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北上夜曲

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:菊地規、作曲:安藤睦夫

1 匂い優しい白百合の
  濡れているよなあの瞳
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の月の夜

2 宵の灯(ともしび)(とも)すころ
  心ほのかな初恋を
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原のせせらぎよ

3 銀河の流れ仰ぎつつ
  星を数えた君と僕
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の星の夜

4 雪のちらちら降る夜に
  君は召されて天国へ
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の雪の夜

5 僕は生きるぞ 生きるんだ
  君の面影胸に秘め
  想い出すのは 想い出すのは
  北上河原の初恋よ

《蛇足》 この歌は、昭和20年代の初めごろから、岩手県盛岡、宮城県仙台あたりから自然発生的に歌われ始めました。
 盛岡や仙台の大学・専門学校に各地から遊学していた学生たちが帰省の際に持ち帰って、後輩などに教えたことから、しだいに全国に広まり、昭和30年代初めには歌声喫茶の定番曲の1つとなりました。

  これに着目したレコード各社はレコード化を企画、作者を捜したところ、作詞者は岩手県江刺市出身の菊地規(のりみ)、作曲者はその友人の岩手県種市町出身の安藤睦夫と判明しました。
 菊地が詞を作ったのは昭和15年
(1940)12月、安藤が作曲したのは翌16年(1941)2月だったといいます。菊地は水沢農学校、安藤は旧制八戸中学の生徒で、2人ともまだ十代でした。

 昭和36年(1961年)、各社競作が行われ、和田弘とマヒナスターズ+多摩幸子、ダークダックス、菅原都々子などが歌い、いずれもヒットしました。
 松竹・日活・東宝などの各社も映画化し、一大ブームとなりました。私は日活作品を見ましたが、どうしようもない愚作でした。

 長い間、作者がわからないまま歌われてきたため、ヴァリアントが非常に多いのが特徴です。
 たとえば、私は高校時代、1番の最初の1行を「香りゆかしき白百合の」と歌っていました。
「見目うるわしき白百合の」としている歌集もあります。
 4番の最初の2行を「雪のちらちら降る宵に/君は楽しい天国へ」としている歌集もあります。
 また、3番のあとに次のような聯が入っているヴァージョンもあります。

「たそがれ河原に秋たけて/白いすすきの波の果て/想い出すのは想い出すのは/北上河原の秋の夜」
 「春のそよ風吹く頃に/楽しい夜の接吻(くちづけ)を/想い出すのは想い出すのは/北上河原の愛の歌」

 調べればどれがオリジナルかわかるでしょうが、あまりこだわる必要はないと思います。自分の好きな歌詞で歌うのがいいのではないでしょうか。

 なお、北上は「きたがみ」ではなく、「きたかみ」と読んでください。それが正しい地名だということもありますが、「きたかみやきょく」と読んだほうが、澄んだ感じがするからです。

(二木紘三)

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コメント

北上夜曲 良い歌ですね。
ありがとうございます。

投稿: はー | 2007年8月25日 (土) 01時01分

 曲の採用ありがとうございました。和田弘とマヒナスターズ・多摩幸子の組み合わせがぴったりの北上夜曲です。青春の思い出にふけります。

投稿: 野田 | 2007年8月29日 (水) 21時06分

二木紘三先生こんばんわ。
すばらしい抒情歌を有難う御座いました。
北上川のゆったりした流れが浮かんでまいります。
メロディーがまた素晴らしいです。

投稿: 波路 | 2007年9月20日 (木) 21時14分

小学生の時にバスガイドさんが教えてくれた歌です。
時々聞いています。私が体が弱くで修学旅行に初めて参加したときの歌ででした。

投稿: 太郎 | 2007年9月23日 (日) 21時10分

日課であるカラオケ・タイムの中の1曲でもあり私の故郷の曲でもあります。メロディだけでも歌詞を入れてもしっとりとしたいい歌です。
私が中学生の頃は北上川は松尾鉱山からの廃棄水の為に黄土色に濁った川でとても「北上河原のせせらぎよ~」という感じではありませんでした。
その後、浄化の努力のおかげで歌のようなイメージの川になりました。
多くの方々にすばらしい曲だと言っていただけるとうれしいです。

投稿: さりげなく | 2007年10月 4日 (木) 12時32分

さぎりなくさんへ
私は足尾銅山出身です。足尾鉱毒事件は有名だと思います。現在でも故郷に帰ることはないのですが、時々行きます。現在も黄土色の濁った川ですよ季節によっては汚い川のイメーイジが強いです。松尾鉱山にも同様な川だったのですね。治山事業がおくれていました。
足尾にも「足尾の四季」いうこれに似た曲があります。これを聞くと心が和やかになります。

投稿: onozaki | 2007年12月 6日 (木) 20時53分

初めてメールさせていただきます。25年ほども前になりますが、学生時代鉄道旅行が大好きで、各地で流れる駅に到着する前に流れるメロディーを楽しみにしておりました。この曲もその中の一曲です。本当に美しいメロディーだと思います。

投稿: ともとも | 2008年3月 9日 (日) 11時27分

この曲を聞くと昭和41年から2年間仙台に赴任していたころが懐かしく思い出されます。事務機の修理で仙台から秋田山形を列車で訪問していましたが、秋田行き急行「あけぼの」が北上駅に停車すると必ずこの曲がホームに流れて、旅人の耳に安らぎを与えてくれていました。駅弁販売のお姉さんも可愛かった。
今はもう流れていないそうですが残念です。
ただ、似たような話で、釧路駅が水森かおり版が発売されたのを機に「釧路の駅でさようなら」を特急「おおぞら」の際復活させたそうで、聞きにいってみたいと思っています。

投稿: syou | 2008年3月 9日 (日) 22時27分

「北上夜曲」も、時と場合お構いなく我知らぬ間に、メロディが口をついて出てくるというか、頭のなかで流れ出すというか、小生にとり最も親しみ深い曲の一つです。マヒナスターズのロマンチックな演奏が忘れられません。
 しかし、僕にとっての北上川のイメージは、このロマンあふれる「北上夜曲」ではないのです。数百キロの流れの、ある一点だけが北上川なのです。それは、義経自決の地といわれ、弁慶の立ち往生の場ーーー高館ーーから束稲山を望むと、その前方を悠然とくの字形に流れるその北上だけなのです。
 歴史大好きの子供が、とくに義経にひかれ、どうしても行きたかったところだったのです。大学2年の夏、四人でリュックとシュラフをかかえての貧乏北海道旅行の帰り、他の奴らは嫌というので仕方なく、一人で平泉へ。リュックは駅に預け登山靴のままで、駅から 中尊寺・毛越寺・無量光院・高館 これだけは観ておきたかったので、歩いたり走ったり 若かったですーーーその頃は。ただ、見てきたというだけでしたが、その達成感がうれしくて。 もうそれ以前から、義経ジンギスカン説
に傾倒していたり、変わった餓鬼だったんでしょうね。
 その後も何度か高館に立ちましたが、いつ行ってもすごい充実感があふれるのです。前世に何らかのつながりでもあるのでしょうか??鎌倉宮もそうですが、惨殺の場、自決の地ーーー何故ひかれるのでしょう。
  歴史に泣き、わが姿に涙し、大きく深呼吸をして前に向かっていこう、何があっても。ーーー

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年3月26日 (水) 22時08分

多摩幸子は菊地章子の妹ですよね。最初なんでこんな澄んだ
声で歌えるのかと思っていましたが、姉妹と聞いて納得しました。この曲は彼女の歌唱力で何倍もの魅力が増したと思います。

投稿: M.U | 2008年6月 6日 (金) 12時28分

太平洋戦争激しき時期、南方へ派遣された一人の士官が、北上河原で別れた恋人を思い詩を書いたところ、一緒に派遣されていた友人の安東睦夫が、手にしていた得意のギターを持って曲を付けたのが元曲となっています。その証拠に菊池は僕は生きるぞ 生きるんだ と生還の想いをつづっています。彼ら二人は無事に復員出来ましたが。不幸にも恋人は病死していたそうです。

投稿: 楽研同好誌編集一員 | 2008年7月13日 (日) 22時37分

八戸に本社のあるデーリー東北新聞社の記事に「安藤睦夫氏は旧制八戸中学校在学中の一九四一年、十七歳の若さで一夜にして「北上夜曲」を作り上げた」(http://www.dailytohoku.co.jp/news/2007/10/22/new0710221603.htm)というのがあります。

投稿: なとりがおか | 2008年7月14日 (月) 00時15分

私は八戸出身で 長兄は八戸旧制中学でした。
この歌が流行ったときに兄が自慢げにこの歌の出来た過程を話してくれましたが、いつも大げさなことを言う兄の話を信用しませんでした。
ほんとだったんですね!

投稿: おキヨ | 2008年7月14日 (月) 01時45分

いまヘッドホンで「北上夜曲」と「青葉城恋唄」を交互に聴いています。この二曲は東北を代表する抒情歌の双璧でしょう。メロディーといい歌詞といい、甲乙つけがたい名曲だと思います。
北上川と広瀬川の違いはありますが、初恋の人への想い・・・叶わぬ恋心は同じ歌のように響いてきます。東北の人の情感はこんなにも豊かなのでしょうか。
ヘッドホンで交互に聴いていると、贅沢と言うか邪道と言うか知りませんが、いま法悦の極致に達した感があります。(もちろん、晩酌の酒も入っていますが)
これからも“東北の地”を思う時、この二つの名曲を愛し続けていきます。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年7月14日 (月) 21時44分

私がこの歌をはじめて聞き、かつ覚えたのは昭和32年の夏、支笏湖畔のキャンプ場ででした。その後、就職して仙台に来たのですが、そこで歌われていたメロデーも当然同じでした。ところがその後、レコードがいくつか発売されましたが、そのメロデーは私が歌ってきたそれとは一部異なっていました。

どこがどう違うかというと、私楽譜が書けないので詳しく説明することはできませんが、今でもその最初に覚えたメロデーで歌うこともできます。

ところが、最近、ダークダックスの喜早哲氏がそのご著書の中に、盛岡ではじめてこの曲を聞き、かつ採譜したメロデーとレコード化するにあたって作曲者の菊地氏から示されたメロデーが違っていた旨の記載をみつけました。
もしかしたら、上記のことが関係あるのではないかと考えた次第です。

これもメロデーが口から口へ伝えられ行く中で変化したものなのでしょうか。

投稿: Y.K | 2008年11月15日 (土) 18時30分

私の初恋の思い出がよみがえります。彼女とはデパートの冬休みのアルバイト仲間だった。その時同じ地下食品売り場にいた男友達にから、「山のロザリア」と共に、この歌を教わりました。

二つの歌は、まだ純粋だった私の心を揺さぶりました。彼女とは、グループ交際で池袋のスケート場に行ったり、喫茶店に行ったりしました。とってもかわいい彼女でした。

数年後、電話があって銀座で会いました。日比谷公園などに行きました。その数日後電話があって「事情があって、お金を貸して欲しい」と言われました。友達に借りたりもして貸してあげました。

でも実は、彼女はその時、妻子ある男と駆け落ちの真最中でした。それは、私が彼女の両親宅へ電話したのでわかりました。お金は最初の2度だけ、小額を返しただけでした。私は怒るより哀れさを感じました。彼女が俺だったらと思うと、恨めませんでした。

実は、2年後、バッタリ日暮里駅のホームで会ってしまいました。彼女はびっくりオロオロして「すみません、必ず返しますから」と言いました。私は、「いや、君に上げたんだから返さなくていいよ」と言い、その時来た電車にすぐ乗りました。

投稿: 吟二 | 2009年2月14日 (土) 18時45分

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