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三百六十五夜

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:西條八十、作曲:古賀政男、唄:霧島昇・松原操

(男)
 みどりの風に おくれ毛が
 やさしくゆれた 恋の夜
 初めて逢(お)うた あの夜の君が
 今は生命(いのち)を 賭ける君

(女)
 たそがれ窓に 浮かぶのは
 いとしき人の 旅すがた
 我ゆえ歩む 道頓堀の
 水の夕陽が 悲しかろ

(男)
 気づよく無理に 別れたが
 想い出の道 恋の街
 背広に残る 移り香(が)かなし
 雨の銀座を ひとりゆく

(男女)
 鈴蘭匂う 春の夜
 灯(ともしび)うるむ 秋の夜
 泣いた 三百六十五夜の
 愛の二人に 朝が来る

《蛇足》 昭和23年(1948)に公開された新東宝の同名映画の主題歌。映画は雑誌『ロマンス』に連載された小島政二郎の恋愛小説の映画化で、出演は上原謙、山根寿子、高峰秀子、堀雄二など。
 古賀メロディーの傑作の1つなのに、最近では知る人も少なくなりました。

 霧島昇と松原操は、『旅の夜風』をいっしょに歌ったのが縁となって結婚、『一杯のコーヒーから』など多くのヒットを飛ばしました。松原操は子育てをするため、この歌を最後に引退して、専業主婦となりました。

 2番の「道頓堀の」が「箱根の峠」となっているヴァージョンもあります。これは後年、美空ひばり主演で映画が作られたとき、その内容に合わせて「箱根の峠」と変えられたことによるようです。

(二木紘三)

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コメント

heartheart04カラオケ18番です。
今あるハモニカは姪子が買ってくれました、前奏から吹いて楽しんでます。姪子?可愛いですよ。
私が名づけの親ですもんね、幼稚園で保母をやってますが、既に教え子も中学校に言ってるとか、人生万歳ですね。

投稿: トクラテス | 2008年3月 2日 (日) 04時09分

歌詞がいいですね。
昨今の歌の「君」はまるで友達に対する「君」であって、まったく味もそっけもない。
この歌の中の「君」がどういうニュアンスなのか今の若い人
たちに理解できるのでしょうかねえ?

投稿: 周坊 | 2008年3月 5日 (水) 22時00分

  私はうかつにも、『三百六十五夜』という歌自体知らず、この歌が『うた物語』に載っていることも気がつきませんでした。お二人のコメントに接し、今回初めて聴いて良い歌であることを知りました。
 ときに、周坊様。お願いがあります。
 貴兄のお説に、私も同感です。しかし私は「団塊の世代」と一くくりに呼ばれている世代の一員です。この世代は若い頃は「フォークソング世代」でもありました。ですから、周坊様のおっしゃる、恋愛の対象としての「君」を、「友達に対する君化」した最初の世代だったのではないかと思います。
 私自身も、この歌のような「君のニュアンス」がどういうものなのか、いまひとつ解りかねるところがあります。しかし、それをしっかりとらえておくことは、意外と大切なことなのかもしれません。
 そこで、私と後の世代の人たちのために、その辺のところを、もう少しかみ砕いてご教示いただければありがたいのですが。
 お暇な時で結構ですから、よろしくお願い致します。
 

投稿: 大場光太郎 | 2008年3月10日 (月) 23時09分

大場光太郎様
「君」のニュアンスについて周坊様のお返事が遅れているようですので、僭越ながら私が愚見を述べさせていただきます。

 昭和40年代以降の歌謡曲・フォーク・ニューミュージック、J-popに出てくる「君」は、ほとんどが二人称で、相手を指す人称代名詞以上の意味はほとんどありません。相手への思いは、歌詞のほかの部分で示されます。
 したがって、「君」をきみ・キミと書いても、また歌によっては貴方・あなた・アンタ・おまえ・ユー・youなどと表記しても、意味は変わらないし、ニュアンスも大して違いません。
 たとえば「ゆかたの君はススキのかんざし」(吉田拓郎『旅の宿』)、「ぼくの髪が……君と同じに」(同『結婚しようよ』)、「きみは心の妻だから」(鶴岡雅義と東京ロマンチカ『きみは心の妻だから』)、「都会を舞う君は」(中村雅俊『心の色』など。

 いっぽう、戦前やその名残が色濃かった昭和20年代前半の恋歌に出てくる「君」は、三人称である場合がかなりあります。この場合の「君」は人称代名詞ではなく、普通名詞ですが、「君」を「あの人・あの方(彼または彼女)という意味で使っている歌が多いのです。
『旅の夜風』(霧島昇・ミス・コロンビア、昭和13年)、『高原の旅愁』(伊東久男、昭和15年)や『悲しき竹笛』(近江俊郎・奈良光枝、昭和21年)のように、「かの君」とあれば、すぐに三人称だとわかりますが、「かの」がついていなくても、「あの人・あの方」を示している歌が少なくありません。
 たとえば、「君故に永き人生を霜枯れて」(藤山一郎『影を慕いて』、昭和6年)、「今は生命を賭ける君」(霧島昇・松原操『三百六十五夜』、昭和23年)、「夜霧の駅に待つ君の」(竹山逸郎・藤原亮子『月よりの使者』、昭和24年)など。

 しかも、これらの歌の「君」には、「恋する・愛する・思慕する」といった意味が不可分に内包されています。すなわち、「恋い慕うあの方」を1語で表現したのが「君」なのです。
 もう1つ大きな特徴は、この「恋する・愛する・思慕する」には、「崇拝する」というニュアンスが色濃く含まれているということです。「好きなあの人」というレベルではなく、「神聖にして神秘なるひとを恋い慕う」といったニュアンスです。
『赤毛のアン』シリーズには、「彼は彼女の歩いた跡さえ拝みかねないほど彼女を崇拝していた」といった表現が何回か出てきますが、まあそういったニュアンスです。

 この意味・ニュアンスの『君』は、ほかの表記やほかの言葉に置き換えることができません。きみ・キミと書くと崇拝のニュアンスがなくなるし、おまえ・あんた・ユー・youにいたっては、意味まで変わってしまいます。
 あえて書き換えるなら、「方(かた)」がいちばん無難でしょう。
 上記の各歌でも、「君」がひらがなで印刷されている歌集もあるかもしれません。しかし、それは、日本語では正書法が確立していないからであって、歌詞全体の意味を考えれば漢字で書くべきものだということがわかるはずです。

 なお、戦前でも、『或る雨の午後』(ディック・ミネ、昭和13年)のように、二人称の『君』が使われている恋歌がいくつもあります。また、「君」が二人称とも三人称とも取れる歌も少なくありません。
 そういった歌でも、現代のラブソングに比べると、「君」に特別な思いの込められていることが感じ取れます。

 戦前と現代とのこうした違いは、おそらく、戦前は、今に比べて男女間の距離が遠かったことに由来しているのでしょう。戦前は、小学校以外は男女別学だったし、会社勤めをする女性もそう多くはありませんでした。
 男子・女子それぞれの実像を知る機会が少なかったため、心を寄せる人ができると、偶像化してしまう傾向があったようです。
 現代は幼稚園・保育園から大学まで共学だし、職場でも男女がいっしょに働いているので、異性の実像を知る機会も多くなります。その結果、恋するにしても、戦前のように「お慕い申し上げる」のではなく、「好きなんだ」「大好きだよ」といった感じの表現になるのでしょう。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2008年3月17日 (月) 02時14分

管理人 様
 私の愚問に対してお答えいただきまして、まことにありがとうございました。

 私は周坊様に上記質問を発した後、『何というつまらない質問をしたんだろう』と、後悔致しました。
 そもそも「微妙なニュアンス」というものは、口でも文字でも伝うることあたわざるもの。それはただ心で伝え、心で受け取るべきもの。これが、我が国古来から脈々と受け継がれてきた、民族の暗黙知だったのだろうと思います。それを私たち以降の世代は、何ごとも先ず口頭や文章による説明がないと納得できません。そして、何かというとすぐマニュアル、ガイドブック、説明書などに頼ります。
 私も含めたそれ以降の世代は、「微妙なニュアンス」を以心伝心的に受け取る感受性が鈍くなっているのではないだろうか。今回改めて痛感致しました。

 それにも関わりませず、二木先生には、見るに見かねられて、代わって真正面からお答えいただきました。
 まことに適切かつ卓越したご教示を賜り、さすがの愚か者の私も「君のニュアンス」について、余すところなく理解できたかなと思う次第です。先生のご教示は論旨明快でありまして、「近代日本歌謡史」中の「君」の例を自在に駆使され、個別具体的にご説明していただきました。先生の並々ならぬご造詣の深さに、改めて脱帽致しました。

 先生のお説をじっくり読ませていただきまして、私の拙ない解釈で読み取れますことは、同歌謡史の中での「君」に大きな変化が見られたのは、昭和40年代ーまさに私たちの青春期ーだったようであります。「歌は世につれ、世は歌につれ」。したがいまして、この時代は、社会全体の制度、システム自体が大きく方向転換、価値転換をした時代だったのではないか、とも考えられます。

 さらに私の拙ない理解で申せば、それ以前の「君」はおおむね三人称、したがって対象となる「君」は距離的にも心理的にも「遠い存在」。その分「君」にこめられた意味は、思慕する、崇拝するというような神聖化、神秘化された「深くて重い意味」となる。
 しかしそれ以降の「君」は二人称。対象となる「君」は他のいろいろな呼称に置き換え可能なほど、ぐっと身近な友達化、相対化した「近くて軽い存在」に変化してしまった。
 おおむね、このようなことでよろしいでしょうか。

 図らずも、この度先生にご教示賜り、私の今まで閉ざされていた頭脳回路にまた一つ水路が開かれた思いです。大変ありがとうございました。
 また私の『故郷を離るる歌』のすぐ後に、『夜汽車』のご提供を賜り、私も40年前のあの時の追体験をするような心持ちで、じっくり聴かせていただきました。重ね重ね、ありがとうございました。
 二木先生。何分出来の悪い門下生ではございますが、今後ともご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。

 また周坊様には、大変ご迷惑おかけ致しました。愚問といえども、純粋な疑問から出たもので、決して揚げ足取りのつもりはなかったこと、なにとぞご了承いただきたいと存じます。以後このような質問は致しません。
 貴兄のコメントは、短い中に含蓄が多いのです。どうぞ、これに懲りませず、今後ともコメントをお寄せくださいますようお願い申し上げます。     大場光太郎拝

投稿: 大場光太郎 | 2008年3月17日 (月) 19時27分

大場光太郎様
前略、普段なんとなく考えていた「君」について書きました。
しかも書きっ放しでその後本欄を久しく開くことを怠っておりましたところ、今日になって図らずも貴方様からご質問いただいていたことを知り、はて何とお答えすべきかと思案しつつ、ふと次のコメントに目をやりましたところ、二木先生のすばらしい解説を拝見して実はほっとしていると同時にその内容の完璧さに恐れ入っている次第です。
私が何かお答えしていたとすれば、貴方様もお書きになっているとおり『・・・したがって対象となる「君」は距離的にも心理的にも「遠い存在」。その分「君」にこめられた意味は、思慕する、崇拝するというような神聖化、神秘化された「深くて重い意味」となる。』というようにしか書けなかったと思います。
私の思いつきのようなコメントについて、お二人に深く考えていただけたことを感謝しております。

投稿: 周坊 | 2008年3月18日 (火) 21時57分

周坊 様
 
 早速おたよりいただき、まことにありがとうございます。
 貴兄には、常日頃はあまり深く考えもしない「君」について、じっくり考えさせてくれるきっかけを作っていただき、深く感謝申し上げます。
 時代が例えどう移り変わろうとも、軸足は『三百六十五夜』のような、「深くて重い意味の君」の方に置いておきたいものですね。
 周坊様。コメントまた読ませて下さい。
 それでは失礼致します。

投稿: 大場光太郎 | 2008年3月19日 (水) 00時34分

最近のコメントはヒートアップしていますね。件数も多くなりました。最近内容が高尚になり無学な私などよく分からない世界です。二木先生がこのサイトを立ち上げた理由は私が勝手に
推測するに歌それぞれが生まれたその時代の背景を的確にあぶりだし歌を通うじて後世に歴史として残す作業をしているのかなあと推測している次第です。我々は歌を聴き我々自身の人生を振り返る。そして歌を通うじてその時の自分を思い出す。
あの時オレはどん底だったとか、彼女に振られたとか、あの時人生の最高の時であったとか各人がそれぞれのその歌に対する
思いがあります。ある人は涙に咽び、ある人は小さかった時代を思い浮かべ先生のサイトを通うじて自分の世界に入るのです。二木先生には今後とも昭和の名曲をお願いいたします。
私はコメント欄が各人の議論の場になることは私自身好みません。その歌に対して各人の思いが述べられる場であって欲しいと思っています。今後このサイトがよりいっそう発展すろことを願い勝手論を言わせていただきました。


投稿: akichan | 2008年3月19日 (水) 22時02分

akichan 様
 おっしゃるとおり、多少問題のあるコメントが続きました。そこで、何人かの方に、歌と関係の薄いコメントをいくつか削除したり、修正したりするようをお願いしました。皆様、快く同意してくださったので、問題は減ったかと思います。
 しかし、深刻な争論にならないようなら、多少の脱線は大目に見ていただきたいと存じます。政治問題や社会問題の掲示板にようになったら困りますけれども……。

投稿: 管理人 | 2008年4月22日 (火) 12時14分

皆さんの「君」に対する論じ語るコメント興味深く読ませて頂きました。
二木先生は総てに詳しく、歌にまつわる解説も曲も無くてはならない癒しの一時を過ごさせて頂き感謝しています。
「三百六十五夜」の映画も歌も二十歳台に流行りました。
職場が同じでした故主人の初恋の思い出がある歌です。
私は初恋の相手ではありませんが、あの世に旅立っている二人の思い出の歌を聴かせて頂き青春を偲びました。

投稿: 香西 千鶴 | 2008年6月22日 (日) 23時03分

「君」について、皆様の詳細に分析されたコメントに付け加える事はありませんが、私は、少し違う角度で見てみました。

私は韓国語を習っていて、韓国の歌もいくつか歌えますが、恋愛の歌が多いのはどちらも同じです。その中に「ニム」という言葉が良く出てきます。意味は「様」が主意ですが、派生して「あなた、あなたさま」の意味でも使われます。日本と同じく、懐かしい歌に特に多いです。これを日本語訳す場合、私は「君」にします。ピッタリのニュアンスの言葉が韓国語にもあるんですよね。やっぱり、お慕い申し上げている目の前にいらっしゃらないかたへの呼びかけなんですね。

投稿: 吟二 | 2008年9月 7日 (日) 18時38分

みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜
・・・・・・・・・・・・・
こんな 素晴らしい 恋の詩があるんだ・・!といつも
思います。
・・・・・・・・・・・・
古賀先生が遠い昔テレビで言っていました。作詞家と
作曲家は武士の一騎打ちと同じ これでもか これでもか
と 討ちこんでくる・・・・・・・・・
正に この歌はその代表だと思っています。

投稿: | 2008年9月14日 (日) 20時51分

みどりの風におくれ毛が
 やさしくゆれた恋の夜

この言葉だけで、懐かしさがこみ上げてきます。私は80歳。昭和23年に営団地下鉄に入社。戦後の何にもない時代でした。浅草のデパートの屋上で、星空の下、コンクリートの床で靴底が減るのも厭わず、習いたてのダンスで、青春を楽しんだものです。
 やさしくゆれたおくれ毛に触れたかどうか、今では遥か彼方の想い出ですが、三百六十五夜が、歌い継がれていくことを願っております。

投稿: 井上 利昭 | 2009年11月16日 (月) 23時35分

本間千代子さんの歌と蒸気機関車の動画の絶妙な組み合わせを見て、虜になりました。

投稿: 妙義山のたぬき | 2011年12月23日 (金) 23時39分

 鈴をころがしたような声、とは実際にはどんな声をさすのかなと漠然と思っていましたが、youtubeで知った本間千代子の歌声(とくに高音部分)ではなかろうかと一人よがりに確信した次第。なかでも「三百六十五夜」がすばらしい。早速、投稿しようとこのコーナーを開くと「妙義山のたぬき」さんがすでに推薦してました。本間千代子のこの歌は何度でも繰り返し聞きたい、たぬきさんのいうとおり虜になる歌ですね。(なお私は画面のSLにはあまり興味はありません、歌だけです)   さてこのコーナーを開いてもうひとつ私が虜になったのが「君」をめぐる周坊さん、大場さん、管理人さんのお三方のやりとりです。いつもながらの《蛇足》という名の名解説、とくに今回は冴え渡る名刀が乱麻を断つが如しですね。レベルも高いですね。ことばのニュアンスという問題は往々にして以心伝心の分野に閉じ込めがちなんですが、そうはしないで論理的にまた多くの例証をあげ、かんでふくめるような、ていねい至極の解説でありました。終わり近くの、男女共学や女性の職場進出という時勢が男女お互いの偶像化を失わせて「お慕い申し上げます」から「好きです」に変わっていったのではないかという推論もたいへん説得力があります。文章はかくありたいですね。達意の文を書くことはいくつになっても難しいです。その点では自分は「たどりきていまだ山麓」だと思う一方、いいお手本から学んでいこうとも思った次第。ボケ防止のために、今風に言えば脳の活性化のために。いやあ「三百六十五夜」を検索してよかった!


投稿: 久保 稔 | 2012年9月18日 (火) 07時55分

命がけの恋を夢見ていた高校生の頃、万葉集の相聞歌にこれぞと思う歌を見つけました。「君なくば何そ身装はむ櫛笥なる黄楊のお櫛も取らむと思はず」君がいなければ髪を梳かす気にもならない。嗚呼何という乙女心か、そういう恋をしたいものだとふわふわと毎日を送っていました。命がけの恋などは私には有り得ないのだと自覚できないまま年を取ってしまいました。打算とあきらめ、人生は儚い・・それでもこの歌を聴くと胸に熱いものが込み上げてきます。幾つになっても恋心だけは失くさないでいたいものだと思います。

投稿: ハコベの花 | 2013年1月29日 (火) 00時24分

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