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原爆を許すまじ

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:浅田石二、作曲:木下航二

1 ふるさとの街焼かれ
  身よりの骨埋めし焼土(やけつち)
  今は白い花咲く
  ああ許すまじ原爆を
  三度(みたび)許すまじ原爆を
  われらの街に

2 ふるさとの海荒れて
  黒き雨喜びの日はなく
  今は舟に人もなし
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの海に

3 ふるさとの空重く
  黒き雲今日も大地おおい
  今は空に陽もささず
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  われらの空に

4 はらからの絶え間なき
  労働に築きあぐ富と幸
  今はすべてついえ去らん
  ああ許すまじ原爆を
  三度許すまじ原爆を
  世界の上に

《蛇足》 昭和29年(1954)3月1日、アメリカは、中部太平洋マーシャル諸島のビキニ環礁で「キャッスル作戦・ブラヴォー」と名付けた水爆実験(写真)を行いました。

 このとき、160キロ東で操業していた静岡県焼津のマグロ漁船・第五福龍丸が死の灰をかぶり、約7か月後の9月23日、同船の久保山愛吉無線長が亡くなりました。
 第五福龍丸被爆のニュースとともに、反原水爆運動が一気に盛り上がり、5か月後、原水爆禁止署名運動全国協議会が生まれました。

 この歌が作られたのは、このころです。東京・大井の町工場の工員・浅田石二が作った詞に、都立日比谷高校の社会科教師・木下航二が曲をつけました。発表は昭和29年7月28日。
 亡くなった久保山無線長は、静岡県漁民葬において、静岡大生らが歌うこの歌で送られました。

 時はすべてを忘れさせるといいますが、過去の傷みを忘れた、あるいはあえて無視しようとする者たちが、政府のなかにも増えてきました。

(二木紘三)

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コメント

私のブログでも、広島・長崎の原爆のことや長崎の女性の方が語るお父さんの思い出などを記事にしましたが、二木さんのおっしゃるように、政府の中にも過去の痛みに目をつぶり再軍備の方向へ行こうとする人間が増えました。安部首相も顔が祖父(?)の岸さんにだんだん似てきました。やろうとすることが似てくると顔まで似てくるのかと思います。日本の若者がアジアでの戦争に駆り出されそうで恐ろしい時代です。

投稿: 江尻 陽一 | 2007年8月11日 (土) 00時26分

 この「原爆を許すまじ」や「長崎の鐘」といった平和を求める歌に、最近とりわけ強く感動するようになってきました。
 私より少し年上の長崎出身の人がいて、その人は合唱団に属していますが、私の家に遊びにこられたとき、酒を少し飲んだあと、二木紘三さんのサイトを教えてあげて、「原爆を許すまじ」を一緒に歌いました。
私はその人の人格、生き方を尊敬しているのですが、一緒に歌っていて、思わずつきあげてくるものがあって、涙を流してしまいました。二木さんの感性、文章、絵に共感しています。

投稿: 北村雅夫 | 2007年10月 2日 (火) 08時30分

昭和三十一二年頃でしたか、東北大生だった友人に、初めて教えてもらいました。学生運動の盛んだった頃だったのでしょう。腕を振りながらこの歌を歌う学生たちの姿が目に浮かびます。みんな、純粋だったのですね。

投稿: 羽田光利 | 2008年2月 7日 (木) 23時42分

昭和21年に、広島県の県北に生まれた私は、小学校でこの歌を教わりました。先生から、「被爆して亡くなったたくさんの人を校庭に積み上げて焼いた」という話などを聞いて、子ども心にも、原爆の恐ろしさがしっかりと刻まれました。
「平和憲法が出来てヨカッタ」と胸をなで下ろしたものです。
しかし、被爆から60年過ぎても「核兵器の脅威」は消えていません。憲法9条を変えようとする動きもあります。
この歌をまだまだ歌わなければならない時代だと感じます。

投稿: 田中サトエ | 2008年4月 8日 (火) 15時48分

中二の時の担任の先生が教えてくれました。物悲しい旋律ですが説得力のある曲だと思いました。
歌の好きな先生であったか他にも色々な曲を折りに触れ歌っていました。
原爆に対しては日本の活動はおとなしいものに感じますがこの曲のように後になってしみじみと感じてくると言うのも一つのアピ-ルなのかも知れませんね。
"日本頑張れ!”

投稿: sunday | 2008年4月 8日 (火) 19時03分

日本国憲法
 (第2章 戦争の放棄)
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 世界で戦火が止まない今、憲法9条の精神について、もう一度考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 田中サトエ様。「平和の尊さ」を再認識させていただき、大変ありがとうございました。

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月 8日 (火) 19時14分

現在世界には、呆然とするほど多くのの核兵器が存在するようです。しかし、ヒロシマ以降いまだ実戦で使われたことはありませんね。なぜでしょう。
ヒロシマ、ナガサキの貴い犠牲者が身をもってその残酷さを訴え、必死の祈りでそれを支えてきたからではないでしょうか。
 人類史上初めて核兵器が投下された地は、「日本」でした。これは紛れもない事実です。しかし、私たちはこの厳粛な事実がもつ意味について、表面はともかく、その実、あえて深く考えないようにしているようです。なぜでしょうね。
でも、平和の発信地として、日本以外に考えられますか。

投稿: くまさん | 2008年8月15日 (金) 18時55分

中学時代、毎朝授業前に手書きのめくり紙に書かれていた歌です。何かのひょうしにうら覚えのこの歌がポット浮かんで来て口ずさんでいました。このような歌こそ歌い継がれて行く必要があると思います。三度許すマジ原爆を!

投稿: かえで | 2009年4月21日 (火) 06時45分

今日広島原爆忌。この歌を聴くと、64年前の広島の惨状が目に浮かびます。わたし達家族は朝鮮から引き揚げの途中、広島駅を通過しました。昭和20年10月22日朝のことです。広島駅のホームから見た駅構内や市街地の惨憺たる状況は、当時10歳だったわたしの脳裡に、今でもセピア色に褪せることなく焼き付けられています。原爆(当時は新型爆弾と言われていました)投下後2ヶ月半ですから、被爆直後の阿鼻叫喚、地獄図を見たわけではありませんが、駅構内のあちこちには、まだ赤茶けた蒸気機関車や客・貨車が何輌もスクラップのように散乱し、線路はめくり上がって、中にはレールが中天高く跳び上がって、凄まじい様相を呈していました。もちろん駅舎は破壊されてバラック建てのものです。目を市街に転じますと、一望千里瓦礫の山の中に、破壊消滅をまぬかれた幾つかのビルがわずかに姿をとどめているだけで、まさに瓦礫の山と化した原子野でした。その彼方に朝日にきらきら輝いて瀬戸内海が光っていました。暗灰色の原子野と煌く海と、そのアンバランスの光景は未だに鮮やかに記憶に残っています。宇品か、太田あたりの飛行場も見えて、大型飛行機(多分進駐軍のものでしょう)が1機駐機していました。現在の復興・発展した広島市のどこを探しても、原爆投下直後の痕跡を見出すことは困難でしょうが、わずか1発の原爆がもたらした未曾有の破壊と殺戮を考えるとき、この歌や峠三吉の原爆詩をあらためて読み返し、後世に伝えていかなければという思いを強くしています。
 わたしにとって、ただ一つ救いだったのは、破壊され尽くした駅構内にあって、放射線や強力な熱線を浴びながら、なおかつ倒木・焼失をまぬかれた数本の樹木の中に、黒焦げになった幹の反対側に青々とした芽が伸びているのを発見したときでした。当時、原爆の後遺症により数年間は草や木の再生は不可能だろう、という風評がまことしやかに流れていましたから。その青い芽は、死の世界にあって再生と希望のシンボルでもあったのです。

 

投稿: ひろし | 2009年8月 6日 (木) 12時21分

 1960年代だったか、原水爆禁止国民運動の集会でよく歌いました。音楽、特に歌唱が得意でない自分でも群集の中に混じって口をパクパクしているうちに覚えてしまいました。
 最近、あまり歌われなくなったのは国民運動の集会、労組の集会が激減したからでしょうか。世代の断絶を感じさせられます。

投稿: 狐日和 | 2009年10月 2日 (金) 16時59分

この曲がつくられた時代、1950年代を考えるシンポジウムを開催します。
この曲の作詞者、浅田石二さんも発言されます。
関心のありそうな方々にご紹介いただければ幸いです。

『東京南部サークル雑誌集成』刊行記念シンポジウム
東京南部の青春――いま甦る1950年代サークル運動の世界

基調講演:成田龍一(日本女子大学教授)
詩朗読:森美音子(劇団「野戦之月海筆子」)
発言:浜賀知彦(文学史家、東京南部サークル誌を研究)・白石嘉治(大学非常勤講師、文学研究・現代思想)・丸山照雄(僧侶、元下丸子文化集団)・浅田石二(詩人、元下丸子文化集団、『原爆を許すまじ』作詞者)・望月新三郎(作家、元下丸子文化集団、「民話の語り 九条の会」代表)・山室達夫(元南部文学集団)

2009年11月23日(月・祝日)13:30~17:00
大田区・嶺町集会室
(大田区嶺町特別出張所・3F)
大田区田園調布本町7-1
03-3722-3111
東急池上線雪が谷大塚駅徒歩7分
東急多摩川線沼部駅徒歩10分
主催:東京南部サークル研究会
共催:蒲田アカデミア
協賛:不二出版
後援:大田区教育委員会
お問い合わせ:東京南部サークル研究会 道場親信
044-989-7777(内線5805)
メール:nanbu50sあっとまーくgmail.com

1950年代、東京南部(大田・品川・港区)は全国でも注目された文化サークル運動のメッカだった。日々のくらしに追われながらも、若者たちは詩を書き、皆とうたをうたい、芝居を自主制作していた。当時、南部には200を超えるサークルがあったといわれているが、そこから「原爆を許すまじ」などのうたや数々の詩が生み出されていった。今回、当時大田区を中心に活動した「下丸子文化集団(のち、南部文化集団、南部文学集団と改称)」が1951年から59年までに発行したサークル誌が復刻された。すべてガリ版刷りのこの雑誌を手がかりに、文化への憧れと渇望を自らの手で満たしていた50年代の青春をふり返ってみたい。

投稿: 蒲田アカデミア | 2009年11月14日 (土) 23時19分

私が此の歌を覚えましたのは昭和30年代のことで、当時農村青年の研究団体であった4Hクラブに所属して居た頃のことです。 第5福竜丸事件の有った年に私の父も病を得て亡くなりましたが、其れ以上に第5福竜丸の無線長であられた久保山愛吉氏の残された言葉『核の犠牲者は、私を最後にして云々』をラジオで聞きました時には、男泣きに泣いた覚えが有ります。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 2日 (月) 21時30分

広島に隣接するとはいえ、山口県の山深い谷底の小学校。昼なお暗い教室が一瞬明るくなりました。広島市の上空でピカドンが炸裂した瞬間でした。中学生になり疎開対象からはずれた一級上の友達がたくさん、軍需工場で被爆し、遺骨も見つからなかったのです。また八月六日がやってきます。

投稿: 林 一成 | 2010年8月 4日 (水) 08時25分

「原爆を許すまじ」という歌を検索していて辿り着きました。ミクシイの日記に蛇足の部分をコピーペーストいたしましたので、お知らせいたします。

いつ、何処で、誰が作ったのか、というのは、歌の意味を考える上でとても大事なことだと思います。

どうも有難うございました。

投稿: 外岡則和 | 2010年8月 5日 (木) 00時35分

8月とは何と悲しい月なんでしょうか。6日の広島に続く9日の長崎・其れから1週間後には、軍隊のみならず沖縄県の様な悲惨な地上戦で犠牲となった数百万の帰らざる尊い犠牲をもっての敗戦。 創価学会名誉会長池田大作氏の書かれた小説『人間革命第一章冒頭にも戦争ほど悲惨なものはない。戦争ほど残酷なものはない』とありますが、戦争ほど悲惨且つ残酷・更には文明・文化さえも破壊しかねない愚かな行為は人間として絶対の反対を唱えるものである。とりわけ核に対しては、如何なる手段と雖も戦争に使用することは断固として反対を唱えるものである。
此の歌は・昭和29年3月1日に中部太平洋ビキニ環礁におけるアメリカの行った水爆実験によって死の灰を浴びた第5福竜丸事件以後に作られたとのことでありますが、地球上から完全に核爆弾の無くなる日まで歌い続ける必要のある歌だとシミジミと感じるものである。

投稿: 渡邉秋夫 | 2010年8月 6日 (金) 19時32分

昭和38年に日比谷高校に入学し、木下航二先生に倫理を習いました。当時少年たちは日本の未来は原子力だとあこがれており、私も、京大の原子核工学科で学びました。しかし学ぶうちに、原発が人類の手に負えないものであることが分かり、その後、原子力に携わることなく40年が過ぎました。20年前の福井県美浜の事故では関西電力に原発廃止を訴えたりしましたが、毎日生きるのに精一杯でしたから、なるべく省エネで過ごすくらいのことでした。
今回の東電の災害で、3たび許すまじ、と世界に訴えた日本人自身が、世界の空と海を汚し、人々の労苦で築き上げたものもなくなりました。3度目は日本発でした。世論は変わりました。私も社業のかたわら残りの人生で、子や孫たちのために、原発を廃止する活動をしてゆこうと決意しました。
人々はもう一度この歌を思い出してほしいと思います。また、これから日本人が世界から非難を浴びながらも、つつましく仲良く生きていくために、二木先生が紹介しているキダタローの名曲「ふるさとの話をしよう」もぜひ復活させたいものです。

投稿: 吉岡英介 | 2011年4月 9日 (土) 11時36分

茨城県の日立市に住んでいます。当地では、大震災の混乱は時々大きな余震が来る他は落ち着いて来ましたが、一つだけ、大きな心配事が重苦しく圧し掛かっています。定年農業をやっている私は、この春は北方約100kmの福島原発の動向にびくびくしながら、マスクをして畑を耕しています。
都会での便利な生活と引き換えに、漁師が魚を獲れない、百姓が田畑を耕作できない世の中は絶対に誤っています。私の亡父は小倉市の陸軍造兵工廠で働いていて、原爆が長崎市に落とされたことで命拾いしました。父の転勤で高校は広島市でした。就職して日立市に来て、すぐ南の東海村JCO事故にも遭遇しました。人生の最後も放射能被曝と思うと実に虚しいです。この唄の世の中が実現することを切望します。子孫たちのために。

投稿: 竹永尚義 | 2011年4月11日 (月) 08時57分

昭和38年都立戸山高校(定時制)に入学。すでに19歳の高校一年生のとき、原爆許すまじを歌って、デモ行進をしたのを思い出しました。今、原発事故は最悪の事態を招いています。「はらからの絶え間なき 労働に築きあぐ富と幸 今はすべてついえ去らん」が現実となっています。2004年定年を迎え、ふるさとに帰ったら中越地震で仮設住宅暮らしを二年間体験しました。今回改めて地図を見たら、わが故郷山古志は、柏崎原発から30キロ圏内のようです。
投稿されている、吉岡さん、竹永さんに、とても親しい感じを持ちました。

投稿: 佐藤繁正 | 2011年4月22日 (金) 23時20分

私が大学に入学したのが1954年、何か集会があるとこの歌をよく歌い、いまでも歌詞を覚えています。この年に作曲されたばかりだったのですね。作詞者、作曲者の名前をすっかり忘れていて気になっていたのですが、このプログのおかげで再発見しました。ありがとうございます。つぎは、ああ許すまじ原発を、を何方か作って下さい。

投稿: 海老坂武 | 2012年2月 8日 (水) 20時36分

40代の主婦です。この歌は小学校の平和教育で習い、今でも1番だけですが、完璧に歌えます。この歌の、作者を知りたいと思い検索したら、このサイトにあたりました。平和教育で、いろんな戦争に関する歌を習った記憶がありますが、私はこの歌が一番心に残っています。子どもの頃は、歌詞の言葉が少し難しく、でも難しさゆえに原爆の怖さが余計に強く印象に残りました。
現在、主人の仕事の都合で、長崎市に住んでおります。今の子どもたちは、この歌を知りません。学校では『折り鶴』という歌を毎年歌っているようです。私たち親も、先生方も戦争を全く知らない世代です。戦争について、しっかり子どもたちに伝えていけるのか、不安です。

投稿: 江副 綾子 | 2012年8月 9日 (木) 11時23分

この歌を国歌にして歌い継がないといつか日本は核に汚染され尽くしてしまうかも。知らないうちに原発があんなに沢山作られたなんて福島のことがあって始めて知りました。悪魔に魂を売ると言いますが、核で金儲けをしている人のことを言うのでしょうか。人間は愚か者だとつくづく思います。

投稿: ハコベの花 | 2012年8月 9日 (木) 13時36分

 今日、はだしのゲンの作者が亡くなり原爆の実体験の人が又一人減りました。それと戦闘の体験者は尚少なくなっています。

 私の職場での先輩でシベリヤ帰りの人は入隊して一発も撃たずに俘虜となり1100名の隊は極寒と食糧不足で500名しか生き残れなかったと話していました。もう一人の先輩は戦争の話はほとんどしなかったのですがある時北支での初年兵教育で銃剣で人を刺殺しろと命令されやったと言ったときは号泣していました。戦争は本人の意思とは関係なく加害者と被害者を同時に作り多くの人が死にます。
 私の叔父は海軍に志願して真珠湾攻撃、マレー海戦、ミッドウェー海戦、南太平洋海戦、マリアナ沖海戦に参加搭乗の赤城と翔鶴が撃沈されても二度生還したのですが、船が無くなり陸戦隊になり、その後昭和20年7月にフイリピンで戦死したことになっています。

 私たち内地でも東京空襲で家を焼かれました。先日の新聞に、この子らに戦はさせじ七五三、と有りましたが同感です。この悲惨な実態は語り継がねばと思います。
                  

投稿: みっちゃん | 2012年12月25日 (火) 22時23分

68回目の広島・長崎の原爆の日も過ぎ今年も喉もと過ぎればのムードがまた暫く続くだろうと、加えて3.11の原発の恐怖の中でいかに反核の意識を保持すべきか?についても唯一の被爆国である日本の第二の国歌としてこの「原爆を許すまじ」をハコベの花さんのご意見のように歌い継ぐべきだと思考します。

投稿: 尾谷光紀 | 2013年8月10日 (土) 10時36分

1940年生まれ、74歳女性です。
母の実家が裏六甲側にあり、縁故疎開していました。神戸市が空襲で焼けた夜は南の空が真っ赤になり、母や祖母が地面に身を投げ出して、『神戸が焼けている」と叫びながら地面をかきむしって泣いていた光景が、忘れられません。遠くから地響きに似た爆弾の落ちる音が、現在の花火大会に聞こえる音と重なり、花火大会に大勢の人が出かけ、下から仰ぎ見ている光景は理解できませし、好きになれません。花火は『線香花火』が最高です。
復員後父が地方公務員になり、メーデーは私たち子供のお祭りのようでした。その時に確か聞いた覚えがあり、曲と詩が忘れられなくてこの曲をきくと、今も胸がドキドキします。

投稿: 伊藤 光子 | 2015年2月25日 (水) 08時59分

戦争の惨状や核の恐ろしさを経験している人がまだ沢山いるのに、日本の先行きが危ういですね。光子さんと同じように私もサイレンの音に空襲警報が思い出されます。戦争は国民の財産と命を奪うだけで良い事は何もありません。訳が分らない言葉で国民をだます戦争好きな政治家に注意を払っていきたいと思っています。ちなみに私も疎開先で山々の間に我が家を含めて浜松の市街地を焼き尽くした赤い炎を見ていました。5歳でした。

投稿: ハコベの花 | 2015年2月25日 (水) 23時57分

5月3日憲法記念日の夜、寝ながら「日本の憲法9条の中に平和がある。この憲法が世界各国存在するなら、世界は平和である」と言う内容の事を聞き、誰がこんなことを言っていたのか調べました。その名は、アレン・ネルソンさん。もと海兵隊でベトナム戦争の最前線で戦った帰還兵、アフリカ系アメリカ人です。貧困から脱却するため、ためらいもなく海兵隊員になった人です。帰還後自らのPTSDという後遺症に苦しみながらも平和運動に参加した人です。是非皆さんこの人の出した本を読んで下さい。戦争とは人殺しであり、独立国に基地のある矛盾を知ってください。

投稿: 太田 和代 | 2015年5月26日 (火) 20時52分

今、静岡県内のニュースで久保山愛吉さんの慰霊祭の様子が映りました。何年か前まではこの「原爆許すまじ」の歌が流れたのですが、最近は歌が流れなくなりました。
今日は人間の愚かさを思い知らされる日です。この歌も忘れ去られ、核の恐ろしさにも慣れていくのでしょうか。

投稿: ハコベの花 | 2017年3月 1日 (水) 20時27分

 今年もまた、8月6日がやって来ました。恥ずかしい乍ら、14、5歳まで山口県で育った私は、隣の県人なのに広島の原爆投下についてあまり関心がなく、知識もありませんでした。《多分、周りの大人達があまり話してくれなかったからだろうと思います。我関せずと言うより、当時の本当の広島の惨状を見ていないからか、その逆で、あまりの悲惨さを口に出せなかったのだろうと察します。
 でも、我々子供の間では、本当はあの原爆は宇部に落ちていたとか、小倉に落ちていたなどと自慢げに言っていたのを憶えています。
 さて、 否が応でもこの「原爆を許すまじ」を覚えたのは広島の高校へ通学するようになってからです。山口県の田舎町と違って広島市は都会でした。聞く物、見る物、砂が水を吸い込むように私の頭には原爆に掛かる事は勿論のこと、いろんな事柄が入力されました。ある日、男女共学でしたので何名かの女子生徒が休憩時間に教室で、悲しい歌をコーラスしていました。いい歌だったので「何という歌?」と聞いたら、これどうぞと言って歌詞ペーパーをくれました。見ると、《里見一郎》という歌手が歌っていて、「ヒロシマ」という歌でした。もう60年前のことで、その歌詞ペーパーはいつの間にかなくしてしまいましたが、記憶にありますので一番だけご紹介いたします。
    --- ヒロシマ ---
 1.顔も知らない 母さんを なんど呼んでは 泣いたやら ヒロシマ ヒロシマ 太田河原に 春はいくたび めぐるとも 今も心に 消えぬ傷あと  
 
 ご存知の方もいらっしゃると思いますが、小生、音譜が書けずメロデイをご紹介できないのが残念です。いい曲ですけどね・・。 2018.8.5  迷える古羊 

投稿: 迷える古羊 | 2018年8月 5日 (日) 01時08分

原爆の映画は、学校や家からも見に行きました。
この時期になると写真展がありましたが、
「原爆で耳を不自由にされた」と、
男の方が耳を見せられのが記憶に残っています。

里見一郎さんの「ヒロシマ」知っていますよ。
昭和37年頃ラジオから流れていました。
YouTubeはリンク出来ないのでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=hrViJAf4tTU
http://www.utagoekissa.com/
http://bunbun.boo.jp/sub4_index.htm

投稿: なち | 2018年8月 5日 (日) 03時38分

 この歌は第5五福竜丸の事件が発端と、みなさんご存知の由、私が小学生のときに新聞報道で第5福竜丸のことは知りました。歌は修学旅行だったと思います。これが大きな問題になったことは、後年知りました。大体ビキニ環礁(当時報道されていました)という場所もはっきり知りませんでした。
 新聞は小学生の時から読んでいましたが。

投稿: 今でも青春 | 2018年8月 5日 (日) 11時37分

時は すべてを忘れさせると、いいますが・・・(二木先生:蛇足より)、今朝の広島平和記念式典での、松井市長や子供代表(2名)の平和への誓いを聞いて、又感慨を新たにしました。

もう1ヶ月もすれば79才の誕生日を迎えんとする今、しみじみと来し方を振り返れば、僅か5才で父親と祖母を原爆で失い、10才違いの兄と姉3人、妹2人の7人兄姉妹を抱えて、91才まで生き抜いた母親の苦労は筆舌に尽くせぬものだったと思います。

何があっても、戦争だけは繰り返して欲しくない! 母子家庭の悲しみや苦労は、私の代で終わりにして欲しいと、切に願います。

昨晩もBS-1で、「奇跡のレッスン」2時間番組に、出演した孫娘(RUKA)の可愛い姿を見ながら、平和の尊さをしみじみと味わいました。

この歌を何十回歌っただろうか?

もう、いい加減にこんな悲しい歌を、声高らかに歌わなくてもよい時代になって欲しいと、思っています。

投稿: あこがれ | 2018年8月 6日 (月) 11時08分

なち様 
初めまして、早速ご助言頂きどうも有難うございました。まずは駄目元で、『ヒロシマ・・里見一郎』とインターネットに入力して見ますと、動画ではありませんが、60年ぶりに若き日の里見一郎さんに画面でお目に掛かれ、そしてご本人のどこか藤山一郎さん似の歌声に聞き惚れていると、初めてこの歌に接したあの頃の情景が走馬燈のように想い出され、お陰様で至福の一時を味あうことが出来ました。この半世紀の間、(私だけかも知れませんが・・)『里見一郎さん』の歌声を聞いたことがありませんので、もう歌手から転業されたのだろうと思って忘却しておりました。彼も、小生と同じで、とうに古希を過ぎておられるでしょうから、従ってパソコンで検索もしませんでした。でも、小生の心の片隅には彼のこと、この歌のことが常にあったのでしょうか、《原爆を許すまじ》関連で突然燃え上がり、取り上げてみた次第です。この度は、なち様お一人でもこの『ヒロシマ』をご存知の御方がおられて、百人力を得た心持ちでした。 2018.8.6 迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年8月 6日 (月) 14時05分

konoha 様
やはりsame ageでしたか。感無量です。みごとに勘が当たりました。《寒い朝》欄が又、混んで来たようですので、一旦、息抜きに貴女を「原爆を許すまじ」コーナーへお誘いしました。と申しますのは、貴女が女高生の頃、(北高と云えば、かの有名な都立調布北高とお察しますが、あの辺りはニセアカシヤでも有名ですね。)休憩時間にお仲間とそのニセアカシヤの下でいろんな歌をコーラスしておられたご様子が、私がこのコーナー(下から5行目)で書いたシーンとダブったからです。
 私は「野菊」でも紹介しましたが、東京で11年勤務したあとは、札幌に転勤しまして、やはり、ニセアカシアと云えば、札幌駅前通りの中央分離帯のみごとなニセアカシアの並木道だと思います。札幌ののカラオケでは橋幸夫の「あした逢う人」と「すずらん娘」及び裕次郎の「赤いハンカチ」と「恋の町札幌」をずっと歌っていました。
           2018.8.18  迷える小古羊


投稿: 迷える古羊 | 2018年8月18日 (土) 22時10分

 私はもし広島にいくようなことがあっても、原爆資料館には行かないだろうなと思っていました。

 埼玉県東松山に丸木美術館があります。そこに丸木位里、俊夫妻の描いた墨で描かれた大作「原爆の図」が広い展示室の四方の壁一面にありました。全面墨絵で数カ所に赤く描かれたもの(小さな赤い花だったかなんだったか記憶にないのです)

その部屋に入ると、なぜか「うぅ!?」という気持ちになり、全部が墨で描かれているため近くに寄らないと分かりませんでした。壁に張られた絵を見ていきました。そこにあったのは幽鬼せまる人々の姿でした。ある人はやっと歩いて助けを求めている姿、人々が折り重なって死んでいる図、衣服がはげ落ち、やっと幼子を抱いて助けを求めている母の無惨な姿 ・・・ 四方から人々のうめき声が聞こえてくる程でした ・・・ 処どころに赤の小さい色・・・ 

その部屋には長くいられませんでした。次室も同じように描かれた墨絵でした。へやの入口でのぞいたきり入れませんでした。丸木俊夫人の自伝を読んでから美術館へ行ったのですが、これほどとは思いもしませんでした。

 このことがあって以来、なんとなく避けていたのですが、後年広島へ旅行にいきました。夫が入ろうというので、あれから数十年経っているし大丈夫かなと思い見学しました。丸木美術館で受けた衝撃はありませんでした。むしろ原子爆弾が落とされた事実がよくわかりました。入って良かったと思いました。(すみません、爽やかな朝にこんなコメントを)

迷える古羊さま
 残念ですがおなじ都立でも北高違いでした。でもニセアカシアの樹々が美しかったですね。毛虫の季節には行かないようにしていました。一度セーラー服のリボンに付いたときがありました。また札幌の大通り公園で焼きトウモロコシとアイスクリームを食べました。とても美味しかった思い出があります。いわゆる「かに族」もあちらこちらで見かけました。

投稿: konoha | 2018年8月19日 (日) 10時13分


Konoha様
まずは北高の件、失礼いたしました。お詫び申し上げます。
貴女の「札幌の大通り公園で焼きトウモロコシとアイスクリームを食べました。」というお話は札幌にぴったしの素敵な情景ですね。まだ見ぬ貴女のお顔が目に浮かびます。「あした逢う人-3番」橋幸夫のフレーズを思い出します。 インターネットで《橋幸夫:あした逢う人》で検索すると直ぐ出てきますので是非聴いてください。「すずらん娘」も一緒に聴いてみてください。両方ともいい唄ですよ・・ 札幌も私がいた頃に比べ札幌駅が建て直され、その辺りがすっかり変わりきれいになりました。
 さて、東松山の丸木美術館はよく覚えていませんが、貴女が詳しく描写された絵のことは見たことがあります。写真だったかも知れませんね・・長い間、東京にいたのですから、よく見ておけば良かったと残念に思っております。 東京では、私は、市川市の行徳に住んでいまして、東西線で茅場町に通勤していました。仕事の合い間は市川の鬼高小学校の体育館で、趣味の剣道をやっていましたので、(今もしていますが・・)東京の観光が不十分で勿体ないことをしました。10月には広島で高校の同期会がありますので、一泊で出席しようと思っております。 
女房が小倉ですので、広島まで一緒に帰ります。
 では、朝晩寒さを覚えるようになりましたので、お風邪など召されませんようにお祈り申し上げます。
          2018.8.19  迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年8月19日 (日) 21時20分

迷える古羊さま
 橋幸夫の歌のご紹介ありがとうございました。「すずらん娘」の一番の歌詞、そのままそっくりに函館に住む従姉から、航空便ですずらんの花が送られてきました。届いた細長い箱を開けると、先のとんがった楕円形の葉に包まれた白い可愛い釣り鐘の形をしたすずらんの花、実際に見たことがなかったので、すごく嬉しかったのを思い出します。
 北海道に旅行したとき、すずらんの花が入った香水を買ってきました。それを使った記憶が無いので、今よく考えてみるとと小瓶に入った標本だったのかもしれません。なぜなら、すずらんは毒性の花ですので香水には向きませんよね。果たしてどちらかだったか半世紀以上も経った今ではわかりません。

 10月の同期会楽しみですね。私も高校の同窓会で会ってみたいなと思う先輩がいます。秋晴れのいい日になりますように。

投稿: konoha | 2018年8月20日 (月) 10時16分

なち様
先日、9/17「月」の中日新聞の朝刊の《発言欄》を読んでいると、目が点になることがありました。「広島の悲しみを伝える歌」と題して、三重県の72歳の男性が投稿しておられました。他紙に掲載された文章なのでそっくりここに書いてしまう訳にはいきませんが、かいつまんでお話ししますと、彼は高校の修学旅行で初めて広島に行き、原爆ドームをはじめ原爆の悲惨さを伝える資料を目にして強烈な印象を受けられる訳ですが・・彼は、現地の女性のバスガイドの案内で、今は復興した市内が見渡せる高台の公園に連れて行かれ、彼女から被災当時の様子を語部のように具体的に話されるのを聞き、そして、彼女は『ヒロシマ』と言う歌を唄ってくれたそうです。胸にしみいる歌声で哀愁漂うメロデイーと歌詞の一つ々が自分の胸に深く刻み込まれ、今もこの唄を愛唱歌にしているが、長い間、この歌の題名も作詞家も作曲者も歌手名も知らずに来たそうです。
   2018.10.1迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年10月 1日 (月) 16時19分

72才で高校の時で哀愁漂うメロデイーでしたら、
里見一郎さんの歌でしょうかね。
投稿欄はネットに載っているのもあるので、
検索したのですが分かりませんでした。

https://www.youtube.com/watch?v=7Uja44h68Bk
「広島平和音楽祭」で検索するとありますが、
また開かないようです。

投稿: なち | 2018年10月 1日 (月) 22時09分

なち様
 早速ご返事いただきまして有難うございます。中日新聞の投稿文には、♬顔も知らない母さんを・・と一番だけは書いていましたので、『ヒロシマ』という歌には相違ありません---すみません。言葉足らずで・・
             2018.10.1迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年10月 2日 (火) 00時13分

「顔も知らない母さんを…」で検索すると、サークルおけらさんが、「ヒロシマ」のメロデイーと譜面を紹介されていました。

投稿: 樹美 | 2018年10月 3日 (水) 12時59分

樹美 様
 ありがとうございます。本件は本年8月5日に本欄で、
なち様にお世話になり、歌手の歌声は聞けるようになりましたが、まだ、楽譜が分かりませんでした。
 早速、樹美様の仰せの通りにやってみましたら、歌詞と楽譜が出てきました。助かりました。お礼申上げます。
 ただ、歌手名が書いてなくて、作曲者名が歌手名になっていたのが少々気になります・・・
 中日新聞の投稿者も今はこうしてインターネットがありますから、既にこの歌の全部が分かっておられるようにも感じます。新聞の投稿文が体言止めでどちらにも取れました・・
           2018.10.3 迷える古羊

投稿: 迷える古羊 | 2018年10月 3日 (水) 15時10分

8月5日に「ヒロシマ」の ♪楽譜のページをリンクしていますよ。
「ヒロシマ」のページでないので書き込みを迷っていました。

youtubeが開かないのは確認で分かりますが、アドレスをコピーして張り付けです。
「うたごえ喫茶」と「サークルおけら」は50音で ♪歌手の欄はありません。
どちらも作詞、作曲は不明だったので、作詞者、作曲者、歌手名をお知らせしました。
おけらさんは私の名前を書かれていたので消して戴きましたが、
勝手に「ヒロシマさん」と書かれています。
youtubeの歌をアップされたのはそれより後です。

交流掲示板に書こうと思ったのですがやはり此方に書きます。
今朝の書き込みについてのコメントは続くので不要です。

投稿: なち | 2018年10月 4日 (木) 04時36分

二木管理人様の投稿指針に反するようですが、広島について書かせてください。「原爆許すまじ」の歌は小学校の昼休み時間に先生方が歌っていて、怖い感じがしていました。その後平成になって、都合3年広島に住勤、3回元安川の灯篭流しを見ました。初回は空は真紅に焼けて、二度目は川面は上っていました。次の年は、雨が冷たく降っていました。早坂暁氏のお話も図書館のこじんまりした部屋でお聞きすることができました。この夏、「昭和花遍路」の再編集版など早坂氏の作品を見る機会が多かったな、と感慨します。アッピールの核心は、大竹の兵学校から帰郷の際に列車が止まった夜の広島駅から、消えてしまった広島の街あとから数知れない燐光が燃えていた、ことではないかと思います。その事実は最初広島に赴任する直前に安芸ロータリーの知人に体験話として聞かされていましたが、うそだろう、と信じなかったことが記憶にあります。
原民喜の詩を最後に紹介させてください。
 ヒロシマのデルタに
 若葉うづまけ

 死と焔の記憶に
 よき祈りよこもれ

 とはのみどりを
 とはのみどりを

 ヒロシマのデルタに
 青葉したたれ
              原爆小景、から

投稿: 樹美 | 2018年10月 4日 (木) 12時33分

樹美 様
>二木管理人様の投稿指針に反するようですが、

当サイトの投稿方針には全然反していません。このようなコメントこそ、この欄に投稿されるべきものです。

歌のテーマとまったく関係ないコメントや社交的なメッセージのやり取りは、当欄ではなく、掲示板のほうにお願いしたいということですので、誤解なきよう。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2018年10月 4日 (木) 15時03分

 樹美様
 広島に原民喜の詩があったと思います。何度か行きましたが、はっきり記憶していません。有名な詩人鈴木三重吉の詩があったのは覚えています。先ほど調べたら、広島市の出身なんですね。「赤い鳥」という児童文学の名前で知っていました。

投稿: 今でも青春 | 2018年10月 4日 (木) 15時18分

原爆ドームの前に、原民喜の石碑が立っているはずです。
「碑銘 遠き日の石に刻み 砂に影おち 崩れ墜つ
    天地のまなか 一輪の花の幻」
コメント欄に名が載っているうちは、次の投稿を控えるようにとのご指導をまたも破ってしまいました。2年前から肺炎が完治せず腸瘻で延命中、やっとパソコンを見れるようになりました。
御ブログのますますのご発展を祈りつつ、沈黙したいと思います。

投稿: 樹美 | 2018年10月 4日 (木) 19時13分

なち様
 なち様から8/5にご教示いただきました3件のURLをすべて開いてみたのですが、当時は私ども未熟でよく理解が出来ずに閉じてしまいました。ご返信にも書きましたように、勝手ながら日本語で《歌手名と曲名》を単純に入力しましたら、歌手:里見一郎が《ヒロシマ》を唄う場面に当たりましたので、その時はそれで十分満足した訳です。
 でも、その後私は、メロデイを所々間違って覚えていることに気づきまして、長い間まちがって覚えていた節の修正は加齢のせいもあり意外と難しく、未だに完成しません。
 したがいまして、出来るかどうか楽譜を見て修正してみたくなり、楽譜が欲しくなった次第です。
 尚,今回改めて、指示された 3件のURLを開いてみますと、3番目が樹美様ご指示と同じ画面に突き当たり、楽譜もGet出来ました。なち様どうも失礼いたしました。あの時、聞けば良かったですね・・・

投稿: 迷える古羊 | 2018年10月 4日 (木) 19時39分

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