲していますが、代表作をあえて1つ挙げるとすると、『みかんの花咲く丘』になるでしょう。

 音羽ゆりかご会を創設したのは昭和8年(1933)ですが、昭和20年(1945)4月に海沼の家が空襲で焼けてからは、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の家に寄宿しており、事実上そこが彼の音楽活動の拠点となっていました。
 海沼は、昭和17年
(1942)ごろから姉妹の母親と事実婚状態になり、三女美智子をもうけました。2人は戦後正式に結婚しています。
 上の写真は12歳の時の川田正子です。

 この歌については、非常にあわただしい状況のなかで作られたという話が伝えられています。
 昭和21年
(1946)8月、NHKラジオでは、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校(現在の伊東西小学校)とを中継で結ぶ番組が企画されました。その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいので、何か作ってほしいという注文が海沼に来ました。
 しかし、長野県出身の海沼は、なかなかイメージが浮かばず、とうとう放送前日になってしまいました。

 その日、たまたま加藤省吾という音楽雑誌の記者が正子・孝子にインタビューするために川田家を訪れました。
 加藤は静岡県富士郡大淵村
(現・富士宮市)の出身で、作詞家を目指していました。『かわいい魚屋さん』という童謡のヒット曲がありましたが、その後はめぼしい作品がなく、生活のために雑誌記者をしていたのです。

 彼が静岡出身と聞いた海沼は、これは助かったとさっそく作詞を依頼しました。加藤は、そんな短い時間では無理と断りましたが、海沼は、1回限りの放送用だから気軽に作ればよいと説得しました。それに応じて加藤は、故郷のみかん畑を思い浮かべながら、3聯の詞を書き上げました。

 詞ができあがると、海沼はそれをもち、正子を連れてNHKに走りました。NHK内にあったGHQ(占領軍総司令部)検閲部の検閲を受けるためでした。当時、出版物や放送内容などは事前に必ずGHQの検閲を受けなければならなかったのです。

 童謡ですから、内容には当然問題なく、検閲はパスしました。海沼は正子とともに、その足ですぐ伊東行きの列車に飛び乗りました。列車のなかで海沼は一気に曲を書き上げました。その際ヒントになったのがヴェルディのオペラ『椿姫』のなかの一節だったといわれます。
 というわけで、新しい童謡『みかんの花咲く丘』は、滑り込みセーフで放送に間に合いました。

 この歌の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットになりました。
 昭和58年
(1983)、伊東市によって、宇佐美から亀石峠に向かう途中のみかん園を見下ろす場所に、この歌の歌碑が建てられました。作詞・作曲者の自筆の歌詞と楽譜が刻まれています。

 私の記憶がまちがっていなければ、3番の最後の行は最初、「やさしい母さん偲ばれる」だったと思います。それが、一時期「やさしいねえさん思われる」に置き換えられ、その後今の歌詞になったはずです。
 敗戦後は、空襲などで母親を亡くした子どもが多く、彼らにつらい思いをさせないためだったといわれます。「ねえさん」なら、お嫁にいっていなくなったと説明できますから。
 元の歌詞がむずかしいなどの理由で書き換えるのには賛成できませんが、こういうのはまあいいかなと思います。

 川田正子は平成18年(2006)1月22日に死去しました。71歳でした。

(二木紘三)

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コメント

太平洋戦争末期から戦後の暫くの間は学徒出陣などの影響もあって、資格を持った教員が極端に不足し、代わって、助教諭(いわゆる代用教員)が増えた。 私は敗戦の年を満14歳で迎え、旧制中等学校を昭和24年に卒業後、静岡県のある小学校の理科の専科教員に採用された。
 教員生活は初めは、なじめなかったが、子供たちに科学の知識、化学実験の面白さを教えているうちに、次第に教員生活に意義を感じるようになった。そして、それにも増して、子供たちの歌う唱歌・童謡に惹かれた。一緒に歌うことも多かった。当時、この小学校では、文部省唱歌のほかに、当時の少女歌手の川田正子さんが歌っていた童謡も学校内で歌われていた。特に「みかんの花咲く丘」はよく歌われていた。私はこの歌が好きで、この歌を聞くと心にときめきを感ずることがしばしばであった。
 しかし、私はその後、故あって、小学校教員を止め、進学・転職を繰り返し、いつの間にか五十五年の年月が過ぎ、あの頃一緒に過ごした子供達に合うことが出来ないまま、齢七十六歳に達してしまった。あのときの教え子たちも還暦を過ぎていることであろう。しかし、今でも「みかんの花咲く丘」を聞いたり、歌うと、あの頃のこと思い出し、強い感激にうちふるえる。
 そして、今、川田正子さんの訃報に涙が止まらない。

投稿: 小花 隆司 | 2007年9月 9日 (日) 12時56分

 ぎりぎりの極限状況から、人は“純粋で不滅”のものを生み出すのでしょうか。 二木さんの解説から、この曲は「非常にあわただしい状況」の中から誕生したことが分かりました。追い詰められた土壇場の中から、こんなに純粋で美しい曲が生まれたのだと理解します。
 世界的に有名なフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」も、元はと言えばせっぱ詰まった状況の中で“一夜”にして作られたそうです。18世紀末「革命フランス政府」がオーストリアに宣戦布告をした時、最前線(ストラスブール)にいた工兵大尉のルージェ・ド・リールが一気に作詞作曲をし、それが後に全フランスに広がって国歌になったと言われます。
 童謡の名曲「みかんの花咲く丘」もたった一日で出来上がったのですね。そこに人間の純粋な“発露”を見る思いがします。純粋だからこそ人口に膾炙(かいしゃ)するのでしょう。
 それにしても、二木さんが描いた『海を眺める少女』の絵はなんと可憐なことか!

投稿: 矢嶋武弘 | 2007年11月14日 (水) 21時33分

私は、14才の多感な時期に母を亡くしました。
一人っ子だった私を、それこそ舐めるように可愛がり
愛情の全てを注いで育ててくれました。
そんな母をある日突然亡くした私は
この歌の3番を、歌おうとするたびに
声が震えて、まともに歌えなくなります。
それでも、亡き母を偲ぶ思いがふつふつと
湧き上がるこの歌が大好きです。
今から、41年前の6月、39才の若さで
逝った母。
いつまで、たってもも忘れられない母です。
母の年を越すときは感慨深かったです。

投稿: すずこ | 2007年11月30日 (金) 21時22分

「寒い朝」における奥様の絵といい、この『海を眺める少女』の絵といい、本当に素晴らしい絵画ですねえ。

 二木様の絵を集めた画廊コーナーを造って欲しい気持です。いつでもジャンプしてそこに行けるような。

投稿: 春平太 | 2007年12月 1日 (土) 00時31分

私は戦後すぐの生まれですが、初めて買ってもらったレコードが、この「みかんの花咲く丘」でした。当時、親を亡くした人も多く、また戦争が終わったことを感じさせるこの曲は、人々の気持ちをつかんだのだと思います。私自身も母を早く亡くしたことも加わり、この曲を聴くたびに涙を禁じえません。昨今親子で殺人がおこる世相ですが、多くの人にこの歌を聞いてほしいと思っております。二木様の解説もすばらしく、この曲に力を入れられていることがわかります。わたしも1曲を選ぶならまちがいなくこの曲を選びます。

投稿: hiroaki | 2008年2月11日 (月) 00時00分

埼玉県深谷市『深谷城址公園』脇の浅間神社に『みかんの花咲く丘』の歌詞が刻んである石碑があります。
戦争でこの地に疎開した加藤省吾は静岡の故郷を思い出しながら、書き上げたとあります。

投稿: 穂坂文夫 | 2008年4月10日 (木) 17時28分

海沼実氏が松代の出身だとは知りませんでした。そして川田
正子女史との関係も。島崎藤村、真田昌幸も東信(信州の東
側)ですよね。何故中信には歴史に名を残した人はいないの
でしょうか。

投稿: M.U | 2008年6月30日 (月) 08時59分

M.U様
 島崎藤村は小諸の出身ではなく、信州の南端、馬籠宿の出身です。小諸には教師として6年間滞在しただけ。
 馬籠を含む一帯は、住民の利便性から、先年、岐阜県中津川市に編入されました。名目上、藤村は岐阜県出身ということになってしまったわけですが、藤村文学の主要な部分が信州の風土と密接に結びついていることは事実ですから、信州人としては、出身地の名義を岐阜県にお貸ししているだけ、と思いましょう。
 なお、北信・東信からは松井須磨子、中山晋平、高野辰之、草川信、海沼実など、芸術関係の人材が多数出ています。

投稿: 管理人 | 2008年6月30日 (月) 15時40分

管理人様
真にお手数をおかけしました。色々教えて頂いた事を頭において、過ごしていきたいと思います。

投稿: M.U | 2008年6月30日 (月) 16時15分

私もこの歌を聞くと感動を覚え胸が熱くなります。童謡の世界には父、母、兄弟などの家族、友達が出てきて暖かな人間の感情が伝わってきます。今の日本には希薄になっているもので、童謡の中にある日本人の心、美しさを次の世代に受け継いでいってほしいと思います。

投稿: ひろくま | 2008年7月11日 (金) 23時44分

私は愛媛県松山市に住んでいます。
愛媛県はみかんの生産が全国一で我が家の庭にもみかんの木が一本あります。
食べた夏みかんの種から芽吹いたものです。

画像は実に仄々としていますね。
私のブログの日記にこの画像をUPさせて頂きたいのですが…。
もちろん出典は明らかにいあたします。
どうぞ宜しくお願いいたします。

投稿: やすお | 2008年7月12日 (土) 15時42分

 正月に貰ったお年玉を持って、歩いて小一時間もかかる隣町までハ-モニカを買いに行った事が有ります。小学生の頃の事です。
 練習曲は、我流で、白地に赤く・・・「日の丸のうた」?からやがて、この「みかんの花咲く丘」まで吹ける様になりました。前奏から・・・・間奏の、忙しく吹いたり吸ったりのところでは、何度も何度も練習して・・・・・
 いまでもこの曲は得意曲の一つです。口の横が切れるのが辛かった・・・・・

投稿: Hikoさん | 2008年8月 2日 (土) 22時33分

 もう一度、この「みかんの花咲く丘」をノミネ-ト!
 仕舞いこんでいたハ-モニカを出して来て、吹いてみました。うた物語の「みかんの花咲く丘」と、いわゆるセッションを試みたと言う訳です。
 最初のうちはチョットぎこちなかったものの、3番辺りまで来ると、大体合って来て、2回目からは、もうバッチリ・・・・
 キ-も丁度で言う事なし。まさに自画自賛です。
 楽しみがまた一つ増えました・・・・・happy01

投稿: Hikoさん | 2008年8月 3日 (日) 11時01分

私は日本語ボランティアをしています。前に1年間ほどアメリカ人の26歳女性を教えていたとき、日本の歌を教えて欲しいと言われ、「みかんの花咲く丘」を歌入りテープにして教えてあげました。その時この歌のイメージが浮かぶように、申し訳ありませんが、この二木先生の絵入り歌詞のコピーを上げました。彼女は、「とてもきれいな絵ですね」と非常に喜びました。

2ヵ月後、日本語スピーチ発表会がありましたが、彼女は歌も歌いました。それは「みかんの花咲く丘」でした。

投稿: 吟二 | 2008年10月22日 (水) 09時29分

信州出身の作詞家、作曲家の手になる童謡・唱歌は優れたものが多いとの事。ふるさとの歌百選のアンケートで
ベスト10の中に5曲入っています。故郷、朧月夜、春
の小川、夕焼け小焼け、みかんの花咲く丘だそうです。

投稿: 海道 | 2009年2月 1日 (日) 21時32分

 この歌が発表された翌年に生まれた私など、川田正子さんの歌声とともに大きくなったような気がします。なんにも無い、貧しい時代でした。それだけに子供たちには夢がいっぱいあった時代でした。曇り空の日本海しか知らず、蜜柑の木など見たことも無かった私にとって、この童謡はまだ見ぬ世界の夢と憧れを運んでくれた特別の歌でした。何度歌ったことでしょう。3番の詩はとても切ないけれど、このやさしく伸びやかなメロディがしみじみと心を癒してくれますね。

  亡き母や 海見るたびに 見るたびに (一茶)

投稿: くまさん | 2009年2月13日 (金) 12時38分

昭和27年、私が田舎の小学校4年生のときの学芸会、私たちが出る二つ前に6年生が“みかんの花が”を合唱していたのを思い出します。練習のとき講堂の舞台でタクトを振るお姉さんがとてもきれいな人でした。
そのときの思い出とともに、そのとき覚えた歌詞、メロディが好きになり今でも、どこかでこのメロディが聞こえてくると口ずさみたくなります。特に“今日もひとりで見ているとやさしい母さん思われる“という最後の歌詞がとても好きです。

投稿: 谷村 | 2009年6月17日 (水) 11時08分

この歌を初めて聴いたのは、行事に母が歌ったからです。
3番の歌詞は今の私の気持ちそっくりです。

投稿: C,M | 2009年9月 7日 (月) 19時45分

この歌を聴くと、なぜ涙が出るのでしょう。
私は、現在、52歳ですが。
とにかく、この歌は、最高です!

投稿: こうちゃん | 2009年11月25日 (水) 21時08分

 再び、カキコします。
 この歌が収録されたCDが出ています。もちろん、オリジナル原盤(昭和21年の音源)からの、リマスター盤です。
 コロンビア、COCX-33837-8 です。
 蛇足ながら、参考まで。

投稿: こうちゃん | 2009年11月25日 (水) 21時30分

私なりの3番の替え歌です。

施設から見た海亡き母と
一緒に眺めた綺麗な夕日を
今日も夕日を見ていると
優しい母を想い出す

どうでしょう。

母は、2年前に家で急に他界しました

投稿: c,m | 2010年6月16日 (水) 20時58分

この歌を子供の頃小学校の音楽の時間で歌った事を思い出します。何時しか歳を重ねた今この歌聞くと何と無く胸が熱く成り涙がこぼれて来ます。
終戦後何も無い時期にラヂオから聞こえたこの歌は今でも新鮮に聞こえてきます。後の世に必ず歌い継がれてゆく不朽の名作です。どうかこうゆう歌を沢山小学校や中学校でも教えて上げてほしいものです殺伐とした現代社会で心のやさした、おもいやりの心父母、兄弟、友達を大切にする本当の日本人の心が甦りますと思います。

投稿: at | 2010年11月28日 (日) 14時09分

先日、私は幼稚園の音楽祭に誘われて静岡県に行きました。
富士宮市のホールは改修工事中のため、富士市の本格的なコンサートホールを借りて行われた音楽祭は、合唱、合奏、音楽劇などプログラムが充実し、幼稚園児にしては高いレベル、クラシックに属するような数曲の堂々たる合奏は見事でした。
しかし何よりも感動し思わず涙が零れたのは、昔からの童謡など、懐かしい美しい曲が多数演奏され合唱された時です。
作詞者加藤省吾氏ゆかりの地で聴く「みかんの花咲く丘」は格別でした。他にも「しゃぼん玉」「ゆりかごの歌」「肩たたき」「待ちぼうけ」「ふるさと」「旅愁」「野ばら」など。昨年は「夜汽車」も演奏されたのだとか…。
今でも古い曲や、その美しい日本語詞を大切に教えている幼稚園があることが心からうれしく、幸せな思いで新幹線に乗り東京駅につくまでの間、心の中で何度も「みかんの花」を歌ったのでした。

投稿: 眠り草 | 2010年12月11日 (土) 13時04分

戦後生まれの貧しい時代をすごした私には、様々な童謡・唱歌がありました。
中でもこの歌は、今でも亡き母を思い出す素晴らしい歌だと思います。
優しかった母。強かった母。色々な形容が出来る母は、今でも心の中から消え去ることがありません。特にこの歌を聴くと、その想いを一層強くします。
年に数回、兄弟や叔母達と食事をしますが、話題の中心は貧しかった時代の母の苦労話です。その母が亡くなって今年で26年。64才となり亡き母の年に近ずくにつれ、感謝の気持ちが一層増してくる今日この頃です。

投稿: YASUO | 2011年11月24日 (木) 12時45分

この歌が発表された頃「リンゴの唄」も流行っており戦後はリンゴとみかんで始まったと池田小百合先生が申しています。

投稿: 海道 | 2012年5月22日 (火) 19時19分

来年の県人会の集いでの我が長野県の出し物はハーモニカ付きの「春の小川」「みかんの花咲く丘」「夕焼け
小焼け」に決め練習を開始しました。いずれも名歌です。市民の方々に長野県は良い歌が多いですねと何時も言われます。私じゃ無い先人が偉かったのですよね。

投稿: 海道 | 2012年8月23日 (木) 05時59分

 昭和45年頃の話ですから大昔、大学の友人に頼まれて1週間ほどみかんの収穫を手伝ったことがあります。彼の実家がみかん農家で人手不足だったようです。行き先は広島県三原市の沖合にある高根(こうね)島、小さな島でした。近くの島々もみかん栽培が盛んでしたが、高根島産のものはとくに美味しくて値が高いと彼は言っていました。今でいうブランドですね。鈴なりに実ったみかんの木に脚立を立てて一日中実をもぎます。周りは海で時々汽船も通る、まさに「みかんの花咲く丘」の世界でした。島のむこうに三原側の筆影(ふでかげ)山の高い頂が見えました。管理人さんの挿絵とは逆の、みかんの島から本州の山を見る風景ですね。40年以上も昔の出来事になりましたが、あの時ながめたみかんの黄色、葉っぱの緑、海の青、汽船の船体の白は忘れられない。この歌は静岡で数奇ないきさつとともに生まれた歌ですが、全国版の歌ですね。もしも静岡限定の風景、たとえば富士山などを歌詞に入れたら歌の広がりは小さかったでしょうね。そういえば、当時の歌「青い山脈」「リンゴの歌」も地名を特定していない。日本新生のための全国民へのエールだったんですね。

投稿: 久保 稔 | 2012年9月19日 (水) 22時28分

終戦間際に生まれた親爺です。私の母も母子家庭の経済的困窮?から、私が10代の前半の頃に再婚しましたが。8年後に58歳で他界しました。母の歳を遥かに越した今、この歌を聴くと、こみ上げて来るものを堪える事が出来ません。何度このプログを拝読しても、涙で文字が滲んで最後まで見る事が出来ません。

投稿: 赤城山 | 2013年5月 4日 (土) 18時43分

昭和28年、私が中学2年生の時、貝沼実氏と川田孝子さんが私の通っている学校に来られていくつかの童謡を歌って下さいました。孝子さんは多分高校2,3年になって居られたと思います。私たちの学校の制服姿で可愛い声ではなく綺麗な声で歌われました。みかんの花咲く丘はいまだに耳に残っております。正子さんは変声期から引退されていたようですが、孝子さんには変声期がなかったようです。色白の可愛い顔の方でした。懐かしい思い出です。

投稿: ハコベの花 | 2014年2月20日 (木) 19時35分

数年前、家の近くで出前歌声喫茶というのがありました。当時心臓病で療養休暇中だった私は何かでこの出前歌声を知り、少し外へ出てみようと参加しました。会場で開会まで懐かしい歌が流れており、その中にこの曲がありました。何気なく聞き流していたのですが、3番の歌詞が聞こえてくるとなぜか胸が熱くなり、「やさしいかあさん(85歳になります)思われる」では思わず涙が流れました。私の母は今も健在で週に1度は顔を合わせるにも関わらず、泣いてしまったのです。優しいメロディーと素直な歌詞に心打たれたのだと思います。

投稿: 三不亭春峰 | 2015年3月17日 (火) 22時25分

今大4の娘が小学3年の時ピアノの発表会でお母さんたちで歌いました。ピアノの先生が松山出身で「好きなので歌って」とおっしゃったからです。先生はもうお孫さんがいる方ですが、定期的に歌の発表会もされる精力的な方で尊敬していました。私はこういう良い歌を埋もれさせず、口伝えでもいいので後世に伝えていかないといけないなと思います。ピアノの先生から私たちに伝わりましたので、私も機会があれば大人になった娘に歌って聞かせたいなと思います。
話はそれますが、この時期美味しいみかんがたくさんでますが、鹿児島の叔母から送ってもらっているサワーポメロという蜜柑がとてもおいしいです。高知の文旦に似ていますが少し違います。むくのが少し大変なのですが、よかったらお試しください。

投稿: ぽん | 2015年3月28日 (土) 08時43分

’みかんの花咲く丘’、大好きです。小学生の時分にはよく歌いました。といっても人前で歌うことは気恥ずかしくてありませんでした。「お船はどこへ行くのでしょう」とありますようにその歌詞の上品さから女の子のための歌だと思っていたからです。

私の故郷には二木先生の描かれた絵の構図と同じように青い海原と麓の街を見晴らすことのできる丘があります。かってはその丘に私の実家の畑がありました。私は畑につながる丘の道を歩きながらぶつぶつと小さな声でこの歌を歌ったものです。

もう一度あの小道を踏みしめて丘に登ってみたいと思うのですがもう懐かしいあの道も畑もありません。
市の事業で舗装された広い道路ができ、丘の上には駐車場や休憩所、公園などが整備され、丘の様相はすっかり変わってしまいました。今ではあの小道も畑ももうどこにあったのかわかりません。悲しくて残念です。

しかし今でも丘の上から麓の町並みや海原を眺めることはできます。今度田舎に帰った時、丘の上でまたこの歌をうたってみたいと思っています。

投稿: yoko | 2015年10月 1日 (木) 23時45分

はじめまして、2007年に交通事故で骨折してリハビリのために伊豆 月ヶ瀬の慶應病院に入院しました2か月、起床のメロディーが みかんの花咲く丘 でした、子供のころからとても好きな歌でしたから楽しい毎日でした。 米国シアトルに住む姪がボランティアで合唱のピアノをひく機会がありプログラムに みかんの花咲く丘 があってステキは時間でした。ネットでこの歌が生まれた秘話を知り伊東のゆかりの宿に記念碑があるというので いつか 見てみたいです。 それにしてもすばらしい歌ですね。

投稿: 芝公園の桜 | 2016年4月17日 (日) 19時43分

この歌を聴くとなぜか幼かった頃のことが思い出されます。

投稿: kawakami | 2017年2月22日 (水) 00時05分

二木先生の軽快な演奏に心も弾んできます。
四方を山に囲まれて、しかも生家の裏はすぐに里山でした。その為に 海への憧れを誘うこの歌はとても好きでした。皆様のコメントにもあるように明るいのに何故か涙が込み上げてく歌でもあります。過ぎた日々を呼び起こす歌です。ましてや早いうちに母親を亡くされた方の心情は察して余りあります。

昭和10年前後生まれ(私の長姉世代) の村の青年、娘たちは静岡のミカン農家へ出稼ぎに行ったそうです。
皆みんな貧しいい時代でした。私の姉は川崎の海苔屋さんへ出稼ぎに行きました。春になって、両手に抱えきれないほどのお土産を首を長くして待っていました。今はどんな僻地の子も東京弁。隔世の感があります。
農村と都市部との格差が大きな時代でした。何しろ周りの親も祖父母も「おらの娘は東京さ嫁行ったんだ。東京の川崎だ ̄群馬だ ̄千葉だ~栃木だ~埼玉だ
関東一円を東京呼ばわり~加えて 中部地方の  静岡も立派な東京でした。

投稿: りんご | 2017年2月23日 (木) 15時50分

この歌は大好きで子供のころよく口ずさみました。しかし、3番は歌えませんでした。私の母は優しくはなく、私は一人っ子でもなかったので甘えられませんでした。私は体躯も動作も同世代の子供たちよりも、また弟よりも劣っていることを自覚していましたので大人達のちょっとした言葉の端々にも傷つきました。したがって3番は子供心にも現実とのかい離を感じていました。優しくて甘えられるお母さんは空想上の憧れでした。

母は晩年痴ほうが進み介護ホームのお世話になりました。面会に行くと満面の笑顔で迎えてくれました。「今おこずかいを持っていないので食べるものを買いに行くことことができない、ごめんね」と言いました。あるとき、「私は自分の齢がわからないのだが今何歳なのだろうか、もう40歳くらいにはなったのだろうか」、と私に尋ねました。また、「私は時々自分がどこにいるのかわからなくなる、私はもうだめだね・・・」とつぶやいたこともありました。数年前他界しましたが最後まで私を判別することはでき、別れるときはホームの玄関で私が見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。

投稿: yoko | 2017年2月25日 (土) 10時36分

yoko 様の書いたものを読ませて頂くたびに、私が母に抱いている感情と似ているように思えます。たぶん私の母もyoko様のお母様も私たちに期待しているものが大きかったのではないでしょうか。私の母は私が生まれる前に女学校2年だった長女を風邪が脳へ入る病気で亡くしています。昭和12,3年ごろだと思います。学業優秀でずっと級長できれいで優しくて自慢の娘だったようです。期待した15年生まれの私が全く亡くなった長姉とは反対でがっかりしたのでしょうね。事あるごとに私に嫌味が返ってきました。私は母に「あんたは継母なのだ」と言い返していました。母の気持ちが読み取れなかったのです。姉は姉、私は私だと思っていましたので、いつも母にはっきり文句を言っていました。兄たち4人も母を知っている人みんな母は優しい良い人だったと言います。あの世とやらがあったにしても私は母に会いたいと思いません。あの戦後の混乱期を必死で守ってくれたことは感謝してはいますが、何か大きなこだわりが消えないのです。母を思って涙する事はありません。

投稿: ハコベの花 | 2017年2月25日 (土) 12時28分

みかんの花咲く丘♪この歌が今もなおこんなに多くの方に愛され続けているのは、歌詞の良さと海沼メロディの魅力も大きいと思いますが、それよりも何と言ってもこの歌(歌ったのは戦後です)を戦時中に最も国民に愛されていた。童謡歌手の川田正子さんが、歌ったからだと感じています。
戦後生まれで若輩者の私が言うのも大変おこがましく恐縮するのですが、どうしてもそう思えてしまうのです。
長田暁二さんの解説では、戦局の激化に伴って、東京からは多くの方々が地方へ疎開して行き、さらに敗戦直前の7月には、実の母と妹の孝子、美智子までも疎開する中で、身の危険も顧みず、川田正子はそれでも海沼と東京に残り、私は死んでもいいから歌っていたいと言ったと書いてありました。この解説にもありますが、戦争中において、多くの不安な人たちを、どれだけ勇気づけたか、はかり知れないと! 戦争を知らないこの私も心からそう思いました。
私の好きなこの歌詞の2番の ♪波に揺られて島のかげ 汽笛がボウとなりました♪ 二木先生の絵の様です。

投稿: 芳勝 | 2017年12月 1日 (金) 22時36分

昭和50年、新卒で赴任した小学校で2年生を担任しました。なにが何やらわからないまま2学期を迎えると秋の音楽会があり各クラスごとに2曲歌わなくてはならないとのこと。担任の音楽の指導ぶりも試されます。
全校生徒や保護者の方々も聞きに来るのでどのクラスも一生懸命練習していました。
でも、私は音楽は大の苦手です。ピアノもやっとこさ弾ける程度。一曲は教科書の中から選び、もう一曲は自由に選んでいいとのことでしたが私が選んだ自由曲は「みかんの花咲く丘」でした。
私がこの曲をどこで覚えたかは定かではありませんが、小さいころから口ずさんでいた大好きな曲だったからです。
もちろん、当時のクラスの子供たちは誰一人知らない曲です。
でも、子供たちは一生懸命練習して音楽会では見事な歌声を披露してくれました。
川田正子さんの歌も素晴らしいですが、クラスの子供たちの歌声も純粋で澄んでいて指揮をしながら胸が熱くなったのを思い出されます。
伊東市に歌碑があるとのこと、いつか訪れてみたいです。

投稿: MIKO | 2017年12月 2日 (土) 00時39分

 MIKO様、音楽発表会は大変なプレッシャーの中であったのですね。小生は音楽のことはさっぱりわからないので音楽の担当の方に全部お願いしていましたところ、なんと学年で8クラス中,1位なったとかで大変驚きました。曲名は「冬が来る前に」だったと思います。次年度も同じ歌で出場しましたが、学年が進んだこともあり、連続とはいかなかったようです。平成5年ごろのことです。

投稿: 今でも青春 | 2017年12月 2日 (土) 20時45分

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