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古城

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:高橋掬太郎、作曲:細川潤一、唄:三橋美智也

1 松風さわぐ丘の上
  古城よ独り何偲ぶ
  栄華の夢を胸に追い
  ああ 仰げば侘(わ)びし天守閣

2 崩れしままの石垣に
  哀れをさそう病葉(わくらば)
  矢弾(やだま)のあとのここかしこ
  ああ 往古(むかし)を語る大手門

3 甍(いらか)は青く苔(こけ)むして
  古城よ独り何偲ぶ
  たたずみおれば身にしみて
  ああ 空行く雁(かり)の声悲し

《蛇足》 昭和34年(1959)リリース。

 私にとって「古城」といえば、まず松本城です。人生の玄冬期(げんとうき)に入った今日に至るまで、何度この天守閣に登ったことでしょう。ここに登れば、高校時代よく彷徨(さまよ)い歩いた城山(じょうやま)がよく見えます。

 写真は会津の鶴ヶ城(若松城)。戦後鉄筋コンクリートで再建されたものですが、戊辰戦争時の悲劇性が胸を打ちます。

(二木紘三)

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コメント

青朱白玄 と 言うそうですね。
松本城はまだ見たことがありません。
 彦根城は まだ行ったことがありませんが
遠くから見ると 華やかです。
 いつも見ているは 明石 天守閣はありません。
 また いろいろ 城についても
お書きください。

投稿: 白秋 | 2007年7月30日 (月) 00時59分

『古城』は、昭和30年代『烏が鳴かない日はあっても、三橋美智也の歌が流れない日はない』とまで言われた天才歌手三橋美智也の大ヒット曲の一つです。『荒城の月』と並び称されるべき名曲です。(レコード売上;300万枚)
三橋美智也の高く澄み、やさしく哀調を帯びた歌声は、永遠に語り継がれて欲しいと願っています。

投稿: 堺 修介 | 2007年8月 5日 (日) 09時27分

「古城」、、心に沁みる調べです。
この曲を聴いておりますと、かつて、全国の古城を訪ね歩いた日のことが、懐かしく思い起こされます。
そして、語り継がれてきた古城の、特に落城の悲史、築城の秘史が思い起こされ、今なお,心をゆする、去りがたい思いが過ります。

投稿: 篠崎信夫 | 2007年9月 9日 (日) 04時02分

この曲を聞くと、高校、大学時代に数え切れない程、彦根城に登ったことを思い出します。
60代後半になった今でも、古城が流れて来ると、青春時代の楽しい思い出がよみがえって来ます。 合掌

投稿: 坂本 佑精 | 2008年4月28日 (月) 17時18分

昭和34年新卒で務めた小学校の職員の朝の打ち合わせで、この歌を職員一同で歌いました。最年少のわたしがアコーデオンの練習を命じられ、なんとか伴奏しました。思い出の曲です。

投稿: 石川一也 | 2008年5月 1日 (木) 19時30分

皆さんがコメントされていますように名曲ですね。松本城
の近くに3年も住んでいながら主が解りません。今は小田原
城の近くですので北条一族は解ります。

投稿: M.U | 2008年9月10日 (水) 16時41分

 この歌のモデルとなったのは何処の城か、その有力な手がかりの一つは能登半島にある七尾城です。この城は室町期の能登国守護であった畠山氏が築いた北陸屈指の山城ですが、1577年に上杉謙信によって滅ぼされました。謙信亡き後、一時信長配下の前田利家が守っていましたが、まもなく現在の七尾市街地に平城を築いたため廃城となりました。現在七尾城山麓に城史資料館があり、その前庭に同じく高橋掬太郎作詞・細川潤一作曲になる「あゝ七尾城(唄・斎藤京子)」と並んで、この「古城」の歌碑が建っています。かつて高橋掬太郎氏がこの地を訪れて「あゝ七尾城」を書いた後、その姉妹編としてこの「古城」を作ったと説明がありました。同資料館に展示されている高橋氏の書簡には、この曲は特定の城をイメージしたものではないとしながらも、「あゝ七尾城」とのつながりを明記しておられるので、やはりこの城が最有力候補と言ってよいと思われます。
  「松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ・・・」
という情景はまさにこの城にぴったりです。さきの能登半島地震で石垣の一部が崩れたものの、今は修復されているので、「崩れしままの石垣に」とはいきませんが。

投稿: くまさん | 2008年9月12日 (金) 21時29分

松本城の主は小笠原氏とのこと失礼しました。

投稿: M.U | 2008年9月13日 (土) 16時03分

今日、仕事場の整理をしていたら写真が出てきました。
それは17年前の日付のある写真で、男女二人のカラオケの写真の客席用のTV画面には「栄華の夢を胸に追い
」との歌詞の表示で紛れもなく『古城』を唄っておりました。
 女性は家内の母親で、夫に先立たれて8年後の58歳のカラオケにようやく悲しみの少し消えた表情が見えたような気がしました。
その後は、カラオケでも私と家内との3人で歌う機会がたびたびあって、そのたびにこの『古城』と『君恋し』の2曲をソロやデュエットで歌いました。
 その母親も7年前になくなり。今では家内と二人でカラオケで思い出しながら唄っていますが、生きていれば
82歳の母親ともう一度唄ってみたい曲です。

投稿: 修さん | 2009年2月17日 (火) 20時45分

古城の三番の歌詞のことなんですが、三橋美智也さんは、私が持っている音源では、「甍は青く」を「いらかはあおぐ」と唄っているのですが、「青く」を「青ぐ」と唄うには何か意味があるのでしょうか。

このことをずっと長く疑問に思っています。スナックなどで古城を唄う方がいても、だれも「青ぐ」と唄う人はいませんし、そこは「青ぐ」と唄うんだといっても信用されません。

これは私の持っている三橋さんのCDは、三橋さんが唄いなまっていた音源をそのまま収録したものだったのでしょうか。それとも「青ぐ」と唄う意味があって、古城はすべて「青ぐ」と唄っているのでしょうか。「青く」と唄っている音源もあるのでしょうか。

何か、ご存知の方がいましたら教えてください。

投稿: うぉいす | 2009年12月27日 (日) 11時29分

すみません、You Tubeで三橋美智也さんの古城をいくつか聞いてみましたが、「青ぐ」と唄っているものはありませんでした。

それで自分の持っている音源を先ほど確認してみました。今まで「青ぐ」と聞こえていたのは「あお‗くぅ」が、空耳で「青ぐ」と聞こえていたようです。

というわけで「青く」に間違いないようです。お騒がせでした。ごめんなさい。

投稿: うぉいす | 2009年12月27日 (日) 11時48分

いつからあったのでしょうか。今、気がつきました。すてきなホームページですね。度々読ませてくださいね。さて、『古城』は全く良い曲です。渋谷区代々木上原の「古賀政男」居住跡地に「古賀政男音楽博物館」があります。そこでは平成九年から活躍者対象に独自の顕彰を決定しており『古城」関連では、初回顕彰で「高橋掬太郎」、2回目の平成十年に「三橋美智也」が顕彰されていて、平成二十一年顕彰に「細川潤一」がされました。嬉しいことでますます聴き甲斐がでてきました。お知らせしたく投書致します。ご存知でしたらご容赦を。ともかくなにより『名曲』中の『名曲』に相違ありません。
彼には適いませんが、後輩が受け継いで絶やさないよう歌い継いでほしい心境です。『三橋を聴きましょう。』

投稿: みちやっこ | 2010年4月 9日 (金) 17時59分

二木紘三さま
私は大学をやめましたが、二木紘三さんの本を大学図書館に購入しました。

さて「古城」は昭和34年ということですが
一時期どこへ行っても、この曲が耳に入りました。
やっと松本城も行くことができました。
旧制高等学校記念館にも行きました。

>青朱白玄 と 言うそうですね
白秋さんの書かれるように
 青春  東 青龍
 朱夏  南 朱雀
 白秋  西 白虎 
 玄冬  北 玄武
ですね。

あるサイトによれば
(1) 青春 :16歳~30代前半 学を志す
(2) 朱夏前半:30代前半~40代後半 身を立てる / 惑わず
後半:40代後半~50代後半 天命を知る
(3) 白秋 :50代後半~60代後半 耳に従う
(4) 玄冬 :60代後半~ 矩を超えず

「古城」の作詞者高橋掬太郎は
函館の新聞記者から作詞者になったのです。
高橋掬太郎は、非常に多くの歌謡曲を作詞しています。
根室の国後島の生まれといいます。

父親は岩手県出身の漁師でした。したがって、高橋掬太郎の本籍地は
岩手県沼宮内なのです。

本人が語るところによると
「私は郷里が盛岡で在である。現在函館日々新聞社に
在るということから余計に(石川啄木)氏に対する思慕を覚える。」
(『流氷』啄木追憶号5月号、大正15年、根室流氷詩社)、
また自伝の中で、「私は岩手県人だが、生まれたのも育ったのも北海道で、
19歳のとき父を失い、根室新聞社を振り出しに新聞記者生活に入った」
(『方(さんずい)々詩舎30年のすべて』昭和48年)と書いています。

「酒は涙か溜息か」を昭和6年に発表してから、高橋掬太郎は歌謡曲の作詞家
として大活躍しました。

昭和43年には「多年作詩に精進し、多くのすぐれた作品を発表するとともに
後進の育成に努めてよく大衆歌曲の向上に寄与」した実績が認められて紫綬褒章
を受けました。

「ここに幸あり」 作曲者(飯田三郎) 歌手(大津美子)
は、作詞者の高橋掬太郎と作曲者の飯田三郎はともに根室出身なのです。

投稿: みやもと | 2010年11月27日 (土) 08時49分

高橋掬太郎氏と飯田三郎氏は同じ郷里だったのですか。僕は、お二人が作られた「山蔭の道」と「丘にのぼりて」が大好きです。どちらも若原一郎が唄いました。いい歌ですよー。
 

投稿: かせい | 2011年1月10日 (月) 20時35分

この曲がヒットした昭和34年当時、ドーナツ盤を買って繰り返し聴いたものです。心に沁みる名曲です。
当方の場合「古城」とは出身地の青葉城(仙台城)ですが、二木先生にとっては松本城、誰それにとっては鶴ヶ城、誰それにとっては熊本城・・・と、人それぞれに「古城」あり。ちなみに青葉城は天守台はあるが天守閣がなく(伊達政宗が徳川幕府に配慮したためという説あり)、天守台の西側に100m近い断崖絶壁(竜ノ口渓谷)がある典型的な山城です。

投稿: 焼酎百代 | 2014年11月 4日 (火) 20時20分

明治34年生まれの母は、2歳の時父親を病で亡くしました。横浜で写真館をしていた生家は当時外国人向けに白黒写真に色づけをした(カラー写真と同じ)写真を取り扱っていたそうです。夫と死別した母の母親、つまり私からみれば祖母は実家の岐阜中津川に引き揚げ、祖母は教師をして母と伯父を育てました。
実家は中津川の苗木藩の上級藩士で廃城となった苗木城で良く遊んだそうです。
この歌を聴くと幼少期の苗木城の思い出を良く語ってくれました。

投稿: タケオ | 2015年10月 8日 (木) 21時22分

歌詞のことですが、先ほどNHKの歌番組で聞いたとき「あ、これは歌詞がどうかな。」と思ったので、この調べてみました。1番3行目「栄華の夢を胸に追い」とありました。TVもこう書いていました。
 私は「栄華の夢を胸に負い」ではないかと一人で考えたのです。勿論作詞の方も「胸に追い」と書かれているのだと思います。ただ、「負う」では「どうかな」と思っただけです。
 これは「赤とんぼ」で三木露風が「負われて見たのは・・」が頭にあったからです。
 歌詞のことがよく出ますので詳しい方にお聞きしたいと思ったのです。「負う」ではないとのお考えを教えていただきたい之です。

投稿: 今でも青春 | 2017年1月17日 (火) 20時20分

今でも青春様
 「胸に負う」とは普通使わないのでは…。
 「胸に」は「抱く」であり、「負う」は、「背中」です。
 「胸側」が「抱っこ」、「背中側」が「オンブ」ですね。
 『赤とんぼ』の「負われて見たのは…」は「背負われて見たのは…」という事ですね。

鹿児島では「背負う」「負う」という言葉はあまり
使わないでしょう。「からう」「かろう」などと
使いますものね。 
『おまんさぁーうちの赤ん坊、かろうてくれんね』
なんてね。

投稿: かせい | 2017年1月18日 (水) 01時31分

歌詞の意味、余り考えていなかったので勉強になりました。
栄華の夢を[胸に]追い
で 夢を追う のでしょう。

この主語は自分だと思っていたのですが、古城と取れなくもなく、分からなくなってきました。

投稿: Hurry | 2017年1月18日 (水) 06時53分

こんな風にも考えてみたのですが・・・
「夢を胸に追い」で、
”胸に”を切り離しますと”夢を追い”となります。
これでしたら普通でも使えそうです。
”胸”を”心の中”、としますと、
心の中では栄華の夢を追っかけて・・・となります。

投稿: yoko | 2017年1月18日 (水) 07時22分

「かせい様」、他の方々コメントありがとうございました。
 いろいろ考えてみました。「背中に負う」とは言っても「胸に負う」とは言いませんね。納得しました。方言の補足もありがたいです。
 「胸」を「心の中」とするコメントも参考になりました。
 主語を何とするかという考え方も参考になりました。

投稿: 今でも青春 | 2017年1月18日 (水) 09時45分

当時、ラジオから流れるこの曲を今でも覚えています、松風さわぐ・・・と哀愁を帯びた曲は、小さい(6才)ながら心に残りました。

投稿: 山田 | 2017年1月25日 (水) 17時00分

のど自慢に古城で挑戦します。こちらは青森。
青森のお城といえば弘前城。ただいま100年ぶりに天守台下石垣の修理が行われています。
古城が流行ったころは、生まれてはいたものの乳児時代でした。それでもなぜかしっかり覚えています。
三橋さんは青森の津軽三味線をメジャーにしてくれた功労者だそうです。
のど自慢の予選通過は多分無理だとは思いますが、心を込めて歌ってきたいと思います。

投稿: あっぷる王子 | 2017年5月 2日 (火) 13時58分

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