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灯台守

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


作詞:エドムンド・H・シアーズ、作曲:リチャード・S・ウィリス、日本語詞:勝 承夫

1 こおれる月かげ 空にさえて
  ま冬のあら波 寄する小島(おじま)
  思えよ灯台 守る人の
  尊きやさしき 愛の心

2 はげしき雨風 北の海に
  山なす荒波 たけりくるう
  その夜も灯台 守る人の
  尊きまことよ 海を照らす

《蛇足》 讃美歌21の265番"It came upon the Midnight Clear"が原曲とされています。ただし、番号も歌詞も、讃美歌集によって少しずつ異なっています。

 詞はアメリカ・マサチューセッツ州ウェイランドの牧師エドムンド・H・シアーズが1849年に作詞した5聯のキャロル(クリスマスや復活祭の祝歌)で、それにリチャード・S・ウィリスが1850年に曲をつけ、全米で歌われるようになりました。

 桜井雅人・一橋大学名誉教授は、1860年代にI.J.ジンマーマンが教会の日曜学校用に作曲した"The Golden Rule"が『灯台守』の原曲であるとしています。
 同氏が『一橋論叢』
(134巻3号(2005.9)に掲載した楽譜を見ると、確かに『灯台守』のメロディにそっくりです。この楽譜は、『フランクリン・スクウェア・ソング・コレクション第一集』(New York出版、1881年)に掲載されたものだそうです。
 ジンマーマンの経歴は不明ですが、このことから、『灯台守』のメロディは"The Golden Rule"が直接の出典であることはまちがいないでしょう。

 しかし、それはあくまでも"The Golden Rule"の曲(楽譜)を借用したということであって、それがオリジンであるとはいえません。
 ジョシュ・グローバンジュリー・アンドリュース
ノラ・ジョーンズの歌"It came upon the Midnight Clear"を聴くと、『灯台守』および"The Golden Rule"との類縁性がはっきり認められます。

 こうした類縁性や時間的な関係を考え合わすと、『灯台守』の、また"The Golden Rule" の原点は、やはり"It came upon the Midnight Clear"であると見ていいのではないでしょうか。
 
"The Golden Rule"を作ったジンマーマン、リチャード・S・ウィリスの曲を土台にした、少なくとも多大のヒントを得た、と私は推測しています。

 なお、JASRACの作品データベースでは、『灯台守』(『旅泊』)はイギリス民謡となっています。また、金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌 明治篇」(講談社文庫)、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)も、イギリス曲としています。そうなった経緯についてはよくわかりません。 

 日本語詞としては、大和田建樹が明治22年(1889)に発表した『旅泊』が最初。次いで、佐佐木信綱が昭和4年(1929)に『助船』発表しました。
  『助船』は一般には「たすけぶね」ですが、
『虫の声』『お月様』『汽車ぽっぽ』など数多くの童謡を作曲した井上武士は「すくいぶね」と読んでいたそうです(金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌 明治編』講談社文庫)

 最もよく歌われているのは『灯台守』で、これは昭和22年(1947)に文部省が発行した教科書『五年生の音楽』に掲載されたもの。勝承夫(かつ・よしお)の作詞。これは、その後永く教科書に載ったので、覚えている人が多いと思います。

    旅泊(日本語詞:大和田建樹)

1 磯の火ほそりて 更くる夜半に
  岩うつ波音 ひとり高し
  かかれる友舟 ひとは寝たり
  たれにか語らん 旅の心

2 月影かくれて 鴉啼きぬ
  年なす長夜(ながよ)も 明けに近し
  起きよや舟人 おちの山に
  横雲なびきて 今日ものどか

   助舟(日本語詞:佐佐木信綱)

1 激しき雨風 天地暗く、
  山なす荒波 たけり狂う、
  見よ見よかしこに あわれ小舟(おぶね)
  生死(しょうし)の境と 救い求む。

2 救いを求むる 声はすれど、
  この風この波 誰も行かず、
  見よ見よ漕ぎ出(ず)る 救い小舟 
  健気(けなげ)な男子(おのこ)ら 守れ神よ。

(二木紘三)

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コメント

この曲で 連想するのは

 幾歳月です。
 佐田啓二 主演でしたか
 映画は見たことがありません・

また 少し変わりますが
 追憶 スペインピレネー地方民謡?
 
です。海に関連??

投稿: 二宮 博 | 2007年9月 9日 (日) 23時26分

小学校の何年生か忘れましたが、国語(当時は読み方と言われていました)で「灯台守りの娘」という項目がありそのときに唱歌の時間に習った記憶があります。また私自身現役時代海上保安官だったので、特に愛着のある歌です。

投稿: | 2007年10月29日 (月) 16時32分

はじめまして。「灯台守り」のことがブログ仲間と話題になり、元歌のことを探っていうところでこちらに立ち寄りました。日本で歌われる外国の曲はまったく意味の違うものが多く、その由来や理由をたずねるのが面白いですね。自分のところでもアレンジして音を載せています。

投稿: かおたい | 2008年2月13日 (水) 12時43分

 この歌を習い覚えた小学校高学年の頃、何となく「遥けきものへの憧れ」のような、すがしい気持ちがしました。二木先生の解説で、原曲が賛美歌と知り『なるほどなあ』と、妙に納得しています。これからの冬の季節に、じっくり聴いてみたくなる名曲の一つですね。

投稿: 大場光太郎 | 2008年11月19日 (水) 19時57分

昔はどの地方にも灯台守りがおられて、その地方の名士
だったのでしょう。あの名作「潮騒」にも出てこられますね。山口百恵の演技は伝説のマドンナ小百合に引けを
とっていません。彼女の笑い顔が愛苦しい。

投稿: 海道 | 2009年4月10日 (金) 05時58分

小学5年の音楽教科書に出て来ました。そこに描かれてあったイラストもおぼろげにですが記憶しています。この歌がたちまち好きになって、灯台守を仕事にしようと思ったものです。哀愁をおびた、波形調のメロディがとても美しく、カラオケで熱唱したいのですが、残念ながら入っていません。カラオケ業界の関係者の方、お願いしまーす。

投稿: かせい | 2010年2月11日 (木) 19時31分

昭和28、9年の中学の音楽の教科書には「岸打つ波の音 吹く潮風 カモメの他には訪れもなく」という歌詞でこの歌が載っていました。題名も忘れてしまっていますが、荒涼とした冬の海の気配が漂ってくる歌詞でした。そのあとの歌詞も思い出せません。同じ教科書で勉強された方いらっしゃいますか。お教え頂ければ嬉しいのですが・・・

投稿: ハコベの花 | 2012年1月11日 (水) 22時59分

小学校3年か4年のとき、父に連れられて石狩灯台へ行きました。「喜びも悲しみも幾歳月」の撮影がそこで行われるよりも前のことだったと思います。季節は夏で父の隣にかしこまって正座し、燈台守の方のお話を聴いたことが鮮やかに思い出されます。肝心のお話の中身は、もうきれいに忘れてしまいましたが…。
「♪こおれる月かげ空にさえて…」真夏にこの日本語詞を読みメロディーを聴くと、そのときだけ暑さを忘れ背筋が伸びるような気がします。
なぜ外国の賛美歌に関連するような歌を私は好むのか……幼いときに洗脳されたのか…そのことに深く悩んで何年間もこの種の歌を歌えなくなったことがありましたが、先の短い今は悩むのをやめました。

理由はどうあれ美しいメロディーと歌詞が好きだからです。

投稿: nobara | 2012年8月 1日 (水) 18時27分

ハコベの花さん、お探しの曲はヤマベコウゾウ作詞の「とうだいもり」です。他に記憶を確かめたいことがあって、池田小百合氏のサイトをさきほど開いてみましたら、偶然そこで見つけました。私が習ったのは勝 承夫の日本語詞なのですが…。
他サイトの名を出すことが、二木先生に対して失礼に当たるのでは…と、恐れながら書いています。

投稿: nobara | 2012年8月 2日 (木) 15時59分

「池田小百合なっとく童謡・唱歌」のメニューページを開き「とうだいもり」をクリックすると下のほうにヤマベコウゾウ作詞の歌詞とイラスト入りの楽譜、教科書のコピーが載っています。

投稿: nobara | 2012年8月 2日 (木) 17時51分

nobara様
 今、ヤマベコウゾウの灯台守、開いてみました。良く探して下さいました。私がこの歌を学校で習ったのは中学生の時だったと思います。ですから教科書に絵はなく最初の出だしの歌詞しか覚えていないのです。淋しい荒涼とした歌だと思ったのは覚えています。
あまり真面目な生徒ではなかったので音楽の授業は殆ど聞いておりませんでした。それで歌詞も記憶していなかったのです。音楽には疎遠な生活をしていたのですが、二木先生のこのサイトの蛇足にひかれてから音楽について考えるようになったのです。歌は下手なので人前で歌いませんが声の良い方を見ると羨ましくなります。さっそく同級生の友人たちにこの歌詞を知らせてやりたいと思います。お知らせ下さって有難うございました。

投稿: ハコベの花 | 2012年8月 2日 (木) 21時03分

こおれる月影 そして 空も港も夜はふけて この二つの出だしが不思議なことに私の定番だった時期があります。薄っぺらい音楽教科書に数頁を置いて楽譜と絵とがあったと思います。数ヵ月か半年の期間、何故かいずれかの歌詞が口をついて出てきたんです。

唱歌二つだけが以来ずっと今日まで、残っています。今は分らぬ言語の祖語のように、あるいはDNAにプリントされているように、、、そんな感じが致しますね。

佐佐木信綱『助船』歌詞をゆっくり味わいました。と言うのは曽々々曽祖くらいの湊屋祖先のエピソードが重なったんです。数十年前、筆書き候文体の文書を兄か叔父かが発見。

冬嵐のかなたに漂流する小舟を見つけた若き先祖は、屈強な仲間と共に、大波と風をついて救助に向かい、遭難者二名を浜辺に連れ帰った。人道にかなう勇気を発揮した彼らに、明治の役所が贈った感謝状。町長か誰かの署名と朱印付き、金一封を添える意があったようです。

一つ間違えば二重遭難、無謀に思えます。しかし日頃の魚師勘によって、嵐でも凹凸する陸に沿う海の流れ筋と方向を知っていたのだと思います。適格な判断と、海に生きる者の責任感…きっと。

<見よ見よ漕ぎ出(ず)る 救い小舟>
叔父が古老の伝え話を聞くと、漕ぎ出る救助者を浜辺に駆けつけた村人がはらはらして見守っていたそうです。

投稿: TangoMinato | 2012年12月 3日 (月) 07時11分

Minato様へ
昭和22年から、文部省編纂教科書においては、「みなと」は3年生で「灯台守」は5年生で教えるようになっていたようですね。事実、私はそのとおりに習いました。昭和で33年と35年の時という事になりますね。28年頃の教科書だとまだ過渡期の時期で、微妙なところかもしれません。また、この二つの曲に寄せるMinato様の思い入れが強くて、そのようにご記憶されているのかも…。 実は、私も海のそば湊のそばで育ちましたので、この二つの曲は殊に愛唱歌としています。

投稿: かせい | 2012年12月 6日 (木) 00時47分

かせいさん ありがとうございます。そうだったのですか。すると昭和28年頃が私の`みなと`になります。近くに並んでいたのは、すると白黒印刷2つの教科書が一つになった…。恥ずかしながらも、この二つだけ何とか口ずさめるので、仰るように二つが一つに溶け合い合成記憶になっているんでしょうね。

記憶が相当好い加減なので、`救い船`表彰感謝状(コピー)を探し出しました。明治17年八月廿八付け(古文書を見つけたのは亡父でした)、台風の時期だったと言う添え書きをしています。遭難者は「平民三浦由三郎之者因習…」。…壱園下賜…(知事代理として)京都府大書記官名と朱印…達筆のため読めない漢字が多いデス。因習は鳥取県東半分を指し、大書記官は副知事に当たるようです。当時の壱園の値打ちはさて?

>見よ見よかしこに あわれ小舟(おぶね)
  生死(しょうし)の境と 救い求む。

佐々木信綱が偶然その浜辺にいて目撃していたような臨場感。助けられるのも助けるのも`櫓を漕ぐ`小舟(オブネ)時代。櫓を漕げる人はご存知ですが、大波だと小舟(当地呼び名;ギッコン)船首と船尾が互いに浮き上がり、進むのが困難極まるでしょう。しかも櫓が支点の穴から外れがちになります。

救い舟の歌詞で口ずさんでみようと思います。二木さんに大感謝。

投稿: TangoMinato | 2012年12月 7日 (金) 08時29分

『燈台守』で習ったのですが、
母が「みよ、みよ、かしこに、あはれ 小舟・・・」と、歌い、そこしか覚えていないが、歌詞が違う、と、言っていました。題は『難破船』と、習ったとのこと。
それで、ずっと探していたのが、この、佐々木信綱の、歌詞。ありがとうございます!

投稿: ゆうこ | 2013年2月 5日 (火) 11時09分

ゆうこさん
お母様は大正初めのお生まれでしょうか。
2010年12月27日早朝に天国に逝った我が母と、逝く数年前チョットしたことで口喧嘩しました。それは冬に小舟を収納する小屋の土地が村の誰かにずっと無断で使われていると言うような話題でした。怪しからんと思うなら、抗議をしたらと私が申し、村でそないなこと言えませんでしょう。懐かしい最後の会話だった。
「灯台守」しか私は知らないのですが、難破船で歌われたとお聞きして、思わず95才の生涯をパタッとこけて閉じたと言うお袋を思い、ジンと致しました mm

投稿: TangoMinato | 2013年2月 9日 (土) 12時24分

TangoMinatoさん
 ご母堂の「村でそないなこと言えませんでしょう」はごもっともです。田舎の人間関係を重んじるならば、多少の不合理はがまんしなくては。「郷に入っては郷にしたがえ」ということばがありますが、この言い方、少しおかしいですね。郷にしたがわない選択肢なんか、実際問題 ないんです。自明のことを、何を青臭く言ってるのという感じ。郷にしたがわないなら、郷の社会から抹殺されます。覚悟できてるの?という感じですね。
 「灯台守」とはへだたった話でしたが。

投稿: 浮舟 | 2013年2月 9日 (土) 15時22分

浮舟さん
思わずジンと来たゆうこさんお母様の`難破船`が心を揺さぶります
。不器用で依怙地な母は生涯連れ添った父の故郷でやはり`難破`した…。都会生まれの都会育ちで、退職後に配偶者故郷に連れ添い数十年。夫が逝けば、独りぽっち。村の方に分りませんが、母は`村八分`だったと思われます。郷に入れば郷に従え、、、。選択肢など無いとお聞きして、私自らを省みざるを得ません。仰る通り、何気もない慧眼に感謝いたします。

曽々々祖父が難破しそうな小舟を救った時代、経ヶ岬の灯台は無かったと思います。間歇的に海を照らす灯台の明かりが幼児の記憶として鮮明です。喜びも悲しみも幾年月、そのように私たちの前世代は生きたのではないでしょうか。

投稿: TangoMinato | 2013年2月10日 (日) 13時09分

小学校3年生の時に習った曲で今でも懐かしく口ずさみます。晩年の森繁久弥がテレビのトーク番組で話の途中で「灯台守を歌います」といってこの曲を歌ったのが思い出されます。

投稿: 新井俊一 | 2014年8月11日 (月) 15時19分

’灯台守’の歌、作詞がイギリス民謡となっていることから、多くの人達がイギリス民謡だと勘違いしているのではないでしょうか?

YouTube でこの曲を聴くとほとんどの場合、イギリス民謡と表記されているような気がします。

先生の蛇足を読むと、詞はアメリカ・マサチューセッツ州ウェイランドの牧師エドムンド・シアーズが1849年に作詞したもので、1859年にリチャード・S・ウィリスがこの詞に曲をつけ、全米で歌われるようになったと記載されています。 ということは原曲はアメリカの曲ということですよね。

イギリスではアーサー・サリヴァンが1874年に「ノエル」というタイトルで、イギリスの伝統的なキャロル(クリスマスや復活祭の祝歌)に編曲して賛美歌の定番曲になったとのこと。

’灯台守’に関しては、何年か前に一橋大学名誉教授の桜井雅人さんが、’仰げば尊し’がアメリカの曲だと発表した後で、何かの新聞記事で実は’灯台守’もアメリカ起源の曲だと言われていたことを覚えています。

どうして’灯台守’の歌がイギリス民謡として日本で広まってしまったのでしょうか?

この歌が日本に入って来たのが、イギリス経由だったからでしょうか?

投稿: 気になっています | 2014年12月23日 (火) 20時03分

気になっています様
『相棒』の杉下右京の口癖を借りれば、「私としたことが」自分でアメリカで作詞・作曲されたと書きながら、歌詞の上にはイギリス民謡と書いてしまいました。歌集から歌詞を写す際にそのまま書いてしまったのでしょう。反省します。ご指摘を受けてさっそく修正しました。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2014年12月23日 (火) 23時12分

二木先生

早速のお返事ありがとうございます。やっぱり’灯台守’の歌/曲の起源はアリメリカでいいのですね。

日本で長らく’灯台守’がイギリス民謡と思われてきたのは、1874年にイギリス人のアーサー・サリヴァンによって編曲されたものがイギリスから日本に入ってきて、日本で唱歌にする際にさらに編曲された可能性があるとのこと。気持ちがすっきりしました!

’灯台守’がイギリス民謡だという誤解が早く正されたら嬉しいです。

それとメロディーが似ている’七里ヶ浜の哀歌’の元曲の作曲者で牧師でもあるアメリカ人のジェレマイア・インガルス(Jeremiah Ingalls,1764-1838) が、1805年に作曲した’Garden' とは、54年の月日の違いであることから、リチャード・S・ウィリスが作曲にあたり、インガルスの’Garden'のメロディーを聴いていた可能性も考えられますね。
私としてはとても興味深い事柄です。

これは私の個人的な感想ですが、’灯台守’と’七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)、そして’琵琶湖周航の歌’のメロディーは、原曲から日本の唱歌などに編曲されていく過程で、編曲者がこれらの元曲をイメージしていたのではないか、という気がしてなりません。 

何はともあれ、二木先生、ありがとうございます。

投稿: 気になっています | 2014年12月26日 (金) 15時36分

いつも愛読しているサイトです。貴重な情報がいっぱいで、ありがたく思っています。私は藤沢の「歌う会」でピアノ伴奏をしていますが、今回はこの「灯台守」も採り上げました。元歌は何かと、長年疑問に思っていましたが、二木さまのおかげで、答えがみつかり、感謝しています。ジュリー・アンドリュースのサイトも見ることができました。

投稿: 山田光義 | 2016年2月17日 (水) 09時30分

「灯台守」の歌を耳にすると佐田啓二と高峰秀子主演の映画を思い出します。 

私はまだ中学生でしたが「喜びも悲しみも幾歳月」の映画をみて感動しました。夫婦になったら仲良く、苦労を共にしながら懸命に子供を育てる喜びを想像しました。
その映画は「新婚早々の灯台守・有沢四郎と妻・有沢きよ子は、四郎の勤務先の観音埼灯台で暮らし始める」ことから始まり2人の子供が授かりました。
2人の子供のうち一人は亡くなり、もう一人の娘は結婚する。「娘を立派に育てあげて本当によかった。灯台職員を続けていて本当によかった」という場面を涙を出しながら見ていました。

いつか観音埼灯台に大切な人と行ってみたいという願いを私が大学生になってから叶えました。一緒に観音崎に行ってくれた女性はその後他県で結婚、お孫さんにも恵まれたそうです。

投稿: けん | 2016年11月13日 (日) 14時00分

この歌を聞く度、あの時なんで涙が止まらなかったのだろうと思う思い出があります。小学5年の音楽の時間、初めて習う曲はまず先生がピアノでその曲を弾いてくれます。この「灯台守」もそうでした。聞いているうちに涙がこぼれて止まらなくなり、そのうち鼻水まで出て来て、手で鼻の穴をつまんでいたら隣りに座っている男子が「あ、泣いている。」と言ったので思わず「鼻くそを取ったの」「汚えー」と返されてしまいました。
 実際の灯台を見た事もなく、まして荒海なんて知らなく、こおれる月かげも体感してないのに、ひとり気持ちが悲しくて仕方がなかったのを思い出します。まあその時以来の音楽の時間の曲で泣くということはありませんでしたが、すっ飛んで遊んでいた女の子の目覚めだったのかも知れません。

投稿: konoha | 2017年2月 6日 (月) 12時49分

「灯台守」の解説の重厚さには感いりました。かかる経緯があるとはしらず、ただ、いなかの海岸から見える岩礁にたつ灯台を寒々とした思いで眺めたものです。田舎の海岸から7里のかなた、玄界灘の沖に立つ「烏帽子灯台」は、極めて小さな岩礁の上で灯をともします。何日かに一度、呼子の港から食料、資材を乗せた船が烏帽子に出向き灯台守と玄界灘を行交う船の命を支えて続けます。冬の嵐の季節には岩礁に接岸するすべはないと大人たちは暗い表情で村の子供たちに話します。海の安全を守ることの大事さを子供心にかみしめたものです。日が暮れるとかすかな光の筋が7秒間、眼に入ります。次の7秒間はなぜ消えるのか・・・、回転するからくりを如実に知りえたのは後々のことでした。70年もまえの記憶を呼び起こしていただいたことに感謝しています。

投稿: 亜浪沙(山口) | 2017年2月 6日 (月) 14時54分

二木さま みなさま ご無沙汰しております。救い船の我が先祖のエピソーデについて、明治期の文語に詳しい知人から啓示をいただき、事情がやや詳しく分かり、ブログに記しました。またアメリカ原曲を歌うアメリカのグループも視聴でき、日々の良き出来事になり、感謝申し上げます。

投稿: Tangominato | 2017年8月13日 (日) 21時26分

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