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惜別の歌(その1)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


原詩:島崎藤村、作曲:藤江英輔

1 遠き別れにたえかねて
  この高楼(たかどの)に登るかな
  悲しむなかれ我が友よ
  旅の衣をととのえよ

2 別れといえば昔より
  この人の世の常なるを
  流るる水を眺むれば
  夢はずかしき涙かな

3 君がさやけき目のいろも
  君くれないのくちびるも
  君がみどりの黒髪も
  またいつか見んこの別れ

4 君の行くべきやまかわは
  落つる涙に見えわかず
  袖のしぐれの冬の日に
  君に贈らん花もがな

《蛇足》 この歌の解題を書くに際して、資料不足に悩まされました。中央大学の学生歌ということは知っていたので、同大に聞けばわかると簡単に考えていましたが、同大広報部から情報は得られず、やむを得ず、歌の研究書やネット上の断片的な情報をつなぎ合わせて、解説らしきものを作り上げました。
 しかし、これには推測で書いた部分や不確かな箇所がいくつかあり、何とか確認できないものかと考えていました。

 そんな折、W・Kさんという方がある資料を送ってくださいました。彼はそれを中央大学出身の友人からもらったとのことでした。
 それを見て、私はビックリしました。伝説の人・藤江英輔氏が自ら書いた『惜別の歌』の誕生物語だったからです。それは21世紀社という出版社が出していた『センチュリーフォーラム21』という小冊子の平成15年(2003)4月臨時増刊号に掲載されたものでした。

 藤江氏の文章に基づいて解説を書こうとしているうちに、これは私がへたな解説を書くより、原文をそのまま掲載したほうが、読む人の感動が大きいのではないかと思うようになりました。藤江氏の文章は、敗戦前後の時代を舞台とした青春小説のような趣があったからです。

 転載の許可を得るために21世紀社に連絡しようとしましたが、その会社はもう存在しませんでした。やはり自分で解説を書くほかないかと思っていたところ、ひょんなことから藤江氏に連絡を取ることができたのです。
 これこれの事情で文章を使わせていただきたいと説明申し上げたところ、すぐにご快諾いただきました。

 掲載にあたって、表記の統一などいくぶん文章を整理し、また前記資料に添付されていた藤江氏と作家・北村薫氏との対談(文藝春秋社『本の話』)を参考に若干内容を補足しました。しかし、ほとんどは原文そのままです。

 なお、上記対談では、藤村の詩を東京高等女子師範の女生徒から渡されたのは友人ではなく、藤江氏自身だったと語っていらっしゃいますが、ここでは原文のままにしました。
 それはともかく、困難な時代に名曲を生んだ若者の青春記をお楽しみください。

 (写真は東京第二陸軍造兵廠板橋製造所のモニュメント)。

(二木紘三)


                      惜別の歌

                                                藤江英輔 ©FUJIE Eisuke

                        

 太平洋戦争が末期的症状を示してきた昭和20年冬――。
 この年の2月22日、東京は珍しい大雪であった。前夜半から降り出した牡丹雪は、明け方になってもその勢いに衰えを見せず、鉛色に垂れ込めた空から大ぶりの雪片が次から次に舞い落ちてきた。
 午後7時から翌朝5時までの夜勤を終えて、一歩、工場の外に出たぼくらは思わず喚声をあげた。目を洗われるような白一色の世界であった。気象庁が発表したこの日の積雪は38センチということだったが、吹き溜まりには腰まで没するほど、深い雪の堆積があった。

 そのころの東京の街は、東京を焦土と化した3月10日の大空襲の前ではあったが、年初から頻度を高めたB29による本土空襲に加えて、延焼を防ぐための家屋取り壊しなどで、むしばまれた地図のように無惨な姿を見せていた。
 その街が一夜にして皚皚
(がいがい)たる粧いで蘇生したのである。喚声は当然であった。

 だが、この喚声には、もう1つ、別の思いもこめられていた。いつ降り止むとも見えず、薄明の空から舞いおりてくる雪の花びらを見つめていると、そのときぼくらが置かれていた位置――その日がいつかはわからないが、そう遠くないうちに確実にやってくる死の瞬間まで、この雪の乱舞と同じように踊り続けなければならないのか――そういう場所に置かれた人間の無常感にどこかで結びついた喚声でもあったのだ。

 ぼくらが雪を見つめていた場所は、東京第二陸軍造兵廠・板橋製造所の第三工場。昭和19年3月7日に閣議決定した学徒勤労動員実施要項によって、その年の暮れからぼくらはこの陸軍の兵器工場で働いていた。
 そこは音無川に沿った丘陵地帯で、南西にめぐらした土手に上れば、わずかな俯角ではあったが、市街を一望することができた。その街が雪に埋もれてまだ眠っている。

「ああ、故郷を思い出すな」
 背後でつぶやく声に、ぼくは振り返った。信濃の山奥から出てきた同じクラスの中本次郎の茫洋とした顔がそこにあった。
 この男は信州人らしい理論派で、訥弁
(とつべん)ではあったが、筋道の通った思考を好んだ。ぼくらの議論の席では、むしろ聞き役だったが、議論が錯綜すると、いつもその整理役を引き受けることになった。
 前夜も夜食後の休憩時間に、「おれたちは学問から離れて、ここで兵器生産に励んでいる必然性はどこにあるのか」という議論がむし返されていた。
 ぼくらは昭和19年の春、中央大学予科
(旧制)に入学した。独法、英法、経済の3クラス編成で、同期生は120人あまりであった。

 戦局は日々に緊迫したものになり、この年の6月19・20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は空母の大半を失い、西太平洋の制空権は完全にアメリカ軍に握られた。さらに7月7日には、サイパン島の日本軍が全滅する悲報が相次いだ。
 もちろん大本営の発表は、「わが軍の戦果」に重点を置き、真相は糊塗されていたが、7月18日、東条内閣が総辞職するや、もう敗色を国民の目から覆うことはできなくなった。

 ぼくらは日本の暗い運命の予感におびえ、そのおびえをひたすら学問に打ちこむことでまぎらそうとしていた。しかし、その教室を閉ざされ、この板橋造兵廠に動員されてきたのであった。もうおのれを支えるものは、油で汚れた作業服のポケットにひそめた岩波文庫くらいしかなかった。

 そういう状況でのぼくらの議論は、つねに悪循環することをまぬがれなかった。聖戦遂行こそおれたちに課せられた最高の使命だという主張が、そのころの最大公約数的意見だった。しかし、戦争否定とまではいかなくても、戦争の早期終結を望む意見は、弱い、小さな声であったが、けっしてすべて圧殺されていたわけではなかった。そこはやはり学徒であった。

 中本は、そのどちらでもなかった。議論の席では、いつも眼を空中の一点に置いたまま、むっとした表情を崩さなかったが、議論が結局「非国民!!」という問答無用の段階になり、仲間同士が胸ぐらを取り合う段階に突入すると、おもむろに口を開くのだった。
「やめろ! 殴り合うのは勝手だが、おれたちはそういう手段でしか、この場の決着をつけられないのか。それじゃ、あまりにもみじめじゃないか」

 この言葉にみなが納得して鎮まったわけではない。もしこの騒ぎが学徒休憩室の外に洩れたら、たちまち監督官である職業軍人が飛んできて、その制裁は理非も問わぬ連帯責任として、全員に及んだからである。例えば、寒風の広場に3時間も不動の姿勢で立たされるのだ。

 ぼくらはこの無教養な下士官あがりの中年の少尉に猛烈な反感をもっていた。この工場には、ぼくら以外に他の大学・専門学校・旧制中学などから1000人を超える学生・生徒が動員されており、そのなかには多数の女子学生・生徒もまざっていた。
 ところがこの少尉は男女学生の対話を厳禁した。「風紀厳正」がこの少尉の常套句だった。それでいながら、軍人だけに配給される特配の酒に顔を赤くして、女子工員に卑猥な言葉で話しかけているのを、ぼくらは何度も見ていた。

 この大雪の朝、中本はめずらしく彼のほうから話しかけてきた。
 ぼくは、戦争は遂行せねばならぬと思っていた。国家主義、あるいは国粋主義的思想があったわけではない。どうすればこの戦争を終結させられるか、その方法がわからなかったからである。ただわかっているのは、もうすぐおれは死ぬのだという単純、絶対の力に支配されていることだけだった。
 だが、中本は違っていた。自分の運命に客観的価値を発見するため、渾身の力をふりしぼっていたのであった。そういった相違はあったが、なぜか気が合った。

「おい、お前はよく文学書を読んでいるが、この詩を知っているか」
 中本が差し出した紙片には、優しい文字で次の詩が書かれていた。

とほきわかれに たへかねて
このたかどのに のぼるかな
かなしむなかれ わがあねよ
たびのころもを ととのへよ

わかれといえば むかしより
このひとのよの つねなるを
ながるるみづを ながむれば
ゆめはづかしき なみだかな

 ぼくはその詩を知っていた。島崎藤村の『若菜集』に収められている、たしか『高楼』という題の詩だった。
 中本はその詩を、隣の旋盤で働いている東京女子高等師範学校
(現お茶の水女子大学)の女子学生から手渡されたという。
 彼女がどういう気持ちでそれを中本に渡したのか、受け取った彼がどう感じたのかはわからない。しかし、2人の間に何らかの心の交流があったことは十分想像できた。
 お前は顔に似合わずロマンチックな奴だなと、ぼくは中本に笑いかけたが、中本は例によって一点を見つめる表情でなにも言わなかった。

その2に続く)

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コメント

いつも感謝しながら読ませてもらっています。

投稿: 福永哲男 | 2007年6月 1日 (金) 18時02分

淡々とした文ですが、その時代をなんとなく、知る年代として、もっと先を読みたいと思います。

投稿: 羽田光利 | 2007年9月 9日 (日) 12時42分

私は高校1年の時、母を亡くしました。その遺品の中からこのレコードを見つけました。他にレコードはなくこれ1枚だけでした。当時は家にレコードプレイヤーもなく、なぜ持っていたのか不思議に思いました。記憶が正しければ、大ヒットした「北帰行」のB面だったと思います。でもこの「惜別の歌」は聞いたこともありませんでした。その後プレイヤーを購入し聴いた所、前記のいきさつもあるためか深く心にしみこみました。ただ私には小林旭さんにはマイトガイのイメージが強かったので、この歌を歌っていることは非常に意外な感じを受けました。その後20年ほどたち、職場の親睦会でたまたま歌った所、何人もの人が出てきて一緒に歌ってくれました。こんなことは滅多にないことです。マイナーな曲だと思っていたので、こんなに多くの人に支持されているのかと驚きました。またスナックで歌おうとしたところ、店の人から、「この曲はやめてほしい。」と言われました。暗くなるからだと思うのですが、逆に言えば、それだけインパクトが大きいということでしょう。はじめて聞いたときから40年以上たちますが、今でも心に深く残っている曲です。

投稿: hiroaki | 2008年2月24日 (日) 08時18分

小林旭さんの歌と承知しているだけで。。。。こういう深い意味のある曲とは知りませんでした。
コメントの中から。。。。まず選曲して「今日はこの曲を聞こう」と思ったのですが
会社の先輩がそのまた先輩を送る時に歌った事を思い出しました。「涙が出そうになったわよ」と言いましたら、冗談の好きな先輩だったので「緑の黒髪も半白髪になってるもんな」と笑っていました。

投稿: sunday | 2008年5月 9日 (金) 06時49分

惜別の歌、何回も再生して聴いております。作曲の経緯を読んで感慨無量です。私は戦後一時中央大学理工学部の非常勤講師をしていたことがありますので、作曲者が同大学の学生であったとは驚きです。

投稿: 西山 忠夫 | 2008年8月11日 (月) 16時06分

 はじめまして。偶然このサイトに出会いました。数々の懐かしい歌を楽しむことが出来、とても嬉しく思っております。
 さて、この惜別の唄を聞くたびに56歳で癌によりこの世を去った姉を思い出します。歌詞にある「さやけき目の色」も「くれないの唇」も「みどりの黒髪」も若き日の最愛の姉の姿をを髣髴とさせ、この部分を歌うたびに涙を禁じえません。歌とは、音楽とは内に秘めた情感をなんと開放してくれることでしょうか。
 小生はハーモニカで様々な曲を演奏するのが一つの生きがいです。ハーモニカはメロディだけでなく、練習次第でベースも和音も入れることが出来、とても色彩豊かな演奏が出来る楽器です。曲を演奏すると「えっ、ハーモニカでこんなことが出来るの」と驚かれます。定期的に老人ホームで演奏しております。しかし、この楽器の愛好者が年々少なくなりマイナーな分野になっているのが非常に残念です。

投稿: てるお | 2009年5月30日 (土) 23時57分

二木様
藤江様
  中大36年卒の後輩です。伊豆大島でネイチャーガイ ドをしております。小松に住む同級生の中田君より、惜別の歌作曲秘話の便りを貰いました。
  事前の御許しもないままにHPガイド日記で紹介を させていただきました。
内堀昇一            

投稿: 内堀昇一 | 2009年12月 1日 (火) 11時03分

内堀昇一様
ご連絡ありがとうございました。
ただ、個人の住所をネット上で公開すると、問題が起こる場合がありますので、私の判断で削りました。ご了承ください。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年12月 1日 (火) 11時14分

この惜別の歌のモデルとも言えるルポルタジュが 文芸春秋社から発行されました 門田隆将著 康子十九歳 戦渦の日記 です 原爆で殉職された広島市長令嬢で自身も 原爆症で亡くなられた 当時東京女子高等師範の学生だった康子さんの遺された 日記をもとにした著作です 文中の 特攻に往く人は誇りではあるけれど それを強いるのは国として恥です とあります
当時の若人の純粋さと 理性と それに対する支配層の非人道牲に 涙がとまりませんでした 

投稿: まだ夢見る男 | 2009年12月 2日 (水) 08時44分

昭和37年の商学部卒業です。当時4年間の学生生活は、板橋での下宿生活でした。親からの仕送りは1万円でよくやれたものです。本校があったお茶の水駅までは仲宿から都電に乗り巣鴨から環状線で通っていたものです。
当時の学生立ちは安保闘争に明け暮れていた時代で、中大教授のお嬢さん樺さん(東大の学生)がデモの中で悲しい犠牲者となてしまった事が思い出されます。
古希となった今、ノンポリ組の私たちは仲間10人程でここ数年、同期会を開いています。本年度は海峡の下関に集合です。集まれば必ずこの惜別の歌を肩組んで歌います。なぜこの歌が母校の歌なのか解説を読んでよく理解できました。
   平成22年1月20日(水)11時30分

投稿: 花田 克巳 | 2010年1月20日 (水) 11時32分

私は傲慢な性格なのか尊敬する人に滅多に出会うことがないのですが、14年前証券会社の営業で我が家を訪れた新卒の青年の人柄にすっかり魅せられてしまいました。2年で東京へ移動になり年賀だけのお付き合いになってしまっていました。その青年が先日突然、我が家を訪ねて来てくれたのです。4,50分話した後、彼は帰っていきました。別れる時、不意に「またいつか見ん この別れ」が私の頭の中で鳴り始めたのです。それから毎日「またいつか見ん この別れ」が頭の中に流れています。30歳以上も年下なのに、私はこの青年を尊敬しています。来世は彼と同年代に生まれて彼のところへお嫁にいくつもりと夫に言っています。久しくなかった惜別の悲しさを味わっています。来世は優しい美人に生まれます様に。

投稿: ハコベの花 | 2010年11月19日 (金) 21時57分

平成3年中大附属高卒 同7年中央大学卒
同9年大学院卒の「生粋の中央ボーイ(笑)」です。

 惜別の歌は、中央に学んだ者にとっては今も心の歌、愛唱歌なのではないでしょうか。

 小林旭さんのバージョンは、年代的には、ずいぶん上の歌なのですが、ときどき私もカラオケで歌います^^;
 
 私の学生時代には、附属高校の卒業式でもマンドリン部が演奏し、その美しくも、もの哀しい音色と相まって別れの儀式を厳かに、そしてロマンチックに彩ってくれたことが40歳近くなった今も昨日のことのように思いだされます。

 藤江氏の作曲ということは存じ上げておりましたが、作曲の詳細な背景については、今回初めて知りました。
 管理人さんのご紹介にあるように、藤江氏の文章が切なくも美しい青春小説の一節を思わせ、また、一種の「反戦文学」であるようにも思われ、涙しながら読ませていただきました。

 また、大学時代には今は鬼籍に入られた戦中派の教授方から、戦争の悲惨さ、平和のありがたさを折にふれて聞かされたことが、紹介文中にある中央大学の猪間教授の「告別講演」のエピソードにオーバーラップして現代の日本を背負っていくべき世代として改めて身の引き締まる思いもいたしました。
 戦争の記憶をはっきりとどめた教授方に教育を受けた最後の世代が、私たち第二次ベビーブーム世代(S47年生)でしょう。
 

 「降る雪や明治は遠くなりにけり」ではないですが、平成も23年… 平成生まれの若者たちが活躍する姿に 「昭和も遠くなりにけり」
 の感が深いこの頃です。

 しかしながら、太平洋戦争(昭和戦争)の記憶は我々日本人にとって、また平和を願うすべての地球人にとって、決して風化させてはならないものだと思います。

 惜別の歌に込められた数多くの英霊への鎮魂の思い、そして平和への希求を胸に、明るく美しい日本をそして世界を作っていかなければならないと改めて思いました。

 二木様のこのホームページは名曲と名解説があふれていて大ファンです。
 父も時々愛用させていただいているようで、この惜別の歌も父から聞いて、拝見した次第です。

 今後も名曲の紹介をドシドシお願い出来れば幸いです(^^)
 お元気でご活躍ください。

 長文、駄文失礼しました。

投稿: ゆうたんパパ | 2011年3月16日 (水) 23時10分

「君くれないのくちびるも君がみどりの黒髪も」ですが、長い間、紅い唇と緑色(又は碧色)を含んだ黒色の髪と思っていました。日曜画家として女性の髪を描く時、先ず緑色を下地に塗ってその上から紺や黒色を重ね、質感が出たと一人悦に入っておりました(実際に緑色に近い髪の名画を見た記憶もあるし)。「みどりの黒髪」が「美しく艶やかな黒髪」を意味することを最近知りました。そういえば、なぜ、赤ちゃんをみどり子というのかなとも思っていました。まさに、夢恥ずかしき涙かな、、です。

投稿: SK2 | 2011年8月 2日 (火) 21時55分

藤江永輔さんの文に出会えて感動した者です。
私のブログに二木さんのこのページを引用させていただきました。
たくさんの人にお知らせしたかったので。
事後報告ですみません。

投稿: 山田えつこ | 2012年5月30日 (水) 22時36分

戦後、ラジオ歌謡だった?題名「はじめて会ったあの時は」、1番 はじめて会ったあの時は あんずの花がこぼれるように咲いていた もの言わぬ君の横顔に ??????

は見つかっていないのでしょうか
できたら教えていただきたいと思っています。

投稿: 田崎彰一郎 | 2013年3月15日 (金) 09時22分

「あんずの花」 作詞 藪田義雄 :作曲 古関 裕而

“千曲市立東小学校だより”に歌詞や楽譜が載っていました。
http://www.chikuma-ngn.ed.jp/~higashiel/image/H22No2manabiya.pdf
   ↑
http://www.chikuma-ngn.ed.jp/~higashiel/

>見つかっていないのでしょうか
  ?  ?

投稿: なち | 2013年3月15日 (金) 15時26分

だいぶ前にはじめてあったあのときは・・・・・について質問しました。メールを開かないでいたら、思いがけずこの歌が載っていました。有り難うございました。この歌はラジオ歌謡ではなかったのですね。白い花が咲いてたやリラの花が夢に散る今宵・・・・・は私の青春の日そのものです。

投稿: 田崎彰一郎 | 2013年8月 5日 (月) 11時40分

「あんずの花」作詞 薮田義雄:作曲 古関裕而
楽譜の上に「ラジオ歌謡曲の・・」と書いてありますが・・?
日本ラジオ歌謡研究会のサイトにも昭和25年と載っています。

投稿: なち | 2013年8月 5日 (月) 12時40分

 この曲をBGMにして、藤江英輔氏の青春記を読みました。打ちのめされたような感動がありました。
藤江氏のように、この頃の学生は実によく勉強し、また深く感動したと思います。死と隣り合わせの戦時下の状況が、彼らの五感を鋭敏にさせたのでしょう。藤江氏のいう「短くて長い時間を生きていた」です。

 風紀厳正を常套句とし、女子工員に卑猥な言葉で話しかける少尉が登場します。藤江氏がわざわざ書いたのはなぜでしょうか。戦争という大状況の下で個別の小状況があり、人間は卑小にもなり、また寛容にもなりうるということをいいたかったのではないでしょうか。すべての場面で、個人のレベルでひきうけるものがあって、何でもかんでも戦争のせいにすべきではないということです。

 屏風に書かれた「猿は知るまい 岩清水」は深遠な言葉です、これをを見た時、書いた特攻隊員と読んだ藤江氏の間に、25年の年月を越えて、熱い火花が散ったことでしょう。
猿とは何か・・俺たち若者を、この愚劣な戦争に追い込んだものは何か、でしょうね。それにたいする答え。戦争の指導者か?もちろんそうでしょう。それだけか?マスコミは?政治家は?選挙民は?(男子の普通選挙権はありました)。国民は戦争防止にベストを尽くしたのか?猿の正体をめぐっていろいろな考えが起こります。
藤江さんは猿の正体はあえて明らかにしていません。さすがです。言えば安手のプロパガンダーです。

 私は団塊の世代の最後部です。最近、ブログで若い人が、団塊の世代を批判する声が目立ちます。「苦労らしい苦労もしていないのにえらそうに口ばっかり達者で、これといって実績もないくせに。それでいて平和ボケ・・・」
私、正直、その通りだと思っています。高度経済成長の中で大きくなり、バブルやデフレもあったけれど、まずまず、いい目をしてきたなと認めます。今の若者の厳しい経済状況を見ると 申し訳ないと思います。
しかし若い人が、こういう藤江さんの文章を読んで平和について考えを深めて、日本の進路を誤らないようにと祈るばかりです。

最後に藤江氏の文章を正確、忠実に掲載していただいた二木先生に感謝です。

投稿: 紅孔雀 | 2013年8月 7日 (水) 01時08分

昨日は68回目の敗戦忌でした。この国の為政者は国民を騙すことばをつくる名人で、「敗戦」を「終戦」と言い換え、あたかも戦争は自分たちの責任でないかのごとく、他人ごとのようなことばを使っています。戦争中は、この欺瞞ことばにどれほど国民が騙され、真実が隠ぺいされたことでしょう。たとえば、「撤退」を「転進」に、「全滅」を「玉砕」というように。

 あらためて『惜別の歌』を聴き、藤江氏の手記を読ませていただきました。感動を新たにするとともに、欺瞞ことばを美辞麗句として並べ、前途ある若者を死地に追いやり、国民を塗炭の苦しみに陥れた者に対する、強烈な怒りが込み上げて来ました。
 紅孔雀様は、手記の中の、一特攻隊員の遺した句の「猿」を問題視されていますが、これについては、わたしも同感です。この句を文字通り解釈すれば、これは千利休が切腹することによって、時の権力者である秀吉(猿)に一矢報いた心境を詠んだようにとれますが、「猿」の深遠な意味は紅孔雀様の言われるようなものだと思います。と同時に、句の「岩清水」の中身も吟味する必要があるように思います。文字通り解釈すれば、「茶の湯の本質=わび、さび」を指しているのでしょうが、この特攻隊員の言いたかったことはこれではなかったはずです。では、戦時中好んで使われた「七生報国」、「滅私奉公」、「忠君愛国」の精神でしょうか?いずれでもないように思います。
 
 
 わたしは昭和16年入学の国民学校1期生で、「ヘイタイサン ススメ ススメ」(国定教科書 読み方巻一)の軍国主義教育の洗礼を受けた世代です。隣家の海軍兵学校に行った、お兄ちゃんのかっこよさに憧れたひとりです。だから怖いのです。戦争は一見「かっこよく」見せます。とくに、こどもや若者に「かっこよさ」を売り物にします。
 
 
 特攻隊員たちは、どんな気持ちで戦場に臨んだのでしょうか。生と死のはざまで、何を訴えたかったのでしょうか。これから行おうとする、自分たちの行為を「かっこいい」と思っていたでしょうか。それを考えれば、「岩清水」の中身も自ずから分かってくるように思います。
 散華した特攻隊員たちは、決して自らの行為を美談にしたり、英雄になることを期待していたわけではなかったでしょう。この時期、メディアは好んで戦争ものを企画し、その中で特攻隊員を取り上げますが、こころして鑑賞したいものです。

投稿: ひろし | 2013年8月16日 (金) 11時46分

 先日の追加コメントです。ひろし様のコメントに刺激されて、です。
戦争の終結した日を区切りに、ご自分の反戦・非戦の思いを文章に残そうというひろし様の気魄に、まず敬服しました。さらに「猿は知るまい 岩清水」の句に千利休の抵抗精神に通底するものを感じられたところも、さすがは、という思いです。

「岩清水とは何か」うーん、大事な問いかけですね。私が、浅学をかえりみず、答えを捜すなら、岩清水とは、大きくは文化・教養、小さくは個人のささやかにして平凡な幸せではないかと思います。個人の幸せとは、勉強、恋愛、結婚、子育て、老後の平安、あるいは若い頃の野心、事業欲、放浪癖なども含まれるでしょう。
猿といい、岩清水というのは、猿は国家、岩清水は個人の幸せを意味する、つまり「国家と個人の生活」の関係を言っているような気がします。個人の幸せを瞬時にして奪う力を、猿は持っている。つまり国家は持っているということです。
「猿よ、お前たちにわかってたまるか、個人の幸せの価値が、実相が」ということではないでしょうか。

 

投稿: 紅孔雀 | 2013年8月17日 (土) 00時06分

あの国立競技場がファイナルの日5/31 我が歌声喫茶で 惜別の歌歌った私・その昔雨の神宮外苑の学徒動員の壮行会モノクロのシーンが強烈。戦争は悲しい人の行為・・今回の3・11の未曽有の東日本大震災は自然災害と人のなせる人災・・
 思いがけない愛惜別離・・解かったようなコメント 何を隠そう小林旭の惜別の映画からの入門
仙台が舞台 旭も私も若かった。
おぉい皆何処へ行ったか春の海 さとこ
 あの大津波で何もかも消えた南三陸リアス海岸
5・30 巡礼して来たよ。海は蒼椿は赤く人何処

投稿: 宮崎里子 | 2014年6月 1日 (日) 13時00分

初めまして。
お伺いします。わたしはアメーバでブログを書いていますがお月さまの歌を探しているうちにこちらにきました。
「惜別の歌」の作曲者の当時の思い経緯を正確にお伝えしたいのです。こちらを読ませていただくために、紹介させて頂きたいのですがよろしいでしょうか。

投稿: 正木冨子 | 2014年10月 9日 (木) 03時02分

正木冨子様
お申し出が、リンクをつけて「ここにこういう記事がある」と紹介したいという趣旨なら、当方の許諾は不要ですし、むしろ大歓迎です。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年10月 9日 (木) 11時19分

懐古園に行ってきました。二木先生の「蛇足」を読んでいたおかげさまで、嶋崎藤村のことと「惜別の歌」の関連がわかりました。小雨の懐古園を歩く中で地元の方が「佐久の草笛」に託して歌われる「惜別の歌」が流れてきました。その草笛の情感が紫陽花の青さとともに染入るように心に残りました。

投稿: 如海 | 2015年7月27日 (月) 00時24分

  『麦と兵隊』の作者、火野葦平が,終戦から間のない昭和20年11月24日にアメリカの戦略爆撃調査団が行った聞き取り調査に応じて答えた記録が見つかった。(本日付のNHK NEWS WEB)
 印象的だったのは、陸軍報道部員としての任務を終え、日本に帰ってきた火野が、日本守備を任された軍人の荒廃ぶりの驚くところだった。
 藤江英輔氏の手記にも、学徒勤労動員で働く兵器工場に監督官として配属された少尉が、配給の酒を飲んで、女子工員(女子学生)に卑猥な言葉を投げかける描写がある。
火野葦平は言う。
「軍隊の道義心の腐敗は甚だしかったと思う。民家を強奪するのがゐる。ひどいのになると婦女子を侵したりする兵もゐた。」
そして「この戦争はもう負けだ、どうせ死ぬのならやりたい事をやって死ねといったような自暴自棄にもなってゐたと思ふ。軍人の腐敗を見てとても戦争には勝てないと思った」と軍に対する批判を述べている。
 彼の兵隊三部作は、戦意高揚につながったということで、戦後、戦犯作家という批判を受ける。しかし、検閲がすさまじく、本当に書きたいことは、書けなかったという実態もあった。
 軍が彼の文才を利用したのは当然ながら、その制約を知りながらもそれでも書き残したいという作家の執念もあった。戦争は、すべての人を狂気に追い込むものだといまさらながら知りました。

投稿: 音乃(おとの) | 2015年8月16日 (日) 12時54分

暫くぶりでの投稿です。
川口ハーモニカCで今度、「惜別の歌」を演奏します。
会員が40名程で、何時も20数名が参加して童謡、ナツメロをハーモニカで前奏し、皆で合唱し楽しんでいます。
09,5月に「てるお」さんがハーモニカで老人Cで慰問中と、自分もそれをやっています。
お互いに頑張りましょう、この9月で83才です。
あらちゃんより。

投稿: あらちゃん | 2016年3月25日 (金) 15時06分

この歌と同名の日活映画『惜別の歌』(仙台・松島ロケ)は五十数年前、2番上映館で観たものです。青葉城址のシーンなどで『惜別の歌』が流れてました。
渡り鳥シリーズなど日活無国籍アクションと同じような顔ぶれで(小林旭、笹森礼子、金子信雄…)、チンピラと喧嘩して教師をやめ仙台へ帰郷した小林旭に、地元ヤクザ(金子信雄)や恋人(笹森礼子)が絡むというワンパターンですが、当時は娯楽に乏しい時代で市内繁華街ロケ現場は黒山の人だかりでした。
www.youtube.com/watch?v=1BFPVg6RZp8

投稿: 焼酎百代 | 2016年3月28日 (月) 20時42分

久しぶりです。藤江英輔様に惜別このそして我が放送作家頑様4/1彼岸に・哀惜別離シャイなオジサンとは干支が二周違い。知らなかった?特攻隊の技術将校さんでした・ダンディーで モットお話したかった私。通夜振る舞いに知覧の焼酎擁しての旅立ちです。 百代さんのコラム読んで 同じくクロスしてたかな・あの松島が今度の震災であの周辺守ってくれたとか・・国宝瑞巌寺が 大修理終わって・一般公開です・見に来てね。あの国立競技場が アンナ具合 世の中思い通りにはならないもので
・とにもかくにもあした頑張ろう?惜別の歌独りでがなっている私・たいした個人情報はありませんが ひらめきもときめきも無く萬愚節 さとこ

投稿: 宮崎 里子 | 2016年4月 2日 (土) 22時02分

また惜別の歌ガナっています・瑞巌寺の大漁唄い込みも・・!103歳のご住職様この3月2日お別れしました。サボりがちな作務、不詳の弟子の私 和尚さんは人生の師。由緒ある大梅寺 蕃山の麓 月一度20年近く参禅したの。 老師のお話 私さぼりながらも続け、今時ワンコインの・布施 ロケーションが素敵なお寺です・・老師曰く観光寺ではないから 宣伝するなと・・黙って座れ…
 登りきて焚き火の匂う大梅寺・眠雨 と朱印帳に揮毫
 けだし猿は知るまい岩清水と同じくらい 奥深いのでないかしら・哀別惜離 そして合掌和尚さんは良寛様みたい

投稿: 宮崎里子 | 2017年7月10日 (月) 14時44分

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