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原爆を許すまじ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:浅田石二、作曲:木下航二

1 ふるさとの街焼かれ
  身よりの骨埋めし焼土(やけつち)
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街に

2 ふるさとの海荒れて
  黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの海に

3 ふるさとの空重く
  黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの空に

4 はらからの絶え間なき
  労働に築きあぐ富と幸
  今はすべてついえ去らん
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  世界の上に

《蛇足》 昭和29年(1954)3月1日、アメリカは、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で「キャッスル作戦・ブラヴォー」と名付けた水爆実験(写真)を行いました。

 このとき、160キロ東で操業していた静岡県焼津のマグロ漁船・第五福龍丸が死の灰をかぶり、約7か月後の9月23日、同船の久保山愛吉無線長が亡くなりました。
 第五福龍丸被爆のニュースとともに、反原水爆運動が一気に盛り上がり、5か月後、原水爆禁止署名運動全国協議会が生まれました。

 この歌が作られたのは、このころです。東京・大井の町工場の工員・浅田石二が作った詞に、都立日比谷高校の社会科教師・木下航二が曲をつけました。発表は昭和29年7月28日。
 亡くなった久保山無線長は、静岡県漁民葬において、静岡大生らが歌うこの歌で送られました。

 時はすべてを忘れさせるといいますが、過去の傷みを忘れた、あるいはあえて無視しようとする者たちが、政府のなかにも増えてきました。

(二木紘三)

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コメント

私のブログでも、広島・長崎の原爆のことや長崎の女性の方が語るお父さんの思い出などを記事にしましたが、二木さんのおっしゃるように、政府の中にも過去の痛みに目をつぶり再軍備の方向へ行こうとする人間が増えました。安部首相も顔が祖父(?)の岸さんにだんだん似てきました。やろうとすることが似てくると顔まで似てくるのかと思います。日本の若者がアジアでの戦争に駆り出されそうで恐ろしい時代です。

投稿: 江尻 陽一 | 2007年8月11日 (土) 00時26分

 この「原爆を許すまじ」や「長崎の鐘」といった平和を求める歌に、最近とりわけ強く感動するようになってきました。
 私より少し年上の長崎出身の人がいて、その人は合唱団に属していますが、私の家に遊びにこられたとき、酒を少し飲んだあと、二木紘三さんのサイトを教えてあげて、「原爆を許すまじ」を一緒に歌いました。
私はその人の人格、生き方を尊敬しているのですが、一緒に歌っていて、思わずつきあげてくるものがあって、涙を流してしまいました。二木さんの感性、文章、絵に共感しています。

投稿: 北村雅夫 | 2007年10月 2日 (火) 08時30分

昭和三十一二年頃でしたか、東北大生だった友人に、初めて教えてもらいました。学生運動の盛んだった頃だったのでしょう。腕を振りながらこの歌を歌う学生たちの姿が目に浮かびます。みんな、純粋だったのですね。

投稿: 羽田光利 | 2008年2月 7日 (木) 23時42分

昭和21年に、広島県の県北に生まれた私は、小学校でこの歌を教わりました。先生から、「被爆して亡くなったたくさんの人を校庭に積み上げて焼いた」という話などを聞いて、子ども心にも、原爆の恐ろしさがしっかりと刻まれました。
「平和憲法が出来てヨカッタ」と胸をなで下ろしたものです。
しかし、被爆から60年過ぎても「核兵器の脅威」は消えていません。憲法9条を変えようとする動きもあります。
この歌をまだまだ歌わなければならない時代だと感じます。

投稿: 田中サトエ | 2008年4月 8日 (火) 15時48分

中二の時の担任の先生が教えてくれました。物悲しい旋律ですが説得力のある曲だと思いました。
歌の好きな先生であったか他にも色々な曲を折りに触れ歌っていました。
原爆に対しては日本の活動はおとなしいものに感じますがこの曲のように後になってしみじみと感じてくると言うのも一つのアピ-ルなのかも知れませんね。
"日本頑張れ!”

投稿: sunday | 2008年4月 8日 (火) 19時03分

日本国憲法
 (第2章 戦争の放棄)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 世界で戦火が止まない今、憲法9条の精神について、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 田中サトエ様。「平和の尊さ」を再認識させていただき、大変ありがとうございました。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月 8日 (火) 19時14分

現在世界には、呆然とするほど多くのの核兵器が存在するようです。しかし、ヒロシマ以降いまだ実戦で使われたことはありませんね。なぜでしょう。
ヒロシマ、ナガサキの貴い犠牲者が身をもってその残酷さを訴え、必死の祈りでそれを支えてきたからではないでしょうか。
 人類史上初めて核兵器が投下された地は、「日本」でした。これは紛れもない事実です。しかし、私たちはこの厳粛な事実がもつ意味について、表面はともかく、その実、あえて深く考えないようにしているようです。なぜでしょうね。
でも、平和の発信地として、日本以外に考えられますか。

投稿: くまさん | 2008年8月15日 (金) 18時55分

中学時代、毎朝授業前に手書きのめくり紙に書かれていた歌です。何かのひょうしにうら覚えのこの歌がポット浮かんで来て口ずさんでいました。このような歌こそ歌い継がれて行く必要があると思います。三度許すマジ原爆を!

投稿: かえで | 2009年4月21日 (火) 06時45分

今日広島原爆忌。この歌を聴くと、64年前の広島の惨状が目に浮かびます。わたし達家族は朝鮮から引き揚げの途中、広島駅を通過しました。昭和20年10月22日朝のことです。広島駅のホームから見た駅構内や市街地の惨憺たる状況は、当時10歳だったわたしの脳裡に、今でもセピア色に褪せることなく焼き付けられています。原爆(当時は新型爆弾と言われていました)投下後2ヶ月半ですから、被爆直後の阿鼻叫喚、地獄図を見たわけではありませんが、駅構内のあちこちには、まだ赤茶けた蒸気機関車や客・貨車が何輌もスクラップのように散乱し、線路はめくり上がって、中にはレールが中天高く跳び上がって、凄まじい様相を呈していました。もちろん駅舎は破壊されてバラック建てのものです。目を市街に転じますと、一望千里瓦礫の山の中に、破壊消滅をまぬかれた幾つかのビルがわずかに姿をとどめているだけで、まさに瓦礫の山と化した原子野でした。その彼方に朝日にきらきら輝いて瀬戸内海が光っていました。暗灰色の原子野と煌く海と、そのアンバランスの光景は未だに鮮やかに記憶に残っています。宇品か、太田あたりの飛行場も見えて、大型飛行機(多分進駐軍のものでしょう)が1機駐機していました。現在の復興・発展した広島市のどこを探しても、原爆投下直後の痕跡を見出すことは困難でしょうが、わずか1発の原爆がもたらした未曾有の破壊と殺戮を考えるとき、この歌や峠三吉の原爆詩をあらためて読み返し、後世に伝えていかなければという思いを強くしています。
 わたしにとって、ただ一つ救いだったのは、破壊され尽くした駅構内にあって、放射線や強力な熱線を浴びながら、なおかつ倒木・焼失をまぬかれた数本の樹木の中に、黒焦げになった幹の反対側に青々とした芽が伸びているのを発見したときでした。当時、原爆の後遺症により数年間は草や木の再生は不可能だろう、という風評がまことしやかに流れていましたから。その青い芽は、死の世界にあって再生と希望のシンボルでもあったのです。

 

投稿: ひろし | 2009年8月 6日 (木) 12時21分

 1960年代だったか、原水爆禁止国民運動の集会でよく歌いました。音楽、特に歌唱が得意でない自分でも群集の中に混じって口をパクパクしているうちに覚えてしまいました。
 最近、あまり歌われなくなったのは国民運動の集会、労組の集会が激減したからでしょうか。世代の断絶を感じさせられます。

投稿: 狐日和 | 2009年10月 2日 (金) 16時59分

この曲がつくられた時代、1950年代を考えるシンポジウムを開催します。
この曲の作詞者、浅田石二さんも発言されます。
関心のありそうな方々にご紹介いただければ幸いです。

『東京南部サークル雑誌集成』刊行記念シンポジウム
東京南部の青春――いま甦る1950年代サークル運動の世界

基調講演:成田龍一(日本女子大学教授)
詩朗読:森美音子(劇団「野戦之月海筆子」)
発言:浜賀知彦(文学史家、東京南部サークル誌を研究)・白石嘉治(大学非常勤講師、文学研究・現代思想)・丸山照雄(僧侶、元下丸子文化集団)・浅田石二(詩人、元下丸子文化集団、『原爆を許すまじ』作詞者)・望月新三郎(作家、元下丸子文化集団、「民話の語り 九条の会」代表)・山室達夫(元南部文学集団)

2009年11月23日(月・祝日)13:30~17:00
大田区・嶺町集会室
(大田区嶺町特別出張所・3F)
大田区田園調布本町7-1
03-3722-3111
東急池上線雪が谷大塚駅徒歩7分
東急多摩川線沼部駅徒歩10分
主催:東京南部サークル研究会
共催:蒲田アカデミア
協賛:不二出版
後援:大田区教育委員会
お問い合わせ:東京南部サークル研究会 道場親信
044-989-7777(内線5805)
メール:nanbu50sあっとまーくgmail.com

1950年代、東京南部(大田・品川・港区)は全国でも注目された文化サークル運動のメッカだった。日々のくらしに追われながらも、若者たちは詩を書き、皆とうたをうたい、芝居を自主制作していた。当時、南部には200を超えるサークルがあったといわれているが、そこから「原爆を許すまじ」などのうたや数々の詩が生み出されていった。今回、当時大田区を中心に活動した「下丸子文化集団(のち、南部文化集団、南部文学集団と改称)」が1951年から59年までに発行したサークル誌が復刻された。すべてガリ版刷りのこの雑誌を手がかりに、文化への憧れと渇望を自らの手で満たしていた50年代の青春をふり返ってみたい。

投稿: 蒲田アカデミア | 2009年11月14日 (土) 23時19分

私が此の歌を覚えましたのは昭和30年代のことで、当時農村青年の研究団体であった4Hクラブに所属して居た頃のことです。 第5福竜丸事件の有った年に私の父も病を得て亡くなりましたが、其れ以上に第5福竜丸の無線長であられた久保山愛吉氏の残された言葉『核の犠牲者は、私を最後にして云々』をラジオで聞きました時には、男泣きに泣いた覚えが有ります。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 2日 (月) 21時30分

広島に隣接するとはいえ、山口県の山深い谷底の小学校。昼なお暗い教室が一瞬明るくなりました。広島市の上空でピカドンが炸裂した瞬間でした。中学生になり疎開対象からはずれた一級上の友達がたくさん、軍需工場で被爆し、遺骨も見つからなかったのです。また八月六日がやってきます。

投稿: 林 一成 | 2010年8月 4日 (水) 08時25分

「原爆を許すまじ」という歌を検索していて辿り着きました。ミクシイの日記に蛇足の部分をコピーペーストいたしましたので、お知らせいたします。

いつ、何処で、誰が作ったのか、というのは、歌の意味を考える上でとても大事なことだと思います。

どうも有難うございました。

投稿: 外岡則和 | 2010年8月 5日 (木) 00時35分

8月とは何と悲しい月なんでしょうか。6日の広島に続く9日の長崎・其れから1週間後には、軍隊のみならず沖縄県の様な悲惨な地上戦で犠牲となった数百万の帰らざる尊い犠牲をもっての敗戦。 創価学会名誉会長池田大作氏の書かれた小説『人間革命第一章冒頭にも戦争ほど悲惨なものはない。戦争ほど残酷なものはない』とありますが、戦争ほど悲惨且つ残酷・更には文明・文化さえも破壊しかねない愚かな行為は人間として絶対の反対を唱えるものである。とりわけ核に対しては、如何なる手段と雖も戦争に使用することは断固として反対を唱えるものである。
此の歌は・昭和29年3月1日に中部太平洋ビキニ環礁におけるアメリカの行った水爆実験によって死の灰を浴びた第5福竜丸事件以後に作られたとのことでありますが、地球上から完全に核爆弾の無くなる日まで歌い続ける必要のある歌だとシミジミと感じるものである。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 19時32分

昭和38年に日比谷高校に入学し、木下航二先生に倫理を習いました。当時少年たちは日本の未来は原子力だとあこがれており、私も、京大の原子核工学科で学びました。しかし学ぶうちに、原発が人類の手に負えないものであることが分かり、その後、原子力に携わることなく40年が過ぎました。20年前の福井県美浜の事故では関西電力に原発廃止を訴えたりしましたが、毎日生きるのに精一杯でしたから、なるべく省エネで過ごすくらいのことでした。
今回の東電の災害で、3たび許すまじ、と世界に訴えた日本人自身が、世界の空と海を汚し、人々の労苦で築き上げたものもなくなりました。3度目は日本発でした。世論は変わりました。私も社業のかたわら残りの人生で、子や孫たちのために、原発を廃止する活動をしてゆこうと決意しました。
人々はもう一度この歌を思い出してほしいと思います。また、これから日本人が世界から非難を浴びながらも、つつましく仲良く生きていくために、二木先生が紹介しているキダタローの名曲「ふるさとの話をしよう」もぜひ復活させたいものです。

投稿: 吉岡英介 | 2011年4月 9日 (土) 11時36分

茨城県の日立市に住んでいます。当地では、大震災の混乱は時々大きな余震が来る他は落ち着いて来ましたが、一つだけ、大きな心配事が重苦しく圧し掛かっています。定年農業をやっている私は、この春は北方約100kmの福島原発の動向にびくびくしながら、マスクをして畑を耕しています。
都会での便利な生活と引き換えに、漁師が魚を獲れない、百姓が田畑を耕作できない世の中は絶対に誤っています。私の亡父は小倉市の陸軍造兵工廠で働いていて、原爆が長崎市に落とされたことで命拾いしました。父の転勤で高校は広島市でした。就職して日立市に来て、すぐ南の東海村JCO事故にも遭遇しました。人生の最後も放射能被曝と思うと実に虚しいです。この唄の世の中が実現することを切望します。子孫たちのために。

投稿: 竹永尚義 | 2011年4月11日 (月) 08時57分

昭和38年都立戸山高校(定時制)に入学。すでに19歳の高校一年生のとき、原爆許すまじを歌って、デモ行進をしたのを思い出しました。今、原発事故は最悪の事態を招いています。「はらからの絶え間なき 労働に築きあぐ富と幸 今はすべてついえ去らん」が現実となっています。2004年定年を迎え、ふるさとに帰ったら中越地震で仮設住宅暮らしを二年間体験しました。今回改めて地図を見たら、わが故郷山古志は、柏崎原発から30キロ圏内のようです。
投稿されている、吉岡さん、竹永さんに、とても親しい感じを持ちました。

投稿: 佐藤繁正 | 2011年4月22日 (金) 23時20分

私が大学に入学したのが1954年、何か集会があるとこの歌をよく歌い、いまでも歌詞を覚えています。この年に作曲されたばかりだったのですね。作詞者、作曲者の名前をすっかり忘れていて気になっていたのですが、このプログのおかげで再発見しました。ありがとうございます。つぎは、ああ許すまじ原発を、を何方か作って下さい。

投稿: 海老坂武 | 2012年2月 8日 (水) 20時36分

40代の主婦です。この歌は小学校の平和教育で習い、今でも1番だけですが、完璧に歌えます。この歌の、作者を知りたいと思い検索したら、このサイトにあたりました。平和教育で、いろんな戦争に関する歌を習った記憶がありますが、私はこの歌が一番心に残っています。子どもの頃は、歌詞の言葉が少し難しく、でも難しさゆえに原爆の怖さが余計に強く印象に残りました。
現在、主人の仕事の都合で、長崎市に住んでおります。今の子どもたちは、この歌を知りません。学校では『折り鶴』という歌を毎年歌っているようです。私たち親も、先生方も戦争を全く知らない世代です。戦争について、しっかり子どもたちに伝えていけるのか、不安です。

投稿: 江副 綾子 | 2012年8月 9日 (木) 11時23分

この歌を国歌にして歌い継がないといつか日本は核に汚染され尽くしてしまうかも。知らないうちに原発があんなに沢山作られたなんて福島のことがあって始めて知りました。悪魔に魂を売ると言いますが、核で金儲けをしている人のことを言うのでしょうか。人間は愚か者だとつくづく思います。

投稿: ハコベの花 | 2012年8月 9日 (木) 13時36分

 今日、はだしのゲンの作者が亡くなり原爆の実体験の人が又一人減りました。それと戦闘の体験者は尚少なくなっています。

 私の職場での先輩でシベリヤ帰りの人は入隊して一発も撃たずに俘虜となり1100名の隊は極寒と食糧不足で500名しか生き残れなかったと話していました。もう一人の先輩は戦争の話はほとんどしなかったのですがある時北支での初年兵教育で銃剣で人を刺殺しろと命令されやったと言ったときは号泣していました。戦争は本人の意思とは関係なく加害者と被害者を同時に作り多くの人が死にます。
 私の叔父は海軍に志願して真珠湾攻撃、マレー海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦に参加搭乗の赤城と翔鶴が撃沈されても二度生還したのですが、船が無くなり陸戦隊になり、その後昭和20年7月にフイリピンで戦死したことになっています。

 私たち内地でも東京空襲で家を焼かれました。先日の新聞に、この子らに戦はさせじ七五三、と有りましたが同感です。この悲惨な実態は語り継がねばと思います。
                  

投稿: みっちゃん | 2012年12月25日 (火) 22時23分

68回目の広島・長崎の原爆の日も過ぎ今年も喉もと過ぎればのムードがまた暫く続くだろうと、加えて3.11の原発の恐怖の中でいかに反核の意識を保持すべきか?についても唯一の被爆国である日本の第二の国歌としてこの「原爆を許すまじ」をハコベの花さんのご意見のように歌い継ぐべきだと思考します。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年8月10日 (土) 10時36分

1940年生まれ、74歳女性です。
母の実家が裏六甲側にあり、縁故疎開していました。神戸市が空襲で焼けた夜は南の空が真っ赤になり、母や祖母が地面に身を投げ出して、『神戸が焼けている」と叫びながら地面をかきむしって泣いていた光景が、忘れられません。遠くから地響きに似た爆弾の落ちる音が、現在の花火大会に聞こえる音と重なり、花火大会に大勢の人が出かけ、下から仰ぎ見ている光景は理解できませし、好きになれません。花火は『線香花火』が最高です。
復員後父が地方公務員になり、メーデーは私たち子供のお祭りのようでした。その時に確か聞いた覚えがあり、曲と詩が忘れられなくてこの曲をきくと、今も胸がドキドキします。

投稿: 伊藤 光子 | 2015年2月25日 (水) 08時59分

戦争の惨状や核の恐ろしさを経験している人がまだ沢山いるのに、日本の先行きが危ういですね。光子さんと同じように私もサイレンの音に空襲警報が思い出されます。戦争は国民の財産と命を奪うだけで良い事は何もありません。訳が分らない言葉で国民をだます戦争好きな政治家に注意を払っていきたいと思っています。ちなみに私も疎開先で山々の間に我が家を含めて浜松の市街地を焼き尽くした赤い炎を見ていました。5歳でした。

投稿: ハコベの花 | 2015年2月25日 (水) 23時57分

5月3日憲法記念日の夜、寝ながら「日本の憲法9条の中に平和がある。この憲法が世界各国存在するなら、世界は平和である」と言う内容の事を聞き、誰がこんなことを言っていたのか調べました。その名は、アレン・ネルソンさん。もと海兵隊でベトナム戦争の最前線で戦った帰還兵、アフリカ系アメリカ人です。貧困から脱却するため、ためらいもなく海兵隊員になった人です。帰還後自らのPTSDという後遺症に苦しみながらも平和運動に参加した人です。是非皆さんこの人の出した本を読んで下さい。戦争とは人殺しであり、独立国に基地のある矛盾を知ってください。

投稿: 太田 和代 | 2015年5月26日 (火) 20時52分

今、静岡県内のニュースで久保山愛吉さんの慰霊祭の様子が映りました。何年か前まではこの「原爆許すまじ」の歌が流れたのですが、最近は歌が流れなくなりました。
今日は人間の愚かさを思い知らされる日です。この歌も忘れ去られ、核の恐ろしさにも慣れていくのでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2017年3月 1日 (水) 20時27分

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