ロンドンデリーの歌
(mp3制作:二木紘三)
1 北国の港の町は |
2 さぎり降る港の町は |
原詞1:Katharine Tynan Irish Love Song
1. Would God I were the tender apple blossom 2. Yea, would to God I were among the roses |
《蛇足》 ロンドンデリーは、イギリス領北アイルランド第二の都市で、単にデリー(Derry)とも呼ばれます。フォイル川河口に位置する美しい港町です。
10世紀ころから、アイルランドの守護聖人の名を採ってデリー・コルムキルと呼ばれていましたが、イギリスによる占領後、ジェームズ1世がロンドン商人の組合にこの地への植民を許した(1613年)ことから、ロンドンデリーと呼ばれるようになりました。
アイルランド人は、デリーにロンドンをつけて呼ばれることに、民族的感情をいたく傷つけられるようです。長年イギリスに抑圧されてきた歴史を見れば、当然といえます。
アイルランド文化・アイルランド語研究家の森博史さんから、この曲の解題について詳細なご教示をいただきました。
それによると、この歌の原曲とされているのは、1796年にE・バンティングが編んだ曲集に載っている『Aislean an Oigfear(アッシュリン・アン・オール)』(英訳タイトルはThe Young Man's Dream)だそうです。
1990年代に入ってから、これを遡る説が出てきました。ローリー・ダール・オカハン(1570~1657年)が作曲した曲名不詳の哀歌が原曲だというのです。
ただ、この説にははっきりした証拠がなく、まだ認められるに至っていません。
『Aislean an Oigfear』は、その後曲名が忘れられ、単に「ロンドンデリー地方で歌われている歌」、または「ロンドンデリー地方で採集された歌」を意味する『ロンドンデリー・エア』として伝えられてきました。エアは歌という意味です。
それがこの歌の固有名として定着したのは、19世紀後半になってからのようです。
また、この歌にさまざまな歌詞が当てはめられるようになったのは、アイルランドの詩人A・P・グレーヴズが同郷の作曲家C・V・スタンフォードと組んで編纂した曲集『Songs of Old Ireland』を1882年に公刊してからだとされています。
これまで100以上のさまざまな歌詞がつけられています。上に示したキャサリン・タイナンの『Irish Love Song』は、そうした歌詞のなかでもとくによく知られているものです。
近藤玲二の歌詞は、この詩をベースにしたものと思われます。人によって好みは違うでしょうが、私には、原詩より近藤玲二の日本語詞のほうが心に響いてきます。
原詩は文字どおりラブソングで、恋する女性にひたすら自分の胸の内を伝えようとする内容ですが、近藤玲二の歌詞にはストーリー性があり、その分、より想像が刺激されます。
とくに第2聯の最後の行。りんごの木の下で愛を誓う若い女性のシルエットが浮かび上がってくるようではありませんか。
現実には「誓い」は全うされない、あるいは全うできないことのほうが多いようですが。
数百年後のアメリカのポピュラーソング『砂に書いたラブレター』にも、「You made a vow that you would ever be true, But somehow that vow meant nothing to you.」とあります。
ほかに有名な歌詞としては、旅立ったわが子に対する母親の思いを歌ったものがあります。津川主一が日本語詞をつけています(下記)。わが国では、こちらのほうがよく歌われるようです。
1 わが子よ いとしの汝(なれ)を |
2 はてしもなきかの路の |
1. My son I reared as might the brooding partridge 2. I see the grey road winding, winding from me, |
1913年に『ダニー・ボーイ』が発表されてからは、これが世界中で親しまれるようになりました。
(二木紘三)
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訪問者の感想等

コメント
四年ほど前から、時間ができたときには「MIDI歌声喫茶」のほうにお邪魔しています。年を重ねて顔にシミも出てきましたが、心にもシミが増えました。私の立場で仕事をしていると、どうしても辛い決定をしなければならないこともあります。心のシミはそれが原因で増えてきたものだと思っています。
でもあなたのサイトにいると、心にシミのなかった純な年頃の記憶が戻ってきて、ほんとうにすがすがしい気持ちになれます。このサイトがいつまでも続くように願っています。
投稿: T・K生 | 2006年9月27日 (水) 02時18分
終戦後NHKの夜の放送終了音楽にオルマンディ指揮で流されていました。
当時旧制中学の5年生でしたが、その曲に魅せられて毎夜聴いてておりました。
その後、可愛いお嬢さんと知り合い愛を誓った時、この曲を捧げました。
結婚して50年以上経ちますが、未だに夫婦の愛の歌として、歌ってています。
まだ現役ですが、引退後はすぐロンドンデリーに旅して、現地の海岸で合唱するのが夢です。
投稿: 鹿野源太郎 | 2007年8月27日 (月) 09時59分
約50年前、私は現在の米海兵隊岩国基地内の銀行に勤めていました。基地内の教会の聖歌隊に入っていましたが、あるとき、ロスの音大・声楽科を中退して海兵隊員になっていた、ジョセフ・ア・クインという歌手が、やはり海兵隊員のピアニストの伴奏でこの歌を歌いました。最初の2小節を聴いただけで、体に100万ボルトの電気が流れたショックを受けました。世界には電気うなぎのようなすごい歌手が居ることを思い知らされました。
投稿: 三瓶 | 2007年8月27日 (月) 18時58分
ジョセフ・ア・クイン氏が岩国市内でリサイタルを開きました。彼はハワイ原住民と中国のハーフでした。プログラムは日本歌曲、世界民謡、アメリカ民謡(アロハオエを含む)、オペラのバリトンのアリア等でした。
彼の歌う日本歌曲は私がそれまで聞いていた日本人歌手よりも、心に響く点では数段上でした。
投稿: 三瓶 | 2007年8月27日 (月) 19時07分
フリッツ・クライスラーも吹き込んでいますね。(1929年、ビクター赤盤)
彼はほかに「故郷の人々」も赤盤に入れていますが、
アンコール・ピースとしても好んで民謡を取り上げたようです。
主情的ですすり泣くようなルパートは、
ケルト的な情感とは肌合いを異にし、
今聴けば古めかしいようですが、これもまた佳きものです。
投稿: 金右衛門 | 2008年6月23日 (月) 07時37分