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千曲川

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:山口洋子、作曲:猪俣公章、唄:五木ひろし

1 水の流れに花びらを
  そっと浮かべて泣いたひと
  忘れな草に かえらぬ初恋(こい)
  想い出させる 信濃の旅路(たび)

2 明日はいずこか浮き雲に
  煙りたなびく浅間山
  呼べどはるかに 都は遠く
  秋の風立つ すすきの径(みち)

3 ひとりたどれば草笛の
  音(ね)いろ哀しき千曲川
  寄せるさざ波 くれゆく岸に
  里の灯(ひ)ともる 信濃の旅路よ

《蛇足》 昭和50年(1975)5月に発売され、同年の日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞しました。

 千曲川は日本一の大河・信濃川の上流部分。甲斐・武蔵・信濃が境を接する場所にそびえる甲武信岳(こぶしだけ)に端を発し、長野県東部を北流して、長野盆地の南端で犀川(さいがわ)を合わせ、新潟県を流れて日本海に注ぎます。この長野県内の部分が千曲川です。
 沿岸には、島崎藤村『千曲川旅情の歌』の絶唱を生んだ小諸城址・懐古園があります。山口洋子の詩は、おそらくこの藤村の詩に触発されたものでしょう。

 NHKの「土曜特集・そして歌は誕生した」によると、猪俣公章のこの曲に星野哲郎が詞をつけた『笛吹川夜曲』という歌を、当時新人だった川中美幸が歌うことに決まっていたそうです。
 ところが、猪俣の曲に惚れ込んだ山口洋子が、自分の作詞で五木ひろしに歌わせたいと願い、さまざまに交渉して譲ってもらうことに成功しました。

 いわば横取りしたわけですが、彼女がそこまでこの曲に執心したのは、自分が『よこはまたそがれ』で世に出した五木ひろしの「NHK紅白歌合戦のトリを取りたい」という夢を果たさせるためだったといいます。
 結果として『千曲川』は大ヒットし、五木ひろしは念願を果たしました。

 「そして歌は誕生した」では、星野哲郎も川中美幸も『千曲川』の成功を祝福したと語られましたが、本心はどうでしょうか。
 数々のヒット曲をもつ星野哲郎はともかく、春日はるみという芸名でデビューしたばかりだった川中美幸は、もし自分が歌っていれば……と思ったのではないでしょうか。

 その山口洋子ですが、京都女子高中退後、昭和32年(1957)東映第4期ニューフェースに選ばれましたが、鳴かず飛ばずだったため、女優をあきらめ、東京・銀座にクラブ「姫」を開店しました。
 巧みな客あしらいと経営手腕で多くの著名人を顧客として獲得し、政財界や文化界に強力な人脈を築きました。

 昭和40年代前半から歌謡曲の作詞に手を染め、内山田洋とクールファイブ、五木ひろし、石原裕次郎などの歌で次々とヒットを飛ばしました。
 その後、小説も書き始め、昭和60年(1985)には、ついに直木賞を受賞しました。
 こうして彼女は、夜の銀座が生んだ伝説の1つになりました。

 なお、トワ・エ・モワのヒット曲『誰もいない海』を作詞した詩人・山口洋子は、同姓同名の別人です。 

(二木紘三)

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ロック・ローモンド

 (mp3制作:二木紘三)

スコットランド民謡、日本語詞:門馬直衛

1 ここちよき清らの岸
  日かげ映ゆるロック・ローモンド
  君と共にさまよいたる
  懐かし懐かし ロック・ローモンド
   (*コーラス)
    君は登れ われは下らん
    行くてはスコットランドなれど
    君と共にまた語らじ
    懐かし懐かし ロック・ローモンド

2 君と別れし谷間の
  坂もけわし ベン・ローモンド
  入日うけ 峰は紅(あか)
  日かげ たそがれ告げぬ
   (*コーラス)

3 小鳥鳴き 野ばら開き
  日かげに水ねむるも
  いたむ胸には春帰らじ
  悲しみ はや消ゆるも
   (*コーラス)

     Loch Lomond

1  By yon bonnie banks
   And by yon bonnie braes,
   Where the sun shines bright
   On Loch Lomond
   Oh we twa ha'e pass'd
   sae mony blithesome days,
   On the bonnie, bonnie banks
   O' Loch Lomond.
   (*Chorus)
   Oh ye'll tak' the high road
   and I'll tak' the low road,
   An' I'll be in Scotland before ye',
   But wae is my heart
   Until we meet again
   On the Bonnie, bonnie banks
   O' Loch Lomond.

2  I mind where we parted
   In yon shady glen
   On the steep, steep side
   O' Ben Lomon'
   Where in purple hue
   The highland hills we view
   And the morn shines out
   Frae the gloamin'
    (*Chorus)

3  The wee bird may sing
   An' the wild flowers spring;
   An' in sunshine the waters are sleepin'
   But the broken heart
   It sees nae second spring,
   And the world does na ken
   How we're greetin'
    (*Chorus)


《蛇足》
18世紀前半に成立したスコットランド民謡。
 曲は『マクギボンのスコットランド歌謡集第1巻』
(1742年発行)に収録されたスコットランドの古謡『ロビン・クーシー(Kind Robin Loves Me)』のメロディーが使われています。

 また、今日に伝えられている歌詞は、ジョン・スコット夫人(1810-1900)がまとめたものとされています。歌詞の元になった伝承については、いくつかの説がありますが、次の説が最有力です。

 清教徒革命崩壊後の王政復古によってイギリス国王となったジェームズ二世は、国王大権を乱用し、カトリックの復興を図ったため、議会によって退位を強制され、フランスへ亡命しました。
 王位は、ジェームズ二世の長女メアリー二世とその夫オレンジ公ウィリアム三世が共同統治者として継ぎました。これがイギリス史上有名な「名誉革命」
(1688~89)です。

 しかし、これに不満をもち、ジェームズ二世とその直系の子孫を正統な君主として支持した人びとがいました。彼らは、ジェームズのラテン語形Jacobusにちなんで「ジャコバイト(Jacobite)」と呼ばれました。
 ジャコバイトは、宗教的にはカトリックとイギリス国教の保守派、地理的にはスコットランドの高地地方を有力地盤としていました。彼らは、1701年にジェームズ二世が亡くなったあとも、息子のジェームズ・フランシス・エドワードや、その息子のチャールズ・エドワードと接触を保ち、1715年と45年に大規模な反乱を起こしましたが、いずれも鎮圧されました。

 45年の反乱では、ジャコバイトたちからボニー・プリンス・チャーリー(ボニーは「すてきな」の意)と呼ばれたチャールズ・エドワードがスコットランドに上陸し、イングランドに向かって南進しようとしました。
 これに加わり、敗れて捕らえられた兵士たちのなかに、ローモンド湖付近出身の若い兵士が2人いました。2人は、イングランドのカーライル城に送られましたが、どういう理由からか、1人は釈放され、もう一人は処刑されることになりました。

 処刑されることになった兵士は、「君は上の道を行け、ぼくは下の道を通って、君より先に帰り着いているだろう」といいました。上の道(high road)は現実の道、下の道(low road)はあの世の道と解釈されています。
 釈放された兵士が荒れ果てた道をたどって、苦難の末、郷里にたどり着いてみると、その言葉どおり、処刑された兵士の亡霊が先に着いていました。

 この曲につけられた日本語詞には、ほかに近藤玲二の恋愛詩(下記)がありますが、どの原詞に基づいたものかは不明です。

ロッホ・ローモンド

1 水蒼(あお)き川のほとり
  風も青きロッホ・ローモンド
  君が愛の瞳に似たる美わしき岸辺よ
  ロッホ・ローモンド

2 美わしき川のほとり
  我は待ちぬ ロッホ・ローモンド
  また幾たびめぐり逢瀬(おうせ)
  誓いも空(むな)しきロッホ・ローモンド

3 誓いせし川のほとり
  君は帰らぬ ロッホ・ローモンド
  香りほほ笑む花はあれど
  捧ぐるすべなきロッホ・ローモンド

4 ああ水は永遠(とわ)に変わらず
  蒼き夢を囁(ささや)
  想い出の流れ尽きせぬ
  美わし岸辺よ ロッホ・ローモンド

 ロッホ・ローモンドのロッホ(loch)は、ゲール語で「湖」という意味です。ゲール語は、スコットランドやアイルランドなどの先住民・ケルト人の言葉です。
 ロッホの「ホ」は、本来は喉音
(発音記号は[x])で、スコットランドではそう発音されますが、一般的には「ロック」と発音されることが多いようです。門馬直衛の日本語詞が「ロック・ローモンド」となっているのはこのためです。

 また、門馬直衛の日本語詞の2番に出てくるベン(ben)はゲール語で山とか峰という意味。
 ローモンド湖はスコットランド中央西部にある、グレートブリテン島最大の湖で、ベン・ローモンドはその東岸にある973mの山です。湖畔一帯は風光に富み、またグラスゴーに近いため、人気のある観光地となっています。

 なお、門馬直衛の歌詞で、コーラス部分の「語らじ」と3番の「帰らじ」の「じ」は、同じ語ですが、意味も機能もまるで違います。
 「語らじ」の「じ」は打消の助動詞ではなく、意思や勧誘を示しています。したがって、「語ろう」という意味。ただし、この使い方は古型・特殊型で、一般的ではありません。

 いっぽう、「帰らじ」の「じ」は打消推量の助動詞「じ」の終止形で、「帰らないだろう」「帰るまい」といった意味。こちらは、文語では一般的な表現法です。

(二木紘三)

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長崎の鐘

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎

1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
  たたえる風の神の歌
  耀く胸の十字架に
  ほほえむ海の雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
  更け行く夜の月すみぬ
  貧しき家の柱にも
  気高く白きマリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

《蛇足》 自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。

 永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)(現・雲南市)で過ごしました。長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。
 助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年
(1934)、カトリックに入信しました。そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、彼の行動を特徴づけることになります。

 昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。
 翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。

 そして、昭和20年(1945)年8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。

 爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。

 翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。同年8月『長崎の鐘』、翌23年
(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。

 プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。
 また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 しかし、運命は避けることができず、昭和26年
(1951)5月1日 長崎医大病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロンビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。
 余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。

 コロンビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。
 しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。

 それは作曲の古関裕而も同じでした。そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。
 サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。

 のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。永井はその礼として、次の短歌を贈っています。

新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘

 藤山はそれにメロディをつけ、自分が『長崎の鐘』を歌うときは、よく反歌(長歌の末尾に添える短歌)のように歌っていました。

 昭和25年(1950)、『長崎の鐘』は、新藤兼人らの脚本により松竹で映画化されました。

(二木紘三)

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丘を越えて

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:島田芳文、作曲:古賀政男、唄:藤山一郎

1 丘を越えて行こうよ
  真澄の空は 朗らかに晴れて
  楽しい心
  鳴るは胸の血潮よ
  讃えよ わが青春(はる)
  いざゆけ 遙か希望の丘を越えて

2 丘を越えて行こうよ
  小春の空は 麗(うら)らかに澄みて
  嬉しい心
  湧くは胸の泉よ
  讃えよ わが青春(はる)
  いざ聞け 遠く希望の鐘は鳴るよ

《蛇足》 昭和6年(1931)公開の新興映画作品『姉』の主題歌。

 悲哀や孤独を訴える曲調の多い古賀作品のなかでは、数少ない明るく調子のよい曲で、藤山一郎の朗唱により大ヒットしました。

 古賀政男は、明治大学を卒業したばかりの昭和4年(1929)春、明大マンドリン倶楽部の後輩と東京郊外の稲田堤(現川崎市多摩区)にハイキングに出かけました。満開の桜の下で酒を酌み交わし、大いに語らった楽しい思い出がマンドリン合奏曲として結実したものとされています。この曲に古賀がつけたタイトルは『ピクニック』でした。

 その2年後、新興映画がこの曲に着目して、『姉』の主題歌として採用、島田芳文に依頼して歌詞をつけました。
 もともとマンドリン合奏曲だったので、歌謡曲としては前奏が異例の長さになっていますが、それがこの曲の大きな特徴になっています。

 なお、当初から指摘されていたことですが、2番の小春は変。小春は初冬のうららかな日和、または陰暦10月の異称ですから、この歌のような春の歌には使えないはずです。

 作詞者の島田芳文は明治31年(1898)福岡県豊前市黒土に生まれ、長じて早稲田大学に入学しました。生家は大地主で、学生時代は毎月、一般世帯の平均的生活費の10倍もの仕送りを受けていたそうです。
 早大時代は雄弁部に属し、後年大物政治家になる河野一郎や浅沼稲次郎らと活動していましたが、のちに文学に転向し、農民の生活をテーマとした民謡詩を書き続けました。

 大金持ちに生まれたせいか、あくせく仕事をしようという気持ちが薄かったようで、昭和30年代半ばから軽井沢の山荘で隠遁生活を送りました。その近くの北軽井沢(群馬県長野原町)に『丘を越えて』の歌碑が建っています。

(二木紘三)

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めんこい仔馬

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄、唄:二葉あき子/高橋祐子

1 ぬれた仔馬のたてがみを
  なでりゃ両手に朝のつゆ
  呼べば答えてめんこいぞ オーラ
  かけていこうかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
  今じゃ毛なみも光ってる
  おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高くないてみろ
  ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
  仔馬かえろう おうちには
  おまえの母さん まっている オーラ
  歌ってやろかよ 山の歌
  ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
  仔馬のおへやも明るいぞ
  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
  あしたは朝からまたあそぼ
  ハイド ハイドウ またあそぼ


《蛇足》
昭和16年(1941)3月公開の東宝映画『馬』の主題歌。レコードはコロンビアから発売されました。

 映画はひとことでいうと、軍馬を育てる物語で、冒頭には当時の陸軍大臣・東条英機の推薦文がついていました。
 というと、戦意高揚の国策映画のように見えますが、そうした雰囲気は希薄です。東北地方の美しい四季の移り変わりのなかで繰り広げられる少女
(高峰秀子)と馬との交流を軸に、馬が軍馬として育っていくまでをドキュメンタリータッチで描いた作品です。

 監督は山本嘉次郎でしたが、彼はかけ持ちで他の作品も撮っていて多忙だったため、チーフ助監督の黒澤明が東北ロケの相当部分を担当しました。
 その際、主演の高峰秀子と恋仲になりましたが、諸般の事情で仲を引き裂かれ、結ばれずに終わったという話が伝わっています。

 陸軍大臣の推薦文をつけたり、軍馬をテーマとしたりしたのは、そういうお膳立てにしないと、映画の制作が許されなかったからです。当時は日中戦争まっただ中で、対米開戦も不可避と目されていた時代でした。
 主題歌の『めんこい仔馬』も、時代に合わせて戦争に触れた歌詞が入っていました。その原詞は次のようなものでした。

1番・2番 上と同じ

3番 紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ
    手柄を立てたお話を ハイドハイドウ お話を

4番 上の3番と同じ

5番 明日は市場か お別れか 泣いちゃいけない 泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ
    みんなで万歳してやるぞ ハイドハイドウ してやるぞ

 敗戦後、戦争に触れた3番と5番が削除され、4番の歌詞が新しく作られて、映画とは関係のない童謡として再スタートしました。

 「めんこい」は東北地方の方言で、「めんごい」「めごい」ともいい、「かわいい」という意味です。

 ハイドウは、馬や牛を止まらせるためのかけ声で、ドウドウまたはドウともいいました。反対に進ませるときにはハイシィーとかシィーとかけ声をかけました。私が子どものときにはよく耳にしたオノマトペですが、今は田舎でも知っている子どもはほとんどいないでしょう。
 ただし、これらのかけ声は、地方によってかなり違います。

(二木紘三)

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カチューシャの唄

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:島村抱月・相馬御風、作曲:中山晋平、唄:松井須磨子

1 カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  せめて淡雪とけぬ間と
  神に願いを(ララ)かけましょか

2 カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  今宵ひと夜にふる雪の
  明日は野山の(ララ)路かくせ

3 カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  せめて又逢うそれまでは
  おなじ姿で(ララ)いてたもれ

4 カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  つらいわかれの涙のひまに
  風は野を吹く(ララ)日はくれる

5 カチューシャかわいや
  わかれのつらさ
  広い野原をとぼとぼと
  独り出て行く(ララ)あすの旅

《蛇足》 劇団「文芸協会」を主催していた早稲田大学教授・島村抱月は、劇団のスター女優・松井須磨子と恋愛関係に入りました。抱月は結婚していたため、人倫にもとる行為として世の非難を浴び、早大教授の座から追われ、須磨子も文芸協会から追放されました。

 抱月は須磨子を中心とする劇団「芸術座」を立ち上げ、その第3回公演で上演したのがトルストイ原作の『復活』でした。初演は大正3年(1914)3月26日。

 この劇で抱月は、主演の松井須磨子に劇中で歌を歌わせるという本邦初の試みを実行しました。それがこの歌です。1番を自分が作詞し、2番以降を早大時代の教え子で詩人の相馬御風(早大校歌『都の西北』の作詞者)に託しました。
 作曲は抱月のもとで書生をしていた中山晋平。中山晋平にとっては、これが作曲家としてのデビュー曲となりました。

 この試みが大当たりで、不入りを重ねていた芸術座は大入り満員となり、『カチューシャの唄』は全国津々浦々で歌われるようになりました。この歌から我が国の歌謡曲の歴史が始まったといわれます。

 この成功に続いて、抱月はツルゲーネフの『その前夜』、トルストイの『生ける屍』を劇化して上演しました。『その前夜』では『ゴンドラの唄』、『生ける屍』では『さすらいの唄』が歌われ、いずれも大人気を博しました。

 『復活』はトルストイが友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話が元になっているといわれます。粗筋は次のとおり。

 貴族ネフリュードフは青年時代、伯母の小間使カチューシャ・マースロワを誘惑して捨てます。そのため、彼女は娼婦にまで身を落とし、やがて法廷の手続ミスのためにシベリアへ流刑となります。
 皮肉にも、彼女の裁判に陪審員として立ち会うことになったネフリュードフは、深い罪の意識から彼女を救うために努力し、自らもシベリアに赴きます。

 実話では、カチューシャは流刑地で病死してしまうのですが、トルストイはそれをネフリュードフと結婚するというハッピーエンディングに変えました。
 ところが、貴族が娼婦と結婚するという結末がツァーリ
(ロシア皇帝)の政府から危険思想とにらまれたため、やむをえず、カチューシャは他の流刑者と結婚するという筋書きに変えました。これが、今も読まれている『復活』のエンディングです。

(二木紘三)

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夏は来ぬ

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助

1 卯(う)の花の匂う 垣根(かきね)
  時鳥(ほととぎす) 早(はや)も来(き)鳴きて
  忍(しの)び音(ね)もらす 夏は来ぬ

2 五月雨(さみだれ)の 注(そそ)ぐ山田に
  早乙女(さおとめ)が 裳裾(もすそ)(ぬ)らして
  玉苗(たまなえ)(う)うる 夏は来ぬ

3 橘(たちばな)の薫(かお)る 軒端(のきば)
  窓近く 蛍(ほたる)飛び交(か)
  おこたり諌(いさ)むる 夏は来ぬ

4 楝(おうち)散る 川辺(かわべ)の宿の
  門(かど)遠く 水鶏(くいな)声して
  夕月すずしき 夏は来ぬ

5 五月闇(さつきやみ) 蛍飛び交い
  水鶏鳴き 卯の花咲きて
  早苗(さなえ)植えわたす 夏は来ぬ

《蛇足》 明治29年(1896)に小学校5年生用の音楽教科書『新編教育唱歌集(第五集)』に掲載されました。

 明治時代の唱歌の作詞者には、子どもにわかりやすい言葉を使うというおもんぱかりは、ほとんどなかったようです。
 佐佐木信綱は、三重県鈴鹿市出身の著名な歌人・国文学者で、息子の治綱、孫の幸綱も、歌人・国文学者として多くの業績を上げています。

 1番~4番には初夏のさまざまな風景が描写されていますが、5番はその総集編といったところで、少々手抜きの感じがします。たぶん、曲が先にできていて、それに当てはめるように作詞していったものの、5番に至ってよいアイデアが浮かばなくなったのでしょう。

 各聯の歌詞は、「五月雨に裳裾濡らして植うる田を君が千歳のみまくさにせむ」(栄華物語)、「橘のにほへる香かもほととぎす鳴く夜の雨に移ろひぬらむ」(万葉集)などの古歌や、「蛍雪の功」といった中国の故事が発想源になっているようです。

 1番=「卯の花」はウツギの花。「匂う」は、この言葉の古い用法で「鮮やかに映えている」という意味ですが、現代の用法と同じ「香りがする」と解釈しても、あながち変ではありません。
 「時鳥」はカッコウ科の鳥の1つ、ホトトギスのこと。カッコウより小形ですが、カッコウと同じく託卵
(ほかの鳥の巣に産卵して雛を育てさせること)します。漢字では、時鳥のほか、杜鵑・霍公鳥・子規・杜宇・不如帰・沓手鳥・蜀魂などいろいろな書き方があります。
 「忍び音」は、まだ鳴き声に自信のない若いホトトギスが小さな声で鳴くこと。

 2番=「五月雨」は陰暦の5月、今の6月頃に降る長雨、すなわち梅雨のこと。昔は水の豊かな6月に田植えをするのがふつうでしたが、現在では、栽培技術が進歩したためか、温暖化のためかはわかりませんが、5月に田植えをするところが多くなっています。
 「早乙女」は田植えをする女という意味で、若い女性とはかぎりません。最初は賤
の女(しずのめ)(身分の低い女)となっていましたが、のちに早乙女に改められました。
 「裳裾」は着物の裾。
 「玉苗」は早苗と同じで、稲の苗を美しく表現する言葉。

 3番=「橘」はミカンの木の古名。古来、多くの歌に詠まれてきました。
 「軒端」は屋根が建物の外部に差し出た部分の端。屋根の下端。
 「おこたり諫むる」は、怠けてはいけませんよと忠告すること。

 4番=「楝」はセンダンの古名。センダンはセンダン科の落葉高木で、その実は漢方薬に使われます。香木のビャクダンをセンダンということもありますが、これは別の種類です。
 「宿」はここでは家の意味。
 「水鶏」はツル目クイナ科に属する夏鳥の総称。多くは夜行性で、戸をたたくような声で鳴きます。

 5番=「五月闇」は、梅雨時の夜がとりわけ暗いことを表現した言葉。ついでにいうと、「五月晴れ」は本来は梅雨の晴れ間のことですが、今では気候のよい五月の晴天を指すようになっています。

(二木紘三)

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無法松の一生(度胸千両入り)

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:吉野夫二郎、作曲:古賀政男、唄:村田英雄

小倉生まれで玄海育ち
口も荒いが 気も荒い
無法一代涙を捨てて
度胸千両で生きる身の
男一代 無法松

空にひびいたあの音は
たたく太鼓の勇み駒
山車(だし)の竹笹 提灯は
赤い灯(あかし)にゆれて行く
今日は祗園(ぎおん)の夏祭り
揃いの浴衣の若い衆(しゅ)
綱を引き出し 音頭(おんど)とる
玄海灘(なだ)の風うけて
ばちがはげしく右左
小倉名代(なだい)は無法松
度胸千両のあばれうち

泣くな嘆くな 男じゃないか
どうせ実らぬ恋じゃもの
愚痴や未練は玄海灘に
捨てて太鼓の乱れ打ち
夢も通えよ 女男(みょうと)

《蛇足》 昭和33年(1958)リリース。

 このほかに、同じメロディで3番まで繰り返すヴァージョンがあり、これと区別するために、このヴァージョンは「度胸千両入り」と呼ばれます。「度胸千両」とは1番と2番の間の「空に響いたあの音は……」という部分です。

 稲垣浩監督によって2度、村山新治監督と三隅研次監督によって各1度、計4度映画化された『無法松の一生』をモチーフとした歌です。
 原作は、昭和14年(1939)に発表された岩下俊作の小説『富島松五郎伝』。粗筋は次のとおりです。

 酒、けんか、ばくちに明け暮れ、無法松と恐れられていた人力車夫・富島松五郎は、竹馬から落ちてけがをした少年・敏雄を助けたことから、その父で、小倉連隊の陸軍大尉・吉岡小太郎と知り合います。吉岡大尉と友誼を結んだ松五郎は、彼を連隊へ送り迎えするようになります。
 あるとき大尉は、何かを予感したかのように「俺に何かあったら、家族をよろしく頼む」と松五郎にいい、しばらくして急逝してしまいます。彼の言葉にしたがって、遺族の面倒を見るうちに、松五郎は吉岡未亡人・良子を次第に思慕するようになります。
 しかし、彼はそれを表に出すことなく、あくまでも気のいいおじさんとして良子と敏雄につくし続けます。
 やがて、敏雄は成人し、松五郎は年老いて亡くなります。あとには、未亡人のためにせっせと貯めたお金が残されていました。

 恋をすると、たいていの人は、それが成就すること、相手が受け入れて結ばれることを願います。しかし、こうした物語を読むと、成就しないこと、思いを明かすのを抑制することこそ本当の恋ではないかという感じがします。
 恋が成就し、結ばれると、相手との関係は変化しますが、関係の変化は情念の変質を引き起こさざるを得ません。たとえば、結婚すれば、夫婦愛といったものに変わってくるのが普通です。

 だいいち、成就という言葉自体が、完成、終わりを意味しています。抑制しているかぎり、恋は一生でも続きます。恋が成就する幸福がある一方で、成就しないゆえに得られる幸福もあるわけです。
 一人の人を生涯思っていたい人のなかには、あえてあとのほうを選ぶ人もいるでしょう。松五郎がもしそうだったとすれば、彼の後半生は幸せに満ちたものだったかもしれません。

 こうした恋の対極にあるのが、ストーカーの恋(というより自己愛にすぎませんが)です。ストーカーは、思いをまったく抑制せず、それゆえ結晶化(スタンダール『恋愛論』参照)するいとまもなく暴発し、必然的に悲劇、ときには惨劇に終わるのです。

 阪東妻三郎が主演した稲垣浩監督の最初の作品では、実験的手法がいくつか取り入れられていました。
 たとえば、人力車の車輪の回転を重ねることで、無償の愛に殉じた車夫の一生を象徴する手法は、映画史上前例のないものでした。

 ところが、この作品は、戦時体制下の内務省によって厳しい検閲を受け、松五郎の未亡人への思いを暗示する場面を中心に、約10分が削除されてしまいました。車夫風情が帝国軍人の妻に懸想するのはけしからん、というのがおもな理由でした。

 また、敗戦後は、GHQ(占領軍総司令部)によって、軍国主義的とされる部分が約8分カットされました。つまり、この映画は肝心な部分がほとんどカットされ、ずたずたにされたわけですが、それでもなお名作と讃えられています。

 昭和25年(1950)、稲垣浩は、同じ脚本(伊丹万作)で三船敏郎を主演に据えてリメークしました。この作品は、昭和33年(1958)のベネチア映画祭でグランプリ(金獅子賞)を受賞しました。

(二木紘三)

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ばあやたずねて

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:斎藤信夫、作曲:海沼実

1 森かげの白い道
  かたかたと馬車は駈けるよ
  あかい空 青い流れ
  ばあやの里はなつかしいよ

2 くりの花かおる道
  ほろほろと夢はゆれるよ
  枝の鳥ちちと鳴いて
  ばあやの里はなつかしいよ

3 思い出の長い道
  とぼとぼと馬車は進むよ
  暮れの鐘 招くあかり
  ばあやの里はなつかしいよ

《蛇足》 数々の傑作童謡を生んだ斎藤信夫・海沼実コンビによる作品の1つ。詩は昭和16年(1941)8月22日に、曲は昭和21年(1946)夏に作られました。
 斎藤信夫と海沼実の出会いについては、『里の秋』をご覧ください。

 斎藤信夫は、明治44年(1911)3月3日、千葉県山武郡南郷村(現・成東町)五木田で生まれました。小学校教員のかたわら、毎日1つ童謡を作っていたといいます。敗戦後教師を辞めていた一時期を除いて、小学校に奉職しながら『蛙の笛』『夢のお馬車』など数多くの童謡を書きました。

 斎藤信夫の子ども時代、近所にばあやのいる裕福な家があって、とても羨ましく思っていたこと、また九十九里浜から彼の村まで乗合馬車が開通し、ぜひ乗りたかったのに、果たせないまま廃線になってしまったこと――この詩は、そうした思い出から生まれた作品ということです。

 ばあやとは裕福な家に雇われて子育てや家事を手伝う女性のことで、多くの場合乳母の親称です。
 子どもが成長して手がかからなくなると、ばあやは実家に戻るのが一般的でした。その場合でも、子どもとの交流が長く続いたケースが多かったようです。この歌でも、ばあやの実家を子どもが訪ねるという設定になっています。

 肉親か他人かにかかわらず、ひとは自分を育ててくれたひとに愛情を持つものです。まあ、育て方にもよるでしょうが。

 下村湖人の自伝的大河小説『次郎物語』で、主人公の次郎は、母親の独自の教育論に従って、小学校の用務員の妻・お浜に預けられます。次郎の家から与えられる飯米目当てに養育を引き受けたお浜でしたが、やがて損得抜きで愛情を次郎に注ぐようになります。
 少し成長した次郎は生家に戻されますが、実母になかなかなじめず、何度もお浜の許に逃げ帰ります。
 第一巻では、この次郎とお浜・実母との関係が主要なテーマになっています。

(二木紘三)

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石狩エレジー

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:桂土佐海、作曲:古賀政男、唄:霧島昇

1 旅の夜汽車で ふと知り合った
  君は流れの レビューのスター
  窓に頬よせ 涙にぬれながら
  都恋しと 都恋しと
  ああ 泣いていた

2 きのう乗合 今日また馬車で
  流れ流れる 石狩平野
  ひとつマフラーに 肩すり寄せおうて
  恋はせつない 恋はせつない
  ああ あかね雲

3 ニレの花散る 港の町の
  楽屋泊まりが 侘びしゅてならぬ
  赤いドレスが どんなに燃えたとて
  どうせちりぢり どうせちりぢり
  ああ 旅のはて


《蛇足》
昭和28年(1953)4月にレコード発売。
 三橋美智也の『石狩川悲歌
(エレジー)』とよく混同されますが、津村謙の『流れの旅路』と同じく、旅芸人をテーマとした歌です。

 戦争で交通インフラを破壊され、情報化のレベルも低かった昭和20年代は、今と比べると格段に社会的流動性の低い時代でした。
 人やモノ、情報の流動性の低い社会は、良くも悪くも安定した社会で、毎日が同じように繰り返される「日常性」
が人びとの生活を支配していました。都会はともかく、私が育ったような昭和20年代の村落社会では、そうした傾向が明らかに見られました。

 そんな村落社会に1年にいっぺんか2へん、「非日常」を運んできたのが、旅芸人・旅役者たちでした。彼らは、野を渡る風のように、束の間人びとの心にさざ波を立て、すぐに吹き過ぎていきました。
 子どもたちは、村から村へ、町から町へと移動していく生活ってどんなふうだろうと想像し、その非日常性にちょっぴり憧れました。
 子どもたちだけではありません。彼らを外
(と)つ国の人のように魅力的に感じる男女がたまにいて、ときどき事件が起こりました。それはいっとき、村人たちに話題を提供しましたが、さざ波以上にはならず、すぐに消えました。

 昭和40年代以降の高度経済成長に伴って日本全体に社会的流動性が高まると、旅芸人・旅役者の存在意義は低下し、村落社会でもめったに見られなくなりました。

 旅芸人や旅役者は、昔からさまざまな芝居や小説、映画に登場してきました。それだけ民衆の生活には欠かせない要素だったわけです。

  たとえば、山田洋次監督の映画にはときどき旅役者が出てきます。『馬鹿まるだし』では、旅役者が瀬戸内の小さな町に波風を起こすし、「男はつらいよ」シリーズの第37作『幸福の青い鳥』では筑豊の旅役者が出てきます。
 同じく「男はつらいよ」シリーズで、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』、第48作『寅次郎紅の花』と4回も出てきて、振られてばかりの寅次郎にとって例外的に恋人と目されているリリー
(浅丘ルリ子)は、流れの歌手です。

 山田監督は昭和6年(1931)大阪府豊中市で生まれましたが、2歳のとき、父親の仕事の関係で満州に渡り、そこで少年期を過ごしました。敗戦後の昭和22年(1947)日本に引き揚げ、山口県宇部市の伯母の持ち家で18歳まで過ごしました。
 この少年期から青春前期に至る過程で、何度か旅芸人や旅役者に強い印象を受ける機会があり、それが映画作りにも影響しているのではないか、などと私は想像しています。

(二木紘三)

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この広い野原いっぱい

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:小薗江圭子、作曲・唄:森山良子

1 この広い野原いっぱい咲く花を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  赤いリボンの花束にして

2 この広い夜空いっぱい咲く星を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  虹に輝くガラスにつめて

3 この広い海いっぱい咲く舟を
  ひとつ残らず あなたにあげる
  青い帆にイニシャルつけて

4 この広い世界中の何もかも
  ひとつ残らず あなたにあげる
  だから私に手紙を書いて
  手紙を書いて

《蛇足》 森山良子が音楽一家に生まれ育ったことは、よく知られています。高校時代からさまざまなフォーク・コンサートに出演し、若者たちには注目される存在でした。

 一部の人たちのアイドル的存在だった彼女が、広く一般にも知られるようになったきっかけは、昭和42年(1967)1月に行われたジョーン・バエズの東京公演でした。
 『ドンナ・ドンナ』『朝日のあたる家』などのヒット曲をもつバエズは、公民権運動家や反戦活動家としても知られており、カリスマ的なフォーク・シンガーでした。

 森山良子の才能に惚れ込み、「日本のジョーン・バエズ」として売り出そうとしていた当時のレコード・プロデューサーが、バエズの宿泊先に押しかけて直談判したところ、公演での共演が可能になったと伝えられています。その公演がテレビ中継された結果、森山良子の知名度は一気に高まりました。
 その数日後にデビューシングルとして発売されたのが、この歌でした。

 詩は、彼女がたまたま銀座の画廊で購入したスケッチブックに印刷されていたもの。それに30分で曲をつけ、この作品ができあがったといいます。
 その後、彼女は『今日の日はさようなら』『恋はみずいろ』『禁じられた恋』など、次々とヒットを飛ばし、「フォークの女王」の名をほしいままにしました。

 ベテランになった今でもきれいな声を保っていますが、若いころの彼女は「澄明」という表現がぴったりの歌声でした。倍賞千恵子や山本潤子にも共通する、澄んだ声の正統的な歌唱を聴いていると、心が無垢になるような気がしたものです。

(二木紘三)

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