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国境の町

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:大木惇夫、作曲:阿部武雄、唄:東海林太郎

1 橇(そり)の鈴さえ 寂しく響く
  雪の曠野(こうや)よ 町の灯よ
  一つ山越しゃ 他国の星が
  凍りつくよな 国境(くにざかい)

2 故郷はなれて はるばる千里
  なんで想いが 届こうぞ
  遠きあの空 つくづく眺め
  男泣きする 宵もある

3 明日(あす)に望みが ないではないが
  頼み少ない ただ一人
  赤い夕日も 身につまされて
  泣くが無理かよ 渡り鳥

4 行方知らない さすらい暮し
  空も灰色 また吹雪
  想いばかりが ただただ燃えて
  君と逢うのは いつの日ぞ

《蛇足》 昭和9年(1934)リリース。この年、室戸台風が阪神を直撃し、全国で死者・行方不明者3036人、全壊・半壊・流失家屋8万2000戸あまりという大被害を出しました。
 また、東北地方が大凶作に見舞われ、窮乏による自殺・行き倒れ・娘の身売りが続出しました。

 アメリカからベーブ・ルースを主将とするプロ野球団が来日したのも、この年でした。対戦した日本側チームがいずれもボロ負けするなかで、18歳の沢村栄治投手が、静岡県草薙球場で大快投を演じました。
 1対0で負けはしたものの、1回から4連続三振、6回まで被安打2という、当時の彼我の実力差を考えると、奇跡的ともいうべき成績でした。

 四方を海に囲まれているうえ、長い間鎖国してきた日本では、一般国民が「国境」を意識することはほとんどありませんでした。
 日本人が国境を体感するようになったのは、明治政府が大陸に向かって侵略的進出を開始してからです。その波の先頭には軍人と、国策に乗じて利益を得ようとする民間人たちがおり、そのあとに国内における閉塞状況から脱したいと願う庶民が続きました。
 庶民の閉塞状況は、ほとんどの場合、経済的困窮によるものでした。

 この歌の背景には、そうした社会状況がありました。

(二木紘三)

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コメント

遠い遠い少年時代、この歌を聴き,過ごした日のことが昨日の如くに思い出されます。東海林太郎の直立不動の姿勢とともに、、、、。
その後2番の歌詞を実感するとは夢にも思いませんでした。
名曲だと思います。

投稿: 柾木 忍 | 2007年9月13日 (木) 16時54分

諸事情で中国に置き去られた同年輩の方々と共に歌いたいような気持ちにもなる歌詞で、今年も来日中の数名の朋友に贈りたい詩でもあります。
戦中から戦後、国内で過ごした我らも、そして外地なかんずく中国で幼少時を過ごさざるを得なかった同期の同胞たち・・幸あれとエールを贈りたいと思います。

投稿: 松浦 明 | 2007年11月17日 (土) 21時57分

数年前、私は日本語ボランティアの一員として、旧満州、中国吉林省延辺朝鮮族自治州のどんずまりで、北朝鮮との国境の町「図門」に行きました。図門大橋の橋の真ん中に赤い線が引いてあって「辺境線」(「辺界線」?)と書いてあります。線の向こうは北朝鮮です。

私達は線をまたいで写真を撮ったりしました。中国側に兵士が一人立っていますが、見てみぬふりです。有料の観光地になっているのです。北朝鮮の将軍様のグッズやたばこなどを売る店もあります。

我々の中に、先の戦争のとき隣街の「琿春」から、親に手を引かれて命からがら日本に逃げ延びた人がいました。彼はその当時まだ4^5歳だったようです。生まれた土地に帰ってきて、そのことを団長に話したら、そこの街の名士にも合わせてもらい親切にしてもらい、大感激でした。

帰りの船でのカラオケ大会で、彼が胸を詰まらせながら歌った「国境の町」を聞くと、彼を思い出します。

投稿: 吟二 | 2008年9月 3日 (水) 23時39分

83歳の老人男子です。最近子供の頃に耳に残った大正・昭和の歌のテープをマイカーのプレーヤで聞いて、この「国境の町」のメロディがとくに身にしみます。さてこの「国境の町」場所はどこなのか 知りたいのです。誰かご存じ方教えて下さいる。終戦直前軍学校で渡満中私は旧満州安東で終戦を迎え8/16日鴨緑江を渡り、早くに日本に帰国しました。なにか説明を聞いていると、この「国境の町」が旧安東か、北の図門のようでもあり分かりません。教えて下さい。

投稿: 野原 繁三 | 2009年7月 4日 (土) 21時32分

野原様
 下記のような記事がインターネットにあります。ご参考までに。

 綏芬河〜虎頭
さすがにこの町は国境の町であり異国情緒漂う町だ。 ... 東海林太郎のヒット曲「国境の町」は、この綏芬河が舞台と言われている。 国境の町. 東海林太郎歌. 大木惇夫 作詞. 阿倍武雄 作曲. 橇の鈴さえ 淋しくひびく. 雪の荒野よ 町の灯よ ...
http://www2u.biglobe.ne.jp/~akashids/ryokou/kotou/futou18.html

 ちなみに、この「綏芬河」(すいふんが/Suifenhe)は、中国黒龍江省南部に位置し、東をロシア沿海地方と27kmにわたって国境を接しているそうで、現在はハルピンについで発展しているそうです。

投稿: 吟二 | 2009年7月 5日 (日) 08時07分

吟二さま
思いがけず早速のお知らせ大変有り難うございました。「国境の町」の舞台が丹東(安東)では雰囲気が出ないとおもっおり、「綏芬河」(すいふん)ならピッタシの感を受けます。軍の先輩が「綏芬河小唄」を歌ってくれたことがあり、いま西条八十の「綏芬河小唄」の冒頭に「流れ流れて綏芬河」とあり、多くの兵隊さんや軍人も含めて行きたくない厳しい最果ての町のようで、この「国境の町」の歌が生まれたのでしょう。適切な別のURLもご紹介下さり、国境の要塞「虎頭」の大戦最後の激戦も恥ずかしながら今頃知りました。ちなみに私はソ連参戦まで牡丹江の南・東京城・軍・飛行場に居ました。

投稿: 野原 繁三 | 2009年7月 5日 (日) 16時16分

二木先生

この曲は昭和28年に職を変えて東京から北海道へ移って来たときの思い出です。
明け方洞爺丸が函館に近づいたときに、スピーカーからこの曲が薄暗い船室に流れました。外はまだ明け切っていませんでした。遠くへ来たものだという気持ちと、想いを断ち切ってきた人を思い、深く沈んだ気持ちになったものです。
翌年洞爺丸は15号台風で沈み、遺体の死体検案をしに函館へ行き、あのときのことを思いだしました。
今でもあのときの寂しいメロディーが忘れられません。

投稿: 遠藤雅夫 | 2010年5月21日 (金) 10時30分

私は昭和16年綏芬河で軍人の子として生を受けました。この歌は最も好きな歌の一つでカラオケで時々歌って同僚から古い古いとよく言われました。この「国境の町」の歌が綏芬河が舞台だったことは知りませんでした。そう言えば今92歳で施設にお世話になっている母が東海林太郎だったか「緑の地平線」の楠繁夫だったか忘れましたが慰問に来たとか言っていたのを覚えています。いずれもいいメロディーですね。それにしてもこのサイトへのアクセス数が2千万件を超えているとは驚きです。
綏芬河といえば「綏芬河小唄」をかって浅丘雪路が歌っていたのを聴いたことがあります。

投稿: 小林祐一郎 | 2010年12月 6日 (月) 19時33分

この欄で皆様方の懐旧あふれる思い出を懐かしく拝見しております。子どもの頃から何度となく耳にした『国境の町』ですが、私がイメージにした国境とは満州の西の果て、ロシアとの国境『満州里』だろうと漠然と考えておりました。実際には綏芬河であったとのこと。綏芬河といえばその東には興凱湖、さらにその東はウラジオストック。寒冷の地が思いやられます。私は昭和23年生まれです。

投稿: 乙女座男 | 2012年7月29日 (日) 16時28分

 田舎の中学に入ったときはまだ「戦時中」、歌と言えば軍国歌謡がほとんどで、時たま耳に入るロマンチックな「流行歌」に軍国少年は胸を揺すぶられるのでした。「国境の町」もその一つですが、東海林太郎が歌った、というような情報はずっと後になるまでなにも知らず、ただ、誰にもにらまれる心配なしに歌えるいい歌、なのでした。
 ところで、成人してから知った大木敦夫作詩は四節構成で、三番に:
   明日に望みがないではないが
   頼み少ないただ一人
   赤い夕日も身につまされて
   泣くが無理かよ渡り鳥
 とあります。私の聴ける音源では掲載されている歌詞のとおりで、この三番がないのですが、最初から省略されていたのでしょうか。歌と同じ長さの間奏が入っていますから、SP盤のためには長すぎるというわけではないようです。私の気に入っている歌詞なので、省略〈削除?)された事情がお分かりでしたらお教え頂ければありがたいと思います。

投稿: dorule | 2012年12月14日 (金) 15時05分

dorule様
3番を追加しました。
この歌にかぎらず、4番以上ある歌は、歌集では編集の都合上いずれかの聯が省略されることがよくあるようです。私がこのmp3を作ったとき使った歌集にも3番までしかありませんでした。
レコードや放送では、できが悪いと目された聯が飛ばされてしまうケースがままあるようです。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2012年12月15日 (土) 00時35分

管理人様
さっそく3番を入れてくださいましてありがとうございます。私のつまらぬコメントに応じて、歌詞ばかりか演奏の方まで作り直していただき、まことにおそれいります。レコードで省略されていることに特別深い意味はないのですね。しみじみと聴きながら、「〜泣くが無理かよ渡り鳥」と声を合わせました。

投稿: dorule | 2012年12月16日 (日) 11時48分

昭和時代の数ある流行歌の中でも名曲中の名曲だと思います。東海林太郎さんが直立不動の姿勢で唄われていた姿を今でも想い出します。小生、時折、昭和初期の「蓄音機」で、SP盤でこの原曲を聴きタイムスリップしたような気分になっています。昭和期のSP盤にご興味があられる方がいらっしゃいましたらご意見等拝聴できましたら幸いです。

投稿: 一章 | 2015年7月24日 (金) 21時57分

早いものでこの曲に投稿してから丁度1年が経過しました。
曲目一覧を見ていたらいつの間にかこの曲を開いていました。
名曲はいつ聴いてもいいものですね!
来年は、喜寿を迎える後期高齢者ですが、60歳定年退職後、普通車の免許を取得、現在、弁当・食材等の宅配の業務を・・・1日の走行キロ、平均して74キロほど・・・
私の元気の源は、晩酌に芋焼酎を飲み、このサイトを開き、多くの愛好者の方々のコメントに癒されていることです。
明日も頑張るぞ!

投稿: 一章 | 2016年7月25日 (月) 21時49分

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