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しゃれこうべと大砲

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


イタリア民謡、日本語詞:東大音感合唱団

1 大砲の上にしゃれこうべが
  うつろな目をひらいていた
  しゃれこうべが ラララ いうことにゃ
  鐘の音も聞かずに死んだ

2 雨にうたれ 風にさらされて
  空のはてをにらんでいた
  しゃれこうべが ラララ いうことにゃ
  おふくろにも会わずに死んだ

3 春が来ても 夏が過ぎても
  誰も花をたむけてくれぬ
  しゃれこうべが ラララ いうことにゃ
  人の愛も知らずに死んだ

《蛇足》 イタリア民謡ですが、正確にはシチリア民謡。

 シチリアは、アフリカに近いこともあって、アラビア文化の影響を強く受けて、独特の文化と住民気質を育んできました。マフィアが生まれたことでも有名です。

 この歌は、1950年のイタリア映画『越境者』の主題歌として使われました。
 『越境者』は、工場閉鎖で大量に失業したシチリアの労働者たちが、職を得るために、さまざまな困難にであいながらも助け合い、長いイタリア半島を縦断してフランスに越境していくという物語です。

 わが国では、昭和20~30年代、反戦歌の1つとして歌われました。

(二木紘三)

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コメント

今から35年も前の事ですが
高校三年生の卒業まじかの時で現代国語の最後の授業の日に
先生が「今日で最後だから僕が一番好きな歌を紹介します。
みんなも是非覚えて下さい」と言って歌詞を黒板に書いて
下さったのがこの歌でした。
私の母と姉が歌が好きでよく色々な歌を歌っていたので、私はこの歌も聞き覚えがありました。
先生が「この歌を知っている人?」と尋ねられましたが、手を上げたのは私ともう一人だけでした。
先生が教えて下さりながらクラスの皆で歌いました。
一番の歌詞の「鐘の音」というのは教会の鐘の音のことで、
まだ結婚もしないうちに死んでしまった・・・ということでし
ょう、と教わったのを今も覚えています。
この曲を聴きながら一緒に口ずさんでいますが、いつもあの時の先生の話を思い出します。
贅沢で恵まれている今、一番だけでなく二番、三番も何とも悲しくせつなくなります。

投稿: あきこ | 2008年3月19日 (水) 17時26分

私がこの歌を最初に聴いたのは、45年前、大学2年生の夏、ある新左翼系活動家グループの合宿に参加したときでした。「しゃれこうべ」という言葉のインパクトと「ららら、いうことにゃ」というフレーズのコントラストが、そのメロディーの情感とともに強く印象に残り、愛唱歌になりました。その合宿には、東大音感の部長もいましたが、彼の先輩達がこの日本語歌詞を作ったことは、知りませんでした。とにかく仲間には、歌の上手な人が多く、いろいろな歌を合唱し、定番の「インターナショナル」「ワルシャワ労働歌」「国際学連の歌」等しか知らなかった私には、新鮮でした。このころの活動家には、まだ、合唱を楽しむという、のどかさがあったように思います。
今は、日々ストレスの多い社長業をやっている私には、青春の歌であると同時に若い人たちに永く歌い継いで欲しい歌です。

投稿: 無名戦士 | 2008年7月12日 (土) 06時52分

日課の床拭き掃除をしながら「しゃれこうべがラララ言うことにゃ人の愛を知らずに死んだ」と歌っていたら妻が「そんな歌あんの」と聞くので検索、このホームページに出会いました。この一節だけ、しかも愛をと間違って覚えていたことも判明。目から鱗のこの歌の内容を知り、嬉しく、懐かしく、昔を思い出しながら暫し妻との対話を楽しみました。ありがとうございました。

投稿: 物欲じいさん | 2008年7月17日 (木) 10時18分

 大学に入学したころ、昼休みの時間で「歌声の会」があるからと誘われて歌った曲に「しゃれこうべと大砲」がありました。
 先輩たちが、熱心に歌唱指導をしていただいたお陰で、歌えることができ、間もなく大学の男声合唱団と市内の混声合唱団に入りました。
 卒業してもう半世紀以上たちますが、今も合唱をはじめ、音楽の魅力の虜(とりこ)になっています。
 先日、ラジオを聴いていたら、NHKドラマ・白州次郎の中で紹介されたとありました。
 復活するといいですね・・・。

投稿: つうつう | 2009年10月18日 (日) 14時13分

1950~60年代何時とは、おぼろです
私が20才代です
ダークダックスのコーラスでこの曲がラジオから流れていた記憶があります
私には懐かしい曲です

投稿: シモダ チョウセイ | 2011年12月16日 (金) 17時07分

「しゃれこうべと大砲」青春の歌であり、友情の歌です。今から45年くらい前ですか、初めて聞いたのは。私のブログで「しゃれこうべと大砲/さらば恋人よ」というタイトルで記事にしています。2008-1-26

投稿: Bianca | 2011年12月16日 (金) 20時34分

 昨年、前期高齢者の仲間入りをした私ですが、この歌は、
大学時代、友人が口ずさんでいるのを聞き、更に数カ月後、
ラジオで流れている外国語の曲を聞いて以来、「いい歌だ
な」と思っていました。

 さて、2008年3月19日に投稿されたあきこさん
 
 ——高校三年生の卒業まじかの時で現代国語の最後の授
業の日に先生が「今日で最後だから僕が一番好きな歌を紹
介します。みんなも是非覚えて下さい」と言って歌詞を黒
板に書いて下さったのがこの歌でした——。

 いい先生ですね。こういう先生が各学校に数人ずつでも
存在できるようなら、子どもたちも過ごしやすいのに、と
思ってしまいます。

 「ゆとり教育は、学力低下につながる」という教育関係
者が多いようですが、「学力より、力を合わせること、人
を思いやることのできる人間、悪いことは悪いと思える人
間」を育てる学校、社会になってほしいですね。

投稿: 1946生まれ | 2012年9月12日 (水) 20時25分

松江在住の歌手の浜田真理子さんが歌われてますね。
いい声です(^・エ・)ノ

投稿: こういち | 2012年10月 2日 (火) 00時41分

 最近ふと自分がしゃれこうべの歌を口ずさんでいて遥か60年の昔を思い出しました。当時組合で青年婦人部の活動をしていた時に覚えた歌でした。
当時は少なかった大卒のひとりがいろいろな歌を教えて下さったのです。多分その人は色気のない労働歌だけではつまらなくて教えてくれたのでしょう。確かに沖縄を返せ、とかインターナショナル、がんばろう!など労働運動の歌としゃれこうべの歌はまるで違い、歌詞やメロディーは外国映画ファンだった私にいろいろな情景を連想させてくれました。好きな歌の一つでした。ですからこの年になっても消えずに残っていたのでしょう。三番の歌詞が思い出せずに検索していたらここで発見出来て嬉しかったです。

投稿: 相模の山姥 | 2014年11月19日 (水) 18時04分

 最近の風潮に危うさを感じています。そして、ふと気が付くと、この歌をすっかり忘れていた自分を思います。
 この歌は、新卒の頃、職場の飲み会の時、先輩が歌っていたもので、痛く心にしみました。そして、楽譜をさがし
覚えました。その先輩を含め、当時を知る人は残り少なくなりました。
 たった一人でも歌っていきたいと思っています。

投稿: 柴田 正朋 | 2015年1月 7日 (水) 19時49分

 書かずにいられなく、続投稿をお許しください。
能勢の赤ひげ様の政治、社会への怒り、嘆きの気持ちは皆様同じ思いでいられていると存じます。
 
 今の国際情勢は日本を含め世界の諸問題の解決のメドが立たない、非常に矛盾だらけの中で右往左往していると考えずにいられません。経済、働き方もしかりシリアの空爆サリン、自爆テロ、北朝鮮問題そして「テロ等準備罪」、ごく普通に暮らしている一市民が、注意人物とされてしまっている人とたまたま一緒に居たというだけで組織の一員になってしまう。

 まさにあの「治安維持法」と同じになってしまわないかと危惧しています。特高もどきが現れるかもしれないと思うのは考えすぎでしょうか。

 赤ひげ様のコメントの中にありますように、政治家が大局に立つ事ができず、何かしらを国民の目から隠そうとしている昨今、ポピュリズムが優先され、いったい地球という箱船はどこへ行こうとしているのでしょうか。

 海外ドラマ、映画などをみていますと、「事実は小説より奇なり」が逆にいっています。

 『しゃれこうべの歌』のメロディーはとても明るいのですが、この明るさとは裏腹に歌詞は悲しく無残なものです。TVニュースや新聞を毎日みていますと、実際問題としてものすごく怖さを覚えてしまいます。

投稿: konoha | 2017年4月 7日 (金) 10時40分

私はこの歌を全く知らないのですが、ふと若いころに観たノーマン メイラーの『裸者と死者』の映画を思い出しました。実った丘陵の麦畑の中を登ってきた若い日本兵の一団があっという間にアメリカ兵の付けた火で焼け死んでいく姿です。こうしていともたやすく多くの若者が飢餓や寒さや暑さや、銃器で殺されてしまった戦争を絶えることなく今も続けている支配者たちに怒りを覚えます。
人間ほど愚かで獰猛な生き物はいないでしょうね。巧みな言葉で選挙民を騙し公金を湯水のごとく使っている政府と官僚の癒着を嘆かずにはいられません。まだここに書いても警察に連れて行かれないだけマシ、そのうち息子たちがしゃれこうべになって、風雨に晒されるのかも・・・・そんなに先の事ではない気配ですね。

投稿: ハコベの花 | 2017年4月 8日 (土) 14時39分

懐かしい思い出深い歌です。東京オリンピックの頃の、山間の小さな田舎町の小学校(それでも3クラス・110人は同級生がいました)で、この歌を先生から教えてもらいました。後に思えば、大学生時代は歌声喫茶に入り浸っていたであろう、やや鬱陶しい位に大真面目で情熱的な先生でした。後知恵半分かもしれませんが、いわゆる左がかっていたと言う印象は子供心にもありました。座右にマイアコーディオンを置いて、昼休みと言わず始業前、放課後、ちょっとした校外活動の時間にも、歌声の時間が始まりました。曲目は、音楽の教科書には無いものが多く、中でも反戦歌、労働歌、革命歌などが、未知の異質な歌として特に印象に深く、今でも頭に強く残っているのはこの種の歌です。子供の常として、先生には気に入られたい、先生の情熱には応えたい、という心情から、人一倍一生懸命に取り組んだ憶えです。「恩師と呼べる人はあるか?」と問われれば、反射的にこの先生が思われる、人間としての入り口で、基本的な多くの物を学ばせてもらった恩師である。只、先生との出会いが、もう少し後の自我の確立期でなかったのは、幸いだったと思っている。一方向の見方に凝り固まることなく、全体を多方向から見てみたい、反対意見は聞いてみたい、という視点はずっと保っているつもりです。中学校では、担当教師と全くソリが合わなかったため、3年間口パクを通してしまい、高校では、音楽を選択すらしませんでした。50余年を経て、病を得て何をする意欲も失ったまま帰郷しました。まともにできることの範囲は狭まってしまいましたが、「古い歌ぐらいは何とか歌えるのでは」という安易な考えから、同級生の力を借りて、月に1度「なんちゃって歌声喫茶」を開催して生き甲斐としています。恩師の方も、高齢で車椅子生活を送っておられると仄聞しています。御存命のうちに「歌声喫茶」へお招きして「しゃれこうべと大砲」などを歌って「教えていただいた歌を憶えていますよ」と、もう一度先生を見上げて言ってみたい。

投稿: 慎兵衛 | 2017年8月 8日 (火) 20時22分

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