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石狩エレジー

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:桂土佐海、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇

1 旅の夜汽車で ふと知り合った
  君は流れの レビューのスター
  窓に頬よせ 涙にぬれながら
  都恋しと 都恋しと
  ああ 泣いていた

2 きのう乗合 今日また馬車で
  流れ流れる 石狩平野
  ひとつマフラーに 肩すり寄せおうて
  恋はせつない 恋はせつない
  ああ あかね雲

3 ニレの花散る 港の町の
  楽屋泊まりが 侘びしゅてならぬ
  赤いドレスが どんなに燃えたとて
  どうせちりぢり どうせちりぢり
  ああ 旅のはて

《蛇足》 昭和28年(1953)4月にレコード発売。
 三橋美智也の『石狩川悲歌
(エレジー)』とよく混同されますが、津村謙の『流れの旅路』と同じく、旅芸人をテーマとした歌です。

 戦争で交通インフラを破壊され、情報化のレベルも低かった昭和20年代は、今と比べると格段に社会的流動性の低い時代でした。
 人やモノ、情報の流動性の低い社会は、良くも悪くも安定した社会で、毎日が同じように繰り返される「日常性」
が人びとの生活を支配していました。都会はともかく、私が育ったような昭和20年代の村落社会では、そうした傾向が明らかに見られました。

 そんな村落社会に1年にいっぺんか2へん、「非日常」を運んできたのが、旅芸人・旅役者たちでした。彼らは、野を渡る風のように、束の間人びとの心にさざ波を立て、すぐに吹き過ぎていきました。
 子どもたちは、村から村へ、町から町へと移動していく生活ってどんなふうだろうと想像し、その非日常性にちょっぴり憧れました。
 子どもたちだけではありません。彼らを外
(と)つ国の人のように魅力的に感じる男女がたまにいて、ときどき事件が起こりました。それはいっとき、村人たちに話題を提供しましたが、さざ波以上にはならず、すぐに消えました。

 昭和40年代以降の高度経済成長に伴って日本全体に社会的流動性が高まると、旅芸人・旅役者の存在意義は低下し、村落社会でもめったに見られなくなりました。

 旅芸人や旅役者は、昔からさまざまな芝居や小説、映画に登場してきました。それだけ民衆の生活には欠かせない要素だったわけです。

  たとえば、山田洋次監督の映画にはときどき旅役者が出てきます。『馬鹿まるだし』では、旅役者が瀬戸内の小さな町に波風を起こすし、「男はつらいよ」シリーズの第37作『幸福の青い鳥』では筑豊の旅役者が出てきます。
 同じく「男はつらいよ」シリーズで、第11作『寅次郎忘れな草』、第15作『寅次郎相合い傘』、第25作『寅次郎ハイビスカスの花』、第48作『寅次郎紅の花』と4回も出てきて、振られてばかりの寅次郎にとって例外的に恋人と目されているリリー
(浅丘ルリ子)は、流れの歌手です。

 山田監督は昭和6年(1931)大阪府豊中市で生まれましたが、2歳のとき、父親の仕事の関係で満州に渡り、そこで少年期を過ごしました。敗戦後の昭和22年(1947)日本に引き揚げ、山口県宇部市の伯母の持ち家で18歳まで過ごしました。
 この少年期から青春前期に至る過程で、何度か旅芸人や旅役者に強い印象を受ける機会があり、それが映画作りにも影響しているのではないか、などと私は想像しています。

(二木紘三)

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コメント

乗合や馬車で行くような田舎にまで旅役者は興行にいったのですね。私の田舎は映画でした。そしてそこで得た
情報が共通の話題になりました。村落社会に「そよ風」
を届けてくれたのだと思えます。

投稿: 海道 | 2011年10月 6日 (木) 10時25分

私の村にも旅役者がきました
ある日お父さんにつれられ学校に一人女の子が入学して
来ました私が小学生3年春でした。その女の子は鉛筆に
千代紙を巻いて遊んでいました。私も76歳になり
いつも流れの旅路を聞くと想い出します
 

投稿: 奥田丈太郎 | 2015年8月28日 (金) 14時55分

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