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埴生の宿

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:J. H. Payne、作曲:H. R. Bishop、日本語詞:里見義

1 埴生(はにゅう)の宿も わが宿
  玉の装い うらやまじ
  長閑(のどか)なりや 春の空
  花はあるじ 鳥は友
  おお わが宿よ
  楽しとも たのもしや

2 書(ふみ)読む窓も わが窓
  瑠璃(るり)の床(ゆか)も うらやまじ
  清らなりや 秋の夜半
  月はあるじ 虫は友
  おお わが窓よ
  楽しとも たのもしや

                  Home, Sweet Home

1. Mid pleasures and palaces though we may roam,
   Be it ever so humble, there's no place like home;
   A charm from the sky seems to hallow us there,
   Which, seek through the world, is ne'er met with elsewhere.
    (Chorus:)
      Home, home, sweet, sweet home!
      There's no place like home, oh, there's no place like home!

2. An exile from home, splendor dazzles in vain;
   Oh, give me my lowly thatched cottage again!
   The birds singing gayly, that come at my call --
   Give me them -- and the peace of mind, dearer than all!
    (Chorus:)

3. I gaze on the moon as I tread the drear wild,
   And feel that my mother now thinks of her child,
   As she looks on that moon from our own cottage door
   Thro' the woodbine, whose fragrance shall cheer me no more.
    (Chorus:)

4. How sweet 'tis to sit 'neath a fond father's smile,
   And the caress of a mother to soothe and beguile!
   Let others delight mid new pleasures to roam,
   But give me, oh, give me, the pleasures of home.
    (Chorus:)

5. To thee I'll return, overburdened with care;
   The heart's dearest solace will smile on me there;
   No more from that cottage again will I roam;
   Be it ever so humble, there's no place like home.
    (Chorus:)

《蛇足》 イギリスの作曲家ヘンリー・ローリー・ビショップ(1786-1855)のオペラ『ミラノの乙女クラリ(Clari, the Maid of Milan)』のなかの1曲ですが、今ではイングランド民謡として定着しています。

 『ミラノの乙女クラリ』の初演は1821年ですが、"Home sweet home" がそのなかの1曲として歌われたのは、このオペラがロンドンのコヴェント・ガーデンで上演された1823年のことです。作詞者はアメリカ人のジョン・ハワード・ペイン(1791-1852)

 ペインは、アメリカ・マサチューセッツ州の名家の息子として生まれ、長じてイギリスに移住。最初は俳優として活躍しましたが、その後は著作に専念、晩年はアメリカ領事としてアフリカ・チュニスに赴任し、そこで亡くなりました。

 埴生の埴は黄赤色の粘土のことで、埴生は埴を産する土地、または埴のこと。「埴生の宿」は粗末な住居の意。
 瑠璃はサンスクリットから来た言葉で、七宝、すなわち古代インドや中国で珍重された金銀など7種類の宝石の1つ。

 末廣照男さんからの情報により、『埴生の宿』が本邦で初演されたのは黒船の来航時だったとわかりました。
 すなわち、嘉永7年
(1854)年、日米和親条約が締結されると、その批准のため、ペリー提督は参謀長に軍艦2隻を率いて本国へ先発させましたが、その送別の際に演奏されたのがこの『埴生の宿』だったそうです。

 その前に、ペリー提督は懇親のため、幕府高官を招いてミンストレル・ショーを披露しました。この時期、フォスターが盛んに作曲活動をしていたことから、『主人は冷たき土の下に』など彼の作品が軍楽隊の演奏に合わせて歌われたとのことです。
 ミンストレル・ショーについては、『
主人は冷たき土の下に』の「蛇足」をご参照ください。
 以上の記録は横浜開港資料館に残っているそうです。

 2番の「瑠璃の床」はユカかトコ(ベッド)かはっきりしませんが、眠り草さんが調べて下さったところ、初出は明治22年(1889)12月22日刊行の東京音楽学校蔵版『中等唱歌集』で、その歌詞ではユカとなっているそうです。私も確かめました(『池田小百合 なっとく童謡・唱歌』より)

 ところが、明治38年(1905)8月17日発行の教育音楽講習会編『新編教育唱歌集』(東京・開成館)に採録された楽譜ではユカとなっていますが、歌詞にはトコとルビが振ってあります。これがユカとトコが混在して歌う人を迷わせる原因になっているようです。

 そこでどちらを採るかですが、やはり初出版に拠るべきだと思います。
 『大辞林』によれば、埴生の小屋とは、「土の上にむしろなどを敷いただけの粗末な小屋。また、土で塗っただけの粗末な家」とあります。この歌の埴生の宿
(小屋)にもユカがなかった可能性があります。それとの対比で考えると、やはり「瑠璃のユカ」とするの妥当なようです。

 で、この件はいちおう決着がついたものとします。

 以前私は床はトコ(ベッド)ではないかとする根拠について、『グリーンスリーブス』にあるように、古い時代にはベッドは貴重な財産だったと書きました。
 そう思ったもう1つの根拠は、18世紀ぐらいまで、オランダの貧しい農民はベッドどころか横になる場所もなく、押し入れの2段目のような場所に家族全員が腰を掛け、前の横棒か後ろの壁に寄りかかって寝るのが普通だったという話を読み、その絵も見たことです。
 この印象が非常に強かったので、床はトコであろうと思ったのです。

(二木紘三)

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コメント

「埴生の宿」懐かしい名曲です。
この歌を愛唱していた往時が偲ばれます。
「ビルマの竪琴」という小説の中にも、戦争中の逸話として載っていたかと思います。実話かは知りえませんが、、、、。、

投稿: 篠崎信夫 | 2007年9月10日 (月) 10時52分

二木先生、こんにちは。いつも楽しく聴かして頂いています。むかし観た
映画「ビルマの竪琴」の中で主人公の安井昌二さんがジャングルの中でふるさとや戦友の事を想ってこの曲、埴生の宿を引いていたシーンが忘れられません!さっそく取り上げていただきありがとうございました。

投稿: 儀間 彦二郎 | 2007年9月10日 (月) 20時40分

私は随分以前より二木先生の部屋を覗かさして頂いてますが、
ネット界に先生の様な方が居て下さると言うことは実に嬉しいことです。
                  岐阜県養老郡在住 59歳


投稿: 伊藤 | 2007年9月11日 (火) 16時57分

名作「火垂るの墓」で、最後にこの〝埴生の宿〟が流れて来ます。
疎開先の親戚で差別(いじめ)にあった兄妹は、やがてこの家を出て川沿いの
防空壕で楽しく自由気ままな生活をはじめるが、それはつかの間の幸せだった
やがて、妹の節子は飢えで病気になり兄の清太がスイカを口に運んでやるが・・・
しかし、最後に「兄ちゃん、おおきに・・・」と言って4歳の幼さで生きを引き取ってしまう
これまでの楽しかった想い出が回想シーンとなって描写され、その時この埴生の宿が流れて来ますが、この曲あまりにも嵌り過ぎていて涙が止まりません。


投稿: 田村 | 2007年9月22日 (土) 20時32分

つい何気なく二木さんのサイトに入る時、初めに聴くのはだいたい「埴生の宿」です。その次が同じ「ハ行」の「浜辺の歌」という定番コースで、どちらの曲も心を落ち着かせてくれます。
「埴生の宿」は子供の頃から好きな曲ですが、映画「ビルマの竪琴」で水島上等兵が奏でるシーンが忘れられません。 特に、中井貴一さんが演じる水島上等兵の僧侶姿が印象に残っています。
本当に心が安まる曲で、わが“埴生の宿”でこれを聴いていると、人生はこれでいいんだなと思ってしまいます。全てが足りている気分になります。「足りるを知る」ということでしょうか。

投稿: 矢嶋武弘 | 2008年2月 3日 (日) 16時31分

1940年頃、旧制中学の二年生の私は、学校帰りの私塾通いも何時も一緒の親友宅に、学期末試験の頃には何時も泊まりに行きました。長屋暮らしの我が家とは大違いで、裕福な歯医者の養子の彼は自分専用の勉強部屋があり、理数系が得意な私と文系が得手な彼とは、ノートを見せ合ったり、解答を教え合ったりしましたし、養母様からおやつや夜食の差し入れがあって大変感謝したものでした。その頃珍しい手捲きの蓄音機で、女性歌手のこの曲の独唱を聞いたのが、外国の歌曲を生涯愛唱する端緒となり"Mid pleasuas and palaces " 以下は今迄何十回、何百回愛唱したか知りません。それ以後は兎に角、外国語の教科書や参考書をやたらと買い込んでは文法・作文・読解等は一切飛ばして、兎に角発音編だけを精読して、ラテン系の歌曲を耳で聞いて、口で歌って過ごして来ました。この歌は私の幸福の源点です。

投稿: 末廣照男 | 2008年5月25日 (日) 01時21分

皆さんのコメントを読ませていただくと、同じ歌でも百人百様の
思い出があることが分かります。
小学校のころ歌詞の意味も良く分からないまま覚えたからこそ、幾十年たった今日、懐かしく口ずさむことができるのではないでしょうか。
歌詞を子どもが理解できないなどといって教えなかったら、かっての名曲はみんな忘れ去られそうです。

投稿: 周坊 | 2008年5月25日 (日) 10時39分

昨年の暮れから地元の女性コーラスに入り、 この秋に市民祭、
区民祭に参加することになりました。 その一曲が昔から知っている埴生の宿です。 練習しているうちに 埴生の宿って何?
と疑問符が一杯になりました。 大好きな歌なのに意味がわかっていないと今わかりました。
内容がわかって心を込めて歌えそうです。 仲間と分かち合いました。 ありがとうございました。

投稿: 美しが丘の老婆 | 2008年8月23日 (土) 13時20分

美しき誤解
私は、♪玉の装い裏山路♪ と歌っていました。
裏の山道の茅の葉に宿している露の玉が、朝日を浴びて宝石の様に光り輝いている・・・ という美しい情景を思い浮かべていました。
正しくは、玉の装いなんか羨ましくない! という意味だと知ったとき、少し色褪せました。「羨ましくない」と思う気持ちが、既にそれを気にしているということになりますね。
メロディの美しさは、ちっとも色褪せません。
美しき誤解は、「星の界」もそうです。

投稿: コーデリア | 2009年2月 5日 (木) 16時38分

「ホーム・スウィート・ホーム」は
リンカーン大統領のお気に入りの曲でした。

1862年、名プリマのアデリナ・パッティが
ホワイトハウスに招かれてこの歌を歌い、
三男のウィリアムを失って悲嘆のどん底に
あった大統領夫妻の心を慰めた逸話があります。

投稿: 若輩 | 2009年2月 7日 (土) 18時40分

ご機嫌よう

ベトナム戦争盛んなりし頃の沖縄の米軍相手のライブハウスだかの、間接的に読んだお話です。
喜屋武マリーて人の著作『喜屋武マリーの青春』て本が出典です。

ベトナムに出征する兵隊さん達が、前夜にライブハウスで喜屋武さんの歌を聞き大騒ぎするのですが一番最後に、Sweet Sweet Homeを兵隊さんと大合唱して終わるのだそうでした。合唱して出征した兵隊さんには戻って来ない人もいたとか。

***
この話を知ったのは私が高校の頃ですが、当時の体育の先生がアメフトを趣味とし、米軍基地の兵隊と試合をするのですが、先生曰く「(米軍兵士は)あいつら人間じゃない、よだれを垂らしてウーウー唸ってる」て聞いた後だったので、そんな人達がまるで子供の様にSweet Sweet Homeを合唱した、と読み強く印象に残りました。

投稿: 大坂 | 2009年5月 6日 (水) 01時03分

昭和30年後半に学校でこの曲を習いました。メロディーは好きだけれど「羨ましとは思わない」などとわざわざいうところがいやで、これは「負け惜しみの歌」だと思う潔癖な中学生でした。
ところで2番の歌詞で「瑠璃の床」これは今も所有している当時の音楽の友社の教科書では「るりのとこ」ですが、どこでどうかわったのかいろいろな人が「るりのゆか」と歌っています。宝石を敷き詰めたゆかというよりは、宝石で飾られたベッドというのが現実的で正しいのではないかと私は思うのですが、いつからゆかになったのか。あるいは50年前の教科書が間違っていたのか・・・。いつも疑問に思っています。

投稿: 佐々木 | 2011年12月 4日 (日) 01時18分

ユカかトコか、過去に出版されたものにより読み方が違うようですが、私は「ゆか」にも意味があるように思うのです。
「秋の夜半に本を読んでいる。ふと窓から見上げる空は、美しい瑠璃色である。質素な私の家だが、ガラス窓は磨き上げられた瑠璃のユカにも劣らない。月のさやけさ…まさに宝石のようである。粗末な家であっても、春はさまざまな花が、秋は美しい夜空が、私の家を玉(宝石)のように飾ってくれるのだ。」
今、改めて歌詞を読んで、私はそんな風に感じました。

投稿: 眠り草 | 2011年12月 4日 (日) 12時15分

佐々木さま
「瑠璃の床(ユカ)」は、「宝石をちりばめたユカ」というよりは、たとえば大理石のユカのように敷き詰めて磨いたものを私は想像するのですが・・・。一面の夜空が見える瑠璃色の窓から、「瑠璃の床(ユカ)」を連想したのではないかと思います。
ただ「思う」と言うだけのことですので、間違っていましたらお許しください。

投稿: 眠り草 | 2011年12月 4日 (日) 12時56分

この歌を習った遠い昔には、瑠璃=サファイアと思っていました。岩絵の具にも使われるラピスラズリの名は、ずっとのちになって知りました。いずれにしても瑠璃の床は、他の童謡の金銀の鞍や甕と同じように現実的なものではなく、詩的な表現なのでは無いでしょうか・・・。
私はこの歌のメロディーも好きですが、日本語詞にも、清貧の美のようなものを感じています。
連続投稿、本当に失礼いたしました。

投稿: 眠り草 | 2011年12月 5日 (月) 09時21分

私の質問、つまり作詞者の里見義さんは瑠璃のゆか、瑠璃のとこ、どちらだったのかというのが知りたいです。50年前の教科書では「とこ」でした。カナがふってなかったために、その後、床を「ゆか」と歌う人が多くなったのか、作詞者は初めから「とこ」ではなく「ゆか」のつもりだったのか・・・。どなたかおわかりにならないでしょうか。

投稿: 佐々木 | 2011年12月 7日 (水) 00時43分

佐々木様
『蛇足』に床について補足しておきました。

投稿: 管理人 | 2011年12月 7日 (水) 01時35分

昔、私が習ったのは「ゆか」だったこと、一番の英語の歌詞に、「宮殿」の意味の単語があり、立派な建物の床(ゆか)と言う先入観がありました。明治時代の教科書も、譜面で「ゆか」と書かれているものがあるようですが、日本語詞の作詞者がどちらの意味で「床」を使ったのかは不明なのですね。
私の悪癖で、あらぬ方向に心が彷徨うまま書き込みましたこと、二木先生にも佐々木様にも失礼をお詫びいたします。

投稿: 眠り草 | 2011年12月 7日 (水) 10時04分

由紀さおり他1名が「トコ」と歌っていますがその他の歌手、合唱団は「ユカ」と歌っています。歌詞検索では「床」が多く定かではありません。1件だけ「ユカ」とルビを振った物がありまた。

投稿: 海道 | 2011年12月 7日 (水) 13時05分

床の字義論争大変興味深く拝読いたしました。二木先生の十八世紀オランダの農民のことで、身近にも経験したところがあります。家内の母はポーランド南部穀倉地帯の自作農の出でありますが、その夫つまり父上は小作農の長男でありました。二人は仲睦まじい夫婦でしたが、時々は喧嘩をしたそうであります。母親は決まって夫に「ゆかの無い土間だけの家の出の男」と言ったそうです。僕には父上の悲しみが今七十近くになってしみじみとわかります。二十年前に家内の故郷にあるスカンセンという呼び名をもつ、郷土誌民俗家屋を見ることがありました。小作は地主の寝所に呼び出され、その日の粗捜しをされ、時には鞭で打たれることもあったと解説書に書かれてありました。主人寝所の扉は他のそれと比べて著しく小さいので、その理由を案内の女性に尋ねたところ、地主に謁見する際に、自動的に頭を下げさせるのが、その目的であったとのこと。辞去する際には、尻を主人には見せず、後ずさりで下がったとも。妻は学者ですが、このような貧乏人の娘でも社会主義教育体制のおかげで大学を卒業できたと言っております。二木先生ありがとうございます。

投稿: イサコフスキー | 2011年12月 9日 (金) 05時44分

「ユカ」と「トコ」については先生の解説と同じですが池田小百合先生は「トコ」と歌うのなら最後も改訂された歌詞のとおりに「たのしとも、たのしやな。」と歌うべきとも言われています。

投稿: 海道 | 2011年12月12日 (月) 11時53分

里見義の研究をしてます。
この埴生の宿の作者は小倉戦争、つまり豊長戦争を経験した小倉出身の侍です。本名は里見義左衛門という150石取りの中級武士です。
ところが、明治29年(1896)1月10日発行の教育音楽講習会編『新編教育唱歌集』(東京・開成館)に採録された楽譜ではユカとなっていますが、歌詞にはトコとルビが振ってあります。これがユカとトコが混在して歌う人を迷わせる原因になっているようです。

> そこでどちらを採るかですが、やはり初出版に拠るべきだと思います。
 『大辞林』によれば、埴生の小屋とは、「土の上にむしろなどを敷いただけの粗末な小屋。また、土で塗っただけの粗末な家」とあります。この歌の埴生の宿(小屋)にもユカがなかった可能性があります。それとの対比で考えると、やはり「瑠璃のユカ」とするの妥当なようです。

 で、この件はいちおう決着がついたものとします。
つまり彼は、豊長戦争の際に小倉から熊本の細川を頼ってさすらっています。その思いを描いたのではないか、と推測されます。

投稿: 西田英樹 | 2014年2月17日 (月) 02時21分

「蛇足」最後の段落で二木さんが触れられた「18世紀ぐらいまでのオランダ農民」の寝姿と、イサコフスキーさん「ポーランド南部穀倉地帯の自作農…『ゆかの無い土間だけの家の出の男』の悲しみ」とから、欧州北西の辺境フリースランド(英;フリージアン)とドレンテの幾つか郷土史館のいわば’埴生の家’を思い出します。建坪8x4m、屋根高3m、ほどだったか。離れて見ると、傾斜する屋根の3角形部分だけ。つまり軒下部分は大地に埋まっている(厳冬対策)。外壁は土壁と木部と煉瓦がごちゃまぜのような印象でした…。19世紀あたりまで農民の最下層の住まいはこんな塩梅だったようです。

内部は地べたのままで床(ユカ)はありません。寝る場所はBedsteeと言われる150x70cm四方の押入れふうな空間。これだけはユカ作りです。子供一人なら立派なベッド。私自身は、家族が押し合いへし合いしながらベッドステーに寝たと言う話や記述に接したことは無いのです。しかしこうした小さく粗末な家の建具つくりで子供数名ならば、確かに「腰を掛け、前の横棒か後ろの壁に寄りかかって寝る」ような状態にならざるを得ませんね。そんな状態で果たして熟睡できるのか?想像を絶します。それならば、干し草などを集め地べたに寝るのを、(現代の)常人ならば考えるのでは…。

里見義の研究をなさっている西田英樹さん、作詞者が150石取り侍だと言う知見をいただきました。余談ながら、初段落4行目から3段落目の下から3行目までは、管理人さん「蛇足」の引用と思われます。投稿に於いて、投稿者自身と引用の比率の規制や約束はありません。しかし引用部分をそれと分かるように明示するのは、研究者の常識。ご投稿の主意は「作詞者が侍で、、、そのさすらいの思いを描いた」と言うことですから、長い引用は皆さんに?では無いでしょうか。

投稿: minatoya | 2014年2月18日 (火) 02時19分

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