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港が見える丘

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞・作曲:東辰三、唄:平野愛子

1 あなたと二人で来た丘は
  港が見える丘
  色あせた桜唯一つ
  淋しく咲いていた
  船の汽笛咽(むせ)び泣けば
  チラリホラリと花片(はなびら)
  あなたと私に降りかかる
  春の午後でした

2 あなたと別れたあの夜は
  港が暗い夜
  青白い灯り唯一つ
  桜を照らしてた
  船の汽笛消えて行けば
  チラリホラリと花片
  涙の雫にきらめいた
  霧の夜でした

3 あなたを想うて来る丘は
  港がみえる丘
  葉桜をソヨロ訪れる
  しお風 浜の風
  船の汽笛遠く聞いて
  うつらとろりと見る夢
  あなたの口許 あの笑顔
  淡い夢でした


《蛇足》
昭和22年
(1947)4月リリース。日本ビクターの戦後最初のヒット曲であり、平野愛子のデビュー曲です。
 B面の『泪の乾杯』も東辰三の作詞作曲で、これもヒットしました。

 昭和37年(1962)、横浜港を見下ろす高台に「港の見える丘公園」(写真)がオープンしました。公園名は、この歌から採られたものです。公園の一角にこの歌の歌碑があります。
 近くの山下公園には、かつての豪華客船・氷川丸が係留され、ホテル兼イベント会場として使われていましたが、平成18年
(2006)12月25日をもって営業終了となりました。
 現在は、横浜市の有形文化財の指定を受け、博物館船として公開されています。

 1番の情景は恋の始まりを描いたものらしいのに、ときめきの言葉でなく、「色あせた桜淋しく咲いていた」「船の汽笛咽び泣けば」といった愁いを感じさせる表現が使われています。

 これは、(この恋はうまくいかないかもしれない)という女性のかすかな不安を象徴したものでしょう。並んで歩き、言葉を交わし、はた目には仲が良さそうに見えても、心の片隅では何かしっくりしないものを感じている……そういったことはよくあります。

 2番は、その1年後の春のことだと思われます。1年前の予感は的中し、恋は終わってしまいました。

(二木紘三)

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コメント

 転勤を9回繰り替えし、最後の職場は横浜・山下公園の前でした。今、横浜は日本で一番高いランドマークビルがある、みなとみらい地区が人気ですが「港の見える丘公園」あたりの風景には、よき時代のハマが残っています。
 なお、氷川丸はリニューアルし再公開されました。
  

投稿: mituo | 2008年6月11日 (水) 20時23分

戦後できた定時制の農業高校に通っていたころ、隣町の劇場に平野愛子の「実演」を見に行きました。ナマのプロ歌手を見たのも勿論初めてのこと、さらには農地改革で帰農し貧しい農業に苦労していた父がよくもそんなことを許してくれたものと今でも不思議ですが、唯一の娯楽だったラジオで平野愛子、竹山逸郎の歌をよく聞きました。二番の歌詞の「チラリホラリ」が「チラリキラリ」または「チラリチラリ」のようにも聞こえました。詩の前後から「キラリ」でも「チラリ」でもどちらもいいなと思いました。

投稿: 林 一成 | 2008年10月23日 (木) 17時17分

この歌の作詞・作曲者東辰三は、大正時代に旧制神戸高商(現神戸大学)に学ぶ。歌を作ったのはビクターに入社してから(当時の本社は横浜)。
この歌は、神戸/横浜という2つの港町のイメージを重ねて作られたようだ。

作詞家の山上路夫氏は、東辰三(本名は山上松蔵)の息子さん。この歌は神戸/横浜双方ゆかりのものと述べておられる。

投稿: 植村達男 | 2008年11月 5日 (水) 04時22分

作詩を読んだとき、あっと思いました。
1番から3番まで最初の4行は現在の現実を述べながら、5行目の『船の汽笛……』から最後の行までは、それぞれ過去の懐かしい、楽しかった想い出を回想するという、現在と過去を同時進行させながら語るモダンな手法のように思えましたからです。

せっかく《蛇足》欄で解説いただきながら勝手な解釈で曲を聴いております。どうぞお許しください。

投稿: 下田 亮一 | 2008年11月 5日 (水) 22時00分

何かにつけて
「二木紘三のうた物語」
です
すごくお世話になっています
ありがとうございます

投稿: hawk | 2009年2月 6日 (金) 07時15分

太平洋戦争が終わって間もない頃,幼い私は母に連れられて街中に続く坂道を降りて行きました。そのとき気(け)だるく聴こえてきたのがこの曲です。空襲で焼け野原になった街には,破壊の爪跡も生々しい街灯や急ごしらえのバラックが眼につきました。その母も20年前に交通事故で他界しましたが,何故かこの曲のもつ一種の「もの悲しさ」が若かりし頃の母の面影とともに印象に残っています。

投稿: nobuchan | 2011年9月 3日 (土) 21時20分

確かに些細な事で、相手に不安を覚える事がありますね。この恋は結婚までいかないだろうという予感ですね。私は彼が歩きながら口ずさんでいた「銀座の恋の物語」に違和感を感じたのです。彼が軽薄な人に見えてしまったのです。久しぶりに会って浮いていたのでしょうが、私はこのての歌が嫌いだったのです。別れた理由はこちらの事情でしたが、ブランド品にこだわっているのも私とは違うと思えたのです。時計は動けばいい、カメラは写ればいいという主義ですから、多分結婚しても上手くいかなかったのではないかと思っています。それでもそれを超える良い所が一杯あったのに、それがわからなかった若い自分の頭を叩きたくなる時があります。あなたの口許、あの笑顔、淡い夢でした・・ですね。

投稿: ハコベの花 | 2011年9月 4日 (日) 00時43分

見合い結婚して、子らを儲け楽しい時もありました。
しかし結婚前から漠然と感じていた妻やその両親との小さな溝は埋まらず、あることをきっかけに増大し、ついには離婚しました。
もう20年以上も前のことです。
幼い子らは妻側に引き取られて行きました。
そしてとうとう今日に至るまで、子らに会えずに来てしまいました。

この歌は失恋の歌なのに、私にはいつも子らとの事が重なり、そしてなぜか癒されます。
特に3番の歌詞は、辛く寂しい思い出をやさしく柔らかく包んでくれるような気がします。

投稿: maverick | 2011年9月 6日 (火) 21時10分

maverickさんの言われるように、失恋というより別れの歌なのになぜか温かな感じがする歌だと私も思います。恨みもなく優しく思い出す静かな恋、昔はこんな恋や別れが多かったのではないでしょうか。良い歌ですね。片思いをしている
友人がこの歌を口ずさむと気持ちが落ち着くと言っております。

投稿: ハコベの花 | 2011年9月 9日 (金) 14時07分

 女性歌手が歌っていても男の歌ともとれますが、それはさて置き、1,2番の擬態語「チラリホラリ」は発売当初、平野愛子は、1番では「チラリホロリ」、2番では「キラリチラリ」と歌っていたのではないでしょうか。1,2番に共通しているのは花片の少量を表す「チラリ」ですが、1番の「ホロリ」は「咽び泣き」に照応し、2番の「キラリ」は「涙の雫」に照応していると解釈します。言葉を大切にする如何にも詩人らしい作詞者の言葉の選択だと思います。

投稿: 槃特の呟き | 2011年9月10日 (土) 23時52分

「港が見える丘」レコードの歌詞は下記のがあります。

1番 チラリホラリ 2番 チラリチラリ

1番 チラリホラリ 2番 チラリホラリ (二木さんの同じ)

投稿: なち | 2011年9月11日 (日) 08時33分

終戦後まだ二年、
ご主人や恋人を戦争で亡くされた方も多かった頃。

私には大事な方を亡くされた方がその方を慕い、思い出の場所に巡って来た、そんなふうに思えてならないのです。

投稿: ナガイ | 2012年5月29日 (火) 22時34分

「きみ待てども」「白い船のいる港」など、東辰三作詩作曲の歌は、曲と歌詞の絶妙な響き合いにほれぼれします。亡父と同年の生まれと知りました。父は1937年・1944年と二度応召して大陸で転戦、運よくと言いますか、1945年の七月に「本土決戦」のために九十九里浜に配属されて終戦を迎え、命拾いしました。しかし、おそらく戦地での無理と戦後の混乱収拾の苦労のためでしょう、帰郷後しばらくして発病、再起できませんでした。それでも20年ほど短歌に専念する療養生活を送りましたが、彼が病臥したころ、東辰三は50歳で亡くなった。惜しいことでした。まだまだいい歌をたくさん作れたでしょうに。
 ところでこのバラードの時間経過はいろいろにとれるように思われます。1番と2番の間で1年ほど経っているとも読めますが、私は同じ春のことと思っていました。3番で「淡い夢でした」とあるので、それほど長いおつきあいではなかったろうと。桜が散り始め、散り終わるまでの、もしかすると同じ日の午後から夜までの淡い、おそらくは一方的な夢。淡いとは言え、ほろりと涙ぐむ別れではありました。1番で船の汽笛がすすり泣くのは、進学か結婚か、二人が別れることがもう決まっていたから。そうして私には、2番の消えてゆく汽笛の船にその人が乗っているような気がします。3番ではもうさわやかな葉桜になっていますね。

投稿: dorule | 2012年12月17日 (月) 20時12分

1番の情景は管理人のおっしゃるように、やはり恋の始まりでしょう。2番の別れまで、その日の内や数日では少し無理があるように思います。
道ならぬ恋か、身分が違いすぎるのか、女性にはいつか別れの涙を流す日が来る事は解っていました。それでも・・
それが1番の情景だと思います。
そして2番。初めから覚悟はしていたけれど、やはり別れはつらい・・・・。
3番は、時がつらさを洗い流し、今はただあの頃の淡い夢を振り返り、思い出を楽しんでいるのです。

投稿: maverick | 2013年2月28日 (木) 21時11分

♪色あせた桜唯一つ淋しく咲いていた♪の一つは花が一輪なのか、木が一本なのか、一群れなのかとずっと疑問を感じています。雰囲気を感じ取れば良い事なのですが、気になっています。

投稿: ハコベの花 | 2013年3月 1日 (金) 16時01分

 一輪か一本か?「花片があなたと私に降りかかる」のですから、たったの一輪だけ咲き残っていたのではなく、花の盛りを過ぎた頃の桜の木を指しているのではないのでしょうか。港を見下ろす丘に桜の木が一本だけ生えている光景を想像します。静かなデートに相応しい場景だと思います。

投稿: 槃特の呟き | 2013年3月 1日 (金) 23時20分

私はこの歌を聴いた昔からずっと1輪と思っていたのですが、最近やっとチラリホラリが1輪であるわけがないと気づいたのです。それでも唯ひとつがしっくりしなくて皆さんはどう思っておられるのか聞いてみたくなったのです。私が気付くのが遅かったのですね。槃特さん有難うございます。早く桜が咲く季節になるといいですね。余談ですが、私は三好達治の『甃(いし)の上』という詩がこの世の中で1番好きです。桜を歌った詩のなかでこれほど美しい詩はないと思っています。

投稿: ハコベの花 | 2013年3月 2日 (土) 00時26分

 ハコベの花さんが、昔はずっと1輪と思っておいでだったと知って、私は、なるほど、この歌はそう受け取ることが可能なのだと気づきました。まず、素直に3行目4行目を読めば、「色あせた桜〈の花〉が淋しく咲いていた」です。「桜の木が」ならば普通は「淋しく立っていた」のようにいいますね。また、「立っていた」を使わないとしても、花だから「咲いていた」なのであり、木ならば「咲いていた」ではなく「(花を)咲かせていた」わけです。それから、木は普通「一本」で、「木が一つ」はやや珍しい言い方です。花は一輪二輪と数えますが、「一つ」と言ってもこちらはそれほど違和感がなさそうです。つまり、3行目4行目からは、「桜の花が一輪」と理解するのが自然です。
 それなのに、私が「一本の桜の木」をイメージしていたのは、槃特の呟きさんのコメントの通り、7行目に「あなたと私に降りかかる」とあるからでした。これは、いわゆる花嵐にぴったりの表現だと思います。
 しかし、改めて考えてみると、花嵐というには「チラリホラリと」では花びらの数が少なすぎます。いっそ、一輪の桜の花の5弁の花びらが1枚ずつ落ちてくるぐらいが、「チラリホラリと」にはぴったりするのではありませんか。たった5枚で「降りかかる」は大げさですが、船の汽笛がむせび泣きと聞こえる精神状態ですから、肩に落ちた1枚の花びらにも重みを感じたかも知れません。
 私は今でも3行目4行目を「色あせた花を淋しく咲かせた桜の木が一本だけ立っていた」という意味で、それを詩的な言葉遣いにかえたものと思っています。それでも、ハコベの花さんの昔の理解にも、十分に理由があると思います。
 

投稿: dorule | 2013年3月 2日 (土) 21時55分

 詩を鑑賞するセンスもウチワも持ち合わせぬ者の想像ですが、伽藍に通じる石畳(甃)の上を独りあゆむわが身を賦す達治の処女詩集の一節をこよなく愛でるハコベの花さんの感性をもってすれば、咲き残った一輪の花でも心を驚かすには充分なのでしょう。
 なお、B面の「涙の乾杯」の文語体のスタイルとは大分異なる口語体のA面の日本語の用法についの厳密な議論は詮ない事と思いますので控えて置きます。

投稿: 槃特の呟き | 2013年3月 2日 (土) 23時35分

☆ 皆様の深い読み方には敬服しました。
私がこの歌を聴き覚えたのは小学4,5年の頃ではなかったかと思います。
テレビがなかったので、ラジオ、たぶん「今週の明星」でしょう。歌詞カードなどなく、耳コピですから、「唯一つ」を「ただひとつ」と仮名聞きしてることになります。つまり、この「唯一つ」が花一輪
、木一本などと数量を表しているとは読み切れなかったのです。
 私の捉え方は、「色あせた桜(ただそれだけが)淋しく咲いていた」という意味合いのものではというものです。
 2番で、港は暗い夜、「青白い灯〈たぶん街路灯〉ただそれだけが、桜を照らしてた。というふうに。
 『唯一つ』は「ただ…だけが(のみが)」を東辰三が詩的にサラッと上手く、そして五音調に仕上げた結果では…、と思ってます。お薬服用後なので稚拙・駄文になってしまいました。
 お許しを。

投稿: かせい | 2013年3月 3日 (日) 00時29分

「貴方と私に降りかかる」ですから一輪というわけはないのですが、私が何十年も早とちりしたままいたわけです。それに気付いて自分のぼんやりに驚いてしまいました。doruleさんが指摘してくださった様にやっぱり木は1つとは言わないのですから、私が間違えたのも仕方無い事かもと自己弁護しています。作詞者も私たちが今頃こんなことを言っているなんて考えもしていなかったでしょうね。槃特さん、doruleさん有難うございました。少し前まで桜の花の下を歩いているをとめが自分だと想像していたのですが、最近甃の上を歩く青年が自分のような気がしてきました。男に近くなってきたようです。恐ろしい事です。

投稿: ハコベの花 | 2013年3月 3日 (日) 00時53分

 かせいさんが、「ただひとつ」は「ただそれだけ」ということで、木一本、花一輪という数量を問題にしているのではないと言われるのは、まったくそのとおりと存じます。「色あせた桜、それだけが」と読むならば、一輪か一木かとの悩みはありません。
 あえて一本か一輪かということならば一本、と私は考えたのですが、そう思わせる言葉は7行目の「降りかかる」だけで、ほかの語句はすべて「花」をさしています。それに気づかせてくださったハコベの花さんの詩の言葉への感覚の鋭さに私は感銘を受けました。ありがとうございました。
 ところで、ちょうどお訊ねしようと思っていたところでしたが、この歌へのコメントでは maverick さん、ナガイさん、それにハコベの花さんも、「貴男とふたりで来た丘」と決めておいでのようでした。 槃特の呟きさんは「男の歌ともとれるが」とお書きでした。私は平野愛子のレコードなど知らずに覚えたためか、私が男性だからか、「貴女とふたりで来た丘」と思い込んでいました。丘の上でうたたねしている、おそらく草に寝転んで、片膝を山形に曲げるかして、新聞紙を顔の上に広げて日射しを避けて、うつらとろりと夢を見ているのは、どちらかというと男性に似つかわしい姿と感じられるので(女性差別と糾弾されなければ幸いです)。その夢に浮かぶのは貴女の紅い口許、匂うようなあの笑顔・・。
 しかし、やはり貴男のきりりと引き締まった口許、あのおおらかな笑顔、の方がいいでしょうか? 青年の立場で感じるのも、べつに恐ろしいことではなかろうと思いますが。

投稿: dorule | 2013年3月 3日 (日) 11時16分

女性の歌手が歌っているので、自然と女性の思い出を歌っているものと思い込んでいました。そうですね、男性の思い出でも良いわけですね。でもうつらとろりと見る夢は居眠りの夢ではなく、過ぎた日を優しく思い出している状態ではないかと私は思います。昔ですから相手の肩にも手にも触れずに別れています。この女性は品の良い美しい人で、男性もきちんとした品性の良い人を想像します。夢は出来るだけ美しくありたいと私は思っています。私の遠い日の夢の歌です。

投稿: ハコベの花 | 2013年3月 3日 (日) 22時43分

暖かな日だまり、清々しいそよ風、かって貴方と語らったベンチで一人思い出に耽っています。余りに気持ち良く、ついウトウトして、あの頃の貴方と一緒にいる楽しい夢と、過去を懐かしんでいる現実とが交錯しています。

こういう情景が私の頭の中で固定してしまって融通が利きません。

投稿: maverick | 2013年3月 4日 (月) 10時02分

 公園になる前の港が見える丘にはベンチがなかったかと思って、私は草に寝転ぶことにしました。
 冗談はさておき、これほど「典雅な」という形容がぴったりするポピュラー曲にはその後絶えてお目にかかりません。典雅な夢ですね。
 私がこの歌を聴く(歌う)とき、一番ではいつも若いカップルのいる桜の下の風景がいいなあと、第三者として、遠くから眺めていました。三番になると、自分が貴女を思って丘に来る、その自分の姿が見えてしまうのですが、これは「思う」という言葉のもつ内面化の効果でしょうか。
 作詩作曲の東辰三は平野愛子の声を「濡れたビロウド」と讃えたそうですね。彼女を起用した作者はおそらく女性の歌のつもりでしょう。

投稿: dorule | 2013年3月 4日 (月) 14時57分

昭和40年春、あゝ横浜駅!、の意気高く東下りしました。ほどなく横浜港に行く機会があり、本牧山の手を通り、港の見える丘公園に入りました。その季節、横浜の桜は満開だったのですが、公園の港が見える側に立っていた一本の若い桜の木枝には丁度歌のように残り花なのか寂しく咲いていたように思います。有名な歌の舞台?のわりにはなんてことのないところだなと思ったものです。《蛇足》のご解説で、あの公園は昭和22年に作られた「港が見える丘」の歌から名が採られ、昭和37年に開園されたものだと本日、恥ずかしながら、その後40年代半ば2年も横浜港近くに勤務し、昨年も一度訪ねているにもかかわらず、初めて知り、改めてあのころを思い出しました。
三好達治の春の詩。昭和41年某日、北浦和の学寮に帰ると、いつかイエペスのギターを弾いてくれた同室の高柳氏が、旧い部屋の片隅で、室仲間はまだ戻らないと思われていたのでしょう、Enfance finie をつぶやかれたのです。あのときの感動は、忘れることができません。

投稿: 樹美 | 2013年3月 4日 (月) 15時54分

昭和22年、小生小学校6年生の時のヒット曲ですね。
未だ東京は焼け野原が沢山ありました。
そんな時代に流行歌として流行ったのを覚えています。
小生今だかって大好きな曲です。東 辰三さんの一連の曲、白い船のいる港、君待てども等の曲でいずれも平野愛子独特の声で何れもヒットしました。残念ながら竹山逸郎と離婚後世を去りました。youtubeで娘さんが港が見える丘を歌っているのを見つけ、びっくりした次第です。
横浜市内にこの歌を記念して碑があると聞いていますが
さもあらんと思った次第であります。

投稿: 高森宗光 | 2013年3月 6日 (水) 09時45分

この歌は戦争に引き裂かれた,愛し合う男女の切ない物語を秘めた歌で、戦争に出征した彼氏を想い起こして歌った歌。悲しい反戦の歌でもある。戦争に行った彼の帰りを待つ切ない女心を歌っている。敗戦後60年以上も経つと想起できなくなる人が多い。いたし方ないこと。レコードが発売されたのは敗戦直後の昭和22年。当時の人々はすぐ理解できた。悲しい反戦歌。三番の「あなたの口元 あの笑顔」はよく考えられた詞で「あなたの唇 あの笑顔」にしなかったのは優秀と感じる。そして「淡い夢でした」と結ぶ。ゆったりした旋律とあいまって、心を打つ。

投稿: 名曲ファン | 2013年7月19日 (金) 10時16分

久しぶりにこの歌を聴きました。良い歌ですねぇ。気持ちがゆったりします。高校の時、大仏次郎の『帰郷』の一部が教科書に載っていました。全部読もうと思いたち、昨年読んでみました。多分この公園だと思いますが、戦争が終わって自由になったアプレゲール達が恥ずかしげもない姿でデイトをしている姿が出てきます。もうアプレなどという言葉も聞かなくなってしまいましたね。慎ましく静かな日常が一番と思う年齢になってしまいました。来年の桜が見られます様にと願っています。

投稿: ハコベの花 | 2013年7月19日 (金) 19時45分

とっても上品なお嬢さんが思い出を歌っているようです。

そして昭和22年の時代背景を思えば「名曲ファン」の方のおっしゃる通り、出征して帰らなかった人を思っている、そんな情景しか私には・・・・。

この作詞作曲をされた東辰三氏がビクターの役員をされていた時代かなと思いますが小愚の住まい近く(横浜市保土ヶ谷区霞台の辺り)に居られたと聞いています。
当地で敗戦直後からのパン屋のおかみさんの話ですが、成程ここで・・・ここからならあの歌詞にピッタリだと思いました。
ここからは勿論横浜港が、今やランドマークタワーや周辺の高層建築群が、そして遥かに横浜マリンタワーまで一望でき、さらに桜ヶ丘の通りは地名の通り道の両側に桜の並木がそれはそれはきれいでした(今桜はほとんど伐採されました)。

神戸も港が見えるきれいな高台の多いところ、東辰三氏の脳裏に深く刻み込まれていたはずです。
眺望の良さからあの風情の良さからやっぱり神戸かなとは思いますが、横浜にもこういう場所が、そしてもはや言い伝えでしょうか、でもこんな話をしている人たちがいることをお伝えしょうと思いました。

でも本当はどこだったんでしょうね この歌の舞台は。
多分日本中どこにでもあった情景なんでしょうね。 だって昭和22年の日本ですから。
当時ラジオから流れたこの曲は 身につまされた歌だったんでしょね。
曲も歌詞も当時の荒れた敗戦直後の日本を癒してくれた名曲だと思います。

投稿: ハマのおじさん | 2013年11月28日 (木) 14時02分

平野愛子さんの娘さんで、平野淑子さん(現在は平野リリ子の芸名)でCDアルバム「たびだちBonVoyage」の中でもこの曲を歌っています。

ちなみに歌詞は1番2番とも「チラリホラリ」と歌っていました。

投稿: おジュンヌ | 2014年3月21日 (金) 10時59分

1番~2番~3番、ともに桜が咲いています。そこで疑問。1番から3番まで、どれだけの時が流れたんだろう?同じ年ってことはあるまい。桜が咲いている間に出会って別れて懐かしんで そりゃあんまりだ。じゃ、1年ずつ経過?でも、私は、この歌が作られた戦後間もなくという時代を踏まえて勝手にこんなストリーを考えてみました。
1番、戦時中、人目を忍んで若い二人が”港が見える丘”に登る。手もつなげず黙って歩きながら思いを確かめた日。
2番、次の年、その彼が港から出征する。霧の夜の別れ。必ず帰ってきます の言葉を残して。でも、結局帰っては来なかった。
3番、数十年の時が流れた。別の男と結婚した女はそれなりに幸せに暮らし、子供も巣立つ。そんなある日、ふとこの丘にやって来た女、息を切らして丘に登り、港を見下ろして思う。「あたしの人生、これで良かったんですよね。あなた。」
そんなストリーを思い描いて、もう一度この曲を聴いて下さい。うた物語。一編の映画ができそうで、泣けてきます。

投稿: 戸田和孝 | 2014年5月19日 (月) 21時28分

私は戦争のために別れた歌ではないような気がします。もしそうなら3番の歌詞はないでしょう。死ぬ事を覚悟して別れた人のことは、うつらとろりと見る夢ではないと思います。もっと悲しい痛みが身体中に広がっていると思います。淡い夢でもなくなります。本当の恋にまでなっていなかった淡い思いと別れ、それでも年月が経つと切ない気持が胸にあふれてくるのではないかと思います。皆様も甘い切なさが胸に広がることありませんか。青春に戻るひとときの心地よさ、私は大切にしたいと思います。

投稿: ハコベの花 | 2014年5月21日 (水) 23時39分

この歌が流行ったのは、わたしが小学5年の頃でした。“もの憂く気だるい”曲調の、この歌は、こども心にもすんなり入り込んで来たようで、よく歌っていたように思います。今から思えば、この歌が大流行したのは、それなりに受け入れられる素地があったことが分かります。まず、歌詞の「あなたと二人で来た丘は 港が見える丘」の出だしが新鮮だったこと。戦時中は、男女がアベック(当時のことば)で港を見下ろす丘に来ること自体が、胡散臭く見られていた時代です。難しく言えば、風紀を紊乱し、加えてスパイ行為と勘繰られていたのです。戦争が終わって、港を見下ろす丘の上で、男女が愛や恋を語れる、本当の平和な時代が来たことを、多くの人たちは知らされたのではないでしょうか。前述した“もの憂く気だるい“スローテンポの曲調も、敗戦後の荒廃した世相の中で、日々生活の糧を求めて苦闘し、疲れ果てた人たちを慰撫する力になったのでしょう。
 一見平和な、自由恋愛の今の時代でしたら、この歌は、多分流行ることはないように思うのですが、如何でしょうか。

 先日、何年かぶりで「港の見える公園」に行ってきました。地元ですが、この歳になるとなかなか行く機会に恵まれないものです。標高37米から見た横浜港の景観は、この公園が出来た当時とは隔世の感があります。今は、足下をベイブリッジや横羽線に通ずる首都高速の高架が走り、山下埠頭や本牧埠頭の巨大なコンテナクレーンが林立して、詩情とは無縁の眺望が眼前に現れます。この歌の詩情を期待して行くと、まず間違いなくがっかりされるでしょう。そうならないように、敢えて付言すると、夜間に行かれることをお勧めします。夜ですと、ベイブリッジがブルーにライトアップされ、高架や港の灯が夜景を美しく演出するのです。とすると、「港の見える公園」にふさわしい歌は、今では「ブルーライト・ヨコハマ」かも知れません。

投稿: ひろし | 2014年5月26日 (月) 15時45分

この歌手とは戦時中からご縁がありました。
うまくパソコン入力出来ないので別途郵送します。
どうぞよろしくお願いします。

投稿: 末廣照男 | 2014年5月30日 (金) 07時06分

二木先生、いつも楽しく拝見しております。ありがとうございます。
さて、この歌の舞台は、必ずしも横浜ではないという説もあるようですが、私はやはり横浜であると信じております。
私は横浜の山手の生まれ。子供のころ、大人たちはみな横浜のことを「ハマ」と言っておりました。3番の歌詞には「浜の風」とありますので、そう思うのです。昔日のふるさとを歌った歌として、親しみを感じます。
現在港の見える丘公園と港の間に高速道路が通っているのが残念です。港が昔よりもずいぶん遠くなったようにも感じられます。
それと、歌の題名は港「が」見える丘、公園の名前は港「の」煮える丘公園なのが、ちょっと気になるところです。やはり舞台は横浜ではないのでしょうか?

投稿: 川口雄二 | 2014年6月22日 (日) 09時11分

半世紀も前の話ですが,当時住んでいた同じ町内に「平野愛子歌謡教室」がありました。
場所は牛込,大久保通りの南側。当時で云うと都電13番の「山伏町」電停のすぐ近くでした。大きな看板が出ていたのと,母から「港が見える丘を歌った平野愛子さんよ」と云われたのを今でもよく覚えています。

投稿: 西班牙風 | 2014年7月28日 (月) 00時41分

「つわものの歌」や「荒鷲の歌」などの戦時歌謡で作曲家デビューを果たした東辰三が戦後すぐの昭和22年から23年初めにかけて発表した、「港が見える丘」、「白い船のいる港」、「君待てども」の連作に込めた思いを考えています。「待つ女」をテーマにしたこれらの曲が、戦後の女性風景に仮託されてはいるが、戦時中、自分が作った歌に励まされて出ていった男たちを待つ女たちへの、贖罪ではないか。「色あせた桜」、それは戦況に陰りを見せ始めた戦争末期の日本を象徴する言葉であり、そんな時期にふとめぐり合い、あわただしく戦地に去って行った男との思い出を歌ったのが「港が見える丘」であり、戦後の生活苦の中で身を持ち崩しながらも、まだ帰って来ぬ男をひたすら待ちわびる女心をテーマにすることによって、すまなかった、すまなかった、との思いを込めたのが他の二つではなかったろうかと思います。昭和25年、50歳で収録中に倒れた作曲家は、ビクターの最高幹部に上り詰めていたでしょうが、その心は酒を手放せないほど苦しんでいたのではないでしょうか。

投稿: solong | 2014年8月25日 (月) 10時24分

東辰三の三部作。平野愛子の三部曲ともいえる有名な歌。
横浜に港が見える丘というのがあるそうですね。
自分のウクレレ演奏の曲でもあります。いつ聞いてもよい歌ですね。有難うございました。

投稿: 高森宗光 | 2014年9月 8日 (月) 17時01分

今年の桜は雨や寒さにめげず長く咲き続け大阪は今が丁度この歌の風情を呈しています。
自分の何時かの過去のひとこまを歌っているようでもあり、皆さんのコメントでなお一層感慨が湧き同時に写真の港の見える丘公園、そして「NHKみんなのうた」で放送されたダ・カーポの「横浜詩集」に出てくる大桟橋・レンガ坂・外人墓地・フランス山・みなとみらい・ビルの群れ・夕映えのガラス模様・・・までもなぜかロマンを誘い是非訪れたいと思っています。
勿論「港の見える丘公園」で『港が見える丘』が聴けるそうですが、ウオークマンを持って・・・。

投稿: 尾谷光紀 | 2015年4月15日 (水) 17時28分

昭和22年にリリースされたこの「港が見える丘」、平野愛子の歌唱で大ヒット、B面の「泪の乾杯」も後に結婚することになる
竹山逸郎が歌って大ヒットとなりました。作詞、作曲をした東辰三が平野、竹山のまさにキューピットというわけですよね。
 その後間もなくして、東辰三の突然の逝去。竹山逸郎、平野愛子、二人にとってはかなりのショックだったでしょうねー。竹山逸郎はその後活動をやめてしまいますし、平野愛子もヒット曲から縁遠くなってしまい、離婚ということに……。
 1981年に平野愛子が、3年後の1984年に竹山逸郎が逝去…。

 この歌の舞台が横浜か?神戸か? 口ずさむ人にとってはその人の色々な想いもあって、制約する必要もないことでしょうね。東辰三は神戸にも横浜にも縁が有り重ねてイメージしたことでしょう。 昭和27年の映画に「朝の波紋」という、高峰秀子、池部良出演の作品があります。神戸の港を見下ろす公園で
高峰秀子と岡田英次が語るシーンがあり、岡田英次がこの「港が見える丘」を何フレーズか唄うのです。神戸にもビッタリ来るのかな……と。 本当に品のある歌ですねぇ…。

投稿: かせい | 2015年9月20日 (日) 00時47分

 「港が見える丘」は、大好きな歌謡曲の歌の一つです。特に、桜の季節になると、この歌を口遊むことが多くなります。
 「港が見える丘」に加えて、「君待てども」、「白い船のゐる港」も好きな歌です。これらの3曲は、いずれも、東辰三:作詞・作曲、平野愛子:唄によるもので、ブルース調の長調の美しいメロディ、女性の失恋の情景を詠んだ歌詞が、しっとりとした歌声によって、心地よくハートに訴えてきます。
 「港が見える丘」の歌詞の1番から3番までの時の移り変わりについては、これまで、一部の投稿者の方々が述べておられるようですが、1番から3番まですべて桜のシーズンであることから、桜の1シーズンの中に収まる短い、儚い恋を歌ったものと勝手に想像しています。つまり、1番は、満開一歩手前の頃の、希望に胸を膨らませた初デートを、2番は、散り始めの頃で、何らかの事情で別れることになった辛い思いを、3番は葉桜の頃で、失恋の傷もどうにか癒えて、懐かしく思い出に浸っている、という受け止めかたです。
 歌いながら、あれこれ思い巡らせるのも、歌の持つ奥ゆかしさによるのでしょうね。

投稿: yasushi | 2016年1月 8日 (金) 14時35分

またこの歌の季節になりましたね。近所のお宮の桜の木の下にあるブランコに乗って、夕方一人でお花見をしました。友人と憧れの人の話をしていた若い時の楽しさを思い出します。思いが届かない恋ほど懐かしさが増します。チラリホラリと散る花の下を17歳の私が憧れの青年と歩く姿を想像すれば、私の心は少女に戻ります。心はいつも自由です。80歳になった彼を私は想像することができません。17歳の私と21歳の彼が桜の散る中を歩きます。青春は何と素晴らしい事か!桜は夢を誘います。

投稿: ハコベの花 | 2016年4月 8日 (金) 22時24分

ハコベの花さまのコメントで、久し振りにこの曲を聴きました。
文通で知り合い一度も会ったことのない彼女・現在では、私と同じ後期高齢者の仲間入りでは・・・
当時、実際に彼女と出会うことがあったなら、私の人生も変わっていたのではと・・・あの頃の青春を懐かしく想い出しています。

投稿: 一章 | 2016年4月 9日 (土) 22時44分

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