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誰か故郷を想わざる

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島 昇

1 花摘む野辺に日は落ちて
  みんなで肩を組みながら
  唄をうたった帰りみち
  幼馴染(おさななじみ)のあの友この友
  ああ誰(たれ)か故郷を想わざる

2 ひとりの姉が嫁ぐ夜に
  小川の岸でさみしさに
  泣いた涙のなつかしさ
  幼馴染のあの山この川
  ああ誰か故郷を想わざる

3 都に雨の降る夜は
  涙に胸もしめりがち
  遠く呼ぶのは誰の声
  幼馴染のあの夢この夢
  ああ誰か故郷を想わざる

《蛇足》 昭和15年(1940)リリース。

 古賀政男は、明治37年(1904)11月18日、福岡県三潴郡田口村(現在の大川市)に生まれました。大正元年(1912)8月、政男7歳のとき、母、姉、弟とともに、仁川に住む長兄を頼って朝鮮へ渡り、明治大学予科に入学するまで、その地で過ごしました。
 あるとき、そのころの思い出を西條八十に話したところ、彼がそれを詞にしました。それがこの歌だと伝えられます。

(二木紘三)

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コメント

この歌の3年後に生まれた小生には、これまであまり馴染みがなかった歌ですが、ここで改めて聴いてみますと、昔の日本人がごく普通に持っていた友達や家族への心の絆の強さ、深さをしみじみと感じさせる良い歌ですね。1番と2番の歌詞からは、それぞれの情景がありありと浮かんでくるようです。とくに、2番は、上に4人の姉がいた小生には感慨深いものです。ただし、一番上の姉が嫁いだのは小生が8才の時でしたが、小生の場合はあまり悲しかった記憶がないのです。4人もいたからでしょうか、それとも、やはり、この歌の作者達との感受性の大きな違いでしょうか・・・。それにしても、3番全てに出てくる「幼馴染み」というキーワードも、死語にはなってほしくないですね。

投稿: Snowman | 2008年2月 3日 (日) 17時03分

古賀政男は、いま記念館もある福岡県大川市の生まれであることはよく知っていましたが、八歳以後を仁川で過ごしたことは、教えて頂くまで初耳でした。朝鮮戦争の逆上陸で有名な仁川というよりも、いまでは韓国国際空港、表玄関インチョンとしての方がとおりがよいと思いますが。先日、同空港に降り立ったとき、90年前古賀政男が過ごした頃のこの地は、この港はどんな風だったのだろうかな?と思いを巡らしました。それも、ご教示のおかげです。深謝いたします。立派な空港でした。日本語案内デスクのスタイル抜群の若い女性も親切丁寧でした。見ず知らずの地で、見ず知らずの人から暖かい情けを受けるとき、そのときが旅の醍醐味です。

投稿: 乙女座男 | 2008年4月19日 (土) 00時30分

 乙女座男様。お久しぶりです。と申しましても、私貴兄とは直接面識はございませんが。以前聴きました歌の中の、貴兄のコメントを幾つか読まさせていただいたことがございますもので。
 この度は、私の『白い花の咲く頃』に続きましての、故郷の歌シリーズ・第二弾。『誰か故郷を想わざる』へのコメント、大変嬉しく存じます。作詞・西條八十、作曲・古賀政男、そして歌っているのが往年の名歌手・霧島昇。懐かしい「望郷の名曲」ですね。
 この歌では、「幼馴染のあの友この友」がテーマ。幼馴染と共に過ごした「宝物のような」故郷での日々を、今都会に身を置きながら、都にそぼ降る夜の雨の中…しんみり懐かしんでいるんですね。
 本当に、しみじみ、ほろりとさせられる、良い歌です。
 乙女座男様。これに対するお返事は、お手数ですからけっこうです。そのかわり、今後とも貴兄の時折りのコメント、楽しみにしております。   牡羊座男より

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月19日 (土) 17時47分

数ある懐メロ愛唱歌の中で一番好きなのが「誰か故郷を思わざる」です。
歌詞も曲も素晴らしく、また霧島 昇の歌唱が、最盛期かと思われるくらい見事です。
戦地の兵士が、望郷の思いを込めて歌い、それが内地へ広がってきて、大ヒットになったと聞いています。

また国民学校4年生の時、初めて上京し、浅草・国際劇場でライブで聴いたのも忘れられない思い出で、それもこの歌が私の№1懐メロになっている理由にもなっています。

投稿: 風花爺さん | 2008年7月 9日 (水) 16時42分

 私がまだ幼い頃から聞き覚えた歌です。
我が父はその昔、現在ではオ-ディオと呼んでいる。ラジオに電蓄(電気蓄音機)を組み込んだものを自作して、当時のSP盤を買ってきて、ピックアップに鉄針を差し込んでよく、この「誰か故郷を思わざる」のレコ-ドをかけていました。
 その父は早く他界しましたが、生きておれば90歳を超えたかな?・・・・子供の頃の懐かしい歌です。

投稿: Hikoさん | 2008年7月31日 (木) 18時44分

この歌で強烈に思い出す事があります。
亡父の飲み仲間が我が家に見えて酔うと必ず唄うのが〔誰か故郷を思わざる〕でした。
ある日のこと酔った彼がいつものように唄いだしたはいいのですが〔一人の姉が嫁ぐ夜に・・・〕に差し掛かったときに大の男がよよと泣き崩れました。隣の部屋にいた私達子供でもことの異様さに驚きましたが、聞いていますと彼の最愛の妹がお嫁に行くとのことで、酔っていっきに感情がこみあげたのでした。〔誰か故郷を思わざる〕を聞くと大人の男がみもふたも無く泣くいたことを思い出します。

投稿: おキヨ | 2008年8月 1日 (金) 01時21分

Hikoさんのお父上が電蓄を作られたとのこと、30年前に他界した長兄のことを思い出しました。
真空管のラジオを作り日曜日の朝には決まって「音楽の泉」を聴いておりました。(長寿番組ですね)。
電蓄、レコードケースも作り、僅かのSP盤で休日を楽しんでいたようです。

兄が先に、私たち弟妹も次々に家を離れました。
ある日、最後に家を出た私に、兄は「電蓄とレコードは何処に行ったの?」と訊きました。
兄が置いていったその物を何年か使っているうちに自分の物と思ってしまい、欲しいと言う姉にあげていたのです。「そうか‥」と言った後の微妙な表情が今浮かんでいます。


投稿: 高木ひろ子 | 2008年8月 2日 (土) 19時08分

 最近 父が亡くなりました。83才でした。
父がお酒を飲むと、ギターを弾いて歌ったのが 誰か故郷を思わざる でした。
千葉の尋常中学のときこの曲をハーモニカで発表したそうです。剣道をやっていた父が先生にやってみ!!と勧められて随分練習して 舞台に立ったそうです。
終わった時の拍手が忘れられないと、言ってました。
私の大好きな父の自慢の曲は、私の一番好きな曲です。

投稿: 早苗ちゃん | 2009年4月 8日 (水) 00時15分

この歌についての私の個人的な思い出は、10年以上前に亡くなった叔父がまだ若者のころ、囲炉裏の脇で唄っていた姿です。終戦直後で叔父は軍隊を除隊したばかり。私はまだ就学前でした。
今日、ラジオでこの歌は最初、戦地の兵士たちの間で熱狂的に支持され、それが内地のヒットにつながったと言っていました。
いい歌なのでこのサイトで歌詞を見ながら唄ってみました。戦地の兵士たちがどんな想いでこの歌を唄ったかと
思うと唄いながら涙が出てきてしまいました。


投稿: 入野 佑助 | 2009年6月18日 (木) 16時49分

中学三年生です。
恥ずかしいのですが「誰か故郷を想わざる」という言葉の意味を教えてください。

投稿: 田中 亮 | 2009年9月20日 (日) 18時09分

田中 亮様
今、中学の国語で習うのか、高校で習うのかはわかりませんが、「誰か故郷を想わざる」は、反語という表現方法です。反語とは、あることを強調するために、わざと反対のことを疑問形でいう言い方です。ですから、お尋ねの言葉は、次のような意味になります。

誰か故郷のことを(懐かしいと)思わない者がいるだろうか。いや、そんな者はいない。

つまり、「誰もが故郷を(懐かしいと)思っているのだ」ということになります。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年9月20日 (日) 18時53分

管理人 様
 ご教示くださいましてありがとうございます。
大変勉強になりました。
この「誰か故郷を想わざる」は過日他界した祖父がいつも口ずさんでいた歌でした。
大好きだった「おじいちゃん」のことが想い出されます。
田中 亮

投稿: 田中 亮 | 2009年9月21日 (月) 09時44分

人間は象や猫やミツバチ、渡り鳥のように帰巣本能があるようですね。特に晩年になるとその思いは強くなって、懐かしい故郷は今どうなっているかな、あの頃遊んだ家の周り、学校、あの味噌工場、田んぼ、今でもあるんだろうか、などと思い、矢も楯もたまらず行く人が多いです。私の親父も、62歳で早逝した義兄もそうでした。私もそういう気持ちが強くなってきました。危ない。全く、誰か故郷を想わざるです。

投稿: 藤村大蔵 | 2009年10月 3日 (土) 11時22分

私が此の歌を初めて聞いたのは、まだ就学前の昭和16年のことでした。其の頃は軍隊に行く所謂『出征祝い』の席では必ず誰かが歌い出したものですが、手伝いのおばさん達は、皆さん声を殺して泣いて居たことが思い出されます。
二木先生の御蔭で今頃になって漸く其の意味を汲み取ることが出来ました。 有り難うございました。
上から2番目の兄が、海軍航空隊の特別攻撃隊員として戦死した昭和20年になってから、私も此の歌を好きにはなりましたが、之から軍隊に行く其の出征祝いの席で、手伝いに来られたおばさん達が声を殺して泣いて居た意味がヤット判りました。二木先生・本当に有り難うございました。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 4日 (水) 13時02分

60歳の私がカラオケで最初に歌う歌がこの曲です。5歳のころ家に電蓄と、この曲のレコードがあったので、繰り返し何回も聞きました。歌詞の意味も解らずに歌を覚えてしまいました。カラオケで歌うたびに「お前は何歳だ」と言われます。「国歌」にしても良いと曲だと思います。

投稿: PAPA | 2010年11月22日 (月) 19時59分

古賀政男君の作曲ですね。古賀政男君の曲が大好きです。

投稿: 倫太郎 | 2011年10月 6日 (木) 20時47分

進学のために家を離れて下宿生活をしていた頃、僕はこの歌が好きで良く歌っていました。
しかし、戦争で父を失った自分の立場としては「戦争に向かっていた時代の歌を懐かしむのは良くない」という風に考え、その後は軍歌と一緒にして封印をしていました。

ところで東日本大震災の津波で町ごと流されてしまった人達や原発事故で市町村ごと避難を余儀なくされ、何時再び故郷へ戻れるか分からない人達の立場でこの歌を捉えてみると、また新たに胸に響くものを感じます。

そこで、この歌は今再び新しい形で生まれ変わることが出来る歌だという風に考え直すことにして封印を解くことにしました。有り難うございました。

投稿: たしろ | 2012年3月19日 (月) 13時42分

 本ブログの『うた物語』には何故か採りあげられていませんが、故郷から立ち退かされ、流離の旅を余儀なくされた悲運を詠った名歌があります。東日本大震災で故郷を失いつつある人たちの心に通じるものと思います。東海林太郎唄「湖底の故郷」(1937年)がそれです。東京郊外の奥多摩湖湖岸に歌碑があったと記憶します。 

投稿: 槃特の呟き | 2012年3月20日 (火) 00時05分

この歌が世に出たのは、私がマイナス7歳の時です。
故郷・北九州を離れて42年、出てきた当時は、将来こんなに望郷の念にとらわれるとは思ってもいませんでした。
「蛇足」に老若男女の皆さん(中には、私の故郷の方々も)が寄せておられるコメントに、涙と共に投稿させていただきます。
古賀政男さんは、同じ福岡県ですが、私とは反対側、南西部(大川市)のご出身です。その地域からは北原白秋、大川栄策などの芸術家を輩出。
「ふるさとは遠くにありて思うもの」正にその通りですね。常陸の国で定年後の生業である農に従事しながら、この歌と共に故郷の方(西南西方)を偲んでいます。
今の住地、茨城県日立市のすぐ北、福島県いわき市が、この歌を歌った霧島昇さんの生地です。「縁」とは不思議なものです。
このサイトは、老若男女の健全な交流の場になっています。二木先生、こらからもよろしく。

投稿: 竹永尚義 | 2012年3月20日 (火) 18時01分

ハーモニカであちこち慰問などに出向いています。このところ敬老会シーズンで結構大変なのですが、次の10日の席用にこの歌を最後に選びました。歌詞カードを作り、曲に関わる話題などを交えながら、進めているので、常に二木先生のコメントを拝見し、あわせ皆さんのコメントを読ませて頂いていますが、今回はツイツイ目頭が熱くなってしまい、この欄に手が行きました。確か戦地の慰問でこの曲を聴かれた方の大半は二度と故郷を見られなかったと、聞いていたのと、3.11の下地もあるかと思います。先生の「月見草の花」や「花言葉の唄」でのコメントも忘れられないものでした。今回も皆と思い出を共有したいものです。日立の竹永さん、私は東海村ですが、いわき市にこの曲の碑があると聞いていますがご存知でしょうか?   

投稿: 河本紀久雄 | 2013年10月 4日 (金) 22時29分

河本紀久雄 様
1年半前の投稿にコメントいただき、有難うございます。フト故郷を偲びたくなった時、二木先生のこのサイトを訪れて、小声で唄っています。震災、放射能事故後、以前に増して故郷を意識する様になりました。言われなく故郷、土地を追われた方々は、どんなにかお辛いことでしょう。せめて応援の気持ちだけでも、お伝えしたいです。
いわき市にこの曲の碑があることは知りませんでした。いつか霧島昇さんの生地(いわき市大久町)を、津波をすんでのところで免れた塩屋崎の美空ひばりさんの歌碑と共に訪ねてみたいと思っています。せっかく近くに(茨城県日立市)住んでいるものですから(車で1時間ちょっとだと思います)。
お元気で、ご活躍ください。

投稿: 竹永尚義 | 2013年10月11日 (金) 08時51分

 西條八十には、2歳年上の兼子という姉がいて、当時珍しかった自転車で女学校に通うようなハイカラな女性だった。八十は、この姉から文章を書くことや詩を愛することを教えてもらった。泉鏡花が好きな、才気にあふれる女性だった。
彼女が結婚して、兵庫の姫路に嫁ぐことになった時、八十は悲しくて「姉君の嫁ぎたまひて けふさみし 春の青空 涙して ひとり仰げば 凧(いかのぼり)ただひるがえる」と詩に書いている。(『西條八十』中公文庫・筒井清忠著)

 「ひとりの姉が嫁ぐ夜に 小川の岸で さみしさに 泣いた涙の なつかしさ」は八十の個人的体験であると思われる。
「望郷の念やみがたし」という全体の構成は、古賀政男の経験であるが、姉を失った喪失感は、西條八十の個人的記憶であります。
八十は晩年、舟木一夫のために『花咲く乙女たち』という歌詞を書くが、
「みんなみんな 今はない 街に花咲く乙女たちよ」
「みんなみんな 咲いて散る 街に花咲く乙女たちよ」
という、考えようによっては、不思議な歌詞が出てくる。
結婚おめでとうという薄っぺらい祝福ではなく、乙女との決別、乙女の喪失が歌われている。なにかしら深い感性を感じます。誰彼なく、みんな色あせていく、それは止められない。しかし、なんともやるせない。とりわけ、女性が歳月とともに変化していくのは・・
西條八十というのは、最後までロマンチストでした。

投稿: 音乃(おとの) | 2015年2月21日 (土) 13時20分

戦後70年の節目に昭和の流行歌ブームを巻き起こせるのでしょうか。
先月6月にデビューした「東京大衆歌謡楽団」・昭和初期の流行歌を奏でる兄弟3人のグループ。
日頃は、東京下町の浅草界隈での路上ライブを中心に活動、時折ライブハウスなどでのコンサートにも出演。
富山出身のボーカル高島孝太郎、アコーディオン雄次郎、ウッドベース龍三郎の3人組。
デビューアルバム「街角の心」には霧島昇「誰か故郷を想わざる」など16曲を収録。
小生、ネットでの大常連!!
目指せ!年末NHK紅白歌合戦出場を!!

投稿: 一章 | 2015年7月13日 (月) 22時47分

この歌を聞いていて、ふと啄木の一首を思い出しました。
 
   病のごと思郷のこころ湧く日なり目にあおぞらの煙かなしも(『一握の砂』所収)
 これは、かれが上京して、生活の糧を得るために苦労していた頃の歌です(もっとも、遊興のために遣ったのも一因なのですが)。わたしも人並みに「ふるさと」への想いはあるのですが、啄木の「病のごと」ほどではないのです。凡才と天才の違いと言えばそれまでですが、なぜなのか考えてみました。
 かれの言う「思郷のこころ」とは、高等小学校や中学校(旧制)を過ごした盛岡時代への想いを指しているのでしょうが、この時代に、かれは天賦の才能を開花させるさまざまな体験(初恋・ストライキ・退学・交友など)を積んでいますね。それに引き替え、わたしの場合は、少年期が敗戦により2期に分けられてしまったことや、とくに引揚げ後の「ふるさと」に「余所者」として受け入れられた、苦い思い出が多いせいかもしれません。したがって、「ふるさと」は、室生犀星のように「遠くにありて思ふもの」ではあっても、けっして帰る所ではないと思っています。もっとも、犀星の帰郷拒否の理由とわたしのそれは違っていますが。

投稿: ひろし | 2015年7月16日 (木) 17時27分

この歌は現職のころ、宴席でおそらく50代だったご婦人が振り付けをしながら歌われたのです。私たち若い者には少々うるさ方だったのですが、カラオケのないころだったのでいっしょに歌いました。何の違和感もなく心に残りました。前触れ無しの歌でしたが、みんな盛り上がりました。もう40年近く前のことです。その方も故人になられて久しいです。ブログを見ながらいろいろ思い出しました。

投稿: 今でも青春 | 2015年7月16日 (木) 20時16分

室生犀星の生涯の友、萩原朔太郎が、妻と別れ子供たちを連れて帰るとき「帰郷」を書いていますね。

 わが故郷に帰れる日
 汽車は烈風の中を突き行けり。
 ひとり車窓に目醒むれば
 汽笛は闇に吠え叫び
 火焔は平野を明るくせり。
 まだ上州の山は見えずや。
 夜汽車の仄暗き車燈の影に
 母なき子等は眠り泣き
 ひそかに皆わが憂愁を探れるなり。
 嗚呼また都を逃れ来て
 何所の家郷に行かむとするぞ。
 (以下10行略)

朔太郎もふるさとに反発しながら、心の奥では頼っていたのでしょうか。
原口統三と同様に引き揚げてきた清岡卓行は故郷大連に帰りたかったのではと思います。しかし国破れたからには、帰りたくてもなかなか帰れません。郷愁いかばかりだったでしょうか。厚かましくも自分の場合、故郷にはもう墓もなくなり帰るよすががなくなりました。諦念を持つのでしょうか。
なぜか清岡卓行が亡くなる数年か前の詩「小康」が、こじつけるようですが、故郷喪失の心を慰撫してくれるようです。

 年老いて自宅にこもり療養すると
 年老い始めた妻が美しく見えてきたりする。
 看護してくれるからだろうか。
 ではなぜ窓の外のくすんだ灰色の庭石が 
 眩しい存在に見えてきたりするのか。
 午前十時すこし過ぎ門柱の郵便受けに
 手紙らしいものの落ちる微かな音。
 頭のなかは小春日和だ。
 遠くに漂うのは少年の日に失った友情
 淡いデカダンスを含んでいたその音楽。
  (拾遺詩集「ひさしぶりのバッハ」所収)

でしゃばりの投稿以降反省します。


投稿: 樹美 | 2015年7月17日 (金) 13時28分

1.ぼくの年来の感慨ですが、近代日本歌謡史のクライマックスは三番の「遠く呼ぶのは誰の声」この句に歌謡史の頂点をおきます。日本人のみならず世界中のひとびとの人生の原点が詠まれています。驚くのは西条という方は東京のひとでしょ? 東京人でもむかしはこんな表現ができたのかしら。

2.ここに記載されている多くの投稿で全く触れられていないことが一つあります。二木先生は「幼馴染が三回」と急所を指摘なさっていますが、皆さんは在日韓国人・朝鮮人がこの歌にどんな感慨を抱いているかについて触れておられない。
 金達寿氏によれば、在日の方々がコンパなどで一番よくうたう日本の歌はこの歌だそうです。肩を組んで歌うと言っていました。望郷にうずく亡国の民が耐え難い切なさで「幼馴染」や「故郷」を回想しつつ思わず肩を組むのでしょう。その姿を金氏は「鬼気迫る」と書いていました。古賀政男氏死去の報せを聞いて在日たちは一斉に路上に走り出たとも。

3.富岡多恵子氏の言ですが、例えば人からなにかを祝う詩を頼まれたならたちどころに十篇の詩ができるひとでなければ真の詩人とはいえないそうです。
西条八十というひと、素敵な方でした。

投稿: 村のしぐれ | 2016年5月 6日 (金) 02時19分

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