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穂高よさらば

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:芳野満彦ほか、作曲:古関裕而

1 穂高よさらば また来る日まで
  奥穂に映ゆるあかね雲
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残るジャンダルム

2 滝谷さらば また来る日まで
  北穂へ続く雪の道
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る槍ヶ岳

3 涸沢(からさわ)さらば また来る日まで
  横尾へ続く雪の道
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る屏風岩(びょうぶいわ)

4 岳沢(だけさわ)さらば また来る日まで
  前穂をあとに河童橋(かっぱばし)
  返り見すれば遠ざかる
  まぶたに残る畳岩

《蛇足》 第二次大戦後、北アルプスに登る岳人の間で自然発生的に歌われ始めた歌ですが、原曲は実は軍歌の『雷撃隊出動の歌』(米山忠雄作詞)です。

 古関裕而の傑作メロディに、登山家の芳野満彦が詞をつけました。私が聞いたところでは、彼が作ったのは1番だけでしたが、山男・山女たちの間に広まる過程で、次々と詞が付け加えられ、記録に残っているかぎりでは10数番まであるとのことです。

 原曲は軍歌ですから、もう少しハイテンポでよりリズミック、勇壮な感じですが、『穂高よさらば』は思い出の歌として歌われるのが普通なので、ややノスタルジックなアレンジにしました。

 3番は他の聯とメロディが違います。原曲では、この聯に「天皇陛下万歳と……」という歌詞があります。古関裕而がここでメロディ転換を図ったのは、それを強調しようとしたからでしょう。
 この強調は軍国主義
への迎合だったかもしれないし、戦争賛美一辺倒の世相における一種の保身だったかもしれません。にもかかわらず、このメロディ転換は、すばらしい効果をあげています。古関裕而の才能がうかがい知れる部分です。

 私はこの歌を、大学2年(昭和37年)の夏休み、高校時代の友人・Z君から教わりました。そのとき、私は上高地にあったタクシー会社の出張所で飯炊きのアルバイトを、Z君は観光バスのガイドのアルバイトをしていました。
 2人とも仕事を終わった深夜、小梨平に面した梓川の岸辺に腰を下ろして、高校卒業以来のことをいろいろ語り合いました。そのあとZ君は、覚えの悪い私のために、この歌を何度も歌ってくれました。

 Z君はそのとき信州大学文理学部(当時の名称)の学生でした。卒業後、高校の教師になりましたが、結婚式の数日前、自転車で帰宅中、トラックにはねられて亡くなりました。
 私は、彼の婚約者とは面識がありませんでしたが、その人の悲嘆を思うと、今でも胸が痛みます。

 1番のジャンダルムはフランス語で憲兵の意。地質学用語としては主峰の前にそそり立つ岩峰を指します。穂高連峰のジャンダルムは、奥穂高岳から西穂高岳へ向かって南へ下ったところにあります(写真)
 穂高は「ほだか」ではなく、平板アクセントで「ほたか」と読んでください。それが地元の呼び方であり、かつ正式名称です。

 なお、歌詞には上記のほかに、岐阜県のバス会社が観光宣伝のために作った「濃飛バス版」があります。上の『穂高よさらば」は岳人が実際に踏破した山の思い出を歌ったものですが、濃飛バス版は、バスの車窓から見た光景を歌ったという感じで、一般観光客の歌になっています。

(二木紘三)

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コメント

二木先生・・

このスタイルになる以前から・・つまり三年ほど前から、主に、懐かしい曲を中心に、楽しませて頂いて居ります。

先日、いつものように、曲をセレクトしてしていたところ、「穂高よさらば」というタイトルに目が止まり、聴いてみました。
「あっ・・」と驚きました。
歌詞こそ違え、あの歌でした。
 
終戦の前年、当時、東京の府立二中4年生(旧制)だった兄が、B29の爆撃で、危なくなったからとて、帰郷(山梨)していました。
毎日のように頭上を、東京目指して飛んで行く、B29の大編隊を見て口惜しがりながら、兄は歌っていました。 私は当時国民学校5年生でしたが、その、悲壮感に満ちていながら、気品のあるメロディに魅せられて、すぐに覚えてしまいました。

先生の「穂高よさらば」で聴いた曲こそ“あの歌”でした。
“あの歌”とは・・・

 母艦よさらば 撃滅の
  翼に映ゆる 茜雲
   返り見すれば 遠ざかる
    瞼に残る 菊の花

という歌詞でした。
先生の解説のお蔭で、タイトルが「雷撃隊出動の歌」と言うことも、作曲者が、古関裕而と言うことも、初めて知りました。 兄は知っていたんでしょうが・・・・・

昨日、兄に電話して、この曲を電話越しに聴かせてやりました。
「フンフン・・」と兄は聴いて懐かしそうでした。 二人は、60余年前の兄弟に還っていました。
艦載機の、グラマンF6Fに機銃掃射をされた話など、思い出話は尽きませんでした。 
でも・・結論は、「戦争は、やっちゃいかんな・・」でした。

先生のお蔭で、はからずも、久し振りの兄弟の話ができました。

有難うございました。

投稿: K.Tsuji | 2007年10月 5日 (金) 23時54分

その年の八月に富士山頂で挙式して、翌月、涸沢に紅葉を見に行きました。横尾から徳沢まで、歌詞はうろ覚えでしたが、「穂高よさらば」を繰り返して歌って歩きました。テンポのよいメロディで忘れられない快適な山旅でした。

投稿: Hideo Horii | 2008年6月14日 (土) 21時22分

あれは高校2年の時だと思いますが、松本の母校から島々
(上高地の入り口)までの長距離走があり、最初から最後まで歩き通しました。途中たわわに実った林檎にお世話になりながら。ちなみに1位は国体の5000Mスケート5位の男
でした。

投稿: 海道 | 2008年12月 5日 (金) 16時14分

今から30年位前、ダークダックスの歌よりこの歌を知りました。あこがれの槍穂高、いつかは登ると決意した。しかし、体の弱い私は夢のまた夢。本番の練習のため秩父の山々へ。ダークのファンの親友とともに登るたび歌ったのが[穂高よさらば]です。結局 槍穂高にはいまだ登っていません。社会に出てそれどころではなく、仕事に忙しい毎日でした。二年前、最愛の父が末期のガンであることを医師から宣告され、落ち込んでいるときに偶然テレビから流れていたのが上高地音楽祭でさとう宗幸さんの歌うこの歌です。このとき懐かしさの半面、父とともに病気と闘うぞと勇気をくれたうたです。今年の夏、飛騨を旅して槍穂高の雄姿を見てきました。青空にそびえる雄姿は感動ものです。今頃父も遠い空から槍穂高を見ていることでしょう。

投稿:  これきよ | 2009年8月26日 (水) 21時46分

 山歩きをしていて台風に遭遇してテントで沈殿してる時、近所のテントから交歓会をしましょうとの申し入れで一つの狭いテント内で自己紹介からお話そして、歌へと続いてる時に、私の大好きな「穂高よさらば」ですと、歌われた歌に驚きの声を上げました。終戦直前の頃、戦地より負傷して帰られた国語の先生が板書されたのが、母艦よさらば・・・の歌でした。忘れもしません。私達国民学校の3年生で、お前達は意味は判らなくて良い、大きな声で歌えよでした。口が開いてなかったり、声が小さいと「木刀」が頭に振り下ろされるからでした。あれから60年を経過しても歌詞・曲をはっきりと覚えて居ます。木刀に怯えて歌ってた懐かしい歌に遭遇致ました。

投稿: 歌木千貝 | 2009年8月28日 (金) 22時39分

穂高の美しい写真をはじめて見たのは、高校を終え喫茶店というところに大手をふって行ける様になってからで、その名も〔上高地〕という名前の喫茶店でした。50年前のことです。壁に展示された神々しいばかりの山々に一度は行ってみたいものだと東北の片田舎で憧れたものでした。

そして関東へ来て絵を描くようになって念願の上高地へ。。。実際に目の前にした穂高は息の呑むばかりの美しさでした。

このような歌詞の曲があったとは知りませんでした。

投稿: おキヨ | 2009年8月31日 (月) 11時59分

 芳野満彦氏のお名前を、久しぶりに目にしました。昭和30年代、40年代にかけて氏は登山界のスターでした。欧州アルプスへ先鞭をつけ、大倉大八氏とアイガー北壁へ挑戦し、2度敗れて3度目はマッターホルン北壁の登攀に挑戦して成功しました。パートナーは我が県筑豊出身の渡部恒明さんであったことも嬉しいニユースでした。
 年代的には8歳ほどの隔たりがありますが、同じ登山をやるものとして共鳴する部分、羨望する面がたくさんありました。
 目をつむれば綺羅星のごとき先鋭たちの名前が浮かびます。
 服部満彦御本人、吉尾弘、小西政継、服部清次、小森康行、安久一成、加藤保男、山岳雑誌を開けば誰かの名前を目にしたものです。
 当時、麻のザイルが主流だったのですが、初めての北アルプス(剣岳)への山行に13ミリ(30m)のナイロンザイルを携行し、八つ峰6峰C・Dフェース、チンネ筑豊ルート、池の谷周辺の岩場をあさる様にして登りました。21歳の夏です。池の谷右俣のⅡ峰南壁を狙いましたが刃が立ちませんでした。あれから49年、立山の青い空と、長次郎の雪渓と熊岩での休息、高須茂氏の名ガイドブック「剣岳」がぼろぼろになって本棚にあります。
 偶然に目にしました「穂高よさらば」は愛唱歌でもあり、芳野氏が徳沢で過ごした記録でもある「山靴の音」は息子の愛読書ともなっています。清冽な秋のアルプスの空気と前穂の勇姿、気さくな山屋たちとの交流がまぶたに浮かびます。何より共感しますのは軍歌を山の歌にした芳野満彦氏もまた、必ず日本が勝利すると信じて寸分の疑いも持たなかった少年時代を過ごし、焼け跡闇市を体験した骨っぽい人だということです。
 

投稿: 磯野 隆尚 | 2009年9月17日 (木) 00時10分

地元では、穂高は「ほだか」ではなく、平板アクセントで「ほたか」と読むことを初めて知りました。私の郷里石川にはかって「根上町」というのがありました。小さい町ですが、神の国発言の元総理やNYヤンキースの外野手などを輩出しています。この町はテレビでは「ネアガリ」ですが地元では皆「ネガミ」と言います。私の出身地の「塚崎町」は地元では全員「ツカザキ」(カにアクセント)ですがテレビでは何故か「ツカサキ」(平板アクセント)となります。テレビ局は何らかの根拠があってのことと思いますが、読み方やアクセントは誰が決めているのでしょうか?何はともあれ「穂高」は平板なアクセントで「ホタカ」です。

投稿: なとりがおか | 2009年10月31日 (土) 16時29分

私が初めて穂高に登りましたのは父が死んだ為に高校を中途退学した昭和29年の夏のことでした。上高地から涸沢までは高校の入学と同時の昭和27年のことです。しかしながら、此の歌だけは全く今日までは知らなかったことです。但し・原曲の『雷撃隊出動』だけは、私が蒐集しました軍歌に収まって居りましたことから、演奏が始まると同時に歌うことが出来ましたが、素晴らしい歌であると感心しました。 

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 20時43分

この曲は初めて聴きましたが、山への憧れを満たしてくれる歌詞で、気持よく歌えました。
今から40年以上前、安い給料の中から立派な登山靴とピッケルを買いました。当時、二日以上の休暇はとりづらく、穂高方面とは無縁でした。
ピッケルは使うことなく眠ったままです。
一度、涸沢あたりまで登って穂高の山々を眺めたいものです。

投稿: jiro.sakata | 2010年9月10日 (金) 11時30分

岳人が好むこの歌の山は穂高(ほたか)、槍ヶ岳(やりがたけ)ですよといくら叫んでみても、歌の世界では濁って歌われています。ただ岳沢(だけさわ)を(たけさわ)と歌っているように聴こえます。言葉としては濁った方が円みがあり歌い易いとか。濁らないでと思うのは少数派でしょうね。

投稿: 海道 | 2011年11月 4日 (金) 06時39分

何んとも心地良く響くメロディー、きついと時、苦し時、心の中で口遊めば疲れなどありませんね。
会社を引退したのは還暦2,3年過ぎた頃でした。足腰は大分弱っていましたあの頃、毎日歩くしかないと決意、近くの田んぼ道から始まり、山麓の林道、そして尾根歩きと馴らし登山でした。数年経って日本の山に何んで横文字の山があるんだと不思議でした、ならば行って見ようと、ジャンダルムの謎解き登山であった。そのジャンダムと対峙する時、一瞬脳裏は真っ白でした。それは午前6時、あの岩壁に映しだされた影絵だった。謎は解けました。
≪蛇足≫の通リ穂高を守る衛兵でした。槍、盾、兜姿の衛兵の姿が眼前に現われました。名付けた先人に逢った思いでした。鎗、穂高、ジャンタルム越えの縦走で66歳の時でした。穂高よ、涸沢よ、槍よ、また来るよ、と山人生の始まりでした。今は,こうべ、耳を擦られる程に何時でも流れてい音楽、聞きたいとおもいば即座にクリック一発で、思いでの曲、快いメロディーを聞くことが出来ることを感謝しているところです。有難う御座います。

投稿: 権兵衛 | 2014年9月12日 (金) 14時40分

かつて山の先輩から教わったこの歌が、あの古関裕而の作曲ということは、初めて知りました。このサイトで勉強になることは多いです。二木先生、ありがとうございます。
山に行っていた頃に好きだった歌はたくさんありますが、「北岳の歌」なども取り上げて頂けると嬉しいです。
勝手を申しまして恐縮です。

投稿: 川口雄二 | 2014年9月13日 (土) 08時37分

ジャンダルムの写真にしばらく眺め入りました。前妻を亡くした60代の終わりから70代にかけて、まだ3000m峰を半分ぐらいしか歩いていなかったからと、しらみつぶしに登りました。奥穂高岳から初めてのジャンダルムへのナイフリッジが今でも一番怖い思い出です。リッジにまたがり、下を向いて這うように降るので、足の下の方で裾は霧に消えていく両側の絶壁がいやでも目に入るのでした。同じ道でも帰りは目が上を向いていて、さっぱり怖くないのもおかしかった。すでに半ば伝説となっていた芳野満彦の名前に、胸が揺すぶられます。「かえりみすれば」の語調に柿本人麻呂の名歌が連想されていささか不思議でしたが、元歌が「雷撃隊出動の歌」というので腑に落ちました。

投稿: dorule | 2014年9月13日 (土) 11時17分

来年(2016)から山の日ができ、休日が追加されました。山に出かけて楽しもうと言うことですね。
登山の事で言うならば、楽な山は別にして、人生は登山だと良く云われますね、穂高連峰の縦走、北鎌尾根の縦走など非常にきつくて辛いですね。何かトラブルが発生すれば身の危険もありますから決断と勇気が試されます。

でもね、この「穂高よさらば」や「坊がつる讃歌」のメロディー、何故か心に染みませんか。山の歌は何故にこうも皆、心に染みて爽快なのでしょうね。この歳になってもま未だまぶたに残る、ああ~ジャンダルム!。

投稿: 権兵衛 | 2015年9月20日 (日) 09時37分

作詩の芳野満彦は小五で富士山に登頂している。17歳の時八ヶ岳で遭難、凍傷のため両足指を全部切断しながら、のち日本人初のマッターホルンなど、輝かしい山歴を残した。ほぼ同年配の私は中学で山の魅力を知りながら高校大学を通じて山と関わることができず、サラリーマンになってから、土曜日も5時が定時という時代に、無理して徹夜山行なども試みたりした。6歳ほど年下の友人に雲取山や八ヶ岳を案内してもらったこともあり、そのころ芳野の逸話も彼から聞いた。この友人は定年後趣味の音楽の仕事をしているが、最近「穂高よさらば」を話題にしたとき、国民的作曲家といわれる古関裕而が戦時歌謡の量産者だったことが彼には許せないらしかった。それはいささか狭量ではないかと感じたが、彼が日本遺族会の要職にあったりした戦争遺児であることを思うと、批判めいたことは言えなかった。「雷撃隊出動の歌」は戦争も終末期の発表だから、替え歌を作るほど広く知られていたとは思えない。芳野がそのメロディーで「穂高よさらば」を歌ったのは、身内の誰かが特攻で亡くなったからではないかと思う、と私が言うと、友人は私が芳野と知り合いかと訊ねたが、そういうわけではなく、ただの憶測に過ぎない。

投稿: dorule | 2015年9月28日 (月) 12時14分

紅葉前線急ぎ南下中の報がしきりです。この歌に出て来る河童橋周辺は、今頃はさぞかし錦繍の装いも艶やかに、上高地ファンや登山客の目を楽しませていることでしょう。
 わたしは山男ではありません。したがって、この歌も知りませんでした。これまで2000m以上の山に登ったことも片手ほどしかありませんが、その中で最も高い山は西穂高岳(2909m)です。しかし、正確にいうと、頂上まで登らずに手前で引き返して来たのです。天候は晴れていましたが、風が強く、途中独標(どっぴょう)からの鞍部キレットを走破するには、初心者は危険だと判断してのことです。大学1年(昭和30年)の夏休みのことでした。
 後年(昭和42.8.1)、長野県立松本深志高校のパーティがこの独標付近で落雷に遭い、11名の死者と13名の重軽傷者を出した、登山史上類を見ない遭難事故があったことを知り、慄然とした記憶があります。
 

投稿: ひろし | 2015年9月28日 (月) 15時10分

今宵はスーパームーン。蒼く冴えたお月様が夜空に架かっております。虫の音も心地よく聞こえて来ます。
 北アルプスの山荘で、今夜の満月を堪能しておられる岳人も多い事でしょうね。これだけ明るいと周りの峰々の稜線もくっきり見て取れて、素晴しいでしょう。
 今時の登山ザックは縦型主流になり、昔のようなキスリング型は殆ど使われてはいないでしょう。服装や装備品なども目覚ましく進化して、山岳スポーツが身近になったことは確かです。
 それとともに遭難、それも中高年の遭難が年々増加しているのも気になりますね。天候が怪しくなったら、躊躇する事なく引き返す勇気を持つ事が大事だと思います。 これからの紅葉シーズン、ハイキング、トレッキング、クライミング、秋山は賑わいますね。私は穂高・槍ももう行けませんが、「河童橋」辺りは随分な変わり様でしょうね。穂高よ!大キレットよ! さらば‼

投稿: かせい | 2015年9月29日 (火) 00時39分

また上高地のウエストン祭が来ますがその中で歌われるダークダックスの「上高地の春」をアップして頂きたくお願いします。

投稿: 海道 | 2016年5月10日 (火) 11時11分

【穂高!】何と懐かしい山の名前でしょう。50年前大阪駅を深夜出発して、翌早朝【木曽福島】に到着しバスで上高地へ。寝ぼけ眼で・・・・【梓川】で顔をあらいやっと【上高地】に自分がたどり着いた実感が・・・・・・。その後空腹で「嘉門治小屋(?)」で待望の「そば」を口にできたとき、あらためて【西穂高】に登れることが実感出来ました。男性方には理解できないでしょうが当時は、女子は2800のみが同行を許されていたのです。男子は冬山や【立山】や【槍ヶ岳】など登っていました。当時の常識を私たちは受けて止めて、夏は【六甲山】や【大山】あたりで十分満足していたのです。
【西穂高山荘】で夕方【お風呂入れますよ】と声がかかり私が着替えをかかえておりていくと、目の前に【ドラム管から湯気が・・・・】
二階を見上げると、皆の笑い顔が・・・・・。
思わず部屋にかけあがりました。
その夜、硝子窓から見た【星空】の見事だったこと、忘れられない光景でした。あの【西穂高登山】に参加するために「播州のある山」でひとりトレーニングされての【上高地~美しヶ原】の二泊三日の登山でした。
その後息子たちをつれて、夏休みには【上高地】には二度足を運び、【河童橋】あたりで遊ばせ夜には「山荘どまり」をして、星空をみせてひとり自己満足したものでした。すべて懐かしい思い出の一ページです。
人生で4度【上高地】に足を運びましたが、5度目はないでしょう。でも後悔はありません。早朝に見た上高地が薄紫に見えたあの朝の光景は、一生忘れない私の記憶の一こまです。仰ぎ見ることしかできなかった山々、有難う!!

投稿: mitsuko | 2016年5月10日 (火) 15時06分

大学生の時友人S君と二人で穂高に登りました。スポーツは何をやってもだめな僕ですが歩くことくらい何とかなるだろうとの思いがありました。甘かったです。

S君がテント、飯ごう、ガスバーナーなどを準備し野営できるようにしました。徳澤でキャンプしました。

梓川の清流、シラカバ林の素晴らしさを満喫して歩いていたのですが、ほどなくS君のペースに合わせて歩くことができなくなりました。少し歩いては休み少し歩いては休みました。遠くに見える涸沢の山小屋も歩けども歩けども近付きません。こんなところに来るんじゃなかった、こんなことするんじゃなかった、と思いながら歩き続けました。

山の中腹からはるか下を見下ろすとゴマ粒のように小さく見えていた4~5人の女性グループがやがて私たちを追い越して行きました。女子大生のグループだったのでしょうか。

やっとの思いで山小屋に辿りつくと山小屋も山の頂上も深い霧に包まれました。頂上(残り400m)まで登攀することは止めになりました。助かった、と私は思いました。もうこれ以上歩けません。

先に到着していた女性グループのリーダーらしき方がS君に近付き、「下りをご一緒しません?」と話しかけました。なかなか魅力的な女性です。私の気持ちは「おぉ~!」と舞い上がりました。少しは私の体力も回復していたのだと思います。先ほどまで死ぬ思いでやっとのことで山小屋にたどり着いたのもケロリと忘れて、下りは楽しいぞ、と期待に胸が膨らみました。

S君は、体躯も風貌も私と比べると月とスッポンです。私はこのように女性に声をかけてもらえるS君に嫉妬していました。俺なんかじゃなぁ~、という嫉妬がありました。

ところが、S君は彼女の親しみを込めた申し出に表情をピクリとも変えないのです。彼女とは眼も逢わせず、横を向いて無視していました。一言も彼女に返事を返しませんでした。

私は、失礼だなぁ~。何ともったいないことを、こんな出会いのチャンスは二度とないのに・・・、などと思っていたのですが・・・

私はその後S君にその理由を問い詰めることはしませんでした。考えてみますに、おそらく私が一緒では皆と同じペースで歩くことはできない、という配慮もあったのだろうと思います。

穂高についてはたわいのない後日談も書きたかったのですが、長くなりますので、またの機会があれば投稿させてください。

穂高よさらば


投稿: yoko | 2016年5月15日 (日) 09時49分

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