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みかんの花咲く丘

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:加藤省吾、作曲:海沼実、唄:川田正子

1 みかんの花が咲いている
  思い出の道丘の道
  はるかに見える青い海
  お船がとおくかすんでる

2 黒い煙をはきながら
  お船はどこへ行くのでしょう
  波に揺られて島のかげ
  汽笛がボウと鳴りました

3 いつか来た丘母さんと
  いっしょに眺めたあの島よ
  今日もひとりで見ていると
  やさしい母さん思われる

Mikannohana       (この絵は2004年の年賀状用にPhotoShopで描いたものです)

《蛇足》 海沼(かいぬま)実は長野県の松代出身で、児童合唱団「音羽ゆりかご会」の創設者として知られています。

 『あのこはだあれ』『お猿のかごや』『蛙の笛』『カラスの赤ちゃん』『里の秋』『ばあやたずねて』『見てござる』『やさしいおかあさま』『夢のお馬車』など数多くの童謡を作曲していますが、代表作をあえて1つ挙げるとすると、『みかんの花咲く丘』になるでしょう。

 音羽ゆりかご会を作るころから、海沼は、童謡歌手の川田正子・孝子姉妹の家に寄宿しており、事実上そこが彼の音楽活動の拠点となっていました。のちに姉妹の母親と正式に結婚し、三女美智子をもうけています。

 この歌については、非常にあわただしい状況のなかで作られたという話が伝えられています。
 昭和21年
(1946)8月、NHKラジオでは、東京のスタジオと伊豆半島・伊東市の小学校(現在の伊東西小学校)とを中継で結ぶ番組が企画されました。その番組で「静岡にふさわしい童謡」を川田正子に歌わせたいので、何か作ってほしいという注文が海沼に来ました。
 しかし、長野県出身の海沼は、なかなかイメージが浮かばず、とうとう放送前日になってしまいました。

 その日、たまたま加藤省吾という音楽雑誌の記者が正子・孝子にインタビューするために川田家を訪れました。
 加藤は静岡県富士宮の出身で、作詞家を目指していました。『かわいい魚屋さん』という童謡のヒット曲がありましたが、その後はめぼしい作品がなく、生活のために雑誌記者をしていたのです。

 彼が静岡出身と聞いた海沼は、これは助かったとさっそく作詞を依頼しました。加藤は、そんな短い時間では無理と断りましたが、海沼は、1回限りの放送用だから気軽に作ればよいと説得しました。それに応じて加藤は、故郷のみかん畑を思い浮かべながら、3聯の詞を書き上げました。

 詞ができあがると、海沼はそれをもち、正子を連れてNHKに走りました。NHK内にあったGHQ(占領軍総司令部)検閲部の検閲を受けるためでした。当時、出版物や放送内容などは事前に必ずGHQの検閲を受けなければならなかったのです。

 童謡ですから、内容には当然問題なく、検閲はパスしました。海沼は正子とともに、その足ですぐ伊東行きの列車に飛び乗りました。列車のなかで海沼は一気に曲を書き上げました。その際ヒントになったのがヴェルディのオペラ『椿姫』のなかの一節だったといわれます。
 というわけで、新しい童謡『みかんの花咲く丘』は、滑り込みセーフで放送に間に合いました。

 この歌の反響はものすごく、聴取者からの要望に応えてレコード化され、童謡としては空前の大ヒットになりました。
 昭和58年
(1983)、伊東市によって、宇佐美から亀石峠に向かう途中のみかん園を見下ろす場所に、この歌の歌碑が建てられました。作詞・作曲者の自筆の歌詞と楽譜が刻まれています。

 私の記憶がまちがっていなければ、3番の「母さん」は、一時期「ねえさん」に置き換えて歌われていたはずです。敗戦後は、空襲などで母親を亡くした子どもが多く、彼らにつらい思いをさせないためだったといわれます。「ねえさん」なら、お嫁にいっていなくなったと説明できますから。
 元の歌詞がむずかしいなどの理由で書き換えるのには賛成できませんが、こういうのはまあいいかなと思います。

 川田正子は平成18年(2006)1月22日に死去しました。71歳でした。

(二木紘三)

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コメント

太平洋戦争末期から戦後の暫くの間は学徒出陣などの影響もあって、資格を持った教員が極端に不足し、代わって、助教諭(いわゆる代用教員)が増えた。 私は敗戦の年を満14歳で迎え、旧制中等学校を昭和24年に卒業後、静岡県のある小学校の理科の専科教員に採用された。
 教員生活は初めは、なじめなかったが、子供たちに科学の知識、化学実験の面白さを教えているうちに、次第に教員生活に意義を感じるようになった。そして、それにも増して、子供たちの歌う唱歌・童謡に惹かれた。一緒に歌うことも多かった。当時、この小学校では、文部省唱歌のほかに、当時の少女歌手の川田正子さんが歌っていた童謡も学校内で歌われていた。特に「みかんの花咲く丘」はよく歌われていた。私はこの歌が好きで、この歌を聞くと心にときめきを感ずることがしばしばであった。
 しかし、私はその後、故あって、小学校教員を止め、進学・転職を繰り返し、いつの間にか五十五年の年月が過ぎ、あの頃一緒に過ごした子供達に合うことが出来ないまま、齢七十六歳に達してしまった。あのときの教え子たちも還暦を過ぎていることであろう。しかし、今でも「みかんの花咲く丘」を聞いたり、歌うと、あの頃のこと思い出し、強い感激にうちふるえる。
 そして、今、川田正子さんの訃報に涙が止まらない。

投稿: 小花 隆司 | 2007年9月 9日 (日) 12時56分

 ぎりぎりの極限状況から、人は“純粋で不滅”のものを生み出すのでしょうか。 二木さんの解説から、この曲は「非常にあわただしい状況」の中から誕生したことが分かりました。追い詰められた土壇場の中から、こんなに純粋で美しい曲が生まれたのだと理解します。
 世界的に有名なフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」も、元はと言えばせっぱ詰まった状況の中で“一夜”にして作られたそうです。18世紀末「革命フランス政府」がオーストリアに宣戦布告をした時、最前線(ストラスブール)にいた工兵大尉のルージェ・ド・リールが一気に作詞作曲をし、それが後に全フランスに広がって国歌になったと言われます。
 童謡の名曲「みかんの花咲く丘」もたった一日で出来上がったのですね。そこに人間の純粋な“発露”を見る思いがします。純粋だからこそ人口に膾炙(かいしゃ)するのでしょう。
 それにしても、二木さんが描いた『海を眺める少女』の絵はなんと可憐なことか!

投稿: 矢嶋武弘 | 2007年11月14日 (水) 21時33分

私は、14才の多感な時期に母を亡くしました。
一人っ子だった私を、それこそ舐めるように可愛がり
愛情の全てを注いで育ててくれました。
そんな母をある日突然亡くした私は
この歌の3番を、歌おうとするたびに
声が震えて、まともに歌えなくなります。
それでも、亡き母を偲ぶ思いがふつふつと
湧き上がるこの歌が大好きです。
今から、41年前の6月、39才の若さで
逝った母。
いつまで、たってもも忘れられない母です。
母の年を越すときは感慨深かったです。

投稿: すずこ | 2007年11月30日 (金) 21時22分

「寒い朝」における奥様の絵といい、この『海を眺める少女』の絵といい、本当に素晴らしい絵画ですねえ。

 二木様の絵を集めた画廊コーナーを造って欲しい気持です。いつでもジャンプしてそこに行けるような。

投稿: 春平太 | 2007年12月 1日 (土) 00時31分

私は戦後すぐの生まれですが、初めて買ってもらったレコードが、この「みかんの花咲く丘」でした。当時、親を亡くした人も多く、また戦争が終わったことを感じさせるこの曲は、人々の気持ちをつかんだのだと思います。私自身も母を早く亡くしたことも加わり、この曲を聴くたびに涙を禁じえません。昨今親子で殺人がおこる世相ですが、多くの人にこの歌を聞いてほしいと思っております。二木様の解説もすばらしく、この曲に力を入れられていることがわかります。わたしも1曲を選ぶならまちがいなくこの曲を選びます。

投稿: hiroaki | 2008年2月11日 (月) 00時00分

埼玉県深谷市『深谷城址公園』脇の浅間神社に『みかんの花咲く丘』の歌詞が刻んである石碑があります。
戦争でこの地に疎開した加藤省吾は静岡の故郷を思い出しながら、書き上げたとあります。

投稿: 穂坂文夫 | 2008年4月10日 (木) 17時28分

海沼実氏が松代の出身だとは知りませんでした。そして川田
正子女史との関係も。島崎藤村、真田昌幸も東信(信州の東
側)ですよね。何故中信には歴史に名を残した人はいないの
でしょうか。

投稿: M.U | 2008年6月30日 (月) 08時59分

M.U様
 島崎藤村は小諸の出身ではなく、信州の南端、馬籠宿の出身です。小諸には教師として6年間滞在しただけ。
 馬籠を含む一帯は、住民の利便性から、先年、岐阜県中津川市に編入されました。名目上、藤村は岐阜県出身ということになってしまったわけですが、藤村文学の主要な部分が信州の風土と密接に結びついていることは事実ですから、信州人としては、出身地の名義を岐阜県にお貸ししているだけ、と思いましょう。
 なお、北信・東信からは松井須磨子、中山晋平、高野辰之、草川信、海沼実など、芸術関係の人材が多数出ています。

投稿: 管理人 | 2008年6月30日 (月) 15時40分

管理人様
真にお手数をおかけしました。色々教えて頂いた事を頭において、過ごしていきたいと思います。

投稿: M.U | 2008年6月30日 (月) 16時15分

私もこの歌を聞くと感動を覚え胸が熱くなります。童謡の世界には父、母、兄弟などの家族、友達が出てきて暖かな人間の感情が伝わってきます。今の日本には希薄になっているもので、童謡の中にある日本人の心、美しさを次の世代に受け継いでいってほしいと思います。

投稿: ひろくま | 2008年7月11日 (金) 23時44分

私は愛媛県松山市に住んでいます。
愛媛県はみかんの生産が全国一で我が家の庭にもみかんの木が一本あります。
食べた夏みかんの種から芽吹いたものです。

画像は実に仄々としていますね。
私のブログの日記にこの画像をUPさせて頂きたいのですが…。
もちろん出典は明らかにいあたします。
どうぞ宜しくお願いいたします。

投稿: やすお | 2008年7月12日 (土) 15時42分

 正月に貰ったお年玉を持って、歩いて小一時間もかかる隣町までハ-モニカを買いに行った事が有ります。小学生の頃の事です。
 練習曲は、我流で、白地に赤く・・・「日の丸のうた」?からやがて、この「みかんの花咲く丘」まで吹ける様になりました。前奏から・・・・間奏の、忙しく吹いたり吸ったりのところでは、何度も何度も練習して・・・・・
 いまでもこの曲は得意曲の一つです。口の横が切れるのが辛かった・・・・・

投稿: Hikoさん | 2008年8月 2日 (土) 22時33分

 もう一度、この「みかんの花咲く丘」をノミネ-ト!
 仕舞いこんでいたハ-モニカを出して来て、吹いてみました。うた物語の「みかんの花咲く丘」と、いわゆるセッションを試みたと言う訳です。
 最初のうちはチョットぎこちなかったものの、3番辺りまで来ると、大体合って来て、2回目からは、もうバッチリ・・・・
 キ-も丁度で言う事なし。まさに自画自賛です。
 楽しみがまた一つ増えました・・・・・happy01

投稿: Hikoさん | 2008年8月 3日 (日) 11時01分

私は日本語ボランティアをしています。前に1年間ほどアメリカ人の26歳女性を教えていたとき、日本の歌を教えて欲しいと言われ、「みかんの花咲く丘」を歌入りテープにして教えてあげました。その時この歌のイメージが浮かぶように、申し訳ありませんが、この二木先生の絵入り歌詞のコピーを上げました。彼女は、「とてもきれいな絵ですね」と非常に喜びました。

2ヵ月後、日本語スピーチ発表会がありましたが、彼女は歌も歌いました。それは「みかんの花咲く丘」でした。

投稿: 吟二 | 2008年10月22日 (水) 09時29分

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