あの日にかえりたい
(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo
1 泣きながらちぎった写真を 2 暮れかかる都会の空を 今愛を捨ててしまえば |
《蛇足》 青春の巨匠・荒井(結婚して松任谷)由実が昭和50年(1975)に放ったヒット曲。
ある程度の年齢に達したとき、青春時代を追想するなかで、「あの日に帰りたい」と思わない人はまずいないでしょう。しかし、仮にタイムトラベルが実現してそれが可能になったとしても、私は帰ろうとは思いません。
記憶には純化作用があり、不愉快な事柄は意識的・無意識的に消し去ろうとする傾向があります。輝ける青春だと思っていたものが、実際には後悔・恥辱・劣等感・怒り・不安などに満ちた苦渋の時代だったというのがおおかたの例ではないでしょうか。とりわけ私の青春はそんなふうだった気がします。
もし帰れたら、あの人を失う原因になった愚行を修正しよう、あたらふいにした成功を取り戻そう、もっと勉強しよう、などと人は考えます。しかし、そのこと自体は修正できても、そこから分岐して始まる新たな人生では、また同じような愚行や失敗を繰り返すことになるでしょう。
そんなことは重々わかっているし、戻れても戻るつもりもないけれど、「あの頃の私に戻りたい」思いをぬぐえないまま、人生晩期の日々は飛ぶように過ぎていきます。
ところで、タイムトラベルは可能なのでしょうか。
私たちが通常考えているようなタイムトラベルとは違いますが、自分が過ごしたのとは違う過去が存在すると考えることは可能なようです。
量子力学では、電子の振る舞い方などから、すべての事象は蓋然性として存在し、ある蓋然性が観測されたとき、初めて実在として現れる(=波動関数の収束)と考えられています。
これをマクロな事象に当てはめると、たとえば、月は私が見るまではそこに存在せず(=蓋然性としてのみ存在し)、私が見ると同時に中天に実在化する、ということになります。
これは物質だけでなく、現象についても当てはまります。Aさんの恋について考えると、19××年×月×日×時×分×秒には、彼または彼女に振られるAさんと振られないAさんとが重ね合わせに存在しており(=量子コヒーレント)、振られないほうのAさんが観測されれば、振られないAさんが実在化するということになります。
このように、世界は量子論的極小時間(プランク時間)ごとに、ほんのわずかずつ異なる事象の蓋然性が無限のグラデーションのように並んでいるというのです。ここから、自分が所属しているのとは異なる世界が無数に存在するという考え方が生まれます(多世界解釈)。
しかし、どうすれば異なる世界を観測して実在化できるかはわかりません。その技術はとうてい開発不可能に思えます。
ただ、量子力学の考え方によれば、その技術が開発できる状態とできない状態とが重ね合わせに存在するということになるので、理論上は絶対に不可能とはいえません。
観測という人間の行為がどうして事象の実在化を左右するのかはまったくわかっていません。
物理学者のフォン・ノイマンは、この現象は量子力学の枠内では説明不可能と指摘し、物理現象が「意識」と相互作用する際に波動関数の収束(=事象の実在化)が起こる、と主張しています。
となると哲学の分野にまで踏み込むことになりますが、このあたりに異世界移行のヒントが存在しそうな気がします。
(二木紘三)
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コメント
先生の博識に今更ながら驚いております 文科系の方とばかり思っておりましたら 量子論までも造詣がおありとは びっくりです
投稿: まだ夢みる男 | 2007年2月24日 (土) 09時20分
この二木先生の「蛇足」、実に興味深く読ませていただきました。理論物理学などチンプンカンプンの私ですが、量子力学の解釈をめぐって、すべての事象は決定論的に説明できるとして「神はサイコロを振らない」と批判したアインシュタインに対し、「神のなされることに人間が口出ししてはならない」とニールス・ボーアがやり返したという論争などは、文系の人間にもおおいに興味をそそられます。
我々人間が事象を「観測」した瞬間にはじめて蓋然性が収斂され、事象が「実在」として認識される、という解釈は、どこかショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」を想起させるものがあります。ちなみにボーアをはじめシュレーディンガー、ハイゼンベルクといった量子力学の大家には、ショーペンハウエル同様東洋哲学から少なからぬ影響をうけた人物が多いというのは面白いですね。
ユーミンの名曲「あの日にかえりたい」が、タイムカプセルの話に有機的に展開され、一気に量子力学の世界にまで翔けあがってゆく、これぞ「うた物語」の醍醐味!
投稿: くまさん | 2008年7月15日 (火) 13時13分
二木先生のご造詣の深い深遠な解説、そしてくまさん様の奥深い珠玉のコメント。私も大いに啓発されました。そこで以下に、いささか破天荒な言説を弄させていただきます。妄言としてお読みください。
*
私はこの現実と同時に、「平行現実」「平行宇宙」というようなものが無数に存在すると思います。仏教でいう「三千世界」は、そのような複合的な世界観、宇宙観を示唆しているのではないでしょうか?
この3次元地上世界で生き動き回り、「現実」はこれしかないと信じ込んでいる自分以外に、実は少しずついや時には全く別の現実を体験している「多くの自分」がいる。そして更にはそのような多くの自分を束ねている、高次の大いなる自己(ハイアーセルフ)がいる。
そこでは過去・現在・未来という直線的な時間感覚や把え方はもはや意味を失い、「大いなる自己」の視点では、過去も現在も未来も「永遠の中今」として同時に存在している…。
もしかして私たちは今、そのような「多次元的自己」に目覚めつつある、プロセスの真っ只中にいるのではないでしょうか?もし仮に多次元的に開けた地平があるとしたら、「今この時」そして「あの日あの時」はどのように把え直されてくるのでしょう?
投稿: 大場光太郎 | 2008年7月19日 (土) 00時34分
どこかに地球から70光年の星がある。
その星に高等生物がいて、望遠鏡で地球を覗いたとする。
その生物が、70年前に私が生まれる瞬間を目撃することは、十分にあり得る話だと私は思います。
私にはチンプンカンプンの話だが、相対論では光速を超えることができないが、量子論ではミクロの世界では光速を超えることもあるとか。
いつの日か、超光速の物質を使ってその生物とネット交信して、光より先回りして私の「あの日」を眺めることはできないでしょうか。
投稿: 周坊 | 2008年7月19日 (土) 17時07分
この歌の詩は別の曲につけるはずだったというのはよく知られています。その曲は『スカイレストラン』としてハイ・ファイ・セットが歌いました。ですから、二つの歌は詩を交換しても歌えます。(私自身は曲・詞とも『スカイレストラン』の方が好きです。)実際に『あの日に帰りたい』の詩を『スカイレストラン』の曲で歌ってみると、イメージがかなり違ってきます。もしあの日に帰ってこの組み合わせで荒井由美が歌ったとしたら...。しかし、“もし”はありません。
量子力学や統計物理学が確立される以前の古典力学では数学的に時間軸は対象であり、過去と未来を同等に扱うことが出来るため、時間が一方向にのみ進むことは説明できませんでした。
シェークスピアは『ジュリアス=シーザー』の中で、カエサル亡き後のアントニウスとの戦闘を前に、ブルータスに次のように述懐させています。「人は、来るべき日の結果を知ることができればと思う。しかし、その日が終わった時には結果がわかっているのだ。」至極当然のことですが、人は同じような、期待と不安の入り混じった状態を色々な場面で経験します。二木先生の例を使わせていただくと、Aさんが恋焦がれる女性に告白する前は、愛を受け入れられる可能性と、振られる可能性の(確率の)世界で心が揺れ動きます。しかし振られてしまった途端に、Aさんにとってのそれまでの期待と不安の入り混じった状態は一瞬にして消え去ります。戦闘にしても、愛の告白にしても、結果が出てしまえば、それまでの未確定な(確率論的な)状態は消え去るということです。量子論では、量子は確率的な存在であり、観測という行為は量子の状態を変えてしまうと説明されており、ひとたび現象が生じてしまうとそれまでの確率論的な状態は消失してしまうというこの世の掟を、量子論は端的に象徴しているように見えるかも知れません。
量子力学は厳密な意味ではミクロな世界の現象に適応されますが、統計物理学はもっと明快にマクロな現象の不可逆性を示しています。インクを一滴コップの水の上に落とすと、インクは拡散して次第に薄まって行きますが、拡散したインクを元のインク瓶に戻すことは出来ません。いわゆる『覆水盆に帰らず』です。時間軸がなぜ過去から未来へ一方向に進むのかは、我々が存在する宇宙がビッグバンとともに生じて以来拡張し続けているという観測事実から、統計物理学的に説明されるべきものなのかも知れません。
投稿: Yoshi | 2011年5月22日 (日) 14時25分
度々お邪魔して申し訳ありません。
前回のコメントで間違いがありました。
『あの日に帰りたい』の曲に別の歌詞がつくはずだったというのが正しく、その歌詞に新たな曲がついてハイファイセットが歌ったのが『スカイレストラン』でした。
投稿: Yoshi | 2011年5月25日 (水) 21時01分
私は二木先生の青春時代とはやや違い、山陰のど田舎から大商都大阪での環境への戦いと言えるような日々の中で、この美しい曲に染められて癒されて夢やエネルギーにすりかえられたのではと、今の思いです。
当時、年に数回田園等の音楽喫茶でこの曲と同じくシンガーソングライター丸山圭子の「どうぞこのまま」をリクエスト、2曲とも心地よいボサ・ノバのリズムに乗せてとろけるような美しいメロディを、少女のような若い女の子がよく作ったものだと今も感動しています。
このたしかな時間だけが 今の二人に与えられた 唯一のあかしなのです・・・・・・・
しかし丸山圭子はこの名曲1曲ポッきりで・・・青春も夢も全てをこの曲に捧げたのでしょうか?
投稿: 尾谷光紀 | 2012年2月 8日 (水) 23時10分