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児島高徳

 (mp3制作:二木紘三)

作詞:不詳、作曲:岡野貞一

1 船坂山や 杉坂と
  御(み)あと慕いて 院の庄
  微衷(びちゅう)をいかで 聞えんと
  桜の幹に 十字の詩
  「天勾践(こうせん)
  空(むな)しゅうする莫(なか)
  時(とき)范蠡(はんれい)
  無きにしも非(あら)ず」

2 御心(みこころ)ならぬ いでましの
  御袖(みそで)露けき 朝戸出(とで)
  誦(ずん)じて笑(え)ます かしこさよ
  桜の幹の 十字の詩
  「天勾践を 空しゅうする莫れ
  時范蠡 無きにしも非ず」

《蛇足》 大正3年(1914)に発表された尋常小学唱歌。
 『太平記』のなかの有名なエピソードを歌にしたものですが、このむずかしい歌詞が小学生用として採用されたのは、驚くべきことです。

 元弘の乱のとき、南朝の忠臣・児島高徳は、後醍醐天皇が北条方に敗れて隠岐に移される途中、その身を奪いかえそうとして行列を追いました。
 美作
(みまさか)――岡山県の北部――の院ノ庄で行在所(あんざいしよ)に潜入したものの、近づくことができず、庭木の幹を削って「天莫空勾践 時非無范蠡」と書きつけて立ち去った、という話です。

 勾践は、中国古代春秋時代の越の国王で、ライバルの呉王(ごおう)闔閭(こうりょ)を破ったものの、その息子の夫差(ふさ)に敗れて降伏しました。雌伏する勾践に仕え、呉王夫差を討って「会稽(かいけい)の恥」をすすがせた忠臣が范蠡です。
 つまり、児島高徳は、自分を 范蠡になぞらえて、自分の気持ちを後醍醐天皇に伝えようとしたわけです。

 児島高徳についての記述は『太平記』にしかなかったために、一時は架空の人物とする説もありましたが、現在では実在説が有力になっています。

(二木紘三)

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コメント

小学校時代、この歌の歌詞について、担任の先生が熱っぽく説明、教えてくれたことが懐かしく思い起こされます。
その後「太平記」を読み、現地を訪ねたこともあります。
その先生も今はおりません。
名曲だと思います。

投稿: 柾木 忍 | 2007年9月13日 (木) 17時09分

 児島高徳の物語は知っていたのですが、どうも曲の方が手に入らなくて……
 耳なじみの良いいいアレンジですね。男らしさのあって哀愁漂う曲調が好きです。

投稿: 自称文学青年 | 2007年12月30日 (日) 18時35分

小四の学芸会でこの歌をオルガンで弾きました。
その頃独身の叔父が教えて呉れました、この歌の替歌に「天保銭(テンポウセン)(八厘硬貨)を空しゅうするなかれ、時に半銭(ハンセン)(五厘硬貨)なきにしもあらず」(あんたは私の事を「八厘・八厘」の智恵足らずと馬鹿にするが、世の中には「五厘」位のやつもいるじゃないか)を大声で歌いました。昭和初年には未だ天保銭も五厘硬貨も通用していましたっけ。

投稿: 末廣照男 | 2008年6月 8日 (日) 06時13分

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