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柿の木坂の家

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石本美由起、作曲:船村 徹、唄:青木光一

1 春には柿の花が咲き
  秋には柿の実が熟(う)れる
  柿の木坂は駅まで三里
  思い出すなァ ふる里のョ
  乗合バスの悲しい別れ

2 春には青いめじろ追い
  秋には赤いとんぼとり
  柿の木坂で遊んだ昔
  懐しいなァ しみじみとョ
  こころに返る 幼い夢が

3 春くりゃ偲(しの)ぶ馬の市
  秋くりゃ恋し村祭り
  柿の木坂のあの娘(こ)の家よ
  逢ってみたいなァ 今もなおョ
  機織(はたお)りながら暮していてか

《蛇足》 昭和32年(1957)。ふるさと演歌の代表曲の1つ。青木光一には、もう1つ、『早く帰ってコ』というふるさと演歌のヒット曲があります。

 3番の「機織りながら暮らしていてか」が時代を感じさせますね。
 そういえば私の亡母も、昭和20年代の半ばごろまで、農閑期には機を織っていました。6、7歳ごろ、母が織る機の脇に立って、杼
(ひ)が左右に飛び交うのを飽かずに眺めていた記憶があります。

(二木紘三)

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コメント

青木光一は4行目を感情こめて歌いますので、ここで田舎を
思い出します。機織りは祖母がやっていたのを、見た事を憶えています。この方は歌手協会の会長をやられたと思いますが。(不確かな記憶ですので違っておれば、すいません。)

投稿: M.U | 2008年6月29日 (日) 13時00分

 この歌に”乗合バスの悲しい別れ”とありますね。四国の草深い田舎に育った私にも、ひとつの思い出があります。

 街道を走る乗り合いバスが、隣村の停留所に着いたとき、田舎にしては清楚な乙女が乗り込んできました。程なくして外を見やると、青年が一人見送りに来ていました。彼女の手には当時流行った赤いビニール(細い細い管状の)で角に編んだ腕輪が。その手は私の席の直ぐ横のつり手にあり、ブラウスは微かに私に触れているのでした。
 
 二人は少し離れて窓越しに顔を見合わせていました。バスが出掛かると二人は手を振りあうこともなく、それは目でするだけの静かな別れでした。チビの私は未だ見ぬ大人の世界への憧憬をかきたてられて、胸がドキドキしたものでした。

投稿: 雲居逢月 | 2008年7月14日 (月) 16時05分

 青木光一はこの曲を思い入れたっぷりに歌いますね。噂によると、あるやくざの親分がこの曲を歌って(聴いて?)泣いたとか。昔はふるさと演歌が多かったですね。
 また、青木光一はステージ前には、必ず入念に発声練習をするそうですね。昔の人はまじめですね。それとも、プロ歌手なら、みんなそうするんでしょうか。

投稿: 吟二 | 2009年3月 6日 (金) 18時57分

青木先生はシベリアに抑留され大変に苦労された方ですね。この歌は受刑者が必ず泣く歌としても有名です。
歌ってみますと、キーが高い上に語る様に外さず歌わなければならないので、相当難しい曲だなと感じます。

投稿: カト | 2009年11月20日 (金) 08時58分

今日、NHK-BSで青木光一と田端義夫のショーを観ました。
“柿の木坂の家”を聴くと、両親と一緒に暮らした、楽しかった子供の頃を思い出して思わず涙が出ました。
貧乏だったけれど楽しかった。
HMVにいつもはクラシックばかり注文していますが、今日は青木光一の演歌“柿の木坂の家”も注文しました。

投稿: 阪口 義夫 | 2010年1月20日 (水) 19時05分

私の叔父は、戦後シベリアに抑留されていましたが、トランペットが吹けたのを買われて、収容所仲間の青木光一さんらとバンドを組み、演奏会などで活躍したそうです。青木さんはあちらでもスターだったようです。
叔父は、昭和26年にようやく解放されて帰国しましたが、しばらくは共産思想にかぶれて、人を集めて演説したり青年団のリーダーとして走りまわっていました。そんな叔父が酔うと必ず歌ったのが、この「柿の木坂の家」で、歌い終わると必ず「青木が、青木が」と、しきりに青木さんの思い出話をしました。
この歌のリリースが昭和33年ということは、叔父が引き揚げてきてから5年目のことだったのですね。それからもう半世紀、青木さんはまだお元気にステージで歌っておられますが、その姿をテレビなどで見るたび、叔父のことや自分の幼かったころのことを思い出します。

投稿: 待宵 | 2010年7月31日 (土) 09時34分

四国で高校時代に恋に落ち、遠距離恋愛を持続していた彼女と3年後の正月、彼女の家に歓迎されたのに、社会的に不安定だった私の身勝手のために別れる羽目になりました。職場へ去る私を「また、いつでも帰っておいで」と手を振る彼女の両親のそばで私の乗った乗合バスの停留所でいつまでもお辞儀をしたままだった高校3年生の彼女の姿を、この歌は思い出させます。

投稿: Y.O | 2011年4月27日 (水) 21時08分

作詞家の石本美由紀さんの生まれた大竹市に長く住んでいました。
石本先生の生まれた家は大竹駅のみえる小高い所にあり、柿の木があったそうです。東京へ行かれた先生が故郷を偲んで作詞されたと聞いたことがあります。

投稿: QRAcyan | 2014年1月18日 (土) 16時00分

昭和21年に八王子の田舎で生まれた私は、小学生の頃童心山とういう山の手前に柿の木があり、友達とよく木に登りました。柿をもぎ口にほうばっていると、山影から夕焼けに染まった空が見えました。この歌は正に私の幼いころの光景を思い出してくれます。

投稿: 浅川煙夢 | 2015年7月28日 (火) 17時33分


 懐かしい「柿の木坂の家」私の詩吟の先生がいつも口ずさんでいました。
お亡くなりもう20年以上たちます。
この曲を聞くたびに先生の横顔を思い出します。
大きな目玉の酒好きの先生でした。
今も天国で杯片手に口ずさんでいることだろう。

投稿: 中島 豊 | 2015年10月30日 (金) 16時15分

私の実家は海岸沿いで民家もまだまだ多いのですが少し山の方に入るといたるところ里山です。
民家はポツリポツリとまばらになります。

今頃ですと山々はところどころ紅葉し秋の日差しを浴びて赤く輝く柿の木にも出会います。
私の祖母はそんな山里で育ちました。里の中を流れている小川を指して祖母は「子供の頃この川で泳いで遊んだ」と話していました。

それはもう百年以上も昔の事になりますが時を越え故郷の懐かしさを感じます。この穏やかで美しい里がいつまでこのまま残せていけるだろうか、と心配です。

投稿: yoko | 2015年10月30日 (金) 22時13分

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