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別れの一本杉

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:高野公男、作曲:船村 徹、唄:春日八郎

1 泣けた 泣けた
  堪(こら)えきれずに泣けたっけ
  あの娘(こ)と別れた哀しさに
  山のかけすも啼いていた
  一本杉の石の地蔵さんのヨ
  村はずれ

2 遠い 遠い
  想い出しても遠い空
  必ず東京へ着いたなら
  便りおくれと云った娘(ひと)
  りんごのような赤い頬っぺたのヨ
  あの泪(なみだ)

3 呼んで 呼んで
  そっと月夜にゃ呼んでみた
  嫁にもゆかずにこの俺の
  帰りひたすら待っている
  あの娘(こ)はいくつ とうに二十(はたち)はヨ
  過ぎたろに

《蛇足》 昭和30年(1955)リリース。

 船村徹は栃木県塩谷の出身で、東京に出てきてから、茨城県笠間出身の高野公男と親友になり、歌の世界でそれぞれに名を成そうと励ましあっていたが、高野は数曲の詞を残しただけで早世してしまった――という話を、船村徹は再々テレビで語っています。

 この時代、東北・北海道・九州・四国などの人びとにとって、東京は感覚的に今のアメリカよりもっと遠い存在でした。
 『リンゴ村から』『おさげと花と地蔵さんと』『僕は泣いちっち』など、東京へ行ってしまった恋人や田舎に残してきた恋人を歌った歌がいくつもあります。

(二木紘三)

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コメント

20数年前の夏、妻の実家のある会津の坂下に行きました。その時丁度
地元出身の春日八郎ショーが会館で行われていました。春日八郎は白の
タキシードを着て地元の人にそれはそれは熱を帯びて歌っておりました。
私の妻も春日八郎ももうこの世にいません。この歌を聞くと妻と見に行った春日八郎の白いタキシード姿が目に浮かびます。

投稿: akichan | 2007年11月27日 (火) 20時20分

 春日八郎と言えば、この別れの一本杉のほかに山の吊橋、赤いランプの終列車が有ります。お富さんも・・・・
 中でもとりわけ印象に残っているのが、この「別れの一本杉」です。音階の幅が広く、なかなかうまく唄えませんが、なぜか唄ってみたくなる歌です。
 高音域での、春日八郎の透き通った、かん高いあの声が懐かしく思い出されます。

投稿: Hikoさん | 2008年7月30日 (水) 11時13分

この曲は最初に覚えた歌謡曲でした。小学校2年生の時です。もちろんラジオしかありません。広島県菅野小学校はクラス30人の山村の学校でした。今は廃校になっています。聞く度にあの頃の平和で幸せな幼い頃を思い出します。60歳の今もこの曲は私の原点です。

投稿: 裏町ギター | 2008年11月24日 (月) 19時56分

この歌を朝丘雪路さんが歌うのを聞いたことがあります。なんとも言えない情感がただよっていました。もう一度聞いてみたいと思っています。ちあきなおみさんの歌うこの歌もいいです。カラオケで声が裏返りながら何度か歌ったことがあります。

投稿: 江尻陽一 | 2010年1月16日 (土) 23時15分

「お富さん」は4年生の時に流行った歌ですが「富」と言う字が私の名前にあるので、からかわれて閉口しました。「別れの一本杉」は6年生の時Kという歌のうまい男の子がおり、担任の先生が聞きつけて「歌って見ろ」と授業中に歌わせたもです。小柄な子で、勿論、大人の恋も知らないし歌詞の深い意味もわからずにだったでしょう・・・長年会っていない彼と、先年亡くなった先生が同時に思い出される歌です。

投稿: Bianca | 2010年1月17日 (日) 12時55分

いいですねー、先生のおっしゃるように九州の最南端で育った私には、あの頃東京は今のアメリカより遠いところでした。
「むらはずれ・・・・」浮かびます、オイドンの村が・・・・
今、弾き語りで毎日練習しています。

投稿: レオナルド・ダ・オンチ | 2012年7月 8日 (日) 09時14分

歌詞を聴くと本当に情景が瞼に浮かんできます。昭和30年代にはそんな風景は幾らでもありました。
でも、今は田圃も畑も消えて、畦道も小川のせせらぎも水車小屋もなくなり、何の変哲もない舗装された道路に変わりました。とても歌詞の情景を思い浮かべる景色なぞ何処にもありません。何でもお変えれば良いってモンじゃないと思いますがネ。変えちゃ~いけないものもあるんじゃないでしょうかネ。

投稿: 赤 | 2013年6月13日 (木) 12時35分

最近は歌詞の優れた歌謡曲が少なくなって残念です。作詞者の名前が先に書かれるように、まず詩があってそれにふさわしい曲が付けられる、それだけ詩が重視されていたと思います。いきなり「泣けた 泣けた」と始まり、ぎゅっと聞く人の心をつかんでしまう、実にうまいなあ。高野公男という人が、26歳という若さで亡くなってしまったのは残念でなりません。曲もとてもいい。船村徹さんは今でも、「今日自分があるのは、もちろんこの曲のおかげだ」と言い続けています。これも素晴らしい。

投稿: 三流詩人 | 2015年7月24日 (金) 00時21分

この歌は私が若かった頃から好きでした。作詞家の高野公男さんは早く他界してしまいましたが、作曲家の船村徹さんとは無二の親友であり、現在も毎年慰霊に伺うと聞いております。詩も曲も情景も最高です。正に人間同士の絆、人間と自然との絆。私は歌が下手ですが、この歌の情景を
想像して、たまにカラオケで一人で唄います。

投稿: フジチャン | 2015年7月31日 (金) 17時18分

 もう随分前になります。飲み会の後、カラオケでこの歌を歌っていると知らない方から「この歌は、難しいよ」と言われたことがあります。どうやら高音部が出しにくいとか音域が広いというようなことを言われたのです。そんなことは知らずにこの歌のイメージがよくて選んだのです。それ以前は、あの「ジュークボックス」や手拍子の「歌声」でバンカラ声が歌の主流でした。

投稿: 今でも青春 | 2015年7月31日 (金) 20時46分

今日、船村先生がお亡くなりになったと知って非常に寂しいです。長い間、思い出のヒット曲をつくって頂いて、感謝感激です。これからも別れの一本杉等思い出を抱いて
唄い継いでいきます。先生の思い出は一生忘れません。
天国でゆっくりとお休みください。

投稿: フジチャン | 2017年2月17日 (金) 11時55分

春日八郎も良いのですが、作曲の船村徹自身が切々と歌い上げるのを聴くのが好きです。少し田舎訛りがあって一味違いますね。

その思想はとまれ、才能ある彼の逝去に心から哀悼の意を捧げるものです。

『別れの一本杉』は、私の小学低学年の頃の流行歌ですが、子供心にも歌詞の情景が想像できました。将来、自分も恋人を故郷に残して都会に出ることになるのだ、と漠然と考えたものです。

投稿: ザジ | 2017年2月19日 (日) 17時59分

毎年6月の末に小学校の同級会をやっています。今年は幹事さんの希望で会津東山温泉に一泊して会津坂下の立木観音・柳津の虚空蔵菩薩をお参りして帰りに春日八郎記念館で仲間たちと
あの頃を思い頭と背骨に刺激と栄養を注入して帰ってきました
。昭和35年3月に小学校を卒業したメンバーです。思い出は各々少し違うかも知れませんが、みんなニコニコ少し恥ずかしいような顔で当時を確認しながら、楽しそうでした。
庭での記念写真はそれはそれは、誰にも見せられません。願わくば立木観音にもう一度お願いして、コロリと先に逝った友だけには報告したいと思いました。

投稿: 髙山 一郎 | 2018年8月 4日 (土) 14時42分

戦前末期生まれには懐かしい名曲です。昔、某電動工具メーカーに在職していた頃、本曲の作曲船村徹の出身地栃木県塩谷郡に近い鬼怒川・湯西川方面に慰安旅行で行ったものです(湯西川温泉の“炉端焼き”は絶品でした)。
船村徹は「別れの一本杉」を始め「柿の木坂の家」「王将」「風雪ながれ旅」「佐渡情話」など、吉田正(茨城県日立市)とともに北関東を代表する作曲家です。
(YN KRさん提供)http://www.youtube.com/watch?v=0u7Sok6c7lo

投稿: 焼酎 | 2018年9月30日 (日) 11時12分

「別れの一本杉」私は趣味でギターの弾き語りをしていますが、この曲を弾き始めると何故だか胸が熱くなるものを感じます!

まだ売れていなかった、高野と船村がキングへ曲の売り込みに行った時、廊下で春日に出会ったので、船村が「曲を聞いてくれませんか」と声をかけ、春日が掛川デレクターに頼んで数曲聞いてもらった中にこの曲があり、「泣けたっけ」という題が付いていた。聞き惚れた春日は掛川に頼んで、吹き込ませてもらい、自分の故郷にある一本松を思い浮かべながら歌ったそうです。その後松竹が映画化して昭和31年11月14日に封切りしたが、その時、高野はすでに亡くなっていたそうです。「精選盤・昭和の流行歌・保田武宏解説」

「別れの一本杉」この曲を聴く度に、この歌詞とともにその切ないメロディがしみじみと心に沁み込んでくる、この昭和の名曲を世に送り出した、無二の親友、高野公男と船村徹の二人で作った作品を、さらにもっと生み出してもらい、幼い頃から好きだった唄名人の春日八郎に切々と歌って欲しかったと、私はつくづく思ってしまいます。

投稿: 芳勝 | 2018年9月30日 (日) 13時15分

この歌の作詞者、高野公男さんは、私が今居住している茨城県の笠間市の生れです(私自身は、九州・小倉の生れ育ちですが)。 舩村徹さんは隣県・栃木県塩谷郡の生れです。当時は、在京の地方出身者は方言で寂しい思いをしておられた様で、両者は親しくなりました。高野公男さんは、結核の為、若くして「国立水戸病院」でなくなりました。船村さんは、高野さんのお墓(今は、「別れの一本杉」の歌碑もあるそうです)に生前、毎年参られていたそうです。
 私自身は、遠い故郷への思い出と共に、この唄を小声で歌っています。 いつか、笠間市にある歌碑を訪ねたいと思っています。私には、九州・佐賀県出身の忘れられない方がいます。
嗚呼。

投稿: 竹永尚義 | 2018年9月30日 (日) 16時20分

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