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鐘の鳴る丘(とんがり帽子)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:川田正子

1 緑の丘の赤い屋根
  とんがり帽子の時計台
  鐘が鳴ります キンコンカン
  メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
  風がそよそよ丘の上
  黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
  おいらが一人でいる時に
  鐘が鳴ります キンコンカン
  鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)
  元気でいろよという声よ
  口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
  夜になったら星が出る
  鐘が鳴ります キンコンカン
  おいらはかえる屋根の下
  父さん母さんいないけど
  丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
  おやすみなさい 仲間たち
  鐘が鳴ります キンコンカン
  昨日にまさる今日よりも
  あしたはもっとしあわせに
  みんな仲よくおやすみなさい

《蛇足》 太平洋戦争末期、日本の主要都市の多くが米軍の空襲を受けましたが、とりわけ首都東京は被害が著しく、区部の大半が焼け野原となってしまいました。

 昭和20年(1945)8月15日、戦争が終わると、空襲で家も親も失った「戦災孤児」たちが街にあふれました。保護施設に収容されなかった孤児たちの多くは、地下道やガード下、防空壕跡などで寝泊まりし、昼間はくず拾いや靴磨き、残飯あさりをして暮らしていました。彼らは「浮浪児」と呼ばれました。

 浮浪児のなかには、かっぱらいや盗みを働く者もいましたが、だれが彼らを責められましょうか。昨今横行している青少年のかっぱらいや万引きと違って、彼らのそれは、ぎりぎり命をつなぐためのやむを得ない行動だったのです。
 責められるべきは、その気になれば避けられた戦争に突っ走り、国内外の民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動でしょう。

 施設に収容された孤児たちも、必ずしも平穏だったわけではありません。一般社会でも餓死者が続出していた時代でしたから、食べ物は十分ではなかったし、虐待やいじめもありました。社会全体が混乱していましたから、そういったことへの監視の目が行き渡らなかったのです。

 菊田一夫作のNHKラジオドラマ『鐘の鳴る丘』は、こうした社会情勢を背景として、昭和22年(1947)7月に始まりました。
 以後3年7か月、790回にわたって放送され、古関裕而作曲の主題歌『とんがり帽子』とともに大流行しました。昭和23年
(1948)には、松竹によって映画化され、全部で3本作られています。

 ドラマは、戦争が終り、復員してきた若者・加賀見修平がガード下で浮浪児にカバンを奪われそうになるところから始まります。その浮浪児は隆太といいました。ここから、修平は、隆太やその仲間、修吉、ガンちゃん、クロ、みどりなどと交流するようになります。
 彼らの惨めな境遇を知った修平は、何とかしなければと考え、浮浪児たちも彼を慕いました。そして、修平の故郷が信州だったところから、孤児たちと力を合わせて信州の山あいに「少年の家」を作り、共同生活を始めるのです……。

 当時は、日本中の子どもたちが、このドラマを欠かさず聞いていました。子どもたちだけでありません。敗戦とそれに続く苦しい生活にうちひしがれていた大人たちも、このドラマによって、明日への希望を育てたといわれます。

 菊田一夫は、戦争中、岩手県の江刺郡岩谷堂町(現在は奥州市)に家族を疎開させていました。ここの町役場には鐘のついた高楼があり、菊田一夫はそれを見て『鐘の鳴る丘』を発想したといわれます。
 この建物は、明治記念館として保存されており、現在も、毎日午前7時と午後5時に『とんがり帽子』のメロディーが流れています。

 また、映画では、長野県南安曇郡穂高(ほたか)(現在は安曇野市穂高)にあった青少年の更生施設「有明(ありあけ)高原寮」がモデルになりました。
 現在同じ場所に建っている鉄筋の「有明高原寮」は、やはり青少年の更生施設ですが、『鐘の鳴る丘』のモデルになった建物とは違います。モデルになった時計台つきの旧建物は、昭和55年
(1980)に約600メートル離れた場所に移築・復元され、「鐘の鳴る丘集会場」という青少年の合宿訓練施設となっています。

 穂高町は、私の亡母の生地です。昭和27年(1952)の春休み、小学校4年のとき、私は、母方の祖父に連れられて、1日の周遊サイクリングに出かけました。その途中、有明高原寮の前を通ったとき、祖父から、ここが『鐘の鳴る丘』の舞台になった場所だと説明されて、非常に感銘を受けたことを覚えています。
 有明高原寮のすぐすぐ先の川には、アルプスからの真っ青な雪解け水が泡立ち流れていました。
 その川を渡った崖下に泉があり、近所の女性たちが洗濯をしていました。崖の上には青い空をバックに早咲きの桜が咲き、泉の水面に花びらを散らしていました。

 それから何十年かして、同じ場所を再訪したら、上流にダムができたためか、川の水は干上がり、泉も桜も消えていました。

(二木紘三)

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コメント

もうあの時代に戻らせないようにしなければなりません。
憲法第9条を守り、62年前に戻らないしたいです。

投稿: c,m | 2007年8月16日 (木) 19時15分

この曲を耳にするたび思い出すことがあります。
《蛇足》を読ませていただくと昭和23年(1948)に映画化されたそうですが,私は昭和18年(1943)生まれですから5歳のときですね。私の記憶に残っている最も古い映画なんです。当時家から4kmほど離れている幼稚園に通っていまして,その多分途中に映画館があったんですね。日曜日だったんでしょう,近所の谷口さん一家に連れられてこの「鐘の鳴る丘」を見に行ったんです。メロディ以外は何も覚えていませんが,子供心にひどく悲しくていたたまれず,谷口さんには知らせず,そっと映画館を抜け出し,家に帰ろうとしたことを覚えています。覚えているというのは,途中道に迷って困り果て,やっと家にたどり着いた時にはもうすっかり日も暮れ,普段は優しい親にひどくしかられたからなんでしょう。
ラジオからこの曲が流れると,私がいつも涙を流していたと今は無き母親がよく言っていました。
ありがとうございました。

投稿: Santa | 2007年10月 4日 (木) 22時43分

 この映画のビデオを所持しており、数年に1度の割合で鑑賞していますが、良い映画ですね。この映画は続き物になっており、1作目の「隆太の巻」2作目の「修吉の巻」で1つのエピソードが完結します。そして3作目の「クロの巻」で新しいエピソードが展開されるのですが、話は途中で終り、第4作へ続くとなっています。しかし、4作目は事情により制作中止になりました。何があったのか知りませんが、大変残念な結果です。
 紘三さん、良い音楽をありがとうございました。

投稿: ばくはつ五郎 | 2007年11月15日 (木) 22時06分

私の妻は初めての子の出産で医療事故により命を落としました。そして、生まれた娘はキリスト教の施設に預かってもらいました。平日はその施設のお世話になり週末は家に引き取って私が世話をするという生活が2年間続きました。それから10年、父と娘の二人の生活を経、娘はこの4月に中学生になります。しかし、施設には娘と一緒にいた子供達の何人かがまだ残っています。この「鐘の鳴る丘」を聞くと娘を思い施設に残っている子を思い、「長崎の鐘」を聞くと妻を思い、そして昔は私達よりさらに辛い思いをした人たちがいたことを思うと、涙が溢れてきます。

投稿: Wisteria | 2008年1月25日 (金) 01時37分

私は現在、安曇野市穂高の「鐘の鳴る丘集会所」の近くに住んでおります。
集会所の前が小さな公園になっていますので
休日などには出かけて、ベンチに腰掛けさせていただくことがあります。

集会所は現在も、イラストそのままに建っています。
12時と15時の2回(と思います)集会所のスピーカーから
この曲が流れてきます。

私は戦後生まれで、投稿されているみなさんのように
この曲に繫がる悲しい思い出はありません。
しかし友人の親をはじめ、その頃の年代の方が
旅行にこられたときは必ずここにお連れすることにしています。
みなさん必ずといっていいほど感慨に浸っておられます。

ココロに残るすばらしい名曲と思っております。

投稿: 鐘のなる丘の近所 | 2008年2月 1日 (金) 22時48分

今日たまたまNHKで小沢昭一さんのハモニカと歌での「鐘の鳴る丘」を聞き妻の前でしたが涙が出て止まらなくなりました。昭和20年10歳で親子5人で満州から引揚げてきました。帰国できたのは母と私の二人、父と弟二人は途中餓死しました。当時NHKを聞き又映画も見ましたが、「僕にはお母さんがいる」と言うのが心の支えでした。現在72歳になり家内に子供2人配偶者と孫4人計10人の幸せな生活になっていますが、当時父母をなくしたいわゆる浮浪児たちはどうしているのでしょうか。
再び戦争には巻き込まれたくありませんね。しかし、怖い国も存在します。観念的な平和論で終始しないようにしましょう。

投稿: hiro | 2008年4月14日 (月) 21時33分

童謡「とんがり帽子」が大好きで、この曲の背景が知りたくなり、このページを拝読致しました。
わたくしは戦後生まれで、現在二歳になる子の母です。戦中戦後の悲惨な状態は知識としてしか知りません。両親もそろって健在です。しかし、幼い頃両親から虐待を受け、今では絶縁状態です。辛い境遇から逃れて、優しい今の夫と出会い、子供にも恵まれる事が出来ました。この曲を聴くと、自分の辛い幼少時代が慰められる気がします。父母がいなくても仲間(家族)と元気で明るく幸せに生きようと思い、我が子にも「元気でいろよ」「明日はもっと幸せに みんな仲良く」と気持ちを込めて歌うのです。この子にはわたくしのような辛い思いはさせたくない。そして我が子は可愛い。「元気でいろよ」という私達の思いを忘れずに、育って欲しいと思います。「緑の丘の赤い屋根」と歌いながら手を叩いている我が子を見ると、そんなことを考えます。

投稿: 横笛 | 2008年5月22日 (木) 23時33分

人間は狂気になれば、何をするか解らない。法律でしばって
あってもです。その例がサリン事件ではないでしょうか。
早く芽を摘み捨ててしまう、大人の役目のような気がします。

投稿: M.U | 2008年6月 2日 (月) 13時24分

戦後父が、シャープの5球スーパーのラジオを持って帰ってきてそれから、私は、うたのおばさんの番組を聞いておりました。鐘のなる丘の題名は知りませんでしたが、曲を覚えていて、二木さんのホームページでやっと曲名がわかりその当時丸い机(ちゃぶ台?)の前にすわって聞いていた自分の姿を思いだしています。

投稿: 昔の少女 | 2008年6月20日 (金) 22時28分

私の育った地域では、昔、童謡でゴム跳び遊びをしていました。歌の意味など考えることもなく、ひたすら大声で歌いながら、曲が終わるまで複雑に足にゴムを絡ませながら遊ぶのです。しかし、今、改めて歌詞を聞くと、戦後の孤児のうたでありながら、なぜか懐かしいような、そして元気の出る歌だったんだな~と、またまた、深夜でありながら何回も聞き返してしまいました。
そんな歌だから、意味がわからない幼少のころでも飽きずに、うたってあそべたのかもしれませんね。
せめて、わが子に伝承したいです。

投稿: 昔のゴム跳び少女 | 2009年1月25日 (日) 07時54分

数年前穂高有明に温泉付き住宅を買いました。今は別荘として利用していますが、ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」の映画の舞台となった建物がすぐ近くにあることがわかり、何と幸せ者かと思っていました。昭和14年生まれ、ラジオから聞こえた「とんがり帽子」の歌は千葉県の貧しい農家に育つ子供心には歌詞の様々な情景がダブり泣いたこともあり、たくましく生きる勇気をいただいたように思っております。多くの友人を現地にご案内させていただく度に感謝されております。貴重なドラマを語る建造物として永き保存を希望します。携帯の着信音は「鐘の鳴る丘」です。

投稿: 力三 | 2009年4月12日 (日) 17時37分

私は、この歌を始めて聞いた時は12歳になっていました。5歳の時ちょうど戦争が始まる2年前、父親からもうすぐアメリカと戦争が始まる東京は爆弾で家族が生き残れるかどうか判らない。
全員死んだら血が絶えてしまうからと滋賀県安土のお寺に預けられました。
その時父は、これが今生の別れに成るかもしれないからと「特急ツバメの展望車」に乗せてくれたのです。今でもまざまざと覚えているのは、シジミのみそ汁がぬるくて生臭かったことです。
あくる日から他人の家で全く異なった生活、夜は一人で本堂の片隅で寝る生活が始まり全員家族が東京から無事に引き上げたのが私が小学生入学の年でした。
この歌を聴くとその時代、東京に出ると上野の地下道に垢で汚れボロボロの学生服や国民服を着た子供たちが屯していた事を思い出します。
そして、通りかかると靴をみがくから金をくれと寄って来て恐怖を覚えたことを思い出します。
このドラマで少年たちの更生に力を出した人が多々いらっしゃったとものの本で読み、就職が無くて上野でドヤ街やニコヨン生活をしたことが蘇ってきます。この時代の歌は、私たちの時代の人間にとっては生死の境の歌でした。祖父母、両親を亡くし、兄を亡くし、兄弟妹姉を亡くし、東京大空襲では隅田川に亡くなった人たちの遺体で埋まったと聞きました。戦争は何処に居ても悲惨です。
どこかの国の独裁者の映像を見ると、日本のあの時代を彷彿とします。戦争は、絶対にやってはいけません。孫子の代、玄孫の代、未来永劫戦争をしてはいけません。とんがり帽子の時計台を口ずさむとあの薄汚れて食べ物をねだっていた子供たちは今や70歳を超えてどのような生活をされているだろうか幸せになっていたらいいのにと思わずには居られません。このサイトの製作者が初めて自分史の一端を示されたことにいたく感動し、私が今行っていることを倒れるまでやらなければと勇気が湧いてきました。
何十年か前にこの時計台を見に行きました。
その時も胸がいっぱいになり、よく、生きていたねと心の中でつぶやいたことを思い出します。
青い空が何処までも透明で、丘の上にすっきりと立っていたように覚えています。写真を撮ったのをと探したのですが見当たりませんので見つけたらお送りしたいです。

投稿: 早崎日出太 | 2009年7月22日 (水) 23時19分

うた・唄・歌・どれも詩と曲がついてきますよね。
特に人々の心に残り、時を経ても歌われることが多い名曲といわれるものは素敵な詩(言葉)と、感情豊かな曲(相手への思いやり)とで構成されているように思うのですが?
毎日このサイトで最低1曲は聞くようにし、皆さんの投稿を読むのが楽しみです。
管理人の二木先生のサイト運営方法に共感されている人が多いからこそアクセス数も多いのではないでしょうか。
いつまでも楽しみにしたいサイトです。

投稿: 修さん | 2009年8月20日 (木) 01時16分

二木先生のHPはPCが常時接続前のテレ放題の頃だと思いますが詳しくは忘れてます。音楽を求めてMIDIの世界をあるいてました。youtubeで映像とともに歌も手軽になってます。でも私の使命は童謡唱歌の世界であり、歌声の世界。
またこちらにもたびたびお邪魔します。よろしく

投稿: じいたろう | 2009年9月20日 (日) 17時48分

今から30年以上前のことになりますが、鐘の鳴る丘の曲の入ったLPを手にいれて聴いていると、昭和11年生まれの父がいきなり懐かしそうに歌いだしたのです。
私が驚いて見ていると、「この歌は、いつもラジオを聴いていたから歌詞なんか見なくてもちゃんと歌えるんだよ。」と嬉しそうに言うのです。
私の父は、8人兄弟の末っ子で、兄3人が出征しました。戦後直ぐに父親を亡くし、復員してきた一番上の兄が父親代わりとなり私の父を育てることになります。(3番目の兄は、シベリアに抑留されとうとう帰らぬ人となり・・・)
それから数年後、思春期となり反抗期にさしかかった私は、ほとんど大学へ進学することが出来ないレベルの高校ですら何度も停学をくらう有り様で、退学寸前の地元でも有名な不良少年となってしまいました。そんな時、父が病で1年近く入院し・・・
私は、父の入院を機に改心しました。
けれども父は、私が無事高校を卒業し、大学に進学出来たことを知りません。
私が17歳の時に父は癌で亡くなってしまいました。
鐘の鳴る丘を聴くと、いつも優しかった父のあの日の笑顔を思い出します。

投稿: 本間正幸 | 2009年9月23日 (水) 06時57分

二木先生;

 今日は「ガード下の靴磨き」からこちらにまいりました。どちらも口ずさみながら涙で胸が詰まって歌えなくなってしまいました。
 物心ついた時には戦争が終わっていて、子供の頃に町内の掲示板で船腹に赤十字のマークがついた引揚船“白山丸”“興安丸”のニュース写真を見たのが私の最初の“戦争体験”です。
 時代の生まれ合わせとは言え、これまで生きてきて、私たちの父や叔父の世代のように、赤紙一枚で強いて望まぬ戦場に送り込まれ、銃や武器を持たされて理不尽に人を殺したり殺されたりする悲惨な経験もせずに済んだことを僥倖と思わずにはいられません。しかしながら平和の尊さ、有難さは何物にも代えがたいと思いつつも、昨今の世相や内外の状況を見ていると、先生のコメントにある“民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動”が私たちの子や孫の時代に再び繰り返されるのではないかとの予感と不安が強く感じられて仕方がありません。
 「ガード下の靴磨き」も「鐘の鳴る丘」も歌って涙することはあっても、リバイバルは絶対にあってほしくないものです。

投稿: 中嶋 毅 | 2010年5月27日 (木) 21時38分

このような時代に戻らないように憲法第9条を守り、平和でみんなが住みやすい日本にと、この歌は語り掛けているような気がします。

投稿: c,m | 2010年6月16日 (水) 19時09分

子供の感覚では住んでいた市から遠く感じられた町に、カトリックの修道会が運営する孤児の施設がありました。
小学生の時(昭和29年頃から?)何度か大人たちに連れられてバスに乗り、日帰りでそこへ慰問に行ったことがあります。
私たちのグループは合唱をしたり、「赤ずきん」の音楽劇を演じたり、ウェーバーの「舞踏への勧誘」のレコードに合わせて大勢の前で踊ったりしました。
いくつかのグループ合同の学芸会のようなレベルのもので、当時はそれほど深い事情もわからず、無邪気に大人たちに従っていたのでした。

その頃まだ、私の家族は戦争の影をひきずっていました。
父が兵役に服している間に、私の家も母の実家も空襲で燃えてしまったのですし、叔父は南方に出征したまま戦後10年以上も生死不明のままでした。
子供なりに耐えた辛い思いもありましたが、でも、私は孤児ではなかった……。

戦災孤児が多かったと思われるあの施設の子供達は、親のいる子供達の「学芸会」をどのような気持で見ていたのでしょうか……。
ふと、そう思った時から、慰問の思い出はどこか罪の意識に似た苦しいものになってしまいました。

今この懐かしい歌を聴く時、そのような私の思いも幾分清められるような気がするのです。
勿論、戦争はあってはならないと思います。

投稿: nobara | 2010年7月23日 (金) 10時02分

この鐘の鳴る丘(トンガリ帽子)という歌ですが、一般的には冒頭に記載された4番までということになっています。私も、ずっと長いこと、4番で終わりと思っていました。(歌詞の流れからしても、ここでストーリーが完結しています。)
ところが、先日、このビデオ全3巻を入手し、見てみたところ、歌詞が6番まであることが判明し、驚愕しました。
私は昔、隆太の巻と修吉の巻は見たことがあるのですが、クロの巻は、はじめて見るものでした。で、上記の1番と2番が隆太の巻のタイトルバックに流れるテーマ、3番と4番が修吉の巻のタイトルバックに流れるテーマとなっていることは知っていましたが、クロの巻のタイトルバックには、これまで聞いたこともない5番と6番が流れだしたのです。

確かに、修吉の巻で、トンガリ帽子の家は一応完成し、歌の歌詞としては4番までの世界が完結したのに対して、クロの巻は、Santaさんが御指摘されているとおり、次のエピソードが始まるところで、歌詞としては別のものがあっても然るべきだと思い至りました。またクロの巻では、この曲が、単なるタイトルバックのメインテーマというだけではなく、劇中でこの歌を習うシーンがかなり沢山あります。(クロが心を開いていく過程で、この歌が極めて重要な役割を果たしています。)
どなたか、この5番と6番について、詳細を御存知の方がいらっしゃいましたら、是非教えて頂けると幸いです。

投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | 2011年2月24日 (木) 23時40分

懐かしいメロディーに巡り会った気がしました。ラジオ放送があった頃生まれたので、放送を聞いたのではなく、その後よく話題になっていた曲でした。説明を読んで驚き、ドラマの舞台が信州の安曇野だったというので。今は北海道ですが数年前まで群馬県に住んでいました。赤城山の山麓大胡町(現在前橋市)にトンガリ帽子の時計台ある「鐘の鳴る丘少年の家」があって、ここがモデルとばかり思いこんでいました。ここはモデルではないのですが、非常にドラマに似ています。初代園長が数人の孤児と共同生活を始めた頃、このラジオドラマを聞き、菊田一夫に会って助力を得るとともに施設名を付けたそうです。ドラマの後を追うという形になりましたが、孤児らを温かく見守る姿勢には変わりありません。

投稿: かおる | 2012年3月 7日 (水) 23時28分

戦後3年目ぐらいの時、お向かいの家が疎開先から焼け跡にバラックを建て帰ってきました。その家の側溝の中から赤ちゃんのお骨が一体出てきました。親が焼け死ぬ前に汚水でも水の中なら熱くないと側溝につけたのでしょうか。お骨をきれいに洗って箱に入れ端切れで包み、警察に届ける前の、わずかな隙に泥棒が盗んでいきました。少し離れた川の土手に捨ててあったそうです。箱を開けた泥棒もびっくりしたと思います。鐘の鳴る丘の2番、鳴る鳴る鐘は父、母の 元気でいろよという声よというところにくると目が潤みます。大空襲の10日前に山さとに疎開したお蔭で、私も今を生きています。戦後苦労して8人の子供を育て、まだ若い中に亡くなってしまった両親に感謝です。へこたれそうになった時、元気でいろよと声を掛けられている様に思います。

投稿: ハコベの花 | 2012年3月 8日 (木) 21時15分

有明高原寮は、小学生の頃に隣接する古墳(陵塚、穂高古墳群A-1号)の観察で訪れました
小学生の身にはどういう施設か分かりませんでしたが、自律性を重視した施設であり、当時は塀はもちろん、フェンスもロクにありませんでした
あれでいいのかな?と今も思っていますが、脱走とかの事件は寡聞にして知りません
たとえ失敗をしても、ちゃんと立ち直ってくれれば、それでもう良いのですがね

投稿: FFF | 2012年3月18日 (日) 15時51分

世の中の不景気を立ち直させられない政治と福島住民に心の安らぎを与えてやれない政治に対して戦後の「鐘の鳴る丘」のような国民的ドラマが欲しい。また「リンゴの唄」「みかんの花咲く丘」のような明るい歌も欲しい。AKB48だか、DDT48だかそんな歌がいくら売れても闇は晴れない。

投稿: 海道 | 2012年6月 5日 (火) 12時44分

最近NHKの土曜ドラマで~戦後を創った男・吉田茂~が放映されていますが、ディレクターの言葉が良い。(「戦争に負けて、外交で勝った歴史がある。」国を立て直す自信を問われて吉田が語った言葉である。決して諦めない、不屈の精神で戦後日本を復興に導いたリーダーの苦難の舵取りを克明に描くことで、大震災からの復興に向かうこれからの日本への力強いエールとしたい。)

投稿: 海道 | 2012年9月15日 (土) 16時28分

子供が産まれて母親から童謡セットをもらいました。
童謡というか昭和、大正のこういう歌は聞いたこともありませんでしたが、、、どれもこれもいい曲ばかりでびっくり。
その中でもこの曲の歌詞がどうも気になり、検索してここにきました。
ラジオドラマの主題歌だったんですね。
明るいのに切ない、歌詞も物悲しい、でも明るい前向きな歌で素晴らしい曲です。

投稿: 1歳児母 | 2012年10月 5日 (金) 11時26分

 責められるべきは、その気になれば避けられた戦争につっぱしり、国内外の民衆を塗炭の苦しみに陥れた指導者たちの愚かな行動でしょう。

 上記の文は二木様の解説(蛇足)の中にあるものです。このサイトの性格上、二木様がご自分の主義主張を語られ部分はほとんどないのですが、この歌の解説では、明確に今次大戦(と言っても70年以前になるのですが)の指導者の責任を断罪されています。わたしも全く同感です。また、ここにアクセスされた方々もほぼ異議はないでしょう。
 不幸にして戦争になれば、大人はともかく、最大の犠牲者はこどもたちです。1歳児母様はこの歌に感銘を受けられたようですが、わたしたち大人は、祝福されて生まれた赤ちゃんがすくすくと成長し、二度と「戦災孤児」と呼ばれることのない平和な国づくりをしていかなければなりません。殷鑑遠からず、政治指導者たちはこのことばを肝に銘じて、政治の衝にあたって欲しいと念願しています。

投稿: ひろし | 2012年10月 5日 (金) 14時32分

高齢の認知症の方と先日この唄を歌いました。その方は歌詞を混同されて覚えておられ、上3行は1番、下3行は2番で唄っていらっしゃいました。

2番の下3行がよほど強く印象に残っていらしたのだと思います。私が覚えてしまうくらい、何十回も繰り返して唄っていらっしゃいました。

国際情勢の厳しい時代に入ってきています。武力行使をわが国も隣国も行わないようにと願ってやみません。

投稿: ぬえの | 2012年10月13日 (土) 22時16分

 戦災孤児の保護施設と聞けば 忘れられない話がひとつあります。学生の時、大学の教授から聞いた 40年ほど昔の話です。

 広島に原爆被災による孤児を世話する施設があり、昭和21,22年頃になって、ようやくさがしあてた親戚が 子どもをひきとりに来る。「よかったねえ」とみんなは祝福するが、その日の夜、迎えのないほかの子どもたちの 落ち込みはひどかったそうです。そのなかに4才くらいの子がいて、毎日、夕暮れ時になると、仲間から離れて 一人、門の所にたたずんで 親が迎えにくるのをまっていたそうです。「夕ごはんよー、宿舎に入りましょうね」の声がかかるまで門のそばから 施設に続く道をながめているそうです。冬になると 外はすっかり暗くなって 寒さも厳しいのですが その子は決まったように一人、門のかたわらに立っていた。「かわいそうでねえ」と職員はつらそうに話したそうです。

 この話には続きがあって、その頃、小説家の吉川英治が 取材のため この施設を訪れ いろいろな話を聞きました。夕方になると 門の所で 親の迎えを待ちつづけるという 件の子どもの話を聞くと、彼は人目もはばからず 涙を流し 嗚咽したそうです。 

 その教授は最後に言いました。大衆小説家だといって吉川英治を軽視するインテリと称する輩もいるが、吉川英治はなかなか立派な心の持ち主ですと。 

 人前で人目もはばからず泣く、いや泣けるというべきか、そんな人は 女々しいどころか 勇気のある、自分に正直な 剛直な精神の持ち主だと その時以来 思っています。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2012年10月14日 (日) 00時05分

終戦時10才でした。本間さんのお父さん同様歌詞を見ずに歌えます。そういう世代の方もおいおい消えて昔話になるのだろう。食糧難の頃、自分や家族も飢えていたのに困窮した他人の戦争孤児、戦争未亡人を助ける人はほとんどいなかった。大阪で仁左衛門一家殺しという事件があった。歌舞伎役者に同居する内弟子が食事の差別が原因で一家を皆殺しした。小平事件というのがあった農村に買い出しに来る多くの女性達を「米を売ってくれる農家に案内してやる」と騙して強姦殺人を重ねた。そうした時代だった。もし戦争が1年でも半年でも早く終わっていれば、大空襲も原爆も沖縄戦も硫黄島もシベリア抑留も避けられて多くの涙が流されず、こういう施設の子たちも父母の膝下にいたはずだ。私たちは、そういう思いを多分生涯持ち続ける世代です。

投稿: 昭和老人 | 2014年5月29日 (木) 04時37分

昭和老人様 貴重なお話ありがとうございます。小生終戦時4歳ですが、今日は横浜大空襲記念日。B29が横浜蒔田周辺に爆弾投下、子供ながら空からの黒い物体をなんとなく記憶してます。叔母が犠牲になりました。この曲は子供二人によく歌ってきかせました。

投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年5月29日 (木) 21時42分

昭和17年生まれの72歳です。この歌を聴いたのは昭和23年の時で当時西伊豆の漁村に住んでいました。
昭和20年に東京から引っ越してきていたのですが、大工をしていた父親が「幼稚園などはお坊ちゃんやお嬢ちゃんのいくところだ」と言って幼稚園にいれてもらえなかったんですが、近所のともだちが皆幼稚園へ行って遊び相手がいなくなり、昭和23年5月からしぶしぶ幼稚園へいかせてもらえました。その幼稚園で先生が紙芝居で「鐘の鳴る丘」をやってくれたのを鮮明におぼえています。
次回の紙芝居が楽しみでわくわく待っていましたがその後のことは憶えていません。
昭和26年の小学校3年生のときにに東京へ行った時、上野の駅の地下道から京成上野の駅までの地下道におおぜいの人が寝転んでいてとても怖かったことや上野の動物園で迷子になり当時、浮浪児とよばれていた子供たちに(同じくらいの年齢)付き纏われた怖い思い出がありますが、あれが当時の「鐘の鳴る丘」の社会状況だったのですね。
この歌をインターネットの動画で聞くと懐かしく思い出されます。その後の「さくらんぼ大将」ともどもいまもくちずさんでいます。

投稿: 町田勝二 | 2014年6月11日 (水) 14時47分

五年ほど前に、この歌の歌詞が6番まであるという投稿をしました。
その後いろいろと調べて、歌詞は以下のように8番まであることが判明しました。(出典:河内紀・小島美子著『日本童謡集』(音楽之友社))

5番
お山は緑 白い雲 小鳥が啼いてる 時計台
鐘が鳴ります キンコンカン 僕らの畑の 麦の穂に
風が吹いてる 歌ってる  みんなで歌おう 緑の丘よ

6番
とんがり帽子の 空高く 親子つばめの 宙返り
鐘が鳴ります キンコンカン 僕らは母さん いないけど
寂しかないぞ つばくろよ 春の手紙を 話しておくれ

7番
秋空晴れて アルプスの お花畑に 虹の橋
鐘がなります キンコンカン 僕らは見ている 七色の
望みは高い 虹の橋 みんなで仲良く わたっていこう

8番
緑の丘の 白樺の 学びの窓に 日が落ちて
鐘が鳴ります キンコンカン とんがり帽子も 真っ暗で
青い夜空に 銀の星 ポッカリ浮かんだ 僕らの星よ

背景についても若干のことが判ってきました。まず当時はすべて生放送で、時間はその場で調整しなければならなかったのに、ぴったりに仕上げなければならなかったことから、歌で時間を調節するというのが普通に行われていて、そのため(実際には歌わなくても)後のほうまで作詩しておくのが一般的だったらしいのです。
また、これは意図していたのかどうかは判りませんが、映画化に際して第1巻(隆太の巻)で1番と2番がタイトルバックに流れ、第2巻(修吉の巻)で3番と4番が、また第3巻(クロの巻)で5番と6番が、それぞれ流れています。第3巻の最後で、一瞬だけ予告編が流れた第4巻(カラスの巻)において、多分7番と8番を使う予定だったのではないでしょうか。
なお、4番の歌詞の最後で「おやすみなさい」となっているのは、元の8番まで書かれている歌詞によると、「元気で行こう」(みんな仲良く元気で行こう)になっています。ここも憶測になりますが、後が続くのに「おやすみなさい」では繫がりが変ですので、もともとは「元気で行こう」だったのが、実際には4番までしか歌われないことが殆どだったため、8番の最後の情景と4番の末尾の情景が似ていることから、ここに「おやすみなさい」を入れて、ここで歌の世界が完結するようにしたものだと思います。

投稿: 「もう戦後ではない」と言われた時代に生まれたおっさん | 2016年2月23日 (火) 18時10分

昨日、京都文化博物館のフィルムシアターで「鐘の鳴る丘 脩吉の巻」(昭和24年松竹大船作品)を初めて観ました。ラストのクリスマスパーティで、女性の弾くピアノの音に合わせて子どもたちと合唄するシーンで、どうしても気になることがありました。「蛍の光」のメロディ(違う曲だったらごめんなさい)でありながら、全く違う歌詞で皆が歌っていたと私は思ったので、詳細を知っておられる方があれば、この歌が何であるのか教えてください。私は昭和40年前に生まれたので、この映画もラジオドラマも全く見聞きしたことがありませんが、このメロディは聞きおぼえがあり、とても気になったわけです。

投稿: まさぴょん | 2016年4月 7日 (木) 10時45分

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