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赤い夕陽の故郷

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:横井 弘、作曲:中野忠晴、唄:三橋美智也

  (おーい)
1 呼んでいる 呼んでいる
  赤い夕陽の故郷(ふるさと)
  うらぶれの旅をゆく
  渡り鳥を呼んでいる
  馬鹿な俺だが あの山川の
  呼ぶ声だけは
  おーい 聞こえるぜ

2 呼んでいる 呼んでいる
  赤い夕陽の故郷が
  なつかしい面影の
  ひとつ星もまたたくよ
  小麦畠は二人の夢を
  ひそめているか
  おーい 今もなお

3 呼んでいる 呼んでいる
  赤い夕陽の故郷が
  涙ぐみ 背のびする
  渡り鳥を呼んでいる
  雲よ行くなら おふくろさんに
  思いをせめて 
  おーい 乗せて行け
  (おーい)

《蛇足》 昭和33年(1958年)リリース。

 昭和20~30年代には、いくつものふるさと演歌が発表されましたが、これは、そのうちでもとくに多くの人たちに愛好された曲の1つです。

(二木紘三)

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コメント

お~い
ふるさとを思いだすな~・・・
親孝行したいのだが、やっぱり金が必要。
元気でいてや。もうすぐ帰る。

投稿: なんとかなるさ | 2007年9月 8日 (土) 12時07分

 高校生の頃、勉強もせずラジオ作りに明け暮れていました。ある時、古い電蓄のモーターで、当時のLP、EP、そして元のSP盤をかけられる改造電蓄を作った事が有ります。
 ターンテーブル二つで、元のやつに細く切った紙を貼って溝を作り、あとの一つはなんとこれが木製です。
 二つのターンテーブルを凧糸をより合わせた物でドライブ、糸ドライブです。ピックアップを二つのターンテーブルの真ん中に置き、両方にかけられる仕組みです。回転数の目安はストロボスコープを置いての事でした。
 テストはその時流行っていた三橋美智也のこの曲「赤い夕日の故郷」、なんどもなんども、擦り切れるくらいかけたものです。この曲を聴くとあの時の改造電蓄を思い出します。

投稿: Hikoさん | 2008年7月31日 (木) 05時20分

三橋三智也さんのあの郷愁おびた声にピッタリの歌でしたネ
もちろんすり切れるくらい何度も聴いていました。
当時のSP盤採って有ります。
未だに年に一度 おふくろの居る親元に行くときに車のカセット聴きながら・・・・・夕日を背にうけて

投稿: 当時ラジオ少年 | 2008年8月11日 (月) 16時37分

子供のころ、毎年冬(成人の日のころ)村の青年団が小学校の体育館で演芸会を催していました。当時、保育園の保母さんだった人がこの歌をバックに踊っていたことを記憶しています。私はそのころから三橋美智也のに惹き憑かれていったものです。

投稿: 堺 修介 | 2008年10月12日 (日) 22時37分

 「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川…」は、故郷の鮮烈なイメージです。と共に、「赤い夕陽の故郷」も、確かに懐かしい故郷のイメージの一つですね。

投稿: 大場光太郎 | 2008年10月30日 (木) 22時42分

NHKのBS番組を見ていて「ざんざら真菰」の歌詞を調べていて偶然このブログを開きました。子供の頃から聞いていた三橋美智也の曲に出会い懐かしい思いがします。三橋美智也は同郷の先輩で心にしみるような歌声が好きで何故か子供の頃から口ずさんだものです。私も還暦を過ぎましたが時にはカラオケで歌ったりして昔を思い出しています。

投稿: てっちゃん | 2009年9月13日 (日) 20時19分

昭和34年初めてのったニューヨーク航路の定期船でパナマ運河を抜けて日本への帰りの航海中
メキシコ沖あたり 鏡のような静かな海に真っ赤な太陽が沈んでいく時 思わずこの歌を水平線に向かって歌ったことを今でも鮮明に思い出します。 以来50年 カラオケバーでは持ち歌の一つとして必ず歌ています。 特に最後のオーイが
何ともいえぬ良い気分ですね。

投稿: ハマの呑む兵衛 | 2009年11月14日 (土) 21時39分

  明日は田んぼばかりの田舎の中学在京同級会。10名程度の参加。
 この歌では高校入試に向けて、放課後2つのクラスが1つになって、補習を受けていたことを思い出します。(高校に進学しない)中学で終わりの人はどんな気持ちでいたのだろうか。

投稿: 千坂孝夫 | 2009年12月13日 (日) 00時07分

カラオケでよく三橋美智也を唄います。小生もトーンが高いので、三橋さんの歌が合ってるような気がします。 昨年母を亡くして、この「赤い夕陽の故郷」がいっそう泣けるものになってしまいました。いつまでも残したい望郷歌謡ですね。

投稿: かせい | 2010年1月21日 (木) 11時43分

大学受験の頃,この歌を慰めの1つとして勉強に頑張っていた頃が想い出されます。俗に「歌は世につれ,世は歌につれ」とは言いますが,歌は人生の瞬間瞬間の心情を映し出してくれる触媒のようなものです。その意味で私には「歌は人生そのもの」のような気がします。地の底から湧き上ってくるような,高音で張りのある三橋美智也のあの歌声がどんなに励みになったことか。

投稿: nobuchan | 2010年1月31日 (日) 22時45分

横井弘は自然と人情をミックスした様な詞を書かせると
素晴らしいですね。過去の経験がそうさせたのでしょうか、それともこの方の素質なのでしょうか。

投稿: 海道 | 2010年2月 2日 (火) 15時29分

50年くらい前 学校を午後からサボッテ 日劇へ 三橋三智也 の 歌謡ショーを友達と観に行きました 僕は北海道 彼は岩手 出身 でした望郷の思いが たまらなくってね・・・ 懐かしいくもあり遠い思い出に浸ってます 今は はや 73才になりました。

投稿: どさん子 | 2010年4月10日 (土) 19時10分

夕焼けが真っ赤な幼いころの風景がうかびます
高音が鼻から抜ける声がなんともいえない郷愁をさそいます 

投稿: おんなせんどううた | 2011年3月13日 (日) 02時34分

1958年当時、浪人時代の東京往復は、とにかく安さを優先したので、ほとんど八重洲口始発の桐生行き急行バスでした。乗るのはいつも午後だったので、熊谷を過ぎて利根川を渡る頃は太陽が西に傾き、バスの中には、当時大ヒットしていた三橋美智也の 『赤い夕陽の故郷』 がながれていました。バスが太田にさしかかると道の両側は一面の桑畑で埋め尽くされ 『あぁ・・・故郷に帰ってきたんだなぁ』 と胸が熱くなったのを思い出します。

投稿: 関口益照 | 2011年5月20日 (金) 01時51分

就職して2年目、名古屋の現場に転勤して毎日の輪番勤務、泊り明けで帰り支度をる時、相棒が決まってこの曲を口ずさんで居ました。ホームシックを感じたものです。あれからもう半世紀が過ぎました。

投稿: 石井 孝 | 2012年9月 4日 (火) 10時47分

最近両親が年老いてしまった(父96歳、母92歳)ので弟に引き取ってもらいました。家屋、田畑共売りに出しましたので、帰る故郷がありません。しかし昔の風景は脳裏に焼きついていますので、一生離れ無いでしょう。年に1度の中学同級会だけが楽しみです。

投稿: 海道 | 2012年9月 5日 (水) 07時46分

 昭和35年高卒の仲間が年一度一泊旅行を開催している。 担任の先生は柏崎出身で初赴任地横浜に着任しました。 当時はやり始めていたこの曲をきかせてくれました。 涙目だったことを思い出します。 先生の名をとり吉田会として50余年、クラス会で天下国家の話が一段落の後カラオケで誰ゆうとなしに「よんでいる よんでいる・・・・・」の大合唱となります。58年に若死にした先生の分も元気で持続したい。

投稿: 河嶋 忠雄 | 2014年6月11日 (水) 17時22分

この歌を必ず最初に聞かせて頂いております。
昭和33年中学二年の時離れた故郷人吉で最後に聞いた、耳に残った懐かしい歌謡曲だからです。 それなりに落ち着いた生活でしたが母の突然の再婚、その後定職のない新しい父との不安定な放浪生活が続きました。広島 大阪 和歌山、どこにも居場所は無く一年近く経ってやっと東京三軒茶屋の今にも倒壊しそうに傾いたボロアパートの二階に住みつき極貧の暮らしが続きました。
母は再婚を悔やんで、帰れるものなら・・・、と。
この曲は57年前を、遠く縁の切れた故郷をいつまでも思い出させます。

投稿: はまのぼくちゃん | 2015年9月 4日 (金) 18時39分

「はまのぼくちゃん」タイムトンネルを潜って当時のご自分を励ましたい思いがするでしょう。私は折にふれ「拝啓15の私へ」語りかけています。「希望を持つんだよ。貴女よりもっと辛い人もいるんだよ。今日のご飯も食べらない人もいるんだよ」と。
皆さまのコメントはしみじみとしみじみと胸に沁みました。私は転勤生活の後に生まれ育った市街地に住んではいるが往時とはすっかり様変わり。居ながらにして望郷の思いに浸りました。
三橋美智也の再来ともいわれる福田こうへいさんの歌でも聴いています。福田さん自身の苦難の前半生にも共感、ディナーショーに一年間に四回も行きました。
この歌も必ずのように歌われます。涙ぐんでいる人、むせび泣いている人、もらい泣きのりんごです。

投稿: りんご | 2015年9月 5日 (土) 08時58分

台湾が元日本領だった事若い方はご存知でしょうか?
幌馬車の歌が唄われた昭和22年頃から38年間戒厳令と
いう悪法が発令されました、台湾の一番暗い悲しい時代
でした殺された人は3万近くと言われ主にエリ-ト台湾
人で未だに秘密にされています、中国国民党の許せぬ悪
行です、二二八事件と言われています。
赤い夕陽の故郷 は台湾を追われ国外で独立運動をして
いて台湾に帰れない志士達の心境を唄った歌でそして台
湾独立の悲歌また応援歌でも有りました、当時よく唄わ
れました。幌馬車の歌 赤い夕陽の故郷 ダニーボーイ
今でもカラオケで悲しく唄っています。 元学徒兵

投稿: 黄敬煕 | 2015年12月14日 (月) 18時45分

政治的なことは別として、ユーチューブなどで見ると、台湾の方々に日本の唄が今でも歌われていることに、親しみを感じます。
若い方はどうなのかは分かりませんが、歌を通じての
触れあいは大事にしたいものです。
この歌が、黄さんのコメントにあるような形で、
台湾で歌われていたとは知る由もありませんでした。

投稿: 山ちゃん | 2015年12月20日 (日) 19時54分

朝鮮の地で生まれ、終戦と同時に母親・兄たちと共に引き揚げて帰国したのが満2歳の時。生まれ故郷の記憶など全くない私に兄が観るように勧めてくれた映画の一つが壇一雄原作の東映映画「夕日と拳銃」でした。ロケーションはもちろん日本で撮影の映画ではありましたが、自分の生まれ故郷を想像した記憶があります。そんな折り、ラジオからこの歌が聞こえてきました。「ああ、そうだ、これが私のふるさとの歌だ」と思うようになりました。いまでも、この歌を聞くたびに何故だか涙がこみ上げてくるのです。

投稿: 前田隆司 | 2016年3月20日 (日) 09時51分

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