« 青春時代 | トップページ | 囚人の歌 »

2007年7月21日 (土)

無縁坂

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:さだまさし、唄:グレープ

1 母がまだ若い頃
  僕の手をひいて
  この坂を登るたび
  いつもため息をついた
  ため息つけばそれで済む
  後ろだけは見ちゃだめと
  笑ってた白い手は
  とてもやわらかだった
  運がいいとか悪いとか
  人はときどき口にするけど
  そういうことってたしかにあると
  あなたを見ててそう思う
  忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂
  かみしめるような
  ささやかな僕の母の人生

2 いつかしら僕よりも
  母は小さくなった
  知らぬまに白い手は
  とても小さくなった
  母はすべてを暦にきざんで
  流して来たんだろう
  悲しさや苦しさは
  きっとあったはずなのに
  運がいいとか悪いとか
  人はときどき口にするけど
  めぐる暦は季節の中で
  ただよいながら過ぎてゆく
  忍ぶ 不忍(しのばず) 無縁坂
  かみしめるような
  ささやかな僕の母の人生

《蛇足》 この歌はグレープ時代のさだまさしが昭和50年(1975)に作り、TVドラマ『ひまわりの詩』の主題歌として使われました。グレープはさだまさしと吉田正美のデュオでしたが、さだが病気になったため、昭和51年(1976)に解散しました。

 無縁坂は東京台東区池之端にある坂(写真)。坂の上には、江戸時代、行き倒れになった無名の死者を葬った無縁寺があったため、この名がついたといわれます。
 また、坂を下ったところには不忍池
(しのばずのいけ)があります。「不忍」は、これにかけたものでしょう。
 森鴎外の小説『雁』の主人公がヒロインお玉に出会った場所としても有名です。

 この歌を聞くと、自分の母親を思い出すという人が多いようです。

 坂は常にドラマチックです。
 坂、とくに初めての坂を歩くときは、何か非日常的なことが起こりそうな気がしませんか。登り切ったところで事件が起こりそうな、あるいは異形
(いぎょう)のものを目撃しそうな、そんな気持ちです
 この不安とも期待ともつかないドキドキ感は、もしかしたらアドレナリンが分泌されるためかもしれません。

 下り坂では不安感や期待感は薄まりますが、快調に足を運んでいるうちに、一種の軽躁感が生じます。

 昔、田舎では、集落と集落との境界はよく坂に置かれていました。そんな地域では、坂は異世界への入り口または出口だったわけです。そうした時代の名残が私たちの心に潜んでいるのかもしれません。
 子どものころ、初めての道を登って知らない村に入ったときの興奮を思い出します。

(二木紘三)

« 青春時代 | トップページ | 囚人の歌 »

コメント

母親を歌った唄は沢山ありますが、皆 名曲だと思います。
人間のどこかに父よりも母を慕う引力があるのでしょうか。

投稿: M.U | 2008年6月13日 (金) 07時59分

平成22年9月16日午前5時51分96歳の天寿を全うし母が逝きました。

母の思い出は誰でも千差万別にお持ちのことでしょう。

私の母は楽天家で気ままで正直で俳句好きで憎めない性格の持ち主でした。

忘れられない一こまを思い出しました。

数年前のある日白内障で入院していた母を見舞いに行ったら嬉しそうにポツリと語ってきました。

数年前ですから90歳になるかならんとする時です。

「きょうは結婚する前相思相愛だった近所の○○○さんが杖をついて見舞いに来てくれて私の車椅子を押してくれた。とても嬉しかった。親が決めて現在の家に嫁いできた。○○○さんと一緒になりたかったがなれなかった」と

いつまでたっても人を好きになる事に年齢は関係ないのですね。母が○○○さんと一緒になっていれば、この文章を書いている自分も存在していないと思うと不思議な気持ちになりました。

私の父親も○○○さんも既に16年前亡くなっています。
どうぞ母よあの世でも喧嘩せずにいつまで瑞々しい恋を繰り広げてください。

投稿: 赤い寒天 | 2010年9月19日 (日) 08時52分

母は縫い物をしながら、小学生の私に言いました。17歳のとき縁談が2つあった。こっちは親戚だったので嫁いできたが、もう一つの方に嫁いでいれば,某会社の重役夫人で今頃は楽な生活をしていただろう、残念だと。それから2年後、母は脳出血で突然亡くなってしまいました。まだ48歳でした。父は私に「母ちゃんはきれいだった」といいました。母は父からそんな事聞いた事もなかったでしょう。
そして私も息子に言います。もっと良い人一杯いたのに、よりにもよって一番悪い男に掴まってしまった。本当に不幸な人生だ。お前の名前はこの人の名前から一字貰ってつけたのだと、ある作家のノンフィクションの中に偶然見つけた出世した彼の名前を指さして教えました。こうして、母親は夫に内緒の愚痴を子供に言いつつストレスを解消しているのです。もっとも息子は無反応でした。
映画『雁』の芥川比呂志は素敵でした。彼と少し似ています。

投稿: ハコベの花 | 2010年9月19日 (日) 22時48分

明治生まれの母は、幼くして父親を亡くし、教師をしていた母(私の祖母)の実家で育ちました。実家は士族の家柄ということもあり、厳格な躾のもとに育ったようで、優しさのなかにも厳しいものがあり、怒らせると怖い存在でした。
あの、東京大空襲で我が家は焼失し、財産のすべてを失い
終戦後はどん底生活となりましたが、一切愚痴・弱音を吐くことありませんでした。
この歌を聴くたびに、30数年前無念にも交通事故死した母のことが想い出され、胸が熱くなるのを覚えます。

投稿: タケオ | 2012年10月 2日 (火) 17時32分

この歌をハーモニカで吹くと・・母を思い出します
もう・今は居ませんが・ハーモニカの音色が 優しい
母とだぶります  本当にいい曲です
宮ケ原さん 青木さん・・ ハーモニカで吹きましょう・・ね

投稿: 田中 | 2013年2月19日 (火) 17時03分

昔この曲が流行った頃、私はこの曲をはじめ、この頃のセンチメンタルなフォークソングが嫌いでした。女々しいと感じたのです。昔から演歌は好きだったのですが、アメリカンポップスやロカビリーも好きでした。でも、フォークやニューミュージックは、私達の世代からもう一つ若い世代なので、いまいち乗りませんでした。しかし、古希を過ぎたある日、この曲を聞いたら「ああ、いいな」と感じました。それからは、アリスの「秋止符」、堀内孝雄の「愛しき日々」「影法師」「恋歌綴り」、山口百恵の「秋桜(コスモス)」、小椋佳の「シクラメンのかほり」「しおさいの詩」、谷村新司の「22歳」中島みゆきの「わかれうた」研ナオコの「あばよ」など、みんな好きになり、カラオケで歌うようになりました。

「無縁坂」は、カラオケの発表会でも唄った歌で、一時期ハマっていました。40年位前に流行った歌を今頃好きになるなんて、どんだけ遅れてるんだよ!って笑わないでください。

投稿: 吟二 | 2016年11月23日 (水) 23時12分

眠られぬままにーーー

 はるかな友に  無縁坂 と聞いています

 人生とは 別れ 死 を前提とした時間との戦い

 人は弱いものです  辛い 考えもしない境遇に追い込まれたとき 人はどうするのだろう どうするべきなのだろう    歳を経るにしたがって 新しい出会いは減り(すごく努力すれば別でしょうが) 親しい人との別れは増えていきます  死別という絶対的なものでなくとも 社会的なこと 経済的なことでも ほんのささいなボタンの掛け違いが友情・愛情などに傷をつけ つながりを無にすることがあります 
 人生の常 といえば それまででしょうね   でも そのときに 相手の身になって考える ということが
良い人間か そうでないかの境目なのかな  
 
 関係の切れてしまった友人  長くあうことのなかった江田島の最後の生徒であった叔父(戦争に参加せず終わったその遣る瀬無さで 和歌山への帰途 天王寺で軍刀を振ったときいております  以後 医業の道で次世代につなぎました)の奥さんの死   また義母の死  考えさせられます    

 無縁坂 という曲には 僕の場合 どうしようもない生母への感情と感謝がはいってきて 涙がとまらなくなります  神戸の北野の坂 下れば以前は フロインドリーブがあり 途中少し左折し東へ向かうと バプテスト教会があり  母に尽くせなかった感謝が 大きな後悔となって押し寄せてきます   のこされた短いであろう人生 後悔することが 少しでも少ないような人生を送りたいですね 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2016年11月24日 (木) 06時30分

 皆様のコメントから父母への想いは千差万別と思いましたが、親の存在とは、親になった自分を含めて哀しく切ない気持ちで一杯になります。昨年、母の3回忌(没92歳)を済ませました。父が亡くなってから母は妹と二人暮らしでしたが、妹は結婚してから連れ合いの転勤があり、実家で私たちが同居することになりました。

 母は亡くなる6年前、尻餅をつき腰骨を骨折してからはベッド生活でした。治療のための入院も拒み、自宅療養でした。週2回のデイサービスを利用していました。センターの人が家の前まで送迎してくれます。

 帰ってくると門から15メートルくらいの先の玄関まで母の手を引いて歩きました。すっかり小さくなってしまった母は幼子が全てを委ねているように、私に手を引かれて歩きました。・・・
 
 逆転してしまったのです。いつまでも私の前にいた母が、躾に厳しく自立していた母が、今は私が母の前にいる。母の手が暖かく、私は涙が滲んでしかたがありませんでした。家で看取りました。理屈っぽく、母の思い通りにいかなかった私が出来た最後の親孝行でした。

投稿: konoha | 2017年2月21日 (火) 12時20分

明後日の月曜日、ウィリーの教会ミサに行きます。彼女はアンドレス/ローレンス/アンネマリー/ベルナデッテの母。微笑みの見事な写真に続く葬儀案内文「画をなし、個性強く、人を助け、何よりも優しさに溢れ、高齢になっても活き活きと社会事象に関心を持ち続けた人として、母を心に刻んでいます」四人の署名に加えそれぞれのパートナーと子どもたちの名前が添えられている。

ウィリーはかつて我がお袋と'日本にぜひ行きますよ'と交歓しています。亡くなった29日、直ぐに届いたメイルに私はこう返事しました。彼女は86、我が母は96、でも天国に年は無し。母たちは輝く表情のまま。それに言葉の壁もない、久々の逢瀬を互いに楽しみにしているにちがいない。 

投稿: minatoya | 2017年9月 2日 (土) 18時49分

今日は  北野の坂 を中心にめぐっています

 僕の 母と まわりの女性たちのこと

 母は 四人兄弟の三番目
  長兄 長女 次女 三女
      次女でした
  生田区北野町四丁目 ここが生家です
  一時期 目の前にある洋館がイスラエル領事館の表示がされていました  今でも その地域は環境保護区域になっています

  兄は 不遇な人生で 少し早めに亡くなりました

 残った 女性三人 一番元気だった母が
  他の二人の面倒は私が見るとの意志で
   神戸の兵庫区の梅元町に 小さな家を建て移っていきました 神戸の有名な画家小磯良平さんが生まれた土地の一部で 神戸港が見える少し高台でした 有名なお寺の隣   丁度バブルがはじけて数年がたっていたでしょうか
 頼りない息子には世話にならないという意志表示だったのでしょう  西宮の 藤尾さんの隣でやっていた質屋をしめての行動です  使い勝手をよくした いい建物でした  母の知恵が いろいろつかわれていました
 また 西宮の家にひっこしたときには 毎日市場の豆腐やさんまで 豆腐の汁をもらいに行き 廊下 柱をみがききれいにするのが 彼女の日課でした  
 その梅元町の家には みがくとつやのでる 化学製品がおかれていました  時代が進んで いろんなものができていたのですね  いずれにしろ きれい好きでした
 僕の娘のどちらかに バトンタッチするつもりだったのでしょうね  きれいにおいておくと話してくれていました

 
 でも 思い通りにはいかないですね  その家に住みだして 三四年で この世からあっというまに 消えてしまいました 姉妹で一番早く  くも膜下出血でした  発症して二週間でなくなっています  阪神大震災がおこる 半年前のことです    くも膜下出血の手術は まずうまくいったのですが  術後の脳血管攣縮により亡くなりました
 駄目になりそうな気配があったため 主治医が一週間目くらいに 意識を戻してくれてーーー
 母さんがんばるんやで
   どうがんばったらいいの
  そうやな 母さんの得意の数学で 頭の体操をしとこうよ   などとの会話が 最後の意志の疎通でした

 以後 状態不良となり 意識はもどらなかったです

 なくなった後 隣のお寺さんに挨拶に行くと
  毎日 家の周りの掃除を欠かさない方でしたね  
  といっておられました

 僕を医師にしてくれた人  自分の楽しみをもたず
  僕を中心に 父の遺言(29才でなくなっています)
   この子が医者になれるなら したってくれ
  をかなえてくれた大正女  母にはいくら感謝しても
 しきれることはありません  
  もっと 母の立場に立ってものを考え 対応しておれば と後悔ばかりです

 その後も 母に顔向けのできないこともおこり
  その 小さい 地震のときにも 全く無事だった家も手放してしまいました
  今 ひとりで あのうちの二階にすわり 神戸港をながめながら  母と心で会話をしたい と思うこの頃です


 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 7日 (水) 15時30分

能勢の赤ひげ様
二木先生の演奏を聴きながら能勢の赤ひげ様のコメントを読んで涙があふれてきました。
私の主人は7人兄弟の末弟ながら無資産無収入(終戦前の疎開で何も資産はなかった)の母を引き取り23年間転勤生活を共にしました。今思えばできた姑であったが私の至らなさの為に軋轢が生じ、間に入って苦労したのが主人でした。、ただの一度も姑の味方をしませんでした。
私に息子はいないが、今この年で姑の立場だったら辛いものがあります。天罰の様に早くに夫を連れていかれました。夫も内心は 母親の味方を」したかったのではと思うにつけ越し方が悔やまれます。

投稿: りんご | 2018年2月 7日 (水) 18時50分

 りんごさま  
 
 ご無沙汰でございます

 僕のコメントに 涙があふれてこられたとのこと
  申し訳ありませんでした

 嫁姑 の関係  いろんなケースをみましたが
  100% の関係なんて ありえないですね

  僕の場合はとくに 一人子でしたので

 母と家内が なんとかうまくいってほしい と祈るばかりでした  悪者は 僕がなればいいと

  あっけない 幕切れでしたが  母の美学だったと思うようにしています

 長く 不肖の息子には迷惑をかけない
 麻痺とかのこる状態でも生きたい という選択肢は
 選びたくない  こういう気持ちを強く持っていそうな
 人でしたからーーー


 日々の診療から  親子の関係 兄弟の関係
  他の人たちよりも 多く垣間見ることがあります

 いい関係を見させていただいたとき  それは僕にとって 新しい気づきであり 経験であり 財産です

 こんな素晴しい人間のつながいがあるのか  すごい

 これだけで 本がかける  と思うような 方たちもおられます

 そういう方たちに出会うと
 自分は  できるだけのことをし   
 自分の足りない部分は 耳学問でも 人からかりてでも提供したくなりますね
 
 睡眠不足で しんどくても 最善をつくせる  出し惜しみをしない 自分でありたいと 
  また気づかされました   

  りんごさま 有り難うございました

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月 7日 (水) 20時46分

さだまさし という人は、繊細な心配りのできる人だと思いますね。感情にのめり込むこともなく、たんたんと母の生涯を語り歌う。じっと目を閉じると、遠い日の母の顔が走馬燈のように浮かんでは消えていきます。

8人の子だくさんの中には、母より早く逝った子もいます。
最後まで母に心配ばかり掛け続けた子もいます。
何十年も離れて暮らし、今際の際にも間に合わず ただ呆然と母の死顔をながめ続けるだけの、親不孝者もいます。
苦労を背負いながらも 92才まで懸命に上り続けた母の人生こそ、無縁坂そのもののような気がします。

親思う心に勝る親心 けふの音づれ何ときくらん
後悔ばかりの私の人生でした。

投稿: あこがれ | 2018年2月 7日 (水) 22時50分

R2(NHKラジオ第二放送)の「朗読の時間」で森鴎外の「雁」が朗読されています。今週末が最終節のようです。鴎外全集の「雁」のお玉の容姿が見事な挿絵で心をときめかせてくれます。若い時の母はおしなべて美しく、苦渋の思いを内にしめ、何一つそれを顔にだすこともなく天寿をまっとうします。まことに、子にとっては母は慈母観世音菩薩ですね。

投稿: 亜浪沙(山口 功) | 2020年10月 8日 (木) 15時49分

不忍通りの方から無縁坂を登って行くと、不忍通りに面して右側に中華料理の東天紅があります。古い建物だった時にここで何度か同窓会が開かれたことがありました。やがて左に旧岩崎邸の壁が現れます。瀟洒な洋館で、私も訪れたことがあります。そして坂を上り切った辺りの右側が東大病院です。何ということのない坂道で、仕事の関係でよく歩きましたが、無縁坂という名前がついているのを知ったのは後のことです。
グレープは解散直前に“三年坂ライブ”を行っています。三年坂は言うまでもなく京都の地名ですが、ライブが行われたのは東京中野のサンプラザでした。このライブの中で『島原(地方)の子守歌』が歌われています。さだまさしは生前の宮崎康平氏と親交があり、氏をテーマにした『邪馬臺』という曲を作っています。

投稿: Yoshi | 2020年10月 8日 (木) 16時59分

 長崎のsitaruです。昭和49年の音楽には、色々と思い出があります(前に少し書きました)。この曲をリアルタイムで聴いていたか、はっきりしないのですが、グレープのさだまさしさんが長崎の出身なので、後によく聴くようになりました。いろんな人がカヴァーしており、それらも良く聴きます。
 この曲にまつわる思い出は二つあります。
まず「無縁坂」という坂が、さだまさしさんの作詞だから、当然長崎にあるものとばかり、長く思い込んでいたことです。周知のように、長崎は坂の町として知られ、どこを見ても坂が見えます。高校生までこの地で暮らし、高校も坂の上の峠にありました。また、生家の近くには、中学、高校の通学に利用したバスの停留所がありましたが、そこも○○坂という名前でした。高校卒業後、長崎を離れ、九州内の何か所かに暮らしましたが、どこも坂の少ない平坦な町で、一昨年、ほぼ半世紀ぶりに郷里に帰って来た時は、改めて長崎の坂の多さと急坂の多さを実感しました。おかしかったのは、長崎で住む家を探していた時、ネットの住宅情報を見て、良さそうな家が見つかったので、地元の不動産屋に案内して貰い、その家を下見に行ったのですが、最寄りのバス停から徒歩5分とあったので、これは便利だと、半ば決めかかっていたのですが、歩いてみると急坂と階段が交互に続き、とうとうその家までたどり着けないまま、下見そのものを断念してしまったことです。当時、持病の糖尿病が進行し、体力、脚力が衰えつつあった時期でした。ネットで見る地図には、住宅地の急坂や階段は示されていないことに、うかつにも気づかなかったのです。
 もう一つは、例によってことばの問題ですが、歌詞の途中に出て来る「あなた」という人称代名詞の用法についてです。近年まで、私は歌詞よりもメロディーによって歌の好みを決めていたので、歌詞を十分に理解しないままに聴くということが多く、今考えれば、色んな曲の歌詞を誤解したまま聴いていました。この曲の「あなた」も、最近まで、母から息子に向かって言っていることばだとばかり思い込んでいました。前後の文脈をしっかり考えれば、息子から母へのことばだと分かるのですが、「あなた」の現代の一般的用法では、親から子へは使えるが、子から親へは、少なくとも直接呼びかけることばとしては、ちょうど、児童・生徒から先生に対しては使えないのと同様に使えないと考えていました。しかし、この歌では、息子が母親に対して使っており、しかも不自然では無いものと捉えられています。少し考えれば気づくのですが、この場合の「あなた」は、眼前にいる対象に向かって直接呼びかけることばではなく、眼前にいない対象を想起して発することばなのです。昔、「父よあなたは強かった」という歌がありましたが、この「あなた」も同じ用法と考えられます。普段は見過ごしやすく、聞き逃しやすい身近な現象の中に、ことばを考えるヒントがいくつも転がっていることの例となるのではないかと思っています。

投稿: sitaru | 2020年10月25日 (日) 14時20分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 青春時代 | トップページ | 囚人の歌 »