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古城

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:高橋掬太郎、作曲:細川潤一、唄:三橋美智也

1 松風さわぐ丘の上
  古城よ独り何偲ぶ
  栄華の夢を胸に追い
  ああ 仰げば侘(わ)びし天守閣

2 崩れしままの石垣に
  哀れをさそう病葉(わくらば)
  矢弾(やだま)のあとのここかしこ
  ああ 往古(むかし)を語る大手門

3 甍(いらか)は青く苔(こけ)むして
  古城よ独り何偲ぶ
  たたずみおれば身にしみて
  ああ 空行く雁(かり)の声悲し

《蛇足》 昭和34年(1959)リリース。

 私にとって「古城」といえば、まず松本城です。人生の玄冬期(げんとうき)に入った今日に至るまで、何度この天守閣に登ったことでしょう。ここに登れば、高校時代よく彷徨(さまよ)い歩いた城山(じょうやま)がよく見えます。

 写真は会津の鶴ヶ城(若松城)。戦後鉄筋コンクリートで再建されたものですが、戊辰戦争時の悲劇性が胸を打ちます。

(二木紘三)

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コメント

青朱白玄 と 言うそうですね。
松本城はまだ見たことがありません。
 彦根城は まだ行ったことがありませんが
遠くから見ると 華やかです。
 いつも見ているは 明石 天守閣はありません。
 また いろいろ 城についても
お書きください。

投稿: 白秋 | 2007年7月30日 (月) 00時59分

『古城』は、昭和30年代『烏が鳴かない日はあっても、三橋美智也の歌が流れない日はない』とまで言われた天才歌手三橋美智也の大ヒット曲の一つです。『荒城の月』と並び称されるべき名曲です。(レコード売上;300万枚)
三橋美智也の高く澄み、やさしく哀調を帯びた歌声は、永遠に語り継がれて欲しいと願っています。

投稿: 堺 修介 | 2007年8月 5日 (日) 09時27分

「古城」、、心に沁みる調べです。
この曲を聴いておりますと、かつて、全国の古城を訪ね歩いた日のことが、懐かしく思い起こされます。
そして、語り継がれてきた古城の、特に落城の悲史、築城の秘史が思い起こされ、今なお,心をゆする、去りがたい思いが過ります。

投稿: 篠崎信夫 | 2007年9月 9日 (日) 04時02分

この曲を聞くと、高校、大学時代に数え切れない程、彦根城に登ったことを思い出します。
60代後半になった今でも、古城が流れて来ると、青春時代の楽しい思い出がよみがえって来ます。 合掌

投稿: 坂本 佑精 | 2008年4月28日 (月) 17時18分

昭和34年新卒で務めた小学校の職員の朝の打ち合わせで、この歌を職員一同で歌いました。最年少のわたしがアコーデオンの練習を命じられ、なんとか伴奏しました。思い出の曲です。

投稿: 石川一也 | 2008年5月 1日 (木) 19時30分

皆さんがコメントされていますように名曲ですね。松本城
の近くに3年も住んでいながら主が解りません。今は小田原
城の近くですので北条一族は解ります。

投稿: M.U | 2008年9月10日 (水) 16時41分

 この歌のモデルとなったのは何処の城か、その有力な手がかりの一つは能登半島にある七尾城です。この城は室町期の能登国守護であった畠山氏が築いた北陸屈指の山城ですが、1577年に上杉謙信によって滅ぼされました。謙信亡き後、一時信長配下の前田利家が守っていましたが、まもなく現在の七尾市街地に平城を築いたため廃城となりました。現在七尾城山麓に城史資料館があり、その前庭に同じく高橋掬太郎作詞・細川潤一作曲になる「あゝ七尾城(唄・斎藤京子)」と並んで、この「古城」の歌碑が建っています。かつて高橋掬太郎氏がこの地を訪れて「あゝ七尾城」を書いた後、その姉妹編としてこの「古城」を作ったと説明がありました。同資料館に展示されている高橋氏の書簡には、この曲は特定の城をイメージしたものではないとしながらも、「あゝ七尾城」とのつながりを明記しておられるので、やはりこの城が最有力候補と言ってよいと思われます。
  「松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ・・・」
という情景はまさにこの城にぴったりです。さきの能登半島地震で石垣の一部が崩れたものの、今は修復されているので、「崩れしままの石垣に」とはいきませんが。

投稿: くまさん | 2008年9月12日 (金) 21時29分

松本城の主は小笠原氏とのこと失礼しました。

投稿: M.U | 2008年9月13日 (土) 16時03分

今日、仕事場の整理をしていたら写真が出てきました。
それは17年前の日付のある写真で、男女二人のカラオケの写真の客席用のTV画面には「栄華の夢を胸に追い
」との歌詞の表示で紛れもなく『古城』を唄っておりました。
 女性は家内の母親で、夫に先立たれて8年後の58歳のカラオケにようやく悲しみの少し消えた表情が見えたような気がしました。
その後は、カラオケでも私と家内との3人で歌う機会がたびたびあって、そのたびにこの『古城』と『君恋し』の2曲をソロやデュエットで歌いました。
 その母親も7年前になくなり。今では家内と二人でカラオケで思い出しながら唄っていますが、生きていれば
82歳の母親ともう一度唄ってみたい曲です。

投稿: 修さん | 2009年2月17日 (火) 20時45分

古城の三番の歌詞のことなんですが、三橋美智也さんは、私が持っている音源では、「甍は青く」を「いらかはあおぐ」と唄っているのですが、「青く」を「青ぐ」と唄うには何か意味があるのでしょうか。

このことをずっと長く疑問に思っています。スナックなどで古城を唄う方がいても、だれも「青ぐ」と唄う人はいませんし、そこは「青ぐ」と唄うんだといっても信用されません。

これは私の持っている三橋さんのCDは、三橋さんが唄いなまっていた音源をそのまま収録したものだったのでしょうか。それとも「青ぐ」と唄う意味があって、古城はすべて「青ぐ」と唄っているのでしょうか。「青く」と唄っている音源もあるのでしょうか。

何か、ご存知の方がいましたら教えてください。

投稿: うぉいす | 2009年12月27日 (日) 11時29分

すみません、You Tubeで三橋美智也さんの古城をいくつか聞いてみましたが、「青ぐ」と唄っているものはありませんでした。

それで自分の持っている音源を先ほど確認してみました。今まで「青ぐ」と聞こえていたのは「あお‗くぅ」が、空耳で「青ぐ」と聞こえていたようです。

というわけで「青く」に間違いないようです。お騒がせでした。ごめんなさい。

投稿: うぉいす | 2009年12月27日 (日) 11時48分

いつからあったのでしょうか。今、気がつきました。すてきなホームページですね。度々読ませてくださいね。さて、『古城』は全く良い曲です。渋谷区代々木上原の「古賀政男」居住跡地に「古賀政男音楽博物館」があります。そこでは平成九年から活躍者対象に独自の顕彰を決定しており『古城」関連では、初回顕彰で「高橋掬太郎」、2回目の平成十年に「三橋美智也」が顕彰されていて、平成二十一年顕彰に「細川潤一」がされました。嬉しいことでますます聴き甲斐がでてきました。お知らせしたく投書致します。ご存知でしたらご容赦を。ともかくなにより『名曲』中の『名曲』に相違ありません。
彼には適いませんが、後輩が受け継いで絶やさないよう歌い継いでほしい心境です。『三橋を聴きましょう。』

投稿: みちやっこ | 2010年4月 9日 (金) 17時59分

二木紘三さま
私は大学をやめましたが、二木紘三さんの本を大学図書館に購入しました。

さて「古城」は昭和34年ということですが
一時期どこへ行っても、この曲が耳に入りました。
やっと松本城も行くことができました。
旧制高等学校記念館にも行きました。

>青朱白玄 と 言うそうですね
白秋さんの書かれるように
 青春  東 青龍
 朱夏  南 朱雀
 白秋  西 白虎 
 玄冬  北 玄武
ですね。

あるサイトによれば
(1) 青春 :16歳~30代前半 学を志す
(2) 朱夏前半:30代前半~40代後半 身を立てる / 惑わず
後半:40代後半~50代後半 天命を知る
(3) 白秋 :50代後半~60代後半 耳に従う
(4) 玄冬 :60代後半~ 矩を超えず

「古城」の作詞者高橋掬太郎は
函館の新聞記者から作詞者になったのです。
高橋掬太郎は、非常に多くの歌謡曲を作詞しています。
根室の国後島の生まれといいます。

父親は岩手県出身の漁師でした。したがって、高橋掬太郎の本籍地は
岩手県沼宮内なのです。

本人が語るところによると
「私は郷里が盛岡で在である。現在函館日々新聞社に
在るということから余計に(石川啄木)氏に対する思慕を覚える。」
(『流氷』啄木追憶号5月号、大正15年、根室流氷詩社)、
また自伝の中で、「私は岩手県人だが、生まれたのも育ったのも北海道で、
19歳のとき父を失い、根室新聞社を振り出しに新聞記者生活に入った」
(『方(さんずい)々詩舎30年のすべて』昭和48年)と書いています。

「酒は涙か溜息か」を昭和6年に発表してから、高橋掬太郎は歌謡曲の作詞家
として大活躍しました。

昭和43年には「多年作詩に精進し、多くのすぐれた作品を発表するとともに
後進の育成に努めてよく大衆歌曲の向上に寄与」した実績が認められて紫綬褒章
を受けました。

「ここに幸あり」 作曲者(飯田三郎) 歌手(大津美子)
は、作詞者の高橋掬太郎と作曲者の飯田三郎はともに根室出身なのです。

投稿: みやもと | 2010年11月27日 (土) 08時49分

高橋掬太郎氏と飯田三郎氏は同じ郷里だったのですか。僕は、お二人が作られた「山蔭の道」と「丘にのぼりて」が大好きです。どちらも若原一郎が唄いました。いい歌ですよー。
 

投稿: かせい | 2011年1月10日 (月) 20時35分

この曲がヒットした昭和34年当時、ドーナツ盤を買って繰り返し聴いたものです。心に沁みる名曲です。
当方の場合「古城」とは出身地の青葉城(仙台城)ですが、二木先生にとっては松本城、誰それにとっては鶴ヶ城、誰それにとっては熊本城・・・と、人それぞれに「古城」あり。ちなみに青葉城は天守台はあるが天守閣がなく(伊達政宗が徳川幕府に配慮したためという説あり)、天守台の西側に100m近い断崖絶壁(竜ノ口渓谷)がある典型的な山城です。

投稿: 焼酎百代 | 2014年11月 4日 (火) 20時20分

明治34年生まれの母は、2歳の時父親を病で亡くしました。横浜で写真館をしていた生家は当時外国人向けに白黒写真に色づけをした(カラー写真と同じ)写真を取り扱っていたそうです。夫と死別した母の母親、つまり私からみれば祖母は実家の岐阜中津川に引き揚げ、祖母は教師をして母と伯父を育てました。
実家は中津川の苗木藩の上級藩士で廃城となった苗木城で良く遊んだそうです。
この歌を聴くと幼少期の苗木城の思い出を良く語ってくれました。

投稿: タケオ | 2015年10月 8日 (木) 21時22分

歌詞のことですが、先ほどNHKの歌番組で聞いたとき「あ、これは歌詞がどうかな。」と思ったので、この調べてみました。1番3行目「栄華の夢を胸に追い」とありました。TVもこう書いていました。
 私は「栄華の夢を胸に負い」ではないかと一人で考えたのです。勿論作詞の方も「胸に追い」と書かれているのだと思います。ただ、「負う」では「どうかな」と思っただけです。
 これは「赤とんぼ」で三木露風が「負われて見たのは・・」が頭にあったからです。
 歌詞のことがよく出ますので詳しい方にお聞きしたいと思ったのです。「負う」ではないとのお考えを教えていただきたい之です。

投稿: 今でも青春 | 2017年1月17日 (火) 20時20分

今でも青春様
 「胸に負う」とは普通使わないのでは…。
 「胸に」は「抱く」であり、「負う」は、「背中」です。
 「胸側」が「抱っこ」、「背中側」が「オンブ」ですね。
 『赤とんぼ』の「負われて見たのは…」は「背負われて見たのは…」という事ですね。

鹿児島では「背負う」「負う」という言葉はあまり
使わないでしょう。「からう」「かろう」などと
使いますものね。 
『おまんさぁーうちの赤ん坊、かろうてくれんね』
なんてね。

投稿: かせい | 2017年1月18日 (水) 01時31分

歌詞の意味、余り考えていなかったので勉強になりました。
栄華の夢を[胸に]追い
で 夢を追う のでしょう。

この主語は自分だと思っていたのですが、古城と取れなくもなく、分からなくなってきました。

投稿: Hurry | 2017年1月18日 (水) 06時53分

こんな風にも考えてみたのですが・・・
「夢を胸に追い」で、
”胸に”を切り離しますと”夢を追い”となります。
これでしたら普通でも使えそうです。
”胸”を”心の中”、としますと、
心の中では栄華の夢を追っかけて・・・となります。

投稿: yoko | 2017年1月18日 (水) 07時22分

「かせい様」、他の方々コメントありがとうございました。
 いろいろ考えてみました。「背中に負う」とは言っても「胸に負う」とは言いませんね。納得しました。方言の補足もありがたいです。
 「胸」を「心の中」とするコメントも参考になりました。
 主語を何とするかという考え方も参考になりました。

投稿: 今でも青春 | 2017年1月18日 (水) 09時45分

当時、ラジオから流れるこの曲を今でも覚えています、松風さわぐ・・・と哀愁を帯びた曲は、小さい(6才)ながら心に残りました。

投稿: 山田 | 2017年1月25日 (水) 17時00分

のど自慢に古城で挑戦します。こちらは青森。
青森のお城といえば弘前城。ただいま100年ぶりに天守台下石垣の修理が行われています。
古城が流行ったころは、生まれてはいたものの乳児時代でした。それでもなぜかしっかり覚えています。
三橋さんは青森の津軽三味線をメジャーにしてくれた功労者だそうです。
のど自慢の予選通過は多分無理だとは思いますが、心を込めて歌ってきたいと思います。

投稿: あっぷる王子 | 2017年5月 2日 (火) 13時58分

病院通いの傍ら聴く「古城」は心に沁みる名曲です。今日は赤穂城籠城から一転した四十七士の討ち入り日だそうですが、米沢は親戚も居て馴染みがあるため(米沢藩主上杉綱憲は吉良上野介の実子)、赤穂浪士には全く同情が湧かず(兵庫赤穂の方々には申し訳ないですが)、単に時代劇映画を観るだけです。
昭和36年公開・東映創立10周年記念「赤穂浪士」は東映オールスター豪華大作(シネマスコープ)でした。忠臣蔵ファンも、同情が湧かない人も名監督松田定次ドライブによる芸達者演技を理屈抜きで“全画面”で楽しんでもらいたいと思います(上映時間2時間半)↓
(動画提供OBTJPさん)http://www.youtube.com/watch?v=DMI2ASayCUA

投稿: 焼酎 | 2017年12月14日 (木) 19時47分

中学生のころ、滝廉太郎の「荒城の月」が好きでした。三橋美智也の「古城」が出てきた時はすぐに覚えました。
月に皓々と冴える古城(荒城)の哀しい勇姿を詠った三橋美智也の声に惚れ惚れするほど好きになりました。
「滅びの美しさ」といいましょうか、「つわものどもの夢の跡」の哀しみといいましょうか、
あの澄んだ高い声が物語ってくれました。

投稿: konoha | 2017年12月14日 (木) 22時29分

曲を奏でる音の中では、箏の音が私は一番好きです!
三橋美智也の古城には見事に箏の音がふんだんに活かされており、この歌をさらに素晴らしい楽曲にしてると思います。
私はお城めぐりが好きなこともあり、全国のいろんなお城を見てきましたが、古城というと、故郷(佐賀)に住んでた子供の頃ですが、我が家のすぐ近くの山にあった獅子ヶ城という城跡で遊んだ記憶があります。もう半世紀以上前です。
懐かしさもあり、念のためネットで調べたところ、実際にまだ残っており、歴史はかなり古いとのことです。
この歌、古城の2番の歌詞を見る度に、どうして思い浮かぶ城があります。蛇足にもあります、会津の鶴ヶ城です。この戊辰戦争により、悲惨な姿になった鶴ヶ城の写真を見ると、いかに惨い戦いだったかと想像できます。
無念の死を遂げた白虎隊の少年たち!
西郷家一族21人の自刃!
娘子隊を率いた中野竹子が呼んだ句
(武士の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも)
私の一番好きな句です。
元気な内に一度この方たちの戦った会津へ出向き、お参りをかさねながら、会津若松城(鶴ヶ城)を人ごみの少ない冬の時期に、一人でしみじみ偲んできたいと思っています。


投稿: 芳勝 | 2017年12月15日 (金) 01時04分

昨日、今日と「白虎隊」でテレビの前に釘付けになり、今夜はこんな時間まで焼酎様からの「赤穂浪士」を見ておりました。普段はなかなか大作時代劇が見れなくなりましたが、年末になると大作時代劇が見れるので、隠れ時代劇フアンとしては楽しみです。でも、出演俳優さん達のなかで今でもお元気なのは里見浩太郎さんくらいになりましたね。
長谷川裕見子、花柳小菊さん達はスクリーンの上でしかお目にかかれませんが、大川恵子、丘さとみさんはご健在なのでしょうか?

投稿: あこがれ | 2017年12月15日 (金) 02時16分

あこがれ様
大川恵子さんは81才
丘さとみさんは82才
ネット検索しましたところ、お二人ともご健在のようです!
昭和36年のこの赤穂浪士の映画は、幼い頃、映画好きのお隣のおばさんに連れられて行った映画館で見ました。
その頃から大好きだった大友柳太郎さんの活躍は今でもよく覚えています。ちなみにそのおばさんは片岡千恵蔵の大ファンでした。今も懐かしく想い出します。
私が小学校の一年生の時でした。

投稿: 芳勝 | 2017年12月15日 (金) 02時47分

 初めて天守閣に登ったのは「松本城」でした。天守閣が籠城の造りになっているのを実感したお城でした。(松本城の後方に位置する開智小学校の2階からの山並みをて、教室から山が見えるとはこういう事なんだと、新鮮な驚きでした)
 
 夫婦揃って城好きで各地見て回りました。その中でも特に二人して好きなのは現存する最古の城、犬山城です。犬山城は2004年まで成瀬氏私有の城でしたが、見学した当時、個人の城ということに驚きました。
 元々は1469年、応仁の乱の時期に岩倉織田氏当主の弟 織田広近が築いた砦が始まりで、1537年に信長の叔父 織田信康が木之下城(現犬山市役所近くの愛宕神社の場所)の城郭を移して築城し、江戸時代に入り1617年尾張徳川家の重臣成瀬正成が拝領し、その時手を加えられて現在の天守閣になりました。考えようによっては、長年個人私有であったため、現存する最古の天守閣様式が守られたのではないかと思っています。天守閣の4階は回廊になっています。夏に訪れたので、木曽川からの風が気持ちよく、眼下に木曽川を望みながら写真をとりました。

 お城にまつわる伝承は数多くあります。熊本城を見学した時撮った写真です。
熊本大地震のだいぶ前のころで、その日は霧雨でした。雨に濡れた曲がりくねった石垣が素晴らしく、一段と美しい石垣で一枚写真をとりました。夫は先に行っていて、姿は見えなくなっていて、私はいつもの通り、あっちをパチりこっちをパチりをしながらで、そこの場所では私一人でした。
 帰宅後、写真を焼き付けてみて「え?」という一枚がありました。石垣の真ん中がちょうど10円玉の大きさで、白く抜けているのです。光りが入ったということはなく、そこだけきれいに抜けているのです。フイルムでしたらネガを確認することができるのですが、デジタルカメラでチップでしたので確認も出来ません。

 巣鴨のお地蔵さま(高岩寺)に持って行って、お焚き上げをしてもらいました。
熊本城は西南戦争の激戦地です。こんな写真も有りかなと思いました。

投稿: konoha | 2017年12月15日 (金) 18時03分

名古屋城、大阪城、姫路城、松本城、鶴ヶ城、熊本城(けん様故郷)、佐賀城(一章様故郷)・・・全国津々浦々の古城(名城)が日本人の心の故郷です。
出身地仙台の青葉城(仙台城)は元々天守閣が無く、大手門、脇櫓、本丸石垣に四基あった三層隅櫓(江戸時代の石垣移動など諸般事情で復元断念)が奥州風雲児伊達政宗(NHK大河ドラマ歴代最高視聴率)の権勢の象徴です。
なお「仙台」の由来は、政宗が漢詩の一節「仙臺初見五城楼(仙台初めて見る五城楼)」から「仙臺」(仙台)と命名したと言われています。そのため、旧制二高(東北大教養部)や地元高校(旧制中学、旧制工業学校、旧制商業学校)の校歌・応援歌(例「それ戦い勝てり…光涼しく月照れば喜び満つ五城楼」)に「五城楼」(仙台の別名)が必ず出てきます。
(青葉城)http://hottime.sakura.ne.jp/sendai/sendaijou.html

投稿: 焼酎 | 2018年2月23日 (金) 15時41分

 焼酎さんの言葉「全国津々浦々の古城(名城)が日本人の心の故郷です。」と上手く表現していただき有難うございます。素晴らしい青葉城の動画も写真が鮮明で楽しませて頂きました。

二木先生は 
「古城」といえば、まず松本城です。人生の玄冬期(げんとうき)に入った今日に至るまで、何度この天守閣に登ったことでしょう。
「うた物語」に集われる方々は それぞれ「心の故郷」をお持ちでしょう。誇りにされている方も多いと思います。

 私の「心の故郷」は焼酎様ご案内の通り 熊本城です。
私は熊本城を眺めながら高校時代を過ごしました。その頃「県立図書館」は熊本城の周りにありました。受験勉強と偽り図書館に通い、可愛い女子校生と同室になるのを楽しみにしていました。その女子校生と話したことはありませんが、図書館で女子校生と同じ空間にいるだけで幸せでした。熊本城を誇りにして過ごしました。 

  熊本地震で熊本城が崩壊していく映像をみて心が痛みました。あれから5回帰熊。崩壊し、立ち入り禁止の熊本城を見学コースから眺めました。天守閣など城内のことは分かりません。石垣は数十ヶ所、崩れたままのところが多く悲しくなります。
 熊本地震の被災者になって家を失い身体を壊し 弱気になっている同級生もいます。その同級生の話を聞いてあげる位しかできません。中には被災後長崎県に避難し、趣味でやっていた水彩画の個展を開いたり、画集を出して故郷に帰ってきた同級生もいて元気をもらっています。 
 熊本から離れて暮らしている私は「今を 一生懸命生きて」、故郷の親戚・友人・知人に心配・迷惑をかけないようにしたいと思っています。

投稿: けん | 2018年2月23日 (金) 18時27分

 古城

 いいですね

 いろんなコメントをよませていただき
   二木先生の名演奏に耳を傾けながら

  日本国中に 何万とある城のことを思い浮かべています

 大学の教養の二年間は 古美術研究会 城郭班に属していました  
 僕を含めて 四人だけのメンバーでした

 何時の時期かは 正確ではないですが
 二回 城郭めぐり旅に出ました
 他の三人は 三人とも 一年先輩の経済学部の方たちでした  
 Kさん Kさん Nさん  それと僕も Nさん
 先輩三人には 良くしてもらいました

 中部地方と  四国 の城をまわりました
 安宿をさがしながらーー

 その城郭班で 絶対に行ったと 記憶しているのは  犬山 大洲 宇和島   
 他には 修学旅行 あるいは 個人で行ったのは  姫路  明石  赤穂 
  彦根  松山 今治 熊本   --- となります

 そのころは 城の 戦略的な位置づけ 戦術に対する攻守の考え方  
 城の使い方  それぞれの石垣の組み方
 本丸 二の丸三の丸 などの縄張り 
  など少しは知識をもっていましたが   
   ほとんど 忘れました
 城郭の本も 大分ありますが  
 最近は手にすることも 少なくなりましたね

 皆さんが経験しないようなことでは

 広島の福山 鞆の浦(とものうら)近くの山城 一乗山城に上ったことです  
 家内のルーツをたどると 
 福山の渡邊民部少輔元にたどりつくことから  
 一度日帰りで 一乗山城まで出向きました 
 常国寺という寺が麓にあり(これは渡邊氏の寺です) 
 この寺は室町幕府15代将軍 足利義昭が 
 1573年に織田信長により京を追放された後
 毛利氏に庇護されたとき この寺を宿としていました
 ちなみに この渡邊氏は毛利氏の家老の一人です
 この寺から裏手  山道をたどると一乗山城の本丸にたどり着きます  
 もちろん くずれたような低い石垣がのこるのみで
 本丸からは 木の繁りと 雑草がおびただしく
 眺望もきかず  説明書を読まないと 
 これが城跡とわからないようなものでした  
 常国寺では 渡邊の大きな 位牌が多く並ぶところ
 を見させていただき 頭を下げ手を合わせてきました 

 一度は 行ってみたい 城も 多くあります

 荒城の月 の竹田城(岡城跡)
 天空の城 の竹田城
 山中鹿之助が 三日月に向かい「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」
 と願ったという 上月城
 赤松円心が新田義貞の西進をくいとめたという 白旗城
  この 上月 白旗の二城は 兵庫県の西にあり 登りたいと思ったころは 
 まだ 整備もされておらず 毒へびに注意の看板で 準備不十分断念した経験があります
 岡山 の中ほどに位置する 備中松山城(高梁城)

 この狭い 能勢にも つわものどもが 夢の跡 がいくつもあります
 地黄  宿野  平通にもあったのですね

  摂津源氏の根という場所がらでも
 時代が下り 室町から 戦国時代にかけては
  下克上  小さな土豪の勢力争いの場になったのです

  などなど  思い巡らせています

投稿: 能勢の赤ひげ | 2018年2月23日 (金) 22時48分

 能勢の赤ひげ様
 行かれた城の中に熊本とありました。私も義母といっしょに熊本城に数年前に行きました。あの階段を全部歩いて健脚の義母は天守閣まで昇りました。その前北海道にも行きました。旅行会社の判断で札幌連泊としましたが、無事帰宅できました。
 城にはいろいろ歴史があり、訪れるにはもってこいの場所ですが、季節と場所が問題になりそうです。
 この「古城」にまつわるコメントの多いことに脱帽です。また、どのコメントにも多才な含蓄があり学ぶことが多いのです。

投稿: 今でも青春 | 2018年2月24日 (土) 10時37分

焼酎様
お元気のご様子なによりです。芋焼酎の味は如何でしょうか!
出身地・青葉城(仙台城)の数々の写真(お城の周辺までの風景などなど)・・・
私は、一度も青葉城にはいったことがありませんでしたので、写真を拝見し実際に現地で見るように楽しませていただきました。ありがとうございました。
私の住んでいる「佐賀城」は、自宅から歩いて10数分の所にあります。旧佐賀鍋島藩36万石の居城(平城)でしたが、再三の火災により現在では「鯱の門」だけしか残っておりません。
跡地には、以前小学校(私の母校)・高等学校がありましたが、現在では「佐賀城本丸歴史館)として、県内唯一の観光地となっています。
ところで今年の冬は特に寒かったと思います。雪国での「うた物語」の仲間の皆様には、雪下ろしなど大変だったと思います。
私も毎朝5時20分起床で7時頃から、私を心待ちにしておられるお客様にお届けするために頑張っています。
佐賀地方でも平地で4センチほど雪が降った時が数日あり、車での走行には特に神経を使いました。
でも、焼酎様と同様で夕食時に飲む「お湯割りの薩摩芋焼酎」とこの「うた物語」での仲間の皆様のコメントに癒され、また、元気と励ましをいただいております。
もう暫くは寒さも続くと思われます。お風邪などお身体には十分お気をつけられますように!

投稿: 一章 | 2018年2月24日 (土) 10時43分

全国津々浦々の、うた物語愛好の皆様方の懐旧的・詩情性・抒情性あふれる投稿にいつも感服しているところです。
けん様>熊本城が崩壊していく映像をみて心が…   故郷熊本の同級生を力づけされ、熊本被災地と熊本城が復興するようお祈り申し上げます。
一章様>車での走行には特に神経を…   無謀運転の車も多い中お互い安全運転で走り、家では薩摩芋焼酎で乾杯といきたいところです。

投稿: 焼酎 | 2018年2月24日 (土) 12時32分

「古城」は、数ある踊りの中でも格調の高い踊りとして、いろんな方々に愛され踊られてきました。
民謡で鍛えた三橋三智也の伸びやかな高音と格調高い歌詞は、おのずと居住まいを正し、紋付袴姿できりっとした表情と品よく舞うことを要求され、誰でもが簡単に踊れるわけではありません。きりっとした表情と品は、どうだったか分かりませんが、私が舞台で古城を舞わせて頂けたのは、弟子歴10年を過ぎてからのことでした。
忘れられない名曲です。
私の家元と親しい西川鯉右先生にも、いろいろと教えて頂けたことが懐かしく思い出されます。

ところで、仕事の関係であちこち出かけましたので、いろんなお城も見て回りましたが、青葉城、名古屋城、彦根城、大阪城、姫路城、広島城、熊本城、松本城、小諸城、上田城 等々。 
しかし、私は国宝といわれるような大きな立派なお城より
名もないあまり人の訪れないような城跡が好きです。
一度訪れた長篠城址や高遠城址、中津川の笛木城址(タケオ様のコメント 2015.10.8)等々の歴史を辿ってみたいと思います。


投稿: あこがれ | 2018年2月24日 (土) 16時27分

2017,12,15konohaコメントの追記
 犬山城の天守閣を現存する最古と記しましたが、丸岡城天守閣(福井県坂井市)が最古だという説もあります。築城は犬山城1469年、丸岡城1576年ですが、天守建造年は犬山城1601年、丸岡城は不明となっています。
 
 丸岡城は「初期天守の典型で、野面積みの天守台の上に建てられた二重三階の・・・望楼型構造で、1613年以降の築城という説と1576年の築城という説があります。1576年の築城であれば、古風なつくりは時代に合致する」とのこと。(Yahoo JAPANで、「趣味の時間 日本の城 丸岡城」より抜粋)  柴田勝家の甥である勝豊により築城です。専門家の中でも説が分かれているそうです。

 丸岡城は1948(昭和23)年福井地震で倒壊、1955(昭和30)年倒壊した天守は倒壊材の80%近く使用して、元の通りに組み直し修復したそうです。熊本城もあの美しい石垣やお城が再び見られるのを心待ちしております。

投稿: konoha | 2018年3月 7日 (水) 18時57分

私は佐賀県東松浦郡(2005年に唐津市に統合)厳木町(きゅうらぎまち)にある、浪瀬の五間岩という所に住んでいました!
Wikipediaによると、厳木町の人口は炭鉱が盛んな頃のピーク時には19350人いたそうですが、閉山とともに徐々にその数は減って行き、昭和45年に私が愛知県に出てくる頃、それでも9400人ほどいた人口も、現在は5412人に減っているそうで、少しの寂しさを覚えます。
私は「古城」を聴く度に、どうしてもその浪瀬という所に存在する「獅子が城跡地」で遊んでいた頃が想い出されます。
現在小さな観光地として、周辺が整備されている写真を見ながら昔を偲んでいますが、私が遊んでいた頃は、草ボウボウだらけで、数か所に洞窟や、苔むした石垣があるだけの、ただの荒れ地でしたが、現在は歩道に柵がつけられたりして、ネット等の記事によると、その地を観光に訪れる方もあるようです。
これまでに私は、一度見た城に魅力を感じ、後年に再度見に行ったことのある、松本城・彦根城・犬山城などがありますが、今、一番強く思うのは、佐賀にいた子供の頃に、亡き長男に連れて行ってもらったことのある、戦国武将の加藤清正公が築いた、素晴らしい石垣を備え持つ、現在修復中の熊本城です。
あの痛ましい地震から、14日の今日でちょうど二年の月日が経ちましたが、熊本城の完全復旧は、熊本県の方たちにとっての大きな希望であるとともに、全国の人たちにとっても、心に抱いている切なる願いだと思います。
今月7日に某テレビニュースで、大天守に真新しいしゃちほこが設置される様子が映りました。熊本名物のからし蓮根や馬刺しには幼少の頃から私も馴染んできましたが、今も尚、変わることなく愛着のある、熊本城中継のテレビに映るその光景は、私にとっても、とても嬉しい出来事でした。

今日は熊本の完全復興を胸に祈りながら、「古城」を聴きました。

投稿: 芳勝 | 2018年4月14日 (土) 16時23分

 熊本では「馬刺し」と「山鹿灯籠」が印象に残っています。熊本城には何度か行きました。最近では3年ほど前、家族と行きお母さん(義母)が徒歩で上まで歩いたことでに驚きました。、

投稿: 今でも青春 | 2018年4月14日 (土) 21時06分

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