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いつかある日

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


原詩:Roger Duplat、日本語詞:深田久弥、作曲:西前四郎

1 いつかある日 山で死んだら
  古い山の友よ 伝えてくれ

2 母親には 安らかだったと
  男らしく死んだと 父親には

3 伝えてくれ いとしい妻に
  俺が帰らなくても 生きて行けと

4 息子達に 俺の踏みあとが
  故郷(ふるさと)の岩山に 残っていると

5 友よ山に 小さなケルンを
  積んで墓にしてくれ ピッケル立てて

6 俺のケルン 美しいフェイスに
  朝の陽が輝く 広いテラス

7 友に贈る 俺のハンマー
  ピトンの歌声を 聞かせてくれ


《蛇足》
原詩の作者ロジェ・デュプラ
はフランスの登山家。1951年6月29日、ヒマラヤの高峰ナンダ・デヴィ(7817メートル)にアタック隊の隊長として登頂中、同僚とともに消息を絶ちました。享年30歳。

 デュプラは、遠征中いつも赤い表紙の手帳を持っており、それにいくつかの詩らしいものを書きつけていたそうで、この歌の原詩もそのうちの1つです。
 上の写真はデュプラがよく登ったフランスアルプスのエタンソンの岩壁です。

 日本語詞を作った深田久弥は、小説家で登山家。登山家のバイブル『日本百名山』の著者として知られます。

 作曲の西前四郎は英語教師で、関西登高会所属の登山家。
 1967年1月、西前を含む8人の国際登山隊は、北米大陸の最高峰・アラスカのマッキンレー
(イヌイットのことばではデナリ)の冬季初登頂を目指しました。途中で隊員の1人を失うという悪条件のなか、アーサー・ディビッドソンなど3人のアタック隊は登頂を敢行しました。2月28日に登頂に成功したもの、言語を絶する悪天候のため下山中に死の危険にさらされます。
 西前の属するサポート隊は3日間待ったものの、自分たちも遭難寸前になったため、やむをえず第2キャンプまで撤退しました。幸いアタック隊は、7日後にヘリコプターで救出されました。

 30年後、西前はその凄絶な登山の記憶を『冬のデナリ』という本にまとめました。
 平成8年
(1996)10月、西前は事故で亡くなりました。『冬のデナリ』が福音館書店から刊行されたのは、その翌月のことでした。(以上、日本山岳会刊『山』621号所載の記事より)

 6番のケルン(英cairn)は記念碑・墓標などとして積み上げた石、フェイス(英face)は急峻な平面状の岩壁、テラス(英terrace)は岩壁の途中にあるちょっとした広さの平らな部分、7番のピトン(仏piton)は岩壁の割れ目や氷雪に打ち込む釘で、ドイツ語のハーケン(Haken)と同じ。

 友人の高思明(大学教授―筆名)が原詩を正確に訳してくれたので、下に掲載します。
 なお、井上靖の小説『氷壁』のなかに、深田久弥の訳詞が載っています。上の日本語詞はそれを歌いやすくしたものです。

   Si un jour (原詩:Roger Duplat)

Si un jour je meurs dans la montagne
C’est à toi mon vieux camarade de cordée
Que j’adresse ce testament:

Va voir ma mère
Et dis-lui que je suis mort heureux
Que je n’ai pas pu souffrir puisque j’étais près d’elle
Dis à mon père que j’étais un homme
Dis à mon frère que c’est à lui que je passe maintenant le relais
Dis à ma femme que je lui souhaite de vivre sans moi
Comme j’ai vécu sans elle
A mes fils qu’ils retrouveront les traces de mes ongles
Dans la granit des Etançons.

Et toi, mon compagnon:
Prends mon piolet
Je ne veux pas que lui meure de honte
Emmène-le dans quelque belle face
Et cale-le là sur un petit cairn que tu n’auras fait rien pour lui
Loin de passage des foules
Dresse-le pour qu’il soit
L’aurore triomphante sur le glacier
Et le coucher sanglant derrière la crête.

Et pour toi, voici mon cadeau:
Prends mon marteau et que tes coups dans le protogine
Secouent mon cadavre de frissons de volupté
Fais tant de bruit dans la paroi et sur la crête
Va car je serai avec toi …

   もしもある日訳詞:高思明)

もしもある日、山で死ぬことがあったら
ザイルで結ばれあった古い登山仲間の君に
この遺言を託しておく

おふくろに会って伝えてほしい
おれが幸せに死んでいった、と
おふくろがいつも心の中にいたから
苦しむことはなかった、と
おやじには言ってくれ、
おれが一人前の男だった、と
弟には今こそバトンを渡すぞ、と
女房には、おれがいなくなっても生きていけ
おれが彼女なしで山で暮らしたように、と
息子たちにはエタンソン谷の花崗岩におれがつけた
ハーケンの跡をいつの日にかたどってくれ、と

そして君にもお願いがある
愛用のピッケルがむざむざ朽ち果てていくのはいやだ
登山ルートを外れた、どこかひと気のない
見晴らしのいい斜面を選んで
こいつのためだけに小さなケルンを積んで
そこに突き刺してやってくれ
こいつが氷壁に射す朝日の勢いに照り
山稜のかなたを真っ赤に染める夕日に映えるように

そして君にはおれのハンマーが形見だ
これをふるって花崗岩をたたき
岩壁に山稜に響きあう音で
おれの屍を喜びにうち震わせてくれ
さあ行け、おれはいつでも君と一緒だからな

(二木紘三)

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コメント

登山が趣味で、山では必ずこの歌を歌いました。山への敬虔な思いと友人家族への愛情哀感が切々とこみあげてきてとても大好きな歌です。

私はこの歌の作詞者がフランスのアルプス地方の登山家だということ、訳詞者が深田久弥だということは知ってました。でもそのフランス人がアルプスではなくヒマラヤで死んだこと、フランスの曲ではなく、日本人の登山家の曲だということは全く予想外でした。

山に命をかけた登山家達がかかわり合って出来た歌である故に一度聞いたら忘れがたく心に残るのでしょう。
これからはこの歌の作詞作曲訳詞者のことを思いながら歌うことが出来、以前にも増して心込めて歌えそうです。

色々教えて頂き心から感謝申し上げます。
千葉県在住 男 67歳 


余談ですが、深田久弥の詩に次のようなのがあります。

「山の茜を顧みて 一つの山を終わりけり 何の虜の我が心 早も急かるる次の山」

山に取り憑かれた男が夕焼けに染まった雄大な裾野を眺めながら無事下山し安堵している。そんな光景を想像しながら私も曲付けをしました。それを市内のソプラノ歌手がみんなの前で歌ってくれたときは大変感動しました。なんたって私が初めて作った鼻歌でしたから有頂天になったものです。

二木さん、もしお聞き頂けそうなら、お送りさせて頂きますが・・・?
貴方のような音楽家に聞いて頂ければ幸甚この上なしです。

投稿: 河野重利 | 2007年8月 9日 (木) 18時12分

いつかある日を聞くと、20代で黒部で遭難して亡くなったいとこのことを、思いだします。山で皆さんこの歌を歌ってしのんでくださったそうです。

投稿: 昔の少女 | 2008年5月25日 (日) 18時47分

若い頃、市電などで登山靴を履き横幅の張ったリュック(今は縦長でザックというようですが)を背負った山男などと乗り合わせると、時間もお金もなかった私は、羨望と嫉妬で「山に登る人間だけが特別だと言わんばかりの顔しやがって」と思ったものです。
リタイアして近くの山(山といっても1000米前後)に登るようになったとき、河野重利さんのコメントの深田久弥の詩のように下山の途中でもう次の山のことを考えていたことを思い出します。

投稿: 周坊 | 2008年5月26日 (月) 16時54分

このような曲がラインナップされていてますます「うた物語」に嵌まりそうです。
私も昔、山で少々ヒロイックな気分に浸り、口ずさんだものです。
今は作詞・深田久弥が定着しているようですが、1957年久弥が初訳したものは、文字通り訳詩で、それを1958年に作曲した西前さんが、曲をつけやすいように意訳したものです。
また、二木さんのご友人が原詩に忠実に訳されたように、久弥の訳詩も「もしかある日」だったのが、いつのまにか間違った「いつか或る日」に変わってしまいました。
これは「週刊・女性自身」に掲載されたとき、編集側で「いつか或る日」に改題したことが発端のようです。
掲載が投稿扱いで、西前さんには事後承認だったそうです。
これは山岳雑誌「岳人」01・9月号に掲載されているものからの引用です。

昭和50年代だったと思いますが、中沢厚子さんというフォークシンガーが歌っていましたね。

投稿: 風花爺さん | 2008年7月12日 (土) 16時54分

以前加藤登紀子さんのエッセイの中に藤本さんに最初あった時この歌を口ずさんでいた…と言うくだりがあり
この歌を知りました。
高校生だったので「渋い歌やなぁ。。。」と思った事を覚えています。

投稿: sunday | 2008年7月13日 (日) 07時09分

昔、北海道大学の学生のパーティが、雪崩に巻き込まれて全員が亡くなるという事故がありました。私の高校の同期生もそのうちの一人でした。
リーダーは、他のメンバーよりも少しの時間生きて、「雪の遺書」を残しました。
高思明氏の原詩の訳を読んで、そのことを不意に思い出し、不覚にも涙が流れました。

投稿: nobara | 2008年7月19日 (土) 10時04分

20歳代の前半、よく山登りをしました。当時金欠青年だった私は、遠征することなく、近くの山で甘んじていましたが、福岡県の福智山には毎月のように登り、大分県の九重は年に2~3回、北九州の皿倉山の岩場では毎週休日ごとに岩登りをしていたものです。
 「いつか或る日」はその山仲間と飲みながら、坊がつる賛歌などと共によく唄っていましたが、最近はあまり唄うこともなくなっていました。
 このサイトで出会って久しぶりに唄ってみて、アイガ-北壁で滑落した渡部さん(福岡県田川出身・従兄弟の山仲間)の事を思い出しました。
 

投稿: Hikoさん | 2008年8月 1日 (金) 08時36分

高校3年の夏休み、信州でサマースクールがありそこで中沢厚子さんのこの曲をはじめて聴きました。
青春時代の懐かしい思い出がよみがえり、瞬時にそのころにタイムスリップ。
私にとってとても大切な1曲です

投稿: アップルパイ | 2008年11月16日 (日) 00時26分

40数年前 高校生のころ山岳部に入り羅臼岳、斜里岳、武佐岳と道東の山を親の脛をかじりながら登りました 雪山賛歌、知られていなかった知床旅情、 恩師がよくこの曲を歌って聞かせてくれましたのを思い出します nobaraさんのことは覚えています その後山岳部が廃部になり 数年後私の大学でも滑落事故があり部がなくなりました 悲しい思いがこみ上げてしまう歌ですが忘れられない曲 今はゆっくりとあせらず山登りを楽しむ年です

投稿: hiro | 2008年12月13日 (土) 02時46分

「高思明」から「高史明」を思い出しましたが、全くの別人ですよね。

投稿: Bianca | 2008年12月15日 (月) 23時00分

Bianca様
別人で、私と同年の友人です。
(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2008年12月15日 (月) 23時50分

ある年の夏上高地にいたら松本深志の生徒が落雷にやられた
との一報が入り大騒ぎになった記憶が残っています。

投稿: 海道 | 2008年12月16日 (火) 17時28分

会社の山登りのグループに誘われて土曜日仕事を終えて集まり、伊吹山の夜間登山に出かけました。休憩時に眠くって、眠りそうになると周りの人が起こしてくださいました。頂上で雲海とご来光を見て、自然の美しさにみとれていました。この曲や、山の歌をみんなと一緒に歌ったことを懐かしく思い出しています。

投稿: 昔の少女 | 2009年11月 4日 (水) 01時11分

3 伝えてくれ いとしい妻に
  俺が帰らなくても 生きて行けと

男の思い上がりの歌・・・なのでしょうか?
えぇ、あなたが居なくても、
いえ、寧ろあなたが居ない方が、どれほど気楽か。

投稿: コーデリア | 2010年5月20日 (木) 21時33分

大学3年の時、北海道の山に登り、福岡大学の熊遭難の救助隊に参加しました。3名が亡くなり、日高の山中で荼毘にふしました。火の周りを皆で肩を組んで取り囲み、泣きながらこの歌を歌ったのを思い出します。

投稿: 槌田 鉄男 | 2010年5月20日 (木) 22時40分

作曲の西前四郎先生は、わが母校「S字谷高校」(仮名)での恩師です。当時にしては珍しくデイバッグを背負って通勤されてました。英語の授業のほか夏休みに学校行事として立山と白馬岳に引率していただきました。スポーツ苦手の私には良い経験です。
 テストの点数を稼いで進学することよりも受験や仕事の失敗に打ち勝つ強い人間を求めていたように思います。(橋下某には、わかるまい)
 先生の唄う「いつかある日」は、ゆつくりと朗々としたものでした。

投稿: コラム寿太郎 | 2011年6月24日 (金) 20時21分

コーデリアさん、まったく「男の思い上がり」ですよね。この歌の少しあとになりますか、一部で流行した「山男の唄」は「娘さんよく聞けよ/山男にゃ惚れるなよ/山で吹かれりゃよ若後家さんだよ」と始まります。妹が「まったく勝手ねえ、山男っていうのは。デュプラもそうだけど、ちゃんと気をつければいいじゃないの」と怒っていたのを思い出します。
ところで風花さん、私がこの詩を初めて見たのは1956年【朝日新聞】連載の井上靖「氷壁」ですが、そこではたしか「モシカアル日」でした。その後、曲を知ってからもしばらくの間、私はそう歌っていました。風花さんのおかげで深田久弥訳も本来は「もしか」だったと知り、多年の疑念が解けました。ありがとうございました。ただし、深田の初訳が1957年とありますので、モシカすると井上靖がデュプラの詩の最初の紹介者なのでしょうか? それともすでに知られていた深田の草稿を井上が小説に借用し、それへ西前四郎が作曲したということでしょうか?

投稿: dorule | 2012年9月 6日 (木) 10時52分

 初めて聞きました。静かな感動を覚える、しかもなんというか気品のある歌ですね。この歌を知って人生を生きる上ですこし得をしたような気持ちになったほどです。    私にかつて登山の手ほどきを教えてくれ、その後もいっしょに15年ほど山に登ったもと同僚のSさんに早速この歌詞をメールで送りたいと思います。彼は今、大学の数学の教授ですが、毎月のように、地元大分の九重連山や臼杵の里山に登っているとのことです。私は彼のすすめで40代に入ってから始めた登山でしたが、完全にはまってしまいました。白山(石川)が処女登山で、西日本中心にあちこち行きました。    山の登り方というか楽しみ方はほんとうに人それぞれですね。登った山の数を自慢する人、登山口から山頂までのかかった時間の短さを自慢する人などは苦手でしたね。30代まではお酒が唯一の楽しみでしたが、その私から見ると自分のお酒の飲み方と山の登り方がなんとなく似ています。ひとつの店(山)をじっくりと時間をかけて楽しむ。気のあった2人連れ、もしくは単独行で店(山)をアタックする。あまり店(山)の数をひろげようとは思わず、浮気はしないで、気に入った店(山)に何度も季節を変えていく。とこんな具合ですね。山ならとくに気に入ったのは石鎚山(愛媛)です。ズバリ神々しいからです。まこと信仰の山のたたずまいがあります。
    この歌をきいて思うのはヨーロッパの人はなんと家族や友人のそれぞれに心のこもった別れの言葉がいえるものかということですね。濃厚な家族愛と友情を感じます。ですが奥さんへの言葉がちょっと足りないというか、身勝手な感じがありますね。笑いをさそいますね。コーデリアさんのコメントはそこのところを突いて、ほんとうに金メダル級のコメントだと思います。でもね。それでいいんですよ。なぜなら、山男にドンファン、女たらしなんていないんですよ。女性へのリップサービス考えるヒマなどないのです。死ぬかもしれない遭難の危険もふくめた、山登りに魅せられた道楽者の集まりなんですから頭の中は山のことだけです。


投稿: 久保 稔 | 2012年9月 6日 (木) 15時21分

四季折々の美ヶ原高原台地、霧ヶ峰、車山、湯の丸から烏帽子岳そして浅間山とトレッキングしてます。若いころは、槍、穂高、燕岳、八ヶ岳などよく登りました。
 今年も多くの方が山岳で亡くなりました。この歌を捧げ御冥福を祈りたいと思います。

投稿: yama | 2012年11月21日 (水) 10時20分

 この歌はフランスの登山家の作詞だと、そして皆さんのコメントはとても勉強になりました。
 1960年?頃菅原謙二・川崎敬三主演の「氷壁」と言う映画の中で、ナイロンザイルがこの映画のテーマだったように記憶していますが・・・実際に起きた事実の映画だったのでしょうか?
 3番の歌詞は、もし自分だったら “よきにはからえ” では心もとなく、やはり “俺が帰らなくても生きて行け” が最愛の妻への最高のエールだと思いますが、古い考えなのでしょうか?

投稿: 尾谷光紀 | 2014年2月27日 (木) 10時53分

 学生時代に山で友と得意に成って歌ったことが、走馬燈のごとく思い出されます。今や駅の階段の上り下りでさえ息が切れるように成りました。
 蛇足の西前氏の説明が以前のものに戻ったのですね。
簡潔で今の方が好きです・・・

投稿: 邦夫 | 2014年6月 5日 (木) 22時10分

三拍子の曲になっていますが、途中と最後が四拍子になっている譜面もありますね。オリジナルはどちらなのでしょう。

投稿: 浅春 | 2014年10月14日 (火) 16時04分

この歌は、あまり好きではありません。10年あまり前のある事件を思い出してしまうので。
山のベテランである会社の先輩と一緒に、スイスのメンヒという4100メートルほどの山に登りました。先輩ともども海外の高山は初体験でもあり、当然ながら4000メートルを超えるのも初めてなので、現地のガイドを頼みました。7月半ばだというのに、積雪が多いことには驚きました。国内の冬山並みです。
何とか頂上には達したものの、下る途上ナイフリッジを通過しようとした時、私は突然バランスを失ってしまったのです。
ザイルのトップは先輩、しんがりはガイドで、このふたりがすばやく確保してくれたから大事に至らなかったものの、どちらかひとりが確保に失敗していたら、3人とも助からなかったと思います。
以来私は低山歩きはしても、本格的な登山はしなくなりました。それとともに、以前は好きでよく歌っていたこの歌も、歌わなくなりました。

投稿: 川口雄二 | 2014年10月15日 (水) 20時47分

子供の頃からスポーツはからっきしだめでした。

そのためか、山登りにも冬山のスキーにも興味を抱くことなく今日(65才過ぎ)に至りました。

山男賛歌や冬山賛歌は私に似つかわしくないのですが、山は好きで、好きな山の歌もあります。

”与作”

♪ 与作は木をきる
ヘイヘイホー ヘイヘイホー
・・・・・
♪ 女房ははたを織る
トントントン トントントン ♪

この歌にはジーンときます。
静かな山の中で、孤独で、抒情があって。

最近は月に何度か山に入り、
この歌を口ずさみながら木を切っています。

投稿: yoko | 2014年10月16日 (木) 22時30分

山登りは出来ませんが 好きな歌で よく聞いています。

スポーツジムで会う友人 夫婦で信州の3000~4000m級の山によく登山に行きます。この歌知ってますかと聞けば
知らないと言います、そりゃあないよ 教えてあげましょうと メールでこのページ送信したら とてもいい歌ですね 覚えて 山頂で妻と歌ってきますと 喜んでいました。

投稿: 青果 | 2014年10月19日 (日) 19時55分

遠い昔に聞いた記憶があり、その時に「良い歌」だと思いました。昨年に退任して、自由な時間が多くなり、この歌を検索してここに辿り着きました。二木さん感謝!!

「生きていけよ」が気になり、ロジェ・デュプラの奥さんを調べてみました。数年前に奥さんとデュプラの友人が集まり故人を偲んでいた記事がありました。

正直な気持ちは、残された家族を思うと「勝手な男だな」と思います。男として厳しいかな?

投稿: 白亜の恐竜 | 2014年12月29日 (月) 17時11分

西前さんは亡兄の一番の親友でした。大学時代帰郷されると先ず我が家へというくらいの友達でこの歌僕が作ったんだよと教えてくれました。その時も確か「もしか或る日」だったと記憶しています。最初は作曲者不明として発表されてましたね。今は二人とも鬼籍に入り寂しくなりましたが歌おう会等で歌って偲んでいます。

投稿: 昔乙女 | 2015年2月 5日 (木) 14時27分

最初にデュプラの詩を知った新聞小説の印象が強くて、私は今でもよく「もしかある日」と歌います。高思明氏が”山で”と補って訳された「おれが彼女なしで山で暮らしたように、と」を読むと、以前に触れたコーデリア様や小生の妹のような、また白亜の恐竜様のような、山男の思い上がりへの怒りはやや薄らぐかもしれません。あと、私は直訳して「息子たちにおれの爪痕が」と歌っています。岩山に踏み跡は残りにくいと思うので。爪と言っても、ongle は日本語同様にアイゼンの爪のこともいうようですから、それなら「踏み跡」とも言えるでしょうか。高思明氏はアイゼンでなく「ハーケン」と解していらっしゃいますね。これですとどうも「踏み跡」にはなりません。……勝手に変えて歌うのは西前さんに申し訳ないけれど、聴き手も自分だけですから、ご冥福を祈りつつ。

投稿: dorule | 2015年2月20日 (金) 16時53分

「爪痕」のコメントは、やや意を尽くさなかったようですので、小説『氷壁』で小坂乙彦が「酔っぱらうと、いつでもデュプラの”モシカアル日”を朗読したな」という印象的な回想場面の、その行を写しておきます。
 息子タチヘノ伝言ハ、オ前タチハ「エタンソン」ノ岩場デ、オレノ爪ノ跡ヲ見ツケルダロウト。

投稿: dorule | 2015年2月21日 (土) 12時20分

補作詞 作曲 南郷孝 もありますね。
「もっとみる」をクリックすると説明があります。
https://www.youtube.com/watch?v=crCjW1LdHEk

投稿: なち | 2016年11月16日 (水) 21時33分

なちさま
補作詞 作曲 南郷孝 を教えて頂きありがとうございます。早速聴きました。抒情的で優しく心に染みいり、慰めてくれるようで、西前四郎の素朴な悲愴感とはだいぶ違う趣がありますね。YouTube を見ると何人もが歌っていて、今はこの南郷作曲の方がポピュラーなのでしょうか。山は50年や60年ではほとんど変わりませんが、人の方は世代が二つぐらい変わっていると、今更ながらの発見でした。

投稿: dorule | 2016年11月18日 (金) 21時46分

27日、那須町のスキー場で痛ましい事故が起きてしまいましたね。

高校の時、ふるさとの山でスキーをしていた幼馴染みが亡くなりました。
何年か経って白馬岳で山岳部の義弟が亡くなりました。
山での事故のニュースを知る度にいつも思い出します。
「雪山に消えたあいつ」(唄 克美)の歌詞に、
♪山をこの俺 うらみはせぬが・・とありますが、
夏に遺族と山岳部のメンバーが現場に行った時、
「夏山であんなに感動したのだから、
雪山はもっと素敵だろうなぁ」と言っていました。

nobara さんの書かれている「雪の遺書」は、
浜田光夫さんが唄われている「お母さん、ごめんなさい」ですね。
http://www.dailymotion.com/video/x30olg2
http://www.geocities.jp/kyyamamoto2/p3mama.html

投稿: なち | 2017年3月29日 (水) 19時28分

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