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朝日のあたる家

(C)Arranged by FUTATSUGI Kozo


アメリカ民謡

   朝日楼(日本語詞:浅川マキ)

あたしが着いたのは ニューオリンズの
朝日楼という名の 女郎屋だった

愛した男が 帰らなかった
あんとき私は 故郷(くに)を出たのさ

汽車に乗って また汽車に乗って
まずしいあたしに 変わりはないが

ときどき思うのは ふるさとの
あのプラットホームの 薄暗さ

誰か言っとくれ 妹に
こんなになったら おしまいだってね

あたしが着いたのは ニューオリンズの
朝日楼という名の 女郎屋だった


 朝日のあたる家(日本語詞:すずききよし)

1 私は貧しい娘だった
  やくざな男にだまされて
  売られてきたのはニューオリンズの
  朝日楼という名の女郎屋だった

2 毎日いやな客をとらされ
  私はいつしか病気になった
  今もまぶたに浮かぶ母ちゃんの
  ブルージーン縫っていたあの姿

3 気も狂いそうに帰りたい
  プラットホームに足をかけた
  汽車のステップに身をさかれ
  心は故郷に飛んでいった

4 お父ちゃん お母ちゃん 妹だけには
  私の住むこの町によこさないで
  この地獄の町 ニューオリンズの
  朝日楼という名の女郎屋には


  The House of the Rising Sun

英語詞1
(作詞:Georgia Turner and Bert Martin)

There is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
It's been the ruin of many a poor girl
And me, Oh Lord! was one
My mother was a tailor,
She sewed them new blue jeans.
My lover he was a gambler, Oh Lord,
Gambled down in New Orleans.

My lover, he was a gambling man
He went from town to town;
And the only time he was satisfied
Was when he drank his liquor down.
Now the only thing a gambling man needs
Is a suitcase and a trunk;
And the only time he's ever satisfied
Is when he's on a drunk.

If I only list'nd when my dear mother said:
Beware, my child, when you roam,
Keep away from drunkards
And all those gambling men,
It's best by far to come home.
Go and tell my baby sister
Never do like I have done,
But to shun that house in New Orleans
That they call the Rising Sun.

With one foot on the platform,
And one foot on the train
I'm goin' back to New Orleans
To wear the ball and chain.
I'm going back to New Orleans
My race is almost run;
I'm going back to spend the rest of my life
Beneath that Rising Sun.

英語詞2
(アレンジ:The Animals)

There is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many a poor boy
And God I know I'm one

My mother was a tailor
She sewed my new bluejeans
My father was a gamblin' man
Down in New Orleans

Now the only thing a gambler needs
Is a suitcase and trunk
And the only time he's satisfied
Is when he's on a drunk

Oh mother tell your children
Not to do what I have done
Spend your lives in sin and misery
In the House of the Rising Sun

Well, I got one foot on the platform
The other foot on the train
I'm goin' back to New Orleans
To wear that ball and chain

Well, there is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many a poor boy
And God I know I'm one


《蛇足》 アメリカ南部の古い民謡です。"The House of the Rising Sun"が一般に通用しているタイトルですが、Theがつかないヴァージョンもあるし、単に"Rising Sun Blues"と呼ばれることもあります。

 イギリスの古いバラードにケンタッキー人のジョージア・ターナーとバート・マーチンが詞をつけたのが始まりとされています。
 その時期は不明ですが、1934年にこの歌をレコーディングしたクラレンス・アシュレイが「祖父から教わった」と語っていることから、1800年代の末か1900年代の初めごろではないかと推測されます。

 ボブ・ディラン、ジョーン・バエズなど多くの歌手が歌っていますが、この歌を世界的に有名にしたのは、イギリスのロックグループ「ジ・アニマルズ」です。
 1964年に発売されるや、たちまち全英チャート1位を獲得、その2か月後には、全米チャートも制覇してしまいました。
 
ジ・アニマルズのヴァージョンでは、ロックではあまり使われなくなったオルガンによる長い間奏が入っていますが、上記のmp3では省きました。

 この大ヒットにより、古い民謡をロック風にアレンジするフォーク・ロックという曲形式が確立したといわれています。

 詞では、ニューオーリンズで身を持ち崩した女性が詠われています。
 ターナーとマーチンによるトラディショナル・ヴァージョンは、母親の忠告に
逆らって、大酒飲みのばくち打ちに入れ込んだ女性が罪を犯し、「朝日のあたる家」と呼ばれている監獄に収監される、という筋書きです。

 ジョーン・バエズが1960年のデビューアルバム『朝日のあたる家』で歌ったヴァージョンでは、「朝日のあたる家」は監獄でなく、娼家になっています。つまり、娼婦に身を落とした女の嘆きと後悔がテーマになっています。
 1962年発表のボブ・ディラン版も、女性の視点からの歌です。

 日本で赤テント、黒テント、天井桟敷などのアングラ劇団が活躍した時代のカリスマ・フォークシンガー、浅川マキは、バエズ版を自ら訳して歌いました。トップの日本語詞がそれです。
 卓越した歌唱力をもつ、ちあきなおみも、浅川マキの日本語詞で歌っています。すずききよしの日本語詞はあとで見つかったために、3番までしか伴奏がありません。

 いっぽう、ジ・アニマルズ版は、罪を犯してニューオーリンズの監獄に送られる点はトラディショナル版と同じですが、主人公は男に変わっています。

 特徴的なのは、どのヴァージョンも、堕落していく人間の運命を、第三者の目でなく、本人の視点から歌っているということです。この点、昭和40年代に藤圭子や北原ミレイ、梶芽衣子などが歌った怨み節(怨み歌)に似ています。
 とくに女性を歌ったヴァージョンは、メロディも含めて、怨み節そのものといってもよいほどです。

 この歌が有名になってから、ニューオーリンズの舞台になった場所探しが行われました。諸説ありますが、有力なのは次の2つです。

(1)1862年から74年まで、ニューオーリンズのセントルイス通りでマダム・マリアンヌ・ルソレイユ・ルヴァン(Madam Marianne LeSoleil Levant)というフランス女が経営していた「朝日のあたる家」という娼家。ニューオーリンズの観光案内書『オフビート・ニューオーリンズ』には、この説が紹介されています。
 写真は往時のセントルイス通り。

(2)かつてニューオーリンズにあった女性用刑務所。この刑務所の入り口には、朝日をデザインした飾りがついていたといいます。

 そのほか、フランス人街にあった短期滞在者用ホテル、19世紀後半にミシシッピ川沿いにあった娯楽ホール、郊外の綿農場で黒人奴隷が収容されていたハウスなどの説がありますが、あまり根拠はないようです。

 2つの日本語詞を読むと、昭和22年(1947)に流行った『星の流れに』が連想されます。各聯最後の「こんな女にだれがした」という投げやりなフレーズが印象的で、よく歌われました。
 これをmp3にして聴かせてくれという注文が何度か来ましたが、私はあまりに辛くて、とても作る気になれません。
 この歌は、作詞家の清水みのるが、ある女性が娼婦に身を落とすまでの無惨ないきさつを新聞で読んで、怒りに燃えて作った歌です。ただの流行歌として歌うようなものではありません。

 戦争が終わったあとまで何を残すか、「戦争を知らない子どもたち」もしっかり胸に刻んでおくべきです。国会で従軍慰安婦問題が取り上げられたとき、ある国会議員が「彼女たちの自主的な商行為にすぎない」と薄笑いを浮かべながら言いました。その顔を見ながら、人間はここまで劣化するものか、と思ったものでした。

(二木紘三)

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コメント

 「花はどこへ行った」「500マイル」「七つの水仙」などと共に、我が懐かしのカントリーフォークソングの一曲です。
 そしてこの『朝日のあたる家』は、20代前半開設間もないヤマハエレクトーン教室で、エレクトーンを習っていた時の教則本に載っていて、一生懸命弾いた覚えがあります。余談ですが。横浜市郊外の「こどもの国」の野外特設ステージで、練習を重ねた『青い影』を冷や汗をかきながら披露したことも、今となっては懐かしい思い出です。
                      
 「朝日のあたる家」の当時のイメージは、朝日がさんさんと降りそそぐ―ちょうど今読んでおります『赤毛のアン』のアン・シャーリー(今年はちょうど生誕、初発表から満100年なのだそうです)が引き取られたような、美しいカントリー風の家を想像しておりました。
 しかし二木先生の解説で、何とも哀しい背景があることを初めて知りました。またまた「目からウロコ」です。
 また解説の末尾で、この歌との関連で『星の流れに』の先生のご見解も読ませていただきました。この歌も私のお気に入りの一曲なので、先生に「是非お取り上げください」と申し上げた一人でした。私も多分そのような境遇の女性を歌ったものではないかと、思っておりました。が、確かにただの流行歌として軽々しく歌うようなものではなさそうで、私自身反省しております。
 しかしそれを承知の上で。戦後焼け跡期の欠かすことの出来ない記念碑的名曲として、二木先生、そこを何とかとも…。

投稿: 大場光太郎 | 2008年7月26日 (土) 17時58分

「朝日のあたる家」に興味をもって調べていたところ、この記事を発見いたしました。とても深い内容で、勉強になりました。mixiというソーシャル・ネットワーク・サイトの私の日記に、この欄を紹介させていただいてもよろしいでしょうか?

投稿: 高島与一 | 2009年5月 7日 (木) 03時49分

高島与一様
どうぞご紹介ください。ありがとうございます。(二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年5月 7日 (木) 10時33分

詳しい解説ありがとうございます。とても参考になりました。
もうひとつ訳詞がありますのでご紹介します。シャンソン界の訳詞家・演出家であるアン・あんどうという人が訳したものです。YouTubeにありますので、聴いてみてください。
http://www.youtube.com/watch?v=SAbflEXqt2A

投稿: 音楽酔星 | 2009年8月24日 (月) 11時05分

管理人 様

はて、「朝日のあたる家」とは? 聞き覚えのある曲でした。

いつも蛇足やコメント楽しく拝見させていただいております。「星の流れに」の成立の箇所、作詞者が取材を重ねて作られたとありますが、私は、永く「東京日日新聞」の投書欄を見てこの歌を作ったと記憶しておりましたが・・・。
投書を見ただけでこんな詞が書けることに、感心していたものですから。

投稿: 広島 親 | 2009年9月22日 (火) 04時54分

二木様
 ようやく探り当てました。『星の流れ』についての評価の記憶はあったが、どこであるかが分からなくなっていました。二木さんのこの歌に対する思いは理解できます。私もこの歌の成立過程を思い出すと一分も経たぬうちに大粒の涙が頬をつたいます。ただ私の場合は「辛い」というよりも、大日本帝国の指導者への怒りです。
 この歌が発表されてすでに半世紀を越えています。「こんな女に誰がした」というフレーズだけが一人歩きする時代には、出来たいきさつを記して作成されることもよいのではないかと思います。私も四十歳弱まで、知人が「パンパンの唄だ」と言ったのをそのまま受け取り、十五年の間ただ単に、売春婦に身を落とした女の心情を表したもの、と思っていました。成立までの事情を知り、愕然としました。私はこの唄を「演歌の最高の到達点」だと思っています。
 ただ、作成された過程は次のように理解しています。東京日日新聞の投稿欄に載った文章をもとに清水みのるが詩を作り、利根一郎が上野の地下道や公園を見て作曲したと。
 『昭和二万日の全記録』第8巻
     P70 1989年 講談社
 『別冊一億人の昭和史・増補版昭和流行歌史』     p185 1979年 毎日新聞社

広島 親様
 コメントに気づきませんでした。申し訳ありません。『ああモンテンルパの夜は更けて』のやり取りからここに来て、送信する段になって知りました。

投稿: 周山 | 2009年9月27日 (日) 15時28分

『星の流れに』について
(おぼろげな記憶をたどってここに書いた私のコメントは、大筋では合っていたものの、細かい点が違っていたので、削除しました。二木紘三)

投稿: 管理人 | 2009年9月28日 (月) 02時03分

アニマルズの『朝日のあたる家』がヒットした翌年はヴェンチャーズが大ブレイクした年でした。
ヴェンチャーズの『朝日のあたる家』も大好きでソノシートが擦り切れるまで聴きました。

投稿: ☆諒 | 2010年1月13日 (水) 20時15分

昭和40年代半ば、TVでこの歌を聴いていました。
「朝日のあたる家がある 優しい目をしたおふくろが~」を覚えています。牧歌的な内容のように思っていましたが、朝日という名の娼館の歌だと教えてもらい、原文を知りたいと長年願っていました。ありがとうございました。

投稿: やまとさくら | 2010年7月23日 (金) 15時47分

 またまた寂しい思いでですみません。
この曲が流行った頃、私は小学校の5~6年生でした。
 私は、盲学校に通っていたので、自分の家に帰るのは、春、夏、冬の休みの時だけでした。
 私が、少額5年生の時に、父が病気で倒れ、長期間、入院する事になりました。
 いつも、家に帰ると、親に会えていたのですが、父が入院し、母も看病で、ずっと病院に泊まり込んでいましたので、親にいつも会う事が出来なくなってしまいました。
家には、二人の健常者の兄と、もう一人の、視覚障害の兄、そして私が、暮らしていました。
 夜は、7時頃には、もう寝ていました。
 その時に良くラジオから聞こえていたのが、アニマルズの朝日の当たる家でした。
 この曲を聴く度に、その、寂しかった時の事をいつも思い出します。
 そしてとうとう、アニマルズのCDも買ってしまいました。
 今度、日本語の歌詞で、カラオケで歌って見ようかと思います。
 

投稿: 殿川 | 2012年10月 9日 (火) 22時46分

あすかるうみちゃんの朝日楼を聴きました。ちあきなおみさんは流石ですが、るうみちゃんも良く唄ってると思います。ちあきなおみさんの後継者足り得る歌手だと思います。私も妹に伝えてくれの所では、星の流れにを思い涙が止まりませんでした。

投稿: かず | 2012年12月26日 (水) 22時47分

私がこの歌を聴いたのは1970年頃だったと思います。歌っていたのはジョン・バエズ。心がかきむしられる様な思いで聴きました。

投稿: 北翁 | 2013年2月 6日 (水) 10時19分

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