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平城山(ならやま)

(C) Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:北見志保子、作曲:平井康三郎

1 人恋ふは悲しきものと
  平城山(ならやま)
  もとほり来つつ
  たえ難(がた)かりき

2 古(いにし)へも夫(つま)に恋ひつつ
  越へしとふ
  平城山の路に
  涙おとしぬ

《蛇足》 歌人・北見志保子が磐之媛陵(いわのひめりょう…写真)をテーマに詠んだ2首に、平井康三郎が昭和10年(1935)に曲をつけ、この名曲が生まれました。

 北見志保子は、明治18年(1885)、高知県宿毛(すくも)(現在は市)に生まれました。本名浜あさ子(旧姓は川島)。釈迢空(しゃくちょうくう)などに師事し、昭和24年(1949)、歌風や結社を超越した「女人短歌会」を結成しました。
 
昭和30年(1955)、70歳で病没。

 志保子は歌人・橋田東声と結婚しましたが、のちに、東声の弟子で、自分より12歳年下の浜忠次郎と恋に落ちます。志保子から引き離すために、浜は、親族によって強制的にフランスに留学させられました。

 上の歌は、大正9年(1920)、志保子が奈良の磐之媛陵周辺をさまよった際に詠んだ連作の一部。浜への思いを、磐之媛が夫・仁徳天皇に寄せた思いに重ね合わせて詠んだといわれます。
 彼女はその後、橋田東声との離婚が成立し、帰国した浜忠次郎と再婚しました。

 平井康三郎(本名は保喜)は、明治43年(1910)、 高知県伊野町(現・いの町)に生まれ、長じて東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)バイオリン科に学びました。母校で教鞭を執ったのち、作曲家・合唱指導者として幅広く活動。
 クラシック系の作品のほか、『スキー』『ゆりかご』『お江戸日本橋』『とんぼのめがね』など、多くの童謡も作曲しています。
 平成14年
(2002)、92歳で没。

 1番の「もとほる(もとおる)」は「まわる、めぐる、さまよう」という意味。

 2番の2行目を、「妻に恋ひつつ」としている歌集が多いのに驚きました。上の由来からもわかるように、これは女性が男性を恋うる歌ですから、「夫(つま)に恋ひつつ」でなくてはなりません。
 
男性がご自分の「妻」を恋いながら歌うのは、それはそれで大変けっこうだとは思いますが。

(二木紘三)

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コメント

昔からよく歌っていましたが、こういうエピソードがあったとは知りませんでした。

投稿: yumi | 2006年7月24日 (月) 17時45分

はじめまして。

東大寺元別当・現長老の筒井寛秀氏が著書『誰も知らない東大寺』のなかで、大正大学学生時代に住まっていたのが、「平城山」を詠んだ歌人・北見志保子と浜忠次郎の家で、本には駕籠町としか書かれていないのですが、文京区の千石駅そばの旧町名駕籠町のことかと調べていたら、こちらのサイトに出会いました。
どんな曲かも知らなかった「平城山」を知ることができました。大正の香り漂う楽曲と感じました。ありがとうございました。

投稿: noshi | 2007年5月 1日 (火) 15時51分

この曲のエピソードを知り感動しました。
JR関西本線(大和路線)に「平城山(ならやま)」駅が開業したのは昭和60年です。磐之媛陵は平城山駅から徒歩20分くらいですが、近辺には宇和奈辺、小奈辺等の陵墓もあり、人家や、車の通行も少なく、北見志保子がさまよったころの静寂がそのまま続いているように感じられるのですが…。

投稿: saho | 2008年4月 7日 (月) 17時38分

 僕など、若輩者が言うべきことではないと考えますが、日本で一番清らかな音楽といえるのは、この「平城山」を措いて他はないと思っております。雅楽に通ずる気品、どこにいても、どんな時でも、どんな精神状態にいても、日本人の本質に連れ戻してくれるような素晴らしい曲です。
 昨今の医療問題などで気持ちが昂ぶっていても、落ち込んでいても、気分の中庸に導いてくれ、何故かほのぼのとした暖かさを満たしてくれる--
そのような有難い曲です。

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年4月17日 (木) 21時47分

「うた物語」が歌とあまり関係のない意見・不平・不満の捌け口になり、特定のひとの争論の場になっているのに嫌気がさしていました。これもまた不平・不満の披瀝かも知れませんが・・・・・。

投稿: | 2008年4月20日 (日) 10時05分

 「人恋ふは悲しきもの」
 万里の海山の彼方なる、遠い仏蘭西(フランス)にいる恋人・浜忠次郎を想いながら、北見志保子はそう詠みます。仏教でいう「八苦」のうちの、「愛別離苦」そのものですね。「愛する者と別れなければならない苦しみ」。
 志保子自身は、平城山の磐之媛陵のほとりを、一人さ迷いながら。なべて加速化、スピード化のこの時代の私たちには、およそ想像もつかないほど、恋路を遠く隔てられてしまった二人。
 それは、千数百年も上古の、平城山なる御陵(みささぎ)に静かに眠る磐之媛の、仁徳天皇を恋い慕う想いと、時空を超えてダイレクトに結びつくほどに、遥かな高められた想いとなった。
 この北見志保子の想いこそは、二木先生が『三百六十五夜』で述べられた、「思慕する、恋慕する、崇拝するかの君」への想いそのものだと思います。
 かくて、「かの君」を恋い慕う志保子の想いが昇華されて、魂の叫びのような、類い稀なる二首の悲歌が生み出されました。そして才能ある平井康三郎の作曲によって、磐之媛陵の幽玄なたたずまいを彷彿(ほうふつ)とさせるような、古雅楽的な荘重かつ哀切極まりない調べの『平城山』となって、結実致しました。
 (以上は、二木先生の解説を土台として、まとめさせていただきました。)

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月20日 (日) 18時11分

4月20日付け投稿の匿名氏さま
 同様のご批判がいくつか寄せられておりますので、何人かの方に、歌との関係の薄いコメントの削除や修正をお願いしています。しかし、争論にならないかぎり、多少の脱線は大目に見ていただけたらと存じます。

投稿: 管理人 | 2008年4月22日 (火) 05時45分

 私がはじめてこの曲を知ったのは、中学2年の秋でした。聴いた瞬間、この美しい旋律が五臓六腑に浸みわたりました。
もし私がなんらかの事情で異国で生きることを余儀なくされ、かの地でこの曲を耳にしたら、間違いなく涙にかきくれるでしょうね。
 能勢の赤ひげ様も言われるように、この「平城山」の調べは、誰がなんと言おうと紛れもない「日本」です。ああ、日本人に生まれて良かったなあ。この歌には自ずと私達にそう意識させる魅力、というか魔力がありますよね。絶対に。

投稿: くまさん | 2008年4月22日 (火) 22時06分

はじめまして。インターネットで初めての書き込みです。
二木先生の“うた物語”は私のアルファー波です。この正月、半世紀振りに高校時代の友達に会って一杯やりました。高校時代に議論した同じことについてまったく同じような議論になりなした。
それは“平城山”の“夫”か“妻”かです。
彼は二木先生と同じに“夫”で、私が“妻”です。私は二木先生の書かれた志保子についてのエピソードを読み、“妻”であるべきだ、との確信がより一層の確信になっていたのでぐいぐいやりながら舌の回転を加速させました。私の解釈はこうです。勿論これは志保子が古の“通い婚”の風習を認識した上で作歌したであろうことが前提です。
「遠い昔、愛しい妻に逢いたくて逢いたくて心を急かせながら夫らが越えたと言うこの平城山の路を、今は女のこの私が遠い異国のあなたへの思慕を募らせながら泣き濡れつつ歩きました」
です。二木先生がお書きになったあのエピソードで、きっと志保子は「・・・・妻に恋いつつ・・・・ 」と書いたのでは、とさえ今私は思っています。
何れにしろ作品の鑑賞はその解釈が間違っている、いないに関わりなく自分の思った、または感じたそのままで鑑賞するのが一番心の奥底へ届くような気がします。
こう言うことで議論する必要はなかったと酔い醒めてつくづく思いました。
70歳近くになってやっと大人になったのかな?

投稿: mizusan | 2009年1月 7日 (水) 22時57分

こんばんは。
歳のせいだか、涙腺が弛んでおります。
ぼろぼろ涙を流しながら書き込みしてます。
mizusanさまの解釈も素敵ですね。
SF風というか時を越えた恋という連想もしたりして。
もう、夫でも妻でも、どっちでもいいんじゃないでしょうか。
「いとしい人」という思いが「つま」という言葉に込められてる、ということで。
もともとこの歌はわたしにとって涙なしに歌えない歌です。
この歌を歌うといつも涙がにじんできます。

mizusanさま、議論をする必要はなかった、ということはないと思いますよ。
その議論があったからこそ、ここへの書き込みをしようという気になられたのだと思いますし。
それを読んでわたしが涙をぼろぼろと流したりというのは別にして。

投稿: 放浪山猫 | 2009年1月 9日 (金) 00時05分

放浪山猫さま
コメント有難うございます。
心根の優しい放浪山猫さまの眼に留まってほんとうによかった。
あのような書き込みをして変な議論になり、皆様にご迷惑をお掛けするのではと投稿を悔やんでおりました。ほんとうによかった!
放浪山猫さまのおっしゃるとおり、この“つまに恋いつつ・・”の“つま”は“妻”でも“夫”でもなく注釈なしの“つま”が一番相応しいような気がしてまいりました。
有難うございました。

投稿: mizusan | 2009年1月 9日 (金) 23時20分

 二木さんのお話しを伺い、何気なしに好きだった「平城山」が一層親しくなりました。
 ただ磐之媛とこの歌との関係がすっきり了解できなかったものですから、色々考えてみて、以下のようなことに思い至りました。何かご指摘いただければと存じます。

  ☆  ☆  ☆  ☆

 志保子が奈良にある磐之媛の御陵にでかけ、その周辺をさまよったときにこの歌が作られ、その時志保子の心を苦しめていたのは、自分が亭主持ちの身でありながら、不倫の恋に落ちた相手、浜忠次郎への断ちがたい恋慕であったということは知らなかった。
 浜家は二人の仲を裂くために、彼を強制的にフランスに留学させたという。
 さて仁徳天皇の皇后である磐之媛だが、帝は大の浮気者で勝手に妃を増やしてゆき、媛は頭に来てしまった。そのため彼女は皇居には帰らず、夫の帰心を祈ったのであろう。
 でもついに帝の改心は得られず、媛のつらい心は如何ばかりか。
 その彼女の悲痛な胸の内に、志保子はわが心を重ね、はるか遠くフランスに一人淋しく住む浜を思いこの歌が詠まれたのだそうだ。
 媛の御陵は平城京の北、平城山の一角にあるが、平城山とは奈良と京の南山城、今の木津辺りとを南北に分かつ丘陵地帯のこと。峠越えには、「歌姫越え」「奈良坂」「般若寺越え」の三つの道があった。磐之媛の御陵は歌姫越えと奈良坂のちょうど間にある。
 ところで仁徳を嫉妬する磐之媛と、亭主を捨てて男に走る志保子と、その心の周波数はピタリと一致しない。
 第一、磐之媛は「夫を慕って平城山を越えた」だろうか。そうじゃない、逆だ。仁徳が何度も媛を迎えに遣わしたが、彼女は頑として応ぜず帝を拒否したのだ。このとき媛は平城山を越えた処に居たのかどうかさえ、私は知らない。彼女はどこかの渡来系の館に立て籠もっていたらしいのだが、だとすれば平城山とは正反対の都の南部ではないか?

 では「古(いにしへ)」に「夫を慕って平城山を越えた」のは、いったい誰なのか?
 そこで思い当たるのが、筆者は誰か分からないが「万葉カメラ散歩」というサイトの第十九「歌姫越え」という項である。ここに大変興味ある万葉歌のことが記されている。
      http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/88/8811/m01/8811019.htm
 あるいは http://www.jtw.zaq.ne.jp/kamifu-sen/tajima.html(参考)
      http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage451.htm(参考)
 天武天皇の皇子や皇女の恋物語であるが、当時子供は母の許で育ったため、母が違えば他人と変わらず、異母兄妹で婚姻が行われたそうだ。しかし密通は厳禁だった。
 但馬皇女も第一皇子の高市もともに天武の子だったが、異母系の兄妹婚だったようだ。ところが但馬はなにゆえ狂ったか知らないが、第五皇子の穂積にいかれてしまったのである。たぶん二人を引き離すためか、その穂積が勅命によって天智所縁の近江の山寺(崇福寺らしい)へと旅立つことになった。ひょっとしたら帰らぬ旅路かも知れぬ。
 別離を悲しむ但馬の恋心は火のように燃え上がり、抑えきれずに詠んだ歌がこれだった。

   後れ居て 恋ひつつあらずば 追ひ及かむ
   道の隈廻に 標結へわが背
                  但馬皇女(巻二)一一五

  「後に残って恋い焦がれているのはいや。あなたを追ってゆきたい。無事に追いつけ
   るよう、お願い、あなたの行く道の角々に、標べの紙を結わえて行って下さい」

 それを見つけながら穂積を追いかけ、そこで彼をつかまえたいという。
 残念ながら「夫を慕って平城山を越えた」者はまだ発見できない。
 だが但馬は己の歌に乗り、見事に平城山を越えたのではないか。そして比叡を越え、平城京から近江大津京へと飛翔したであろう。なにはともあれ「歌姫越え」という名前はここからついたのかしら。

 じつはこの但馬と穂積の関係こそが、志保子と浜の恋そのものではなかったか。
 平城山には偶然磐之媛の御陵があり、また彼女も帝への恋に苦しんだのではあるが、それは嫉妬という敵対的苦しみであったのに対して、平城山で遮られた但馬と穂積の相思相愛の恋は、許されざる不倫の恋であった。
 志保子と浜の恋もまったく同じで、彼らの恋は禁断の果実を求めんとしたにすぎない。
 だからこそ彼女は悩み、この秀歌が生まれた。
 以上が、名唱「平城山」に対する私の考えだが、これは新説といえるだろうか。

  ☆  ☆  ☆  ☆

投稿: 十四郎 | 2009年3月10日 (火) 17時28分

十四郎様
ご考察、興味深く拝読いたしました。
確かに、志保子と忠次郎の関係からすると、但馬皇女のエピソードのほうが、心情的にはシンクロするかもしれません。
しかし、上記の2首は「磐之媛皇后御陵」と題された連作の一部であり、磐之媛が主要な発想源だったことはまちがいないようです。
磐之媛については、嫉妬深くて意固地な女というのが通り相場になっているようですが、人の心情はそんなに単純に括れるものでしょうか。とりわけ男女の愛が絡んでくると、人にはわからない屈折した心情や、伝えられていないいきさつがあるものです。
「仁徳天皇を思慕しながらも、その不実が許せずに、都に背を向けて平城山を越えていった」磐之媛の心情に、私は何か切なさを感じます。

ただ、今回調べてみてわかったことですが、この短歌が載っている歌誌や歌集、志保子が書いた色紙によって、「妻に恋ひつつ」「つまに恋ひつつ」「つまを恋ひつつ」「ひとに恋ひつつ」といろいろあり、どれが決定稿かわかりません。
「妻に恋ひつつ」だと、万葉時代のどのエピソード、または誰をモチーフにしたものかが、いっそうわからなくなります。仁徳天皇が磐之媛を迎えに自ら出向いたことを示す資料は見あたりません。

 なお、上記「蛇足」で、短歌が詠まれたのは昭和10年と書きましたが、昭和10年は平井康三郎が曲を発表した年でした。志保子が作品を発表したしたのは大正9年(1920)でしたので、そのように訂正いたしました。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年3月10日 (火) 23時09分

平城山には想い出があります。私がまだ若く、人生にも迷い、文学でも発表の機会もなく鬱々としていたころに芽生えた浪漫への憧憬が、この曲を聞くたびによみがえるのです。作曲者はきっと歌人に思いを寄せていたに違いありません。帝大と慶應じゃない、それじゃ、浪漫にならない。この曲から想わねば、歌人との秘めたる恋はじいんと来ない。帝大と慶應は、もう、考えに入れたくないのです。ところで、二木さん、いい欄をありがとう。ブログという、現代テクノロジーが生み出したいやらしいページが、貴殿のお陰で、真っ当になっていますね。ありがとう。

投稿: 濱野成秋 | 2010年2月11日 (木) 10時46分

二木先生の「うた物語」で「平城山」が奈良の歌であると初めて知り大変感謝しております。
と言うのも今年の『平城遷都1300年祭』に関し、“西遊記”の主人公玄奘三蔵もお祀りしている薬師寺とご縁をいただき、9月5日12:30から故平山郁夫氏が30年かけて制作された縦2.2m・13枚の長さ49mの<大唐西域壁画>の前で「シルクロード」を、そしてその建物の外で「ガンダーラ」・「月の砂漠」・D.Ellingtonの「Caravan」・中国民謡「太湖船」・そして当地の唯一の曲「平城山」をプログラムに入れて奉納演奏をすることになりました。
メンバーは二胡:3名、柳琴:1名、ソプラノサックス(私)の5名で、数年前喜太郎さんも別の広間で演奏されており1曲とは言え聖所とされている<大西域壁画>の前での演奏は初めてだと言われて、天にも昇る思いで非常に緊張もしています。
演奏のご容認をいただいたキーワードとなったのは奈良の地の歌「平城山」でした。
先生!皆さん有り難う御座いました。こころ静かに写経は如何でしょうか?是非お出で下さい。

投稿: 尾谷 光紀 | 2010年3月18日 (木) 23時46分

<平城遷都1300年祭>のお陰で新たな出会い・体験・感動が沢山ありました。
  1.2/27:薬師寺東塔(国宝)の調査で足場を組まれた際、塔の宝珠や水煙も真近で観ることが出来ました。
  2.9/5:薬師寺の大唐西域壁画殿は絵の劣化を防ぐ為密閉されていて、当日外気温32~3度内部は40度以上あったので玄奘三蔵院伽藍での奉納演奏となりました。
  3.10/9:薬師寺で天皇・皇后両陛下をお迎え致しました。
  4.10/18:月に1回日帰り、年に1回2泊3日のハイキング仲間“豊中いきいき歩く会”46名で大極殿・平城宮跡一帯を太古のロマンに思い馳せながら散策しました。
4月から始まった祭りの主な催しは11月7日までとのことにて、是非一度訪れてみては如何でしょうか?

このような熱い想い出を心にカラーでネガ出来たのは「平城山」:二木先生の『蛇足』からでした。
ありがとうございました。

投稿: 尾谷 光紀 | 2010年10月26日 (火) 17時27分

ときに、一人の人のことが強く思い出されてくることがあります。このところ何度となく頭に浮かんでいたのですがーーー平城山にいたって、犬養孝先生に一点集中したようです。

先生は、その当時わが母校の教授であり、一年間万葉集の講義を受けさせていただいたのです。教養課目ですので、手を抜きながらーーいい加減な学生でした。

犬養先生は、ライフワークともいうべきーーー万葉旅行ーーを主催されておられました。何度か参加させていただき、僕の時にはーー南紀をめぐる旅ーが強く印象に残っています。40年50年も過ぎると、記憶が定かでなく、どこで先生の朗々たる万葉詩のうたごえを聞かせていただいたのか??  思い出せず、歯痒く悲しくなってしまいます。新宮・田辺・印南 等々懐かしい所々です。

磐之媛陵周辺の旅もあったことでしょう。犬養先生の独特な解釈をきけなかったのは、残念です。

その後先生は、万葉に詠われた地が異常な開発の波に巻き込まれるのはしのびないとして、ナショナルトラストの先頭にたち、がんばっておられました。

変化・改革という言葉が絶対正義のように思われやすいこの頃、日本の歴史に思いをはせ、日本人とは何か、どうあるべきか、等々考え学び行動していきたいものです。

投稿: 能勢の赤ひげ | 2010年12月 2日 (木) 23時48分

今朝、言霊のように この歌が口を衝いて出ました。
そして惹かれるようにして、こちらを知りました。

泪を胸の奥に飲み込み、又歌います。
ありがとう

投稿: 偲ぶれど・・ | 2010年12月16日 (木) 09時17分

万葉集を開くと恋の歌の多い事に驚かされます。女性の大らかな恋の歌は自由でのびやかで新鮮です。ところで男の人も恋した女性を思って涙ぐむことがあるのでしょうか。ずっと疑問に思っています。どなたかお教え下さると嬉しいのですが・・・失恋に泣く人は知っていますが、恋しくて涙ぐむ人を聞いたことがないのです。もしそんな方がおられたら私の男性観が変わると思います。いかがでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2010年12月18日 (土) 20時10分

初めて拝見致しました。
20年以上も前に、高校生であった頃、平城山という美しい歌を知り、それ以来、歌詞も旋律も決して忘れることなく、愛して参りました。この度、私自身もこの歌について記事を書こうと思いつき、それならば、きちんと調べてから文字にしようといろいろ探しておりましたら、ふと貴殿のブログに行き当たりました。私は20年以上、作者が誰なのかすら知らず、この歌を愛しておりました。ずっと、これは防人に行ってしまった夫を想ういにしえの女性の心に自分の気持ちを重ね合わせたものなのだ、と思い込んでおりました。越えるに越えられぬ、平城山の道に、涙を落とす…と。それが全くの間違いで、夫とは仁徳天皇であり、その皇后である石之日売命の想いに北見女史が心を通じ合わせ、詠んだ詞ということがわかり、本当に胸を撫で下ろすと同時に、今日までよく歌詞の一つも違うことなく記憶していて良かったと、安堵いたしております。
何年か前に投稿なさった記事でしたのでそちらにはたくさんのコメントもありましたが、まずは御礼を申し上げたく、書き込ませていただいた次第であります。
本当に有難うございます。そして、美しい言葉の持つ力と、それを愛する皆様のお心映えがあるからには、日本語の誠実さは必ずや次世代に伝わるものと、ここに深く確信を持つものであります。

投稿: カモノハシ | 2011年2月14日 (月) 03時37分

初めて投稿させていただきます。
2008.7.26(土)朝3時~4時放送のNHKラジオ深夜便「にっぽんの歌 こころの歌」でソプラノ歌手藤原のり子さん(東京芸大声楽家卒)が話された内容を簡単にご紹介致します。
藤原さんはコンサートの時、お客さんに歌詞の意味をよく理解してもらい、曲をより深く味わって頂く為、歌詞の背景をよく調べ話されるそうです。
平城山については、北見志保子が浜への思いを磐之媛が仁徳天皇に寄せた思いに重ね合わせて詠んだものと理解し歌っていたそうです。更に調べるうちに、平城山にはもっと悲しい言い伝えもあることを知るのです。
日本書紀の、影媛(かげひめ)あわれ の部分です。
武烈天皇が皇子の時、美しい影媛を見初め召そうとしたのですが、影媛には既に平群鮪(へぐりのしび)という
恋人がいることが分かり、怒った皇子は大伴金村を差し向け平城山で鮪を殺し谷底に埋めてしまいます。
影媛は、お盆にご飯とお水を乗せ、天理あたりから20キロも離れた平城山の埋葬場所へ山之辺の道を泣きながら、とぼとぼと通い続けるのです。
・・泣きそぼち行くも 影媛あわれ・・・とあります。

谷底に向かって「ここの土だけは猪よ 掘り起こさないでおくれ。ここには愛しい恋人が眠っているのだから・・」と叫ぶのです。
このエピソードを知った藤原さんは鳥肌がたったそうです。そして、平城山には、人を恋することは悲しいことなんだってだけじゃなくて、こんな壮絶な歴史が秘められていたことも知り、従来にも増して万感の思いで歌わせていただいております・・と感動的に話されました。
二木先生の名解説と多くの皆様の「平城山」に寄せる思いを読ませていただき、ますますこの曲が好きになりました。
今年2月、九段下の(社)日本詩吟学院岳風会本部で詩吟の師範の試験を受けた際、講師の先生が「作者がどんな人物で、どんな思いで詠んだのか背景をよく調べ作者の心を吟ずるように」と強調されましたが、藤原のり子さんの話と重ね合わせて拝聴いたしました。
駄文お許し下さい。 横須賀市 山中猛(孟岳)

投稿: 山中 猛 | 2011年6月25日 (土) 18時40分

老齢の者ですが……
昔若い学生の頃、孤独な下宿の部屋で、
ラジオから流れる「平城山」の歌を
テープレコーダーで録音して、
繰り返し聞いた記憶があります。
張りのある女性の声でした。
この曲は中学時代だったか、音楽の時間にならって知っていましたが、
大学時代にきいて涙がこみあげてしょうがなかった。
「ひと恋ふは悲しきものと平城山に……」
「もとほりきつつたえがたいかりき……」
「いにしへも ツマに恋ひつつ 越えしとふ」
「平城山の路に涙落としぬ」
 サイトで作詞者の〈歌人・北見志保子〉なる女性のエピソードを読ませていただき、このたびなるほどと、感無量の感じです。

 実はそのころ、ちょうと私自身、この歌に共鳴してもいいような状況に陥っていたということがありました。


投稿: utsugi | 2011年10月17日 (月) 02時04分

Elkoran Dankon!!!

投稿: verdavojeto | 2012年9月26日 (水) 21時03分

磐姫を調べました。昔から嫉妬深い女性の代表のように言われてきたけど、実は劣等感からの嫉妬でとてもかわいそうな女性だったと思います。木津川のほとりに立つ大きな欅を天皇様と思って過ごした晩年なんて・・・。彼女の運命も権力に翻弄された人生だったんですね。結婚した人が天皇でなかったらこんな事にはならなかったのに。

投稿: イワノヒメファン | 2013年3月13日 (水) 22時06分

はじめまして、当方67才の男で、歌はやや音痴派ですが、古賀メロディ大好き人間です。このようなサイトがあることに、感激しています。

平城山の歌詞ですが、私は一時期、歌詞を勝手に解釈して納得していました。ところが、鮫島由美子さんのCD解説で、北見志保子さんの恋にまつわる話だと知り、がっくり。(;_;) でも今でも最初の誤解の方を、気に入っています。

笠郎女が22才のとき、大伴家持17才の颯爽たる騎馬姿に出会って一目ぼれ。一時期、交際があったものの、家持君の方は大変もてる男なので、疎遠になってゆきます。

笠郎女は片思いに泣きつつ、平山(ならやま)のふもとにある大伴一族の館を見下ろしながら、
  君に恋ひ 甚(いた)も術(すべ)無み 
  平山(ならやま)の
  小松が下に 立ち嘆くかも
と、歌います。歌詞の一番は、この顛末の意味だと思い込んでいました。

結局、笠郎女は25才の頃、この恋を諦めて、故郷の備中の国に帰ります。その時の歌が、
  情(こころ)ゆも 我(あ)は思はずき
  またさらに
  わが故郷に 還り来むとは

ところで、話は変わりますが、ハコベの花さんが「男性でも、女性への恋の思い故に泣くことがあるか?」と質問されていますが、平安時代初期の天皇の歌に、
  君がため そことも知らぬ 大空に
  おぼつかなさを 嘆きつるかも
とあったと思いますので、男も泣きます。天皇の名前は忘れてしまいましたが。

投稿: すばる | 2014年3月15日 (土) 21時43分

今年に入って若い男性2人から「失恋した」と聞かされました。「失恋も経験したほうがいい」と言ったら「大ショックだったんですよ」と怒られてしまいました。その割には元気でケロッとしているように見えました。今では失恋でも泣かなくなったのかと思いましたが、心のうちでは激しく泣いているのかもしれません。恋しくて泪するのも男女の差はないのでしょう。青い大空を見上げると50年も昔の人を想い泪するのですから、恋ほど繊細なものはないのでしょうね。今度2人の青年に謝ろうと思います。すばるさん有難うございました。

投稿: ハコベの花 | 2014年3月15日 (土) 23時55分

1コーラス目の「悲しきものと」の部分と、2コーラス目の「夫に恋ひつつ」の部分のメロディは違うと感じました。

実は、ある歌の集まりで、この曲をピアノの先生が弾きながら演奏してくれまたが、この部分に違いがあると思ったので、先生に楽譜上違っていますかとお尋ねしたら、ちょっと見て、「いや、同じです」と言われました。
 
そう言われても何か疑問が残りましたので、ユーチューブで何人かの方の歌を聞いたら、やはり違いがありました。要するに、教室の先生は手で弾いているのは、1と2は違う(と私は感じた)のに、口では同じと言われたわけです。

二木先生のメロディも違いがありますね。実は私の記憶のメロディも違いがあるので、耳で聞くと「全員がこの部分はメロディに違いがある」となります。

長くなって恐縮ですが、楽譜上、この部分に違いがあるのでしょうか。楽譜がないので確認できません。どなたか持っていらっしゃる方、教えてください。

投稿: 吟二 | 2014年3月16日 (日) 12時08分

吟二様

仰るとおり楽譜も違っています。歌詞自体和歌にメロディーを付けたためでしょうか、二番の「平城山の路に」が字余りのため楽譜上相違があります。

投稿: 飯田 | 2014年3月16日 (日) 18時25分

飯田様

ありがとうございました。疑問が解けてすっきりできました。

投稿: 吟二 | 2014年3月17日 (月) 09時35分

二木先生の演奏素晴らしいですね。勝手に言わせてもらうとフルートをバックに琴?のメロディで古(いにしえ)の背景を表しているかのようです。
この歌は一番と二番では楽譜上もまったく違い各々が独立している楽曲と言えます。一般的な二番と異なります。
この曲は4/4拍子ですが、一番の「悲しきものと」は”かなしき”までは4分音符ですが、最後の”と”は2分音符です。そして二番相当の「夫(つま)に恋つつ」は”つ”は2分音符から入り4分音符が3個続き”い-”は8音符が二つつらなる連音符(ギターで言うスラー)で、”つつ”は4分音符2個となります。
楽譜が書けないのが残念です。そして全体に字余りもなく音符に沿って1文字が充てられています。
全体に音符は一番が二分音符と四分音符で構成され、二番は2分、4分、8分そして16分音符で構成されていますのでニュアンスが異なります。
この楽譜は「心のうた・日本抒情歌」(野ばら社)に拠ってます。書店でご覧ください。
ところで、全く話が異なりますが。夫(おっと)をここでは”つま”呼びますが、妻も”つま”です。小生思うに平安時代から江戸時代まで夫は”つま”と呼び、妻の字はなかったと頭に勝手にあります。明治時代になり始めて妻の字を当て作成し、夫(おっと)・妻(つま)と呼称することを確定した、と解釈したいのですが判りません。この歌を唄う度にこの考えが出てきます。
どなたか教えてくれませんか?

投稿: 高橋 良完 | 2014年3月17日 (月) 14時30分

磐之媛の逸話は聞いたことがあるのですが、歌人については詳しく知らず大変参考になりました。
他の歌謡曲などのエピソードも興味深く、また少しずつ拝見させていただきたいと思います。


3月17日投稿の高橋様

「妻」は象形文字として成立し、古くは古代中国の金文にもみられる文字です。康煕字典などにも収録されており、決して新しい国字ではありません。歌舞伎の題名等にも使用例があります。
上代語の「つま」は男女問わず配偶者を指す語でした。漢字の受容に伴い文字を使い分けたわけですが、中古以降、「つま」は妻の意となり、夫の意には使われなくなりました。

投稿: Lindenbaum | 2014年5月25日 (日) 13時18分

Lindenbaumさま

「つま」を夫の意味で使うのは、現代でも「雅語」としてはあると思います。口語としては使われないでしょうが、詩歌の世界では通用するのではないでしょうか……?

投稿: 散歩中 | 2014年5月26日 (月) 15時58分

平城山の楽譜はどこで手に入るのでしょうか。
ヤマハの「プリント楽譜」は手に入るのですが、初級用で一部が省略されています。もう少し一般に演奏されているものがほしいのですが。

投稿: 田中 | 2014年11月15日 (土) 10時49分

 少年時代に聴いた愛唱歌。とても懐かしく、ときどき口ずささんでいました。このたび仲間と山野辺の道を歩く計画があります。ふとこの歌が思い出されました。北見志保子は、大恋愛しこの詩で名を残しました。
 仲間もほとんど知らないかも知れませんが、納会で披露してみようかと思います。己の青春時代、回帰を期して…。

投稿: 鈴木 英行 | 2014年12月 9日 (火) 19時32分

明日(12月16、17,18日)から、お仲間の皆さんと、「春日若宮おん祭と古寺古仏めぐり」に出かけます。

3年ほど前にも出かけましたが、その時この平城山の歌が出て・・・最後まで覚えてなかったので途中まででした。

が、今回これで少しわかり、歌ってみようかなと思います。^^

投稿: singermachiko | 2014年12月15日 (月) 12時58分

初めて書き込みします。平城山は、いつ聞いても涙がでます。 いまも、鼻をすすりながら打っています。
我が高知県いの町では、夕方6時のサイレンがとんぼのめがねのメロディです、堤防を散歩しながら聞いています。
偉大な郷土の先輩たちを思い涙しています。

                   孤独な山男

投稿: 山本正彦 | 2015年6月 3日 (水) 17時50分

今朝、散歩の途中、急にこの歌が頭に浮かび歌おうとしましたが、途中で歌えなくなり、色々探してこのサイトに到着。中学校時代に習った歌です。現在71歳。歌の背景がこのようなこととは全く知りませんでした。でも2章節めで涙が浮かんでくるのです。時代をタイムスリップした僕にビックリです.良い投稿に感謝しています。

投稿: 川崎正之 | 2016年9月 4日 (日) 15時32分

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