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川は流れる

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:横井 弘、作曲:桜田誠一、唄:仲宗根美樹

1 病葉(わくらば)を 今日も浮かべて
  街の谷 川は流れる
  ささやかな 望み破れて
  哀しみに 染まる瞳に
  黄昏(たそがれ)の 水のまぶしさ

2 思い出の 橋のたもとに
  錆びついた 夢のかずかず
  ある人は 心つめたく
  ある人は 好きで別れて
  吹き抜ける 風に泣いてる

3 ともし灯も 薄い谷間を
  ひとすじに 川は流れる
  人の世の 塵にまみれて
  なお生きる 水をみつめて
  嘆くまい 明日は明るく

《蛇足》 昭和36年(1961)リリース。

 この年は、私が田舎から出てきて大学に入った年です。東京で始まった生活は、その後初めて外国に行ったときより、もっと強いカルチャーショックがありました。

 横井弘の作詞では、『あざみの歌』と並ぶ傑作だと思います。お茶の水橋や聖橋(ひじりばし)から神田川の水面をじっと見つめている若い女性を見かけると、この歌を思い出します。

(二木紘三)

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コメント

昨日深夜、希望曲を投稿いたしましたところ、早速「川は流れる」を採用頂きまして、まことに有難うございました。
今日は、繰り返し繰り返し一日中聞いておりました。
東大病院に通う折、時に聖橋から川を見つめている若い女性に会うことがあります。
そして、この歌が思い起こされ、言い知れない思いが心をよぎります。
特に、すずかけやいちょうのわくらばが川面に浮かび流れゆく風景はこの歌の情景そのものであり、実感として迫ってきます。
そして、歌は生きている感ひとしおのものがあり、先生の解説とともに、心に深く刻まれて来ました。
誠にありがとうございました。
今日一日、心安らかに過ごすことができ、心から嬉しく、深く感謝申し上げております。まことにありがとうございました。

投稿: 篠崎信夫 | 2007年8月25日 (土) 02時40分

久しぶりに聴きました懐かしい

投稿: おさむ | 2007年9月11日 (火) 17時04分

なつかしいな

投稿: オサム | 2007年9月11日 (火) 17時06分

本当に懐かしく、思い出しながら聞いています。どれも思い出のある懐かしい曲でうれしいです。もうひとつ欲張りなお願いがあります。松山恵子の十九の浮草が聞きたいのですが、お願いします。一層の活躍を祈ります。ありがとう。

投稿: 大下 章 | 2007年10月25日 (木) 11時53分

 昭和44年に地方の大学を卒業したあとしばらく東京で働いていたことがありますが、ひとりで大都会の人ごみの中を歩きながら、「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の『間』にある。」という三木清の言葉とともに、よくこの曲を口ずさんでいたことをなつかしく思い出します。詩と曲が一体となったすばらしい名曲ですね。
横井弘の作詞の最高傑作のひとつだという二木先生の意見に私も全く同感です。
 当初私はこの詩について、大都会に生きる人々(とりわけ若い男女)の孤独や哀愁を見事に表現した詩だと思っていたのですが、やがてこの詩がこれほどまでに私達の胸に染み入るのは単にそれだけではないと思い至りました。三番の歌詞を口ずさんで行くうちに、孤独感や悲しみの表現の裡にもなにかしら静かな落ち着きと希望を感じられるのです。川は流れる、決して澱みはしないよ、この詩はそう語りかけているようです。私の大好きな歌です。

投稿: 熊野良敬 | 2008年1月 5日 (土) 22時57分

この曲は中学1年の時、帰省した今は亡き兄に連れて行ってもらった新宿のラセーヌという喫茶店で仲宗根美樹が歌っているのを聴きました。長野から行ったときはま蒸気機関車でした。

投稿: redfezer | 2008年4月 7日 (月) 20時56分

 意外にも、三島由紀夫が絶賛していた歌だそうです。
 三島といえば、美意識の権化のような人でした。その三島が絶賛したくらい、この歌の詞と曲は完璧だと思います。都会に生きる人の、孤独感、喪失感のようなものが、ひしひしと伝わってまいります。
 既に、篠崎様や熊野様が見事なコメントをしておられますから、この歌の内容について、これ以上述べることはありません。

 そこで、この歌と三島との関わりについて、更にー。
 三島事件後何ヶ月かして、有志による「偲ぶ会」が都内某所で執り行われました。仲宗根美樹さんも招かれて、『川は流れる』を三島への葬送の歌とする予定になっていたそうです。
 しかし、いざその段になると、彼女は感極まって、どうしても歌うことが出来ませんでした。近くにいた主催の一人が、「いい。もういい。お前さんがこの場に、そうして立ってくれただけでいいんだ。」と言って、慰めてくれたそうです。

 皆様は、今なお三島への思いは複雑なものがおありでしょうが。
(一方では「平和憲法」に触れ、他方では「三島」を語る。矛盾しているようですが、私の中ではそれぞれ収まるべきところに、矛盾なくきちんと収まっております。私は物事を「右か左か」で捉えてはおりません。なるべく、物事を幅広く、ニュートラル(中立)な視点で見ようと心がけております。)

    三島死してより予言者の不在かな  (拙句)

投稿: 大場光太郎 | 2008年4月21日 (月) 18時13分

今67歳ですが,1963(昭和38年)に丸の内の都庁の近くの日石ビルにあった会社に入り仙台名古屋等支店や子会社のドサ廻りして1978(昭和53年)に駿河台下の小川町にある関連会社に出されて毎日船橋にある借り上げ社宅から通いました。御茶ノ水駅のホームから見える下の神田川には鯉が泳いでいたり平べったい船が通ったりしていました。駅周辺の学生街はいつも人でいっぱいでした。当時を思い出して懐かしくなりました。有り難う御座います。
  旅人よ行きてラケダイモンの人々に告げよ 我等命を守りて彼の地に倒れたりと ローマ人の手紙より
  拙者の好きな言葉です。 汗顔恐々

投稿: 年金霞喰浪人 | 2008年5月20日 (火) 18時10分

私の中で歌謡曲といえばこの曲、我が家にテレビがきて初めての歌がこの曲でした。

投稿: 白川賀博 | 2008年6月23日 (月) 04時08分

私73歳。歌は下手です。同窓会では酔った勢いで時々歌います。私が歌っている時、大抵はみんな知らん顔です。この前、「川は流れる」を歌いました。そうしたら、女性の皆さん(当然皆おばあさん)が一緒に合唱してくれました。感激でした。

投稿: 野瀬富夫 | 2008年7月25日 (金) 22時10分

中宗根美樹、舟木、小百合この3人は同級生のように思います。いまだにこの歌には馴染めません。それは歌い方が独特
だからです。

投稿: M.U | 2008年7月26日 (土) 15時05分

有り難うございます。いつも楽しませていただいております。

 私がまだ小学校の低学年で、この歌が毎日のように村営の有線放送から流れていたころ、病弱でいつも床に付いていた祖母が亡くなりました。
初めての家族の死であったために、子供心に強烈な記憶として残っております。
まだ幼かった私にとって、この歌詞の深い意味など分かりようもありませんでしたが、
見近な家族をなくした少年の心にも、美しい言葉で表現されたこの歌の哀しみが伝わり、今も歌詞の一言一言が鮮明に記憶の中に残っています。

投稿: 田中 勝三 | 2008年8月 5日 (火) 22時02分

今の私の一番好きな曲です。辛い事があってもこの曲を聴くと心が落ち着いて、また明日から頑張ろうって思います。

投稿: 桜子 | 2008年9月 7日 (日) 22時36分

2番の「ある人は 心つめたく ある人は 好きで別れて」のところが当時を思い出させます。

イントロのメロディーも好きで、着メロに自分で編集して入れていたこともありましたが、携帯を変えたらその機能がなくなり残念です。

元々はB面の曲でしたね。パンチのある歌を歌っていて、その流れの「雨の花園」がA面でした。当時はそこそこヒットしたと思いますが、今ではほとんど聞くことはないですね。
それも聞いてみたいです。

投稿: 卓 山 | 2008年11月11日 (火) 18時55分

皆様の様な高尚な事は書けませんが、素朴な思いでを・・

この歌は丁度高校1年のころ流行った唄です。
田舎から出てきて木曽川のほとりの小さな町の高校に通っていました。

ある日の日曜日、木曽川の中州の砂の上で泣いている女の子を見かけました。
年は自分と同じくらいだった様な記憶です。失恋したのでしょうか?。あるいは仕事の辛さから
だったのでしょうか。この唄を聴くと泣いていたその子の背中を思い出します。
また、今は幸せになっているかと・・
(時期的には病葉の季節ではなかったかも)

当時、ここらあたりには大小さまざまな紡績工場があったのでそこの女工さんかと思います。
(違っていたらご免なさい)
時期的には「ああ、上野駅」の集団就職にも通じる人たちで主に九州方面の方達です。

(女工さん・・もう30年ほど前に死語となっていますね。七夕や盆踊りの季節、男性の数の2、3倍の
の女性で、「見渡す限り女性ばっか」と初めて七夕を見た時そう思いました)

投稿: グ・グロリア | 2008年11月21日 (金) 22時42分

小学校3、4年生の頃有線放送から毎日夕方になると流れてきたこの歌は、学校から帰って冷たい手を炬燵の中で温めながら聞いていた気がします。母と一緒に口ずさんだこともあります。そのあと少年少女向けラジオドラマを聞いていました。病葉とは何か、祖父にでも聞いたのでしょうか、その年齢で知っていました。家のそばの小川を流れる紅葉を連想しつつ夕暮れのさみしさの中、切ないような気がしつつ聞いていました。仲宗根さんのハスキーがかった声をもう一度聞きたいです。
お茶の水の聖橋からの流れを唄った歌であるとは知りませんでした。今度のぞいてみます。

投稿: 藻井 | 2008年11月22日 (土) 18時19分

仲宗根美樹・舟木・吉永小百合と私は同級です。この歌は、都会の川に似合いますね。今住んでいるところの川は余にも水量が豊でキレイなので、ずっと忘れていましたが・・・この歌詞と歌声に引かれ、愛唱した若いころがよみがえりました。

投稿: Bianca | 2008年11月23日 (日) 18時43分

私は仲宗根より1日前に産まれました。伊豆の踊子、潮騒の
ヒロイン役は私達年代のマドンナでした。作者は不幸ななくなり方でした。この唄はジャパニーズ・マリヤ・カラスの晩年の歌い方に似ているので、青春を謳歌している者として馴染めません。

投稿: 海道 | 2008年11月25日 (火) 12時26分

中学二年のとき流行った曲です。この曲を思うと、その頃のことを懐かしく思い出します。当時は、決して大好きではなかったのですが、何故か、曲も詩も素晴らしい事に気がつきました。仲宗根美樹の歌うスケールは、流行歌というイメージを遥かに越えています。傑作と言う意外の形容はありません。

投稿: ゆうさん | 2009年2月27日 (金) 20時27分

台灣からのメ-セジで。
中1頃見だ映画、本當になつかしいうだ。
主役は桑野美雪と仲宗根美樹でしようね!
        thanks anyway!

投稿: 鐘 祥譽 | 2009年9月 4日 (金) 21時58分

この歌を聞くと沖縄から初めての歌手誕生ということで紅白に出てましたね 高度成長期の歌ですけど この当時は哀愁に満ちた歌ばかりでしたね。日本人てやはりこういう歌がいちばん心にしみます。もうこんな歌はでないでしょうね。

投稿: alude2500 | 2009年9月13日 (日) 19時41分

この当時、結婚を父に反対され間に入った母はオロオロ
するばかり・・・・仕方なく断念することにしましたが
会社から帰ってくると、机の上に一枚のメモ用紙。
それは「川は流れる」の歌詞でした。
CDはおろかテープも無い時代で、母はラジオから流れてくるこの歌を聴きながら、書き取ったものでした。
何回聞いたことだったのか・・・・・
2番の「・・・好きでわかれて・・・」と3番が私に対する慰めと励ましの気持ちを、この歌に託したのだろうと。
結局最後は父も折れて3年後の昭和39年やっと結婚。
母も昨年13回忌が過ぎました。
ほろ苦くも思い出の深い一曲です。

投稿: 上山信夫 | 2009年12月 8日 (火) 18時44分

今晩はお邪魔します。
この歌「川は流れる」には、思い出も無く縁もありませんが、
何故か?この歌に惹かれます。
テレビで中曽根美樹さんが歌っていましたが、いつまでも印象に残っています。
歌詞でしょうか?曲でしょうか?美樹さんの歌い方でしょうか?総てが心に残っています。

投稿: ちづる | 2010年3月 4日 (木) 21時53分

大学がお茶の水でしたから、お話し身にしみます。悲しい歌ですね。昭和37年頃、向ヶ丘遊園地でヘリコプターで降りた中曽根美紀さんのこの歌を聞きました。48年前です。母と一緒でした。時間がおありの時に教えて頂きたいのですが「ドナウ川の漣」の歌詞で「夕べとなれば美しい ドナウの波を分けゆく 我が乗る船は 静かに ドナウの・・・」と言うものです。ネットで調べると別の歌詞が載っております。すみませんがお願い致します。昨年、居合の稽古でレーゲンスブルクへ行った折り、ドナウ川をみてなにか思い出しました。

投稿: 名島 政雄 | 2010年3月16日 (火) 21時07分

大学がお茶の水でしたから、貴兄のお話し身にしみます。昭和37年、向ヶ丘遊園地でヘリから降りる中曽根美紀さんをみて、聞きました。一日署長?さんだったのです。悲しい旋律ですね。
 教えて頂きたいことがあるのですが「ドナウ川の漣」歌詞の事です。
 私の覚えているのは「夕べとなれば美しい ドナウの波を分けゆく」
「我が乗る船は 静かに ・・・」というものですがネットで調べると違うのです。居合の稽古で、昨年レーゲンスブルクへ行きまして、ドナウをみて何故か思い出しましたので。

投稿: 名島 政雄 | 2010年3月16日 (火) 21時22分

堀内敬三作詞の「ドナウ川のさざなみ」の歌詞ですか?
歌詞の書き込みはどうか解らないので、
アドレスが解れば良いのですが・・

「・・うすあかり」「やまはもやに・・」「よふけとなれば・・」

投稿: なち | 2010年3月16日 (火) 22時51分

みなさん御茶ノ水の駅の橋の上から見た神田川のイメージなんですね。
私も御茶ノ水駅付近や神田川では、遅い青春時代を思い出します。
あのころ本郷街道には、まだ都電が走っていましたね。
私の場合、この歌をはじめて知ったのは
昭和37年札幌で創成川のほとりを歩いたときでした。

投稿: みやもと | 2010年4月26日 (月) 21時32分

この曲の投稿欄にて、redfezerさん私も当時集団就職で北海道から、上京して18歳の時新宿ラセーヌで中曽根美樹さんを見ました。今でも忘れない大好きな曲なんでCDでないかと探しています。

投稿: かすみがうら | 2010年4月29日 (木) 12時38分

「なち」様、3/16に投稿させて頂いた名島政雄です。すぐにお教え頂いたのに、この欄を見ませんでした。申し訳なく思います。あれから、居合の昇段審査で京都へ三回も出かけて居りましたので、すみません。
 私はこのサイトを心寂しいときに見るのだろうかと思えてなりません。月見草の歌を聴きたくなるときのように。それにしても、みやもとさま、かすみがうらさま、同世代なのでしょうか、懐かしいですね。お幸せに。

投稿: 名島 政雄 | 2010年6月22日 (火) 22時58分

数週間前から、勝手に、おじゃまし、拝聴し、
挨拶もせず、失礼しています。
すばらしさに感服すると同時に、過ぎた昔を思い出し、感謝しています。
さて、
昭和36年3月、私は、博多をあとにし、京都での大学生生活が始まりました。
百万辺近傍に下宿しました!。
親元を離れ、孤独の人生を歩ゆみはじめました!。
あまりの寂しさに、学生会館で、ちっちゃいラジオを買いました。
下宿に帰り、スイッチをいれたら、
最初に聞こえてきた歌が、この曲、川は流れる でした!。
その時メモした歌詞、今も持っています。
(もう、ボロボロです)
孤独に耐えられなくなると、
よく、鴨川のほとりまで歩き、口ずさみました!。
忘れられぬ一曲です。

投稿: 寂心 | 2010年11月 9日 (火) 21時19分

 博多から京都へ遊学されて百万遍近傍で色々な思い出を作られた経験など、東戎には羨ましい限りです。
 ところで、百万遍に程近い加茂大橋と、管理人様ほか数人の投稿子様が採り上げた神田川に架かる御茶ノ水橋や聖橋とでは大分様子が異なると思います。神田川は川幅も遥かに狭く、橋の上から川面全体を俯瞰できます。河口までの距離も短く、東京湾の干満の影響も受けて、水の流れも緩やか、従って水に浮かぶ木の葉も力尽きて静かに流されて行くような感じなのに対して、鴨(加茂)川では落ち葉も踊りながら流れて行くようではないでしょうか。
 鴨川の土手の内側の河川敷では、学生さんなどがトランペットやフルートなどを練習しているのを時折り見かけますが、鴨川は意外と暴れ川だった過去もあり、病葉と鴨の流れとは、私の頭の中ではちょっと結びづきにくい感じです。rutnmy

投稿: 槃独の呟き | 2010年11月11日 (木) 16時27分

槃独の呟き様
コメント、ありがとうございます。
私も、就職後、御茶ノ水橋や聖橋、何度か訪れる機会がございました。
この歌のかもしだす雰囲気からすると、
イメージ的には、御茶ノ水橋や聖橋の方ではないかなとおもいます。
ただ、右も左もわからぬ見知らぬ町へ来てしまって、
今出川通りを歩きつつ、歩道に落ちてた木の葉を拾いつつ、
鴨川へ着き、右折して高野川との交点、デルタ地帯
のとあるポイントで、拾ってきた落ち葉を、一枚づつ、
川へ流しては、口ずさんだ歌です!。

その後、レコードを買ったんですね~!。

見てみると、A面は、雨の花園、
B面が、川は流れる なんですね。
1961. 300円と記載されています。

今となっては、演奏できるアナログプレーヤーがない為、
雨の花園、曲を口ずさむ事はできません。

蛇足ですが、京都の思い出としては、
当時、出町柳に柳月堂というクラッシクの喫茶店があり、よく通いました。
百万辺近辺では、交差点の北東には、古本屋、骨董屋がありました。
東大路をちょっと上がった所に銭湯がありました。
(電気風呂というのを、初めて経験した所です)
すぐ近くには、吉田山があり、勉強に疲れると行ったものです。

どれも、これも、瞼を閉じれば思い出す青春の一頁です。


投稿: 寂心 | 2010年11月11日 (木) 20時28分

寂心さん
>百万遍に程近い加茂大橋と、管理人様ほか数人の投稿子様が採り上げた神田川に架かる御茶ノ水橋や聖橋とでは大分様子が異なると思います。
>神田川は川幅も遥かに狭く、橋の上から川面全体を俯瞰できます。

私は神田川の船下りをする機会があり、隅田川の合流地点まで船乗りができました。
それから芭蕉像を見て小名木川に入るという貴重な体験もしました。

鴨川は大きいですね。
鴨川は桂川に合流し
琵琶湖からの宇治川に木津川と桂川が合流して淀川となります。

私にとっては、この歌の川は何でもいいのです。
町の中を流れる川を見て思いにふける。
札幌創成川なんて小川です。そして、今はなくなりました。自動車道路になって、形だけ川を残してます。

釧路川でもいいし信濃川でもいいし目黒川でもいいと思います。
目の前に病葉を浮かべた川なら。

投稿: みやもと | 2010年11月11日 (木) 20時43分

この歌を聞くと大阪で定時制高校に通ってたことを思い出します。

当時住んでた所も通ってた高校も大阪市の中心で近くに東横堀側という運河(よく阪神ファンが飛び込む道頓堀川にも繋がっています)があって雰囲気は神田川とよくにていました。

都会の川で汚れている。病葉も時にはゴミまで流れていると。ただ一つ違う事はその川幅ですね。東横堀川は神田川ほどの川幅はありませんでした。

みやもとさんはどんな川でも良いということですが、私はやはり都会の汚い川がこの曲には似合うと思います。

投稿: 源間 | 2011年6月11日 (土) 22時08分

この歌を聴くたびに吉川英治「宮本武蔵」の名場面を思い出します。武者修行中の武蔵がやっとお通の気持ちを受け入れ新免村に帰って夫婦になる約束をし、京都五条大橋(?)で待つように約束をする。その日の朝、お通は、はやる心を抑えて橋で待ち続けるがついに武蔵は現れない。ふと橋のたもと(欄干?)をみると、武蔵の伝言が彫ってある。「ゆるしてたも、ゆるしてたも」と、、、。「思い出の橋のたもとに錆びついた夢のかずかず、ある人は好きで別れて吹き抜ける風に泣いてる」

投稿: SK2 | 2011年8月 2日 (火) 21時04分

懐かしい曲のアップありがとうございます。
この曲の発表当時、小学校2年の洟垂れ小僧でした。
独特の旋律が耳に残りずっと記憶にあリました。
youチューブに吉永小百合の”愛と死をみつめて”がアップされ、あらためてこの歌をしみじみと味わうことができました。
肉腫に冒され病院の屋上で浜田光夫と斉唱する姿のなんとうつくしいことか...。
従容と死を受け入れてゆく姿は黄昏時の空気とともに
これからも僕自分が携えてゆくものだと思いました。

投稿: 小川 肇 | 2011年8月13日 (土) 13時33分

久々に聴いています

懐かしいですね

投稿: sion | 2012年3月23日 (金) 06時31分

 「川は流れる」は心にしみる曲です。今、聞きなおしてみれば、歌謡曲の範疇をこえた哲学的な歌でもありますね。妄想の多い私としては「ゆく水の流れはたえずして、しかももとの水にあらず」の方丈記の雰囲気や「煩悩即菩提」の仏教の世界をもうかがわせる歌詞です。歌詞の3番「人の世の塵にまみれて生きる」は気高さすら感じます。
 はじめてこの歌を聞いたのは小学校6年頃、哀しそうなメロディのわりに仲宗根美樹が声量豊かに巻き舌調で歌っているのが印象的でした。この歌が人生を川にたとえているとはうぶな小学生ゆえ知るよしもありません。「川は流れる、当たり前やんか、流れない川なんかないで、それは池やろ湖やろ」と関西人特有のツッコミをいれたりしました。先日この投稿欄で大場さんという方から三島由紀夫がこの歌を高く評価していたことを教えられ、へえーとしばらく考えこみました。大学生の時ニュースで聞いた彼の衝撃的な死も思い出したからです。ある意味、三島が憂慮したとおりにこの国は危機的な方向にすすんでいるような気もします。ともかく三島がこの歌を絶賛したのは、なんとなくわかるような気がします。
 仲宗根美樹さんにはそんな理屈っぽい話はなしで、あのハスキーボイスでまたこの歌をうたってほしいです。巻き舌で。

投稿: 久保 稔 | 2012年8月11日 (土) 19時27分

「人の世の無常観」という深い内容もさることながら、全歌詞が完璧なまでに「五、七調」に整えられている気持ち良さがあります。七の部分も全て「三・四」で律しています。 曲の方を見てみると、1聯をAとすると、2.3.4聯はB,C,D,で最後の5聯がまたAというふうに組み立てられています。
最初と最後に同じAを持って来て、半終止調にすることで不安定さを創り、「輪廻」にも似た曲調に仕上げているようなきがしますが・・・。
これほど、歌詞と曲がガッチリと相乗効果を成している歌もそう滅多にあるものじゃないと思います。仲宗根美樹の歌い方もネットリとまろやかで良かったですね。概してお口の大きい人は歌がうまいのかもしれません。

投稿: かせい | 2012年8月12日 (日) 01時04分

作詞の徹底したリ作りに三島の美学が呼応したのでは…。久保さんと4年前に書き込まれた大場光太郎さんに触発されて、そうフット思いました。メロディーや歌手の好みは美学と関係ないように思います。ただ三島は、かせいさんの表現`ネットリ`とした歌唱とそのメロディーにウットリと惚れたのかも? ネットリにやや近い美輪明宏、この麗人たる主題は作家三島モチーフの一つでしたから。

三島が市ヶ谷駐屯地バルコニーで短い演説をしている最中、それを緊急実況するラジオを聞いていました。京橋クライアントの打ち合わせを終え、高速4号線の四谷あたりを走っている時で、正午頃だったと記憶しています。右手向うの自衛隊建物が迫ってくるような臨場感がありましたね。目白の事務所に帰ると、同僚全員が事件の成り行きに興奮して仕事どころでありません。昭和45年11月25日でした、作家は享年45才で、その数字も重なり、40年余前のこの1日がを昨日のように鮮明です。

現2012年も、川は流れ、憲法9条第2項は争点だと思います。この歌は意外な余韻を響かせ続けるのではないでしょうか。

投稿: TangoMinato | 2012年8月13日 (月) 05時02分

わたしはまだ40年間しか生きていませんが、NHK名曲アルバムの番組でこの曲を知って、自分がどうしようもなく打ちひしがれた時、この曲のように、明日を信じて行こうと、いやなことはすべて川に流そうと言う気持ちがめばえます。
抒情歌の哀愁ただようメロディーの数々。心に沁みます。

投稿: あきこ | 2012年12月 9日 (日) 17時00分

 ゆったりとした哀愁をおびたメロディー、そして深遠なる歌詞。『川は流れる』は二木先生のこのブログの全作品の中でも、私の好きな曲のベスト3に入ると思います。今日、2013年の元日の朝、心静かに聴きました。悲観もせず楽観もせずに、また今年も生きていこうと思いました。
 最後の歌詞が「明日は明るく」となっているのに、深いものを感じます。「明日も明るく」では説教くさくなってしまいます。
 この曲を聴くと「仁者は山に住み、大仁は市井(しせい)に住む」ということばを思い出します。仁者を超える大仁、すなわち真にすぐれた人は、ふつうに町に住んで、人々の生活をあたたかく見つめていると思います。 第一、世間から離れて山奥に庵を結ぶのにはお金がかかります。道楽者の遊びという一面がありますよね。

投稿: 秋山 小兵衛 | 2013年1月 1日 (火) 14時25分

「川は流れる」久し振りに聞きました、懐かしいです。
確か、ABCラジオの『ABCホームソング』から生まれた曲だと記憶しています。
関西育ちの私にとって『ABCホームソング』は、青春時代の思い出が一杯詰まった宝箱のような番組でした。
二木先生を始めとして、東京の神田川にかかるお茶の水橋や聖橋をイメージされる方が多いようですが、私にとっては、大阪中之島周辺の堂島川や土佐堀川にかかる大江橋や淀屋橋のイメージでしょうか。

一番、二番の歌詞で、小さな夢や希望、淡い恋さえも失くした、若き乙女(?)が、悲しみにくれながら川面を眺めている情景を思い浮かべます。
しかし、三番の歌詞で、人生色々あっても川は澱みなく流れている、小さなことは忘れて希望を持って明るく生きて行こうと結んでいます。

抒情歌、哀愁歌であると共に、応援歌にもなっています。

投稿: nonnta | 2013年1月 6日 (日) 15時47分

「川は流れる」はデビューの時から印象に残っています。今、聞き直して涙が出てしまいました。歌詞、曲、唄とも名曲です。
 三島由紀夫について言えば、彼の本音は「美しい星」「命売ります」などの小品に出ていると思います。そこでの三島は、孤独にふるえながら懸命に耐えています。「川は流れる」に強く共感するのもよく分かります。

投稿: 細谷暁夫 | 2013年3月27日 (水) 15時38分

私にとっては悲しい思い出の歌です。17歳、理由も良く分からずに、高校を中退、悔しさと厭世観で自暴自棄となり、飲めない酒と一緒に、ブロバリンを一気に呷って寝ましたが、気が付いて目を開けた時は、異臭を放つ「反吐」がベットの下に散乱していました。死に切れませんでした。50年以上経っても引き摺っています。そんな当時にこの歌を良く聞きました。

投稿: 赤城山 | 2013年5月30日 (木) 14時21分

>三島死してより予言者の不在かな (大場光太郎さん)

>17才…死にきれませんでした
赤城山さん、半世紀ひきずられた思いを拝聴申し上げました。 
人の生 重ねし我も 古希○○○ です。 

17才の時、仲宗根美樹が歌っています。メロディー奏者ふたつぎさん、それに歌/詩と共に生きた思いをここに綴る皆さんと仲宗根自身、揃って三島生涯を20年余越えていらっしゃる。

仲宗根本人の歌をYouTubeで聞きました。それほど`ネットリ`でなく意外です。この歌唱方に、三島は惚れた。コーラスグループ・フォレスタならば、おそらく何も言わなかったでしょうね。

透き通るような文章作法に徹しつつ、祖国愛に燃えつきた作家がもし生き続けたならば、預言者で在りえたかどうか? 万人の見解があることでしょうが、2013年祖国・日本に対する彼の言辞を想像する興に駆られます。


投稿: minatoya | 2013年5月31日 (金) 08時01分

 終戦の八月。年配の皆様方には、いろいろな思いがあるでしょうね。

 京都に「戻り橋」という橋があります。
若い新妻なら決してして渡らなかったといいます。出戻りの身になるのをを恐れてです。
京都の多くの若者がこの橋を渡って、護国神社に行き、必勝祈願をしたそうです。その後、伏見の連隊本部まで行きました。戦死をとげ、二度と戻れなかった若者のくやしさを静かに思います。
「思い出の橋のたもとに錆びついた夢のかずかず」
夢のかずかずではなく、この場合、命のかずかずです。

投稿: 屋形船 | 2013年8月 4日 (日) 22時46分

伝法川と六軒屋川に挟まれた千鳥に生まれ、淀川でも遊び、船場島の内に勤めて親しんだ大阪の川、苦楽と共に涙を浮かべながら口ずさんできました。「病葉を水に浮かべて・・」、好きな歌の一つです。

投稿: 瑛之祐 | 2013年8月 8日 (木) 13時48分

川の街・大阪と病葉の思い出、戻り橋と若い兵隊、三島と関わらぬ皆さんの話をお聞きする時、何となく旋律が別に聞こえるような気がします。きっと音楽知らずの鈍感さが絡んでいるのでしょう…。

千利休の自害後、さらし首の場所が戻り橋のたもと。ぎょうさん物語があって「縁起のええの、覚え良しや」と叔母から聞きました。今は白い石造りの橋で、堀川の水はかみの元誓願寺のほうからは狭い急斜面を流れ落ち、戻り橋からしもへ向かって石畳散策路と共にゆっくり流れていきます。60年前、どぶ川だった。チンチン電車が北野を出て中立売通りを走り、堀川で南へ併走したような気がします。

兵隊さんが護国神社へ、、すぐ東の御所隣に護王神社がありますが、知恩院裏にも山科にも護国神社がありますから、ほんとにややこしい。堀川が流れるように、細部のしかしぼんやりとした記憶が懐かしく、メロディーにつられて浮かんでまいります。

投稿: minatoya | 2013年8月10日 (土) 05時13分

わくらばを、季節はずれの朽ち葉=病葉と知るまで、なんと救いのない、哀しい歌だろうと思っていました。病葉とは、緑なす樹々の、あまたの葉から、不幸に染まり、朽ち捨てられるよう選ばれてしまった、たまさかの葉のことでした。詞は、抗え得ない病葉に、身の不幸を嘆じ、振り返れば、不首尾に終わった思い出ばかり、そして、ゆく先の悲しみまでも、暗示させます。「お伽話なんて、起こらないのよ、」と。

夕暮れあとの都会の残照です。街の谷とは、この歌にそぐわないほど強い語感の言葉ですが、落ちる病葉を受けとめる都会の地形ですし、橋の鉄(かね)骨の錆に、塗り込まれた時間を写すのも都会的です。暗闇に、両側のビルのは夜の帳のように林立し、そこはかとなく洩れる、営みの薄明かりも、“数十年前の大都会の川筋(生きる時間)”と言うものを、見事に描いていると思います。

でも、彼女は暗い宿世を吹き抜ける、風に泣くだけではありません。遠く紛れていく病葉を遮る、黄昏の輝きを、心に通しています。「夢は楽しいのよ。」 と。
そして、聞く人に、「なんで、そうなるの?」 という、驚きのつぶやきで閉じられます。、、、

大場様、三島由紀夫は、この切ない憂いを、世界史に翻弄される日本と重ね合わせ、健気に生きる真心こもった手弱女(たおやめ)ぶりに、日本の源感情を偲ばれたのでしょう、、、と、エピソードを、お伺いいたしました。予備校帰りの山手線で、三島事件を知りました。駅に着くと人々がホームに飛び出し、ドアが閉まると、手に手にかざした号外に、満員近い車内の空気が、ピタリと動かなくなったのを憶えています。
篠崎様、御茶ノ水辺りには病院も多く、不幸の宣告を受け止めようと、橋に立留まれる方もおられたことでしょう。「どうして、私が?」、、、醸し出される病葉の想いも、今となれば納得の佇まいでした。生意気に失礼いたしました。

投稿: やくろう | 2013年9月12日 (木) 19時08分

この歌を聴くたびにタイムトラベラーになったような気になります。
一気に52年前に遡れます。
高校一年の私は町っ子のNさんに誘われて冬休みに総合商店でアルバイト。未だスーパーというものが存在せず、その店では本、文具、雑貨、化粧品と手広く商ってました。本の立ち読みはできるやら、レコード観賞はできるやら夢のような職場でした。更に店主は先祖代々の醤油醸造も兼ねており名士、旦那さまでした。ぼんぼんで優しく立ち読みなども見逃して偶にする雑談も高等遊民的な大らかな知的なものでした。Nさんに誘われて最寄りのそば屋で覚えた「中華そば」の味は生涯の思い出になりました。恥ずかしながら生まれて初めて食べました。今尚当時の姿を変えずにその店のラーメンの味は健在。マスコミにも取り上げられる程です。その美味しかったこと、アルバイトの期間中我慢できずに何度か通いました。お手当からチョロマカシテいたのでしょうね。貧しい弁当はそっと捨てていたのか記憶は定かでありません。小食だった私がラーメンと弁当を完食できたはずはない!加齢と共にその甘美な思い出に罪の意識が加わわるようになりました。貧しさを社会のせいと呪って恨みでいっぱいだった少女の私。拝啓16の貴女へと手紙を書きたくなります。(今が辛くとも挫けるんじゃないよ。貴女よりもともっと辛い境遇の子が沢山いるのよと)哀愁深いメロデイーと中曽根さんの長まつ毛が浮かんでは消えます。
正に川は流れる~心優しい店主は地方で初めてのスーパ-マーケットを経営。町が華やかになった頃私は結婚で余所の地に行きました。後年、上品なぼんぼん然とした店主は騙されて自死と聞きました。

投稿: りんご | 2015年4月 1日 (水) 19時01分

 この歌は、映画『愛と死を見つめて』の一場面で、ミコを演じた吉永小百合とマコを演じた浜田光男が共に歌っていたのが印象に残っています。実在のミコが入院していた旧阪大病院のそばの設定ですから、川は堂島川ということになります。ここは京都とともに私が学生生活を送った地の一つでもあります。
 ご存知の方も多いと思いますが、主人公の女子大生ミコは上顎から発生した癌を摘出するために片側の眼球を失っています。この歌を恋人とともに歌う時、どんな思いがミコに去来したのでしょうか。

投稿: Yoshi | 2015年4月 1日 (水) 22時36分

今日YouTubeで春日八郎歌唱の「川は流れる」を見つけたので
聴いてみました。 仲宗根美樹のハスキー・ネットリな唱法とは違う、春日のハイトーンの澄んだ「川は流れる」も淡々とした良い味が出てたような気がします。40歳代の頃のアルバム吹き込みでしょう。ややテンポの速い編曲になってますが、男性歌手のものは聴いた事がなかったので、堪能しました。
 名曲は歌唱力ある歌手が歌うと楽曲の持つ力が止めどなく広がって行く気がしますね。

投稿: かせい | 2015年4月18日 (土) 23時51分

私事で恐縮ですが46年前高校3年生の時、担任の実直で生真面目な溝脇先生の古典の授業はつまらなく何の記憶もないが、ただ一つ、ある日珍しく授業で脱線して、「この、病葉を今日も浮かべて街の谷川は流れるという歌は哀愁があって実にいいねえ」とおっしゃられたことだけは今でも覚えています。先生もとうにお亡くなりになって同級生も皆老いさらぼえてしまっているでしょうが、この歌だけは色あせず、今でも、そしてこれからも、燦然と歌い継がれるのでしょう、それこそ百年経っても。

投稿: SK2 | 2016年7月 9日 (土) 20時53分

当時田舎の大学生でした。従兄弟が中学の後輩で「わくらばをー」と歌っていたのを、意味が分かっているのだろうか。と思いながら聞いていました。確かに人生を観ている内容の歌詞だと思います。
仲宗根美樹の歌声を聞きたいです。

投稿: 今でも青春 | 2016年7月18日 (月) 19時40分

大阪の中之島を挟んで流れる二つの川、なんて呼ぶのかな、と思いグーグルで調べてみたのですが分かりません。川べりの町名から土佐堀と堂島川かな?と推測するのですがこれで良いのでしょうか。いま無性に橋の麓に立ってこの川の面をみつめてみたい気分です。

もう40数年前ですが、この川の近くのある銀行に出向していたとき、大学を卒業されたばかりの女性Kさんが入行され私の隣の席に座られました。物静かでしとやかで、私はきっとお嬢様なんだろなぁという印象を受けていました。普段は事務的な要件で二言三言の声を交わすだけの毎日でしたが、ある朝、通勤電車の中でばったり出会い、交わした彼女の言葉が不思議に記憶に残りました。「わたしの家ね・・・、お婆ちゃんが二人いるんですよ・・・」。

彼女が受け持った仕事がなかなかはかどっていないとき、先輩と私で残業して彼女を助けることになりました。先輩から数々の指摘を受けている中、彼女の目から大粒の涙が頬を流れ落ちているのを見ました。夜の8時近くになっていました。当時女性の深夜勤務は禁止されていましたので8時になると彼女は退勤しなければなりません。オフィスはもう先輩と彼女と私だけで閑散としています。

私はそのとき、今が彼女に声をかけるチャンスだと思っていました。帰宅する方角は同じです。乗る地下鉄の電車も同じです。オフィスにはもう誰もいません。「一緒に帰りませんか?」と言える最大のチャンスでした。その言葉がずっと私の喉元に引っかかっていました。が、ついに声に出すことはできませんでした。彼女が更衣室で私服に着替えている間に私は一人で先に帰りました。綺麗で美しいKさんでした。”僕なんかじゃ・・・”という自虐的な気持ちが強かったのです。

いま一度大阪であの川の面を見つめてみたいと思うのです。Kさん、今どうされているのかなぁ、などと思います。

投稿: yoko | 2016年7月19日 (火) 00時45分

皆様のコメントを最初から読まさせていただきました。改めて心に染みる歌なんだなぁと思いました。nonnta様とyoshi様が大阪の土佐堀と堂島川を挙げられていました。私の推測も当たっていました。大阪に思い出がある方がいてなんだか嬉しいです。

あの日私はいつもの地下鉄には乗らず大阪駅に向かって歩いて帰りました。Kさんへの気持ちを振り切りたかったのです。淀屋橋を渡って、大江橋を渡って、この歌を思いつくことなく通り過ごしました。今だったらきっと立ち止まって川の面を見つめるだろうと思います。きらきらと輝く都会のネオンの谷間で心もうつろに歩いていたことと思います。Kさんもきっと辛くて悲しい気持ちで帰られていたことでしょう。声も立てずに涙を流されていたKさんの横顔が思い出されます。

投稿: yoko | 2016年7月21日 (木) 09時13分

始めにyoko様
千載一遇のチャンスを棒に振ったのですね。
お声を欠ければ必ずや一組のカップル誕生となり得たであろうに。しかし、敢えてお声を欠けなかったがゆえに永遠の宝となって胸の小箱に納まったと思われます。時折、胸の小箱を開いては甘く切ない思い出に浸るのも悪くはないでしょう。ハコベ様の永遠の恋物語に共通します。


この曲を聴くやたちまち16歳  りんご
田舎の優等生が町の高校に進学して力量の差を思い知らされました。教科書と辞書のほか一切の参考書も虎の巻にも手が届きませんでした。いつしか教科書は学校に置き去り、鞄には常時図書館の本を入れていました。特に立原道造と太宰に傾倒。理解もままならないニイチェなども懐かしい。今で考えれば立派な不良少女。党員の中学担任に洗脳されており、自分の怠学を棚に上げ世の格差を恨みました。
時代は変わり、俊才ながら家に殉じ農を継いだ長兄、その息子は私の後輩となり、塾にもいかず◎大に現役合格。
高校の勉強を知らない兄は「勉強は学校でやれば十分だ。教科書以外は不要だ」の説を曲げず、参考書代のことで親子で取っ組み合いの喧嘩。ちょっとした「たけし君はあ~い」の様相。世間では◎大を目指す子女の多くは進学塾、家庭教師と縁が深いというのに!!自慢の子女の学ぶ◎門前で写真を撮ったりが一般的。しかし供に中卒の実家の兄夫婦は一度も息子の学ぶ東京に行くことはなかった。その兄も施設で寝たきり同然。兄にも進学の機会が与えられていたならと涙が止まりません。

投稿: りんご | 2016年7月21日 (木) 18時12分

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