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若者たち

(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:藤田敏雄、作曲:佐藤 勝
唄:ザ・ブロードサイド・フォー

1 君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで

2 君のあの人は 今はもういない
  だのになぜ 何をさがして
  君は行くのか あてもないのに

3 君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

《蛇足》 昭和41年(1966)2月7日から同年9月30日まで計34話放映されたフジテレビ系列の連続ドラマ『若者たち』の主題歌です。映画監督・黒澤明の長男の黒澤久雄がリーダーだったザ・ブロードサイド・フォーが歌いました。

 『若者たち』は、毎週1回、夜8時から56分間放送されました。放映日は、5回目までは月曜日でしたが、6回目から金曜日になりました。この時代ですから、もちろんモノクロです。
 脚本は山内久、早坂暁、立原りう、清水邦夫、布勢博一、寺田信義、大野靖子、多賀祥介、山田正弘、林秀彦、大西信行、田村孟、菅孝行が交替で担当しました。このメンバーは、のちに脚本家や小説家としてめざましい活躍をします。

 両親が亡くなった佐藤家の5人きょうだいが織りなす哀歓の物語で、土建会社の設計技師の長兄太郎を田中邦衛、長距離トラックの運転手の次兄次郎を橋本功、兄たちが将来を託して大学に入れた三郎を山本圭、妹のオリエを佐藤オリエ、一浪して受験戦争に悩む末吉を松山省二(のちに政路に改名)が演じました。
 ドラマの詳しい内容については、下記KeiichiKodaさんのコメントをご覧ください。

 このドラマシリーズほど、高い支持を受けながら中止の圧力にさらされ続けた作品は、ほとんど見当たりません。
 放送開始日の昭和41年
(1966)2月7日・月曜日の朝日新聞・毎日新聞に掲載された番組紹介では、「52回の連続ドラマ」となっていました。しかし、実際には34回で放送が打ち切られ、しかも第33回は放映中止になったので、33本しか放映されませんでした。

 この放映短縮に至る経緯には、興味深い事情が記録されています。
 後述する映画版『若者たち』の上映前の挨拶で、脚本の山内久が語ったところによると、最初の6本を撮り終えたところで、会社の上層部から、「この企画は取り止めだ。暗いし、金のかかる割には視聴率が上がらない。打ち切りだ」といわれたそうです。
 通告を受けた森川時久監督は、「これだけ担当者や関係者が熱意をもってやっている企画はありません。どうか継続させてくださいとお願いしたのだが、けんもほろろに拒否された」と、出演者や制作スタッフたちに伝えました。そのとき、長男・太郎役の田中邦衛がこういったそうです。

 「俺はいいよ。変質者とか殺人鬼とか、そういう役ばかり俺はやってきたんだ。それが、働いて4人の弟妹たちを育てる、そんな労働者の役をやらせてもらった。これをもとにして、もっといい演技を創造していくから、俺はいいよ」
 それは、聴く者を感動させるほど心のこもった発言だったといいます。本来会社側に立つはずの編成課長たちも、これに心を打たれ、どう説得したのかわからないが、経営幹部に継続を承知させたといいます。
 のちに独特の演技世界を築くほどの役者は、若いうちから心がけが違うということをうかがわせるエピソードです。

 しかし、放映打ち切りの圧力は続きます。
 同年8月28日付の朝日新聞に、「
(このドラマは)9月末で終るという。スタッフの疲労が原因だともいうが残念なことである」という記事が載りました。
 このとき疲労で倒れたのは、スタッフではなくて出演者の山本圭でしたが、出演者の1人の病気で番組を打ち切るというのは、通常はあり得ません。設定を変えれば済むことです。実際、『山内久 人とシナリオ』
(シナリオ作家協会刊)に、山本圭はベッドで寝ていてセリフを喋る設定に変えて乗り切った、とあります。
 このことは、フジテレビの幹部がなんでもいいから打ち切りの口実を探していたことを如実に物語っています。

 打ち切りのニュースが伝わると、終了を惜しみ、継続を求める投書が殺到し、さらには局を訪ねて直訴する若者たちまで現れたといいます。継続を求める投書は、最終的には20万通にも達したそうです
(『山内久 人とシナリオ』)

 あまりの人気に、打ち切り一時留保との声も局内にはあったようですが、やがて、宣言どおり9月末で打ち切るのにかっこうの事件が起こりました。
 9月23日に放映予定だった第33回『さようなら』は、朝鮮人であることを隠してきた娘が次第に目ざめていく過程を通じて、日本人の差別意識を考えさせる内容でした。
 その放映直前の9月17日に、北朝鮮の漁船員が船長らを射殺して日本に亡命するという事件
(平新艇事件)が起こりました。その処理をめぐって日韓関係が微妙な情勢になっている状況で、この差別問題はまずいということで、この回はほかの番組に差し替えられたのです。そして、もう1本放映したあと、このシリーズは打ち切られました。

 それでは、フジテレビの経営幹部は、なぜこのドラマをそれほどまでに打ち切りたかったのでしょうか。
 『若者たち』の放映初期に打ち切りの理由としたのは、内容が暗いということでしたが、これはきわめて主観的です。長男は、弟妹を養うために中学2年で学校をやめて働きだし、次男も中卒で働き始めます。当然収入は低く、生計はぎりぎり、弟妹にはそれぞれに自己主張がありますから、喧嘩も多くなります。
 しかし、どんなに激しく喧嘩しても、すぐに仲直りして助け合います。その有様は、むしろすがすがしいほどです。
 ただ暗いだけのドラマなら、これほど多くの人びと、とりわけ若者たちの共感と支持を得たはずがありません。視聴率も、初期こそ低かったものの、こうした共感・支持を反映して、社会派ドラマとしては異例の高さを示すようになりました。
 暗いとか視聴率が低いというのは、事実を反映していなかったことがわかります。

 フジの幹部がこのドラマを打ち切りたかった理由としては、次のような情勢が考えられます。
 この時代の自民党は、現在と同じように国会で圧倒的多数を維持しており、その力を背景に、"ミニ・マッカーシー"というか私的な思想警察のような勢力が教育や報道、出版の"偏向"を糾弾する運動を展開していました。攻撃対象の選び方は恣意的であり、糾弾の内容は非論理的でしたが、大ざっぱにいえば、政治批判や社会批判は許さないというものでした。

 昭和40年代初めごろ、私が編集に関わっていた雑誌に載った記事が『自由新報』に"偏向している"と糾弾され、編集長と副編集長が自民党本部だか『自由新報』編集部だかに釈明に飛んでいったことがありました。
 福田善之の青春小説で第一次安保闘争に触れた部分だったような気がしますが、これについては記憶があいまいです。とにかく一般の新聞や出版物では普通に取り扱われているような内容でした。
 若手の編集者たちは弱腰すぎると怒っていましたが、その出版社は学校を通じての直販が多かったので、不買運動でも起こされたら困ると思ったのでしょう。

 この年から14年後に、「おおきなかぶ」事件が起こります。光村図書出版が小学校低学年用の国語教科書にソ連の絵本『おおきなかぶ』の文章を載せたことをミニ・マッカーシーたちに糾弾された事件です。
 「社会主義的な集団労働や団結を教える文章を教科書に載せるのはケシカラン」というのが非難の理由でした。
 しかし、このお話は帝政時代からあるロシアの古い民話で、多くの絵本作家・童話作家が再話しています。もちろん思想的背景などありません。この糾弾の先頭に立ったのは、元小学校の校長とかいう人物でしたが、ソ連の作品というだけで唾棄すべきものと感じたのでしょう。
 このせいで、『おおきなかぶ』は一時書店から消え、光村図書出版は翌年からこの文章を削りました。しかし、すぐにこの糾弾のばかばかしさがわかり、絵本は店頭に戻り、国語の教科書にも掲載されるようになりました。

 『若者たち』が、ミニ・マッカーシーたちから直接攻撃されたという資料は見つかりません。にもかかわらず、経営幹部たちがこのドラマを打ち切ろうとしたのは、なぜでしょう。
 その理由は、フジサンケイグループの政治的・思想的ポジションを知っている人なら、すぐに胸に落ちるはずです。

 当時フジテレビの社長だった鹿内信隆は、戦後10年間にわたって日経連の専務理事を務め、大企業経営者の利益を代弁する立場でした。その後、財界四天王の1人と呼ばれた水野成夫とともにフジテレビの開局に携わり、水野の跡を受けてフジテレビ2代目社長の椅子に着いていたのです。
 昭和43年
(1968)からは産経新聞社の社長も兼ね、その翌年にはフジサンケイグループという巨大マスコミ集団の初代議長に就任します。グループ各社は、鹿内信隆の強力な支配下に置かれました。
 その強権ぶりは、
フジテレビ6代目の社長・日枝久や人気プロデュサーだった横澤彪などが、鹿内家の支配が終わったあと、「恐怖政治だった」と語っていることからもうかがい知れます。

 鹿内信隆は、自分が役員をしていた会社には労働組合を作ることをいっさい認めず、作ろうとすると解雇・配転という形で妨害しました。こういう人物にとって、労働運動や理不尽な解雇、大企業の横暴、学歴差別や被爆者差別といったエピソードが何度も出てくる『若者たち』は容認できないドラマだったはずです。
 つまり、打ち切りの指示がフジテレビのトップから直接出ていたことは、まず疑いのないところです。ミニ・マッカーシーたちが攻撃しなかったのは、フジサンケイグループがいわば身内だったからにすぎません。
 鹿内家の支配が終わっても、産経新聞の体質は従来どおりだし、産経と人的交流のあるフジの体質も、あまり変わっていないようです。

 さて、『若者たち』の再開や再放送を求める声があまりに多かったので、フジでは翌年の2月から再放送を行いました。しかし、放映されたのは24本だけでした。放映されなかった10本は、政治批判・社会批判・大企業批判がとくに強かった回だったことは想像に難くありません。

 放送終了後、映画化が企画されましたが、ミニ・マッカーシーたちの攻撃を恐れて、制作しようとするメジャーの映画会社はありませんでした。
 結局、テレビドラマ出演者たちの手弁当に近い状態で自主制作が行われ、多くの若いボランティアたちの活動で、全国で自主上映されました。
 入場者数が50万人もあれば成功といわれた時代に、この映画は実に300万人もの動員に成功しました。それを受けて、続編として『若者はゆく』『若者の旗』の2本が作られました。

 テレビの内側でも外側でも、熱く生きた「若者たち」が多かった時代の物語です。

 このドラマは、フジテレビが開局55周年記念企画としてリメイクし、平成26年(2014)7月期から放送されましたが、ほとんど話題になりませんでした。社会情勢も若者気質もだいぶ変わっているので、当時と同じような熱気で迎えられるのは無理だったのでしょう。

(二木紘三)

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コメント

私は、大学を出てまもなく人生の困難にぶつかり、自殺を考えたこともあります。全ては自分の性格の弱さが原因です。でも、死ななくてよかった・・・今の私は、よき家族と友人に恵まれ、幸せです。

この「若者たち」は、悩める若者への永遠の応援ソングです・・・

投稿: 五十嵐岳男 | 2007年11月26日 (月) 20時55分

70年代初めの中学校の音楽の教科書に出ていました。「バラが咲いた」も出ていました。教科書には出ていませんでしたが、音楽の先生がシューベルツの「風」の歌詞を黒板いっぱいにチョークで書かれ、皆で絶唱したのを覚えています。もう35年以上昔のことですが、思い出すとすがすがしい気分になります。

投稿: 本田雅生 | 2008年9月 8日 (月) 22時49分

私も五十嵐さんと同じように学校を卒業したものの、人生の展望が持てなくて随分悩んでいました。いろいろ考えた挙句、もう一度やり直そうと思って就職した会社の寮で密かに受験勉強と学費稼ぎを始めていました。でもそれは孤独で辛い日々でした。そんな時いつも励ましてくれたのがこの「若者たち」の歌でした。そしてまもなく映画が上映されると聞いて喜び勇んで駆けつけました。当時は今のように情報が乏しかったと思うのですが、やはりそれだけ社会的な話題になっていたのでしょうか、会社の中にこもっていても上映される映画館がわかったのですから。確か大阪では3軒の小さな映画館で上映されたと記憶しています。中に入ると人で一杯で座る席はおろか立って見るのも人の頭越しに見たように思います。それでも誰も文句を言うような人もなく、静かに見ていました。それだけみんな感動していたのだと思います。もちろんその後の「若者が行く」「若者の旗」も見ました。それから30年後に若者たち3部作一挙上映も見に行きました。やはり同世代の団塊の世代前後の人が多かったですが、なかには20代の若者もいてうれしかったです。「若者たち」は、私にとっての人生の応援歌です。

投稿: 山下 潔 | 2008年9月20日 (土) 17時43分

私は1966年にフジテレビで放送された「若者たち」を直接見ることができた世代に属しますが、この歌は記憶にありますが、当時TV番組はほとんど見ていなかったため、最近までこのドラマの存在すら、したがってこのドラマの主題歌だったということも知りませんでした。このドラマが近くフジテレビでリメイクされるらしいこと、また、ドラマの放送当時早稲田大学の学生だった俳優の佐藤B作さんはこのドラマを見て演劇をやる決心をしたという記事(日経夕刊の2014/4/7の「こころの玉手箱」)を読んで、このドラマを見たくなり、DVD(フジテレビ開局50周年記念DVD)を借りて全34話を見ました。感想を2つだけ書いておきます。
・1966年(昭和41年)という年は戦後21年が経ち、主人公たち兄弟もオリエと末吉は戦後生まれで(それぞれ20歳、19歳の設定)、私もこのころは戦争は遠い過去の話だと思っていましたが、このドラマを見ると、いろいろの人の生活に過去の戦争が色濃く影を落としていたことがわかり、驚きます。だいたいこの家族は満州からの引揚者で、太郎は引揚途中のつらい経験をしばしば口にしますし、三郎の大学の教授夫人は引揚途中で自分の幼い娘を失い、そのトラウマに悩まされている話が出てきます。戦争で夫を失い(桜睦子)、貧しい生活の中で女手一つで育てた娘(吉行和子)が子供を預けに来る話もあります。昭和から平成に変わったのはつい最近の出来事のように感じている私ですが、平成もすでに25年、昭和と平成の間の時間のほうが終戦から1966年までの時間より長いと考えると感慨深いものがあります。
・このドラマには主人公たちのほかに脇役あるいは端役としていろいろの俳優・女優が登場します。ざっと挙げただけでも、江守徹、原田芳雄(三郎の友人)、江守の妹役の栗原小巻(三郎がひそかに好意をいだいていた相手)、小川真由美(太郎の恋人)、長山藍子(次郎のお見合いの相手)、加藤剛、宮本信子、森田健作(オリエのそれぞれ婚約者、同僚、オリエが助けた少年)といった具合だし、それからすでに故人となった水谷八重子、大滝秀治、南田洋子なども出てきます。今から、48年も前のドラマですから、いまでは有名になった役者さんも大部分が当時は無名とはいわぬまでも「若手」の俳優・女優だったのです。

 最後に二木先生が書いておられることで2点ほどコメント。私が見たドラマのDVDは1話が45分、CMをいれると、50分から1時間かかるはずで、30分ドラマだったというのは何かの間違いではないでしょうか。また、オリエが家を飛び出し、製靴工場で働いていたという話はありませんでした。もしかしたら映画バージョンのほうでの話ではないのでしょうか?映画のほうは私は見ていません。栗原小巻演じるナオコが製靴会社で働くという話は出てきますが。。。

投稿: KeiichiKoda | 2014年5月 6日 (火) 08時55分

KeiichiKoda様
このドラマをリアルタイムで見た記憶で書きましたが、半世紀ほど経つうちに記憶が変成したのでしょう。正確なところを調べて、後ほど修正します。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年5月 6日 (火) 12時47分

「テレビドラマデーターベース」です。
http://www.tvdrama-db.com/

「若者たち」で検索すると2頁にあります。
タイトルをクリックすると、
「放送枠は1966/3/14まで月曜20:00~20:56で、
その後金曜20:00~に移動した。」となっています。

投稿: なち | 2014年5月 6日 (火) 13時22分

なち様・KeiichiKoda様
内容については現物をご覧になったばかりのKeiichiKodaさんの情報、放映時間についてはウィキペディアの記述を参考にしてとりあえず修正しました。その他の点についてはもう少し調べたいと思います。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年5月 6日 (火) 18時46分

二木先生、なち様

放送時間の問題は解決したようですね。オリエの家出の問題ですが、私がこのドラマ(DVD)を見た限りでは、オリエが家族と喧嘩して家出するという事実はありません。オリエは働いていますが、働き場所は(千葉県のある漁港の)漁業組合で、そこで事務の仕事をしています(製靴会社ではありません)。この漁業組合の同僚の一人が宮本信子で、オリエが結婚の約束をしている青年が加藤剛で、漁師をしていますが、たぶんこの組合を通じて知り合ったのでしょう。この家族は家の中では言い合いをしたり、喧嘩もしますが、本質的に仲がいい家族です。家出に近い事実があったとすれば、一番下の末吉がほかの家族から叱責されて、家を飛び出し、家族みんなが心配する出来事がありましたが、最終的には家出にはいたっていません。製靴会社が出てくる話は、三郎(山本圭)の、大学をやめた友人(江守徹)の妹(栗原小巻)が製靴会社で働いていましたが、この会社で働いていた足の悪い職人(前田吟)に同情して彼のもとに走って、この妹に好意を寄せている三郎が説得にいくという話があり、二木先生はこの話と混同されておられるのかもしれません。なお、ウィキペディアでは、栗原小巻の役名は河田泰子となっていますが、正しくは小川直子(オガワナオコ、漢字は私の当て字)です。河田泰子というのは映画バージョンのほうでの配役かもしれません。

投稿: KeiichiKoda | 2014年5月 7日 (水) 07時55分

KeiichiKoda様
オリエが家出して友人と同居、靴工場で働くというエピソードは映画版のはじめのほうにあるようです。
ドラマの内容についての解説は、姑息ですが、KeiichiKodaさんのコメントで間に合わせるつもりで、『蛇足』のほうは上記程度の記述で済ませます。
ドラマの放映中止事件については後ほど書き換えます。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年5月 7日 (水) 11時44分

二木先生

「若者たち」は、1967年に映画化され、続編が1969年(「若者は行く―続若者たち」)、1970年(「若者の旗」)と公開され、2006年にこれら三部作としてDVD化されました(以上wikiからの情報)。上記のTVドラマのDVDを見たあと、この三部作のうち第1部と第3部をレンタルして、見てみました(どういうわけか第2部はレンタル可能ではありませんでした)。オリジナルのTVドラマとは設定にかなりの違いがあり、主人公たち兄弟以外の配役にも違いがありました。二木先生が書いておられるように、映画版の冒頭でオリエがほかの家族と喧嘩して家を飛び出し、夏圭子姉妹の家に転がり込み、製靴工場ではたらきはじめるという設定になっています。この製靴工場で、オリエは戸坂(石立鉄男)という足の悪い職工に惹かれ、結婚も考えるようになります。オリジナルの、三郎の友人小川の妹(栗原小巻)が製靴会社の足の悪い職人(前田吟)へ走るという設定を、オリエに置き換えたのです。映画版ではオリエは漁業組合に勤める女性ではなく、一家の家事に専念する主婦代わりの存在であったらしく、「婚約者」はおらず、オリジナル版の婚約者であった加藤剛も登場しません。栗原小巻は映画版では、小川(江守徹)の妹ではなく、河田泰子という三郎と同じ大学を中退する女性(オリジナルでは樫山文枝が演じていた役)に代っています。第3部は、TVドラマにはない、その後の「若者たち」が描かれていますので、TVドラマとは直接比較することはできません。TVドラマ版と映画版とは、このように設定も配役も違っているのでTVドラマに慣れてしまった私には随分と違和感を覚えました。むしろ、これらは二つの別のドラマだと考えたほうがよいのかもしれません。

投稿: KeiichiKoda | 2014年5月 8日 (木) 08時30分

爽やかな俳優さんのテレビドラマ(実話)を観て感動し、
本人著の本を買ったのですが、
人のためにでなく、してやったのに・・が多かったので、
映画はどうだったのかな?と、がっかりしました。
その後、公演に来られたので聴きに行ったのですが、
もっと酷くて元気いっぱいの方でした。
実話でも脚本や俳優さんによって違いますね。
http://www.ne.jp/asahi/gensou/kan/

投稿: なち | 2014年5月 8日 (木) 09時14分

今週(2014/7/9)からリメイクバージョンの「若者たち」がフジテレビ開局55周年記念番組として放送開始されました。私も、早速第一回を観てみました。主題歌はこの同じ歌を森山直太郎が歌っていますが、主人公たちの名前は、太郎、二郎、三郎、オリエ、末吉ではなく、旭、暁、ひかり、陽、旦と現代風に(?)変わりました。家族中で唯一の女性である「ひかり」は、オリエがそうだったように、役者名(演じているのは満島ひかり)からとられていて、なんか笑ってしまいます。時代設定は平成の現代になっていて、看護師であるひかりは同じ病院の医者と不倫をし、浪人中の末っ子の旦は同じ予備校の女子生徒とラブホテルへ行き、長男の旭はつき合っていた女性が妊娠するといった具合で、オリジナルのドラマではさわやかで、恋愛にはきわめてストイックだった兄弟たちですが、これがあれから48年たった現代風の姿というものなのでしょうか?

投稿: KeiichiKoda | 2014年7月11日 (金) 10時37分

 改めて皆様のコメントを読んでいます。この歌は私が就職して間もないころに流行りました。銭湯でやや若い人とと知り合いになり、「若者たち」がこのごろ流行っているねと話したことを思い出します。
 学生時代にはまだなかったと思います。昭和42年から家を離れて職場にいました。今でもこの歌を聞くとその当時の自分が立ち上がってきます。

投稿: 今でも青春 | 2015年11月20日 (金) 19時43分

何が原因だったのでしょう、ふっと「君の行く道は・・・・」の歌詞が浮かびました。映画「若者たち」の内容は良く憶えていませんがどこか心に残っていたのでしょう。後期高齢者になった若者が・・・。もう一度観たい映画です。そして現在の若者にも。

投稿: 快 大久保 | 2016年1月 2日 (土) 22時50分

このドラマの放映されたのは私が就職して間もない時期でした。
世の中は東京オリンピック後で日本列島改造論ブーム、高度成長の波に乗っていたような記憶があります。
私の選んだ仕事の話を友人や先輩にすると「それだけ頑張るんだったら『転職すれば君の給料の2倍は貰えるぞ』とか『親孝行するなら他の仕事をしろ。高給取りになるぞ』」とよく言われました。
他の仕事に就いた同級生の話は薄給の私には「羨ましく感じる時もありましたが、『いつか見ていろ俺だって』の気持ちもあり、黙々と自分の選んだ仕事を定年まで続けました・・。  
     そんな時 ♪♪

 ♪♪ 君の行く道は 果てしなく遠い
   だのになぜ 歯をくいしばり
   君は行くのか そんなにしてまで ♪♪

 ♪♪ 君の行く道は 希望へと続く
   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める

   空にまた 日が昇るとき
   若者はまた 歩き始める  ♪♪

 世の中の政治、経済状況の変化、個人の価値観の多様化、生活環境の変化の中で「自分の選んだ道」を迷いながらも定年になる迄歩いてこれたことに感謝しています。
オリンピックのメダリストは「メダルを獲れたのは私を支えてくれた家族、悩んだ時指導してくれた監督、コーチ、友人たち皆さんのおかげです」と感謝の言葉を言います。

私は 「若者たち」の歌を私の生きていく道の励みにしていました。「苦しいのは君だけじゃない。みんな苦しいのだ。雨の日ばかりではない。雲の向うには太陽がある。頑張っていると希望は叶えられるぞ!」と自分に言い聞かせながら頑張ってきました。

この歌をとりあげていただいた管理人さんに感謝します。

投稿: けん | 2016年10月28日 (金) 11時21分

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