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青葉の笛

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵

1 一の谷の軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ
  暁寒き須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛

2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)
  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ
  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)
  残れるは「花や今宵」の歌

《蛇足》 明治39年(1906)発表。

 『平家物語』のうち、一ノ谷の戦いを歌にしたもので、「敦盛(あつもり)と忠度(ただのり)」という副題がついています。
 1番は無官大夫平敦盛、2番は薩摩守平忠度が主人公になっています。

 一ノ谷で、源氏の武将・熊谷次郎直実(なおざね)は、海に逃れようとしていた若武者を呼び返し、組み敷きました。顔を見ると、自分の息子と同年配の少年だったので、見逃そうとしましたが、味方が近づいてきたので、やむなく首をはねました。それが平敦盛でした。
 上の絵は、
敦盛が熊谷直実の呼びかけに応じて陸に引き返そうとしているところ。

 あとになって、熊谷直実はこのできごとに世の無常を感じて出家したと伝えられます。ただし、出家の原因は、母方の叔父との領地争いに敗れたことだったというのが史実のようです。

 2番に出てくる「わが師」は『千載和歌集』の選者・藤原俊成(しゅんぜい)。俊成は藤原定家の父です。

 忠度は平家都落ちの途中で京都に引き返し、深夜ひそかに俊成を訪ね、自作の何首かを託しました。そのうちの1首「さゝ波や志賀の都はあれにしを昔なからの山さくらかな」が『千載和歌集』に「詠み人知らず」で載っています。
 俊成が「詠み人知らず」にしたのは、平家が朝敵(ちょうてき)のため、本名では載せられなかったことによります。

 平忠度が箙(矢入れ)につけていた「花や今宵」の歌は、「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」。

 かつては質朴な武士集団だった平氏は、権力を握ると公家化しました。それとともに忠度や敦盛のような文化人・教養人が何人も出ましたが、武家としては軟弱化したわけです。その結果、地方で質実剛健な生活を続けていた源氏に敗れることになったのでしょう。

(二木紘三)

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コメント

中学生のとき見た、三船敏郎主演の「無法松の一生」の中で、吉岡の坊ちゃんが学芸会でこの歌を歌ったのが印象にのこっています。
わたしがこの歌を正確に知ったのは昭和42年発行の「日本の詩歌」(中央公論社)です。それいらいこの歌には思い入れがあったものの「花や今宵の」意味がわからずにいましたが、この「蛇足」を拝見して納得しました。さらに、平家物語の、熊谷直実が敦盛を討つ場面や、忠度が俊成を訪ねる場面などを読んでみてなおさら感じいっています。

投稿: 佐野 教信 | 2007年10月18日 (木) 23時23分

昭和28年か29年頃、我家には電化製品らしきものは皆無。見事に何もなし!各部屋に一個ずつの60ワット電球と豆球が吊り下がっているのみ。一軒置いた隣も似たようなものだったにしても、そこにはラジオ受信機がありました。真空管何球スーパーと言った、むかしタイプの食パン型。NHKラジオの歌の番組でこの『青葉の笛』がよくそこから流れていました。
歌っていたのは当時の童謡歌手『小鳩くるみ』。がらり変わって、いま彼女は女子大の英文学教授でイギリスのマザーグースの研究家とか・・・英字新聞で近影を見たときには、ラジオからのあの歌声が思い出され、うたた懐旧の念に堪えませんでした。

投稿: 乙女座男 | 2008年1月 3日 (木) 20時40分

 ゴンドラの唄からはじまり、母さんの歌、月の沙漠、城ヶ島の雨と曲は変われど、巻き起こった清らな波がしみじみと心に伝わってきます。有難うございます。
 この「青葉の笛」を聴かせていただくと思うことがあります。
 神戸生まれで、平敦盛の首を洗った池・首を葬ったといわれる首塚・敦盛が持っていたと伝わる青葉の笛のある須磨寺は、お大師さんのとき祖父母によく連れられて行ったお寺です。このこともあり、中学生のころからか、この清らで悲しい旋律が心にのこり、ことあるごとに口ずさむ曲となっていました。
 源氏と平家 どちらが好きと問われれば、即座に源氏と答えていた頃でも、この曲からは、もののあわれが思われ、敦盛・忠度の無念さを思ったものでした。 極論になるかもしれませんが、今では、現代の我々がおかれている状況の「ありがたすぎる感」につきあたってしまうのです。古代の中世の近代のどの時代でも、不遇の死がいかに多かったことか。自分の本意でない争いにまきこまれていった人々。虫けらのように死んでいった人々。
 しかし、それぞれの一人ひとりの人生がそれぞれに素晴らしいものだったのかもしれません。他の人たちに何らかの良きことを伝えていったと思うからです。善なる魂でしょうか。
 清き良きことを思うとき、ほんとうに人は心素直に温かくなれるものです。  ここで好きな曲に出会い費やす時は何ものにも変えがたい素晴らしいときです。
       有難うございます。

 ゴンドラの唄で志村喬さんのことにふれられておられましたね。ほんとうに好きな俳優さんでした。あの時代、存在感のある方は多かったですが、志村さんは特別に思えました。高校の先輩だったという点を差し引いても---

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年4月 3日 (木) 20時57分

戦後の無理が祟って、父は結核になり、家で療養していました。段々悪くなり、医者より結核療養所に入ることを勧められていました。ある日私の家の小さなラジオからこの青葉の笛の歌が放送されました。寝床の上に座って聴いていた父がそっと目頭を拭っているのです。子供の私は父が涙を流しているのを見たのは、このときが初めてなのです。子供の私は、あんな古い歌に涙して、父も古いなあ、とそのときは思ったのです。それから間も無く父は母に連れられ、療養所に行きました。家から出て行き、少し先の小川の橋から家を振り返って暫く家を見ていましたが、母に促されて去っていきました。父との別れはこれが最後でした。子供だった私は大人になってからやっとこの時の父の涙の意味が解りました。父は子供や家と別れて、一人療養所に行く自分と、療養所に行く意味が、父には既に解っていたのだと思います。父はこの青葉の笛の歌に、その時の自分の境遇を重ね合わせて涙したのでしょう。苦労して家しか残さなかった父ですが、その家が今私が住んでいる家の建設にに役立ったのです。あれからもう56年の歳月が流れました。父に本当に感謝する日々を送っています。            歌好きじいさん

投稿: 歌好きじいさん | 2008年5月18日 (日) 15時24分

メロディーを聴いているうちに、何十年も間違って覚えていたことに気づきました。
“討たれし平家の”このフレーズが狂っていました。
姉たちが歌っていたのを小さかった私がいい加減に覚えてしまったのでしょう。
この度しっかりと耳に覚えさせましたのでもう大丈夫です。感謝!

この歌は湯船に浸かって一曲目に口ずさむ歌なのです。
いい気分で二曲目、三曲目と続く歌には「鎌倉」「ひよどりごえ」「七里が浜の哀歌」「大楠公」など昔の歌が多いです。これらも知らないうちに姉たちから教わっていたのかもしれません。

投稿: 高木ひろ子 | 2008年5月19日 (月) 00時33分

今晩は 私が小学校の低学年のころ、講談社発行の世界少年少女ーー全集一冊200円でした。源平盛衰記、平家物語、義経物語など読み、今の歴史好きの私を作り上げたと思っています。平 忠度の首をあげたのは、埼玉県 岡部在住の岡部六弥太忠澄と言う武士です。自分の領地の一番景色のよい所にお墓をたてたようです。供養の意味もあったのでしょうか。

投稿: 昔の少女 | 2008年5月26日 (月) 21時49分

この唄は平家の事を歌っているのに、長く続いていますね。
短大を卒業して入社されたおねい様に、せまがれて練習の結果歌えるように成りました。40年位前のことです。組織の中にいるリーダーは常に時代遅れにならない様に、気を配らなければいけないので大変だったと思います。

投稿: 海道 | 2008年10月21日 (火) 08時31分

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。昨日は東関に轡を並べて十万余騎、今日は西海の浪に纜を解いて七千余人。
子供の頃といっても、戦前の話ですが源氏が大好きでした。鵯越の逆落とし、那須与一の扇の的、静御前の雪の吉野の別れ、敵将頼朝の前で入りにし人を偲んで舞う静の姿。
しかし後期高齢の今、たけき者も遂には滅び、偏に風の前の塵に同じ。とされた平家に思いをいたすようになりました。青葉の笛は母(明治35年生まれ)が物語り付きで歌って聞かせてくれ、お話の次は次はとせがんだものでした。二木先生の曲は本当に素晴らしい。有難うございます。泣けます。

投稿: 四国の爺さん | 2008年10月22日 (水) 00時34分

前の方のコメントにもありましたが、子供の頃、若い頃は源氏が大好きでした。武士らしく勇ましかったからです。しかし、年を取ると平家の方が好きになりました。
何故かと言うと、源氏は近親憎悪、骨肉相食む形で滅亡したからです。それに比べて、平家はほとんど血縁同士の争いがなく、滅びる時は一族郎党まとまって散りました。それが美しいのです。
本当に“武力”で驕り高ぶっていたのは源氏でした。それに対して、平家はこの敦盛や忠度のように文化的水準が高かったのです。「驕れる者久しからず」はむしろ源氏の方でしょう。しかも、粗野な“田舎侍”らしく骨肉相食んで醜く滅びたのです。
高齢になると、敦盛や忠度を始め平家の人たちのように、美しく死にたいと思うようになりました。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年10月22日 (水) 18時07分

電車やバスのただ乗りする事を「薩摩の守」といいました。本物の忠度さんには大変失礼なことですが、彼の通し名は「薩摩の守・平のタダノリ」であったからです。

投稿: 天の邪鬼 | 2008年10月28日 (火) 20時13分

小学校のころ この青葉の笛を題材に 舞踊をさせられました。学校の発表会でした。ミッションスクールなので男子も少なく10名ほどで舞踊の先生のところへ習いに行ったことを覚えています。
この歌はそのとき覚えて いい歌だなと思ったことが印象に残り、30年以上もたったけれどまだ覚えている愛唱歌のひとつになりました。

投稿: ドクトルマンホー | 2009年10月 3日 (土) 11時57分

うろおぼえの「青葉の笛」を探していて、このページにたどり着きました。他にも私の好きな歌がいっぱい。今現在約5時間、PCに張り付いています。これでは徹夜になりそう。
《蛇足》などと謙虚にされていますが、文筆をなりわいとされている、その見識に感服しています。

投稿: やまとさくら | 2010年7月12日 (月) 02時00分

ハーモニカを大好きなおじいさんです
毎年『2年』湯西川温泉にいっています
昨年は平家の里のお祭りで皆でハーモニカを吹きました
勿論”青葉の笛”を演奏して来ました
平家琵琶の演奏もあり・楽しんで来ました
ハーモニカでの青葉の笛は素敵です!

投稿: 田中喬ニ | 2010年10月21日 (木) 09時54分

『平家物語』を貫く大きな流れの一つが、「滅びの美学」と言われるそうです。
隆盛を誇った平氏は、あっけなく滅び、名ある公達も次々に、山野の露、海の水屑と消え去りました。
 平氏を都から追った木曽義仲も、壇ノ浦に屠った義経も、一瞬の光芒を残して、あえなく討たれました。
 『平家』は名文、美文を駆使して、これら散行く花びらを色鮮やかに、哀調切々と歌い上げるのです。『青葉』の曲は、この心に見事にマッチしています。
 琵琶歌に西条八十作詞『若き敦盛』という曲がありますが、私はこれに、『青葉』の一番を挿入して聞いています。沁みます。

投稿: MAEDA | 2012年9月 6日 (木) 00時29分

昨夜は検索して琵琶歌の「若き敦盛」を聴きました。哀切な思いがこみ上げてきました。「祇園精舎の鐘の聲…」は、学校で習って美しい冒頭は暗記しても、実際に琵琶歌を聴いたことがあったでしょうか…。MAEDAさん、ありがとうございます。

投稿: 眠り草 | 2012年9月12日 (水) 13時10分

 < 敦盛そば > 
 須磨。かつて この近くで育った私にとっては なつかしい地名です、源平の合戦の時、平家が陣を張った 一の谷には 今、 須磨浦公園とよばれる 松林の見事な 海に面した公園があります。南西方向に淡路島が見える景勝の地です。

 平 敦盛が 熊谷 直実によって 首を打たれたという場所、公園の西の端には、古い五輪の供養塔があり 敦盛塚とよばれています。少し離れた須磨寺には 敦盛の首塚があり、愛用した青葉の笛も そこに奉納されています。
 
 平敦盛、若き公達、イケメン、 しかも独身とくれば この供養塔に若い女の子が、数多く 線香を手向けても よさそうなものですが、神戸市の宣伝不足か 流行の波がまだこないのか、訪問者は少ない。
 私にとって この須磨浦公園は縄張りみたいなもの。小学校の遠足で 何度も訪問しましたし、幼かった子どもを連れて よく 散歩しましたから。ベトナムに住む今も その風景をありありと思い出すことができます。

 敦盛塚のすぐ横に 昔からオンボロな食堂があり、「敦盛そば」の暖簾がかかっていました。若い頃「ここで敦盛が命を落としたというのに それを記念して 敦盛そばと命名するとは なんたる商魂か!」と思っていました。

 それから30年たった最近、「食べログ」で検索すると その食堂はいまだ健在、健在どころか 立派に改装もしている。そういえば あのあたりは食堂も少ないから お客は一人占めできる環境だった。屋号もなく ただ敦盛そば というお店です。 お客のコメントをみると 平家物語のくだりをおもいだして感無量になった後、さて そばを食うぞ と書いてある。 感無量になった後、すぐに食欲がわくものかなと不思議に思いましたが 人それぞれ、あるいは人間の欲は、それとこれは別か、と考えました。 

 敦盛をだしにして商売しているわけだが、そば だけに いい出汁(だし)がでて成功したということだろうか。(ハイ、すべったー!!!)

投稿: 越村 南 | 2012年10月20日 (土) 22時21分

 『平家物語』にある題材ですけれど、大和田建樹がこの詩を書くときに依拠した直接の原典は謡曲だったと私は考えています。それは、平敦盛の持っていた笛が『平家物語』では「小枝」であり、『青葉の笛』は謡曲『敦盛』の方にしか出てこないからです。二つの笛はいずれも由緒ある品です。二番の内容にはそういう食い違いはありませんが、『平家』で『忠度都落」と『忠度最期』との二つの條に別れている話を謡曲『忠度』は一つにまとめて構成し、大和田の二番はそれの踏襲になっています。
 平家の「滅びの美学」のたくさんのエピソードの中から大和田建樹がこの二つを取り上げたのは、『敦盛』と『忠度』が特にポピュラーな名曲だったことに関係するでしょう。そうしてミュージカルスにもハードメタルにも縁がなかった昔は、能楽が国民共通の教養娯楽だったようです。武家の式楽として格式を誇った御能ですが、その台本の謡曲は庶民にも親しまれ、江戸の長屋の大家さんも、村の名主さんも、観世流や宝生流を習いました。
 天の邪鬼さんが「薩摩守=無賃乗車=ただ乗り←忠度」の懐かしいジョークを思い出しておいでです。今の若い人には通じないかもしれませんが、これは江戸時代の仮名草子や川柳にもしばしば使われているそうです。能とセットで上演されていた狂言の一つ「薩摩守」という曲で、渡し船のただ乗りのために薩摩の守と名乗ろうとする旅僧の滑稽話があり、これあたりが無賃乗車忠度のルーツということのようです。昔の庶民の教養に感じ入るのは私だけでしょうか。
 昭和30年代後半、実家の兄の婚礼に、来会の年輩のお百姓さんたちがいい声で「高砂」を同吟してくれました。後に知りましたが、村のお大尽が東京の名人に通って宝生流の謡曲を稽古し、村人に教え、あとでご馳走していた(落語で聞いたような話ですね)とのことでした。村人でそれを継いでいる人はもういないようです。
 グローバリゼーションとかいう散乱の時代に、二木先生の「うた物語」はかつての謡曲稽古に変わる役割を果たしているように思います。

投稿: dorule | 2013年2月23日 (土) 12時47分

 いやもう読みふけってしましました。博学な方が多いですね。薩摩の守ーただ乗りのジョークもあり、平家物語の忠度の都落ち、敦盛の最期など厚みのある文章ですね。また、心情的にも平家の逸話が興味を引きます。また幼いころの思い出がこの歌と重なっていることも共感を呼びます。
 私がこの歌の意味をさぐろうと思ったのは同人誌に書くためでした。反響はありませんでしたが、自分では納得したつもりですが・・・。
 しかし、このブログを読んで完全に脱帽です。すばらしいの一語に尽きます。ありがとうございました。

投稿: 今でも青春 | 2013年2月25日 (月) 22時07分

平家の魂を見ることができました山岳部分には落人が開いたとの言い伝えがあちこちに残る村落がありそこから出た若者の多くが近代化をなしえたのでしょう、昨今にいたり政府が歴史観を正しく若者に教える傾向を鑑み遅きを悔やみますが歴史学は未来学を語ることができる条件であると確信す、元寇の研究も然り千島から沖縄までを歌った、君が代の歌詞を探してます。

投稿: 小玉祐輔 | 2013年3月26日 (火) 12時09分

京都の金戒光明寺の、平敦盛と熊谷直実の五輪の塔が、直実が帰依した法然上人の廟の前に仲良く並んで立っている所に、何度も行ったことがあります。この歌のように悲しい最後をとげた愛すべき人たちのことを、国民みんなが覚えていることが、日本の良い所だと思います。世界的に高い日本人のモラルも、ご先祖様の記憶を大事にすることに支えられているかもしれないと思います。

投稿: 加藤 | 2013年4月17日 (水) 07時27分

忠度さん、可哀想だなぁ
狂言のおかげで広まったのでしょうが、読み方だけで
立派な武将・歌人なのに、負けるとこうなるのかしらん。

投稿: mesato | 2014年3月 9日 (日) 10時05分

この歌を聴くと小学生だったころのことをおもいだします。

音楽の授業の時に先生がこの歌をクラスの皆に教えながら「この歌はGHQ(当時は進駐軍と呼んでいた)に禁止されていたけれど、こんどから唄えるようになったんだ」

と言ったことを何故かはっきり憶えています。

日本の「よさ」とか「武士道」とかを徹底的に排除していたんだと思います。

この歌のどこが軍国主義につながるのかいまでは
うかがい知ることができませんが、GHQの言うことはご無理ごもっともな時代だったんですね。

もう五十年以上も前のことなので、あの先生の言ったことは本当なのかずっと疑問に思っていたのですが、先週の朝日新聞 be 版に戦後GHQに

禁止されていたことが載っていてやっぱり先生の言ったことは本当だったことがわかりました。

こんなにいい歌を禁止するセンスがわからないですね。

投稿: 町田勝二 | 2014年9月 9日 (火) 14時41分

 那須塩原温泉郷門前地区にある”妙雲寺”を訪ね、残雪の境内を散策してきた。壇ノ浦の戦いで源氏に敗れ平家の落人たちが、平重盛の妹・妙雲尼を守って関東に逃れ、ここを永住の地と定めたという。重盛の持仏として持ってきた釈迦如来像を安置し、後にここに妙雲寺を建てた立てたという。妙雲尼や塩原城主の墓などがある。
青葉の笛を聴き、歌う時にその苦労いかばかりかと思う。ここより北の湯西川にも落人部落がある、何故かそこも温泉が湧いている。 (”二木紘三のうた物語”は素晴らしい)      桶川市 shiiza koba

投稿: 小林  茂 | 2015年2月28日 (土) 19時22分

前に、作詞の大和田建樹がこの歌詩の典拠としたのは謡曲だという私説を披露しましたが、意を尽くさなかったかも知れませんので、補足します。
世阿弥の作った謡曲『敦盛』では、前シテの草刈り男(実は敦盛の化身)が、ワキの蓮生坊熊谷直実との問答で「小枝蝉折さまざまに 笛の名は多けれども 草刈りの吹く笛なればこれも名は青葉の笛とおぼし召せ」と説明します。つまり、『平家物語』では、祖父忠盛、父経盛と相伝されて、敦盛が上手だからと譲られたこの笛は「名をば小枝とぞ申しける」とありますが、世阿弥の天才は、『平家』で「小枝」と言っているのを承知の上で(「小枝蝉折さまざまに笛の名は多けれども」)、前シテの姿にふさわしい「青葉の笛」を採用したのです。平敦盛の名が「青葉の笛」に結びつけられるのはこの謡曲によりますが、歌の好きな人と話しも能楽愛好者以外はこのことにあまり注意していないようでした。
ついでですが、同じ謡曲『敦盛』に「まことに平家世を取って二十余年」という句があります。たった20年あまりで、平家の荒武者が貴族化して、歌詠み、笛吹きの文弱教養人になってしまい、東国の源氏の野蛮さに追い落とされたというのが不思議でしたが、考えてみると、あのころは人生が50年よりもさらに短く、世代交代の早い時代だったからでしょうか。現代でもヒロシマから70年経てば世は変わるようです。

投稿: dorule | 2015年8月25日 (火) 12時14分

須磨寺に行った時、越村様がふれておられる、敦盛の笛を拝観しました。直実の呼びかけに敦盛が振り返った、二人の騎馬像もありました。振り返らず逃げていれば....という、二人の決定的な瞬間をとらえた像に心を打たれました。須磨には源氏物語の碑もありました。それで、この歌の「須磨の嵐」は、須磨で嵐にあった光源氏のように、敦盛が美男子だったこと、平安文化の雅びを受け継ぐ能力のある人だったことを言っているような気がしました。

投稿: 加藤 | 2016年3月 7日 (月) 12時23分

 高校の古文の時間で「平家物語」を習いました。最後まで終わってから先生が「何処が良かったか、印象に残ったか」という質問がありました。この先生はなぜかよく私を指していましたので、下を向いていました。「那須与一の場面がいい」とか「清盛最期のお湯が湧くさまが面白い」とかみんながそれぞれに答えていました。(あ、これでおわり)と思った瞬間、指されてしまいました。私は本当にそう思ったので「書き出しの、祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」と答えたら「なんだ、美文麗句が好きなのか」といわれてしまい言葉に詰まってしまいました。この文章の中に世の移ろいと儚さが感じられていましたが、その気持ちをなんて言えばよいのか分かりませんでした。とても恥ずかしかったのを覚えています。

投稿: konoha | 2017年2月11日 (土) 14時33分

町田勝二さんの「日本の「よさ」とか「武士道」とかを徹底的に排除したGHQ」のコメント有難うございます。

私は数年前から詩吟を習っています。
大正時代から昭和初期の日本では学校や職場、地域などで広く吟じられた詩吟をGHQは禁止したそうです。
そして「GHQのお先棒を担いで、詩吟を吟ずるべきではない」と詩吟を反対する人たちがいたことを詩吟の先生は嘆いていました。

その詩吟の中に「青葉の笛」や「平家物語の一節」 
    祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
    沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を現す

    驕れるもの久しからず ただ春の夜の夢の如し
    猛き人も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
                も 教わりました。

平家物語の冒頭の一節、平家没落の哀史の前奏曲として切々たる哀韻を奏でています。
諸行無常、栄枯盛衰の理は、平家物語全編を通ずる原理となっています。 の解説があります。

高校の古文の時間で konoha さんがお答えになった「書き出しの、祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」は素晴らしい回答だと思います。

「青葉の笛」を下関赤間神宮にある平家一門の墓(七盛塚)の前で吟じました。

また小泉八雲「怪談」の冒頭「耳なし芳一」の祠堂の横から「祇園精舎の鐘の声え~~ 諸行無常の響あり~~」と琵琶の音と語りが流れていました。

投稿: けん | 2017年2月11日 (土) 18時59分

けん様
 長年のつかえがとれました。ありがとうございます。子供のころは「耳なし芳一」の話がとても怖いと思っていましたが、この歳になると切ない物語として怖さが消えますね。

投稿: honoha | 2017年2月11日 (土) 22時16分

けんさま  

 赤間神社で 青葉の笛 を吟じてこられたとか
 さぞかし 心のこもった 哀愁に満ちた 吟詠だったと想像いたします

 能勢の平家に関連することは 赤とんぼ に書かせていただきましたがーー  
 能勢は 清和源氏の発祥地なのです  
 経基王が臣籍降下し 源 を名乗りました  その子が
 源満仲で その直系が攝津源氏(多田源氏)となります
  多田神社は 満仲の創建です             
 攝津源氏の傍流に 河内源氏があり その流れに 頼朝 義経 らがでます

 源氏の大本の 源満仲のお位牌を祭られている御家もあります  そのほか 歴史のある御家のお位牌には 源のーー と続くものが多いです

 ただ歴史は はっきりしないことが多く 清和天皇ではなく その子の 陽成天皇からでているとの説も有力です
 この出自論争は実証ができず決着はついていないと書かれているものが多いです
 陽成天皇が暴君であったがため 清和源氏と呼ぶようになったともいわれています 

 何故 この能勢に 平通 安徳天皇陵があるのか とても不思議です   本家本元の源氏の里に 平家の落人がくる???  ふしぎですね
 懐に飛び込むことをよしと考えたのか 能勢はすでに 摂津源氏の勢力が全く弱っていたために安全と考えたのか
 (以仁王の令旨で平家討伐に最初にたったのが 源頼政です 宇治平等院の戦いに敗れ自害しました)  歴史はロマンですね  またいくつもの気づきがあたえられます   

 やはり 戦争に向かっていくような世情 
     そういう雰囲気をつくるような 政府 マスコミ いくら注意してもしすぎることはない そう考えています

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年2月12日 (日) 00時08分

能勢の赤ひげ 様

おはようございます。
清和源氏の発祥地の能勢、多田神社、頼朝 義経、陽成天皇などの事について教えていただき誠に有難うございます。
なんの知識もなく単なる巡り合わせや偶然で神社や史跡を訪問している自分の不勉強を恥じます。
赤ひげ様のお住まいのお近くかも知れませんが川西市東多田に私の母方の本家があります。東多田に住む同じ年の従兄を何度か尋ねたことがあります。

また多田神社に半世紀前にお参りしたことがあります。
能勢の赤ひげさんのお話を伺うことができ不思議な感じがします。

平家の落人につきましては関西や九州に多いと思っていました。昨年新潟の豪雪地帯 津南に行ったとき、平家の落人の集落があると聞き、歴史のロマンを感じました。

私の父と先代赤間神宮宮司は満州大連神社時代から親交がありました。そのご縁を私たちが引き継いでいます。

宮崎県都城市にありました或る政治家の石碑に
  「人を恨まず 他人を妬まず けんかをせず
    静かに朗らかに 働くべきものなり」

また 或る店の冊子の中に
  「霜にうたれた柿の味 辛苦にたえた人の味」

             を手帳に書き留めています。

投稿: けん | 2017年2月12日 (日) 06時19分

 今でも青春さま

 学問の積み残しを 五代 友厚 の研究で補われるとか    また いろいろ教えてください

 けんさま

 僕にも 不思議なことがありました
 今日は 吉田山にいたのですが  あの見えるお寺は何ですかと聞くと 真如堂ですとの返事   では 右手にみえるものはと質問すると 金戒光明寺とのこと
 まさか 青葉の笛に関係のある寺院とはーー        以前 加藤さまが書かれておられますね
 熊谷直実が帰依した法然上人の廟の前に仲良く並んで平敦盛と直実の五輪の塔が立っている  昔の方は 敵でも篤く弔ったと云う事実に気づき 心が洗われた感にひたりました  
 時代は下りますが 嵯峨野の宝筐院には
 好敵手であった 足利義詮と 楠木正行の墓が並んでたっています

 そうですね 歴史からよく学び 生きとし生けるもの すべてが平和に暮らしたいものです

 「人を恨まず 他人を妬まず けんかをせず
    静かに朗らかに 働くべきものなり」
 「霜にうたれた柿の味 辛苦にたえた人の味」

  肝に銘じました  生かせていただき 働かせていただけることに感謝して 明日から労働に勤しみます

  りんご さまの

  「運不運を幼心にも知りました 
   他人の通った後はわずかの収穫」  の言葉
 も頭にしまっております

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年2月12日 (日) 22時44分

二木先生

「青葉の笛」は家内がとても好きな曲で、10数年前に訪れた須磨寺で、敦盛遺愛の笛や源平の庭等を思い出しながら、しんみりと聞かせて頂いております。
いつも名演奏をお聞かせ頂き有難うございます。
これからもよろしくお願いいたします。

能勢の赤ひげ様

紅もゆる 丘の花 
狭緑匂う 岸の色
都の春に 嘯けば
月こそ懸かれ 吉田山

真如堂は、丁度吉田山の東側裏手にあり、近くには元伏見宮家別邸 吉田山荘やカフェ真古館がありますが、高級すぎて手が出ません。
真如堂は紅葉の名所でシーズンには観光客でごったがえしているようですが、山門右手の茶屋では抹茶やお菓子それに水琴窟も楽しめますね。
本堂左手の池の畔には、マキノ省三監督による日本最古の時代劇「本能寺合戦」の撮影碑があり、裏庭から抜け道を行くと金戒光明寺に~。京都守護職 松平容保が本陣を構えた新撰組の本拠地、又平家物語で熊谷直実ゆかりのお寺(くろたにさん)としても有名で、アクセスは平安神宮からタクシーが一番ですね。

吉田山からの眺めは絶景でしたでしょうね。
私は、上ったことがありませんけど、京都大学の学生さん達の庭みたいなものでしょうね。
それにしても、能勢の赤ひげ様の歴史探索は本当に勉強になります。ありがとうございます。


投稿: あこがれ | 2017年2月13日 (月) 14時33分

平家物語を高1の時、1年習いました。この物語で一番美しい文章は「大原御幸」だと私は思います。この章を丸暗記させられました。今でも所どころ思い出して口をついて出てきます。「池水にみぎはの桜散りしきて波の花こそ盛りなりけれ」という歌がある章です。
私の母の実家は日本三大砂丘の1つ中田島海岸のそばにあります。平家が負けた時、船で逃げて遠州灘まで来て、そこに住みついたとよく言っていました。
高校を卒業するとき、東京に下宿していた友人の所で、受験に来ていた彼と出会いました。彼の姓は母の実家の姓と同じで、やはり平家で落ちのびて兵庫の朝来に住みついたといいました。容姿も私の従兄たちにそっくりでした。800年の時を経て偶然に出会ったのは、神の采配ではないかとその時思いました。血縁がないと思うよりは神が出会いを与えてくれたと思うほうがロマンを感じます。彼と別れて55年たちますが今でもどこかでつながっていると思っています。

投稿: ハコベの花 | 2017年2月19日 (日) 16時05分

与謝野晶子の歌に
「春の夜に 小雨そぼふる大原や 花に狐のぬる寂光院」
というのがありますが、また大覚寺から歩いてほど近い北嵯峨の直指庵ではこんな歌碑をみつけました。
「夕ぐれを 花にかくるる小狐の にこ毛にひびく 北嵯峨の鐘」             どちらの句も、人里はなれた侘び住まいの切なさがただよってくるような感じがしますね。

投稿: あこがれ | 2017年2月20日 (月) 00時43分

あこがれさま
 
 赤ひげの歴史探訪ーーー などとかかれると恥ずかしくなります   薄っぺらな知識しかもたないのに 褒められるのは 困りものですよ

 あこがれさまこそ 京都検定をとおられ すばらしく多くの知識をもたれていて  羨ましいです

 僕の場合は この うた物語の皆様のコメントと 時を同じくして その話題の地所に行き合わせていることが多いかな  そんな気がしています  不思議なことです
 二木先生のうた物語のまわりを糾っているような感じです

 青葉の笛 は奥様が お好きな曲だとか
 僕もこどものころから よく耳にした曲でした

 なぜか 源平の昔にタイムスリップさせてくれるような もののあわれと みやび を感じさせてくれる素晴しい曲ですね

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年2月20日 (月) 21時29分

能勢の赤ひげ 様

常照皇寺のことでは、ついつい逸脱したコメントになり送信したあとでずっと反省をしておりました。僭越な言動をお許し下さい。
私こそ皆様のコメントを拝見しながら糾っているだけの浅学菲才な者ですけど、何とか皆様のお仲間でいたいとの思いで恥じをしのんで投稿させて頂いております。
二木先生の名「蛇足」に、それに ひろし様はじめ諸先輩の方々のコメントに学ばせて頂くことの喜びと楽しさで年甲斐もなく興奮状態を抑えきれないこともあり行き過ぎますので、これからは気をつけなければと反省しています。
今回も歌~と関係のないコメントとなりました。お許し下さい。

投稿: あこがれ | 2017年2月21日 (火) 00時01分

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