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別れのブルース

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:藤浦洸、作曲:服部良一、唄:淡谷のり子

1 窓をあければ 港が見える
  メリケン波止場の 灯が見える
  夜風汐風 恋風乗せて
  今日の出船は 何処(どこ)へ行く
  むせぶ心よ はかない恋よ
  踊るブルースの 切なさよ

2 腕に錨(いかり)の 刺青(いれずみ)ほって
  やくざに強い マドロスの
  お国言葉は 違っていても
  恋には弱い すすり泣き
  二度と逢えない 心と心
  踊るブルースの 切なさよ

《蛇足》 昭和12年(1937)のヒット曲。ウ~ム、昭和モダニズムの匂いがする……。

 モダニズムは、一般的には「都会的・近代的な感覚を示す芸術上の諸傾向」ですが、日本では、大正~昭和初期に、欧米の思想・芸術理論・様式などを積極的に取り入れて、現代人としての新しい感覚を表現しようとした運動や傾向を指しています。

 このころ、ジャズ、ダンス、カフェなどのモダニズム文化がサラリーマンや知識人をとらえる一方で、庶民は、剣劇映画、落語などの大衆文化に惹きつけられました。蓄音機とレコードが登場し、流行歌全盛時代が訪れ、『君恋し』『東京行進曲』などの明るい曲がヒットしました。
 しかし、不景気が深刻化し、大陸の戦火が拡がるにつれて、『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』といった哀調を帯びたメロディが人々の心をとらえるようになりました。

 この歌を聞いていると、ホテルのフランス窓越しに暗い波止場を見下ろしている女性のシルエットが浮かんできます。

 1番のメリケンはアメリカンのなまり。メリケン波止場はアメリカ船の着く波止場で、転じて外国船の着く波止場。横浜港(写真)と神戸港のものが有名。
 2番の「やくざ」は、ヤーサマ
(ヤッチャン)ではなくて、荒事や腕力沙汰を指しています。腕力が強ければ、当然、ヤーサマにも強いでしょうが。

 ブルースの歴史については、『思い出のブルース』の蛇足をご覧ください。

(二木紘三)

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コメント

1999年9月22日淡谷のり子さん逝去。92歳。直後某テレビ局で追悼特番が組まれました。その中で、生前の淡谷さんが「別れのブルース」にまつわる印象的なエピソードを語っていました。
 …太平洋戦争末期。淡谷さんは各戦地を慰問に訪れていました。ある航空基地でのこと。集まった兵士たちの前で別れのブルースを歌っていると、後ろで立って聴いていた若い兵士たちが途中で淡谷さんに敬礼しながら、次々に去っていくのです。事前に「特攻隊員たちが出撃のため、中座するかもしれませんので」と上官に説明を受けておりましたから『あヽ、飛び立っていくのね』と思いながら、歌い続けました。
 しかし「よく見ると、まだあどけなさの残る、私の弟のような年頃じゃありませんか」。そんな彼らが、屈託のない天真爛漫な笑顔で淡谷さんに敬礼しながら、死地に赴いて行くのです。
 「途端に涙があふれて、声がつまって続きを歌えませんでしたよ」…。
 「二度と逢えない 心と心」。  究極の「別れのブルース」です。

投稿: 大場 光太郎 | 2008年1月24日 (木) 18時16分

最近では横浜も「みなとみらい」地区に外資系ホテルなどが多く建っているようですが、何と言っても、一番の老舗は山下公園前の『ホテル・ニューグランド』。藤浦洸氏は、同ホテルに実際に泊まってみて作詞の構想を練ったと聞いたことがあります。私も昭和47年頃、アメリカからの賓客を送迎するのに、このホテルに何度も行き来しました。待ち時間にふと廊下側の窓を開けると、大桟橋(おおさんばし 旧名:メリケン波止場)がすぐ目の下でした。作詞の通りだ、といたく感心した思い出があります。

投稿: 乙女座男 | 2009年5月31日 (日) 09時25分

   窓をあければ 港が見える
   メリケン波止場の 灯が見える
 出だしからして、何ともメランコリーでノスタルデックな詞の言葉とメロディです。遠き昭和の港の灯が目に浮かぶようです。しかし「メリケン波止場」が現在の「大桟橋」だったとは ! 今の今まで夢知りませんでした。(乙女座男様の上記ご文で初めて知りました。)
 「大桟橋」につきましては、私のブログで何度か取り上げてきました。特に今年の早春のある夕方午後4時過ぎ、(往時は横浜三塔のうち「キング」と称えられた)神奈川県庁本庁舎屋上から望まれた、大桟橋、赤レンガ倉庫そしてその間の横浜港のようすなどを一文にしました。『久しぶりいい文章が出来たぞ ! 』と一人悦に入ったものでした。
 横浜は今年「開港150周年」の記念イベントがめじろ押しのようです。大桟橋はメリケン波止場だった―今後新たな感慨をもって大桟橋を描けるのではないだろうか?と今考えております。
 乙女座男様。貴重な情報大変ありがとうございました。
   夏至遠きメリケン波止場の灯を想ふ  (拙句)   

投稿: 街の灯 | 2009年6月21日 (日) 19時15分

『街の灯』様のご参考になったならうれしい限りですが、『大桟橋』が正式名称で『メリケン波止場』の方はうまいネーミングの、おそらく俗称なのでしょう。建て変わる前の『ホテル・ニューグランド』はこの歌のようにミナト・よこはまの雰囲気と詩情あふれるホテルでした。また、ここはかって長く自宅代わりの定宿にしていた作家・大仏次郎氏が大のお気に入りのホテルでもありました。

投稿: 乙女座男 | 2009年9月14日 (月) 00時46分

 乙女座男様 またまた貴重な情報ありがとうございます。『メリケン波止場』は俗称とのことですが、やはりこちらの方が情趣がありますね。この歌でも 「大桟橋の 灯が見える ♪」 ではさまになりませんものね。
 大佛次郎も『ホテル・ニューグランド』が大のお気に入りだったのですか。大佛は鎌倉をこよなく愛し、川端ら他の鎌倉文士などに呼びかけてその自然を守ったそうですが、そもそもは横浜市出身だったのですね。大佛も同ホテルから横浜港の夜景を眺めては、この歌のような感慨にふけっていたのでしょうか?
 今現在の同ホテルからの夜景はどうなのでしょう?街灯に浮かび上がる眼下の山下公園、大桟橋、その向こうの赤レンガ倉庫。目を転じて右手遠くに一段とライトアップされたベイブリッチ。それは開港150周年の横浜港の、詩情溢れる新しい夜景かもしれませんね。
 大変ありがとうございました。 

投稿: 街の灯 | 2009年9月14日 (月) 18時29分

「別れのブルース」、「夜のプラットフォーム」、「夜霧のブルース」、「上海の花売り娘」は私も色々想い出があり、あまりにイメージを掻き立てられるので、上海、大連では旧日本人街を唄とともに歩き回ります。満鉄本社で口ずさんでも、同行の若い仲間は何も知らず、私は自分の作品『愚劣少年法』(中公)にもちょっと引用して歌詞に注目させましたが、時代の風化というより、関心がここまで変貌したことを、どう食い止めたらよいのかわかりません。否応なく経つ時間がすべて忘却の彼方へ追いやる。その無念さが先に立つ日々です。先日はラバウル攻防戦の体験をなさったご老人を越生に訪ねましたが、この世代もそれよりやや若い我々世代も、消えていくのと平行して、すべては霧消する思いでおります。せめてこの唄だけでも、そのエピソードと共に、永遠に語り継ぎたいものです。

投稿: 濱野成秋 | 2009年10月 2日 (金) 10時45分

濱野様も嘆いておられますが、わたしも名曲が忘れ去られ、歌い継がれなくなっていく現実を嘆かわしく思っていますが、所詮「歌(流行歌)は世に連れ、世は歌に連れ」ではないかと自分を慰めています。今の若者に人気のロックやポップスも、やがて同じ運命をたどることでしょう。
 ところで、この『別れのブルース』がリリースされた時代背景を考えると、この歌は反戦歌のさきがけをしているようにも思えるのです。いや、「反戦」はオーバーで、「厭戦」ですかね。藤浦洸の歌詞といい、服部良一の曲調といい、巧まずして戦争に背を向けているように受け取れます。まして、反骨の歌手淡谷のり子が、持ち前のソプラノの声質をアルトに下げて歌う苦心談や、大場様のコメントに見られるような彼女の軍部に対するエピソードを知ると、一層その感を強くします。もちろん作歌に携わった方々は戦意を削ぐような認識はなく、今までにない斬新な流行歌を作ろうと意識されていただけかも知れませんが。結果的に多くの国民に受け入れられた訳ですが、この歌の持つ厭戦気分を敏感に感じ取った軍部が放送禁止の方向に動いたのではないでしょうか。
声高に反戦を叫ぶことも時には必要でしょうが、こうした無意識のうちに厭戦気分を沁み込ませる歌の効果はより大きいのかも知れません。

投稿: ひろし | 2009年10月 3日 (土) 11時42分

確か1935年ごろか1940ごろだったと思いますが全国的に【労音】【労演】が全国的に展開されていて、友人が【労音】の事務所に勤めていました関係で、毎月何かの演奏会が、安い会費で楽しめた時代でした。ある時明治生まれの父に【淡谷のり子】好きだったら、一緒に行ってくれると頼み会場に入ると父が俄然無口になり、何か人を寄せ付けない雰囲気になりました。私はそれなりに音楽に浸ってくれてると思いました。淡谷さんの歌い方はまずマイクの前で斜めにすっと立って、両手を胸の前で組み、マイクに向かって顔を30cmから50cm離れた場所で、歌われる人でした。そして驚いたのは口がほとんど開いてないようでしたが、声は後ろの方の席だった私たちにも、耳にじ~んと響いて聞こえる声の出し方には、驚きました。時々【鳥肌】が立ってきて・・・・・。父は話しかけることさえ許さないくらい、自分の世界に浸っていました。帰り道声の出し方がちょっと違うみたいだったねと、話しかけると「今時の駆け出しとは違うんだよ」と、吐き出すように言いました。「彼女は声楽家になる人だったけど、時代の流れで歌謡曲を歌ってるんだ」と、下を向いて歩きながらつぶやいていました。いつも優しく話しかけてくれる父が、とても遠い存在な感じで、帰り道はさみしかったです。いつも出かけたときは「喫茶店」でロールケーキを食べさせてくれたのに、その日は真っすぐに家に。戦争を経験した人同士の二人には、私の理解出来ない思いが其々の胸の中にあるのだなあと、思うことにしました。きっと父も曲を聴きながら、心は曲と別のところで想い出が交錯して、複雑な心境だったかもしれません。忘れられない曲の「二度と会えな~い、心とここ~ろ」今もなぜか胸が詰まります。

投稿: mitsuko | 2016年2月19日 (金) 01時48分

切ない声を作らずに切なさを表現できる歌手でしたね。今は一人もこんな風に歌える歌手がいません。mitsukoさんは実演を聴かれることが出来て良かったですね。人はそれぞれ語れない思い出を歌に託して心の中で歌っているのでしょう。その時、お父様の胸のうちは語れない思い出が甦り涙であふれて居られたと思います。素敵な父娘で羨ましく思います。私の父は「べらんめぇ」と浪花節でしたからねぇ。父がもう少し長く生きていて、私の恋を知ったら相手を殴りに行ったと思います。くわばら、くわばらです。

投稿: ハコベの花 | 2016年2月20日 (土) 18時34分

二木先生

ここに一枚のレコードがある。朧に記憶を辿っていくと今から34~35年前、友人から借りっ放しに気づき、半年後にそのことを言ったら、“わかってるよ!他のことならいざ知らず、このレコードだけはお前に貸した時から絶対に返ってこないと思っていた。そのかわり、俺もお前に借りっ放しのものがあるような気がするけど…。
『懐かしの歌声 魅力のすべて』■伴奏 コロンビア・オーケストラ 我が家のレコードプレイヤーが故障した10数年前までは、時々、今では音信不通となった友人の顔を思い出しながらよく聴いたものですけど…。

『淡谷のり子を指して「ブルースの女王」と呼ぶようになったのは、この歌のヒットからである。この歌は、また同時に藤浦洸を歌謡詩人として世に出した。つまり彼の処女作であった。レコードは昭和12年(1937)7月発売されたが、当初は大して話題にもならずヒットもしなかったが、やがて、この歌は船員の口から満州の港、大連に運ばれ、そこで流行り始め、再び船員の口から神戸へと伝えられて日本へ逆上陸し、そこから流行り始めて燎原の火のように広まって、半年後には全国を風靡していたという、まことに奇妙な形でヒットした歌である。テーマが港であり船員であったのが船員達に愛唱されたのだろう。この詩を書く為に横浜の港の見えるホテルに籠った藤浦は、《窓をあければ港が見える》まで書いたきり筆が進まなくなり、服部良一と二人でやっと一番を作り上げ、それからはすらすらと進んだという話であった。』
二木先生の素晴らしい解説を読み、またこのレコードの解説にも目を通しながら名演奏に聞き入っています。

投稿: あこがれ | 2016年11月 4日 (金) 16時48分

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