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さよならをするために

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:石坂浩二、作曲:坂田晃一、唄:ビリー・バンバン

1 過ぎた日の微笑みを みんな君にあげる
  ゆうべ枯れてた花が 今は咲いているよ
  過ぎた日の悲しみも みんな君にあげる
  あの日知らない人が 今はそばに眠る
  温かな昼下がり 通りすぎる雨に
  濡れることを 夢に見るよ
  風に吹かれて 胸に残る想い出と
  さよならをするために

2 昇る朝陽のように 今は君と歩く
  白い扉をしめて やさしい夜を招き
  今のあなたにきっと わかるはずはないの
  風に残した過去の さめた愛の言葉
  温かな昼下がり 通りすぎる雨に
  濡れることを 夢に見るよ
  風に吹かれて 胸に残る想い出と
  さよならをするために

《蛇足》 昭和47年(1972)の日本テレビのドラマ『3丁目4番地』の主題歌で、ビリー・バンバンにとっては『白いブランコ』『れんげ草』に続く大ヒットとなりました。

 このドラマの前のシリーズで主役を演じた石坂浩二が、新しいシリーズには出演しないことになり、その代償として主題歌の作詞をさせてもらったという話が伝わっています。
 静かな幸福感が感じられるいい歌詞です。坂田晃一のメロディも洗練されていて、心地よい響きが伝わってきます。

(二木紘三)

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コメント

こんな良い曲にコメントがないんですね。

まだ小学校の時でしたが、このドラマ見てました。
ストーリーは全く覚えていませんが、
屋根(物干し台?)のシーンがよく出てきたことと、
主演の浅丘ルリ子が、
2階から見える近所のパチンコ屋のネオンサインの
一番上の文字が消えていることを、
電話で文句を言っている場面が、
絵付きですごく残っています。
「またおたくのネオンの一番上が消えてますよ、
じゃあ、なんになってるかですって、
そんなの言えるわけないじゃないですか」
って怒ってるとこ、ははは。
子供の頃の記憶って、そんなクダラナイことが、
断片的に強く残っているのが不思議です。

当時はこの歌詞の素晴らしさが
理解できる年齢ではありませんでしたが、
それでも一番の歌詞はよく覚えていて、
中学くらいの時まで歌っていたと思います。
綺麗な叙情のある恋愛というものに憧れる年頃でした。

今読んでみると、この歌詞は、
新しい人とめぐり逢い、過去の人の思い出を、
もう今は忘れてしまいたいってことなんですね。
幸福感の中にある、過去を引きずったかげり、哀しみ。
そういう経験も結局できずに、
恋愛などとは関係ない年齢になってしまいましたが、
それでも、今聞いても、
多分あの頃感じていたのと近い
ふんわりと甘い気分にさせてくれます。
恋愛ではなくとも、さよならをしたほうがいい思い出はありますしね。

胸に残る思い出と、さよならをするために。

投稿: 生田倫哉 | 2010年2月 4日 (木) 23時07分

 二木先生お世様です。生田様より年上の私ですが、昭和47年頃は前年に弟を交通事故で亡くし、失意のどん底だった私に彼女が出来て、一緒にこの曲を聴きながら車でデイトしたり、志賀高原へドライブしたり、楽しく過ごしていました。
 恋愛と結婚は別だなんて、私の勝手なわがままで別の道を歩く事になり現在に至っておりますが、この曲を聴くと当時の若かった頃を思い出し涙が出そうになります。理想と現実の違い、思い通りに成らない現実に流されている、今日このごろです。

投稿: 加藤 清 | 2011年5月 2日 (月) 09時13分

今はそばに眠る人ではなく、過去の恋人である「君」ともう心も別れなくてはいけないから、さよならをするために、微笑みも悲しみも「君」にあげるという。男の自罰的な幻想が、通りすぎる雨に濡れ風にふかれてとなるのだろうが、踏ん切りがつかない。昇る朝日のように今はそばに眠る人と歩く。2番の中段は彼女の言い分ですね。恋とはこんなに理屈をつけないといけないものなのですね。

投稿: 海道 | 2011年11月 4日 (金) 06時57分

昨夜の歌番組で、ビリー・バンバンがこの歌を唱っていました。懐かしくなって、皆さんがこの歌にどのようなコメントを寄せているのか知りたくなり、このサイトにアクセスしてみましたが、案に相違してコメントが少なく拍子抜けしました。
 わたしもそうですが、老境に入ると過去を振り返ることは多くなりますが、流れ去った時間の量があまりにも膨大で、ノスタルジーとして若い日の自分の恋を語ることはできても、この歌のように当時の恋の情感を巧く伝えることは苦手なんでしょうね。老境に入ることを「枯れる」とも言います。世俗のことにあまり関心を示さないと言う意味では歓迎することばですが、精神的なみずみずしさを失うと意味でしたら、ちょっと寂しいですね。
 
 それにしても、石坂浩二にこんな優しい詞がつくれるなんて驚きです。かれの女性遍歴を知る者からすると、誰かの代作ではないかと勘繰りたくもなりますが、マルチのかれからすると、造作もなくできるのかもしれませんし、意外に芯は女性にも優しいのかも知れませんね。かのドンファンがそうであったように。
 

投稿: ひろし | 2012年7月27日 (金) 11時52分

 大学生の頃でした。このドラマが好きでした。今思えばこの歌を聴く、あるいはこの歌と連携したドラマ映像+浅岡ルリ子さんと石坂浩二さんの会話による空気感が自分の育てられ方にも共鳴していたのでしょう。ビリーバンバンの男男した美声も良かった。こんなドラマの雰囲気の将来の生活像もいいなあと感じていたあの時代が思い出されます。
 そのころ日本ではアメリカの市場さえOEMで席巻していった日本丸の真空管の製造が各社で止められていきました。本格的にトランジスタ+ICの時代に突入していきます。
 あれから40年、今、私の机上には先週注文・到着した2GHzのCPU+4ギガバイトのDRAM+1テラバイトのハードディスク+20インチの液晶テレビを備えたNECのパソコン(デジタルテレビ機能付)が鎮座しています。開封後バカチョンであっという間にインターネットとも接続できました。このマシンで二木様のこのサイトを美音で楽しませてもらっています。40年前の当時では想像も全くできなかった人間の記憶容量の100倍もあり、一秒当たり億回の演算処理ができるこのようなコンピュータがネット通販でわずか5.9万円・翌日到着でした。当時100億円かけても実現できなかった装置であることは間違いありません。信じられないことがあっという間にまぎれもない事実となってしまっています。
 エジソンの電球発明から僅か140年で、派生した真空管時代、ライバルのトランジスタ時代、単純な集積回路時代も終わり、超々LSI時代の真っただ中で生活を艱難辛苦ながら謳歌している時代ですね。世界中の人と人が自由にやり取りができるインターネットですべてが変わってまいりました。人間は大したものでこんな激変についていくのもなんということはありません。
 技術によって世界は激動しても人の幸せ感や男女の機微は微塵も変わっていませんね。今や当たり前と想像できます今後数10年のロボットの時代も、人の心はまったく何も変わらないでしょう。この詞と背景の空気感が大切なものは何かをずっと伝えてきてくれています。二木様 素晴らしいサウンドをありがとうございます。

投稿: ヴイダケア | 2012年12月16日 (日) 04時13分

20代後半に若い者たちに、ギター伴奏で「れんげ草」を習った事がある。ビリーバンバンの歌は唄い易いが正確に唄うとなるとかなり困難だと、今でもそう感じている。

投稿: 海道 | 2012年12月17日 (月) 12時50分

今夜、初めてこのページを知りました。とても興味深く、また感動して読ませていただいております。
この歌、メロディーの美しさと冒頭の歌詞に、当時12~3歳だった私はすっかり魅せられていました。
「3丁目4番地」の前に「2丁目3番地」がやっていたような記憶があります。石坂浩二さんや浅丘ルリ子さんたち、お兄さんお姉さんたちの繰り広げるおもしろおかしい、ちょっと切ない恋心(?)を感じる言葉ののやり取りに憧れ、もう寝なきゃいけない時間帯のテレビ番組を布団の中から見るのが毎週楽しみだったのを覚えています。
お話の内容に反して、どうして主題歌はこんなにさびしげなんだろうと不思議にも感じていました。
高校に入りフォークソング部に入部、コンサートでこの歌を歌いたくてギターコードをさがすのですが(歌詞は覚えておりソングノートなるものに記載し、コードは記憶による耳コピ)、サビ部分がなかなか探せず苦労したのを覚えています。少しバロックを思わせるイメージのある刺繍っぽい旋律ラインやハーモニーの移り変わりが街路樹の木漏れ日みたいで本当に美しい曲ですね。掲載ありがとうございます。

投稿: 怪盗ルパンっ | 2013年3月26日 (火) 01時40分

美しくて、静かで、懐かしくて、淋しい曲ですね。
聴きながら過ぎ去った過去を思い浮かべています。

私は、社会人1年生(23才)をコンピューター室のオペレーターとして、社会人2年生(24才)を某都市銀行の大阪本店事務センターで派遣プログラマーとして勤務していました。

事務センターには大勢の若い女性行員が勤務していました。僕のうぶな目には花園のように映りましたね。
ある日、事務センターのコンピュータ室で打ち出されたコンピュータ用紙をチェックしていた時、数歩離れたところに女性がじっと立っているのに気づきました。

オズオズしているのか、微笑んでいるのか僕にはよく分からなかったのですが、か僕と目が合うと彼女は口を開きました。

「教えてもらっても良いですか?」
僕は「ええ、良いですよ」、と答えて彼女が私に手渡したコンピュータ用紙に目を移しました。

その用紙にはIBMコンピュータが打ち出した英語のエラーメッセージが印刷されていました。彼女はその英語の意味を教えてくださいと言うのです。僕の知らない英単語もありました。

そこで辞書を取り出して調べたのですが、そのとき彼女は私に寄り添って一緒に辞書を見ようとするのです。僕はドキッとしました。彼女の美しい黒髪が僕の胸に触れています。こんなシチュエーション、僕は生まれて初めてです。

この時のことは僕にとっては衝撃で、後々繰り返し思い出すことになりました。だって、僕だってコンピュータのプログラムは初心者なんだ、質問するならプロの先輩が他に沢山いるじゃないか。それとも何か僕に伝えたかったことでもあるのだろうか?あのとき微笑んで僕を見つめていた彼女を思い出すたびに、僕も彼女に何か声をかけたらよかったのかなぁ、綺麗で可愛い人だったなぁと今では後悔しています。(・・・僕は当時どの女性とも仕事に必要な最小限の会話しかしなかった・・・)

先月、大阪への旅をしたとき、懐かしくてその事務センターのあった大阪御堂筋の近辺を歩いてきました。45年ぶりです。街並みの様相はもはや変わっており、事務センターのあったビルも当時出勤前に毎朝通っていた喫茶店の場所も特定できませんでした。けれども45年前の若かりし女性行員一人一人の姿が瞼に浮かびます。

その日は、この曲のように雨が降っていましたが、サヨナラをするために洗い流したいような思い出の恋は1件もありません。恋に繋がらなかった思い出ばかりです。だけどこの曲のメロディは心の琴線に響きますね。


投稿: yoko | 2018年7月 1日 (日) 01時26分

標高930mの六甲山荘での仕事を終え、クヌギや松、クス、檜、楓、コブシ等の生い茂る樹林帯の下り道を一気に駆け下りる・・車窓から流れ込む山の空気は清冽で心地よい。雨上がりの木々の葉を伝う水滴に、陽の光がきらきらと反射しながら交錯する・・・。

深炒りされたマンデリンの焙煎豆10gを慎重に挽き,一杯のコーヒーを味わう。馥郁とした香りが疲れた脳を気持ちよく刺激する。至福の時です。

yoko 様の コメントに、嘗ての自分の姿を投影しながら、琴線に触れてくるような この素敵な曲に耳を傾けています。

過ぎた日の微笑みを みんな君にあげる
過ぎた日の悲しみも みんな君にあげる

♪風に吹かれて 胸に残る想い出と
♪さよならをするために・・・。

たった一度とは、言いませんが・・・
ともすれば、記憶の外に追い出されそうになりがちな、半世紀以上も前のこと・・  
あれほどまでに、悩み苦しんだ恋の想い出は二度と経験することはありませんでした。

10才違いのたった一人の兄貴の影響もあったのかも知れません。
大空への憧れを抱き続け、当時アメリカ イリノイ大学に電子工学研修生として留学中の、航空自衛隊幹部の兄貴からのエアーメールが、貧乏苦学生の私の唯一の楽しみであり、希望でした。(敬愛する兄貴は、最終 入間基地指令:空将補、退官後 70才で逝去)

母親の苦労を目の当たりにしながら、高校生活を送っていた私でしたが、東証一部上場企業 S金属工業の専務取締役をしていた叔父に頼ることもせず、大空への夢を捨て去ることが出来ず、航空自衛隊操縦学生への道を選びました。
パイロットとしての基礎教育研修と、シュミレーターやリンクトレーナーでの実技研修も合わせ、数百時間の研修を終了し、いよいよT-34メンター(二人乗り初導機)での実地研修が始まって間もなく、今でいうところの突発性難聴症状が続き、右耳の航空幕僚精密検査で、パイロットとしての必要可聴周波数帯機能不可、と いう予想もし得なかった無惨な現実にさらされることになりました。

それからのことは、今となっても誰にも話したくありません。それから、1年後に退官して、今まで不義理をしてきた叔父を頼って、S金属工業の子会社に就職しました。

まだ十分に慣れてない娑婆の勤めを初めて間もなく、友人の薦めで受講し始めた、通信教育のサークル活動で運命の人との出会いがあり、当初は、じっくりと二人の愛を育てていこうと密かに思っていましたが・・
日を追うごとに、時間が経つごとに、二人の心模様が怪しくなり始め、自分でもコントロール不能、まるで尾翼を破壊された練習機のごとく、ローリング、ピッチング、ヨーイングとも操縦不能の状態に陥りはじめました。二人とも、あまりにも想いが激しすぎたのかも知れません。

私の前歴が、彼女の職場での民青サークルの先輩連中の標的にされる日々が続いたようです。
会うごとに、黙って目に一杯の涙を浮かべ、やつれ苦しそうな姿の愛しい人を見るには、あまりにも忍びないことでした。

苦しい選択でした。別離は・・。

今の 平和で幸せな生活からすれば、まるでおとぎ話
のようですが、かの人も幸せで楽しい人生を過ごされていれば、なによりと思っています。

長くなりました、この曲の素敵なメロデイーに酔ったみたいです。お許しを・・・。

投稿: あこがれ | 2018年7月 1日 (日) 14時10分

yokoさま
実はこの曲は初めて聴きますが、しっとりとしていてどこかもの悲しさが漂いますがいい曲ですね♪
yokoさまのロマンチックでほんわかとした素敵な恋のお話を拝読する中で、いくつかのコンピューター用語に目が留まり、もう半世紀も昔のこと、電算業務に携わったことが懐かしく想い出されました。
確か私が27歳の頃だったと思います。
市町村職員として勤務する中で、三度目の異動先が税務課の固定資産税係で、係長以下28名ほどの職員が在籍していました。
当時の課税業務での計算は、もっぱらソロバンが主力で、他に限られた台数の手動で手回しの計算機(ガチャガチャチンと音が出るもの)がありましたが、なかなか入手できず苦労したことを想い出しています。
そんなある日、県内では初めての課税業務の業者委託での電算化の話が持ち上がり、担当者二人の中の一人に選ばれました。
福岡市内の某計算センターに委託することになり、それからというものは、電算入力用の資料作りで残業を含め数ヶ月はかかったと思います。
年度初めの納付書発行までには、エラーチェクなどを文書で修正し、最終的には、担当者二人で、福岡の計算センターへ出向き、それも宿泊なしの徹夜作業でエラー出力を修正する作業が待っていました。
いよいよ年度初めの納付書発行の時期になりましたが、福岡の某計算センターでは処理ができず、四国~松山の某新聞社の電算センターで処理することになり、担当二人は、そちらの方に出向くことになりました。
その時も福岡と同様、会社に留まり、仮眠をとりながらエラー修正をすることになりました。
そんな中、度々のエラー修正のため、大勢の女子職員がおられる事務室にデーターをもらいに入っていましたが、ある時、一人の綺麗な可愛い女子職員の方と目が合いお互いに頭を下げることに・・・
それから数度お会いしましたが、お互いに頭を下げるだけで特別に一度も言葉も交わさずに電算センターを後にすることになりました。
27歳の私もよっぽどウブだったようですね!・・・思い切って言葉をかけられるチャンスを作ればよかったなーと・・・後悔しきりだったことを想い出しています。
もし、あの時勇気を出して挑戦していれば、変わった人生になったのではないかとも・・・

20年ほどの後、職場の旅行で松山市内に行き、某新聞社の前を通りましたが、当時と変わった様子はありませんでした。
電算事務室での綺麗な可愛い彼女の顔が浮かび・・・どうなされておられるのかなーと・・・当時のことを懐かしく想い出したところでした。

yokoさま 改めて、素敵なコメントありがとうございました。


あこがれさま
コメントを拝読している途中で胸が熱くなりました。
いろんなことが重なり、あこがれさまの心中はいかばかりかとお察しいたします。
人それぞれいろんな出来事を背負いながらその日その日を明日に向け生きているんだなーと・・・つくづく思う次第です。
私にも、結婚当時での「嫁姑」問題では、母と妻との間に挟まり、いやというほど苦い経験がありますが、・・・
お話しする機会があれば・・・その時に・・・
丁度、私がyokoさまにコメントを作成中と重なったようです。
お身体にお気をつけられ、お仕事頑張ってください!
私も明日から「宅配」が待っております。
安全運転で頑張ります。

少し長たらしくなってしまい申し訳ございません。


投稿: 一章 | 2018年7月 1日 (日) 15時06分

yokoさま
懐かしい曲の紹介をありがとうございます。
純情な青年でいらしたのですね。僕の胸に髪もふれんばかりとは積極的な女性?yoko様が一押したら発展があったやもやも知れませんね。

あこがれ様
切ないエピソードですね。空を駆ける夢が絶たれたのですね。のみならず相愛の彼女とも前歴の因縁で別れざるを得なかったのですね。民生同盟は私にとっても苦い思いでです。高校生の私はオルグされ一時期同盟員として勉学そっちのけで集会に参加しました。アメ帝などと洗脳され~。あこがれ様のそして彼女の当時の心情察して余りあります。
一章さま
亡夫は7人兄弟の末弟ながら姑と23年間転勤生活を共にしました。5人の強い娘の援軍を受け強い姑でした。間に入って苦しんだのは亡夫です。一章さまの当時のは心情忖度できます。しかし、今老いてわかるのは自分がいかに至らなかったかということです。若さというものは残酷です。
早くに 姑は末子の亡夫を彼の世に連れて行ってしまいました。毎日、責めを受けては涙を流しています。亡夫もどんなにつらい日々であったか、また姑に対しても今更心で詫びています。

投稿: りんご | 2018年7月 1日 (日) 19時03分

あこがれ様
大変な苦しみを経験されたのですね。この曲に魅かれる気持ちが分かる気がします。あこがれ様のお話から私が受験浪人中に出会ったN君のことを思い出しました。
N君とは何度か部屋で話したことがあります。話はいつも彼の好みの社会思想や政治思想の方に向いて行きました。私は読む本と言えば受験参考書程度で、かつ本を開いても直に眠ってしまう凡人でしたから、話はいつもN君の独壇場でした。
彼は言いました。「君は本当に何も知らないんだね、ヒヨコだね、フフフ・・・」
その時の彼の目線と口元の笑みが記憶に残りました。不愉快でした。イデオロギーが対立すると友情も愛も難しいですね。
私は、N君はそんなことばかり考えていて受験は大丈夫なのかいな、と思っていたのですが、後年聞くところによると有名大学の医学部に進んだそうでした。驚きました。頭、良かったんだ。

一章様
一章様の電算機に関わるお仕事、楽しく拝見いたしました。まさに私が経験した仕事とも重なるところが多いです。1970年代はコンピューター社会の黎明期ともいわれていますね。計算センターや企業のコンピュータ室がタケノコの芽のように生まれましたね。多くの若者が、オペレータ、プログラマー、キーパンチャーとしての職が得られたと思います。私もそうでした。でも今ではもはや化石の職業でしょうか。この社会の流れの中で学校を出てそのまま職が得られたことに感謝せざるを得ません。ふと思いついて1972年(オペレーター)、1973年(派遣プログラマー)の私の出来事についてのうた物語への投稿をみてみました。計12本でした。電算機業界の端っこ(底辺?)で蠢いていた若者の化石ですね。もしその投稿に遭遇しましたら”馬鹿なやつ”、とお笑いください。

りんご様
応援ありがとうございます。私も常々”一押し”できるような強い男でありたいとは思っているのですが、生来の気の弱さから常に”一番に退く”という習性が身についてしまいました。

派遣と言う仕事は悲しいですね。目の前に沢山の若くて美しい女性がいるにも関わらず、”恋”とか”結婚”とかの考えは全く私の頭をよぎりませんでした。

派遣の一年も終わりに近づきますと私の会社からは、もう一年続けて使ってもらえないか、との伺いが来ますし、銀行側の気持を探ると”もう結構”という様子です。その頃には、私の気持ちは、もうサラリーマンは止めたい、と固まっていて、次なる職探しも始めていました。「山の吊橋」で一寸コメントしました通りです。(山の中でヤギを飼って炭焼きをして暮らしたい)

今考えてみますと、この”さよならをするために”の曲は銀行を去るに当たっての当時の私の気持ちにぴったりであるように思えます。職場の女子行員はスクリーンに映る蜃気楼だったのではないかのように思えます。

投稿: yoko | 2018年7月 5日 (木) 00時40分

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