« 高原の旅愁 | トップページ | おんな船頭唄 »

天国に結ぶ恋(悲恋大磯哀歌)

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:柳水巴、作曲:林純平、唄:徳山璉・四家文子

(男)
 今宵名残りの三日月も
 消えて淋しき相模灘(さがみなだ)
 涙にうるむ漁火(いさりび)
 この世の恋の儚(はかな)さよ

(男)
 あなたを他所(よそ)に嫁がせて
 なんで生きよう 生きらりょか
 僕も行きます 母様の
 お傍へ あなたの手を取って

(女)
 ふたりの恋は清かった
 神様だけが御存知よ
 死んで楽しい天国で
 あなたの妻になりますわ

(男女)
 いまぞ楽しく眠りゆく
 五月(さつき)青葉の坂田山
 愛の二人にささやくは
 やさしき波の子守唄

《蛇足》 昭和7年(1932)5月9日朝、神奈川県大磯町、東海道本線大磯駅北の裏山で松露(しょうろ)というキノコ を探していた地元の若者が、若い男女の心中遺体を発見しました。
 男性は学生服に角帽、女性は藤色の和服姿で、裾が乱れぬよう両膝を紐で結んでいました。

 男性は東京の調所(ずしょ)男爵家の一族(甥)で、慶応大学経済学部3年の調所五郎(24歳)、女性は静岡県の素封家の三女・湯山八重子(22歳)でした。残っていた空き瓶から、猛毒の昇汞水(しょうこうすい)による自殺とわかりました。
 昇汞水は塩化第二水銀のことで、写真が趣味だった五郎が現像液を作るときに使っていたものでした。

 調所家に残されていた五郎の遺書やその前のいきさつから、八重子の両親から交際を反対されたのを悲観しての自殺とわかりました。下記がその遺書ですが、句読点に乱れがあるので、それを整理して掲載します。

 もし私が明六日になっても帰らなかったら、この世のものでないと思ってください。かずかずの御恩の万分の一もお返し出来なかった自分を残念に思ってゐます。御相談申し上げなかったのは八重子さんにわたくしを卑怯者と思はれたくなかったからです。そしてお父様にこの上御心配をかけたくなかったから。姉さんに約束した赤ちゃんの写真も撮らずに終ひました。
 梶原さんに頼まれた複写の原画は暗室の棚の下の段の右側に封筒に入れてあります。写真器は押し入れの中に乾板が六枚入ってゐるから自分でやって下さるように。ハレーション止めしてある乾板ですから。
 幸子を可愛がってやって下さい。本当の兄妹がもう宅に居らなくなってしまふから。
 湯山さんのお宅の方が見えたら八重子さんから戴いた手紙は全部纏めてありますから、見せるなり差しあげるなりしていただきたいものです。八重子さんにいただいたものも全て纏めて集めてあります。
 スエーターはお母さんが在り場所を知っていらっしゃるでせう。小さな押入れの三つの箱がさうです。写真はアルバムに貼ってあるのと、アグフアのクロモイゾールの箱に入れてあるので全部です。一緒のバンドで結へてあるのは皆さうです。先月の十七日以来心掛けて全部片付けて置きました。もう思残すことはありません。
 生みの母、懐かしいお母さんのお墓にお詣りして来ました。直ぐ傍にゐることが出来ませう。では皆さんさようなら。明日は早く起きなくっちゃなりません。

 七年五月五日夜更け 五郎

 2人の遺体は、その日のうちに海岸近くにある法善院の無縁墓地に仮埋葬されました。
 ところが翌朝、八重子の遺体だけが墓地から消えていることが判明、探索の結果、墓地から100メートルほど離れた船小屋の砂の中から全裸の遺体が発見されました。
犯人は、近くの火葬場に勤める65歳の火葬人夫でした。
 検死後、警察は「遺体は純粋無垢の処女であった」と発表しました。この異例の発表には、双方の親の意向が働いていたといわれますが、真相はわかりません。

 2人が死んだ場所は、三菱財閥のオーナー家・岩崎家の所有地の一部で、小高い丘の上でした。地元では八郎山と呼ばれていましたが、取材した新聞記者が、そんな名前は悲恋にふさわしくないと考え、近くの地名をとって勝手に坂田山と名付けて記事にしました。
 その記事により、事件は「坂田山心中」として全国に知られ、人々の涙を誘いました。

  事件のわずか1か月後、松竹映画『天国に結ぶ恋』が封切られ、大ヒットしました。その主題歌がこの歌です。上の写真は映画の1シーン。
 事件のあと、1年ほどの間に同じような心中が続発し、その数は20件に及びました。そのなかには、映画館で『天国に結ぶ恋』を見ながら服毒心中したり、主題歌のレコードを聴きながら心中したカップルもいたといいます。

 柳水巴は西條八十の変名です。レコード会社から作詞の依頼があったとき、事件に便乗した際物ということで断ったそうですが、再三の要請を断り切れず、変名で作詞したと伝えられています。
 気の進まない作詞だったにもかかわらず、その詞はみごとで、結ばれない恋を美しく歌い上げています。この事件が、おぞましい後日談に汚されることなく、世紀の悲恋として全国に喧伝されたのは、この歌に依るところが大だったといってよいでしょう

(二木紘三)

|

« 高原の旅愁 | トップページ | おんな船頭唄 »

コメント

坂田山心中事件は私が小学校の三年生の時に起きた事件で、当時、私は大磯町に隣接する神奈川県の平塚市に住んでおりましたから、母親からその事件のことや猟奇めいた話を聞き、子供心にも大変驚き、かつ、興味をもった記憶がありますが、やがて流行りだした「天国に結ぶ恋」を友達と一緒に唄ったりしました。それはともかく、お断りしなければなりませんのは、二木さんの「蛇足」の中で「調所五郎は男爵の息子」だったとありますが、正しくは「男爵の甥」で、父親は銀行員、後に元東京貯蓄銀行の支店長まで上りつめた人だったそうです。調所家はクリスチャンで、クリスチャンは自殺は許されませんから、調所家では多摩に別な墓所を買い、墓石には五郎の名前に寄り添うように妻・八重子と刻み込まれた比翼塚を建てて、二人を手篤く葬ったそうです。有名な大磯の鴫立庵の庭にも二人の比翼塚があるそうです。詳しくは、大磯在住の私の友人が書いたホームページ「大磯幻想花」をご覧下さい。

投稿: 石田福蔵 | 2007年9月 6日 (木) 15時24分

石田福蔵様
 興味深い情報をありがとうございました。
 「息子」はさっそく訂正しました。

投稿: 管理人 | 2007年9月 6日 (木) 23時42分

こどもの頃、よく母が台所で歌っていたのを聞きました。
作詞者が西条八十であったこと、またこんな猟奇的な事件だったことなど、初めて知りましたが、世間のひとは知っていたのでしょうか。
作曲者 林 純平 とはどんなひとなのでしょう・・・。
「うた物語」は楽しく、参考になり、よく知っている歌でも、新鮮な気持ちで聞きまた歌っています。

投稿: 林 一成 | 2007年9月10日 (月) 19時15分

私は74歳になる初老になる物です。
この悲しい悲恋の歌は50数年前、学生時代に耳にしてから忘れられぬ一曲です、今でも独りの時は口ずさんでます、何故なら
死ぬまでの度胸は無かったけど、人には言えない男女間の喜び
悲しみの思い出を今も、もちつずけて居るからです。

投稿: 仙波昌雄 | 2008年3月15日 (土) 17時23分

この「天国に結ぶ恋」と、「琵琶湖哀歌」は、僕にとって忘れることのできない不思議な曲なんです。いつのころからだったのでしょう、小学生の4・5年生ごろからだったでしょうか。
 ラジオから何度か聞こえてきた、これらの曲が子供ながらに耳に残り、同世代の友など全く知らないのに、よく口ずさんでいました。歌詞も知らず、曲の名も??、もちろん、内容もわからずにーーー。このメロディーが何故かくも、子供に共感を与えたのでしょう。未だもって分かりません。何故なのか。

 そのまま、知るチャンスもなく過ぎてしまっていてもおかしくはなかったのですがーーー

 医者になりたてのころの医局旅行で、年長の小児科の婦長さんとバスで同席になったのです。場をもたせるためもあり、話のはずみもあり、これらのメロディーについて 知っておられませんか?? 知っておられたら教えてください。 と話したのです。偶然、どちらの曲もよく知っておられ、僕の拙い記憶の間違いも修正でき、後日メモに書いて歌詞、題名を手渡してくださいました。  これらの曲は、最初から好く知る運命にあったのでしょうか。それ以降、自分にとってかけがえのない曲となりました。今でも、そのメモはしまってあります。
  
  坂田山心中    と 
  四高(現在の金沢大学)のボート部の遭難事故

 何故、子供心にこの悲しい事実を題材にした曲にひかれたのでしょうか?? わかりません。メロディーを好む好まないの判断は、頭のどの部位でどうなされているのでしょう。耳から聞こえてくる音をキャッチする部位と考える部位と、それぞれ別でしょう。医学・科学が進歩するだろう100年200年たっても、解明されないでしょうね。どの音に、どの旋律に、どの言葉に人が支配され、好悪の判断をしていくのか?? 面白いですね、不思議ですよね、ーーーそれぞれの人間の個性は。持って生まれたDNAも異なり、生活環境も異なるのですからね。
 興味あるお話をしましょう。先祖のことをかんがえられたことはありますね。自分より12代前のご先祖が何人おられたかわかりますか?? 12代前というと、そうです 大体250年から300年前くらいでしょうか。江戸時代の半ばごろーーあなたの、僕の12代前のご先祖さんは、約1万人おられるのですよ。だからなんだとも叱られるかもしれませんね。その1万人の方々のDNAが混ざり合って、あなたも私もつくられているのです。いろんな多様性の考え・感性があるのは当然ですね。いってみれば、みんなどこかで繋がりあった兄弟なんですよ。いがみってはいけないのです。助け合って、ゆっくり深呼吸のできる世界をつくりたいですね。
 また、勝手なことを書いてしまったようです。
  二木先生  申し訳ありません。

投稿: 能勢の赤ひげ | 2008年4月 7日 (月) 22時27分

 調べ物をしている折、このブログに出逢いました。心惹かれる幾つかを開いて《蛇足》(実はこのブログのメイン)を拝読いたしました。綿密な調査を踏まえてのご執筆に、「脱帽」と申す以外に詮術を知りません。
 処で、重箱の隅を突付くようですが、調所五郎の遺体は学生服に「角帽」とあるのは当時の新聞報道を引き写したものなのでしょうか。慶應の大学生が角帽を着用していたと言うのが腑に落ちない次第です。慶應生は丸帽が一般だったのではないかと想像しております。

投稿: 槃特の呟き | 2008年8月 7日 (木) 00時26分

槃特の呟き様
 大学生の角帽は東京帝国大学が制帽として制定したのが始まりで、その後開設された他の帝大、官立単科大学、私立大学もそれに倣ったことから、角帽=大学生の制帽というイメージが定着しました。つまり、角帽が普通名詞化したわけです。慶応の制帽が丸いということはほとんど慶応関係者しか知らず、丸帽という言葉は慶応の内部用語といっていいでしょう(これは想像ですが、現代の慶大生は、応援団員を除き、丸帽という言葉さえ知らないかもしれません)。
 新聞記者は、たぶん、慶大生・調所五郎が制帽をかぶっていたという意味で角帽という言葉を使ったのではないでしょうか。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2008年8月 9日 (土) 16時02分

二木先生 ご無沙汰しております

無性に この曲が聞きたくなりました 
聞きながら早いものですね この曲にコメントさせていただいて五年が過ぎていることを認識しています

僕だけ特別かも知れないですが 人は成長しないもののようです  落ち込む材料がでてくると まず自分の居心地のよい場所ににげるもののようです 今日の僕の場合は脳の一番大切なものを管理する核シェルターのような位置にしまいこまれている曲へとひかれていったのですね

ゆっくり気を落ち着けて さぁ出発です
 
 いつも先生のサイトで助けられます
    有り難うございます

投稿: 能勢の赤ひげ | 2013年6月 9日 (日) 20時14分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 高原の旅愁 | トップページ | おんな船頭唄 »