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長崎の鐘

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:藤山一郎

1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
  たたえる風の神の歌
  耀く胸の十字架に
  ほほえむ海の雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
  更け行く夜の月すみぬ
  貧しき家の柱にも
  気高く白きマリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

《蛇足》 自分も原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護にあたり、病床に斃れてからも、平和を希求する多くの著書を書き続けた長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です。

 永井隆は、島根県松江市で生まれ、幼少期を同県三刀屋(みとや)(現・雲南市)で過ごしました。長じて長崎医大に進学、卒業後、同大の助手になりました。大変な秀才で、まわりの人たちは、彼はかならずや歴史に残る医学的業績をあげるにちがいないと、大きな期待を寄せていたそうです。
 助手時代に兵役をすませ、同大助手に復帰した昭和9年
(1934)、カトリックに入信しました。そののち、キリスト教徒としての博愛精神が、彼の行動を特徴づけることになります。

 昭和15年(1940)同大助教授に就任し、将来を嘱望されたものの、博士号を取得した昭和19年(1944)、その運命は突然暗転します。物理的療法(放射線)科の部長として研究中に大量の放射線を浴び、白血病にかかってしまったのです。
 翌年、余命3年と診断されましたが、そのまま研究を続けることで自分の職分を果たそうと決意しました。

 そして、昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。

 爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した永井は、飛び散ったガラスの破片で頭部右側の動脈を切断しましたが、簡単に包帯を巻いただけで、生き残った医師や看護婦たちとともに、被災者の救護に奔走しました。
 永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした。

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。
 さいわい、2人の子どもは疎開していたので、無事でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。

 翌昭和21年(1946)1月、教授に就任、研究と医療に従事するも、7月、長崎駅頭で倒れ、以後病床に伏すことになります。
 苦しい闘病生活を送りながら、永井は活発に執筆活動を展開します。同年8月『長崎の鐘』、翌23年
(1948)1月『亡びぬものを』、3月『ロザリオの鎖』、4月『この子を残して』、8月『生命の河』、昭和24年(1949)3月『花咲く丘』、10月『いとし子よ』などを発表し、その多くが数万部から数十万部のベストセラーとなりました。

 プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。それとともに、自分がいなくなったあと、2人の子どもが生きていけるようにしておきたいという気持ちが、彼を駆り立てたのではないでしょうか。

 永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。
「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」
 と彼は随筆に書いています。

 昭和23年3月にできあがったその家を、永井は如己堂(にょこどう)と名づけました。家を建ててくれた人びとの心を忘れず、自分もその愛に生きようと、聖書の「己の如く人を愛せよ」の言葉から採った名前だといいます。
 彼は、そこに2人の子どもを疎開先から呼び寄せ、残りの短い日々を闘病と執筆で送りました。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。
 また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。
 そのほか、長崎名誉市民の称号を贈られたり、政府の表彰を受けるなど、数々の栄誉が彼にもたらされました。
 しかし、運命は避けることができず、昭和26年
(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。
 余談ですが、式場隆三郎は、放浪の貼り絵画家・山下清の才能を発見し、世間に紹介した人として知られています。

 コロムビアから作詞の依頼を受けたサトウハチローは、最初、ベストセラーに便乗したきわもの企画だと思って断ったそうです。
 しかし、その後、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。

 それは作曲の古関裕而も同じでした。そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。
 サトウハチローも古関裕而も、数多くのヒット曲をもっていますが、あえて1曲に絞るとすると、世間に与えた感動の大きさという点で、この曲が最高傑作といってよいのではないでしょうか。

 のちに藤山一郎は、アコーデオンを携えて永井を見舞い、その枕辺で『長崎の鐘」を歌いました。永井はその礼として、次の短歌を贈っています。

   新しき朝の光のさしそむる荒野にひびけ長崎の鐘

 藤山はそれにメロディをつけ、自分が『長崎の鐘』を歌うときは、よく反歌
(長歌の末尾に添える短歌)のように歌っていました。上記のリンクをクリックすると、曲が聴けます。

 昭和25年(1950)、『長崎の鐘』は、新藤兼人らの脚本により松竹で映画化されました。

 写真は病臥中の永井博士と長男・誠一(まこと)さん、次女・茅乃(かやの)さんで、政府からの金杯を受けたときに撮影されたもの。

(二木紘三)

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コメント

いつも感謝しています。いままではMID歌声喫茶の方を利用させて貰っていました。今回は歌物語の方で聞かせて貰っています。歌だけではなく歌の背景やエピソードなど心憎い配慮に感動しています。今日は「長崎の鐘」を聞かせて貰いました。永井博士の略歴などもあらためて読まして貰いました。俳句をやっています。拙句 哀しきは昭和の時代長崎の鐘 これからも演奏歌を増やしていって貰いたいと思います。MIDの方では「アザミの歌」が大好きでした。新潟県柏崎市の在の鵜川村でラジオで聞いた当時の情景が蘇ってくるのです。因みに私は昭和13年生まれです。

投稿: 菅原 主 | 2007年6月23日 (土) 12時41分

「長崎の鐘」だけでこれほどのコメントをかける人がいらっしゃるとは驚きです。小学生のとき学校から(当時はなぜか2円99銭で授業中に全員映画を見につれて行ってくれました)映画を見に行って涙が止まらなかったのを思い出します。たしか、若原雅夫と津島恵子だったと思います。

投稿: 周坊 | 2008年1月 6日 (日) 17時41分

二木先生の「蛇足」にはいつも啓発され、感銘をうけます。
ヒット曲「長崎の鐘」、永井博士のこと、そして「新しき朝の光の・・」のことも、なるほどそうだったのかと、いちいち戦後の思い出と結びついて心に残ります。私もあの映画は田舎の映画館で見ました。私の記憶では若原雅夫と月丘夢路だったようにも思います。
私自身学童疎開で広島から離れていたため、被爆は免れましたが、1学年上級の友達の多くが亡くなりました。いつまで経っても悲しい思い出です。

投稿: 林 一成 | 2008年1月 6日 (日) 19時43分

二木さんの克明な解説に敬意を表します。
この歌は作詞も作曲も素晴らしいのですが、藤山一郎の澄みわたった晴朗な歌声がとても印象に残っています。たしかに「なぐさめ はげまし 長崎の~」のところでは、未来への明るい希望をなんとか持とうという願いが伝わってくるようです。
私が小学校の低学年のころ、母が永井博士の「この子を残して」を愛読していたのを思い出しました。母から本の内容を聞かされながら、原爆の恐ろしさをおぼろげに想像していたように思います。
小学校の1~2年のころですから、本格的な本を見たのは「この子を残して」が初めてでした。永井博士と二人のお子さん(男の子と女の子でしたね)の写真が今でも脳裏に浮かんできます。
この歌を聴くとき、あの長崎の平和祈念像も眼前に浮かんできて、平和の尊さをつくづくと思い知らされるようです。


投稿: 矢嶋武弘 | 2008年3月30日 (日) 15時13分

先日、永井博士の遺児、といっても60何歳かでした。茅乃さん(だったと思います、博士が思いを残して亡くなられた幼子)が亡くなられたニュースを読みました。二木さんの博士詳細を読むと「このように生きた医師がいたのだ!」と粛然たる気持ちにさせられます。この歌を聴きながら、永井博士や茅乃さんに思いを馳せ、ますます遠くなる昭和の時代を考えています。

投稿: 菅原 主 | 2008年5月 1日 (木) 11時14分

私は外地で生まれ育ちましたが、戦後の昭和21年に父の故郷である長崎県島原市に引き上げてきました。
原爆が投下されたときは、真昼なのに普賢岳の空が真っ赤になったと聞かされました。首のところにケロイドの跡が残った先生も転勤で来られました。
高校を卒業(1958年)して5年間長崎市で暮らしましたが、もう浦上天主堂の残骸は残っていなかったと記憶します。
「長崎の鐘」の格調高いメロディーは、7万人にも及ぶ原爆の犠牲者と厳しいキリスト教弾圧の犠牲者への鎮魂歌であるとともに、それら犠牲の象徴ともいえる浦上天主堂を擁する長崎からの世界平和へのメッセージでもあると思います。

投稿: 周坊 | 2008年5月 1日 (木) 14時31分

この歌のように詞も曲も歌手も素晴らしいのは、あまり無い
病床にありながら藤山一郎に送った「新しき・・・・・・」
これぞ名文。後をついで歌う人はだれでしょう。絶やしては
いけない名曲だから。

投稿: M.U | 2008年5月29日 (木) 08時59分

神(カトリックを含め)は平等ではないのですか。研究中に
被爆し、原爆で奥さまを失い、それでも世のため、人のため
に走り回った。立派と言う他ない。

投稿: M.U | 2008年8月 5日 (火) 14時09分

今日、原爆投下から63年を迎えました。私は「長崎の鐘」を聞きながら黙祷を捧げました。永井博士の生誕100年にも当たるそうです。永井博士の孫の徳三郎さんも慰霊祭に出ていました。私は永井博士(多くは二木氏の略歴に負う)の「核兵器は滅びだけしか残さない」や大岡昇平の「8月6日、8月9日、8月15日は正気で過ごさなければならない」を胸に刻み、核兵器を憎む側に身を置く一人でいつづたいと思います。

投稿: 菅原 主 | 2008年8月 9日 (土) 11時13分

今日08.08.09「8月9日・・・ナガサキ忌・・・長崎の鐘」という題名のブログを起こしました。
「蛇足」という素晴らしい文章を参考にさせていただきリンクに使わせていただきました。
   ありがとうございました。

投稿: ヒキノムラビト | 2008年8月 9日 (土) 17時37分

長崎の鐘それはもう63年前の出来事になりましたが、歌は永遠です。美しいメロディーとともに人々の心に受け継いでゆかれる事を願っています。ここにも数多のメッセージが書き込まれています。さすがに偉大な永井博士です。博士の在りし日を偲びその偉業を讃えたい。

投稿: 波路 | 2008年8月27日 (水) 14時31分

 神は長崎の浦上天主堂の上空に原爆を炸裂させ、この世の地獄絵図を人類に示しました。神は、しかし同時に、その悲惨な世界にも決して美しい花が絶えることがないようにと、永井博士という比類の無い花の種を用意していました。その見事な開花・結実の一つがこの『長崎の鐘』だと思います。そして、この歌を作曲したのが『暁に祈る』や『露営の歌』の作者であったというのも、何かの暗合かもしれません。
 昭和24年4月4日藤山一郎氏がこの歌をレコーディングした当日は、彼が戦地の慰問で感染したマラリアが再発、40度の高熱で息も絶え絶えの状態であったが、無事一発で収録できたとのこと。まさに鬼気迫る演奏であったと仄聞します。きっと「何か」が彼を支えていたのでしょうね。
二木先生の仰るように、「なぐさめ、はげまし・・・」の転調が深く心に残ります。

投稿: くまさん | 2008年9月23日 (火) 21時08分

「長崎の女」に書きましたが、この「長崎の鐘」も我が故郷の心の歌です。
如己堂は我が家とは原爆落下中心地をはさんで反対側にあります。
キリシタン弾圧の地浦上に生きる者として、同じキリスト教徒として永井隆博士の生涯を思います。
隠れキリシタンたちが待ち望んだパパ様からの使いのみならず、ローマ法王自身が浦上を訪れ、
昨年は浦上で日本で初めての福者列福式が執り行われました。
長崎の教会と史跡群は世界遺産の候補として挙げられようとしています。
キリシタン弾圧と原爆、美しい街長崎はまた世にも希な歴史を持つ街です。

投稿: MATSUKUMA | 2009年1月28日 (水) 17時07分

この曲を聴きながらニ木先生の書かれた「蛇足」を読ませて戴く度に、涙があふれて参ります。私もカトリック教徒ですが、永井先生の足元にも遠く及ばない自分を本当に恥ずかしく思います。昨年新聞で茅野さんというお名前を見つけもしや?と思い読みました。やっぱりあの茅野さんで、しかもお父様の所に旅立たれたという訃報でした。ショックでしたが、ご冥福をお祈りしました。

投稿: 吉村洋子 | 2009年2月27日 (金) 23時36分

この曲が名曲である事は疑う余地がありませんが、西条
八十、古関祐而コンビによる「ひめゆりの塔」も名曲だと思います。3番をスローテンポで歌わせる所に情景
が重なるのです。

投稿: 海道 | 2009年5月15日 (金) 19時26分

歌は沢山ありますが、「長崎の鐘」と「とんがり帽子」には胸が熱くなり涙腺が緩みます。
特に「長崎の鐘」の2番「♪・・・・モナリザの/鎖に白き/我が涙・・・・」のところです。
なお、10年ほど前長崎旅行から帰り、永井先生に興味を持ち、早速著書「長崎の鐘」を読んでまた涙腺が緩みました。
その箇所を引用しますと、二人の子供と掘立小屋で生活していた時の描写『ちちちと虫が鳴く、抱き寝の茅乃(6歳)がしきりに乳をさぐる。さぐりさぐり父と気づいたか、泣きながらやがてまた寝息にかわる。(中略)夜は長く眠りは短い。うとうとと浅きまどろみの夢もいつか白みゆく雨戸の隙間。「カーン・カーン」鐘が鳴る。』
歌「長崎の鐘」は不朽の名作です。
今後も二木先生の「うた物語」に私は癒され続けます。
ご健勝を祈ります。

投稿: 木田進司 | 2009年7月27日 (月) 14時06分

昨日は64回目の長崎原爆忌でした。この歌は、作詞家、作曲家、歌手の三者が、渾身の力を振り絞って作り上げた名曲だろうと思います。聞く側も粛然として、襟を正して耳をかたむけざるを得ない雰囲気になります。
 それにしても運命は苛酷ですね。偶々、原爆投下の第1候補地だった小倉市上空が曇っていたばかりに、次の候補地長崎市に投下されたのですから。永井隆博士のことばを借りれば、これは「神の摂理」(『長崎の鐘』より)ということになるのでしょうか。実は被爆50周年を契機に、この「神の摂理」に対する批判が見られるようになり、それに対する反論もあって、永井擁護派対批判派の論調は未だに対立した状況にあります。
 「神の摂理」をめぐる論議を詳しく述べることは、このサイトの趣旨にそぐわないので、この辺で打ち切りますが、永井批判派の論調の当否は別にして、未だにクリスチャンに対する偏見・差別があること(=浦上天主堂が原爆により破壊されたのは神罰である)、また、多くの永井博士の著書(=贖罪論が基底にあるからアメリカ批判をせず、厳しい占領軍による出版検閲をほとんどパスした)が占領政策に利用されたのではないか、という2点は考えさせられますね。よく「怒り」の広島に対して、「祈り」の長崎と言われますが、この表現にも永井博士の著書がかなり影響しているようにも感じられます。理屈っぽいコメントになりましが、お許しください。

投稿: ひろし | 2009年8月10日 (月) 12時23分

藤山一郎さんの歌う”長崎の鐘”は生意気な旧姓中学生の頃、よく歌ったものです。
ところで終戦時、長崎経済専門学校(現長崎大学・経済学部)の学生だった兄は、学徒動員で三菱造船で働いていました。原爆投下の時は防空壕の穴掘り中で、直接爆風を受けることはありませんでした。そこで元気な学生は市内の生存者救出に向かい、9日から14日まで働きました。腹に木の棒が刺さったこどもが「お兄ちゃん、水を飲ませて」と言うので、水筒の水を飲ませてやったそうです。学校の方から、地方から来ている者は帰郷してよいとの許可が出たので、14日長崎駅発の夜行列車(超満員)に乗車しました。次の浦上駅に着いたら、死臭が充満し、満天下に火の玉が青白いオーロラーを放っていたそうです。郷里の島根県大田市には、15日の夕方帰ってきました。家族は多分アウトだろうと思っていたので、無事な姿に狂喜しました。しかしその後原爆症が出始め、これはダメかなと本人も家族も諦めかけていました。その時、兄が新聞で、山口市に断食道場があるのを見つけ、ダメもとでやってみると言い出し、出かけました。これが効を奏し、徐々に体力が回復し始めました。結局、2年休学して復学しました。それから島根県出身者の3人で、同郷の大先輩の永井博士宅へお邪魔したら、大変喜ばれたと言っていました。2時間ほど日本の将来等・雑談をしたそうです。
兄は現在満82歳ですが、要支援1で頑張っています。

投稿: 三瓶 | 2009年8月10日 (月) 20時46分

   「長崎の鐘」祈りとし終戦日  (拙句)

 本日8月15日は64回目の終戦記念日です。8月6日の広島そして8月9日の長崎への原爆投下。かくも悲惨な状況に追い込まれての終戦でした。それ以外にも首都東京をはじめとする、全国主要都市への米軍機による無差別爆撃。沖縄における悲惨極まりない地上戦。中国大陸、インパール、レイテ、グアム、硫黄島など、広く大東亜共栄圏(?)に大地獄絵図を現出させた果てに。
 8月15日は奇しくも「聖母マリア被昇天の日」でもあります。長崎では、爆心地にほど近き浦上天主堂の聖母像は木っ端微塵に吹き飛ばされたことでしょう。同天主堂のアンジェラスの鐘(長崎の鐘)も、70mも離れた瓦礫の中に埋まりました。同地に縁の深かった「聖母の騎士」コルベ神父は、「友のために命を捨てること、これに勝る愛はない」というイエスの言葉を文字通り実践し、既にアウシュビッツ収容所で殉教していました。そして同地への原爆は一瞬にして7万4千人もの尊い命を奪い去り、永井博士も被爆し…。とにかく日本全体にとって終戦のこの日は、これ以上ないどん底の日だったはずです。
 なのに何で「昇天(アセンション)」なのでしょうか。私はこれは、単なる偶然ではないと考えます。そこに「陰極まれば陽となる」―最低の下降(ディセンション)を経て、最高の上昇(アセンション)に到れよ、という天の意志をうかがうことが出来るように思われるのです。
 戦後64年経った今日、私たちは「最高の上昇」に到り得ているでしょうか?

投稿: Lemuria | 2009年8月15日 (土) 00時44分

昨年3月30日、ここにコメントさせてもらいましたが、小生のブログで『長崎の鐘』を取り上げましたので、二木様の上記の解説を参考にさせてもらいました。
実に見事な解説だと思いますので、感謝しつつご報告いたします。以上、ご了承ください。矢嶋武弘拝
http://blogs.yahoo.co.jp/yajimatakehiro2007/34398936.html

投稿: 矢嶋武弘 | 2009年10月12日 (月) 18時09分

長崎の鐘、藤山一郎さんが歌われてこの曲好きでよく口ずさんでます。
此処のホームページに来てこの曲の由来、如己堂に居られた永井博士、とお子様そして博士が執筆された本も何冊か読み特に小学生が書かれ手記をまとめられた本を読むと胸が熱くなりました。其処にはお嬢様のもありました。その印税で近くにある山里小学校の当時は正門が見下ろせる位置だったと記憶してますけど「あの子」の碑が建てられたとのこと。小学校に通ってた当時は何気なく歌ってた「あの子」の歌にも博士はどんな思いをはせられたことでしょうね。先日卒業してやがて半世紀になる小学校を訪ねて綺麗に整備された「あの子」の碑と対面。当時の校舎はグランドとなり資料館にその面影だけが残ってました。
これからも長崎の鐘も重い新たに口ずさんで以降と思います

投稿: たなか | 2009年11月 5日 (木) 23時05分

 「勝って来るぞと勇ましく」や「若い血潮の予科練の」を作曲した古関がこの平和の歌を作曲したのは釈然としない,軍歌を作っていることで召集解除にしてもらった,と佐高信が書いています(サンデー毎日6.13号)。

投稿: みなかみ | 2010年6月 7日 (月) 13時59分

作曲の古関裕而は福島商業出で、正式な音楽教育は受けていないようですが、幼少の頃から才能はあったようですね。
戦時中は軍歌もいろいろ作曲していますが、先日従軍画家の放映があったように、これは致し方のないことでしょう。
クラシックからポピュラーソングまで幅広く作曲しているようですが、人気度からすればトップクラスでしょうね。
早慶の応援歌をはじめ学生歌も多数作曲していますが、やはりそれだけの才能があったのでしょう。

投稿: 三瓶 | 2010年6月 8日 (火) 10時52分

氏の作品はクラシックと融合しており、戦意高揚が目的
ではなく、むしろ哀愁をおびたせつない旋律のものも多かったと言う方がいるようです。それが傷ついた大衆
に支持されたとも。また自らの作品で戦地に送られ散花
した人への自責の念を持ち続けていたと言われているようです。
新しい世の中になっての名曲は
「栄冠は君に輝く」「オリンピック・マーチ」
「六甲おろし」などですね。

投稿: 海道 | 2010年6月 8日 (火) 14時12分

私の高校の恩師は戦前苦学して師範学校を卒業後、国策で給与が幾割りか高かったため朝鮮に教職を得ました。
旧商業学校で教鞭を執りましたが、思いもかけず戦争が始まり学生に戦意高揚を説いたそうです。
自らは教職という理由で召集されず、終戦後苦労したとは云えなんとか引き上げてきました。  恩師は、侵略した国に自分の意思で出て行ったことと学生に勤労動員や兵学校への転校を説いたことを悔やんでいましたが、一番悔しいのは自分のやっていることに全く疑いを持たなかったことだと云っていました。
恩師は後年、地域の教育行政に貢献したということで何度か褒章の推薦を受けましたが、それらを総て固辞しました。
戦争というのは、人の正しい判断を狂わせます。戦争遂行に協力的であったというだけで、その人の全人格を否定するのは気の毒に思います。

投稿: 周坊 | 2010年6月 8日 (火) 17時54分

40年近く前私は旧帝大の大学院生だった。結果を出そうと朝も昼も夜も乏しい才能で頑張った。寝ている時も考えた。自分でいつ寝ているのか起きているのか分からず、昼夜逆転など日常茶飯事だった。今冷静に振り返ると、そもそも才能など高級なものを私は持ち合わせていなかったのだろう。それでも論文の完成に必死だった。いくつかの論文が完成した時、教授はこう言った。「6月から君を助手にしようと思う」。私はただ嬉しかった。60余年の人生でそれ以外の嬉しかったことを全部合わせてもこの嬉しさの万分の一にもならないだろう。その証拠に1カ月で10キロも太ったくらいだ。ところで私のささやかな成果が戦争の役に立つのか、平和の役に立つのか当時も今も考えたことはない。学問というものは他の諸々のものとは独立したものと考えているからだ。またそのような悠長なことを考えているようでは世界にに先んじて成果を上げられることなどできないであろう。
「高原の宿」の作曲者林伊佐緒がYou tubeで「『出征兵士を送る歌』が当時陸軍省の公募で一等賞になり1500円、今の金で1500万円ほど貰った」とうれしそうに語っている。当時陸軍省は多分権威があり、たくさんの人の中から選ばれれば音楽家として嬉しかったのは当然であろう。またこの歌が戦争・平和と無関係に音楽作品として評価されるべきではなかろうか?こう考えれば、「長崎の鐘」の藤山一郎が戦中も戦後もたくさん軍歌を歌っているのも頷けるのではないでしょうか。
その後の私は無為徒食の日々である。罪滅ぼしに名誉教授と(多分あるであろう)叙勲は固辞するつもりでいる。

投稿: なとりがおか | 2010年6月14日 (月) 00時19分

今年も又65回目の原爆忌が廻って来ました。
長崎・広島の被爆地においては、それぞれに慰霊の行事が行われることでありましょうが、日本人であるならば此の8月6日に続く9日と言う日・加えて3月1日は絶対に忘れてはならない日でありましょう。 私は8月6日と9日其れに7月17日と昭和29年3月1日だけは、従来もそうであった様に今後も絶対に忘れ去ることは出来ない。昭和20年7月17日には海軍航空隊・特別攻撃隊員として兄を失ったものである。昭和29年3月1日は【第5福竜丸事件の日】である。人類にとっての最悪の日とも言うべきでありましょう。 此の歌を聴く度に兄と広島・長崎・第5福竜丸事件が思い返されることから、流れ出る涙を禁じ得ないことである。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 4日 (水) 13時42分

幾度聞いても涙が溢れ出ます。長崎医科大学の永井隆医師の映画を観ましたのは私の中学生の頃だった様に記憶して居ますが、原爆が炸裂した瞬間の悲惨な情景は今以て忘れようにも忘れることが出来ません。其の焼跡の中で懸命に奥様の形見の十字架を見出された永井博士の心境は如何程のものであったか。 必死で溢れ出る涙を堪え様としましたが、遂には声を上げて泣いたことを昨日の様に思い出します。 皆様が記述されて居られます様に、現在の政界におきましては、平和憲法の基幹とも言うべき『日本国憲法第9条』の改悪を意図して居るようですが、此の『長崎の鐘』の歌を聞かせ、映画を見させたら政界の意識も変わってくるのではないかと思います。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 5日 (木) 01時47分

1947年(昭和22年)12月、北九州の旧小倉市に生まれました。父は小倉の陸軍造兵工廠で働いていました。
1945年(昭和20年)8月9日、雲がなく小倉に原爆が落とされていたら、私は多分生まれていなかったと思います。
高校時代の2年間を広島市で過ごしたのち、茨城県に就職して、当地で今定年農業をやっています。身近でJCOの事故にも遭遇しました。
昨年6月、当地出身の妻とともに懸案の長崎の平和公園を生きているうちに訪れることができました。そこで、小倉の代わりに犠牲になった当時長崎に住んでいた人々のご冥福を祈らせていただきました。妻がどういう印象を持ったかは聞いていませんが。
未だに米国政府は神(天)に対して謝罪していません。「原爆により戦争を早く終えることができた、間違っていない」という理屈のようです。

投稿: 竹永尚義 | 2010年11月 7日 (日) 18時56分

 未曾有の「東北関東大震災」の被害状況がテレビ・新聞・ラジオ・ネット等で刻々と明らかになっています。

 言葉がありません。

 なぜか「長崎の鐘」を無言で歌っています。

投稿: かんこどり | 2011年3月15日 (火) 10時57分

宇都宮に住む友人が昨日、食べ物が空っぽなので送ってと言ってきました。今朝改めて、放射能が怖いので、岡山の親戚へ避難すると言ってきました。人智というものは限りある事がわかりますね。茨城の竹永様、ご無事でしたでしょうか。被災地の皆様がご無事であります様に。

投稿: ハコベの花 | 2011年3月15日 (火) 12時08分

東北関東大地震にあわれた皆様!心からお見舞い申し上げます。「長崎の鐘」のように「慰め、励まし合って、頑張ってください」頑張れという台詞の無力さは解っています。でも長崎のように、広島のように、敗戦の日本のように、必ず雄々しく立ち上がることを信じております。私も心に喪章をかかげて、及ばずながら皆さんに寄り添う日常を送ります。

投稿: 菅原主 | 2011年3月19日 (土) 10時54分

本日20日、やっとこのサイトを開く気持ちになりました。
11日から電気、ガス、水道、電話、メールありとあらゆる文明利器が止まっていました。今も、水が出ず山に汲みに行っています。今朝は谷川で洗濯をして来ました。
でも、岩手、宮城、福島の方々はもっと大変です。生死も判らない方が大勢おられるのですから。
今まだ、北方100kmの原発大事故の様子を、避難の備えをしながらびくびくして暮らしています。逃げるにもJRは止まり、高速道も不通で、ガソリンもままなりません。ローソク、ラジオ、七輪、豆炭あんかが活躍してくれました。自分で作って工夫し蓄えていたさつまいも、じゃがいもも役に立ってくれています。幼いころの経験と重なります。では、皆様お元気で。

投稿: 竹永尚義 | 2011年3月20日 (日) 13時43分

私は被災地に知り合いがおりません。このサイトで竹永様が茨城と知ったので、ずっと心配しておりました。ご無事で何よりでした。とても嬉しいお便りでした。戦後の焼け跡の記憶が甦ります。いつか見違えるような復興を遂げると信じております。お元気で、応援しております。

投稿: ハコベの花 | 2011年3月20日 (日) 15時55分

医者だった父が、母の実家の長崎を訪れた時、夜でしたが原爆記念公園に行き、また、隠れキリシタンの歴史を思い、しきりとかわいそうだと言っていた事を思い出しました。私はまだ幼かったので、父の気持ちをわかることができませんでしたが、戦争を体験した父の話で私もまたこの時代に生きた人々を身近に感じます。藤山一郎さんの長崎の鐘を覚えたのも子供の頃でした。敬老会で「青い山脈」を歌う事になったのをきっかけに、ふいにこの歌を思い出し、このサイトにたどり着きました。日を見れば、今日はまさに8月9日、偶然とは思えず記載させていただきました。永井博士の生涯に改めて感動し、涙しました。二木様、ありがとうございました。大切に歌っていきたい曲だと思いました。

投稿: 原晶子 | 2012年8月 9日 (木) 00時28分

昭和39年生まれの前田覚と申します。私は奄美大島出身で母子家庭で育ちました。隣の家の赤の他人のおばさんがわが子のように育ててくれました。
その方が突然「水頭症」にかかり母に重い口を開き実は若い頃長崎にいたこと被爆したことを打ち明けたそうです。
あれからもう20年この歌をどうしても伝えねばという衝動に駆られてここに辿り着きました。
また寄らせて頂きます。

投稿: 前田覚 | 2012年8月 9日 (木) 04時42分

私は今85歳ですが、50年ほど昔にある企業のコーラス部に在籍し藤山一郎先生のご指導を受けていましたが、そのころに教えていただいた歌のひとつで、今でも涙の出る歌です。今では茅ヶ崎で山田耕筰とあかとんぼの会で、月に一回唱歌・童謡・抒情歌などを内山喜代子先生の指導で約2時間歌っていますが、家に居るときは二木紘三先生のこの収録を使って歌の練習をしております。歌うことのおかげで若さを保っていると同時に、山田耕筰先生がこの茅ヶ崎で私が生まれたころ、200曲もの童謡などを作曲されていたことを知りました。ちなみに茅ヶ崎の夕暮れのチャイムは_あかとんぼ_です。

投稿: 稲垣 嘉正 | 2013年4月 4日 (木) 15時16分

今日長崎は68回目の原爆の日を迎えました。
田上市長は「長崎平和宣言」で、NPT再検討会議準備委員会において、核兵器の非人道性を訴える共同声明に賛同しなかった日本政府の対応を批判されていました。

‘10.11.03ホテルニューオータニで歌手の下垣真希さんの、永井隆博士の家に下宿して被爆し亡くなった17歳の叔父や永井博士や奥さん等についてのテーマ「わが心の歌 長崎の鐘」の語りと歌に、熱くなった感動を今もありありと覚えております。
先ほどまでCD『命の賛歌』を聴き命の尊さをあらためてかみ締めウルルンとなりました。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年8月 9日 (金) 23時17分

 この歌は勤めてはじめての修学旅行のときにバスガイドさんが教えてもらいました。自分は小中学校のときには知らなくて、つまり教科書に載っていなかったために知りませんでした。子ども達と一緒にバスで覚えたのです。子ども達もすぐ覚えていたようです。
 ガイドさんが「永井博士」のことを知っていて当然のようにお話されていたのを恥ずかしい気持ちで聞いていました。それまで全く知りませんでした。
 バスの中でこの歌を大合唱したのを思い出します。
 定年後10年を過ぎて、いい歌に再会しました。

投稿: 今でも青春 | 2015年6月18日 (木) 20時31分

二木先生のコメントをじっくり拝読しました。
「・・・永井が闘病生活に入ってから、隣人や教会の仲間たちが力を合わせて、爆心地に近い上野町にトタン小屋を造ってくれました。わずか2畳1間の家で、裏の壁は石垣をそのまま使っていました。「石垣は紙片などを押し込むには便利だったが、雨の日は大騒ぎだった。教室の者たちは、来るたびに家といわずに箱といった」と彼は随筆に書いています。・・・」兄が小学校の長崎への修学旅行で永井博士の病床を見舞ったときの様子を家の者たちに神妙な顔つきで話してくれたことを思い起こしながら聴かせてもらいました。何ともこみ上げるものがありました。

投稿: 亜浪沙 | 2015年7月30日 (木) 14時44分

 長崎は室町時代以来の交易の地で旧教(カトリック)が早くから伝わり、異国情緒豊かな町ですが、原爆投下の地であったことも決して忘れることのできないこの町の歴史です。
 私は高校の修学旅行で初めて長崎を訪れ、この地に敬虔なカトリック教徒が多いのが印象に残りました。またこの時偶然あるカトリックの女子高の生徒と知り合い、何となく運命的なものを感じたのですが、振り返れば運命の女性ではありませんでした。
 次は長崎大学医学部出身者から実際に聞いた話です。長崎に原爆が投下された朝、大学で研究に専念していた学者の多くが被爆しました。ところが郊外の料亭に遊びに行っていた者は無事で、後に生き残って大学の要職に就いたのは後者だったそうです。これも全くの偶然ですが、それが後の長崎大学にどう影響したかは知りません。
 偶然の事象を必然だと思い込むのが運命という考え方なのでしょうが、かといって人生全て偶然の繰り返しと考えると味気ない気がします。

投稿: Yoshi | 2015年11月27日 (金) 21時30分

二木先生の蛇足を拝読、涙が止まりません。
哀切極まりないエピソードの紹介に心が震えました。
格調高い調べと、歌詞、藤山一郎の品格溢れる歌唱力と共に
幼いころよ惹かれていました。
かくも哀切な経緯による歌と今更に知ったことを恥ずかしく思います。
永井博士は聖者ですね。
道徳の教本にしたいお話です。
蛇足~無頼に生きたサトウハチロウの根底に溢れる清らかな泉を
見る思いが致しました。

投稿: りんご | 2015年11月28日 (土) 08時40分

今日は午前中に所用を済ませ、午後3時頃から聞きたい曲を開き「蛇足」と皆様のコメントに目を通しながら二木先生の名演奏に酔いしれています。
私は6才の誕生日を迎える1ヵ月前に父親と祖母を広島の原爆で亡くしていますし、クリスチャン(プロテスタントですが)ということもあり、この「長崎の鐘」には特別な思い入れがあり高校時代にも(その頃はノンクリスチャンでしたが)音楽部の仲間3~4人と合唱コンクールの練習の合間に歌ったものです。

それにしても今日はたくさん泣きました。
勿論、長崎の鐘(永井 隆 アルバ文庫)は、初版発行されて間もなく購読しましたが、その時涙しながら読んだ時よりも、むしろ今回の二木先生の名「蛇足」に思わず嗚咽を抑えることができませんでした。去年4月に孤独死した姉の遺品整理中に見つけた、生まれた初めて見た親父から疎開先の母親に宛てた茶色に色あせた最後の手紙を広げながら、また一泣き…。

そのあと、感慨に耽りながら「雨」(北原白秋・弘田龍太郎)を開き、貧しかったあの時、母親のことを想いながらコメントに目を通しているうち…2016年3月26日の吟二さんの記事に接した時には、もうどうしょうもないくらい…能勢の赤ひげ様にも負けないくらいの涙と洟ずるで、タオルがぐしゃぐしゃになりました。

今夜はすっきりした気分で眠れそうです。

投稿: あこがれ | 2017年2月 2日 (木) 00時35分

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