雪の降る街を
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(2012年の年賀状用にPhotoshopで描いたものです)。
《蛇足》 昭和24年(1949)から昭和27年(1952)まで3年間放送されたNHKラジオ連続放送劇『えり子とともに』の挿入歌。
ただし、この歌が入ったのは昭和26年(1951)の暮れです。このときの放送台本が短すぎて、時間が余ってしまうため、脚本家の内村直也が急遽1番だけ作詞し、中田喜直に作曲を依頼して流しました。
この歌が好評だったため、2番と3番を追加し、NHKの歌謡番組で放送しました。最初に歌ったのは女優の南美江で、その後フランス帰りのシャンソン歌手・高英男が歌ってヒットしました。長い間、冬の定番曲でした。
私は、長野県の松本で高校生活を送りました。高校時代は、よく映画を見ました。授業をさぼって見にいくこともあれば、下校後、街を少しばかりさまよったあと見ることもありました。
高校2年の1月(昭和35年)のある日、帰宅前に街を歩いているうちに、急に映画が見たくなって、ある映画館に入りました。そのころ、映画は3本立て上映が普通でしたから、最終回が終わると、夜9時くらいになっていました。
最終回を見終わって外に出ると、入るときには降っていなかった雪が降りしきっていました。
人通りの絶えた道を駅に向かって歩いていると、3、40メートル先の横町から、私と同年輩かと思われる少女が出てきて、十字路の街灯の下に数秒間たたずんだのち、その先の横町に消えていきました。
街灯の下を通ったとき、私は、オレンジか何か柑橘系の匂いが漂っているように感じました。匂いは、しばらく私についてきたあと、消えました。そこから駅まで歩く私の頭の中で響き続けていたのが、『雪の降る街を』でした。
少女を見た場所は、上土町(あげつちまち)から縄手(なわて)通りに出るどこかだったと思います。映画館がいくつか、かたまってあったのは、そのあたりでしたから。
(二木紘三)
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コメント
前身の「midi歌声喫茶」時代からのファンです。
降りしきる雪の中での少女との一瞬のすれ違いが、一幅の絵画のように目の前に浮かびあがります。
わが街に雪が降るたびに、この光景が浮かんできます。私の経験ではないのに。
投稿: 札幌育ち | 2009年3月12日 (木) 02時33分
この感覚のみずみずしさは、どうしたって十代後半のものです。失礼ながら、お年が七十近い方とわかってビックリいたしました。
投稿: kawamoto | 2009年6月15日 (月) 22時41分
先生は1学年上ではなく2学年上でしたね。私も松本に
下宿していて、縄手通りはよく歩きました。但し残念ながら女性の匂いはいつも有りませんでした。「美ヶ原賛歌」と言う歌をこのサイトで教えて戴き練習中です。
投稿: 街道 | 2009年6月16日 (火) 06時49分
17歳の高校生です。親や学校で教わったいくつか以外は知らない歌ばかりなので、蛇足を読んでいます。とてもおもしろいです。映画が好きで好きで、よく授業をさぼって近くのシネマコンプレックスに行っています。
映画を見ているときは夢中ですが、終わって外に出ると、こんな所を親が見たらどう思うかと苦しいし、自分は引きこもりみたいなものになるかもしれない、と辛かったです。でも、先生が授業をさぼって映画に行ったり、野山を歩いたりしていたと書いてあるのを見て、そういう人でも、こんなにいろいろなことができるようになるんだと、ずいぶん気が楽になりました。
でもこれからはあまりさぼらないようにしようと思います。
投稿: アッキー | 2009年7月 8日 (水) 18時53分
アッキー様
おじさん、おばさん(いやおじいさん、おばあさんかな)の歌仲間によくぞ入ってくれました。あなたが高校生と知って最初は驚きましたが、どなたかが言っていましたが、このサイトは今や‘国民的’人気を得ていますから(アクセス数を見てご覧なさい!)、高校生はもちろん、小・中学生がアクセスしても驚くことはないのかも知れませんね。
ところで、あなたは大切な授業をサボって、よく映画館通いをしているとか。誰でも自分が望まない状況下にあるとき、そこから逃げ出したい、脱出したいという願望があるものです。まして青春真っ只中の高校生では、つまらない授業など受けたくないという、その思いは一層強いでしょう。あなたの心情は理解できます。しかし、行為にはすべて結果が伴います。その結果を甘んじて受ける覚悟があるなら、今の行為を続けてもいいでしょう。ただ、今のあなたは縛られた不自由な生活から、ただちょっとだけ自由を求めて緊急避難をしているように見えます。「これからはあまりさぼらないようにしようと思います」という、あなたのコメントからそれは伺え、わたしもホッとしています。これから、あなたの周辺に面白くないことが起こったら、このブログにコメントしてください。二木様をはじめ、それこそ人生の大先輩が多数あなたを応援し、叱咤激励してくれると思いますよ。お説教調になってごめんなさい。
投稿: ひろし | 2009年7月12日 (日) 17時08分
アッキーくんへ
元高校教師の立場からは授業をサボってよいとはいえませんが、親の気持ちを気にかけているような人は、まず心配いりませんよ。
二木先生も教室より街や野に青春を見出した方のようで、そういう青春の姿もありかと思います。私の学生時代(1970年代)にはやった寺山修司の「書を捨てよ、街に出よう」をちょっと思い出しました。
投稿: Kawamoto | 2009年7月12日 (日) 18時59分
ひろし様/Kawamoto様
ありがとうございました。ぼくはだいじょうぶです。
少しオーバーにいいすぎてご心配かけました。
そろそろ受験勉強に没頭します。
投稿: アッキー | 2009年7月14日 (火) 23時46分
アッキー様
よくぞ言ってくれました。わたしの心配も少々オーバーでしたね。あなたのコメントから心配しなくても大丈夫だとは思いましたが。
これから受験勉強に拍車をかける訳ですね。多分、あなたは来年大学受験をするんでしょうから、競馬に例えると、第4コーナーに差し掛かる頃ですね。これからが勝負です。この夏休みの過ごし方で結果が分かれますよ。頑張ってください。志望校合格を祈っています。
受験勉強に疲れたら、ときどきこのサイトを覗いてくださいね。受験に必要な知識は得られないでしょうが、これからの人生を生きて行く上でのヒントやアドバイスは、数々の歌やコメントから得られると思います。
投稿: ひろし | 2009年7月15日 (水) 17時03分
昨年の夏、授業をサボって映画ばかり見ていると書いたアッキーです。ご心配かけましたが、東大文3になんとか滑り込むことができました。これも二木先生の「蛇足」で「Take it,easy!」をいただいたおかげと思っています。将来は映像関係の仕事をしたいと思っていますが、どうなりますか。
このサイトで自然に覚えた歌を友達に歌って聴かせて「昭和20年代の歌だ」というと、「お前はシーラカンスか」と言われています。
投稿: アッキー | 2010年3月12日 (金) 21時51分
わたしは新潟の高田平野のド真ん中に生まれ、一時期を除いて少年期、青年期をこの地で過ごしました。今は温暖化の影響でしょうか、降雪量がぐんと減ったようですが、わたしのこどもの頃は2~3mの積雪は普通でした。12月頃から根雪になると、雪国に住む人々はそれを宿命と諦め、春の雪解けが来るまでじっと耐え忍ぶ生活を余儀なくされていました。近年は小雪のせいもあるのでしょうが、冬季の生活は快適とは言えないまでも、大分楽になったようです。
この歌が流行り出したのは、わたしが高校生の頃でした。生真面目で少々片意地をはっていたわたしは、当初この歌に反発を覚えたものです。多分、この作詞家は雪国の生活の厳しさを知らないんだろう。だから、こんなロマンチックな、甘い詩が書けるんだ。何が「温かき幸せのほほえみ」だよ、と。内村直也氏が新潟出身だと知ったのは、ずっと後のことです。今では、わたしも老境に入ったせいか、好々爺になったせいか、こういう歌もありかと、突っ張っていた頃を懐かしく思い出しています。
アッキー様
やりましたね。東京のサクラが咲く前に、一足早く「サクラサク」になりましたね。東大合格おめでとうございます。去年、このブログで愚痴をこぼしていた頃が心理的には最低の状態だったのかな。でも、それからのあなたは心機一転、受験勉強に猛進して栄冠を獲得したのだから、このサイトも意味があったんだろうね。これからもこのサイトに寄り道をしてくださいね。お友達に「シーラカンス」と言われようともね。
投稿: ひろし | 2010年3月16日 (火) 00時00分
どうでもいいことかもしれませんが、タイトルの「まち」は、最初、街ではなく、町ではなかったのかな。「街」と「町」を、私はうまく使い分けられませんがw
投稿: nemukin | 2012年1月 1日 (日) 18時27分
やはりこれは街灯の灯る街ではないかと思います。街は商店などが並ぶ賑やかな所、町は一区画を区切る呼び名ではないでしょうか。50数年前、恋した美しい青年の進路が全く私の想定外の所でしたので、哀しみと虚しさと怒りをぶつけた事があります。青い街灯の光に粉雪が舞い彼の顔も怒っていました。商店の並んだ大通りの舗道を歩くと今でも高校3年生の時の哀しみが胸を過ぎります。彼は防衛省で偉くなったと聞きました。まだ一緒に歩いた時の夢をみます。たったの300メートルでしたけれど・・・私は街が好きです。
投稿: ハコベの花 | 2012年1月 1日 (日) 23時24分
町と街の違い、Numukinさん仰るように私にも不明。単なる家並び/家の集まる場所を町として、小説や話に仕立てられる/情緒あるのを街とする個人的勝手な使い分けをしております。これですと、遠い昔に二木さんが少女をご覧になられた場所は街にふさわしい。ですからお話も、真の味わいが迫って感じられます。
小さな区画を町と言うのは都市部の"町名"で納得です。偶然HNと同じTango町と言う行政区があります。○○郡○○町アザ○○の場合の町ですね。こうした町はかなり広域だと思われます。都市部の町が田舎に適用された結果の不整合なのでしょうか?
ハコベの花さんの哀しみにつられ… 40年ほど前、雪の降る松本に三度降り立ちました。いずれもスキーの帰りで、三度目の松本は白馬で知り合った女性と粋なレストランに。厚いレバーステーキを彼女が薦めてくれたのを覚えています。紬の街・結城から八方の上までこられるスキー達者な素敵な女性でした。なぜ、それきりになったのでしょう? 今も元気な彼女がどこかに… 雪の降る街の淡い思い出。
投稿: TangoMInato | 2012年1月 2日 (月) 07時19分
半世紀以上もたつのに、街灯と少女に雪の降る絵を見ていたら何故かロマンティックな感傷が胸にあふれて涙がこぼれました。彼は兄の友人でしたので、喧嘩の後も大学が休みになると我が家に遊びにきました。思想的には合わない人でしたが、じっと見つめられると身のすくむ思いがしました。純粋で真っ直ぐだった17歳の私がこの絵の中にいる様な気がします。二木様、思い出の絵有難うございました。
投稿: ハコベの花 | 2012年1月 2日 (月) 23時42分
二木先生の辰年の年賀状のメルヘンチックでしかもレッド・フィールドの『クリスマスの朝』を彷彿とさせるような絵に、遠い日を思い出して微笑んでいるのは私だけではないかと思います。
先生や皆さんは美しい影絵のような少女が思い出されるようですが、食堂も喫茶店も理髪店もない山陰の山奥での冬は暗いものでした。
しかし、この歌がラジオから流れていた中学生の頃ある雑誌で知り合った静岡県駿東郡湯川の同学年のK.Wさん(女性)と文通が始まり高校時代に1度だけ写真を交換したのみ、以後は年賀状と暑中見舞いハガキで現在はお中元・お歳暮は受け取ったほうが電話して2~3分の会話だけの交際(?)、まだ1度も会っていないので夫婦共々で会いましょうと言っているうちに現在に至っています。
皆さん、このような交際もアリですね。
投稿: 尾谷光紀 | 2012年1月 3日 (火) 16時04分
50年も前の思い出です。曇り空で底冷えのする、風花の舞う日になるといつも思い出す。中学校の教室は寒く、風花の舞う窓の外を「雪じゃ。積もったらええのになあ」などと思いながらながめていた。理科の授業だった。そんな教室の生徒の空気を見て先生は、ぱっと授業をやめた。怒られるのかなと、一瞬緊張したが「よし歌を歌ってあげる」と言って「雪の降る町を」を歌ってくれた。背が高くハンサムだった先生は、伴奏などなかったが教室に響くような声で歌って下さった。
理科の先生とともに必ずもう一人、音楽の、女の先生のことが浮かんでくる。授業中に英語の単語カ-ドで“内職”をしていたのがいた。それを見つけた先生は、「そんなに英語がしたければ教えてあげる」と毅然として言った。五線譜の黒板にささっと英語で歌を書いて教えて下さった。それは初めて英語で歌う「ジングルベル」だった。先生の迫力と機転に圧倒された。その歌は今も歌える。
恩師の目に私達生徒はどのように映っていたのだろうか。教育者の使命と誇りの中に教育の根幹となる師弟のぬくもり、すべてを包み込む大きな大きな慈愛があったに違いない。「歌謡曲」「英語の歌」。大人になりかけた青臭さの残る中学生の私達に残してくれた感動はいつまでも新鮮で消えない。そんな先生に巡り会い、本当に幸せだったと感謝している。思い出すたび胸が熱くなります。
投稿: 遠木 道程 | 2012年1月29日 (日) 00時04分