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ああ上野駅

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:関口義明、作曲:荒井英一、唄:井沢八郎

1 どこかに故郷の香りをのせて
  入る列車のなつかしさ
  上野は俺らの心の駅だ
  くじけちゃならない人生が
  あの日ここから始まった

   (セリフ)
   「父ちゃん 僕がいなくなったんで
   母ちゃんの畑仕事も大変だろうなあ、
   今度の休みには必ずかえるから、
   そのときは父ちゃんの肩も、母ちゃんの肩も、
   もういやだっていうまでたたいてやるぞ、
   それまで元気で待っていてくれよな」

2 就職列車にゆられて着いた
  遠いあの夜を思い出す
  上野は俺らの心の駅だ
  配達帰りの自転車を
  とめて聞いてる国なまり

3 ホームの時計を見つめていたら
  母の笑顔になってきた
  上野は俺らの心の駅だ
  お店の仕事は辛いけど
  胸にゃでっかい夢がある

《蛇足》 昭和39年(1964)リリース。

 集団就職で上野駅に降り立ち、東京で職業生活を始めた若者の心情を歌った歌です。
 集団就職とは、地方の中卒者が東京など大都市の工場や商店に集団で就職したことを指します。

 その始まりは、昭和29年(1954)に東京・世田谷区の桜新町商店会が合同で求人を行い、東京都などの斡旋により、地方の中卒者を採用したことに始まるとされています。
 以後、労働省
(当時)や都道府県、公共職業安定所が日本交通公社とタイアップして集団就職が本格的に行われるようになり、昭和52年(1977)に労働省が廃止を決めるまで続きました。

 集団就職が行われた時期は、高度経済成長期と重なり、中卒者は「金の卵」ともてはやされました。
 しかし、それは採用側からの表現にすぎず、ブルーカラーとしての労働は厳しいうえに低賃金で、中途離職者も少なくありませんでした。

 北海道・東北からの集団就職者は、そのほとんどが上野駅で降り、雇い主に引き渡されました。家族との別離、新しい生活への期待と不安、東京の文物への驚きなどは、すべて上野駅のイメージと結びついていました。

 もっともそれは、集団就職者にかぎったことではありません。ふるさとのなまりを聞きに来た啄木の昔から、北海道・東北出身者が東京で経験する成功も挫折も、すべて上野駅から始まったのです。
 それはいくつもの小説や詩・短歌などに表現されています。その意味で上野駅は、東京のターミナル駅のなかでも最も多くの人びとの哀歓が染み込んだ駅だといえそうです。

(写真は昭和35年〈1960〉ごろの上野駅)。

(二木紘三)

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コメント

この曲を聴くたびに、若いときのことが思い出され、思わず涙ぐんでしまいます。
戦後日本を代表する名曲だと思います・・・

投稿: エスペロ | 2007年8月23日 (木) 21時13分

サラリーマン時代、同僚とカラオケでこの歌を歌うたびに、何か熱いものがこみ上げてきたのを思い出します。
私は東北出身ではありませんし、集団就職でもありませんが、私が大学に入学した当時(昭和38年)、田舎から都会に出てくる若者は、多かれ少なかれ、この歌のような心境だったのではないでしょうか。

投稿: 越山 洋平 | 2007年8月31日 (金) 09時19分

文字通り心の故郷ですね。

投稿: 山本 潔 | 2008年2月27日 (水) 19時19分

大学生の時に失恋し、新宿御苑で寝転んで読んだ寺山修司編「男の詩集」の最初にこの歌詞が掲載されていました。アルバイト先の会社の社長のお嬢さんだったけど、一度だけ深大寺でデートをしたのが思い出です。この歌を聞くとそのことが思い出されます。彼女ももうおばあちゃんになっていることでしょう。元気でいてくれたらと思います。

投稿: 陽ちゃん | 2008年3月 4日 (火) 23時12分

この歌が大好きです。でも、一番悲しくなる曲です。昭和37年、中学2年生の春に病に倒れた私はその後、2年間床に伏していました。当時、雑誌などのエッセイ掲載で得た賞金で購入したトランジスタラジオからこの歌や、高校3年生などが流れ、いつかは僕も病から開放され都会に出たいとほとんど絶望的な夢を見ていました。39年4月、治癒したわけでもないのに、やみくもにわがままを通し、熊本から夜行列車で父の付き添いで京都に就職しました。あれから約45年。今でもこの歌を口ずさむと、当時お情けでいただいた中学卒業証書のことと、支えてくれた父母、給食のパンを持って帰ってくれた幼い弟たちのことがっきりと思い出されます。

投稿: 松尾欣也 | 2008年3月 4日 (火) 23時59分

二木さまの歌声喫茶には、何時も心和ませるメロディーに癒されております、詩を大切に顧みる懐かしさに何時も感謝の気持ちで聞かせて頂いております、一日も長く続けて頂きたいと願います。

投稿: 近藤 博 | 2008年3月17日 (月) 19時35分

 僕は昭和50年生まれですが、昭和19年生まれの両親の薫陶のおかげでこの唄が大好きです。何度聞いても涙ぐんでしまいます。人生の悲哀、希望と挫折と再起、懐かしいけれどまだ帰れない故郷…人の「情緒」がいっぱい詰まったこの唄が僕の十八番です。

 この唄を好んで唄う僕は、同世代には奇人と思われますが(苦笑)、笑わば笑え、この唄が好きな僕は自分のことをまっとうだと信じられるから…。

 二木先生、素晴らしい出来のデータのアップをありがとうございます!励みになりました!

投稿: にゃんこ | 2008年5月 1日 (木) 00時19分

昭和50年生まれの方がこの歌を好きだと聞いてうれしくなりました。ちなみに私は昭和20年の生まれです。
この歌を聞くたびに思い出すのは、確か昭和32,3年ころだったと記憶していますが、「一粒の麦」と言う映画がありました。集団就職を扱った映画で、菅原謙次さんと若尾あや子さんが付き添いの先生役でした。おそらく東北方面からの集団就職列車でしょう、上野駅で降りて青空の下、一人ひとりが雇い先に連れて行かれる場面が印象に残っています。たしか、ある少年の雇われ先のオヤジ(社長)を殿山泰司さんが演じていました。この偏屈オヤジの元で苦労する少年を思い出しまた。

投稿: 佐野 | 2008年5月 2日 (金) 19時05分

昭和39年3月地元の高校を卒業して 大阪の会社に就職しました。
子供の時からどもりがひどく それを子供心に隠しての背水の陣の就職でした。それが44年営業一筋で生きてきました。子供2人も私学の大学にも出すことが出来 今なお 請われて仕事しています。無論どもりながら・・です。言語障害でありながら 喋りでの世界で生きてきた この世の不思議さに驚いています。
家内は言います・・人の目から見ると どもりもはげも同じ程度の
恥ずかしさ・・だと それを聞いて 開き直りました。

投稿: あつちゃん | 2008年5月 3日 (土) 21時01分

あっちゃんさん、実は私も吃音です。今は大分良くなって、どもらなくなりましたが、若いときは、難発性吃音で苦労しました。
ところで、「ああ上野駅」の歌碑が数年前に上野駅前に建立されました。この時、私は友人と二人で除幕式に行きました。井沢八郎の歌声を上野駅前で聞きました! 

・・・集団就職・・・この言葉も死語になりました。
でも、この歌は、いつまでも心に残る名曲です。井沢八郎が亡くなった今も、歌い続けていかなければいけないでしょう・・

投稿: エスペロ | 2008年5月 4日 (日) 22時17分

 昭和27年4月、中卒で集団就職ではなかったけれど、信州から上京、墨田区のワイシャツ工場に住み込みに入った。学校に行きたかったけれど叶わず、仕事帰りに「ああ!上野駅」を聞きながら、涙を抑えて自転車で走ったあの頃が、懐かしく想い出されます。もう今は72歳、孫8人に囲まれての気楽な隠居生活だが、「ああ上野駅」を聴くと、昨日のことの様にあの頃が思い出されます。ああ!青春!。

投稿: 牛山 長重 | 2008年5月13日 (火) 20時45分

昭和41年の3月に中学を卒業、集団就職の夜行列車で同級生の3人と共にに九州から上京しまた。夜行列車の窓をながめつつ、寂しさと不安を感じながら故郷をあとにし、翌日会社のある川崎の駅に到着しました。
電気関係の工場に勤めながら、川崎市溝口にある定時制高校に通い、その後大学の二部に通いました。「ああ上野駅」を聞くとその頃の苦しかったことなどが懐かしく思い出されます。
大学卒業後帰郷し小さな会社を経営しておりますが
昨年の3月に、娘の東京大学の卒業式に出席のため、妻とともに上京し上野駅にも行ってきました。

投稿: タナカ | 2008年6月28日 (土) 17時52分

タナカ 様
ぶしつけに書かせていただきます。
私は九州育ちで九州で職を得ましたが、娘が東京に就職し東京で結婚し川崎市高津区溝ノ口の下作延に新世帯を構え孫を出産しましたので、幾たびか訪れました。だから田園都市線の溝ノ口駅は懐かしいです。
娘は埼玉に転居しましたので、たまに上京する私にとって上野駅は乗り換え駅です。
同じ「駅」でもいろいろな思い出があるものだと感じましたので、つい筆を執ってしまいました。  周坊

投稿: 周坊 | 2008年6月28日 (土) 20時44分

流石に書き込みが多いですね 朝早く上野駅に着きました 万世橋の袂は 焼けた煉瓦が積み上げられていました 神田の羅紗屋さんに奉公です 毎日が楽しかった 毎年 東京とその近県に暮らす同級生の集まりで 校歌を歌い次はこの歌の出番です 何時も歌になりません 大泣きした後の 清々しい気分がいいのです あははは 

投稿: 寅  君 | 2008年7月 9日 (水) 20時07分

自分は東京生まれですが、この歌を聞くと本当に切なさを感じてしまいます。転勤で東北を汽車で回っていました。
昭和42年の春の夜「鷹ノ巣駅」の上りホームに停車中の夜行列車、集団就職の若人と見送る大勢の人々。
発車の汽笛とともに混じりだす悲痛とも思えた、「元気でなー」あるいは人の名を叫ぶ大人の声、動き出した汽車をホームの端まで追いかけた女の子、みんな目に耳に焼きついてしまいました。

投稿: 山ちゃん | 2008年7月13日 (日) 22時19分

息子が持ってきてくれたDVD「映画・三丁目の夕日」を見ながら人情厚き昭和30年代は心から良かった時代と感じます。夢もあり挫折もあり、しかし何があってもそこには家族があったのです。「ああ上野駅」を「三丁目の夕日」の主題曲に推薦します。

投稿: S6年生まれ | 2008年8月17日 (日) 22時07分

昭和46年3月 五ツ違いの末弟は就職列車で大阪へ旅立ちました。
実家は駅まで遠かったのでホームで見送ったのは私ひとりでした。
まだ幼顔の詰襟学生服の弟は笑みと不安の混じった顔で旅立ちました。
その後資格を取り帰郷して会社勤めの後、電気工事店を営み繁盛しています。
5人兄弟の中で家族と親を気遣う心は一番でしょうか。
”ああ上野駅”を体現したような弟です。

投稿: 内倉 功 | 2008年9月12日 (金) 19時36分

中学校卒業式のとき、同級生Aが「俺は母ちゃんに楽させるため、東京に就職するんだ。見送りにきてくれよ。」と気丈夫に言っていた。見送りのため田舎町の軽便鉄道駅に行ったところ、母親と担任の先生がAを探していた。母親に「Aが居なくなったの、一緒に探して!」と言われ探したところ、Aは車庫の脇のドラム缶の影で蹲り泣いていた。Aの「母ちゃんと離れたくねえよ!行きたくねえよ!」と言った言葉が今でも思い出される。それ以来音信不通だが、あれから四十五年、Aはどうしているのだろうか。

投稿: 田舎者 | 2008年10月 8日 (水) 14時40分

田舎者さん、読んで涙が出ました。この歌にはドラマが満載ですよね。昔の男の子はシャイだけど男らしかったですね。

この歌をイメージして拙句を作ってみました。
  泣きに来た上野で訛る鳩に遭う

二木先生、本当に高尚な事から下世話に通じた事まで、先生は色々な事をご存知だといつも感心しています。しかも、ご自身がすでにステイタスをお持ちなのに、なお、権威や偉そうにする人への反逆心にひそかに同感しています。

投稿: 吟二 | 2008年10月 8日 (水) 22時12分

S37年3月大学受験のために急行「能登」に乗って約10時間かけて上京しました。座席では寝れないので床に新聞紙を敷いて寝たのも今は遠い思い出です。初めて上野に着いたのですが新宿駅で迷子になりました。大学は不合格、浪人1年後に関西の大学に入りました。当時の上野駅は我々地方人にとって別の世界でした。今では東京駅ばかり利用していますが上野駅も変わりましたね。

投稿: 越野利栄 | 2008年11月28日 (金) 23時25分

中学生の頃だったと思いますが、和歌山県の片田舎で毎朝のようにラジオから流れてくるこの歌を聴きました。当時のことが思い出されて、懐かしいです。
ニュースなどで見る集団就職、私には別世界のことでしたが、悲しい世相は伝わってきました。
「ホームの時計を見つめていたら 母の笑顔になってきた」
三番の詩がいいですね。泣けてきます。
上京してから、上野駅に行く度にこの歌が浮かび、ジンときました。

投稿: 健児 | 2009年2月10日 (火) 01時52分

私パンプキンも、南九州の片田舎で育ち中学生時代はブラスバンド部に所属していました。
 学校行事の一環として、都会へ旅立つ多くの先輩たちを駅のホームから校歌などを演奏して見送ってきました。
 旅立つ人、見送る人その誰もが、なみだ涙のつらい別れのシーンでした。
まさしく山ちゃんサンのコメント(2008.7.13)そのままの情景が繰り広げられていましたね。
また、寅君サンの”校歌を歌い次はこの歌の出番です 何時も歌になりません 
大泣きした後の 清々しい気分がいいのです あははは ”(2008.7.9)には、笑い泣きさせていただきました。
♪あぁ上野駅…をこよなく愛すお二人には、尊敬をこめて以後『兄貴』と呼ばさせていただきたく思います。

投稿: パンプキン | 2009年5月 9日 (土) 02時27分

昭和39年高校卒業し、北海道から東京に就職しました。
銀座に本社のある上場企業でした。支店勤務配属先は商品部、とはいっても商品をダンボールや木箱に詰め縄かけをして荷札をつけ発送する倉庫係りでした。石の上にも3年がんばれ、くじけそうになる自分を明治生まれの苦労して生きてきた祖母からのたどたどしい手紙を何度もよみかえし、もう少し頑張って見ようと思いました。定年まで勤めあげることができましたが、この曲を聴くと当時のこと思い出します。商品部にいた女で気の強いタイプの伝票作成の人と結婚しました。今鼾をかいて隣の部屋のソファで寝ています。

投稿: 浦野 | 2009年5月13日 (水) 20時19分

辛い時に 就職時のこの歌の心情を思い浮かべ定年までがんばることができました。当時は本当にこの歌のような情景でしたね。まさに応援歌でした。いまこのような歌はダサいと言われるでしょうけど日本人に忘れてほしくないですね。

投稿: alude2500 | 2009年9月29日 (火) 22時22分

昭和38年3月 就職列車で旅立つ朝に母は「見送りに行けんでごめん」・・・っと手をにぎり一言いって部屋の奥に姿を隠しました。
その3年前にも兄を就職列車で見送った母は その悲しさのあまり 前から「見送りにいけんからかんにんね」
といってましたので覚悟はしていました。
そんなことで私の見送りは父と姉がきてくれました。
この歌を聴くたびにあのころの情景が思い出され目頭が
熱くなります。

投稿: ゴン | 2009年10月14日 (水) 15時37分

心根のやさしいみなさんのコメントを読み
涙がとまりません・・
二木さまのおかげで心ひとつになれるのです。
ずっと続けてください。ありがとうございます。
昭和17年生まれ群馬の出身です・・

投稿: 春爺 | 2010年8月17日 (火) 16時52分

昭和16年生まれ。集団就職でも地方出身者でもありませんが、この歌を聞くと、何となく目頭が熱くなります。昭和30年代40年代に青春を過ごした人々の心にうったえる名曲だと思います。後世の人々に、こういう時代もあったのだと、いつまでも残しておきたい曲です・・・

投稿: エスペロ | 2010年9月21日 (火) 20時08分

私が20代のときに北上野のS運送と言う小さな会社に勤めておりました。昭和40年代当時同僚で一関出身者が居て、暮れには夜になると昭和通りの下谷の近くまで長距離バスが並び、故郷で正月を迎える帰省者でごった返しておりました、今でもはっきりと覚えております。
私は西の方で東京駅ですが“ああ上野駅”を聞くと我が身の事のように思い出されます。私も既に67歳の新年を迎えようとしております。

投稿: トクラテス | 2010年12月 3日 (金) 15時02分

昭和45年3月末に、集団就職ではありませんでしたが、九州小倉から東京駅、上野駅経由で茨城に就職、今は当地で定年農業をしています。夜行寝台で小倉の駅を出る時のことをよく覚えています。夕方、見送りに来てくれたのは、近所で親しくしていた親戚でもないおじさんとその姪っ子の女の子(幼稚園くらい)だけでした。その頃は母子家庭だったのですが、自分の価値観を押し付ける母に反発していた私は、見送りを断っていたのです。その母を昭和の最後の正月に、九州に残したまま亡くしました。
会社の出張の帰り、住んでいた茨城に上野駅から列車に乗る度に、故郷とは逆の方向なのに何か懐かしさを感じたものです。カラオケは得意ではありませんでしたが、現役の時、強く要請されると、たいていカラオケ歌詞本の最初に載っているこの歌を唄ったものです。今でも、この歌を聞くと、田舎を出て来た当時のことが、いろいろ思い出されて、目頭が熱くなります。

投稿: 竹永尚義 | 2011年7月 2日 (土) 18時13分

昭和39年九州の小さな町(瀬高)から就職の為、一人で上京しました。どうゆう訳か私は上野駅が大好きで休みの日には一人でよく行きました。当時の上野駅は暗くて汚くてトイレの臭いがしてましたが私は人々の雑踏の中で駅の中央にある丸い大きな時計を見るのがひとつの楽しみでした。井沢八郎の唄の歌詞と遠いふるさとの母の姿を重ねていたのでしょう。私が一番好きな歌はこの「ああ上野駅」で3番までそらんじています。67歳になった今でもハーモニカで吹くと皆さんに大変喜ばれます、上野駅は私の心のふるさとです。

投稿: 桜井武二 | 2011年9月29日 (木) 10時28分

いやぁ素晴らしいブログですね。 演奏のうまさはもちろんですが、なにより解説(蛇足なんてとんでもない)の素晴らしさ、そしてみなさんからの投稿に感動しております。私も団塊の世代ですから、身に覚えのあることがたくさんあります。余談ながら私もパソコンで音楽をつくるのを楽しんでおります。このブログの管理者さまのようにはいきませんが
YouTube に
自作の曲 http://www.youtube.com/watch?v=iXVpvsq1IEs
自作のカラオケ http://www.youtube.com/watch?v=t-8_JAwu_Fs
をのせておりますので、お暇なときにご覧いただければ幸いです。

投稿: aranx2009 | 2011年12月 8日 (木) 15時50分

「あゝ上野駅」は、農家の雑誌“家の光”が、
毎朝全国ネットで放送していたラジオの“田園ソング”です。
http://41-31.at.webry.info/200803/article_10.html
田園ソングの時は台詞はありませんでしたが、
台詞は井沢八郎さんが考えられた?と何処かで読みました。
「あゝ上野駅ありがとう」も出ていますね。

「半音下げないと唄えなくなったら歌手をやめる」
と、言われていた井沢八郎さん、
「日本レコード大賞特別功労賞」を受賞されていますが、
故人に送る賞なのは残念ですね。

田園ソングで、就職の歌は、
「いち抜けた」(山田太郎)
「バスがいっちまう」(美樹克彦)
が、あります。

投稿: なち | 2011年12月 8日 (木) 19時26分

この曲、、、というよりも、皆さんのコメントを読んで本当に感激です。72才の方が、参加されていて、嬉しく思いました。若い人や年配の人などが自由にお話をできる場がこういう形であるということ、インターネットの普及とは大きな意味があるようにおもいました。
三丁目の夕日、本当に感動しました。母が福島でしたからきっと上野は思いでの場所だと思います。今はもういないので聞くことができませんが。金沢文庫で海軍の仕事をしていたようです。海軍ではおいしい食べ物がいっぱい豊富だったとのこと。戦争中は楽しかった、と言って父を怒らせています。戦後になると食べ物がなくて、福島から餅をぺったんこにして背中にしょって浜町のおばのところにとどけ汽車の最後の駅までのると調べられてとられるので、途中で降りたと言う話など、、おもいだします。父は91才です。こんど上野駅の思い出をきいてみます。

投稿: お正月 | 2012年8月17日 (金) 02時33分

昭和19年生まれの群馬の山猿です。高校中退して17歳の時に、東京タワーが出来てまもなくの頃でした。三田のパン屋で住み込みで働いていました。田舎者の悲しさか?どうしても東京の水に馴染めず、都落ちしましたが、今は故郷の山に抱かれて幸せです。当時は寂しくなると上野駅の高崎線のホームで、今度こそ今度こそと、帰郷する事ばかり考えていました。この歌を聞くと当時の辛い事を想い出します。

投稿: 赤城山 | 2013年5月12日 (日) 15時55分

私は集団就職を見たことはありませんが、昭和40年代に良く山陰線の夜行列車を利用していました。3月の終わりになりますと、夕刻の5時あたりから日の暮れるまで、列車は小さな村々の各駅に止まり、中学を卒業したばかりの子供たちを拾って行きました。家族や村人たちの見送りを受けて・・・、お母さんやおばあさんらしき方が泣いておられる姿も良く見たものです。中には、まだ小学生ではないかと思われるような小さな子もいました。皆、詰襟の学生服姿でした。就職用の服をあつらえる時代ではなかったんですね。というか、新しい服があつらえることのできる家庭であれば、高校に進学できたのかもしれません。暖かい見送りを見て、家族っていいなぁ、故郷っていいなぁ、と思い、涙がこぼれたこともありました。

私の卒業した中学は5クラスの内1クラスが就職クラスでした。そのクラスの中に一人友人がいました。彼は先生が就職について全く相談に乗ってくれない、と不満を漏らしていました。私はその先生にそれとなく話に行きました。先生は、面倒くさそうに、「おまえ、相談に乗ってやれよ、俺できないよ」、と言いました。私は怒りに震えたものです。しかしその友人ともいまは音信不通です。私が悪いのです。もう私から会う勇気はありません。彼が中学を卒業し、大阪で就職し、職を失った時までは連絡し合っていました。それ以降は知りません。私自身も仕事に不安を抱えていました。私から連絡を断ちました。彼には是非生き抜いていて欲しいと思います。そして私なんかは踏みつけるほどの成功をおさめていてくれたら、と思います。

投稿: yoko | 2014年6月15日 (日) 14時49分

 私の友人に宮城県の人がいます。
神戸育ちの私には、東北出身の友達は彼だけです。
東北の人は、地味だが粘り強い、こう言えばステレオタイプの表現ですが、実際、彼はそんな人です。
 
 彼が神戸の大学に通っていた頃、妹が高校を卒業し、東京の会社に就職した。会社のパンフレットを見て、特にきれいな住み込み用の社員寮が気に入って決めたそうだ。田舎では、親族が集まり、派手な就職祝いの壮行会をしてくれた。
 大学の夏休みに、彼は、帰省の途中、就職して4か月の妹の様子を見に、東京の職場に行ってみた。しかし、社員寮は、きたなくて、ぎゅうぎゅう詰めの状態で、妹もストレスがたまっていた。パンフレットは、全く別の写真を使っていた。

 (ひどいこと、しゃがる)と怒った彼は「おい、すぐ田舎へ帰ろう」と言った。妹は「だって、みんなに盛大に送ってもらったもの・・すぐには帰れないよ」とつぶやく。
 彼は、問答無用で、すぐに離職届けを出させて、妹を田舎へ連れて帰った。
 妹は今でも「お兄ちゃん、あれでよかったわ、ありがとう」と言うそうだ。
 本当の勇気とはこういうことをいうんだろうな、と深く感動しました。その彼は、今年68歳、元気です。

投稿: 浮舟 | 2014年6月15日 (日) 22時45分

昭和15年生まれの俺たちの約8割は、中学の卒業式の翌日には就職列車に乗って地方から都会へと旅立って行きました。この歌の背景を知悉している者には、井沢八郎の曲を聞く度に自然に涙が溢れてしまうのです。神田のガラス屋に就職した武ちゃんや横浜の材木屋に行った文ちゃんのことなど・・・・・。
まだ遊び盛りの15歳の少年が親元を離れ、都会の片隅で歯を食いしばって丁稚奉公みたいな仕事に邁進する姿は、凛々しくもあり且つ哀れを誘うものでした。しかし一部には挫折はあったものの、大抵は自分に与えられた環境に耐え抜き、精神的にも社会的にも成長してそれなりに結実させ、今日に至りました。

投稿: 廣介 | 2014年10月 4日 (土) 23時42分

 廣介さんのコメントには心を動かされました。
昭和18年生まれの、私たちは去年古稀を迎えました。中学を終えたら約半数の仲間が集団就職をしました。国鉄の中心駅から東京大阪名古屋へと旅立ちました。一人の友人を見送ったとき、この線路は東京に続いているんだと実感しました。
 同窓会ではかつての友人で元気な仲間が集まりましたが、早世した友もあり複雑な心境にもなりました。
 小生は県内で定年になりましたが、遠くで頑張った彼・彼女たちももう年齢を重ねておられるんだと思っています。去年の幹事では一生懸命頑張りました。

投稿: 今でも青春 | 2014年10月 5日 (日) 11時02分

この歌が流行頃、東京都内に若い根っ子の会っていう団体があったけれど、いまはどうなっているのでしょうか。

投稿: ヤマちゃん | 2016年9月 8日 (木) 12時02分

ヤマちゃんさん

検索してみたらありましたがこの情報も2008年、もう古いでしょうか?、
ーーーーーーーーーーーーーー
2008/4/300:02:08
いや~懐かしい言葉だな~…と思って検索してみたら、まだあるようですな。
http://www.puni.net/~aniki/archive/nekko/nekko1.html
ーーーーーーーーー

中学1年生になってひと月かふた月経った頃でした。授業中に突然校内放送がありました。
三月に卒業して大阪に就職した女の子からの便りが全校生に告げられたのです。彼女からの、中学生活が本当に楽しかったこと、先生や友達への感謝の気持ちが伝えられました。そして封には中学校への感謝の気持ちとして500円札が入っていたそうでした。お金がたまったらまた送ります、とのメモとともに。数か月経って彼女から二度目の便りがありました。再び校内放送もされました。お金も同封されていたそうです。

私が入学した年に卒業されたのだから三歳年上で見たこともない知らない女性です。今日街を歩きながら思いました。初めての給料嬉しかっただろうなぁ、その当時だと月4、5千円くらいだろうか。学校だけでなく、きっと、ご両親や兄弟にも送ったのだろうなぁ・・ そんなことを考えていたら歩きながら泣けてきました。頑張れよ・・と励ましたいのですが、彼女ももう70才なんですね。
お金、自分のために使いなさい、と言いたい。
知らない方ですが懐かしい少女です。

投稿: yoko | 2016年9月 8日 (木) 22時34分

ふっと侘しくなったときこの歌を
二木先生の「ああ上野駅」の演奏を聴きたくなるのです。貧農の長男に生まれた現在76歳の兄がせめてもの就職列車に揺られて東京へ出ていたら。持ち前の、頭脳と清廉な人柄、骨身惜しまぬ働き者ゆえに、必ずや大きな転換が訪れ一角の人間になりえたはずと。先日亡くなられた三浦朱門さんも書いていました。「人間は何処に生まれるかによって大きく左右されると。アインシュタインも アフリカの奥地に生まれていたなら日々の食料を得ることに終始したであろうと。我が兄も、せめてもの東京へでていたら夜学の道も開けていたであろう。この歌を聴くたびに人の運命、宿命を思って涙が込み上げます。その兄も 施設のベッドに寝たきり。自分の立場を受けいれて恨み言を言わなかった兄だけに「神様はいるのか」とやりきれない思いに襲われます。
注~ 高校進学の叶わなかった兄なりに
これからは「米だけではだめだ」と養豚牧場の農家に15歳で住み込み奉公。

投稿: りんご | 2017年2月13日 (月) 20時02分

りんご 様

久し振りのコメント 懐かしく読ませていただきました。
りんご様のことだから、またどこかの喫茶店めぐりの旅にでも出かけておられるのかな~と、思っていました。
昭和40年の初め頃だと思いますが、どこからでも「ああ上野駅」が流れてきましたよね。
紅白歌合戦では、この歌と〈若い根っこの会〉それにバードウオッチングの会員が双眼鏡で客席の赤白の数を数えたり…我々の年代の者には、学歴職業地位に関係なく誰もが口ずさんだ(今でも何かの拍子に気がつけば口ずさんでいますが)心に響く懐かしい曲です。
私の知人で神戸のお金持ちさんの奥様が、あこがれちゃん、私ねこの間も台所で大根を切っていたら、いつの間にやら包丁でリズムをとりながら“どこかに故郷のかおりをの~せ~て~”なんて歌ってるのよね~。と、話をされたばかりです。
本当にこの歌は、ふるさとを懐かしく感じさせられる歌ですよね。
りんご様のお兄様もきっとこの歌がお好きだと思いますよ。

投稿: あこがれ | 2017年2月13日 (月) 23時09分

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