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夕陽の丘

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:萩原四朗、作曲:上原賢六
唄:石原裕次郎・淺丘ルリ子

(男)夕陽の丘のふもと行く
    バスの車掌の襟ぼくろ
    わかれた人に生き写し
    なごりが辛いたびごころ

(女)かえらぬ人の面影を
    遠い他国で忘れたさ
    いくつか越えた北の町
    目頭うるむたびごころ

(男)真菰(まこも)の葦(あし)は風にゆれ
    落葉くるくる水に舞う
    この世の秋のあわれさを
    しみじみ胸にバスは行く

(女)夕陽の丘を見上げても
    湖(うみ)の畔(ほとり)を訪ねても
    かいなき命あるかぎり
    こころの傷はまた疼(うず)

(男女)人の子ゆえに恋ゆえに
    落ちる夕陽が瞳(め)にいたい
    さよなら丘のたそがれよ
    また呼ぶ秋はないものを

《蛇足》 昭和38年(1963)リリース。日活で同じタイトルで映画化され、翌年4月29日に公開されました。松尾昭典監督で、主演はこの歌をデュエットした石原裕次郎と淺丘ルリ子。共演は中谷一郎、名古屋章、細川ちか子など。

 原作は菊村到の小説で、粗筋は次のとおり。

 やくざの篠原健次(石原)は、服役中の兄貴分・森川(中谷)の情婦・聖子(浅丘)と恋に陥ち、その現場を見て脅迫する子分を殺して逃走、聖子の妹・易子(浅丘2役)のいる函館に来るが、同時に組織の命令で森川の命を狙う殺し屋もやって来る。聖子は自分たちの幸せのため、殺し屋に森川の居所を知らせてしまう。健次が駆けつけたときには、すべて終ったあとであった……。

 淺丘ルリ子はうまいとはいいがたい歌い方でしたが、細くて不安定な声がいかにも「薄幸の女」という感じで、妙にこの歌に合っていました。

 この歌について、私が以前運営していたWebサイト「MIDI歌声喫茶」(閉鎖後当ブログに統合)のほうに、次のようなお便りをいただいたことがありました。私信ですが、どなたかは特定できないように細部を変えて掲載します。お年は不明ですが、昭和40年代に青春時代を過ごした方のようでした。

 先日、駐在中のA国から、本社での会議のために乗った航空機内でのことです。飲み物のサービスのためにワゴンを引いているキャビン・アテンダントの後ろ姿を見て、私はハッとしました。
 その人のうなじには小さなほくろがありました。その位置や襟足の感じが、私が学生時代に恋愛関係にあった女性とそっくりだったのです。私の席まできたとき見ると、顔立ちは違っていましたが。

 大学4年の5月ごろ、就職が内定したあと、私は、1年以上つきあった女性から別れを告げられました。私の人間的な未熟さが原因だったと思います。
 私は、ほとんど生きる気力をなくしてして、日がな、下宿でぼんやり時を送るだけになってしまいました。単位が残っていたし、卒論も書かなくてはなりませんでしたが、大学に行く気がまったく起こりませんでした。

 そんなある日、私は西日が射す下宿でラジオをかけたまま、寝ころんでいました。いつしか寝入ってしまい、夢を見ていたようです。細部は覚えていませんが、別れのシーンだったような記憶があります。
 突然、悲しみの固まりのようなものが脳裏に生じて、そのあまりの辛さに目が覚めてしまいました。
 そのときラジオから流れていたのが、『夕陽の丘』でした。悲しみの固まりは、この歌のもの悲しいメロディが夢うつつに聞こえていたためだろうと、私は判断しました。

 私は、クラシック音楽をこよなく愛好する両親もとで育ち、幼時からピアノを習っていたせいか、演歌はほとんど受けつけません。というより、ラジオから演歌が流れてくると、反射的に別の局に切り替えるほどでした。
 しかし、そのときは、その曲が終わるまでじっと聴き入っていました。

 その後も、大学にはほとんど行きませんでした。本来なら、卒業できない状態でしたが、私の能力を買ってくださっていたある教授が、多少イレギュラーな措置を執ってくださったおかげで、なんとか卒業でき、内定していた会社にも入ることができました。

 その後、私は上司の紹介ですばらしい女性と結婚し、掛け値なしによい子どもたちにも恵まれました。家庭生活になんら不満があるわけではない……というよりも十分満足しています。
 風の噂に、彼女も幸福な家庭を築いていると聞きました。

 にもかかわらず、あれから30数年も経つのに、彼女のことを思い出さない日は1日たりともありません。これは、どういうことでしょう。私自身にも理解できません。

 キャビン・アテンダントの襟ぼくろを見たとたん、忘れていた『夕陽の丘』を何十年ぶりかに思い出しました。
 帰国してから、すぐにウェッブにアクセスし、貴サイトに出会いました。ありがとうございました。この曲をキーとして、かけがえのない私の「心の傷」を反芻しています。

 そのキーが、私の好きなラフマニノフの『協奏曲第4番ト短調』あたりだったら、とちょっと思ったこともありましたが、やはり『夕陽の丘』だったからよかったのでしょう。A国に戻ってからも、ときどき聴かせていただきます。

 少々興奮しているので、つい長文になってしまいました。お許しください。

(二木紘三)

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コメント

「夕陽の丘」の蛇足が印象的でした。
”あれから30数年も経つのに、彼女のことを思い出さない日は1日たりともありません。”という某氏の言葉が私にも言えるからです。私の場合は中学以来の片思いでしたが24歳くらいの時にはっきりと振られてしまいました。中学生の日から50年もたちますがやはり、いつも思い出します。
 私はその後好きになった別の女と結婚しましたが悲しいかな彼女は結婚後20年たった頃から次第に私から離れて行き、30年たったとき、もうダメだとあきらめて離婚しました。この別れた女房は毎日のように思い出します。
 したがって私には未練たらしく思い出す女が2人あります。哲学者の和辻哲郎だったか天野貞佑だったかどちらかの書に「人は己の人生のゆく手ににさまざまな快適の姿を描き出すが運命の書にはそれと違って書かれてあるのが普通である。」といった文章があります。この文を思い出しながら私は「これが人生なのだ、これが生きているということなんだ」と自らに言い聞かせています。一人暮らしの行き着く果てに待っている人生の終焉を、一人で迎えるさびしさにもにも耐えてゆかねばならないと自覚しています。
 感想と言いながら、つい自らの愚痴みたいなことを言ってしまいました。
 お許しください。

投稿: F. S. | 2006年7月23日 (日) 22時38分

先生ありがとうございます
夢多き青春時代が甦ってきました

投稿: きょうこ | 2006年7月24日 (月) 20時21分

泣いてしまいしました。
私はこの人のようなビジネス・エリートでありませんが、同じようなつらい思い出があります。

投稿: トシロー | 2006年7月25日 (火) 02時22分

夕日の丘・MIDIを探していました。
今日、そして偶然に出会えました。
私は、とても田舎に育ち、5人兄姉の末・・中学のとき3歳年上の姉に始めて連れられ映画館に行きました。
それがおそらく・・たぶんこの映画だったか・・記憶は曖昧ですが、バスの車掌・・浅岡ルリ子さんのたった一場面の記憶があります。恋愛には程遠い年頃でしたが、おそらくこの曲。
私は50歳を少し過ぎ初めて人を愛そうとして・・しまいました。
いえ、いくつかの恋心を抱いても所詮、同じような人でしかありません。
 私の人生は寂しいものでした。夫のとの結婚も含め、
そして、
愚かさ加減に、辛くひどく孤独感を味わいつつ、ふと今日、春嵐の日の夕暮れ、思い切り口ずさんでいたのはこの曲です。
 パソを除けばきっと・だれかが・と思い、このホームページに出会えたことは私の心の癒しとなりました。ありがとうございます。

投稿: さちこ | 2008年2月23日 (土) 20時37分

石原裕次郎の大フアンです。同じ裕次郎の大フアンだった妹が昨年の九月に他界しました。妹を思い出して夕陽の丘を聞いています。懐かしさで胸がいっぱいになります。又私は高峰三枝子の大フアンです。石原裕次郎と高峰三枝子の二人がテレビで二人の世界を、仲むつまじく歌っていたのが特に印象に残っています。もちろんビデオも撮りました。何時もうた物語で好きな曲を聞かせていただき、ありがとうございます。

投稿: | 2008年5月 9日 (金) 17時08分

結婚が遅かったので30前後でもまだぶらぶらしておりました。カラオケが好きでこの歌をたまたま歌うと「ええ歌やなぁ。。。」と感嘆してくれる人がいました。その人にも忘れる事の出来ない彼女が居たようで。。。。一緒に悲しんであげようと思った事がありました。
女性より男性の方がそのような思いが強いようですね。

投稿: sunday | 2008年5月 9日 (金) 19時13分

浅丘ルリ子は「愛の化石」(違っていたらすいません)と言う歌をだしたような気がします。薄幸の女らしい歌い方でした。「若い人」と言う映画で共演されたと思います。裕ちゃんをルリ子と小百合で取り合ったと記憶しています。

投稿: M.U | 2008年7月20日 (日) 14時02分

 カラオケで歌うデュエット曲はこれに決めています。音域が比較的狭いので、音痴の私でも歌いやすいのと、なによりもこの歌に惹かれるから。切なく悲しい歌であるけれど、優しさに充ちています。裕次郎とルリ子で淡々と歌い継がれてゆく「夕陽の丘」の世界は、他の歌手では出せない、しみじみとした味わいがあります。
 大スターとしての余裕がそうさせるのか、裕次郎の歌には技巧に捉われない伸びやかさ、自然体の美しさが感じられます。それでいて音程は正確であり、ややハスキーな声ながら歌詞もハッキリしており、しかもコクがあります。そんな彼の歌を聴いていると、ふと「最上の美酒はどこか水に似ている。」という言葉を思い出したりします。
 裕次郎といえば「タフガイ」というイメージですが、その彼が、意外や、「忘れしゃんすな 山中道を・・」という石川県民謡「山中節」が好きで、レコードが擦り切れるほど聴いていたとか。
裕次郎の山中節。一度聴いてみたかった・・・・。

投稿: くまさん | 2008年7月24日 (木) 22時04分

思わず泣いてしまいました。
僕にも、ず~っと昔の思い出があります。
一畑電鉄のガイドさん、、、、
松江から三瓶山まで
ガタゴト路を「えクボ路」と案内してくれた睦子さん、
お元気ですか

投稿: チロ | 2008年12月26日 (金) 01時44分

ずーと前のF・Sさん、の書かれた文に自分を当てはめております。人間の運命は、思うように行かないものですね。理想と現実はあまりにも違いすぎます私の場合は。
情けなくなります。

投稿: 西山 利寿(トシヒサ) | 2009年7月13日 (月) 05時13分

昨日は石原裕次郎の祥月命日でした。タフガイ裕次郎は死してなお強いオーラを発しているようで、命日に先立つ5日に行われた23回忌法要には、11万人を超えるファンが集まったそうです。これはもう一介の人気俳優兼歌手の枠を超えた社会現象といってもいいのかも知れません。もちろんこの背後には、周到な演出がなされたことは承知していますが。
 この『夕陽の丘』は、わたしの好きなレパートリーに入りますが、こうした歌詞やメロディには、二木様の解説に紹介された方のコメントに見られるように、わたし達日本人の歌心を揺り動かすものがあるのではないでしょうか。ただこの方のコメントには日本独自の歌である演歌や歌謡曲に対する偏見も含まれているようですね。日本ではクラシック至上主義を身上とする作曲家や歌手によって、演歌や歌謡曲はヨナ抜き歌として指弾され、西洋音楽より一段低いものとする見方が一般的ですが、近年、国際的に活躍されている藍川由美さんの「『演歌』のススメ」を読むと、これは明治以降に西洋音楽を取り入れたときのコンプレックスに他ならないように思われます。演歌や歌謡曲を低級とする思想は、全くナンセンスなように思われますが。

投稿: ひろし | 2009年7月19日 (日) 00時16分

 中学校のとき,なかよしの友だちの家で初めて聞き,それ以来,心に残っていた歌です。ここで再開し,何遍も聞かせてもらっています。
 みなさんのコメントを自分と重ねて読ませていただきました。人生1度きりなのに思うようにいきませんね。すべてリセットできたらどんなに・・・と思う今日この頃です。
 ところで,石原裕次郎・浅丘ルリ子の曲に「山の湖」というのがあります。「夕陽の丘」に似たよい歌です。ぜひ,うた物語に加えてください。

投稿: ii | 2009年10月11日 (日) 15時43分

「蛇足」のなかで紹介されたエピソードを読んで泣いてしまいました。
私にも23歳のとき、やむを得ない事情で別れた恋人がいました。その2年後に彼女が結婚したという話を風の便りに聞きました。そのあと、私も結婚しました。
別れたあと、一度も接触はありません。しかし、私は彼女からの何かの「信号」を待っていました。手紙や電話ではなく、もちろん会うということでもありません。そういう直接的な接触は、お互いの結婚相手に対して失礼になります。
どういう「信号」かは自分でも説明できませんが、ただあのときの気持ちが風化していないということが私に伝わるような何らかのしるしがほしいのです。そういう「信号」を待ち続け、なんの信号もないまま50代に突入してしまいました。でも、私は待ち続けています。死ぬまでにただ一度、私にだけわかる「信号」を送ってきてくれたらと思いながら、待ち続けています。

投稿: N・A | 2010年1月30日 (土) 18時45分

小さな小さな田舎町に高校を出るまで住んでいました。
そこを乗り合いバスが、1日に往復4回通っていました。
そのバスには、女の車掌さんが制服姿で乗務していました。
そのバスが来る時間には、その道路に出て顔を見るのが楽しみでした。
淡い憧れか、恋心か分かりませんが、バスの車掌さんの顔を見ただけで心が癒されました。
純情であったその時代を想い出し苦笑しています。
でも、その心はいまだに持ち続けている自分がまだここに居るのだと思っています。

投稿: 西山利寿 | 2010年2月 3日 (水) 10時41分

いつも高齢者施設での音楽で、利用させていただいてとっても助かっています。

 今回はその施設のご利用者様から調べてほしいと頼まれたのですが、どうしてもわからなくて初めてメールしました。

 ♪ 盃にうつるネオン飲み干して
   ダントダント ダントダント ういてくる
   この部屋におもいなんかありやせぬ
  
この歌詞の歌と
 ♪ お酒良いものしらふじゃいえぬ
   ふだん気取ったあの人も二上がり
   スッチョンパラリでどじょうすくい
この歌詞は藤山一郎さんが歌ってたかもしれないというお話でした。

  お忙しいかとは思いますが、もし曲名、きちんとした歌 詞、メロディーのわかる方法をご存知でしたら是非、教え てほしいのです。 どうぞ、宜しくお願いします。
 

投稿: kayoko | 2010年2月 3日 (水) 16時24分

N.Aさんの投稿を読んで 気持ちよくわかります。男の性といいますか 思い出を抱いて生きる動物ですよね それに比べ女性は前向きですよ 常に明日に向かって生きていらしゃる もしかしてあなたが思っているほどあなたのこと考えてないかも むしろ忘れるように生きていらっしゃると思いますよ それほど男女の違いあると 最近思う自分です。 失礼があったらごめんなさい。

投稿: alude2500 | 2010年2月 5日 (金) 20時54分

75歳になりましたが、私が勤めていた町から私の田舎の村まで、JRバス(当時は国鉄バス)が通っていました。若い青春時代に、其のバス会社に勤めるバスの車掌さんとの結婚はどうかと叔父から聞かされた事がありました。私も田舎に帰るときに、1回その話のあった車掌さんのバスに乗り合わせた事がありました。
相手の彼女もその事は聞いていたようでした。
その後、その話は無くなりましたが、遠い昔の想い出とそのことが想い出されます。
その車掌さんと恋する事も無く、デートをした事もなく何も無い、他愛無い話ですが想い出として書きました。

投稿: 西山利寿 | 2010年5月22日 (土) 06時22分

「浅丘ルリ子はうまいとはいいがたい歌い方」いい表現ですね。私には半音違って聞こえましたが、あの美顔にだまされたのも事実です。

投稿: 海道 | 2012年10月23日 (火) 21時12分

私は高校生ですが、地元の長電バスというとこの曲をいつも思い浮かべます。

北の街を行くローカルな雰囲気と、りんご色の真っ赤な車体が夕日の丘のふもとを行くバスのイメージにピッタリなので、撮影に行く際はIPODに入れたこの曲を聴きながら行っています。そして通りを行きかう長電バスの車両を見るたびに、ついつい口づさんでしまいます。

長電バスはワンマンカーですが、この曲を聴くたびに車掌さんがいたころの雰囲気を彷彿とします。

投稿: 貴チャン | 2012年12月15日 (土) 21時53分

昭和50年代前半の三十代の頃、カラオケは弁当箱のような8トラ(8トラック:カートリッジテープ)が主流で、土曜の夜ともなれば会社の同僚と行きつけのカラオケスナックに入り浸って、下手クソな音程で「夕陽の丘」をよく歌ったものだった。萩原四朗-上原賢六コンビによる「夕陽の丘」や「赤いハンカチ」クラスの歌謡曲になると、独断と偏見で言えば、単なる歌謡曲の域を超えて名曲と言ってよいと思う。

投稿: 焼酎百代 | 2014年7月15日 (火) 16時37分

『夕陽の丘』がヒットした昭和38年は某県某市の予備校に通っていた時期で、今どきの“物持ち”の学生と異なり、下宿屋の部屋(2人ずつ相部屋)に参考書とスタンド式蛍光灯を載せた粗末な机だけの生活で、毎週何曜日かの夜放送の文化放送「全国歌謡ベストテン」を下宿屋の一室に仲間と集まって聴くのが楽しみの一つでした。
「全国歌謡ベストテン」では、この『夕陽の丘』を始め、『白い制服』(橋幸夫)、『赤いハンカチ』(石原裕次郎)、『長崎の人』(春日八郎)、『エリカの花散る時』(西田佐知子)、『高校三年生』(舟木一夫)、『美しい十代』(三田明)などがベストテン入りしていたようです(不確かな記憶によれば)。

投稿: 焼酎百代 | 2015年5月18日 (月) 23時24分

バスの車掌さんの思い出ですが、数年前の九州旅行でこんなことがありました。その娘は最初に、「私は今日が初めてのガイドとしてのデビューです。がんばりますが不行き届きの点はお許しください」と言いました。前日までに一生懸命勉強してきたと思われるが、不安なので横に手書きのアンチョコを置いて見ながら明るくたまに初々しいネタで笑わせながら、ガイドになるまでは多分聞いたこともなかっただろう民謡や演歌も、我々高齢者のお客さんが喜ぶと思って、一生懸命歌いました。

でも、そのうち何か言っていることが周りの景色と違ってしまいました。他の場所を説明してしまったようでした。ハッと気づいて、すみませんと真っ赤になって謝りました。優しい乗客が「いいよいいよ、気にするなよ」などと言ってくれました。一通り説明した後、説明が途切れた時、前に座っている私は、彼女が見えない方にに寄って泣いていることに気付きました。多分、お客さんの優しさに泣いたのだと思います。

旅の最後になって挨拶の時、緊張感からやっと解放されて無事に終えることができたという安ど感でか、涙があふれてきて、号泣してお客さまに感謝しました。お客は口々に「良かった、上手だったよ」と言い、大拍手がバスの中でまき起こりました。この初心を忘れないでもらいたいと私は思いました。

投稿: 吟二 | 2015年5月27日 (水) 08時53分

 私(72歳・男性)はかねてより、あの国民の誰からも愛された石原裕次郎さんがなぜ日本レコード大賞や国民栄誉賞を受けないのかと不思議に思っております。
 この前、長島茂雄さんが松井秀喜さんと一緒に国民栄誉賞を授与された時、「えっ、長島ともう一人は松井では無く裕次郎じゃあないの・・松井など10年早いよ!!」と憤慨したことがあります。長島さんと裕次郎さんは大変仲が良かったように聞いています(私は50年前の当時の月刊誌「平凡」の付録で「平凡ソング」を今でも大切に持っており、ページを開くと中程に2人の仲睦まやかな写真や対談が載っています。) 本当に今回は松井さんには少し待ってもらって、裕次郎さんと長島さんとのツ-・ショットにして欲しかったですね。と言う訳で裕次郎さんが最期の絶好のチャンスを逃したような暗い気持ちになったのは、私だけでは無いと思います。それでなくとも、賞を決める国会議員に於かれても裕次郎さんに熱い気持ちを寄せる年齢の方がいなくなりつつありますからね。
 でも諦めず、次は、石原慎太郎さんと裕次郎さんの兄弟ツ-・ショットで決めていただきましょう。
 国民栄誉賞にどうか「石原裕次郎を忘れないでくださいね・・もし、どうしてもオリンピック選手なら、その次には是非おねがいします。・・皆さん応援しませう。」
          《世界を賭ける恋ー迷える老羊》

投稿: 世界を賭ける恋 | 2016年9月 7日 (水) 21時49分

最高血圧200超過の痛風持ちがまた投稿させて頂きます。
「うた物語」掲載曲と同名の日活映画「夕陽の丘」「赤いハンカチ」…は日活ムードアクションと呼ばれていますが、動画を見ると裕ちゃんも若いですが浅丘ルリ子嬢の美貌可憐さは今時のアイドルの比ではないと思う今日この頃です。
海岸ロケでヒールを履いた浅丘ルリ子嬢と小林旭青年との抱擁シーンで、ルリ子嬢が岩場をヒールで軽快に小走りする映像を見ると(参考2動画)、当時のトップ映画女優の素晴らしい演技に感嘆するほかないです。
(参考1)http://www.youtube.com/watch?v=8zyu-bP0ezM
(参考2)http://www.youtube.com/watch?v=yS1Oi4_CAOI

投稿: 焼酎百代 | 2017年6月16日 (金) 15時08分

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