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赤とんぼ

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:三木露風、作曲:山田耕筰

1 夕焼小焼の赤とんぼ
  負われて見たのは いつの日か

2 山の畑の桑の実を
  小かごに摘んだは まぼろしか

3 十五でねえやは嫁にゆき
  お里のたよりも 絶えはてた

4 夕焼小焼の赤とんぼ
  とまっているよ 竿の先

《蛇足》 三木露風(明治22年~昭和39年)は兵庫県龍野町(現在は市)生まれ。戦前を代表する抒情派詩人の一人で、相馬御風、野口雨情らと早稲田詩社を結成。
 詩集『廃園』は北原白秋の『邪宗門』と並び称され、文学史上「白露時代」と呼ばれる一時代を築きました。

 『赤とんぼ』は、大正10年(1921)、露風32歳のとき、北海道のトラピスト修道院で作られました。

 数多くの歌曲、童謡・唱歌を作曲した山田耕筰は、ことばのアクセントやニュアンスをたいせつにした曲作りをしていたといわれます。この歌でも「あかとんぼ」と、「あ」を高く、「かとんぼ」を低くしています。当時はそのように発音されていたからです。
 ところが皮肉なことに、今では「あかとんぼ」と、アクセントが「かと」に移ってしまいました。
 そういうことを考えると、現代の若いミュージシャンたちのように、ことばのアクセントなど無視した作曲法のほうが、あるいはいいのかもしれません。

 この詩は、意味上4番から始まります。
 中年になった私
(露風)が縁側かどこかから庭を見ると、竹垣か物干し竿の先に赤とんぼがとまっていた。それを見た瞬間、幼時の記憶が次々と甦ってきたきた。
 誰か
(たぶんねえや)におんぶされて赤とんぼを見たことがあったが、あれはいつのことだっただろうか。山の畑で桑の実を摘んだことがあったような気がするが、あれは夢だったのだろうか。ねえやはずいぶん若いときに嫁にいってしまい、今では実家とのつながりもとぎれてしまった――といったふうです。

 赤とんぼは、『失われたときを求めて』(プルースト)の紅茶とマドレーヌに当たるわけですね。視覚と味覚の違いはありますが。

 この歌でよく問題にされるのは3番です。おさと(実家)がどこを指しているのかわからないというのです。この解釈をめぐって、これまで、いろいろ意見が交わされてきました。
 たとえば、おさとはねえやの実家だという解釈があります。多くの人がこの意見を支持しています。ねえやは大家(たいけ)に雇われて、その家の幼い子どもたちの面倒を見たり、炊事の手伝いなどをした年若な女中です。

 たしかに、子どもがねえやを慕っていた場合、ねえやの実家と交流があったというのは、そう珍しくないケースでした。
 しかし、中年になって幼時を回想する場合、自分を子守りしてくれたねえやだけでなく、その実家の消息まで気にするだろうか、と疑問を呈する人もいます。

 露風が幼いころ、母親は放蕩三昧の父親を嫌って家を出てしまいます。露風を育てられなくなった父親は、祖父に預けます。そこに雇われていた「ねえや」との思い出がこの詩の重要なモチーフになっているといわれます。
 こうしたことを考えると、おさとはねえやの実家のほかに、祖父の家、あるいは自分の生家
(父の家)と解釈することも可能です。すなわち、ねえやは早くにお嫁に行ってしまい、私の実家も今どうなっているかわからない、とする考えです。
 おさとの接頭辞「お」を尊敬語ととれば、自分の実家につけるのは変ですが、美化語ととれば、そう不自然な解釈ではありません。

(二木紘三)

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コメント

「十五でねえやは嫁にゆき」は、露風が15歳のときに、ねえやが嫁いでいったという意味だそうですが。

投稿: ぱる | 2007年9月10日 (月) 01時11分

ぱる様
「十五でねえやは嫁にゆき」というフレーズの主語は「ねえや」です。通常の文であれば「ねえやは十五で嫁にゆき」と書くところを、詩としての語調を整えるために「十五で」を先に出しただけで、「ねえやは十五のとき嫁にいった」以外の意味に取ることは不可能です。 

投稿: 管理人 | 2007年9月10日 (月) 03時19分

   赤とんぼ心の空を飛びしなり  (拙句)

 私が小学二、三年頃は、秋になると、夕方の空が真っ暗になるくらい、赤とんぼがいっぱい飛んでおりました。それが、山形の田舎町ですら年々その数が減っていきました。それが証拠に、私の中学、高校の頃の記憶には、赤とんぼに結びつく強い記憶がないのです。
 昭和三十年代の郷里のことですから、国土開発や工場誘致などということはまだまったくなく、あと考えられますことは、やはり農薬の問題くらいだったでしょうか。

 赤とんぼではありませんが。当時いっぱいいたものとして、私の郷里では「蝗(いなご)」があげられます。(いなごも、赤とんぼと同じ運命をたどりましたが。)
 昭和三十年太郎村。私が六歳の秋のある早朝。母が私を連れて、西の方の山際に向かいました。とある草ぼうぼうの荒地に着きました。見ると、いなごがいっぱい、草むらをぴょんぴょん飛び跳ねているではありませんか。母はやおら、持参した麻袋の口を大きく広げて、草むらの方にかざしました。すると、飛び跳ねていたいなごが、袋の中に入ること、入ること。ものの三十分も経たないうちに、麻袋はいなごでいっぱいになりました。
 母と私は、いなごで重くなった麻袋を両側で持って、意気揚々と引き揚げました。
 『赤い靴』で述べさせていただいたような貧農でしたから、我が家にとって、「いなご」は貴重な滋養源になったのです。市販されているような、高級な佃煮ではありません。醤油でただ煮込むだけです。これがまた、何ともいえない、香ばしい乙な味なのです。

 三十代の頃、何かの飲み会の時、それを思い出してその話をしました。すると私よりいくつか年上の人から、「大場さん。あんたねえ。いくらなんでも、そんな見えすいたウソつくもんじゃないよ。」と、たしなめられてしまいました。『あヽ、この人はそういうこと知らないんだな』。私はあえて反論しませんでした。
 でも、皆様。これは本当の話です。いくら幼少の時とはいえ、私の懐かしい記憶として、未だにしっかり残っているのですから。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月20日 (日) 19時20分

大場さんの話は本当ですよ。敗戦の後(昭和21~2年頃)、私は名古屋市という「大都会」に住んでいたのに(5~6歳の頃)、ろくに食べるものがないのでイナゴに醤油をかけて煮たか焼いたかして、沢山々々食べました。それはそれは美味しくて最高の味でした。
わが家は貧しくなかったのですが、食べるものはスイトン、芋のツル、どんぐり粉や雑炊だったでしょうか。とにかく、イナゴは最高の食糧でした。 ある時、貴重な金太郎アメを内緒で食べたら、親父に見つかってもの凄く叱られ、泣きじゃくったことを覚えています。以上、蛇足になりましたが、本当に悲惨な時代でした。赤トンボでもイナゴでも何でも食べちゃう時代でした。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年4月21日 (月) 18時58分

 矢嶋様。私の『赤とんぼ』の一挿話を、強力に裏付けるようなコメントを賜り、まことにありがとうございます。
 確かに、当家の『赤い靴』での実情は、昭和31年だったから珍しかったのであって、戦後間もなくの頃は、全国どこのご家庭でも、それ以上に悲惨な食生活だったのかも知れませんね。
 私もだいぶ前、ある人から「終戦直後の頃は、何も食うものがなくて、木の皮をはいで、それを煮て食ったものだよ。」というような、私らの世代では、にわかには信じられないような話を聞いたことがあります。
 しかしまさか、いくらなんでも「赤トンボ」までは…(笑)。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月22日 (火) 00時24分

「お里」はねえや(子守娘)の実家。
「おさとの便りも絶え果てた」はねえやが嫁にゆき、ねえやの実家の「うわさ」「音沙汰」「便り」(風の便り)も聞かなくなってしまったという意味。(便りは手紙という意味だけではない。明治中期には、娘をねえやに出す家庭では、一般に手紙を頻繁に書く習慣はなかった)。

「ねんねんころりよ、おころりよ
ぼうやのお守は、どこへ行た
あの山越えて、里へ行た
里の土産に、何もろた
でんでん太鼓に、笙の笛
起きゃがりこぼしに、犬張り子」

という子守唄をごぞんじでしょう。それと同じ「里」です。

>「ねえや」は大家(たいけ)に雇われて、その家の幼い子どもたちの面倒を見たり、炊事の手伝いなどをした年若な女中です。

「ねえや」がいたのは金持ちの大家だけではありません。戦後しばらくまで、ふつうの(中産階級)の家にも・「姐や」はいくらでもいました。わたしの父は、ただの官吏でしたが、わたしの子供のころ家には常に姐やが一人か二人いました。戦後、姐やが日本の家庭から消滅してしまったので、若い世代が姐という言葉を知らなくなり、「姐や」が私語になっただけです。

「ねえや」が「じいや」「ばあや」と同じ家事使用人をさす言葉であることはご存知でしょう。

投稿: MOKUMOKU (ニューヨーク在住) | 2008年6月 7日 (土) 13時19分

MOKUMOKU様
(1)「ねんねんころりよ」では、「坊やのお守はどこへ行た」とありますから、お里がねえやの実家であることはだれにもわかります。
 しかし、「赤とんぼ」では、お里=ねえやの実家である可能性は高いものの、そう断定できる根拠はありません。ねえやは嫁に行っただけで、亡くなったわけではありませんから、お里がねえやの実家だとしたら、その消息は伝わってくるはずです。お里がどこを指すかわからないという謎は依然として残っています。

(2)「大家(たいけ)」の字面から、大家=富豪とお思いのようですが、そうとはかぎりません。
広辞苑「大家=富んだ家。また、社会的に地位の高い家柄」
大辞林「大家=金持ちの家。また、社会的地位や身分の高い家柄」

「わたしの父は、ただの官吏でしたが……常に姐やが一人か二人いました」
 とおっしゃいますが、子どもの頃のお住まいは、中央官庁の官僚や大企業の社員が多かった山の手ではなかったでしょうか。そうした地域なら、中産階級が多く、ねえやを置いている家はそう珍しくはなかったでしょう。
 問題はその「中産階級」です。
 戦前の日本は中進国でした。中進国の特徴は、中産階級の層が薄いことです。戦前の昭和時代には、中産階級以上の世帯はおそらく2~3割で、国民の7~8割は低所得世帯だったはずです。物価水準は、最大多数派の購買力の影響を最も強く受けますから、当時は、中産階級であっても、購買力には十分な余裕があり、ねえやを楽に雇えたでしょう。
 高度経済成長期の後半には、「国民の大部分が中産階級」と言われていました。しかし、お手伝いさんを雇っている家はほんのわずかでした。
 低開発国になると、中産階級は存在しないに等しく、「ほんのわずかな超富裕層と大多数の貧乏人」から成っている、といっても過言ではありません。
 最大多数の所得層を「普通の家」と呼ぶとするなら、今の中産階級は普通の家ですが、戦前の中産階級は、どちらかというと富裕層に属していたのです。
 このように、同じ中産階級でも、その実質的内容は、時代や地域によって大きな違いがあります。戦前は普通の家=中産階級でも、ねえやは楽に雇えた、と簡単に言われては困ります。

 童謡「ばあやたずねて」は、近所のある裕福な家にばあやがいて、それがとても羨ましかったという作詞者・齋藤信夫の子ども時代の記憶がモチーフになっています。
 このエピソードは、戦前、ねえややばあや、じいやを雇える家が、全国的には非常に少なかったことを如実に物語っています。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2008年6月 7日 (土) 19時27分

「赤とんぼ」の歌詞の解釈で意見が分かれていたとは思ってもいませんでした。
私は、これまでずっとMOKUMOKUさんの意見のように思っていました。
「ねえや」を雇えた人がどういう人達だったかということですが、この際あまり意味のある議論でないように思います。なぜなら、この歌の主人公の幼少時の実家はとにかく「ねえや」を雇っていたのですから。
ただ、「お里」はねえやの実家だとは思いますが、雇う方と雇われる方とに社会的地位に大きな開きがある場合に、ねえやの里に敬語の「お」をつけるのは少しおかしいような気もします。
しかし、自分の実家に敬語の「お」をつけるのはもっとおかしいように思います。

投稿: 周坊 | 2008年6月 7日 (土) 20時45分

>おさとは祖父の家とも、自分の生まれた家、つまり父の家とも取れます。

祖父という意味の言葉はこの作品にはまったく出てこないし、父の家との便りが断絶したと考えるのもかなりうがった見方でしょう。そういう解釈をするには、露風の生い立ちを知っていることが前提であり、この作品は子どものために書かれた童謡ですから、読者である子どもが読んでそのまま書かれている通りに理解すればいいのではないでしょうか。子どもが「お里」を詩に出てこない祖父の家と解釈するなんて想像もできません。作者の生い立ちを熟知していないと作品が理解できないというのなら、それは「独立」した作品でなく「不完全芸術」でしょう。

じつは、わたしはその部分にこだわっているわけではないのです。議論からややそれますが、わたしは米国在住40年近い血液学者で、国籍も米国人です。(3年前大学をリタイアして、現在コロンビア大のボランティア医師たちとケニアのナイロビで年2回エイズ・クリニックをやったりしています)。3人の子供(もう独立してここにはいませんが)を、日本語を保持するために毎土曜日日本語補習校に通わせていました。そのとき、娘が「十五でねえやは嫁に行き、お里のたよりも絶え果てた」というところを「姉(露風の実姉)が嫁に行き、実家(露風の家)に手紙を書かなくなった」と習ってきたのです。おかしいなと思って、近くにいた日本語教室の先生に調べてもらったら、中学・高校の生徒全員が「ねえや」を姉のことだと理解しており、文部省から派遣された先生も同様に「嫁に行った姉が実家に手紙を書かなくなった」と解釈していることがわかりました。

その後、露風研究家の和田典子氏(兵庫大学)と連絡をとりあうようになり、彼女の著書や大正11年初版の「真珠島」復刻版を送っていただくようになりました。ニューヨークの現状を報告すると、和田氏は面白がって露風愛好家の親睦誌に「ニューヨークではねえやは姉のこと」という一文を書かれました。「赤とんぼ」は日本で一番愛されている童謡だそうですが、「ねえや」が死語になっているため、日本の若い世代のほとんどが今や「ねえや」を「姉」と解釈しているのではないでしょうか。戦前に生まれた人間なら、「ねえや」を「姉」と勘違いする読者は皆無だったでしょう。わずか80年あまり前に書かれた、しかも子どものために書かれた詩が、すでに正しく理解できなくなっているのは世界のなかで日本だけではないでしょうか。よくいえば、日本がこの100年間に世界でもっとも急速に発展した国だからだともいえるかもしれません。

「負われて」を「追われて」と勘違いするのは小学生程度の間違い(愛嬌)、「ねえや」を「姉」と勘違いするのは中学生程度の間違い(語彙不足)ですね。なお、和田氏によると、初稿では「ねえや」、後に第一詩集「真珠島」では「姐や」と作者によって改稿されているということです。

投稿: MOKUMOKU | 2008年6月 8日 (日) 06時13分

 突然割り込むようで申し訳ありません。3番の歌詞について、私は次のように理解しておりました。

 作詞家の三木露風は幼くして育った村を離れている。三木の実家とねえやの実家とは同じ村(集落)にあった。仮に別であったとしても、隣村のようにごく近くの村であった。だから、二人が共通に知っている両方の実家を含めた村や村民に関するいろいろな話(故郷の情報)が「お里のたより」である。

(歌詞の理解として)「私をお子守りしてくれた女の子は15歳で他所の村へお嫁に行ってしまった。だから、その時から、私が育った村(故郷)のいろいろな話が伝わってこなくなってしまった」

 私には、高齢の母が居ます。そして、毎週日曜日に電話で30分近くも話をします。同じ話の繰り返しもあるのですが、母がどうしたこうしたという話に加え、村の誰々が亡くなったとか病気になったという話まで多岐にわたっています。

 ねえやも、そんな故郷の話を拙い文章にしたためて、ごく偶に三木宛に手紙を書いたのではないでしょうか。

 

投稿: 信州の小藩 | 2008年6月 8日 (日) 23時52分

信州の小藩様

>三木露風は幼くして育った村を離れている。

露風は、明治37年16歳で龍野中学から現岡山県備前市の私立中学に転学し、寄宿舎に入るまで故郷を離れていません。

作品の成立についていろいろ空想をめぐらすのはもちろん自由ですが、作品の解釈はなるべく「書かれている」文言からというのが原則ではないでしょうか。「赤蜻蛉」は、作者の幼児期の生活事情を知らなくても十分鑑賞にたえる美しい作品だと思います。

投稿: MOKUMOKU | 2008年6月 9日 (月) 00時39分

色々の解釈があるのですね。しかしながら全て推測なのであります。露風の心がどこにあったのかわはわかりません。
各人が素直に解釈すれば良いと思います

投稿: akichan | 2008年6月 9日 (月) 01時17分

MOKUMOKU様
 管理人として、これ以上議論が続くのは望みませんが、この件に関する私の最後のコメントとして、一言いわせてください。

 MOKUMOKU様のおっしゃる「作品の解釈は書かれている文言(だけ)から」というのは、文芸批評では「テクストを読む」という方法で、比較的近年になって、記号論や統辞論などと結びつけて行われるようになった解釈法です。伝統的かつ一般的な解釈・鑑賞法は、作品にまつわるさまざまなことを考えたり調べたりして、文言の陰に隠れている内容を探り出したり、感じ取ったりする、という方法です。

 たとえば、野口雨情の「しゃぼん玉」の2番――

  しゃぼん玉消えた 飛ばずに消えた
  生まれてすぐに こわれて消えた

 表現は明示的で、疑義が生じる余地はありませんから、子どもは「麦わらから出たしゃぼん玉がすぐに消えたんだ」と思うだけでしょう。歌にはメロディを楽しむという重要な意義もありますから、それはそれでいいと思います。

 しかし、この詩が書かれた前後の事情を知れば、それまでとはちょっと違う思いでこの歌を歌うようになるでしょう。
 雨情が旅行中に2歳の娘が亡くなり、この歌はその後に作られましたた。ですから、「生まれてすぐにこわれて消えた」しゃぼん玉に、雨情の悲しい気持ちが込められているかもしれません。雨情がそれを認めた文献はありませんが、しゃぼん玉について「生まれてすぐに」という擬人法を使っていることを考えると、そう推断できる可能性は高いのです。

 親なり先生なりが、ちょっと「考えるヒント」を与えることによって、子どもは、言葉には表面の意味以外に、いろいろなことが隠されている場合がある、ということを理解するようになるでしょう。それによって、子どもの情操を育てたり、言葉の理解力を高めるという童謡本来の意義をより活かせるようになるのではないでしょうか。
 ただ、人によってはやたら深読み(誤読の一種です)して、子どもを惑わす人がいて困りますが。

 今回あらためてネット上を検索してみて、この歌の解釈を巡って、あちこちで議論が繰り広げられていることがわかりました。
 ジャンルを問わず、名作には謎の多い作品がいくつもあります。その意味では、「赤とんぼ」はその典型といっていいでしょう。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2008年6月 9日 (月) 02時46分

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