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琵琶湖周航の歌(その2)

その1から続く)

 『琵琶湖周航の歌』は、昭和46年(1971)に加藤登紀子が歌って全国的に知られるまで、作詞・作曲とも小口太郎ということになっていました。

 しかし、この曲の成立過程から、『ひつじぐさ』のメロディで歌われたということがわかると、その作曲者探しが行われました。昭和50年代の初め、旧三高のOBが熱心に調査し、吉田千秋という作曲者を突き止めたとされています。そのOBがだれかはわかりません。

 吉田千秋は明治28年(1895)2月18日、吉田東伍の次男として、新潟県小合(こあい)村で生まれました。小合村はのちに新津市の一部になり、新津市は平成の大合併で新潟市に編入されました。

 吉田東伍は高名な歴史地理学者で、『大日本地名辞書』などの著作により文学博士号を受けています。しかし、学歴がないために、アカデミズムにはなかなか受け入れられず、その学問的生涯のほとんどを在野のまま過ごしました。この点、植物学の牧野富太郎とよく似ています。
 新潟県阿賀野市に「吉田東伍記念博物館」が設けられています。

 千秋は、父の仕事の関係で、幼時から何度も新潟と東京の間を行ったり来たりします。
 2歳のとき上京して牛込区
(現新宿区)の赤城尋常小学校に入学、1年生の1学期終了後に小合村に戻され、同村の小鹿尋常小学校に転校します。4学年修了で、新津町新津高等小学校へ進学しますが、明治39年(1906)4月に再び上京、赤城高等小学校へ編入されます。

 明治40年(1907)4月、東京府立第四中学校(現都立戸山高校)へ進学、明治45年(1912)3月、同校卒業とともに東京農業大学予科に進みました。しかし、ここで彼の運命は暗転します。翌年、結核にかかっていることがわかったため休学し、ほどなく退学したのです。

 大正3年(1914)、神奈川県茅ヶ崎の南湖院に4か月間入院。このとき、院長高田畊安の影響でキリスト教に興味をもち、聖書を読むようになったといいます。

 大正4年(1915)6月、祖父母のいる小合村に帰ります。そこでの療養中、動物、植物、天文学、方言学、音楽、文学、宗教と、さまざまなことに関心を示しましたが、とりわけ作詞・作曲に熱意を注ぎました。作曲の技術は、この時期に独学で習得したようです。

 病は好転せず、大正7年(1918)7月、大学病院で診断を受けるために上京します。その結果は、千秋自身の書いたものによると、「医師曰く『七月の初診の際の如く、左肺に著しき変化を来し、病気進行なれば大いに注意せざれば万事休す』との由」でした。

 病気はかなり進んでいたわけです。この時代、結核の特効薬はなく、罹患すると、空気のよいところで、栄養をとりながら静養するしかありませんでした。
 千秋もやむなく小合村に戻り、療養を続けます。しかし、症状はさらに進行し、大正8年
(1919)、24歳の誕生日を迎えて間もない2月24日、ついに亡くなりました。

 さて『ひつじぐさ』ですが、原詩はイギリスの童謡集“Songs for our Little Friends”(Frederick Warne & Co.London,1875)のうちの1曲“Water Lilies”です。
 Water lilyは睡蓮のことで、和名はヒツジグサです。この和名は、未
(ひつじ)の刻、すなわち午後2時ぐらいに花を開くことからついたとされています。しかし、睡蓮は、実際には、午前11時ぐらいから夕方近くまで花を開いています。

 原詩は1聯しかわかりませんが、次のようになっています。

Misty moonlight,faintly falling
O'er the lake at eventide,
Shows a thousand gleaming lilies
On the rippling waters wide

 千秋がこれを和訳したのは大正2年(1913)、18歳のときといいますから、結核で入院加療中のときだと思われます。彼はこれを雑誌『ローマ字』に投稿、同年9月号(第8巻第9号)に掲載されました。

  睡蓮(ひつじぐさ)

1 おぼろ月夜の月あかり
  かすかに池のおもに落ち、
  波間に浮かぶ数知らぬ
  ひつじぐさをぞ照らすなる。

2 雪かとまがふ花びらは
  こがねの蘂(しべ)をとりまきて、
  波のまにまに揺るげども
  花の心は波だたず。

3 風吹かば吹け空くもれ
  雨ふれ波たて、さりながら、
  あだ波のした底ふかく
  萌えいでたりぬひつじぐさ。

 この藤村ばりの文語詩を、18歳の少年が書いたのです。訳詞といっても、このレベルになるとオリジナルといっても差し支えないでしょう。千秋は、短歌の習作も数多く遺しています。
 長生きしていたら、文芸分野か音楽分野かはわかりませんが、まちがいなく大きな業績を上げていたはずです。まことに夭折が惜しまれます。

 この詩に自分で曲をつけたわけですが、それは雑誌『音楽界』の大正4年(1915)の8月号に掲載されました。この雑誌は、東京神田の音楽社が発行していたもので、新しい楽曲や音楽関係論文を掲載する著名な月刊音楽誌でした。

 この雑誌によって『ひつじぐさ』という歌を知った三高の学生のだれかが、それを校内に広めたわけです。名曲『琵琶湖周航の歌』は、こうした東西の豊かな感性の意図せざる出会いによって生まれました。(終わり)

(二木紘三)


参考資料:
   森田穣二著『吉田千秋「琵琶湖周航の歌」の作曲者を尋ねて』(新風舎、1997年)
   小菅宏著『「琵琶湖周航の歌」の謎―作曲者・吉田千秋の遺言』(日本放送出版協会、2004年)

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コメント

藤村大好きです。この詩もすきです。

投稿: totoro | 2006年6月30日 (金) 09時26分

私がこの歌を知ったのは昭和20年代終わりの頃で、学友から口伝で教えてもらいました。
楽譜に基づいたものではないので、いま固定化されている旋律とはところどころ違っていました。
この種の、出自がほとんど民謡に近いものではよくあることですね。
昭和16年、東海林太郎と小笠原美都子とで「琵琶湖哀歌」がレコーディングされています。
その春、琵琶湖でボート訓練合宿中の第四高等学校(現金沢大学)の学生が「比良おろし」で遭難し、その霊に捧げられたものだそうです。
作詞:奥野椰子夫、作曲:菊地博となっていて、詞は「周航歌」とは違いますが、曲はほぼ同じです。
加藤登紀子さんのLPアルバム「知床旅情」では編曲:早川博二とされています。
二木先生の綿密な検証で謎が解けたような気がします。
一つの歌の背後に隠されている物語、それを改めて思わされた一曲でした。

投稿: 風花爺さん | 2008年8月27日 (水) 07時29分

 読後に感激したので投稿します!歌は知っていましたたが、作曲-作詞の由来を把握したのは昨年から今年にかけて!”小生が吉田千秋氏と同郷であり、更に彼の東京(牛込-)における小学校時代の住所(父東伍氏宅)又通学した小学校等”の直近に大学生時代2年間下宿していたことが判明して、一層親近感が湧いてきました!
-------それ故感慨深く読ませていただ次第です!
 昨年、千秋氏の実家の近所住む同級生から一部資料を戴き、翌日に更に吉田東伍記念博物館へ別の高校の同級生(何の連携なしの上記と無関係の)が案内してくれて初めて事体を認識!今年になり、千秋氏の実家の近所にすむ同級生より更に詳しい書籍等の資料を戴き全貌を把握したところです---ありがとうございました!

投稿: K.ナガイ | 2008年10月 1日 (水) 11時46分

Philbert Onoさんが英語の詞をつくり、JamieとMeganのThompson 姉妹が歌っていることを、YouTubeで見つけました。画像もたいへん美しいものです。
「lake biwa rowing song」と「lake biwa rowing song at sports recreation shiga 2008」の二つがYouTubeに投稿されています。
私たち日本人が美しい日本語の詞によって外国の曲に親しんだように、この曲を海外の方々にも楽しんでもらえたらいいですね。上記の三人に感謝します。

投稿: 寒崎 秀一 | 2009年5月 5日 (火) 23時46分

昭和16年旧制中学校へ入学しました。その年の12月に太平洋戦争に突入し、学校も次第に戦時体制に入り、正式に学校で学んだ授業は3年生の初めぐらいでした。その後は学徒動員で工場通いの毎日が続き、その上戦時特例で4年で卒業させられてしまいました。こんな厳しい時代でしたが、校舎で学んでいたころ、一高の「ああ玉杯に花受けて」や三高の「紅もゆる丘の上」などをよく歌いました。そのとき三高寮歌として「琵琶湖周遊の歌」を上級生から教わった記憶があります。加藤登紀子がこの歌を歌ったとき昔を思い出すとともに当時の旧制中学生の憧れの一高や三高を目指しながらも様々な障害で受験できなかった当時を偲んでいます。

投稿: 梓 次郎 | 2012年3月31日 (土) 14時41分

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