イムジン河
(mp3制作:二木紘三)
1 イムジン河水清く とうとうと流る 2 北の大地から南の空へ |
(間奏) 3 イムジン河空遠く 虹よかかっておくれ |
《蛇足》 昭和43年(1968)、レコードの発売直前に突然発売が中止されたという伝説のフォークソング。その間の事情を日本語詞を書いた松山猛は、次のように語っています(『少年Mのイムジン河』木楽舎―など)。
松山が中学生だったころ、京都では日本人の中学生たちと朝鮮中級学校の生徒たちは、校外で出会うたび、ケンカを繰り返していました。
そうした不毛の争いを情けなく思っていた松山は、サッカーの対抗試合で理解を深め合おうと、銀閣寺の近くにあった朝鮮中級学校に試合の申し込みに行きました。
相手側の生徒と話し合いをしているとき、美しい女声コーラスが聞こえてきました。曲名を訊くと、『イムジン河』という北朝鮮の歌だとのこと。これが松山にとって『イムジン河』との最初の出会いでした。
そのころ、中学のブラスバンド部でトランペットを吹いていた松山は、思い切り音が出せる九条大橋で練習していました。そこで知り合ったのが、やはりサキソフォンの練習に来ていた朝鮮中学のM君。
彼と仲よくなった松山は、『イムジン河』を教えてほしいと頼みました。数日後、M君は、譜面と朝鮮語の歌詞、1番の日本語訳をメモしてきてくれました。それには、朝日語小辞典も添えてあったとのことです。
しかし、このときは、きれいな歌を覚えたというだけで終わりました。
やがて松山は成長し、京都の広告代理店でグラフィックデザイナーとして働き始めました。さまざまな文化運動に接するするなかで、彼は、学生フォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバー、加藤和彦、北山修などと親しくなりました。
昭和42年(1967)、デビュー曲『帰ってきたヨッパライ』で一世を風靡していたザ・フォーク・クルセダーズは、第2弾を模索していました。
そこで、松山は中学時代の思い出の曲『イムジン河』を提案したのです。メンバーはその曲が大いに気に入り、加藤和彦が編曲して詩情豊かなフォークソングに仕上げました。
試しに深夜放送で何度か流したところ、聴取者の反応が非常によかったので、契約していた東芝音工(現在の東芝EMI)から発売されることになりました。
昭和43年(1968)2月、シングル盤13万枚のプレスが済み、いざ発売というときになって、東芝音工は突然、メンバーに発売中止を通告してきました。
「政治的配慮から発売自粛となったので、我慢してくれ」という以外に、メンバーには何の説明もなかったといいます。
同時に、放送局の自主規制により、ラジオ・テレビでも流されなくなりました。
あとになって次第にわかってきたことですが、その曲の発売を聞いた朝鮮総連の関係者から強い抗議があったといいます。抗議のポイントは、作詞・作曲者名の表示がない、訳詞が原詩に忠実ではない、の2点。
関係者はだれも曲の由来を知らず、朝鮮民謡だと思っていたので、作詞・作曲者名を表示しませんでした。しかし、実は作詞には朴世永(パク・セヨン)、作曲には高宗漢(コ・ジョンハン)というれっきとした作者がいたのです。
朴世永は北朝鮮の国歌に当たる『愛国歌』書いた高名な詩人であり、高宗漢も有名な作曲家でした。
北朝鮮側は、発表するなら、朝鮮民主主義人民共和国の誰々が作った歌と、はっきり表記すること、原詩に忠実な訳詞にすることを要求してきました。
第2点については、突っぱねることも可能でした。原詩に忠実な訳詞でなければならないとすると、日本語で歌われている外国曲の大半は歌えないことになってしまうからです。
しかし、第1点の処理は困難でした。朝鮮総連の姿勢は、今からは考えられないほど強硬でしたが、朝鮮民主主義人民共和国とレコードに表記するのははばかられました。
その理由は、日本は北朝鮮とは国交がなく、国家としても認知していないということのほかに、親会社の東芝の意向があったからと言われます。
これはあくまでも噂ですが、当時、東芝は韓国に進出し、経済的関係を深めていました。当時の韓国は、日本に北朝鮮の歌が広まることを快く思わず、まして朝鮮民主主義人民共和国という国名が表記されることは受け入れられませんでした。
そこで、韓国大使館が東芝を通じて子会社の東芝音工に圧力をかけた、というのです。
ともかく、どう処置してもトラブルを防げそうになかったので、東芝音工は、ザ・フォーク・クルセダーズのメンバーと製作関係者に因果を含めて発売中止にしました。今は昔の物語です。
現在はもちろん、放送で流すのに何の支障もなくなっています。ちなみに、2001年のNHK紅白歌合戦では、キム・ヨンジャが歌いました。
イムジン河は漢字で書くと「臨津江」で、北朝鮮の読み方ではリムジンガンとなります。北朝鮮の北緯39.2度付近を水源とし、北緯38度線を越えて韓国に入り、河口付近で漢江(ハンガン)と合流して黄海に注ぎます。
原詞を挙げておきましょう。
1 임진강 맑은 물은 도도히 흐르고 2 북쪽의 대지에서 남쪽의 하늘로 |
3 임진강 맑은 물은 도도히 흐르고 4 임진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고 |
(二木紘三)
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訪問者の感想等

コメント
「MIDI歌声喫茶」を、いつ頃かお気に入りに入れさせていただいて、利用させて頂いていました、ありがとうございます。
今日、こちらのブログ案内に遅まきながら気付きまして(^^ゞ
つい、前へ前と繰ってゆくうちに、この曲に・・・
先日、映画「パッチギ」により、中川五郎等の懐かしい本を取り出して、私もブログアップしたので、
ぜひ拙ブログもお読み頂きたいと欲が出て、コメントさせていただきました。
下記、7月9日の日記です。
http://plaza.rakuten.co.jp/mamanlr/diary/200607090000/
「MIDI歌声喫茶」のみならず、こちらにも、これからは寄せていただきます。どうぞよろしくお願いします。
投稿: maman.m | 2006年8月12日 (土) 21時36分
イムジン川を知っていました。高校3年だったか。うちはタバコ屋だったので、店番をしながらポータブルラジオで聞いていました。確かに ラジオて゛流れていたのです。覚えているのだから。だから発売中止を聞いて唖然としました。当時の雰囲気は騒然とした社会であり、とげとげしさがあったと思う。そんな中でイムジン川は 二つの国の悲劇を思い起こす貴重な歌でした。ベトナムでも朝鮮半島でも。長い間手に入れることができなかったが、最近CDを手に入れられたのです。
投稿: ドクトルマンホー | 2007年6月11日 (月) 20時01分
19才の時このレコ-ドを探して方々のレコ-ド屋を歩き回りました。直前に販売中止になっていたとはその頃は知らなかったのでした。後年韓国・朝鮮の方たちと知合うようになって。。。蛇足に書かれているような朝鮮中学M君のような細やかで優しい人達に囲まれて仕事をしていた事もありました。
近くて遠い国。。。。。韓国・朝鮮の幸せを今も願っています。
投稿: sunday | 2008年5月 3日 (土) 07時34分
Vancouverに滞在中です。
当地のTV(PBS=KCTS9)で連日、豪華歌手の音楽番組が放映され、滔滔と歌っているのを聴くにつけ歌詞だけでもわかればと貴HPを訪れています。Jun5-2008
投稿: masa | 2008年6月 6日 (金) 00時41分
昭和43年の4月、博多の海岸の砂の上に五線譜を書いた22才のかれはギターをつまびき、歌ってくれました。あれから40年、会ったことがありませんが、「イムジン河」を聞くたびに、思い出します。
投稿: Bianca | 2008年7月15日 (火) 19時23分
歌が大好きなので、このようなブログを発見すると、とても嬉しいです♪
さて、気になる点があって、コメントさせて頂きます。
<蛇足>の途中に、「実は作詞には朴世永(パク・セヨン)、・・・・というれっきとした作者がいたのです」と紹介されていますが、文末に「原詞を挙げておきましょう」としたものは、朴世永(パク・セヨン)さんの作詞ではありません。原詩として二木紘三さんが表記されたものは、松山さんが書いた日本語歌詞を訳した韓国語(朝鮮語)歌詞です。
以下参考まで。
作詞:박세영/パク・セヨン(朴世泳)
1.림진강 맑은 물은 흘러흘러 내리고
물새들 자유로이 넘나들며 날건만
내고향 남쪽땅 가고파도 못가니
림진강 흐름아 원한싣고 흐르냐
2.강건너 갈밭에선 갈새만 슬피울고
메마른 들판에선 풀뿌리를 캐건만
협동벌 이삭마다 물결우에 춤추니
림진강 흐름을 가르지를 못하리라
翻訳(歌詞ではありません):Paul Kim
1.リムジン江の清き水はとうとうと流れる
水鳥自由に行ったり来たり飛んでいるけれど
我が祖国南の地行きたくても行けない
リムジン江の流れよ恨みを乗せて流れるのか
2.河越えて葦の茂みでは鳥たちが悲しく鳴き
乾いた野原では草の根を掘るけど
共同農場の稲、波の上で踊るよ
リムジン江の流れを遮ることは出来ない
投稿: kami | 2008年9月16日 (火) 15時47分
そうですか。ハングルが読めないので、訳詞とは気がつきませんでした。大変参考になりました。ありがとうございました。(二木紘三)
投稿: 管理人 | 2008年9月17日 (水) 00時33分