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赤とんぼ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:三木露風、作曲:山田耕筰

1 夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先

《蛇足》 三木露風(明治22年~昭和39年)は兵庫県龍野町(現在は市)生まれ。戦前を代表する抒情派詩人の一人で、相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成。
 詩集『廃園』は北原白秋の『邪宗門』と並び称され、文学史上「白露時代」と呼ばれる一時代を築きました。

 『赤とんぼ』は、大正10年(1921)、露風32歳のとき、北海道のトラピスト修道院で作られました。

 数多くの歌曲、童謡・唱歌を作曲した山田耕筰は、ことばのアクセントやニュアンスをたいせつにした曲作りをしていたといわれます。この歌でも「あかとんぼ」と、「あ」を高く、「かとんぼ」を低くしています。当時はそのように発音されていたからです。
 ところが皮肉なことに、今では「あかとんぼ」と、アクセントが「かと」に移ってしまいました。
 そういうことを考えると、現代の若いミュージシャンたちのように、ことばのアクセントなど無視した作曲法のほうが、あるいはいいのかもしれません。

 この詩は、意味上4番から始まります。
 中年になった私
(露風)が縁側かどこかから庭を見ると、竹垣か物干し竿の先に赤とんぼがとまっていた。それを見た瞬間、幼時の記憶が次々と甦ってきたきた。
 誰か
(たぶんねえや)におんぶされて赤とんぼを見たことがあったが、あれはいつのことだっただろうか。山の畑で桑の実を摘んだことがあったような気がするが、あれは夢だったのだろうか。ねえやはずいぶん若いときに嫁にいってしまい、今では実家とのつながりもきれてしまった――といったふうです。

 赤とんぼは、『失われたときを求めて』(プルースト)の紅茶とマドレーヌに当たるわけですね。視覚と味覚の違いはありますが。
 『夕焼け小焼け』や『故郷』などと同じ素朴な郷愁の歌をお楽しみください。

《お知らせ》
 2016年8月25日まで、「視覚と味覚の違いはありますが」のあとに、「お里のたよりの"お里"」について私の見解を述べた文章がありました。私としては、大半の人が疑問をもたない"常識"に対して一石を投じるつもりで書いたのですが、当初からご批判・ご反論をいただき、また少数ながら私の解釈もありとする意見が絡み合って収拾がつかなくなったので、この件についての論議は打ち切りと宣言いたしました。

 この件について、何度ご批判をいただいても、それは当初いただいたものと同じであることは明白ですし、またロゴス的なやり取りが、純粋かつ素朴に郷愁に浸りたいという方々の思いを阻害することになっているのではないかと危惧したからです。

 そこで、私の見解とそれに関するご意見はすべて削除し、別ページにまとめました。この件についてのやり取りに関心のある方は、コチラをご覧ください。
 以後、この件についてのコメントは受け付けませんので、ご了承ください。

(二木紘三)

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コメント

   赤とんぼ心の空を飛びしなり  (拙句)

 私が小学二、三年頃は、秋になると、夕方の空が真っ暗になるくらい、赤とんぼがいっぱい飛んでおりました。それが、山形の田舎町ですら年々その数が減っていきました。それが証拠に、私の中学、高校の頃の記憶には、赤とんぼに結びつく強い記憶がないのです。
 昭和三十年代の郷里のことですから、国土開発や工場誘致などということはまだまったくなく、あと考えられますことは、やはり農薬の問題くらいだったでしょうか。

 赤とんぼではありませんが。当時いっぱいいたものとして、私の郷里では「蝗(いなご)」があげられます。(いなごも、赤とんぼと同じ運命をたどりましたが。)
 昭和三十年太郎村。私が六歳の秋のある早朝。母が私を連れて、西の方の山際に向かいました。とある草ぼうぼうの荒地に着きました。見ると、いなごがいっぱい、草むらをぴょんぴょん飛び跳ねているではありませんか。母はやおら、持参した麻袋の口を大きく広げて、草むらの方にかざしました。すると、飛び跳ねていたいなごが、袋の中に入ること、入ること。ものの三十分も経たないうちに、麻袋はいなごでいっぱいになりました。
 母と私は、いなごで重くなった麻袋を両側で持って、意気揚々と引き揚げました。
 『赤い靴』で述べさせていただいたような貧農でしたから、我が家にとって、「いなご」は貴重な滋養源になったのです。市販されているような、高級な佃煮ではありません。醤油でただ煮込むだけです。これがまた、何ともいえない、香ばしい乙な味なのです。

 三十代の頃、何かの飲み会の時、それを思い出してその話をしました。すると私よりいくつか年上の人から、「大場さん。あんたねえ。いくらなんでも、そんな見えすいたウソつくもんじゃないよ。」と、たしなめられてしまいました。『あヽ、この人はそういうこと知らないんだな』。私はあえて反論しませんでした。
 でも、皆様。これは本当の話です。いくら幼少の時とはいえ、私の懐かしい記憶として、未だにしっかり残っているのですから。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月20日 (日) 19時20分

大場さんの話は本当ですよ。敗戦の後(昭和21~2年頃)、私は名古屋市という「大都会」に住んでいたのに(5~6歳の頃)、ろくに食べるものがないのでイナゴに醤油をかけて煮たか焼いたかして、沢山々々食べました。それはそれは美味しくて最高の味でした。
わが家は貧しくなかったのですが、食べるものはスイトン、芋のツル、どんぐり粉や雑炊だったでしょうか。とにかく、イナゴは最高の食糧でした。 ある時、貴重な金太郎アメを内緒で食べたら、親父に見つかってもの凄く叱られ、泣きじゃくったことを覚えています。以上、蛇足になりましたが、本当に悲惨な時代でした。赤トンボでもイナゴでも何でも食べちゃう時代でした。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年4月21日 (月) 18時58分

 矢嶋様。私の『赤とんぼ』の一挿話を、強力に裏付けるようなコメントを賜り、まことにありがとうございます。
 確かに、当家の『赤い靴』での実情は、昭和31年だったから珍しかったのであって、戦後間もなくの頃は、全国どこのご家庭でも、それ以上に悲惨な食生活だったのかも知れませんね。
 私もだいぶ前、ある人から「終戦直後の頃は、何も食うものがなくて、木の皮をはいで、それを煮て食ったものだよ。」というような、私らの世代では、にわかには信じられないような話を聞いたことがあります。
 しかしまさか、いくらなんでも「赤トンボ」までは…(笑)。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月22日 (火) 00時24分

戦前ドイツに留学していた人の体験談です。数十年前になにかで読みました。「赤とんぼ」を歌ったら、これは古くからドイツに伝わる曲だと言われたそうです。まさか山田耕筰が盗作するとは考えられない。そう思った著者は、メロディーのもつ日本的な情緒からやはりこれは山田耕筰の作曲であると自らを得心させたとのことです。ドイツ人にどう反論したかは述べられていませんでした。今となっては著者の名も記憶にないのですが高名の方だったように思えます。
どなたかこのエピソードを知っている方があれば教えていただきたいのですが!

投稿: 堀 周市 | 2010年5月 6日 (木) 23時09分

堀 周市 様

的外しかも知れませんが下記が関連あるように思えます。

http://blog.ottava.jp/ottava_moderato/2009/02/post-448c.html

投稿: 浜井 | 2010年5月13日 (木) 14時11分

浜井様

ご回答ありがとうございます。
しばらく留守にしていましたのでお礼の返事が遅れました。
記憶がはっきりと戻らないのですが石原慎太郎氏の随筆が私の記憶に似ているようです。

投稿: 堀 周市 | 2010年5月24日 (月) 01時26分

二木様、このように素敵なブログというのでしょうか。提供して下さり、本当にありがとうございます。この「うた物語」の楽しみは4つあります。一つは、ただ、メロディを聞く楽しみがあります。二つ目は、音楽に合わせて歌う楽しみです。本当に歌いやすいです。三つ目が「蛇足」の解説を読む楽しみです。色々と今まで知らなかったことを教えられて本当に感謝です。目からうろこのようなことが沢山あります。四つ目が多くの方々のその歌にまつわるエピソードや、コメントを読む楽しみです。本当に色々な方々のお話が聞けて、時には笑ったり、また時には考えさせられたりします。ありがとうございました。これからも楽しませてください。

投稿: 上原 | 2010年7月19日 (月) 21時51分

こんにちは
長野の鉄道にあこがれて
信越線、大糸線、中央線、飯山線、小海線、そして昨年やっと飯田線にも乗ることができました。

この詩は北海道のトラピスト修道院で作られたという二木さんの説明は目にしたはずでしたが
四十年ぶりで渡島当別のトラピスト修道院(男子)に行ってみたら
確かにトラピスト修道院の講師に招かれて三木露風夫婦で住んでいたという場所にも説明板があったし
ここでこの詩がつくられたという歴史的な説明板も設置されてありました。

渡島当別の駅のちかくの川田龍吉男爵の農場(ここが男爵いもの栽培地だった)記念館を見て
トラピスト修道院の近道の山道を歩くと
「ヒグマに注意」という警告も見かけます。

そんなわけで
三木露風は洗礼を受けたのでした。
赤とんぼが北海道でつくられたなんて
今年七月に現地で実感してきました。
 四年後には丘の上の修道院のふもとの海岸線に北海道新幹線が走るでしょう。

投稿: みやもと | 2011年8月16日 (火) 08時36分

数十年前、砂川闘争で敗北した元労働組合員です。警視庁第4機動隊と対峙した時に「赤とんぼの歌」を歌いました。1500名の警官隊に労働者と学生合わせて500名では物理的にも敗北は明白です。涙を流しながら砂川から帰りました。しかし、現在、大分市で反戦平和を訴える市民グループが団体を「赤とんぼの会」と名付けて活動しています。その名前の由来は砂川闘争でこの歌が歌われたことによると市民グループの主導者から直接聞きました。

投稿: 五十嵐 | 2012年2月13日 (月) 09時34分

そういえば「爆音と大地」という映画を高校生の頃観ました。スクラムを組んで赤とんぼの歌を歌っていませんでしたか。映画はかなり観ましたが、忘れ難い映画の一つです。あの頃の日本人は元気と信念がありましたねぇ。「金にころぶ」事を潔し良しとしない矜持をもっていました。今の原発問題とは雲泥の差があります。

投稿: ハコベの花 | 2012年2月13日 (月) 11時53分

現在の婚姻制度では、15歳の結婚は認められていませんので、3番の歌詞がカットされ歌われないことがあるのです。3番の歌詞「十五で姐やは」を削除してしまうと、楽しい想い出を歌っただけの歌になってしまいます。この詩の哀愁を帯びた3番があるからこそ意味があるのです。(池田小百合ー子どもたちに伝えたい日本の童謡より)

投稿: 海道 | 2012年5月27日 (日) 15時41分

若い頃、かみさんと播州赤穂に行き、帰りに龍野に寄りました。帰り際に「赤とんぼ」の曲が町の夕空に流れて、露風の故郷であることに思い至りました。あれから一度も行っていませんが、随分変わっただろうなと思いつつ、二木先生のメロディを聴かせていただきました。なつかしいです。

赤とんぼを見たとき、幼時の記憶がよみがえってきたというお話し、興味深く拝見しました。露風のイマジネーションはすごいですね。またそれを言葉に定着する力も。誰にも幼時の記憶はあるのでしょうが、あわただしい現代社会にあって、思い出すこともなくなってきているようにも思います。

投稿: 大枝山 昇 | 2012年10月 7日 (日) 08時36分

三木露風の故郷、龍野は 今でも観光客の少ない 静かな城下町です。山陽本線の「竜野」ではなく、姫路で乗り換えて、姫新線の「本竜野」で降りなければ この城下町にはいけず、その地理的不便さが 町の雰囲気を守ってきたと思われます。昔、職場の同僚に 三木さんという人がいて「わが一族には哲学者の三木清や歌人の三木露風がいましてね、、」と誇らしげに話したのをおぼえています。三木家は いわゆる 地元の素封家です。露風は 姫路、龍野の高校や小学校の歌詞を数多く作っていて 貢献度においても地元の名族といるでしょう。

「赤とんぼ」に歌われた「桑の実」も「ねえや」も 子どもたちにとって「はるかな昔のことば」になりました。養蚕業の衰退により桑畑がなくなり、農地改革により大地主のぜいたくな生活が失われたからです。都会生活しか知らない私が 実際に桑の実を見たのは40代になってからです。(恥ずかしながらと形容する必要はないですね、、)
 
 しかし この歌のもうひとつのキーワードの「夕焼け小焼け」はうけつがれていくでしょう。「夕焼け」ということばには特別な思い出があります。「識字学級」という学びの場があります。子どもの時 貧しくて 小学校に行けず、字を知らないままに社会人になり 子育てを終えてから 字を覚えたいと思う人が集まるところです。そこで勉強した ひとりのおばあさんが作文で「私は 夕やけ という字を覚えて はじめて夕やけの美しさを知りました」と書きました。ことばの本質、文字の本質を言い当てた この表現には うちのめされました。と同時に 夕焼けという日本語の美しさを 私自身が再発見する出来事でもありました。

投稿: 越村 南 | 2012年10月10日 (水) 12時42分

笛吹き牧師の木下春樹と申します。里親制度の普及を目指しています。
我が家には住宅用と教会用の2つ玄関があり東の玄関を出ると、そこは旧龍野藩領地です。
フルートを演奏すると、必ずアンコールに赤とんぼをリクエストされます。
演奏前に少し解説を入れるのですが、まだまだ多くの方が、「追われて」という意味に思っています。
三木露風&山田耕筰は共に幼くして親と別れ、クリスチャン家庭であり、音楽に携わり、戦犯と非難されたりしています。
露風&耕筰にわか研究家として一週間目です。
専門家にはほど遠い位置にありますが、音楽、信仰、地元、幼児体験など共通項目が多いので、共感も多いかなと始めました。
インターネットやYouTubeで、資料が簡単に見られるので、大変能率があがっています。
皆さんの議論が大変参考になりました。
感謝まで。

投稿: 木下春樹 | 2012年12月10日 (月) 15時33分

 傘寿を過ぎてもこの歌を歌うと歌声運動の周辺にいたころの生き生きした感覚が蘇ります。不朽の名作ですね。
 赤とんぼを見ない環境で育ったらしい若い人が、(別の話題で)あかとんぼの「あ」を高く発音しているのをまれに放送などで聴いて、この歌でしか赤とんぼを知らないのだろうな、と思っていました。
 山田耕筰が当時の発音に忠実に節付けした、と教わりましたが、正直に言って半信半疑です。
 名詞の「赤」はアを高く言いますが、連語では逆になります。赤岩・赤貝・赤紙・赤坂・赤字・赤信号・赤電車・赤胴鈴之助・赤札・・・など、連想できる限りでは例外がありません。赤とんぼも、私の子供の頃からアを低く言いました。
(連語では「赤」のアクセントが名詞と逆になると書きましたが、形容詞の「赤い」はアが低く、連語でも同じです(赤い川の谷・赤いサラファン・赤い靴のタンゴ・赤いハンカチ・・・)。連語の成立事情には専門の人の研究があるでしょうが、私は、先に挙げたような連語は名詞「赤」との複合ではなく、形容詞「赤い」の語尾が省略されたものだろうと、アクセントの面から考えています。)
 アクセントの逆転は「あかとんぼ」だけではありません。第二節で「赤とんぼ」と同じ位置に来る「桑の実」にも同じ問題があります。私は養蚕県育ちで、子供の頃桑の実(ドドメと言いました)を争って捜し、また桑こき(桑の葉もぎ)を手伝いました。「桑」もクを」低く発音します。「桑畑」「桑くれ」なども同様です。第三節の「嫁」も」同じくヨが低い。さらに言えば、第二節の「まぼろし」、第三節の「絶えはてた」も、いずれも日常語と高低が逆です。
 ただし、日本語の高低アクセントは地方差が大きいようで、関東と関西で反対になるものが多いそうです。アクセントのない地域もあります。山田耕筰は東京生まれですが、13歳で姉を頼って岡山県に行き、大阪の学校を含めて5年間関西で暮らしました。三木露風の兵庫県の両隣です。当地であかとんぼのアが高い(高かった)なら、山田耕筰がそれに忠実に譜付けしたと考えることができましょう。
 それでは、「桑」「嫁」「まぼろし」「絶え果てた」でも同じことがいえるのでしょうか。これらすべての語のアクセントが関東と逆であると実証されれば、そう言えるでしょう。
 私は別の仮説を考えています。「あかとんぼ」の「あ」(ほかのケースでも)のラ音を1オクターブさげても、またその下のソ音にしても歌えないことはない。山田耕筰は初めアクセントに忠実にそう書いたのだが、歌ってみると上のラにした方が格段に印象的で美しい。そこで音楽家山田耕筰は、この歌については、あえて通常のアクセントとの整合を犠牲にして、メロディーの美しさを選んだ、と。
 

投稿: dorule | 2013年9月 1日 (日) 14時34分

dorule様
『NHK編 日本語アクセント辞典 改訂新版』(日本放送出版協会)では、アカトンボのカトにアクセントがある(カトが高い)と表示されていますが、その後ろにカッコ書きで(伝 アカトンボ)としてアにアクセントがある(アが高い)ケースが記載されています。
ご参考までに。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2013年9月 1日 (日) 15時45分

 あかとんぼのアクセントについて、久保田万太郎(1889年東京生まれ)は語頭の“あ”にアクセント置いて発音していたと内村直哉(1909年東京生まれ)に聴いたことがあります。当時の東京では“あ”を高く発音していたのではないのでしょうか。

投稿: 槃特の呟き | 2013年9月 2日 (月) 00時03分

「赤とんぼ」のどこにアクセントを置くか。それによって音程まで違ってくるのですから、これは大問題ですね。そこへ割って入ろうなどとは、思ってもいませんが、小学校の4年か、5年で、この歌を習ったときのことを思い出しました。
 この歌は、すでに人口に膾炙されていましたので、わたしたちは習う前から知っていました。ですから、先生がオルガンを弾き出すと、みんなで得意になって唄いだしたのですが、例の「赤とんぼ」の「あ」のところに来ると、先生は突然オルガン演奏をやめて、「あ」の音程が違うと言われるのです。何回注意されてもなかなか直らなかったのは、普段使う「赤とんぼ」のアクセントが、音程と合わなかったのが原因だったのですね。懐かしく思い出しました。因みに、わたしの育った新潟県の上越地方は、関東系統の言語範囲に入ります。
 

槃特の呟き 様
 いつぞや「美人歌手論争」で、淡谷のり子に異を称えられたあなた様に、臆面もなく私見を述べた者です。その際、あなた様のHNを「バン」特とお呼びしてしまいました。あとから仏弟子の周梨槃特(しゅりはんどく)に因むHNであることに思い至り、機会をみてお詫びするつもりでおりました。遅ればせながら、その節の愚論とともに改めてお詫び申し上げます。

投稿: ひろし | 2013年9月 3日 (火) 12時09分

管理人様
 NHK「日本語アクセント辞典」の記載を教えて頂きありがとうござおます。いまその本は手元にありませんが、先に書いたような「赤」で始まる語、赤岩・赤貝・赤紙・赤坂・赤字・赤信号・赤電車・赤胴鈴之助・赤札・・・などがどう扱われているか興味があるので、参照したいと思います。
 なお、私はアクセントのことで細かいことを言い過ぎたような気がしますが、要は、山田耕筰が素晴らしい作曲をした、彼はメロディーを大事にした、という感想でした。
 

槃特の呟き様
 示唆に富むお話ありがとうございます。そのコメントから考えると、内村直也には久保田万太郎のアクセントが異様に感じられたのですね。
 アクセントの経時的変化は、長い間には、珍しくないことでしょうが、二〇年かそこらで一地方(東京のような大都会)のアクセントが劇的に一転するということは、あまり確かそうな気がしません。それよりも、地方差のほかに、個人差、家庭差(これは私的経験からの造語です)が大きかろうと思っています。たとえば久保田万太郎については、東京人と言うよりも、下町育ちの江戸っ子というところに、何か意味があるのではないかと。

ひろし様
 新潟県の小学4年生か5年生は、この歌を学校で教わる前にみんな知っていたが、普段使っているアクセントがオルガンに合わないので先生に何度も直された、という思い出、たいへん興味がありますね。
 ところでひろし様も「この歌はすでに人口に膾炙していた」から、と言われます。最近見たウイキペディアの「赤とんぼ」の項には、映画「ここに泉あり」の挿入歌として使われてからひろまった、とあり、おかしなことを言うなあと思いました。よく知られた歌なので映画に採り入れた、と私は思っていますが、いかがでしょう。

投稿: dorule | 2013年9月 3日 (火) 22時17分

dorule 様
 もう70年近くも前のことになるので、記憶も定かでないのですが、調べましたら、この歌は小学5年生で習っています。ということは昭和22年のことです。拙文で「人口に膾炙されていた」旨書きましたが、あるいは、わたしの言い過ぎかも知れません。しかし、わたしたち5年生はほとんどの者が既に知っていました。しかし、いつ、どこで覚えたのかはまったく思い出せません。戦後、誰かこの歌を知っていた人が、こどもたちに教えていたのかも知れません。音程など不正確なままに。
 dorule様が仰る、映画「ここに泉あり」で広く知られるようになった、のが事実とすれば、あるいはわたしたちだけが特殊だったのかも知れません。ただ、この歌が作られたのが1927(昭和2)年ですから、わたしたちが正式に学校で習う前に、既にかなり知られていたようにも思うのですが、この点について、どなたか教えていただければ幸甚です。 

投稿: ひろし | 2013年9月 4日 (水) 10時42分

ひろし様
 正確な年代を教えていただきありがとうございます。新潟の小学生がだれでも、楽譜も知らずに、覚えていたというのですから、「すでに人口に膾炙していた」ことは疑えません。昭和22年は、映画「ここに泉あり」公開の昭和30年よりも8年も前のことですから、「この映画に挿入されてから広まった」というウイキペディアの記述は間違いと断定していいと思います。
「ここに泉あり」は、本当に感動的な、すばらしい映画です。ここに描かれているように、普及のために数人の楽員で山間の小学校まで回り、謝礼にジャガイモと人参をもらっていた群馬交響楽団は今や全国でも十指に入ろうという楽団に成長しました。それもこの映画で危機を救われたおかげと言えるくらいです。私は群響の地元で育ちましたが、「ここに泉あり」公開の頃は映画を観るゆとりがなかったようで、知ってはいても、鑑賞したのははるか後年、中年も初老に近い頃でした。それでも、何度も目頭が熱くなりました。群響の近くに帰去来してから、なにかと応援しています。
 本題に戻って、前にこの歌で「うたごえ運動」のころを思い出す、と書きましたが、私も砂川事件よりもずっと前から「赤とんぼ」は知っていました。映画「ここに泉あり」は傑作だからこそ、「ウイキペディア」は、この歌にまつわる妄説を訂正すべきでしょう。

投稿: dorule | 2013年9月 4日 (水) 11時59分

dorule 様
 いろいろコメントしたいのですが、長くなりますので2点だけ記します。
①ウィキペディアの「妄説」について。昭和22年に新制に切り替わっても、まだ検定教科書(昭和24年から)ではなく、文部省編纂教科書(国定に準ずるもの)だったのですから、小学5年生の音楽教科書には全国一律に「赤とんぼ」が掲載されています。したがって、われわれ世代は、ほとんどこの歌を正式に習っているはずです。検定教科書になってからは、あるいは掲載されない教科書があったかも知れませんが、少なくともわれわれ世代は、折にふれて、この歌を口ずさみ、それが次の世代に受け継がれていったことは間違いないでしょう。したがって、お説のとおり、この歌が、昭和30年製作の「ここに泉あり」から広く歌われるようになったという、ウィキペディアの記述は、わたしも疑問に思います。
②「あ」のアクセントについて。阪田寛雄著「童謡でてこい」(p.22)によると、この歌が出来た当時(昭和2年)、東京地方では、赤とんぼの「あ」にアクセントがあった、とする記述がある(池田小百合「なっとく童謡・唱歌」で索引)。ご参考までに。

投稿: ひろし | 2013年9月 4日 (水) 13時53分

昨年9月に交換された、「ここに泉あり」のWikipediaの記述は間違いだ、との皆様のご意見に賛成。訂正されるかもしれないと思い、本日まで見ておりましたが、一向に変化が見られませんので、当方のアカウントで訂正いたしました。この「赤とんぼ」Wikipediaの著述は他にも色々不満箇所がありますが、そのままにしてあります。

投稿: 飯田 | 2014年7月22日 (火) 18時09分

昭和30年の映画「ここに泉あり」から広がったと思える節は、露風生誕地の兵庫県たつの市での扱いです。露風の詩碑「ふるさとの」が昭和15年建立。赤とんぼの歌碑は昭和40年建立。同市の国民宿舎「赤とんぼ荘」開業が昭和38年。時系列でみると音楽の教科書に載ってはいたが、後押ししたのが映画で、さらに最近は由紀さおり姉妹の活動が貢献したという解釈でいかがでしょうか。

投稿: tsuchi | 2014年9月 6日 (土) 10時34分

飯田様
「ここに泉あり」のWikipediaの妄説を訂正してくださりありがとうございました。群響の危機を救ったとも言えるあのシーンが観客に強烈な感動を与え、受け入れられたのも、「赤とんぼ」が、当時、ひろく親しまれていたからで、それをあのシーンに用いたことこそが映画の手柄と思います。歌と映画と、双方の名誉のためにも、飯田様の労に感謝。
tsuchi様の言われる映画の後押しや由紀さおり姉妹の貢献も、「赤とんぼ」が不朽の名作と称えられ続ける一助ではあると思います。半世紀以上前の様子は今や多くの人が知らないし、素晴らしいと思う新しい歌もすぐ消費されてしまう時代ですから。

投稿: dorule | 2014年9月 8日 (月) 13時47分

補足:ネットで調べてその情報源の本を取り寄せました。合田道人著 「案外知らずに歌ってた童謡の謎」 祥伝社 黄金文庫 平成15年 p193

「そんなちぐはぐな童謡が急速に一般化して童謡の名曲に育ったのにはこんな理由がある」「映画(ここに泉あり)のワンシーンがこの歌を名曲に育てた」「子供たちが歌っていた歌はなんという歌か、という問い合わせだった。「いきなりこの古い童謡がクローズアップされた」「同時にうたごえ運動でも取り上げられた」などとあります。

投稿: tsuchi | 2014年9月 9日 (火) 11時16分

「ちぐはぐな童謡」「名曲に育てた」と言うところを見ると、三木露風はいい詩を書かず、山田耕筰は名曲を作曲したのではないという主張ですね。それから、どの歌にせよ、何という歌か知らなかった人は、それはいてあたりまえですが、ひろし様の実証的な報告に、そして私自身の記憶に照らしても、合田道人さんという著者の書き方は一面的過ぎるようで、その姿勢には相当なバイアスがかかっているように感じられます。ほかの童謡の話は読んでみてもいとは思いますが、暇があったら、ですね。

投稿: dorule | 2014年9月 9日 (火) 13時15分

書きもらしましたが、合田道人さんは「同時にうたごえ運動でも取り上げられた」と書いているそうですが、この歌を取り上げた「青年歌集」第二集の発行は昭和28年3月、映画よりも2年以上前でした。この第二集はポピュラーな日本曲が並んでいる、と好評でした。

投稿: dorule | 2014年9月10日 (水) 06時00分

お里の`お`は「丁寧語もしくは美化語」と言うご説明に納得。この頃‘お庭‘をしばしば聞き、読みもします。女性でない大の男と思われる男性が使っている。これは`お里`と異なり、男の女性化の証しでありませんか?言葉が乱れていると私は思います。如何なりや?

西欧州の過ぎし九月は記録破りの乾燥月でした。神無月はその反動なのか、雨模様が多い。するとアカトンボが見られない。去りし一週間も本日も曇り空かチラチラ雨模様。心の中でメロディーが響きます。ながらも、この神無月にアカトンボを見たのは一度だけ。‘お里‘こと日本列島は台風続きで、アカトンボたちはどうしているのでしょうか。

投稿: minatoya | 2014年10月23日 (木) 10時09分

♪ ねえやは十五で嫁に行き~ ♪

このフレーズで思い出します。
私の実家では母も祖母も祖父も仕事を抱えていましたので、私は生まれてからしばらくの間、母の職場に近いある家で預かってもらっていました。

その家には小学生の女の子がいて、学校から帰ると私を背中に負って子守りしてくれていたそうです。その当時(0~1才)の記憶は全くないのですが、物心のつく幼少より彼女は私の大好きなお姉ちゃんでした。

彼女が実家にいるうちは彼女のお母さんから、「スイカがあるから食べにおいで」とか、「お姉ちゃんが花火大会に連れて行ってあげると言ってるよ」とか、時々誘ってもらいました。

そのお姉ちゃんは私が小学二年生の時18才で遠くに嫁に行きました。これは私の人生での第二のショックです。本当に悲しかったです。第一のショックは幼稚園の時大好きだった女の子を失った時で、以前他の歌でコメントさせていただきました。

お姉ちゃんは中学を卒業後、洋裁を習われていて私へのお別れのプレゼントはミシンで縫った彼女手作りの夏服でした。

彼女が結婚していなくなると同時に彼女からも彼女のお母さんからの便りもなくなりました。

私の場合、”お里”は彼女の実家になりますね。
大好きなお姉ちゃんは今でもご健在です。

投稿: yoko | 2014年10月25日 (土) 13時24分

赤トンボ ほほをかすめて ツイと飛び
夏のロマンス もう終わりだよ・・・・

おっしゃるとおり、お見通しなんだ、その目は万華鏡の様に見えるんですか?

この歌好きです。なんとなくせつなくさせます。
ロマンスとは関係有りません。

投稿: 田中重實 | 2015年7月16日 (木) 21時55分

山形はもう秋の気配。
赤とんぼの歌がしみじみと胸に迫ります。
赤とんぼの節になる度30数年前の記憶が蘇ります。
当時幼稚園児だった5歳の次女は赤とんぼが大好きでした。官舎の庭には沢山の赤とんぼが飛び交い、網で捕まえては虫かごに閉じ込めていました。(「なんだべまず、つくだ煮できるぐらいの赤とんぼだなあ」等と呆れていた私は30代でした~。)
4年生の長女が「私の憲法」という課題を与えられたのを模倣して次女はオール鏡文字で「○○○のけんぽう」を書きました。「とんぼをこらしめない」でした。今、空を埋めるほどの赤とんぼには遭えないのを寂しく思います。


投稿: りんご | 2015年8月30日 (日) 21時35分

最近、各地での紅葉の便りが届いている今日この頃ですが、今の季節になると必ず想い出されるのが、13年前のある「ステージ」のことが思い出されます。
私の住んでいる某町での「子育て支援事業」のイベントで、元NHK歌のお姉さん「森 みゆき」さんとのステージで共演できたことです。
森さんご希望の「赤とんぼ」を私の「ハーモニカ伴奏」で見事に熱唱されたことです。
リハーサルの時に、テンポの取り方についてアドバイスを受け、本番では一番の歌唱の後、季節のコメントを入れられましたが、二番の歌唱へとタイミングも合いホッとしたところでした。
秋の深まりとともに、森さんの「歌声が」耳元に聴こえてきそうです。


投稿: 一章 | 2015年11月18日 (水) 21時21分

唐突で不躾な質問を、お許しください。
歌詞の順番に季節を織り込む際には春夏秋冬という形が普通かなと思っております。 赤とんぼと桑の実とでは季節の順番が逆ではと感じています。何故このような順番にされたのかを御存知方がいらっしゃいましたら教えてください。養護施設で桑の実を御馳走として食べた経験から歌詞の順序に違和感を覚えるようになりました。

投稿: おさむくん | 2016年6月28日 (火) 03時09分

上の投稿者の方へ
おんぶされてアカトンボを見たのと、桑の実を摘んだのとは別の年なのです。歌詞というものは時間の流れの順序に書かれるものと思っている人がいることにびっくりしました。

投稿: カトンボ | 2016年6月28日 (火) 04時01分

目の前の棹の先の赤とんぼ(4番)から浮かんで来た子守のねえやの思い出を__年代順に__たどったものですね。(管理人注:以下の数行は別ページに移動)

散歩道の土手に聳える桑の大木の実はほとんど落ち尽くしましたが、今年はいくつかもいで、少年時を懐かしみました。私の生まれた養蚕地帯は一面の桑原で、桑の実のことは「ドドメ」と申しました。熟すると外見は真っ黒に耀きますが、果汁は鮮やかに赤いのです。お腹をこわすからドドメを食べるなと言うのを、隠れて食べるのですが、よほど器用に食べないと、歯が赤く染まるのですぐ露見します。

投稿: dourule | 2016年6月28日 (火) 23時03分

あやちゃん、くしゃみしてますか?
あやちゃんのこと「うた物語」に書かせてもらいましたよ。

花火大会に連れて行ってくれる、とあやちゃんのお母さんから連絡があったので僕は大喜びで、夕方の明るいうちからあやちゃんの家でずっと待っていたのに・・・ でもあやちゃんは暗くなっても帰ってこなかった。
「ワッカルカナァーそのときの僕の気持ち、ワッカンネーダロナー」

あやちゃんがお嫁に行っていなくなった後、僕はこっそり母の箪笥からあやちゃんの結婚写真をとりだして、シンデレラのように美しいあやちゃんをじっと見ていた・・・
「ワッカルカナァーそのときの僕の気持ち、ワッカンネーダロナー」
あやちゃん、あいたいなぁ~、

投稿: yoko | 2016年6月30日 (木) 06時18分

dourule様 
単年度ではなく複数年度で年代順という包括的な捉え方なんですね。視野狭窄でした。御陰様で氷解いたしました。ありがとうございました。
先日 都会育ちの連れ合いに桑の実がどれほど美味しいかを教えたくて、近隣県のイベント初日を楽しませていただきました。私にとっては懐かしい味だったのですが彼女にとっては勿論初めての体験でした。一事象をそれぞれの思いで楽しめるのなら遠出散策も悪くないものですね。
赤とんぼの時期になりましたら山裾にある養護施設を一緒に尋ねてみようと思います。

投稿: おさむくん | 2016年6月30日 (木) 06時20分

「お里」の解釈について、ご意見・ご批判をくださった方は、「蛇足」の後半にある《お知らせ》をご覧ください。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2016年8月25日 (木) 04時08分

81才になった今も、少年時代に片田舎にいた私にとってトンボは親しみある、古い友達のようだ。夏休みの昆虫採集の提出物には、なんといってもトラヤンマがあれば組のヒーロー、ギンヤンマがあって一人前、シオカラトンボ、ムギトンボは捕っても馬鹿にされるので多分登場しなかった。まして赤とんぼなど全く論外。でもあの渦巻くような大群、秋のやわらかい日差しの枝葉に羽を休める姿は目に浮かぶ。戦争が終わった直後、昭和20年の秋その大群と戯れていたとき、大好きだった先生が戦地から帰って来て「帰ったぞ」と声をかけて下さった。あの嬉しさは忘れがたい。さて久しぶりに赤とんぼに会いに行こうか。

投稿: 昭和老人 | 2016年8月28日 (日) 03時51分

2016-8-28日付けの私の投稿に訂正・加筆させてください。
とんぼの名称が子供時代の知識のままでしたので。
トラヤンマ->オニヤンマ(虎のように黄と黒の縞模様、迫力があります);ムギトンボ->ムギワラトンボ(私の記述ミス。シオカラトンボのメスだそうです);
なお当時の日本軍の複葉練習機(むろんプロペラ機)のことを赤とんぼと呼んでいました。

投稿: 昭和老人 | 2016年8月28日 (日) 22時24分

練習機の「赤とんぼ」は複葉つまり左右合わせて4枚羽根が昆虫の定義に合うためのあだ名でしょうか、ともあれ愛称だったと思います。ところが昭和15年には敵機(多くは単葉)のことにもなっていて残念、よく歌われた東辰三作詩作曲「荒鷲の歌」にも「来るなら来て見ろ赤蜻蛉」とありました。

投稿: dorule | 2016年8月29日 (月) 14時09分

2016年8月の昭和老人様
「赤とんぼの大群と戯れていたとき、大好きだった先生が戦地から帰って来て「帰ったぞ」と声をかけて下さった。あの嬉しさは忘れがたい」との事。まるで子供の時に観た白黒映画のワンシーンのように脳裏を走り、鼻の奥がツーンと走りました。これを打っている瞬間も映像が走り、胸がつまってきます。遠い昔の素敵な映像をありがとうございます。
 赤とんぼの佃煮ですが、急に蘇った思い出があります。夫も私も都会育ちで家族の待っている田舎はありません。幼かった息子が「田舎ってどこにあるの」と尋ねてきました。それがきっかけで夏休みになると、あちらこちらへキャンプに出かけました。息子が小1のときに八ヶ岳の麓の白駒池の山小屋に2泊3日しました。帰りの日に息子が虫かご一杯に赤とんぼを捕まえて山小屋のおじさんに見せたところ「そんなに捕まえて佃煮にするの」といわれ、あわてて全部逃がしていました。そのとき私はこの人何を言っているんだろうと思いましたが、皆様の投稿文を拝読してあの時のおじさんの言葉は本当だったんだと合点しました。

投稿: konoha | 2017年2月 3日 (金) 16時36分

いつ聞いてもしみじみと胸に染みて優しい気持ちになれる歌ですね。
佃煮にするくらい捕まえて虫かごに閉じ込めていた次女の住む地域では毎夕「赤とんぼ」の曲が流れます。~児童たちの帰宅を促す曲~
因みに我が町では  ドボルザークの  家路です。
遠い関東の次女宅に泊まるたびこの曲を聞いては若かりし頃の家族に思いを馳せます。
konoha様の優しいお心がコメントから感じられます。
私も二木先生のサイトを知った頃は感動の余りまたの名を「花子」でコメントした時期もありました。

投稿: りんご | 2017年2月 3日 (金) 18時18分

この場をお借りして私信で、投稿の皆様には申し訳ございません。
りんご様
もしかしたら以前のペンネームは「村岡花子の花子さん?」そうでしたらアンの言うところの「同類」?・・・ワクワクしてきました。一挙におばば乙女ですね。

投稿: konoha | 2017年2月 3日 (金) 19時42分

私のふるさとは 平家の落人が逃げ込んだといわれる九州熊本の山間部です。

私が3歳半の時満州ハルピンからこの地に帰ってきました。父が満州に行く前住んでいた村でした。山に囲まれた狭い地に小川、田んぼ、段々畑のあり 砂利道をたどっていくと友達の家がひしめいていました。小さなお宮もありそこが私たちの遊び場でした。

そこでも夕焼け小焼けは訪れました。お盆過ぎから赤とんぼが飛び回り、私たちは赤とんぼを追いかけて遊びました。

そんな小さな村で小学校の同級生は33名、小学校卒業までクラス替えはなく1クラスでした。男の子も女の子もお互いの苗字で呼ばずに「何々ちゃん」と呼び合っていました。
女の子は全部で13名 その中で可愛い○○ちゃんは中学卒業と同時にお嫁に行きました。

私たちが高校を卒業時にクラス会をした時、○○ちゃんにはお嬢ちゃんが一人いました。

40歳前後の頃 お会いした時にはお孫さんがいました。
あの頃のことを「あかとんぼ♪♪」を聞くたび懐かしく思い出します。
20数年前 ○○ちゃんにお会いした時 彼女は同級生だった私のことを「けんちゃんは泣き虫だったね・・」とお姉さんみたいなことを言いました。

この年になるとふるさとの同級生が兄弟みたいに思えます。

投稿: けん | 2017年2月 3日 (金) 19時59分

皆様 有り難うございました

 皆殺しの歌でコメントさせていただいたように この殺伐とした昨今の世情を憂い 暗いくらい気持ちになっておりましたが この 赤とんぼ から 時候は異なりますが さわやかな薫風 が顔に触れてくれたようなーー いい気分になれました  

  konohaさまと りんごさまの秘密のやりとり
 ーーもしかしたら以前のペンネームは「村岡花子の花子さん?」そうでしたらアンの言うところの「同類」?・・・ワクワクしてきました。一挙におばば乙女ですね。ーー
 よくはわかりませんが かわいいやりとりですね     きれいな人間性が垣間見られ うれしくなりました

  けんさまの なつかしい古里の 可愛い○○ちゃんの あこがれと残念さのいりまじったような 三段変化   心に温かくとんできました

 有り難うございます

 能勢にも 平家と 関係するものはあるのです  平通という地名 と 安徳天皇陵もあるのですよ
     安徳天皇は 壇ノ浦で死せず 能勢に隠れたとーー
 平氏の落人がとおったから平通 その山の向こうに御陵はあります   日本には 二十数か所 安徳天皇陵といわれるものがあるそうですから   義経ージンギスハン伝説   豊臣秀頼 薩摩生存説    西郷隆盛が 大津事件で傷つくこととなった皇太子ニコライの船でロシアから日本へ帰還する などと騒がれたことと同じく 英雄 貴人に対する 判官びいきの一部でしょうか 

投稿: 能勢の赤ひげ | 2017年2月 3日 (金) 20時56分

久し振りの投稿です。
最近の「二木うた物語」にご投稿の皆様のコメントを拝読していますが、抒情性豊かな心温まる内容に、感動・胸にジーンと迫り込み涙することも多々ありました。
ありがとうございました。
この曲「赤とんぼ」・・・改めて聴きましたが、胸に沁みこむほんとにいい曲ですね!
懐かしく想い出されるのは、H15年にコメントをいたしておりますが、元NHKの歌のお姉さん「森 みゆき」さんと、某町の子育て支援事業のイベントで、私のハーモニカ伴奏で共演できたことです。
今でも、森みゆきさんの素敵な歌声が耳元に聴こえてきそうです。

投稿: 一章 | 2017年2月 4日 (土) 00時02分

おはようございます。
能勢の赤ひげ 様 優しいコメント有難うございます。
私が中学2年生まで過ごした村から見える「夕焼け、小焼け」は 周囲の山、林などで遮られていました。
今住んでいるマンションのベランダから見える「夕焼け 小焼けの」広さの数分の一でしょう。
私が子供だったためかそこに住んでいた人たちはみんな家族のようでした。谷間に近い砂利道を歩いていると 頭越しの農作業をするひとたちの会話が飛び込んでくることもありました。
道路を挟んだ畑や田んぼで作業をする人が大きな声で挨拶したり、作物の採れ具合を話していたようです。

同級生の○○ちゃんは目鼻だちも良く穏やかで働き者でした。同級生の中ではお姉ちゃんみたいな存在だったようです。戦後10数年のこの村の同級生女子13名のうち高校に進学したのはゼロでした。
○○ちゃんは還暦祝いで同級生が集まった時、私に「あの頃は 家の農作業の手伝いや下の子の小守などで学校に行く時間もお金もなかった」と話してくれました。「けんさんは都会に出られて幸せですね。私たちの分まで元気にがんばってね」と励ましてくれました。

 > 安徳天皇は 壇ノ浦で死せず 能勢に隠れたとーー

安徳天皇のお話有難うございます。この安徳天皇の名前を聞き 鳥肌が立っています。
実は来週 安徳天皇をお祭りしている下関の赤間神社に参拝する計画をたてています。50数年前 私は亡くなった父の勧めで赤間神社に参拝したことがあります。
その赤間神宮で最近覚えた草笛を吹けたらいいなあ・・と思っています。  有難うございました。

投稿: けん | 2017年2月 4日 (土) 06時46分

始めに、「佃煮にするほどの赤とんぼ」はものの例えであって実際には聞いたことはありません。イナゴの佃煮は複数の地域で食べる習慣があるようですが。因みに現在83歳になる長姉は、アブラゼミやカタツムリを「カルシュームと蛋白源」として食わされたそうです。貧しい時代でしたね。
今朝もまた、二木先生の演奏を聴いては
静かな思いに浸っております。
konoha様
私も「赤毛のアン」大好きですよ。
若かりし頃(40代の頃)は何か心に鬱屈があると「赤毛のアン」を思い浮かべたものです。またゆっくりと読み返して「時を駆ける少女」に変身したいものです。
一章さまのハーモニカ演奏、けん様の草笛演奏、能勢の赤ひげ様の深く優しいまなざし等々ここに集う方々はある意味皆様「同類」に通じると思います。


投稿: りんご | 2017年2月 4日 (土) 09時32分

二木先生いつも心に沁み入る懐かしい歌の数々をありがとうございます。
りんご様
本当にそう思います。二木先生の素晴らしい「うた物語」に胸襟を開かれた方々の集いですね。遅ればせながら私も仲間入り出来てすっかり夢中になっています。これからもよろしくお願いします。

投稿: konoha | 2017年2月 4日 (土) 23時53分

2017-2-3のkonoha様 
私の投稿に過分のご感想をいただきありがとうございました。何年か前に童話のコンクールがあり、賞金目当てに「3年男子組」という題で海軍に出征する前の若く元気な先生と男子生徒たちの交わりをフィクションもまぜて書き、この場面(これは実話)を最後に登場させましたが選外でした。

投稿: 昭和老人 | 2017年3月11日 (土) 00時51分

昭和老人様
 無事に帰還された先生のお話は、小学生の頃みた「二十四の瞳」を彷彿させ、あの白黒映画と重なりキーボードが霞んできてしかたがありませんでした。実感としてわかるのは私たちの世代だけなのでしようか。
 選外だったのは残念でしたね。でもご自身の思い出が「形ある大切なもの」となってお手元にあることは羨ましいかぎりです。

投稿: konoha | 2017年3月11日 (土) 19時09分

 毎日ありがとうございます。
  いつも聞いて、そして歌っています。小さい頃、耳にした記憶のある曲もありますし、知らない曲もたくさんあります。
 母親は、60歳で急に亡くなりました。亡くなるほんの数時間前に電話で話していたので余計に信じられませんでした。「赤とんぼ」のうたをよく歌っていました。亡くなったのも赤とんぼがたくさんとび出す頃です。葬儀の日の翌日、しゃがんでいる私の左手の甲に赤とんぼがとまりました。しばらくの間、3分くらい止まっていました。私が人指し指で翅や胴体を触っも、逃げていかないのです。とんぼって、敏感ですよね!指を近づけるだけでもすぐ飛んでいってしまうのに・・・。「このとんぼ、お母さんみたい・・」と心の奥ですぐに感じました。  そして暫くして、キュッ!と頭を上げて、ス-ッと空に舞い上がってい
ったのです。「さあ、行かなくちゃ・・」というように。
  お別れにきたの?・・。    秋の日の思い出の子 より

投稿: junko | 2017年3月12日 (日) 17時01分

 junko様、不思議ですよね。でも分かるような気がします。3年前に母は亡くなりました。病院でレントゲンを撮るだけでも「私を捨てる気か」と待合室で何度も言うくらいでしたので、最期まで家で看取りました。着物姿のとても美しい人でしたので、旅立ちにはとても似合っていた着物をきせました。

 兄は遠方で間に合わなかったのですが、看取りの看護婦さんと妹夫婦と私4人で着付けました。母を左右にあっちに向けこっちに向けとしながら、私たちは「お母さんが怒ってるいるかもね」と言ったら、天井でガタガタと数回大きな音がしました。朝方4時すぎです。(その時間帯は夫を起こしていませんでした)母の部屋の上は私たち夫婦の寝室で夫はねむっています。

 母に身支度をしている私たちは思わず顔を見合わせてしまいました。すると看取りを主にしている看護婦さんが「こういう事は結構ありますよ」と話してくれました。亡くなった母は「亡くなってから49日は軒下にいる」とよく言っていました。

 きっとお母様は悲しまないでねと連絡をとりにいらしたのかもしれませんね。因みに私の妹もjunnkoです。最後にお母様はとても良い贈り物をくださったのですね。

投稿: konoha | 2017年3月12日 (日) 19時44分

 Konoha様                    
コメントを読んで、また涙がおちました。       
「良い贈り物」  思いもつかない表現です。    
そう思えばいいのですね。思い出すたびに・・。    
 母が亡くなってから夜空を見ては、毎日、毎日、1日も欠かすことなく泣いていました。そういう気持ちになるのです。自分ではどうしようもない状態でした。丁度、1年
経った頃立ち直れました。この贈り物があるから、時々思い出していけるのですね。

投稿: junko | 2017年3月13日 (月) 13時30分

 母から私への贈り物は、母の人生最後の時間を委ねさせてくれたことです。母は口には出さなかったのですが、心情は妹と暮らしかったのではと思っています。子供の接し方を巡っていつも口論ばかりしていましたから。

 私が10代の頃に父が母に「親の面倒をみるのはkonohaだよ」と言っていたと、いつの頃か母は私に話したことがありました。そのせいばかりではありませんが、母は私にずいぶん我慢をしていただろうと、今になって思っています。母は最期まで意識はしっかりしていました。

 そういう母が全てを私に委ねる時間をくれたのです。それがなければ母への思い出はきついものになっていたかもしれません。

投稿: konoha | 2017年3月13日 (月) 17時32分

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