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もずが枯木で(その2)

その1から続く)

●曲制作の経緯と流布について
 これについては情報がかなり錯綜していますが、整理して書いてみます。
 敗戦後、合唱を中心とする歌で社会を改革しようという理念のもとに、「うたごえ運動」という社会運動が起こりました。社会主義運動・労働運動に基盤を置き、歌声喫茶を日常的拠点として展開された運動で、多くのロシア民謡や反戦歌が歌われました。そうした歌の1つが『もずが枯木で』でした。

 この歌が広く世に知られるきっかけを作ったのは、おそらく評論家の野口肇です。彼は、昭和28年(1953)4月の第3回参議院議員選挙の際、応援に来た学生たちがとてもいい歌を歌っている、という話を聞きつけました。訊いてみると、それは1人の女子学生が茨城に学童疎開していたときにに覚えた歌とのことでした。
 学生たちが応援したのは、この時代の風潮からして、たぶん日本社会党左派か日本共産党でしょう。

 野口夫人がそれを聴いて採譜したものが、うたごえ運動の機関紙『うたごえ』第2号に、「題不明・茨城県の歌」として掲載されました。『うたごえ』は、楽譜や合唱団活動のための豆知識などを1枚の紙に収録したもので、のちに『うたごえ新聞』と改題されました。
 この歌は昭和29年
(1954)、うたごえ運動の歌集『青年歌集/第三篇』(7月15日発行)に『もずが枯木で――茨城県民謡』として掲載されました。歌詞も曲調もいわゆる民謡とは全然違うのに、茨城県民謡とした粗雑さには少々呆れます。「茨城県の歌」なら茨城県内で歌われている歌という意味になるのですが。

 東京・代々木の山谷小学校で音楽教師をしていた徳富繁は、「第6回東京都教育音楽会」で歌われた『もずが枯木で』を聞いてびっくりしました。歌詞はサトウハチローのものと何か所か違っているが、メロディはまちがいなく自分が作ったものだったからです。
 コンサートの年月日ははっきりしませんが、茨城民謡と紹介されたので、『青年歌集/第三篇』発行以降、すなわち昭和29年の後半以降だったと思われます。
 さらに彼は、昭和31年
(1956)公開の映画『ビルマの竪琴』(市川崑監督)のなかで、『もずが枯木で』が作詞・作曲者不明のまま歌われていることを発見しました。

 『もずが枯木で』のメロディは、徳富繁が東京の板橋第六尋常小学校で教師をしていた昭和13年(1938)、『百舌よ泣くな』に感動して作ったものでした。彼はそれをガリ版で50部刷って教え子や知人に配りました。楽譜に「昭和13年9月18日作」とあるので、作曲はその前だと思われます。
 陸軍病院への慰問の際に、教え子たちに歌ってもらったことがある、と徳富はのちに語っています。

 この曲が戦後、「茨城県の歌」、さらに「茨城民謡」となったいきさつがよくわかりません。しかし、前記女子学生の「茨城に学童疎開していたときに覚えた」という言葉がヒントになります。

 昭和17年(1942)4月から米軍による本土空襲が行われるようになると、翌末に個人が任意で田舎に移る縁故疎開が始まり、さらに空襲が激化した昭和19年(1944)8月には、学校ぐるみで疎開する学童疎開(集団疎開)始まりました
 徳富から『百舌よ泣くな』を教わった児童が茨城県に縁故疎開か集団疎開し、そこで他の子どもたちに教えたのが周辺に広まったのでしょう。

 こうした諸事情について、徳富はサトウハチローに手紙で知らせました。サトウは、手紙をもらうまで、自分の詩が若い人たちに愛唱されていることを知らなかったようです。

 昭和31年(1956)4月8日付けの『東京タイムズ』に、「青年歌集が無断で借用」というタイトルで、サトウハチロー氏が憤慨しているという趣旨の記事が掲載されました。
 『東京タイムズ』は東京の地方紙で、サトウハチローは昭和21年
(1946)から10年間エッセイを連載していました。この新聞は今はありません。

 この報道を契機として、著作者が正しく表示されるようになりました。
 作詞者のサトウハチローはもちろん、徳富繁も、ガリ版刷りの原稿が決め手となって日本音楽著作権協会に作曲者として登録されました。

 戦後、一般に歌われている歌詞が原詩と違っていることが判明したのは、昭和40年代のことです。キングレコード(講談社の傍系会社)で、コーラスグループのボニージャックスが『もずが枯れ木で』をレコーディングすることになった際、当時の長田暁二ディレクターが、歌詞が原詩と違っていることに気がつきました。
 そこで、サトウハチローに問い合わせたところ、彼は次のように答えたそうです。

 「確かにボクが最初に書いたものとはずいぶん違っているが、左翼の団体などが茨城県民謡として歌っていることだけ訂正してもらえば、みんなが親しんでいる歌詞でいいじゃないか」

 音楽でも美術でも、ナゾの多い作品ほど人を惹きつけるといわれます。この歌も、そうした作品の1つといってよいでしょう。

この詩と曲についてかなり詳しいことがわかってきたので、以上のように改稿しました。調査資料をご提供いただいた中井修さんに感謝いたします)。

(二木紘三)

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コメント

私もこの歌が明らかに非戦なのに検閲を逃れたことは疑問に思っていました。さきほど思い立って検索してこのサイトを拝見しました。なぜ逃れたのか疑問は残りますが、ここまで調査されたご努力とその結果に感謝いたします。

投稿: 佐藤 悟 | 2012年3月29日 (木) 14時38分

安倍首相の時代にみんなで心を込めて大きな声で歌うことが大事ではと思う今日この頃です。

投稿: 長島 彬 | 2015年6月18日 (木) 21時58分

長島 彬さんへ

政治に絡んだコメントは、投稿しないでほしい。 せっかくのサイトが歌から逸れた議論の場となったことが度々あったので、敢えて投稿します。
純粋に歌を楽しみたいな。

投稿: 寒崎 秀一 | 2015年6月19日 (金) 07時27分

「歌は世につれ世は歌につれ」と言います。歌が流行ったころの世相を知ることも興味深いものです。あまりに難しい政治論でないかぎり私は政治の話も良いと思います。皆様の色々な思いを知ることは楽しみの1つです。純粋に歌ばかりのブログになったらつまらなくなってしまと私は思います。これは私の意見です。

投稿: ハコベの花 | 2015年6月19日 (金) 17時36分

本サイト投稿欄にあくまで歌物語そのものを楽しみたいという本サイトの趣旨に沿ったコメントを投稿をしようと、政治に絡んだコメントを投稿しようと、本サイト主催者二木先生が許容される範囲内であれば、どちらでも構わないんじゃないですか?
(ただし、本サイトはあくまで歌物語という性格上、政治的な“議論”は好ましくないと思う→政治的な“議論”は他に無数にあるサイトでやればよい)

投稿: 焼酎百代 | 2015年6月20日 (土) 15時31分

長島さんのコメントに対し寒崎さんが述べられたコメントに私も賛成。「難しい政治論」でも「政治の話」でさえもなく,『もずが枯木で』と何の繋がりもないシュプレヒコールのようなものと、大いに違和感を持ちました。とくに長島さんは立派なブログをお持ちであるので、そこで主張を展開し、お仲間を引きつけられればどうでしょう。
焼酎百代さん
「政治的な“議論”は他に無数にあるサイトでやればよい」の部分に賛成。
しかし、指摘したいのはすでに二木さんの考えはこのブログ上で表明されているということです。
『ああモンテンルパの夜は更けて』
の中のコメントに
『皆様
戦争と平和問題についての論争が激しくなったので、コメントの受け付けを一時停止していましたが、いちおう冷却したようなので、再開します。当サイトは、あくまでも歌が基本テーマであるということをお考えのうえ、ご投稿願います。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2010年3月12日 (金) 03時57分』
とあります。

もう少し考えるところもありますが、とりあえすこれまで。

投稿: 昭和19年生 | 2015年6月21日 (日) 15時58分

長嶋さんの投稿を良しとしない方が居られるのもわかりますが、大人なのですから自分の判断で無視することはできないのでしょうか。いろんな考えの人がいるのですから、この程度の発言で投稿をするなとは言えないのではないでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2015年6月23日 (火) 00時17分

このページのコメント受付をしばらく中止します。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2015年6月23日 (火) 00時31分

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