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青葉城恋唄

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:星間船一、作曲・唄:さとう宗幸

1 広瀬川流れる岸辺
  想い出は帰らず
  早瀬躍る光に
  揺れていた君の瞳
  季節(とき)はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜(もり)の都
  あの人はもういない

2 七夕の飾りは揺れて
  想い出は帰らず
  夜空輝く星に
  願いをこめた君の囁き
  季節はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ七夕祭り
  葉ずれさやけき杜の都
  あの人はもういない

3 青葉通り薫る葉緑
  想い出は帰らず
  樹かげこぼれる灯(ともしび)
  濡れていた君の頬
  季節はめぐり また夏が来て
  あの日とおなじ通りの角
  吹く風やさしき杜の都
  あの人はもういない

  季節はめぐり また夏が来て
  あの日と同じ流れの岸
  瀬音ゆかしき杜の都
  あの人はもういない

《蛇足》 昭和53年(1978)リリース。仙台を中心に活躍していたシンガー・ソングライターのさとう宗幸は、この1曲によって全国区になりました。

 広瀬川、杜の都、青葉通りを自分の思い出の場所に変えて歌うと、一段と思いが深くなります。

 ちなみに、長野県の松本でアドレッセンス前期の大部分を過ごした私は、広瀬川を女鳥羽川(めとばがわ)、杜の都を山の都、青葉通りを縄手(なわて)通りと置き換えて心の中で歌いながら、いろいろなことを思い出しています。
 女鳥羽川に架かる千歳橋のたもとですれ違ったとき、膝だけ軽く曲げて会釈し、過ぎていったピアノ少女のことなど……。

 縄手通り沿いの女鳥羽川は、広瀬川と比べると川幅も狭く、昭和30年代にはどぶ川同然でしたが、最近は、人びとの努力でずいぶんきれいになりました。もっとも、当時も、市街地の上流のほうは清流でした。

(二木紘三)

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コメント

今日は 最近ご無沙汰をしている間にHPがあかなくなり、Googleで見つけてさっそく青葉城恋歌を聞きながらメールを打っております。私は1944年生まれで戦争を知らない世代です。離乳食は、いものつるであったと母から聞いております。砂糖るいがなくサッカリン世代意外に歯が30本健在、栄養失調で悪いことばかりかと思えばよいこともあるようです。最近少しご無沙汰でしたが、またとんがり帽子の時計台など4歳ぐらいのときラジオから流れる曲をその時住んでいた家とともに懐かしく思いだされます。歌、音楽というものを、通して忘れかけていた思い出その時代にもどれる事、ほんとうに有難いことと思っております。どうぞご健康に気をつけられてお続け下さいますようお祈りし、お願いいたします。

投稿: 新宮 紀子 | 2007年9月23日 (日) 13時17分

学生時代を仙台の街で過ごした者にとって、この歌は絶対忘れることのできないものです。カラオケのレパートリーには当然リストアップし、私のハンドルネームもここに由来しています。

最近では昨年3月に、恩師の最終講義(定年退官に伴う行事)に出席するために仙台に行き、久しぶりに研究室の同窓の方々と旧交を温めてきました。その後、同じ研究室の友人と頻繁にE-mailで連絡を取り合うようになりましたが、仙台に実家があるこの友人から気になる話を聞きました。
というのも、この歌にもうたわれている青葉通りのけやき並木が地下鉄
東西線建設のために伐られてしまうとのこと。
町の発展も大切ですが、無くしてはいけないものもあるはず…。

投稿: あおば | 2007年9月30日 (日) 23時36分

二木さんの演奏も素晴らしいのですが、この曲はまことに抒情性豊かなメロディーと歌詞ですね。
以前、仕事などの関係でずいぶん仙台に行きましたが、実に落ち着いた雰囲気の街で「杜の都」の名にふさわしい所だと思いました。
この唄は初恋の人を偲んで歌っているのでしょうか。久方ぶりに故郷に戻ると、七夕の飾りや街並みは昔と変わらないのに、ただあの人だけが「杜の都」にもういないといった感じです。
その街の風景も、地下鉄の工事で変わっていくのでしょうか。季節(とき)の流れにものみな姿を変えても、この『青葉城恋唄』の歌は変わらずに、とこしえに続いていくのでしょう。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年6月10日 (火) 14時01分

大学1年のときに「ABCヤングリクエスト」というラジオの深夜放送で聞きました。心が洗われるような想いがしました。今の学生さんはラジオなどは聴かないでしょうね。深夜に同世代の人間が同じ番組を聴きながら勉強したり、本を読んだり、詞を書いたり。。。というのはなかなか良いものでしたが、もう時代錯誤かもしれないですね。

投稿: 本田雅生 | 2009年7月 6日 (月) 22時10分

いつだったか、テレビのトーク番組で、さとう宗幸氏がこの歌のエピソードを次のように話されていました。
当時、氏は仙台のラジオ番組「FMリクエストアワー」を担当しており、その中でリスナーから歌詞を募集、さとう氏が曲を付けるという公募企画をしていたそうです。そこに送られて来たのが、この歌。星間さんというアマチュアの作詞家からのもので、ひと目見て気に入ったそうです。その時の気持ちを同氏は「詞の内容はモチロンのこと、完成度がとても高く、直すところは殆ど無かった」と語っていました。
処が、2箇所だけ星間氏の了解を得て、直させて貰った語句があったそうです。一つは「瀬音ゆかしき“杜”の都」の箇所と、もう一つ「“季節”はめぐり・・」の箇所。原詩では「“緑”の都」、「“時”はめぐり」となっていたのだそうです。緑を杜に変えたのはさとう氏自身の提案だそうですが、後者は阿久悠氏の助言に基づくもので、阿久氏が言われるには「時は一旦、過ぎてしまえば、もう元に戻ることはない。従って、“時”はめぐりと言うのは論理的におかしくはないか。これは“季節(とき)はめぐり”にした方がイイ」と。
阿久氏は当時のさとう氏から見て雲の上の人。その人から直接、助言を得て、宗幸氏は大変、感激したそうです。そこで同氏は星間氏に了解を求め、“とき”と言う言葉に“時”を当てず、“季節”を当てたと言います。更に氏は「このことが、その年の“日本作詞大賞”に繋がったように思う。もしも“時”と言う字を当てていたら、ウルサ型の審査員からクレームが出て、大賞に選ばれなかった可能性もある」と話していました。
尚、その際、小差で次点となったのは、このアドバイスをして呉れた阿久氏の歌だったそうです。その年の“日本作詞大賞”は当初から、阿久氏との一騎打ちと見られていたそうで、その結果が出る前に、この“敵に塩”の助言を得て、さとう氏は阿久氏の度量の大きさを感じたそうです。「自分としては、その年の作詞大賞はピンクレディーの大ヒット曲を作詞した阿久氏が当然、選ばれるものと思っていました」と話されていました。ご存じのことかもしれませんが。

投稿: 美樹 薫 | 2009年10月27日 (火) 21時30分

初めて訪問させていただきました。すずらんの歌から青葉城恋歌に飛びまして、さとう宗幸のこの歌が大好きで、音楽に合わせて歌ってしまいました。
歌は心のふるさとです。リンクしたブログの皆さんにもバックミュージックに合わせて、いろいろ歌っていただきたいです。これからも覗かせて頂きますね!どうぞ宜しくお願い致しますm(__)m

投稿: 摂チャン | 2010年5月 7日 (金) 10時02分

孫の入学祝いのため、4月3日埼玉にでかけました。発つとき電話で、埼玉は桜が満開だと娘が言うので、10日には仙台の桜も咲くだろうと素人判断で宿を予約しました。
桜こそ咲いていませんでしたが、仙台は美しく風情のあるいい街でした。“るーぷる仙台”という観光客相手の乗り合いバスがありました。仙台駅を基点に13の観光スポットを70分で一巡します。15分刻みで発着し、600円の切符を買えば乗り降り自由、乗り合いだから立つ覚悟なら満員通過はまずありません。途中、何度も広瀬川を渡ったり、並んだりでした。広瀬川は蛇行しているのでした。
あおばさん、がご心配していた青葉通りのケヤキ並木は健在のようでしたが今から伐採が始まるのでしょうか。

投稿: 周坊 | 2010年5月 7日 (金) 11時53分

この歌、仙台の大学を出た当社の若い社員のカラオケ十八番で、当方も「季節(とき)はめぐり また夏が来て・・・あのひとはもういない」という抒情的な歌詞とその美しいメロディーが好きになりましたが、仙台には全く土地勘がなく、青葉通りも杜の都も広瀬川も実感が皆無でした。
その後、娘が仙台の大学に入り、ときどき様子を見に仙台を訪れるようになり、この地方都市に、東京では味わえない安らぎと詩情豊かな「杜の都」を実感し、この歌がますます好きになった次第です。

投稿: 愛園 蕃 | 2010年5月15日 (土) 07時54分

息子が赴任しているときに2度訪れました。観光客として中心部のほんの一画をなぞっただけですが、何となく心安らぐ街というのが仙台の印象です。杜の都とはよくいったものですね。東京には住みたいとは決して思わなかったですが、仙台なら一度は住んでみてもと思わせる街です。
このたびの大震災に遭われた皆様には、まだこの唄を口ずさむ心境にはなれないかもしれませんが、大きな声で歌える日がきっとやってきます。阪神・淡路大震災の経験からすれば、こんなときだからこそ音楽の力が必要だと思います。皆様の一日も早い復旧と復興を心から願っています。

投稿: さすらい爺 | 2011年3月25日 (金) 23時29分

しんみり何度となく聞き直しながら、歌詞を口ずさみ、若い頃仕事の都合で年に数度となく通った仙台を今は懐かしく思い出されております。
夜中の3時です。いい曲と演奏ですね。
リタアして五年経ちますが訪れようと思えば約3時間の距離なので行けない距離ではないが今更ながら時折しみじみと想い出しては、ひとしお感慨深げに浸っております。当時知り会えた様々な方々はどうしておられるか、仙台の街並みと風情ある様に、心にいろいろ込み上げてくるものがあります。
大震災のその後の情報もテレビでの内容しか知らず、今後のますますの復興と隆盛をただ願うのみであります。

投稿: tsuzuki | 2012年8月18日 (土) 03時09分

この歌を聞くとどうしても伊達政宗が出て来てしまいます。
遺訓の一つ
「一、 気長く心穏やかにして、よろずに倹約を用い金銀を備ふべし。倹約の仕方は不自由なるを忍ぶにあり、この世に客に来たと思へば何の苦しみもなし。」仰る通りですが守れたためしがありません。
「 将軍の前での脇差帯刀を許されていたが、側近が酔って居眠りする政宗の刀を調べると、中身は木刀であったという。」戦さと平和を体験している。
「家光が鷹狩に没頭し、下宿(外泊)を頻繁に行うのに困った幕閣が政宗に説得を頼んだ時のこと、政宗が「下宿はお止め下さい。私も家康公の御首を何度か狙ったことがございます」と家光を説得、以後下宿を行わなくなったという。」これが長老。
                               ( 歴女に憧れる老人)

投稿: 海道 | 2012年9月 8日 (土) 06時57分

今夜(2012年12月27日午後7時から)のテレビ放送(名曲ベストヒット1960年代&70年代)に、さとう宗幸さんご本人が出演されて、現在のさとう宗幸さんの「青葉城恋唄」を偶然に聴くことができました。1978年リリースから数えて34年経過したにもかかわらず、時を超えて新鮮な気持ちを呼び起こしてくれる素晴らしい歌だと思います。
広瀬川の水面のような白いきらめきと時の流れを感じさせる、落ち着いた中にも気持ちのこもった、実に感情豊かな歌いぶりで、聞き入ってしまいました。豊かな白髪が印象的なさとうさんはこの詩の誕生のいきさつについて、この欄で2009年10月に美樹 薫さんが投稿された内容と同じ、「完成度が高く、すばらしい詩でした」と簡単に触れられていました。時間の関係でしょうか、語句を数か所変更に至った詳しいいきさつ(作詞家阿久 悠氏のアドバイスなど)までは触れられませんでしたので、美樹 薫さんの投稿を思い出し、名詩・名曲誕生のいきさつをあらためて確認させていただきました。ありがとうございました。

投稿: 國近 進 | 2012年12月27日 (木) 23時48分

2003年から楽しく聴いております。
累計3000万回突破しました
おめでとうございます。

投稿: 藤岡 大蔵 | 2014年2月14日 (金) 11時56分

昭和53年三十代の頃、ポン友と久し振りに飲むため仙台の一番丁界隈をブラついていた時、居酒屋の開店まで時間があったので、時間つぶしに何となく地元デパート(藤崎)の屋上に行ったところ、無名?のフォーク歌手がギター片手に自作の歌を屋上に居た10人くらいの買物客に披露していた。それがさとう宗幸の青葉城恋歌だった。聞いた瞬間にいい歌だなと思った。

投稿: 焼酎百代 | 2014年7月15日 (火) 18時19分

この曲がつけっぱなしのラジオから流れてきたとき、思わず夕飯の支度の料理の手が止まってしまい、胸が高なり動悸さえおぼえて、大げさにいえば『会えないはずの人に、突然会ってしまった!」そんな感じでした。
その後「あの曲は何だった?」との自問自答からはじまり、頭から抜けないメロデイが脳を占領してしい・・・・
しょっちゅう出合う友達に、胸の内を空けると『今日、うちに来て』とのこと。
彼女は私を超えてしまい、数日前にカセットに入れていて、何度でも聞けるように台所に設置して、あの曲を聴きながら、料理していました。
なぜあの曲は、懐かしいような、切ない想いと、ホッとする温かさを感じさせてくれるのでしょう。
ずっと後に広告関係の長男が仕事で、さとうさんにお会いすることになり、私の思いを話しますと、さとうさんは色紙一杯に『あの詩』を味わい深く描いて下さいました。
今も私の寝室の壁に、大好きだった『越路吹雪』の色紙と並んで私を、見下ろしています。
この二枚の色紙は、変色から守るためにそっとラップでくるんであります。
夜休む前は、無意識に左手でなでてから、ベッドに入ります。良い曲を残して下さった「さとうさん」話される声も素敵です。人柄が伝わってくるようですね。
息子から聞く「さとうさん」は、やはり私の想像する通りの方だったようです。

投稿: 伊藤 光子 | 2015年2月27日 (金) 03時12分

‘アドレッセンス‘語彙を見てニッコリ! この仮名言葉がキラッと光る蛇足が楽しいです。14-25才期間ならば、個人的懐かしい旋律は全てアドレッセンスに属し…、そして先ごろ話題になったBoyhoodを連想します。2002-2013年、6才からカレッジ進学まで12年間を、年ごと二週間撮影による‘少年期‘話。おおむねの構想と、スタッフ実際の成長/加齢とのインテグレーションと言う感じのUS‘映画的‘日常を描く作品。

ボーイ/ガールフードはアドレッセンスに言い替えられる…。もしも昭和53年に、四行基調のこの歌詞を聞いていれば、既に過ぎ去った我がアドレッセンスが懐かしく思い出されたことでしょう。35年余たち初視聴。詩と旋律、互いに溶け合い、上手ですね。いつかまた、正宗の城下町を訪れたくなります。

投稿: minatoya | 2015年2月27日 (金) 23時21分

大好きな歌です。
13年前、当地と新庄市が「全国都市緑化祭」の会場になりました。我が家最寄りの最上川ふるさと総合公園が会場となり、佐藤宗幸さんの「夕暮れコンサート」が開催されました。川風に乗ってオニヤンマが悠然と飛び交う会場に佐藤宗幸さんの爽やかな歌声が流れ至福の思いに浸りました。未だ50代った私も古希目前となりました。杜の都の若者の恋ではないが「あの人はもういない」が胸に迫ります。同じくの彼の歌で「昔聞いたシャンソン」は青葉城恋歌以上に好きな歌です。今は亡き酒田出身の岸洋子さんのコンサートで知りました。りんご30代のときです。
(彼女の死は日本シャンソン界に大きな喪失感をもたらしました。)

投稿: りんご | 2015年2月28日 (土) 19時25分

旅行好きな私でしたが、なぜか東北地方は関西からは当時は時間的に不便な地方でした。旅行会社の海外担当で海外経験が多かった次男が、『足が丈夫な間に、日本中行けるところは行ったほうが良い』「車いすになっても、外国にはいけるから』と、口癖のように言っていました。
そうこうしてる間に、あのような悲惨な地震と福島原発の事故とが重なり、阪神大地震を経験しました身の私には、被災者の心の傷が、より深く理解できました。
ついにいつか行こうと思っていた『仙台』には行けなくなってしまいました。仙台にこだわってページを次から次へと開いているうちに、地震前と地震後の写真が・・・・・。同じ場所から撮った写真ですが、あまりの変わりように、言葉が見当たりません。
神戸の町の地震被害は「人の作ったものが壊れてしまった」という感じですが、仙台の被害は『今まで守ってきた自然が壊された』と言うように少し被害の状況が、違って見えます。
あの写真の多くを心に刻んでおくために、デスクトップに残し時々開いて見ながら、一日も早くあの当時の風景が戻ってくることを祈りながら、ついに見られなかったあの光景を想像して、時を過ごしています。

投稿: mitsuko | 2015年3月 1日 (日) 16時07分

1958年ごろ過ごした仙台は今と比較できないほど貧しかった。仙台駅は粗末で冬には駅前にはリンゴなどので店が並んでいた。市電が主な交通手段でした。(もっとも新宿西口には靴磨きがずらっと並び大阪駅前には、てっちりの屋台が林立していたから、空襲を受けた都会は大同小異だったのでしょう)しかし仙台の街には大きな書店が、たくさんあった。思い出すだけでも丸善、高山書店、養賢堂、アイエなどなど、大阪より多かった。二十数年後に訪れたらそのほとんどがブティクなどに姿を変えていた。

投稿: 昭和老人 | 2015年5月 7日 (木) 23時56分

“札仙広福”は広域中心都市の略称ですが、仙台は札幌、広島、福岡に比べ人口は少なく市街地規模も小さい都市です。
空襲で“仙台砂漠”と言われた市街地の粗末な仙台駅は新幹線開業前に現在の駅舎に建て替えられたが、竣工から40年経って地震被害もあり老朽化が目立つこの頃です。変わらないのは、『青葉城恋歌』に出てくる広瀬川と、青葉通りの名称の元になった青葉山だけです。

投稿: 焼酎百代 | 2015年5月 8日 (金) 15時38分

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