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惜別の歌(その3)

その2から続く) 

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 中央大学の猪間驥一教授がぼくを新潮社に訪ねてこられたのは、昭和41年の初秋であった。

 この人は一風変わった人物だった。
 昭和39年から40年にわたって全国を吹き荒れた学園騒動で、中央大学も一時学校を閉鎖し、授業を放棄せざるを得ない状況にあった。そのとき、この硬骨の教授は、学外にビルの一室を私費で借りうけ、授業を受けたい学生たちに呼びかけ、自分の担当する統計学・財政学の講座を完結させたのであった。
 このことは当時の毎日新聞社会面のトップ記事となって報道されたが、ぼくがお会いしてその話に触れたとき、「教師が講義したことがニュースになるなんて、変な世の中ですね」と苦笑しておられた。

 この猪間教授が、41年冬、中央大学としては画期的な告別講演(Farewell address)を行った。
 欧米の著名な大学では、正教授の講座就任には就任演説、退職時には離任演説というセレモニーがあるのが普通である。高名な経済学者アルフレッド・マーシャルの「冷ややかな頭脳、しかし温かい心情」という名言は、彼がケンブリッジ大学の教授になったときの就任演説で語られた言葉である。

 だが、日本の大学では、全校の学生に呼びかけるような学問的ボルテージは、非常に低い。それを承知のうえで猪間教授は、定年で大学を去る機会に告別講演を実行した。
 ただし、講義の題目は専門講座から離れた。統計学ではいくら全学生に呼びかけても、集まる学生の数は知れている。だから教授は、告別講演という習慣を作るために、あえて演題を「中央大学校歌と『惜別の歌』の由来」に変えたのである。
 ぼくを訪ねてくださったのは、その数ヶ月前であった。

 この告別講演は12月1日に行われた。招かれたとき、紹介も挨拶もいっさいなしで、ただ一書生として告別講演を聞くだけなら、とのわがままを、先生はそのまま認めてくださった。
 講堂には300人を超える学生が集まっていた。ぼくは後ろのほうの席に身をひそめるような格好で坐った。

『惜別の歌』の由来は、造兵廠時代から歌声喫茶にまで及び、ぼくは赤面のしどおしだった。そして、最後に先生は結びの言葉を、こう述べられた。

「諸君、今日は12月1日である。12月1日といっても、諸君には歳末の1日だというほかは何の興味もない日かもしれない。だが、私のように戦争を経てきた者は、この日に特別な記憶をもっている。そして私と同じようにつらい記憶をもっている多くの日本人のいることを記憶されたい。
 23年前の今月今日、氷雨ふる代々木原頭で、第1回目の学徒出陣ということが行われた。祖国の危機に対し、何万のうら若い学生はペンを捨て、教室を去って、この日、戦場に赴いた。その学生たちの何千かは、再びこの国には帰らなかった。それらのなかには諸君の先輩たる中央大学生も数知れず含まれていたのである。

 私は先年、大学からヨーロッパヘやっていただいたが、そのとき、ウィーン大学を訪ねた。ウィーン大学の玄関には女神の首の像があり、その台座の正面には『栄誉、自由、祖国』、右側には『わが大学の倒れし英雄をたたえて』、左側には『祖国ドイツ学生及びその教師これを建つ』と彫られてあった。
 次にハイデルベルク大学に行くと、そのメンザ
(学生食堂)の戸口の上に、『喜びの集いありても、宴の装いに輝く広間にありても、汝らのために死せる者はなお生きてありと思え』と書かれてあった。

 中央大学にはそういう像もなく、碑銘もない。しかし、この『惜別の歌』がある。これを歌って戦いに赴き、倒れた英雄は、わが大学にも少なくなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。
 私は諸君が『惜別の歌』を歌うとき、普通には単なる惜別の情をそれに託するのでもちろんいいのだが、十度に一度、五十ぺんに一ぺんは、この歌がいかなる由来に基づくものかを思い出されんことを望む」

 これは明らかに過褒である。ウィーン大学やハイデルベルク大学に掲げられた高揚たる碑銘になぞらえるなど、身のすくむ心地がする。
 だが、そう感じたことすらが、ぼくの思い上がりであることにすぐに気づいた。

 猪間先生のおっしゃりたかったのは、『惜別の歌』に仮託して、世代の断絶などという言葉を安易におのれの生活のなかに持ち込むな、ということだった。戦後日本の民主主義(デモクラシー)は混沌としかいいようのない価値観の乱れを生んだ。その乱れに乗じて、あらゆる虚飾、打算、変節、背任、詐術が、最大多数の最大幸福という、実体不明のご都合主義に名を借りて、白昼公然と横行している。
「真鍮
(しんちゅう)は、鍍金(めっき)した真鍮から軽侮を受ける理由はない」という意味のことを漱石は言っているが、こうした言葉は通用しにくい世の中なのである。猪問教授の告別講演は、この現実を直視したうえで、だからこそ若者はおのれ自身に衿持(きょうじ)をもてと、言外に訴えていたのである。

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 国破れて25年の歳月が経った年の晩秋、ぼくは友人に招かれて、一夜、霞ヶ浦の岸近い1軒の旅亭にのぼった。2階の座敷からは、暮色の中に鈍色(にびいろ)に光る湖面が遠望され、その湖面から寒々とした風が渡ってくる。

 その店は、かつて連合艦隊司令長官山本五十六が贔屓(ひいき)にしたことで有名である。山本司令長官はしばしば彼の若き属僚を引きつれて、ここで痛飲したと聞く。いまもなお昔のままの面影を残した大広間や廊下、古色のにじんだ床の間や建具に、彼らの息吹が染み込んでいるかのようであった。

 そういう感慨がふと酒席を支配し、会話が途切れたとき、年老いた女将は、「私の宝物をお目にかけましょう」と話の穂を継いだ。「あれを……」と女中に命じて、その席に取り寄せたのは一双の屏風であった。
 墨痕あざやかな寄せ書きが一面に書かれていた。
「これを書いていった人は偉いお方たちじゃありません。ここ
(かつての霞ヶ浦航空隊)から飛び立って、2度と帰ってこなかった若い軍人さんたちが書いたものばかりです」

 おそらく20歳前後の若者たちが、特攻出撃に出る寸前のわずかなひとときを過ごした宴の場所だったのであろう。いずれも達筆であった。「不惜身命(ふしゃくしんみょう)」「祈皇国弥栄(いのる・すめらみくに・いやさか)」などの言葉にまじって、突然、ぼくの眼に飛び込んできた一句があった。

 茶を噛みて 明日は知れぬ身 侘び三昧

 穏やかな筆づかいであった。それに連句がついていた。

 猿は知るまい 岩清水

 これも水のように淡々とした筆致であった。ただ一気に筆が流れていた。これを見たとき、ぼくの背中に戦慄が走った。
 この猿が何であるか、それはいくらでも想像できる。しかし、猿という言葉を使わざるを得なかったところに、想像を超えた無限の痛憤がこもっていた。

 表面の筆致が静かであればあるほど、なにか煮えたぎるような感情が痛々しかった。なんのために自分たちは死ぬのか、国のため、わが愛しき人たちのためと、ひたすら信じようとしながらも、なお抑えきれぬ若い生命への愛惜が、その墨跡に脈打っていた。
 あのころの若者たちは、欝積した暗いエネルギーを、かくもがむしゃらに押し殺しながら、短くかつ長い時間を生きていたのだ。中本の大学ノートがまざまざと思い出された。

「あの人たち、生きていれば、ちょうどお客さんたちと同年輩だろうに……」
 老女将の静かなつぶやきを聞きながら、ぼくはぼくの胸の中の死者たちが、まぎれもなく蘇ってくるのを感じていた。(終)

藤江英輔氏略歴
昭和元年(1926)生まれ。中央大学法学部
卒。昭和25年(1950)新潮社に入社。『週刊
新潮』『小説新潮』等の編集に携わり、広告
局長を最後に退職。平成27年(2015)10月
14日没。

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コメント

いつもMIDI歌声喫茶楽しく聴かせていただいております。
私は昭和51年に中央大学を卒業した者です。
在学中は音楽研究会・リード合奏部に所属し、「惜別の歌」は自ら演奏したり、仲間と歌ったりしていましたが、作曲者が中央大学OBの藤江氏であることを知るのみで、曲の詳しい由来は知る由もありませんでした。
卒業してかなり経ってから、勤労動員された中央大学のある学生と東京高等女子師範のある女学生が、上官の嫌がらせで引き離された時の別れの歌でであるという伝説を何かで聞いたことがありますが、今回、正確な由来や藤江氏の思いを知ることができ、感慨を新たにしております。

投稿: 橋本茂樹 | 2007年4月22日 (日) 01時52分

惜別の歌。
こういう由来があったのですね。
今でも同窓会などの定番として歌うこの歌は
これからは、感慨新たに、より感情をこめて、歌うようになりそうです、

これからも、ご活躍をお祈りいたします。

投稿: 庄武和敏 | 2007年5月 5日 (土) 12時54分

歌の由来や出来た背景を読む度に感謝の念で一杯になります。
とっても楽しみです。
有難うございます。
これからも続けてもらえれば嬉しいです。

投稿: 福永哲男 | 2007年6月 1日 (金) 17時52分

惜別の歌は在職中はよく送別会で歌いましたが、まさかこういう経緯で生まれたとは知りませんでした。長文の解説を読みながら涙を禁じ得ませんでした。
今後は心して歌いたい。
歌が生まれた経緯、由来についてのいつもわかりやすいご説明ありがとうございます。

投稿: 町利明 | 2008年5月 8日 (木) 23時37分

私は最近この「うた物語」に接し、コメントが寄せられた歌を中心に「物語」を少しずつを読ませていただいております。
「惜別の歌」にコメントが寄稿されましたのでメロディーを聞きながら歌誕生の経緯と後日記を、鳥肌が立つような感動で読みました。
解説ではなく、原文を紹介して下さった二木先生の見識と人柄に敬服しております。町利明さん同様、私も今後心して歌いたいと思います。

投稿: 周坊 | 2008年5月 9日 (金) 14時41分

貴重な歌の歴史の説明有難うございます。改めて心を込めて「惜別の歌」を歌わせてもらいます。

投稿: 昭和の庶民史を語る会 | 2008年6月21日 (土) 12時15分

産経新聞のオピニオンのページに"「惜別の歌」に託したこと"というタイトルのコラムがありましたので、ご参考まで。――――2009.8.4の10面「くにのあとさき」湯浅博(東京特派員)

投稿: 前期高齢者 | 2009年8月23日 (日) 15時45分

CUMC1972の広場“惜別の歌”
http://www.geocities.co.jp/Milano/5796/1972_029.htm

山岸勝榮サイト“惜別の歌(英訳)”
http://jiten.cside3.jp/Sekibetsunouta.html

から、二木紘三のうた物語 惜別の歌(その3)に、寄り道しました。

これから、「くにのあとさき」湯浅博(東京特派員)に、道草してきます。

投稿: 美幌音楽人 | 2009年8月24日 (月) 00時43分

島崎藤村ゆかりの信州で暮らしています。「惜別の歌」をはじめて耳にしたのは、昭和36年の初夏です。2ヶ月間の新入社員の集合教育を終え、それぞれが任地に赴く別れの宴席でした。どこからともなくこの歌が聞こえてきて次第に大合唱となりました。きびしくも楽しかった集合教育の地を後に、私は任地の千葉県九十九里の近くの事業所に赴きました。後日、家庭の事情で退職を余儀なくされた仲間の送別の席で同期配属の立大の同僚がこの「惜別の歌」を歌ってくれました。このときの光景がいまも目に焼きついています。この歌への思いは人それぞれ違っていても、なにか、言い知れぬ共通項があるように感じます。二木先生、ありがとうございました。

投稿: 山口 功 | 2010年2月22日 (月) 17時56分

二木先生の「うた物語」はいつも楽しませていただいており、ありがとうございます。
先日流山市文化会館で同市教育委員会主催による藤江英輔先生の「惜別の歌と平和を語る」と題した講演会がありました。藤江先生がご健在だったのにまず驚かされましたが、中央大学出身の私にとって惜別の歌には特別の思いがありましたので、埼玉県からはるばる聴きに行きました。
お話はほぼこのサイトで紹介されている内容に沿ったものでしたが、学徒動員で軍需工場で働いていた状況や赤紙が来て出征して行く友を送る心情などを伺うにつけ、そういった中でこの歌が生まれたことに深い感慨を覚えました。
また後日霞ヶ浦の料亭で見せられた屏風の発句と付け句の話にも感動しました。講演の後、白門グリークラブの合唱があり、最後に皆で惜別の歌を歌いましたが、なぜか後から後から涙が出てきて止まりませんでした。

投稿: 三沢充男 | 2010年5月17日 (月) 23時34分

二木先生

藤江英輔氏の記事を拝読し感銘を受けました。
氏は4つ先輩ですが、同時代を生きたものとしてその内容が胸に沁みました。
昭和20年2月22日の大雪の日は、私は東京歯科医学専門学校(今の東京歯科大学)の受験の日でした。動員は日本製鋼所横浜製作所で高射機関砲などを作っていました。
この歌は流行り始めてから覚えたものですが、こんなエピソードがあったとは思いませんでした。
いつも先生の解説を楽しみにしていましたが、今回は特に有り難く拝読いたしました。

投稿: 遠藤雅夫 | 2010年5月22日 (土) 10時10分

 はじめて訪問させていただきました。宝塚在住の「なりひら」と申します。昨日から、会社が夏休み(6連休)で、自宅でブログの執筆など、ゆっくり過ごしております。今日あたりは、だいぶしのぎ易いですが、窓の外では、油蝉が喧しく鳴き騒いでいます。

 本日、私のブログにご訪問いただき、ありがとうございました。私は、昭和25年生まれですから、太平洋戦争は全く知らないのですが、親父からは、戦争のことはよく聞かされていました。親父も学徒動員で召集され、滋賀県大津の坂本飛行場で飛行訓練を行っている時に、敗戦の日を迎えました。海軍少尉でした。多分、貴兄とは同じ世代かと思います。今も奈良で存命です。

 そんなこともあってか、太平洋戦争のことについて、最近、興味を覚えるようになり、ネットで情報収集して、中学・高校で学んだ知識を保管しております。ブログの記事は、そうした勉強の内容を自分なりに整理して、文章にしているものです。お恥ずかしい限りです。

 本日、惜別の歌(その1~3)を拝読しました。記事の中に、「このとき、涙があふれた。国運を賭けて、今日まで耐えてきた歳月の重さが、全身から抜けていくようであった。だが、それは生き残った人間の虚しさであった。生き残った者の心情など、この際どうでもよかった。そのとき、ぼくが流した涙は、この戦いで死んでしまった幾百万の日本人の魂は、もう行くべき彼岸がないではないか、というその無念さであった。」というくだりがありました。

 敗戦の日に、当時の大学生が抱いた心情が、実によくあらわれているなと、(生意気ながらそう)思いました。

 これからも浅学の徒をご指導いただきますよう、お願い申し上げます。

投稿: なりひら | 2010年8月13日 (金) 10時03分

二木絃三さま、ひさしぶりのイランカラプテ。
なりひらブログから寄り道しました。
http://happy.ap.teacup.com/ibaraki-doji/420.html
今後とも、どうぞよろしく願います。
(クッシーおじさん=美幌音楽人)

投稿: 美幌音楽人 加藤雅夫 | 2010年8月13日 (金) 17時40分

昨日、中央大学創立125周年記念講演会
~藤江英輔が語る『惜別の歌』の生い立ち~

に父のかわりにお話を聞きに行きました。

まさに父の青春の歌です。
先日、父が亡くなりましたがこの曲でおくりました。

投稿: 谷口 | 2010年10月 7日 (木) 18時22分

30年以上も前になりますが、中央大学ワンダーフォーゲル部に在籍しておりました。春夏秋冬折節に、約1週間ほどの合宿登山を行っておりました。その最終日には複数のパーティーが1箇所に集結し、夜通しキャンプファイヤーで痛飲。翌日の解散時には、みんなで肩を組んで、必ず『惜別の歌』で締めくくる慣わしでした。青春の思い出の「歌」と言っても過言ではありません。
中央大学の歌であることは知っておりましたが(学生手帳にも印刷されてありました)、今回この記事を読み、歌が生まれた背景にこのようなドラマがあったことを初めて知りました。深い深いドラマです・・・

投稿: 遠藤 | 2010年12月15日 (水) 00時44分

 惜別の歌の歌詞順について

私は1年前に妻をガンで失い、その喪中の日々をこの歌をよく聴いて心の慰めにしていました。しかし、何度も聴くにつれ歌詞順に違和感を覚えるようになりました。その事にについて私の提案を示しますので皆様のご意見をお聞かせ下さい。

ご存知のようにこの歌詞の元歌は島崎藤村の「高楼」で姉妹の別れを惜しむ掛け合いの歌詞です。この歌詞を戦時中、徴兵されていく友人を送別する歌意で作曲され、その意味を込めて下記の様な歌詞順で広く歌われてきましたが、やはり歌詞内容と作曲者の心情とはズレがあり多少違和感は残ります。しかし、歌詞順を変えればもう少し違和感なく歌えると思うのですがどうでしょうか?

(現在歌われている歌詞順)
1.遠き別れに 堪えかねて・・・
2.別れと言えば 昔より
3.君がさやけき 瞳の色も

(私が提案する歌詞順)
1(起).遠き別れに 堪えかねて
この高殿に 登るかな
悲しむなかれ 我が友よ
旅の衣を 整えよ

2(承).君の行くべき 山河は
 落つる涙に 見え分かず
 袖の時雨の 冬の日に
 君に送らん 花もがな

3(転).君がさやけき 瞳の色も
君紅の 口唇も
君が碧りの 黒髪も
また何時か見ん この別れ

4(結).別れと言えば 昔より
この人の世の 常なるを
流るる水を 眺むれば
夢恥ずかしき 涙かな

提案理由
1.この歌のエッセンスは「別れ・・・」   にあり、人の世の別れの無常を歌い上げることにあり最後に歌われるべきと思う 。これを2番で歌ってしまうと3番の歌詞との繋がりがなくなる

2.1番の歌詞の次は内容的な繋がりから言っても元歌の7番にある「君の行くべき山河は・・」と起承転結の承に当たりふさわしい。
3.歌が長すぎるときは「君がさやけき・・」を省略する。
4.「別れと言えば・・」は必ず一番最後に歌い上げるのが適当であり起承転結の「結」にふさわしい。
5.歌詞の流れ的にも1番と2番は内容が繋がっているし、3番と4番は「別れ」という単語で繋がっていて歌いやすい。

投稿: 島袋 淳吉 | 2011年3月11日 (金) 16時16分

私は戦後生まれの“戦争を知らない子供達”です。『惜別の歌』は藤村の作詞であることは知っておりましたが、姉妹間の別れを詠った詩が、友との惜別の詩に替えられている点にやや違和感がありました。しかし、このサイトを読んでその経緯を知ることができました。別れの相手がある節は男性、ある節は女性を想像させる故も理解できました。
人気作家になる前の夢枕獏さんと新幹線で偶然臨席になってお話を伺う機会がありました。名刺をいただきましたが、その後ヒット作を数多く出されて、ある時ラジオ番組にゲストとして出演されていました。その中で夢枕さんが好きな曲として挙げておられたのが『惜別の歌』で、番組の中でもダークダックス版を流されました。夢枕さんのお話しでは、高楼(たかどの)に登る理由は、別れて旅立って行く友(原詩ではおそらく嫁いでいく姉)の姿が見えなくなるまで、いつまでも見送っていたいからではないかとおっしゃっていました。高楼から去って行く友人を見送る情景は漢詩に多く詠まれており、李白の『黄鶴楼にて猛浩然の広陵へ之くを送る』の詩が有名です。

故人西辞黄鶴楼 烟花三月下揚州
孤帆遠影碧空尽 唯見長江天際海

投稿: Yoshi | 2011年7月 7日 (木) 20時48分

 30数年前、たった4ヶ月で職場を後にする彼が、送別会で歌っていたのが「惜別の歌」でした。東京から南の地に行ってしまう別れが切なく、ずっと心に残っていました。 その彼も後数ヶ月で退職です。下手な挨拶より、この曲で皆様にお別れをしてほしいなと思い、ユーチューブを繋げていたらこのサイトに出会いました。一つの歌にこんなにも奥深いストーリーがあったとは!ますます大切な我が心の歌となりました。二年間の行ったり来たりの生活ももう少しです。縁あって今まで共に暮らせたことに感謝して、これからの人生のスタートをきりたいと思います。

投稿: pipin | 2011年10月26日 (水) 22時15分

私は昭和58年卒業で、中央大学応援団リーダー長を務めていました。先生のブログを拝見するまで、惜別の唄に実際には4番があった事実を知りませんでした。藤江さんの寄稿文を読んで、涙が止まりません。こういった先輩たちのお力が今の中央大学の躍進につながったものと感謝致します。応援団も紆余曲折がありましたが、今、吹奏楽、チェアリーダー部も含めて総勢70名。6大学を含めても、日本屈指の応援団に成長してくれました。これからも、彼らがこの惜別の歌を守りつつけてくれると確信しています。

投稿: しろやん | 2013年2月28日 (木) 11時54分

藤江英輔氏は御健在なんですね。
より感動的新資料のご提示があり、興を引かれます。ながらも、ここまででも十二分に、繊細かつ詩情あふれる藤江氏の戦争記憶に心が疼きます。見つけがたい資料を探し、要を得た名解説と冴えた編集をされる二木さんにシャッポを脱いで深々と有難く存じます。

茶を噛みて 明日は知れぬ身 侘び三昧
猿は知るまい 岩清水

先日 Asociación Madres de Plaza de Mayo と言うアルゼンティン母の会についてのドキュメントフィルムに接しました。同胞自国民を圧殺(ないがしろ)にする国家権力…、その非道に対しブエノスアイレスの五月広場で毎木曜日手を繋いでデモ行進した母親たち。わずか30~40年前のアルゼンティンの悲しみも`猿`の悪戯になぞってみます。

>困難な時代に名曲を生んだ若者の青春記をお楽しみください。
読み返しつつ、仰られるように漫喫 mm

投稿: minatoya | 2013年4月 4日 (木) 20時01分

『惜別の歌』に掲載されている藤江英輔さんの学生時代の文章を読みながら、戦中に青春時代を過ごした我々の先輩世代の青春の切なさを思いつつ、何度も涙が流れました。
彼等はどんにか学問がしたかったろう、どんなにか恋がしたかったろう。人間誰しも戦場で死にたくはありません。
私は80歳になります。終戦時に旧制中学一年でした。米軍の戦闘機に機銃掃射を受けました。20年の夏には、毎晩藪の中の防空壕に潜りました。戦争の悲惨さは子供ながらに身に染みています。
戦没した海軍飛行専修予備学生たちの遺稿集を映画化した『雲流るる果てに』でも、戦争に行く直前の学生が涙を流しながら、砂浜を「まだここも踏んでいなかった。ここも」と走る場面がありました。あれはまさにその青年が自分の青春でやり残した人生を悲しんでいるのだと思いながら、泣きつつスクリーンを見つめていた事を思い出します。
これからの若者たちが二度と藤江さん達のような「惜別の歌」歌わなくてすむ世の中であってほしいと心から思いました。

投稿: 城  保 | 2013年5月 3日 (金) 02時18分

城 保様
私も敗戦時、中学一年生でした。玉音放送を聞いて「もう陛下のために死ねなくなった」と泣きました。そのように私も軍国少年だったのです。特攻機に乗って敵艦に突っ込んでいくのが私の気持ちでした。そこには戦争の悲惨、残酷、死の恐怖などまったく意識していません。当時の軍部は何も分からない少年をこんな状態にしたのです。学校の教師もそうでした(やむを得ずそうした人もいたでしょうが)。
戦後、いくつになったころだったでしょうか。国家は国民の命を奪う権利があるのかということを考えました。どこの国だって戦争をしたくない人が圧倒的多数でしょう。また、行き来の盛んな国同士で戦争ができるはずがありません。
私は、国民の生命を守り幸せにする政治と政治家を望みます。

投稿: 田崎彰一郎 | 2013年5月 3日 (金) 21時53分

島袋さんが歌詞の入れ替えを提案されています。しかし、作曲者の意図を忖度すれば、わたしは今のままが良いと思います。この歌のエッセンスは4番にあります。この別れは、単なる別れではありません。歳若き学友が先に死地に赴き、長年の自分は生きて見送る、しかも歌以外に贈ることのできるものが何もないという痛恨・無念の思いが、この奇跡とも言える曲を生み出したのです。1番は、他ならぬ作曲者の思いです。「悲しむなかれわが友よ」とは、実は自分自身に言い聞かせている言葉です。死地に赴くことを決意した友は返ってすがすがしい顔をしていたでしょう。真に悲しいのは、見送る自分自身なのです。その私に世の無常を説いて健気に慰めているその人こそ死地に赴かんとする学友なのです。涙しているのは学友ではありません。見送る人々なのです。その学友の顔(かんばせ)を見た時、それはもはや奈良興福寺の「阿修羅」像の如き紅顔の美少年としか思えない、それが3番です。原詞では、美しい姉を歌った箇所ですが、この文脈では学友は男女の違いを超越した神の如き存在に昇華しているのです。そして4番。「君がゆくべき山川」とは戦地のことです。学友は生きているにも拘わらずすでに神になったが如き存在です。当然、花を手向けるべきものでしょう。その花さえもがない、その辛い思いを堪え忍び、一筋の生きることへの希望へとつなげるもの、それが「惜別の歌」であったと思います。

投稿: 藤原佐為 | 2013年11月13日 (水) 04時43分

先生のこのブログいつも拝見していますが、この稿を最後まで読み切ったのは初めてです、
感動をもって読ませていただきました、

曲を尺八譜に採りました、
趣味の尺八を生かし、尺八吹奏ボランティアで、高齢者(福祉)施設を徘徊(?)する日々を送っています、が、この曲を吹くと、途中で想いがこみ上げて吹けなくなるのが常でした、
曲の由来がしっかりわかった今、ますます、胸迫り吹けなくなりそう、が、吹き切りたい、
今、そう思っております、

ありがとうございます、

投稿: 柳本波平 | 2014年6月13日 (金) 10時50分

私は現在92歳の老兵で、HN・和紙屋紫蘭と申します。
「惜別の歌」は大好きでいつも口ずさんで居ります。
惜別の歌が島崎藤村の詩から作られたとは存じていましたが、このような曰くがあるとは全く知りませんでした。
 私は昭和17年に大阪外語に入学(司馬遼太郎氏と同期)三年生の昭和19年には、学徒動員で藤江氏同様、大阪の造兵廠で最新式の巨大な5式15㌢高射砲を作る第七工場で働いていましたので、当時の事を思いだしとても懐かしく感動して読まして貰いました。
 私は一か月遅く生まれたばかりに、この第一次学徒出陣をまぬかれ一年遅れで、19年10月に豊橋予備士官学校に入りましたが、この第一次学徒出陣で軍隊に入った中学、外語の親友たちの多くを外地や特攻のために失いました。この学徒出陣の繰り上げ卒業の日に、同級の自称・文学青年たち数人が学生寮の狭い一室に集まり、壮行会として最後の酒宴を開いたのを思い出します。

 みんな飲み慣れぬ酒のために、飲んだくれて寝込んでしまったので、ふと窓を開けてそとを見てみると浩々と光る半月の光が差し込み、彼らの乱雑な寝姿を照らし出しました。明日知れぬ身の戦場へと旅立つ彼らの思いはいかがだったでしょうか。。

 広島出身のSは現代詩に傾倒し萩原朔太郎に深く私淑していて、私にもかねて朔太郎の詩集や「詩の原理」を読め、としきりに勧めていましたが、この時、原稿用紙100枚ほどの作詩を持って来て、私にこれを読んでくれと差し出しました。今も当時の日記にその詩の数編を書き留めて居りますが、彼はフィリッピンで斥候隊長として戦死してしまいました。彼の実家も広島の原爆ですべて灰燼と帰し、彼を偲ぶよすがは、私の古い日記に残る数篇の作詞だけになりました。
 宮崎出身のKも中々の文学青年で私は彼から多くの人生的、哲学的に多くの啓蒙を受けましたが、彼もフィリッピンで夜間特攻斬り込み隊長として、悲壮な戦死を遂げています。彼は反権力思考が強く、最後に彼の下宿先で一杯飲んだ時、天満橋の交差点まで見送りに来てくれたましたが、向こうからやってきた巡査を見かけて「俺は軍人と巡査が大嫌いだぁ!」と大声で怒鳴ったので、私は慌てて彼を引き留めるのに一苦労したのを思い出します。
 或いは陸士出身の秀才だった兄へのひそかな反発があったのかもしれません。或いは九州男児らしい反骨の正義感からかもしれません。。
 彼が軍隊に入る時、「絶対に開けてはならん!と家人に言い残して行った箱の中には、戦時中は厳禁の左翼系の書籍がいっぱいだったとか。。
 彼らとの惜別の日々を思いだすとき、この惜別の歌はまさにぴったりです。
 いつまでも歌い続けたいものです。
              和紙屋紫蘭

投稿: 和紙屋紫蘭 | 2016年10月30日 (日) 12時37分

和紙屋紫蘭様のコメント、合わせて二木先生の蛇足を読み返しては哀切極まりなく涙が込み上げました。
10年前に男児の初孫を授かった時
「この子を戦場に送る世だけは来ないで欲しい」と切に切に願ったことが思い返されます。

投稿: りんご | 2016年10月30日 (日) 17時26分

二木先生

藤江英輔氏の「惜別の歌」誕生秘話 そしてその想いを私達に惜しみなく忠実にコメントして下さった二木先生の度量の広さ、感動の嵐につつまれた たくさんのコメント!涙がとまりません。おそらくこのサイトを知らずにいたら、一曲のなかに込められた胸を揺するような誕生秘話が存在したことすらも知らずに、うわべだけの歌詞やメロデイーにだけ酔いしれながら歌い過ごしていたでしょう。惜別の歌を開いてよかった!
数年前、鹿児島出張の折に知覧空港に立ち寄ったと、友人が送ってくれた神坂次郎著「今日われ生きてあり」(新潮文庫)を思い出し、もう一度頁を開きました。
若くして、本当に若くして、愛する家族や恋人に想いのたけを告げることすらも出来ずに、ただただ祖国を守ることのみを胸に秘め、敗戦間近かの知覧空港を飛び立っていった大切な人々のことを今の若い人達はどのような気持ちで受け入れることができるのだろうか?毎年8月のお盆の時期がくると、向田邦子さんの「蛍の宿」や妹尾河童の「少年H」のような哀しくも儚い青春をテーマにしたようなドラマや映画が上映されますが、切なくて哀しくてたまりません。
りんごさんのコメントが、胸に響きます。

投稿: あこがれ | 2016年10月31日 (月) 00時41分

感極まった余りに間をおかずの投稿をお許しください。
あこがれ様 共感のコメントを読み終えて思わず嗚咽いたしました。二木先生の解説、 和紙屋紫蘭 |様のコメント
を反芻しつつ素晴らしい演奏を聴くにつれ朝から涙が止まりません。あこがれ様の「知覧」の文字が涙腺崩壊のきっかけとなりました。改めて二木先生の解説はどんな小説にも増して日々を豊かに深くしてくれます。
ハコベの花様、能勢の赤ひげ様はじめ皆様方のコメントも日々のアクセントなり生きる張り合いに繋がります。

投稿: りんご | 2016年10月31日 (月) 08時06分

和紙屋紫蘭さまのコメントに魅せられて二木先生の蛇足と皆様のコメントを一気に拝読いたしました。感動しました。なんてすばらしい詩であり、曲であり、誕生秘話なんでしょう。それから、youtubeで小鳩くるみさんの歌を聴きました。「惜別の歌 中央大学学生歌」です。これも素晴らしかった。小鳩さんの澄みきったソプラノに心が洗われるようです。何度も何度も聴いています。

youtubeのコメントに次の記述がありました。

藤江氏は次のように語られているそうです。
『4番の最後が「君に送らん花もがな」。当時は文字通り、一輪の花も無かった。友よ許せ・・・。言葉にならぬその思いが4番には込められているのです。是非、4番まで歌って欲しい。』

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4番の最後が藤江氏の心の核心部分なんですね。

投稿: yoko | 2016年10月31日 (月) 22時57分

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