流れの旅路
(mp3制作:二木紘三)
1 紅いマフラーを いつまで振って 2 旅の一座の 名も無い花形(スター) |
3 紅いマフラーは 見るのもつらい |
《蛇足》 昭和23年(1948)リリースで、津村謙の最初のヒット曲となりました。
ドサ廻りの歌謡ショー一座か旅役者を歌った歌です。
昭和30年代初めぐらいまで、旅芸人の巡業は、田舎の人びとにとって貴重な娯楽の1つでした。
私の生まれた村でも、毎年、秋の取り入れが終わったころを見計らって、旅役者の一行がやってきました。
昭和20年代半ばぐらいまでは、牛か馬に牽かせた荷車に衣装や大道具・小道具を載せてくるのが常でした。敗戦の痛手でトラックが調達できなかったのです。
その後は、復興を反映して、道具の運搬はトラックに変わりましたが、それでも何年かは木炭トラックでした。
木炭トラックも木炭バスも、自転車でついて行けるぐらいの速度しか出ませんでした。それも、まもなくガソリントラックに変わりました。
そのころから、テレビが普及し始め、巡業芝居は魅力ある娯楽ではなくなってきました。やがて、旅芝居の一座は、村にやってこなくなりました。
旅役者の一行がまだ荷車を使っていたころの話です。私は小学校2年生でした。
家の近くに、木造3階建ての大きな公会堂がありました。私は、それを日本でいちばん高い建物かもしれない、と思っていました。日本一はともかく、村でいちばん高かったことは確かです。村役場も小中学校も2階建てでしたから。
1階に大広間があり、そこが旅芝居や映画の上演場所になりました。
取り入れがすみ、肌寒さを感じるようになったころ、いつものように旅役者の一行がやってきました。
芝居が行われる日は、寺社の祭礼やお正月と同じように「ハレ」の日でした。会場の前には「~さん江」などと書かれた幟がいくつも並び、歌謡曲のレコードが流されていました。
子どもたちは、なにかとてつもなくすばらしいことが起こりそうな気がして、ワクワクしました。
西のヒロちゃと南のヨッちゃ、そしてコーちゃ(私です)の2年生3人組は、さっそく見物に出かけました。西・南は、その家のいわば通称です。村の家々は、屋号で呼ばれたり、その家の位置を示す言葉で呼ばれたりしていました。
3人は、入り口から大広間をのぞき込んで、役者たちが幕を張ったり、花を飾ったりして、舞台を整える様子をしばらく眺めました。
それから、裏に回ってみることにしました。大広間の後ろには小部屋があり、そこが楽屋兼役者たちの宿泊場所になっていました。
中には入れないので、窓からのぞくことにしましたが、チビの3人には窓が高くて中が見えません。そこで、窓枠に手をかけて、懸垂の要領でよじ登り、土台の端につま先をかけてのぞき込みました。
部屋の中では、女の子が1人、腹ばいになって漢字の書き取り練習をしていました。かたわらにランドセルがあり、国語の教科書が開いてありました。私たちより1、2年、学年が上のようでした。
女の子は3人に気がつくと、こちらを向いてニコッとしましたが、すぐ知らん顔に戻って書き取りを続けました。
私は、旅役者は、自分たちとはまったく違う特異な世界に所属している人たちだと感じていたので、その子が自分たちの日常と変わらない様子でいたのを見て、ちょっとショックを受けました。
そのとき、舞台衣装を着け、顔を白くぬったた女性が部屋に入ってきました。かつら下地というのでしょうか、頭を布できりっと包んでいました。
彼女は女の子の母親のようでした。私たちを見つけると、
「あらまあ、坊ちゃんたち、そんなところにいないで、入っておいでな。お菓子をあげましょ」
といいながら、窓に近づいてきました。私たちはワッと叫んで飛び降り、あわてて逃げ出しました。
2、30メートルも走ったあと、私たちはこう話し合いました。
「ああ、おっかなかった」
「なんか変なしゃべり方してたぞ」
「坊ちゃんて、オラたちのことかや」
「そんな名前じゃねえのにな」
「お菓子くれるっていってたな」と、1人がちょっと残念そうにいいました。
その日の夕食後、私は親に連れられて芝居見物に行きました。公会堂や公民館で行われる芝居や映画会では、観客はそれぞれ座布団を持っていくのが、そのころの村落社会の習わしでした。私たちもそうしました。
座頭が「……隅から隅までズズズィ~ッとお引き立て願いたてまつりまする」といった挨拶をしたあと、前座が出てきました。昼間見た女の子でした。その子は、ピンクのドレス姿で、そのころラジオから頻繁に流れていた美空ひばりの歌を歌いました。
私は、旅芝居はカツラをつけた時代劇ばかりと思い込んでいたので、意外に思いました。
そのあとは、時代劇が続きました。その女の子が子役で出てきたそうですが、私は眠ってしまい、見ませんでした。
次の日、学校が終わったあと、私は、いつもの通学経路から少し外れて、公会堂の前を通ってみました。そこには、「ハレ」の日の痕跡は微塵もありませんでした。私は、祭りが終わった次の日のような索漠とした気持ちで家に帰りました。
『流れの旅路』は大人の旅芸人の歌ですが、ラジオからこの歌が流れてくるたび、その女の子のことを思い出しました。あの子は、学校はどうしているのか、と。
(二木紘三)
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訪問者の感想等

コメント
懐かしい曲です、小生は二木さんより二つ年下の昭和19年生まれ、幼い頃、父が、毎朝、背広に着替えながら、歌っていた曲です、父は、その頃、中小企業を経営していましたが、昭和20年にシベリア抑留から帰国し、祖父の会社を継ぎ、建て直しに、奔走していた時代です。
あの、あ紅いマフラーを~の一節が忘れられません、普段は、向田さんの小説の父親と、そっくりでしたから、朝の風情が、何とも、奇妙に思えました。ある時、私鉄の駅に貼られた映画のポスター、上海帰りのリル、ですが
小生の兄がジョウカイと読んで、その後、しばらく、親類での笑いネタになりました、今は昔の話ですが。
津村謙の声は、素晴らしいですね、惚れ惚れします。裏声なんかで誤魔化さず、正味、唄う素質は、稀有ですね。
二木さんの選曲は、納得です、あの時代から昭和30年までの日本の曲は、アメリカンポップスが入ってくまでの狭間、結構、粋です。
今後も、多方面で楽しませてください。
投稿: 田岸 瀧夫 | 2006年11月25日 (土) 21時45分
あぁ~~懐かしく、読ませていただきました。その頃の思い出が、走馬灯のようにめぐります。千葉の田舎で、分教場の庭でした。ぐるうっとむしろを幕代わりに張って。そこへ、書初め用紙のような大きい短冊に、氏名と金額が書いてあります、大きい金額から上から下へ。花代と言うそうです。書かれている金額の半分が、その一行に寄付されてるんだと言う事を知ったのも、懐かしい思い出です。皆貧しい生活の中から、遠くから尋ね来てくれた、一行に感謝の気持ちがこもっていました。二木先生に感謝、遠い昔を昨日のように思い出させていただきました。有難う御座いました。
投稿: do_ぱぱ | 2008年1月 9日 (水) 10時44分
小生は、昭和12年生まれの71歳です。
小学生の時に歌っていた、下記の歌をご存知でしたら、教えてください。
「会うが別れの始めとは、誰が悲しくいいそめた。
散るのが花といいながら、咲いた蕾が恨めしい。」
駒鳥婦人という映画に関係があると思いますが。
投稿: 篠塚伸満 | 2008年7月 6日 (日) 17時04分
こんばんは
これは懐かしい!
津村謙が歌っていたのですね。曲は完全に思い出しました。
戦後間もなくだったと思いますが、青森の片田舎にも旅役者がよく来ました。私は枠のあるお座敷で芝居を見た覚えがあります。
投稿: おキヨ | 2008年7月 6日 (日) 23時05分
篠塚様
松竹 「駒鳥夫人」の主題歌「涙の駒鳥」ではないかと思います。西条八十作詞 万城目正作曲
www.tei3roh.com/namidanokomadori.htm
にありました。
投稿: 山ちゃん | 2008年7月 7日 (月) 10時15分
♪ 紅いマフラーは 見るのも辛い 今は亡き兄と腹が減ると どちらからともなく歌い出しました 一時ひもじさを忘れます 真冬に火鉢一つの板の間で 北海道に送る御用籠を作りました 今に思えばその頃が一番 生きていると実感出来たのは どうしてでしょうか ではまた
投稿: 寅 君 | 2008年7月11日 (金) 19時54分