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めんこい仔馬

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄
唄:二葉あき子/高橋祐子

1 ぬれた仔馬のたてがみを
  なでりゃ両手に朝のつゆ
  呼べば答えてめんこいぞ オーラ
  かけていこうかよ 丘の道
  ハイド ハイドウ 丘の道

2 わらの上から育ててよ
  今じゃ毛なみも光ってる
  おなかこわすな 風邪ひくな オーラ
  元気に高くないてみろ
  ハイド ハイドウ ないてみろ

3 西のお空は夕焼けだ
  仔馬かえろう おうちには
  おまえの母さん まっている オーラ
  歌ってやろかよ 山の歌
  ハイド ハイドウ 山の歌

4 月が出た出た まんまるだ
  仔馬のおへやも明るいぞ
  よい夢ごらんよ ねんねしな オーラ
  あしたは朝からまたあそぼ
  ハイド ハイドウ またあそぼ

《蛇足》 昭和16年(1941)3月公開の東宝映画『馬』の主題歌。レコードはコロムビアから発売されました。

 映画はひとことでいうと、軍馬を育てる物語で、冒頭には当時の陸軍大臣・東条英機の推薦文がついていました。
 というと、戦意高揚の国策映画のように見えますが、そうした雰囲気は希薄です。東北地方の美しい四季の移り変わりのなかで繰り広げられる少女
(高峰秀子)と馬との交流を軸に、馬が軍馬として育っていくまでをドキュメンタリータッチで描いた作品です。

 監督は山本嘉次郎でしたが、彼はかけ持ちで他の作品も撮っていて多忙だったため、チーフ助監督の黒澤明が東北ロケの相当部分を担当しました。
 その際、主演の高峰秀子と恋仲になりましたが、諸般の事情で仲を引き裂かれ、結ばれずに終わったという話が伝わっています。

 陸軍大臣の推薦文をつけたり、軍馬をテーマとしたりしたのは、そういうお膳立てにしないと、映画の制作が許されなかったからです。当時は日中戦争まっただ中で、対米開戦も不可避と目されていた時代でした。
 主題歌の『めんこい仔馬』も、時代に合わせて戦争に触れた歌詞が入っていました。その原詞は次のようなものでした。

1番・2番 上と同じ

3番 紅い着物(べべ)より大好きな 仔馬にお話してやろか
    遠い戦地でお仲間が オーラ
    手柄を立てたお話を ハイドハイドウ お話を

4番 上の3番と同じ

5番 明日は市場か お別れか 泣いちゃいけない 泣かないぞ
    軍馬になって行く日には オーラ
    みんなで万歳してやるぞ ハイドハイドウ してやるぞ

 敗戦後、戦争に触れた3番と5番が削除され、4番の歌詞が新しく作られて、映画とは関係のない童謡として再スタートしました。

 「めんこい」は東北地方の方言で、「めんごい」「めごい」ともいい、「かわいい」という意味です。

 ハイドウは、馬や牛を止まらせるためのかけ声で、ドウドウまたはドウともいいました。反対に進ませるときにはハイシィーとかシィーとかけ声をかけました。私が子どものときにはよく耳にしたオノマトペですが、今は田舎でも知っている子どもはほとんどいないでしょう。
 ただし、これらのかけ声は、地方によってかなり違います。

(二木紘三)

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コメント

5月27日富山において、ひとりのソプラノ歌手が実にのびやかに、ピアノ伴奏でマイクを通さないで歌ってくれました。

投稿: trefoglinefan | 2007年6月19日 (火) 01時21分

私が国民学校4年ぐらいのときだと思います、家の近くに小さな山が有り海軍の要塞がありました。それはB29爆撃機がマリアナから伊豆諸島伝いに来て富士山で右折して東京に行く道だったから。それは軍艦からはずしてきたようで大きかった、その海軍兵の慰問に高嶺秀子が慰問に来たのです。その数たった3人ぐらいだった。私は兵舎から学校への道で途中から小さな楽器を持たせてもらったのです、それはなんていう楽器かは、わからなかったが、うれしかった。その日の夜、講堂で高嶺秀子が歌ったのがこのめんこい子馬でした、70歳にしてパソコンを習い始めて今年先生の歌物語で見つけたときはたいへんうれしくて、今でも気分のいい日には小声で歌っております。ありがとうございました。(平塚市) 

投稿: 吉田公平 | 2007年12月24日 (月) 18時01分

今年、私は偶然テレビで映画「馬」を初めて見ました。白黒の薄暗い画面でしたが、戦時中の雰囲気がよく出ていて、可愛がっていた少女と馬の別れが悲しかったです。この歌がその挿入歌だったなんて、そのとき気がつきませんでした。

しかも、あの二葉あき子(と、高橋祐子)が歌ったなんて、ちっとも知りませんでした。子供の合唱などでしか聞いた事がなかったものですから。教えていただきありがとうございました。

投稿: 吟二 | 2008年10月20日 (月) 14時05分

 映画「馬」は、二木先生のお感じになったとおり戦意高揚の映画ではなかったのかもしれません。
 高峰秀子は、彼女のエッセイ「にんげんのおへそ」の中の“馬よ”の最後にこう書いています。
 『おもえば、映画「馬」には、ひっそりと静かな戦争反対という下敷きがかくされていた、と、いま気づくのは私だけだろうか?』と。

投稿: 周坊 | 2008年10月20日 (月) 21時33分

 この歌はもちろん小さい頃から知っていました。しかし、さほど気になる歌でもありませんでした。
 でもこの度、二木先生の解説また皆様のコメントを読ませていただき、そして何より名演奏を聴かせていただき、大好きな歌になりました。(これはお世辞でもなんでもありません。心からそう思うのです)。日米開戦直前という、風雲急を告げつつある頃の歌だそうです。その分余計、知られざる秘話があったのでしょうね。
 聴くほどに流麗なテンポとメロディで、元気がもらえます。しかし『元々の歌の仔馬は、その後どうなったんだろう?』などと要らざることを考えてしまうと、面白うてやがて悲しき…。つぶらな瞳(め)で、仔馬ってホントに「めんごい」から。
 

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月25日 (土) 20時21分

私の叔父は、重慶で2キロほどの先に蒋介石が率いる中国軍と闘っていました。8月16日、斥候がやってきて「日本は負けたから退却だ」と言ってきたそうです。叔父は、砲兵部隊だったそうですから、沢山の馬と一緒だったということです。
叔父は、馬の鬣を撫でながら「日本は負けた、だから君ともお別れだ、君たちは自由にどこかに行きなさい」と泣きながら言ったそうです。その時、馬はハラハラと涙を流して退却する叔父たちをいつまでも見送ったそうです。
私も戦争中育ちました。昭和15年、5歳の時「戦争が始まる、日本は負け東京は火の海になるだろう、家族は全員助からないかもしれないから」と一人滋賀に疎開をしました。戦争は、人だけではなくあの賢い馬たちをも不幸にしたことを日本人は認識しなければならないのに。・・・・・・

投稿: 早崎日出太 | 2009年4月 3日 (金) 20時20分

幼い頃に北海道滝川市の東滝川(当時は幌倉といっていました)に一時期住んだことがあります。先日、札幌に用事があって、じつに久しぶりに車で立ち寄ってみました。いまは無人駅となってさびれたJR東滝川駅の駅前の草むらの中に「めんこい仔馬」の作曲者仁木他喜雄の歌碑が立っていました。10円を入れてボタンを押すと「めんこい仔馬」の歌が流れてきました。結構良い音質でした。

仁木他喜雄は私とはまったく世代が違いますが、この地に幼い頃に住んでいたことがあるそうです。それを記念して地元の人たちがお金を出し合って15年ほど前にこの碑をつくったそうです。

それにしても、50年以上もたつと、街はすっかり様子が変わって、道を行く人影もほとんどありませんでした。昔は人がゴチャゴチャと入り混じって住んでいた街のように記憶していますが・・・。当時通った小学校もとっくに別のところに移転し、それすらも近く廃校になるそうです。

投稿: 紫峰夫 | 2010年11月 6日 (土) 20時16分

 三嶋にウォーキングに行った日、同行した友人が「散歩のときに歌うと元気になって好きなの」と言って、この歌を歌いだした。私もつられて一緒に歩きながら歌った。不思議に疲れた足が軽くなり、心配ごとが吹き飛んだ。次の日、介護福祉士を目指す、社会人クラス(20代から60代の人たち)の学友に合唱の課外活動の際、唄おうと提案した。しかし、誰も知らないと言う。子どもの時、繰り返し聞いた覚えのある「めんこい子馬」を知らないなんてと、ショックだった。古臭い軍歌として、忘れられたくない歌だと思う。高峰秀子さんのエッセー「静かな戦争反対という下敷きがかくされていた」というメッセージに共感し、私は介護の現場でも、喜んで下さる人がいると信じて、この歌を唄っていきたいと思うのだ。

投稿: 富沢由子 | 2010年12月 3日 (金) 17時37分

紫峰夫さん
「ほろくら」は知っています。
羊肉のジンギスカン鍋の発祥の地。

盛岡でのロケのとき
黒澤明が高峰秀子の乗った馬が暴れて危険なとき
必死に馬を止めたということです。
この事件がきっかけで二人は恋仲となったが
高峰秀子の母親が「助監督ふぜいに娘はやれない」と言ったとか。
この言葉に怒った黒澤は世界の監督になっということです。

この歌をちびまる子のアニメでとりあげた縁で
北上市にある「サトウハチロー記念館」には
さくらももこの載っている新聞記事が紹介されてあります。
なかなか見ることのできない彼女の顔写真もありました。

投稿: みやもと | 2010年12月 6日 (月) 21時36分

みやもと様。ジンギスカン鍋の発祥の地が幌倉だったとは知りませんでした(諸説あるようですが・・・)。たしかに、当時、駅から2~3キロ離れた丘陵地には広大な「北海道立種羊場」があり、果てしなくひろがる草原に何万頭もの緬羊が飼育されていました。子供たちは「しゅようじょう」では舌がまわりませんので「しょうじょう」などと言っていましたが、懐かしい場所です。よく学校で写生や遠足に行ったものでした。
その緬羊は毛だけでなく肉も活用できないか、と誰かが考えたのがジンギスカン鍋だったのでしょうね。学生時代、寮のまかないの小母さんの秘伝のタレで食べたジンギスカン鍋の美味しさは一生忘れられません。いつも腹を空かせていた貧乏学生には何でもおいしかったはず・・・と言ってはミもフタもありませんが・・・。馬の歌のコメント欄ですっかり羊の話になり、すみませんでした。

投稿: 紫峰夫 | 2010年12月 6日 (月) 22時20分

昭和22年、小学校2年生の時、音楽の教科書がなかったので先生がめんこい仔馬をオルガンを弾いて教えてくれました。歌っていると中学生の教室からローレライの歌が聞こえてきました。何と素晴らしい歌だろうか、早く大きくなってあの歌を覚えたいと思いました。焼け跡に建ったバラックの中学の教室を間借りしていたのです。それも午前と午後に分かれた二部授業でした。オルガンがあったのが不思議でした。お弁当は麦ご飯とさつま芋の切ったものでした。今でも麦ご飯は大嫌いです。歌はローレライよりめんこい仔馬の方が大好きになりました。60数年戦争が無くて本当に良かったですね。長く平和が続きます様に。

投稿: ハコベの花 | 2012年11月21日 (水) 19時59分

「めんこい」を標準語に押し上げた曲だと思いますが、二葉あき子の唄だとは知りませんでした。どこで憶えたか記憶にありませんが、唄えてしまいます。それだけ流行ったのでしょうね。

投稿: 海道 | 2012年11月23日 (金) 15時29分

ある街の連隊の連隊長が、『ぜひ譲って欲しい!』と願ったほどに、父が乗っていた馬は「駿馬」だったそうです。その街にあった事務所と軍需工場のあった村との間を通うために、父は馬を使っていたのです。ある時、馬の世話をする方の、子供さんが病気になって、滋養のある食べ物を必要としていたのだそうです。その人は、なんと父の馬を潰して、肉にしてしまいました。父は知らずに、その人の届けた「馬肉」を食べてしまったそうです。せめてもの罪滅ぼしにと、そうした彼を、父は、我が子を思う彼の「父の愛」に免じて、不問に付したと、生まれる前の話を母に聞いたことがあります。
だからでしょうか、晩年の父が、ごろっと炬燵に横になりながら、この「めんこい仔馬」を歌っていたことがありました。きっと自分の愛馬を思い出し、戦時中にはやっていたこの歌を口ずさんだのでしょう。その父も六十一で亡くなり、父の逝った年齢を八つも超えてしまっている今の私は、時々アルバムに父の五十代の写真を見ることがります。父より老けた自分の顔と見比べて、やはり、似ているので苦笑してしまいます。その父の数少ない愛唱歌の一つでした。
今、父が青年の日にいた瀋陽(父は「奉天」と言っていました)から、はるかに遠い華南の街に、アルバイト教師をしています。この夏が来ますと、満八年になります。父を思い出しながら、私も、そっと口ずさんでおいます。このサイトで聞かせていただく歌には、多くの思い出があります。心か感謝して。

投稿: Jimmy | 2014年4月19日 (土) 17時59分

小学校の2年生の時でした。教室の先生の机に行き、先生がペンをインク瓶に入れたところで、私の手が誤って先生の持ったペンにあたり書類にインクがポタリと落ちてしまいました。先生は慌てる振りもなく、落ちたインクで仔馬の影絵を描き、そこにこの歌の歌詞を書いてくれました。昭和28年のことで、目のクリットした可愛い女の先生でした。
晩年は恵まれず、離婚して30歳という若さで亡くなりましたが、この歌を聴くたびに、この時代が懐かしく思い出されます。  合掌

投稿: タケオ | 2015年1月26日 (月) 20時21分

この歌の存在を、私は恥ずかしながら、今日まで知りませんでした。この歌の存在を知ったのは、あるマンガに、この歌が掲載されていたからです。本当は5番まであると描かれていました。35歳の私。戦争が終わって今年で71年。この歌の意味を、私は語り継いでいきたいと思います。

投稿: いとし | 2016年6月 1日 (水) 13時35分

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