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神田川

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:喜多条忠、作曲:南こうせつ、唄:南こうせつとかぐや姫

1 あなたはもう 忘れたかしら
  赤い手拭い マフラーにして
  二人で行った 横丁の風呂屋
  一緒に出ようねって 言ったのに
  いつも私が 待たされた
  洗い髪が 芯まで冷えて
  小さな石鹸 カタカタ鳴った
  あなたは 私の体を抱いて
  冷たいねって 言ったのよ
  若かったあの頃 何も恐くなかった
  ただあなたのやさしさが 恐かった

2 あなたはもう 捨てたのかしら
  二十四色の クレパス買って
  あなたが描いた 私の似顔絵
  うまく描いてねって 言ったのに
  いつもちっとも 似てないの
  窓の下には 神田川
  三畳一間の 小さな下宿
  あなたは私の 指先見つめ
  悲しいかいって 訊いたのよ
  若かったあの頃 何も恐くなかった
  ただあなたのやさしさが 恐かった

《蛇足》 昭和40年代後半の同棲ブームに火をつけたのは、昭和47(1972)年11月から『漫画アクション』(双葉社)で連載が始まった上村一夫の劇画『同棲時代』でした。
 この人気に目をつけた松竹が、由美かおる・仲雅美主演で映画化し、由美かおるの絶品ヌードで評判になりました。

 『神田川』も、この劇画に刺激を受けて作られたようです。

 南こうせつ、伊勢正三、山田パンダの3人組が歌った『神田川』は、昭和48年の大ヒットとなり、それにより東宝で映画化されました。主演は関根恵子(現在高橋恵子)と草刈正雄。

 神田川は、井の頭池を水源とし、早稲田大学の北側・飯田橋・お茶の水を通って、やがて隅田川に注ぎます。その中流域には、学生相手の下宿が多く、昭和40年代以前には、この歌のように、狭い下宿で同棲していたカップルもかなりいたようです。
 50年代に入ると、高度成長とともに、学生の住宅事情もよくなってきたようですが。

 しかし、この歌で、「女より長風呂の男」というのはどうしょうか。「長風呂の男」からは、やさしいけれども優柔不断な男、というイメージしか浮かんでこないんですが……。

 この歌の制作過程をご存じらしい方から、次のようなメールをいただきました。
「作詞の喜多条忠さんは“烏の行水”といわれるほど早湯の方でしたが、湯から上がったあと、男湯の庭にある池で金魚を眺めているうち、時間を忘れてしまい、それで女性を外で待たせることになったそうです」

(二木紘三)

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コメント

金魚では、なくて鯉だと聞いたことがあります。

投稿: 松倉 千里 | 2007年8月26日 (日) 19時45分

若さ故の貧しさ・・・

遠く過ぎ去った青春への思い・・・

60代半ばを過ぎた小生は、この曲の一節一節を
涙をこらえて聴いています・・・

投稿: エスペロ | 2008年5月31日 (土) 20時13分

昭和48年2月、今の妻と結婚しました。
当時、新婚で入居した借家(戸建でした)は風呂がなく
二人で近所の風呂屋に毎晩通うのが日課でした。
「小さな石鹸カタカタ鳴った・・・」この歌の歌詞を聴く度に当時が思い出されます。
オイルショックのこの年は、長男が誕生し、新居に入居
、人生の三大事業を成し遂げた記念すべき年でした。

投稿: アキヒロ | 2010年5月22日 (土) 22時03分

子供のときに、歩いてすぐそばに神田川が流れていました。七夕の笹を流したりしました。この川を辺りでは子淀(小さな淀川の意味)と呼んでいました。今は地名も変わりましたが、私の生まれたその町は子淀町といいました。大きな橋は淀橋といいました。ちょっと北側に行くと川沿町という町でした。林扶美子の放浪記を読むと世に出て、落合に住むまでは川沿町に住んでいたようで、芙美子が疲れた足で私の実家の前の道を歩いていたと思うと感激します。今年還暦になる私は、二月に上行結腸と胆嚢をとり、その後の経過が悪く、20日で退院の予定が一月半の入院でした。2ヶ月の休職のあと復職を希望したら、退職させられました。まだまだ働かなければならないので、厳しい景気の中を職探しを始めました。林芙美子の放浪に共感します。再三の病気のとき、失職のとき、前にいただいた二木先生の励まし「歌でも歌って・・・」を思い出しています。

投稿: こうぞう | 2010年6月 1日 (火) 16時03分

この歌を聞くたびにいつも、寒空で風呂上がりの彼女を待たせるのはおかしいなあと思っていましたが、二木氏の解説でやっと理解できました。私はこの歌の素晴らしいところは、「若かったあの頃何も恐くなかった。ただあなたのやさしさが恐かった」のフレーズだと思います。実に含蓄のあるフレーズだと思います。

投稿: SK2 | 2011年6月29日 (水) 22時59分

この曲が流行した当時私は大学受験の浪人でした。その頃の神田川は悪臭を放つ汚泥の川でしたので、こんな川の淵に建つ下宿屋はさぞ安いだろうと想像しました。最近は大分きれいになり、魚も住むようになったようです。新宿区内の神田川が流れる場所にはかつて平川という大河が流れていて、下落合や目白台の急斜面はかつての平川が浸食した河岸と考えられます。この平川は幕府が置かれる前の江戸を分けていた豊嶋郡と荏原郡の境界となっていたとされています。豊嶋は豊島区という名に、荏原は品川区内の町名にその名を留めています。現在も新宿区西北部は神田川や妙正寺川をはさんで、北側が豊島台、南側が淀橋台と呼ばれる台地に分けられますが、こうぞうさんのお話では淀橋という橋があったのですね。淀橋の地名は淀橋市場など、新宿区内に多く残されています。現在の神田川の流れは浅いですが、大雨の際は氾濫の危険のある川で、高田馬場あたりは河川敷であったことが実感されます。

投稿: Yoshi | 2011年6月30日 (木) 09時22分

この歌がヒットしたのは高校3年生の時でした。
翌年東京の予備校に通うため住んだのは、高田馬場(当時は戸塚町)の三畳一間の木造の下宿。裏には神田川が流れていました。
まさに歌そのものの世界でしたが、彼女がいないところだけが違っていました。(笑)
大学への通学の関係上、1年でその下宿は出ましたが、初めての東京一人暮らし支えてくれた諸先輩の思い出が詰まった素晴らしい場所でした。
二十数年後、記憶を蘇らせながら妻とやっとのことで辿り着いたその下宿は立派なアパートに変わっていましたが、懐かしい大家さんの名前はそのままでした。
懐かしさでインターホンを押そうかと迷った挙句、結局は黙ってその場所を去りましたが、『青春』を確認できた満足感が残りました。

投稿: 流星 | 2011年12月21日 (水) 15時58分

yoshi様
流星様
まさに私と同世代ですね。この曲が流行った当時、私も高校三年生、受験勉強の真っ只中でした。
勉強に明け暮れる暗い日々の中、更に暗いこの曲をテープレコーダー(カセットではありませんでした)で何度も何度も聞いてたあの頃のことが懐かしく思い出されます。青春の1ページです。
「若かったあの頃何も恐くなかった ただあなたの優しさが恐かった」、心の琴線に触れる、本当にいい詩ですね。私もあと少しで還暦。若さを懐かしむ年代になった今、神田川を初めて聞いた若かりしあの頃とはまた別の感慨を覚えます。

投稿: 塞翁が馬 | 2012年6月 3日 (日) 11時23分

二宮清純さんと来多条忠さんの対談から
この詩の主人公は、女性なのか、男性なのかとよく聞かれるという。
喜多条氏によると、主人公は、女性も男性も一緒になっていて、書いた本人も「よくわからない」のだそうです。
『二宮:  この歌の主人公は女性と考えていいんでしょうか?
喜多条:いや、女性も男性も一緒になっていますね。よく、どっちの歌かと聴かれるんですけど、書いた本人もよくわかりません(笑)。』さらに衝撃的な発言がコレ ↓『僕が待たされたこともよくあるんですよ。彼女が髪を洗っていて時間がかかったときとか。“洗い髪が芯まで冷えて”という部分も女性のようですが、当時の僕は長髪だったので実体験でもあるわけです。』(喜多条氏)
えー!!横丁の風呂屋の外で、石鹸カタカタ鳴らして、洗い髪が芯まで冷えてたのは、男のほうだったのかーー!!

投稿: 海道 | 2012年6月30日 (土) 12時26分

この歌が流行っていたことは知りませんでした。当時は仕事一筋でした、「同棲時代」という映画のタイトルには反発していました。学生時代、社会人を通じて一人の恋人もいず、一度のデートもしていない私には大学生になった早々彼女と暮らし銭湯に仲良く通い、抱き合うなど別世界の話で、やっかみもあり、そんな自分への卑下もあったと思います。

それから数十年、この曲が好きになりました。物悲しさと、昔日の日々への郷愁が感じられ、心の琴線に触れるものがあります。

当時私は丸ノ内線の東高円寺に住んでいました。木造二階建てモルタル造りのアパートです。小さな道に面して奥行きが深く、通路を挟んで両側に6畳程度の部屋が並んでいました。通路の中ほどに裸電球が一つ灯っており、そこに共同のトイレがありました。昼なお暗い陰気なアパートでした。私の部屋は道に面しており家賃月9千円、4畳半の部屋でした。日割りにしますと日300円です。手が洗える程度の水回りがありました。道の向こうには小さな公園がありました。日差しの良い冬の日、葉の落ちた公園の木立を透かして、新宿の高層ビルを望むことができました。

アパートから少し歩くと地元の商店街がありました。小さな通りには飾り付けもしてあり、通りの中ほどに銭湯がありました。行きつけの料理屋ではお母さんと中学生の娘さんが働いていました。客やおかみさん、娘さん達の会話をそれとなく聞いているのも楽しみでした。下町の夕暮れの匂いを感じました。

ある日、アパートの入口にいた時、私のそばをサッと一迅の風のように駆け抜けた女性がいました。セーラー服姿の少女でした。中学生だったのでしょうか?高校生だったのでしょうか?わかりません。薄汚いアパートから出て行った、そのセーラー服があまりにもまばゆくて、「こんなところに・・・」と思って少女の後ろ姿を目で追っていましたら、その私の気持ちを見透かしたのか、「お婆さんと一緒に住んでいるんだよ・・・」と背後から男の人の声が聞こえました。そのアパートには半年間住みましたが、彼女を見かけたのはその一度だけでした。

それから40年近く過ぎ、今ではそのアパートもなく、銭湯もなく、商店街だった通りももう商店街としての趣はありません。唯一昔の記憶を確かめることのできる小さな公園に佇みますと、この曲のメロディと、その歌詞にある「横丁の風呂屋」、「三畳一間の 小さな下宿」が私の当時の日々と重なります。

投稿: yoko | 2014年9月28日 (日) 22時33分

昭和48年この歌が、毎日カーステレオから流れていた時、私は道ならぬ恋にどっぷりと、つかり悩みと苦しみと少しの快楽を得ていました。

41年経ちました。彼は昭和22年3月生まれです。多分、建築関係の仕事をしていると思います。神田川を聞く度にせつなくなります。T.O さん

これをみたら、二木紘三さんのブログに投稿してください。

まっています。K.Wより

投稿: Kです。 | 2014年12月 5日 (金) 00時39分

私の兄と義姉の青春はこの歌に似ていました。銭湯で風呂からあがる時兄が口笛を吹いて、女風呂の義姉に知らせていました。この歌の二人もそうしたらよかったです。この歌の続編と思われる「赤ちょうちん」の歌を聴くと、歌の二人に悲しい別れが待っていたのではと思われます。歌の女性は、二人の生活がこんなに美しい歌に描かれたことを知り、心を慰められたでしょうか。私は神田川のそばに住んでいた人を恋し、ふられました。彼女は愛し合っていた彼と「赤ちょうちん」の歌のような悲しい別れをし、田舎に帰ってしまいました。それから40年たっても神田川に来ると、20歳の彼女がことこと炊事をして彼を思っているように感じられます。

投稿: 加藤 | 2016年7月18日 (月) 00時54分

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